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2020年5月19日 (火)

本を読むと言うことに関しての議論 その2

 昨日の,本を読むと言うことに関しての議論に関して、今日は別の切り口で考えてみたい。本日のお題は

「国語の勉強というのは、正解を選るだけのためか?」

である。

 この問いに関しては、多くの人たちが

  No!

と叫ぶだろう。しかし私はあえて、

「正解を選る読み方の訓練はある」

と答える。これは、私がへそ曲がりだから言うのではなく、『言語技術』という運動として、多くの人が参加している。もっと言えば、戦後の日本教育に関する論争の中にも、時枝先生の一派が主張したことでもある。

 このような、

「正しく高速に読み取るスキル」

の習得は、色々な分野の学問の基礎になる。私は実はこれの体験者である。私の小学生時代に、5年6年の算数で、大量の文章問題を解いたときがあった。これで、

「問題の出題主旨を速やかに読むスキルが身についた」
結果
「中学入試では一番だった」

という経験がある。確かに五〇〇人程度の中での一番だから、大したことではないが、この様な成果が出ている。

 ただし、正しく読み取った後には、多様な側面を考えて

「人の心に寄り添う読み方」
「正解のない読み方」

への進化も必要である。

 この段階的な指導について、きちんと見通しができていないのが現状の国語教育の問題ではないかと思う。

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