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2020年5月20日 (水)

人を救う形は様々

 またTwitterで考えるべき議論が出てきた。自称、破戒僧のかとうれい師のつぶやきである。

宗教活動は法人獲得の基準満たしではなく人の心の拠り所であり続けることでは無いのだろうか?宗教法人の基準を満たすことだけで本質を見失いがちな教団は多い。そんな話を弟子の一人と話してた。彼は法人作りに頓着しない私に疑問を感じているようだが、こんな時代だからこそこのスタイルを通したい。

この話について、私は両方の意見に賛成してしまう。つまり、かとうれい師の

「あくまでも自分の信念による信仰を貫きたい」

という立場は、宗教人として立派であり、尊敬するしかない。

 しかしながら、弟子の方が

「宗教法人にして安定することで多くの人を救ううことができる。
少なくとも今いる信者の心はもっと安らぐ」

と考えることにも同感するモノがある。特に、かとうれい師は修験道の大先達であるが、修験道が明治以降にたどった弾圧の歴史を考えれば、法人による安定を求める気持ち痛いほど解るような気がする。

 ここまで書いて、この図式どこかで観たことがあると思ったが、浄土真宗にこのような話があった。浄土真宗は親鸞が開祖になっているが、親鸞の教えというか、生き方は、純粋そのものであり、弟子達がついて行くことも難しいモノであった。その当時は、一遍の時宗の方が布教には成功していた。しかし、蓮如が出現してから、浄土真宗の大衆化、組織化は一気に進み、戦国時代の一向宗の力となっていく。

 蓮如がしたことは、親鸞の教えの大衆化であり、原理主義者から見ると、困った所業かもしれない。しかしこれで救われる人もいる。

 ただし、かとうれい師が行っている、

「純粋な信仰による突破」

も現在の宗教状況を観れば必要と思う。

 かとうれい師のすごさの解るYouTubeを参考に挙げておく。

 

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