心と意識そして智慧の関係
被害者の話について、何回か書いたが、この問題は『心の傷』に関わってくる。そこでもう一歩踏み込んで
「心とは何か?」
と言う問題を考えてみた。
天台の摩訶止観には、「心・意・識」を、三者は別のモノではあるが、バラバラでなく一体で動くとしている。仏教の大まかなまとめ方では
- 心:広い意味では精神の作用全て、狭い意味では感情など、意識よりも基本的
- 意:考える舞台
- 識:意の上での判断など、識別の働き
という感じで捉えている。
確かに、私たちは「意識」して考えるが、その結果に対して、満足や不満は別の感覚として起こることがある。これを、
「感情の働き」
と捉えると、そのようなモノかと思う。ここで、
「感情を生み出すモノは何か?」
ともう少し踏み込んでみよう。一つは、直接的な感覚による、快・不快感である。これをもう少し広げれば、今までに経験が生み出す『快・不快感』である。こうした今までの積み重ねが、
「言葉で言い表せず積もっている」
モノを西洋文明では無意識といい、仏教の唯識では、マナ識、アラヤ識という。
さて、このような『心』の傷をどのように治したら良いのだろう。仏教の教えには、『識』と『智慧』を分けている、ここにヒントがあるように思う。私たちは、学校の勉強に過剰適応していて、『知識』があると『智慧』があると勘違いしている。
「先生の指示する、正解を識別する」
力は、『智慧』とはいえない。本当の智慧は、
「自分の体験や知識を広く見て、深く考え、偏見なしに必要なモノを見いだす力」
ではないかと思う。
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