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2020年6月30日 (火)

専門家会議という組織について

コロナ対応の専門家会議について、色々な議論が出ている。

このblogでは、「専門家」の位置づけについて、色々な切り口があるので、少しお付き合い願いたい。一つ目の議論は、

   「感染症の専門家出ない人が口出しするべきではない」

という論点である。確かに感染症の専門家は、ウイルスの伝搬等にしっかりした論理展開が出来るだろう。但し、今回の問題は社会への影響など医学の範囲すら超えている。そこでは、多様な専門家の議論が必要である。

 確かに

   「原子力の先生が?」

という疑問は出るだろう。

 しかし、

   「統計データの読み取りと、特徴抽出と、一般市民への安心説得」

というなら、原子力の分野はそれなりの蓄積があり専門家といえるだろう。

 さて、ここである大学の先生が、「ポランニーの暗黙知」を持ち出していた。確かに、ポランニーは、近接領域の相互評価の輪で、専門家の会議が成立する、という議論をしている。これを文字通り読むと、「なんで原子力?」となる。

 しかし、ポランニー自体も多様なる活躍をしている。そこでは、科学的な思考スキルの保有者の集団の力を認めており、ここで多様な分野の専門家の会議もあると思う。

 なお、私が現在主として信奉している「日本教」発想では、専門家の発想を多くの人が理解できる可能性を認めている。これが大阪モデルの成功の理由ではないか?

 病院からなのでタブレット利用のカキコミなので乱れたらゴメン!

2020年6月29日 (月)

しばらく更新はお休みです

 いつもこのブログを見ていただきありがとうございます。

 さて、私義

 本日より難病(天疱瘡)治療のため入院することになりました。

病院での更新は難しいと思いますので,しばらく更新はお休みします。(目安一ヶ月)

 とりあえずご挨拶いたします。

 

2020年6月28日 (日)

緊急出版:Kindle版 「日本教的リーダーシップ」

 今まで書いていた、日本教のリーダーシップについて、このたびKindleで出版しました。

https://www.amazon.co.jp/dp/B08BXQDJLD/

日本教の元では、指導者が、全体像を持たないと行けないという議論です。

 今回急いだのは、コロナ対策の話と、東京都知事選に便乗という話もあります。

 なお、もう一つ別の理由として、私が明日より、天疱瘡の治療のため、一ヶ月入院することになったので、それまでに出したかったからです。

 また、来週からはこのブログの更新をしばらくお休みさせていただきます。

 元気で戻ってきますので、それまでお待ちください。

 

2020年6月27日 (土)

ステークホルダーに関する議論

 株主総会シーズンが終わりつつある。そこで、

「会社は誰のモノ」

という議論が、出てくる。前は

「株主最優先」

だったときもあったが、今は、

「従業員、お客様、地域への貢献、株主」

等等を考慮しないといけないという議論になっている。

 これを、MBA等の理論では

「ステークホルダーの利害関係を調整しろ」

という言い方で、関係者を列挙し、利害関係を明らかにし、譲れるモノと譲れないモノを明確にすることで、調整していく。

 一方、我が国には

「売り手よし、買い手よし、世間よしの、三方よし」

という言葉がある。この違いは、氷山モデルの議論の実例となっている。

 確かに理論化するときには、全てを列挙する必要があるだろう。ただし、日本教的な、

「その場を想像した議論」

では、人や社会のイメージで、十分伝わっているように思う。

2020年6月26日 (金)

全体像に関してもう一つの見方

 全体像を描くというと、一般的には

「関連物などを全て載っている図」

をイメージすることが多い。

 しかし、もう一つ別の切り口があるのではと思う。それは、

「具体例から一般概念に至る抽象化過程」

の全体像である。

 これは、一般意味論で言う『抽象の梯子』である。

 規則や法規を作る場合には、このような抽象化の全体像を持つ必要がある。一般的な規則を作っても、それが具体例に展開できないと、実用にならない。逆に、個別の話だけでは規則として記述できない。また、一つの文章に出る概念は、一般化の度合いをそろえる必要がある。このようなスキルの大切さは、規則などを作る経験から解ってくると思う。

 

2020年6月25日 (木)

氷山モデルの『日本教』的な考察

 知識の使い方などで、氷山モデルという例えがよく出てくる。例えば、意識と無意識という議論である。

 しかし、このような氷山の水面下の部分について、私たち『日本教』の信者には、

「何かあるのは解っている」
「何となく感じている」

ことが多い。

 しかし、西洋文明では、

「定義されていないモノは見ない」

と言う発想がある。これは、アルファベットの文字列で考える場合と、漢字仮名交じりのイメージの働く推論の違いだと思う。

 例えば   

   ”line” と 「線」

と言う言葉で考えても、「線」と言う文字には、糸偏の「糸のイメージ」や旁の「泉から水が流れるイメージ」という含みがある。

 こうした意識していない、イメージの働きが、氷山の水面下を思いやる働きに通じていると思う。

 

2020年6月24日 (水)

本当の地方創生とは何か

 地方創生の話を聞いていると、

「東京一極集中で,税金が東京に集まっているから,それを地方に返す」

という議論が出てくる。

 この話、どうも納得のいかない。

 まず、税金の交付金とは、その地方の,国に対する貢献で支払われるべきである。例えば

「他国の侵略に備えるため,国境の地域に暮らしている」

というような地域には、厚く税金を投入するべきである。

 ここで本質的な議論は

「その地方の国民全体への貢献は何か?」

を、明確にすべきである。

 ただし、この議論は、もう一歩踏み込むところがある。つまり

「東京一極集中は、国益に対して、どのような貢献があるのか?」

という観点からの議論である。

 確かに昭和の戦後の工業化促進のためには、都市部に労働者をかき集める必要性があった。しかしその惰性で、東京に本社を置かせる必要があるのか、もう一度見直しが必要だと思う。

2020年6月23日 (火)

リーダーシップに関する『日本教』と西洋文明

 『日本教』のリーダーシップは、支配される人々の知性に、ある程度の信頼を置いている。これは、

「話せば解る」

という聖徳太子以来の伝統である。

 しかし、西洋文明においては、支配者が全てを決めて、支配される人間は

「言われたことだけする」

という発想がある。これを歴史的に見ると、

「奴隷を使っていた伝統」

が一つの相違点ではないかと思う。西洋文明には、侵略し支配し、場合によっては奴隷にする、という伝統がある。この違いが、リーダーシップの違いに出ていると思う。

 さて、『日本教』的なリーダーシップのよいところと悪いところを考えてみよう。

 よいところは、全員参加の力である。特に参加者個々人が、弱い力でも色々と貢献することで、全体としてまとまる成果は大きい。一方、悪いところは、不適切(無能)なリーダーでも、惰性で務まる場合があることである。今までの延長なら、皆に任せてそのままで行けばよい。このような状況で、ずるずる壊れる例は少なくない。

 ただし、『日本教』のリーダーでも、全体像を示して、皆を納得させることができるなら、新しい世界へ導くことも可能である。

2020年6月22日 (月)

智慧の大衆化に関してもう一歩議論が必要

 前に書いた、知識の大衆化と智慧の大衆化に関する議論と関連して、西洋文明と『日本教』の立場の大きな違いが見えた。つまり

      西洋文明:人間は限られた知恵しか無い

      日本教(大乗仏教):衆生にも仏の智慧がある

という、人間の知恵の可能性に関する信仰の違いである。可能性を信じなければ、何事も成功しない。

 西洋文明では、

「神様の智慧には人間はとても及ばない」

という基本的な思想があり、更に人間の間にも、

「哲学者の智慧だけが真相に迫れる」

という、階層的な発想がある。

 一方、日本教の基本的発想は

「話せば解る」
つまり
「皆が理解できる知恵がある」

である。

 さて、この問題に関して、もう一つ議論すべき、専門化領域の問題がある。例えば

  • 法律の専門家:法的三段論法などの知恵の使い方
  • 学者:該当分野の専門の議論の仕方

等がある。これらは、専門家に任せる法が上手くいく場合がある。 

 しかし、それでも、

「結果について説明を受け、理解する知恵は皆にある」

という発想は、日本教の信者には大切である。

2020年6月21日 (日)

病気と後天的なモノの違いについて

 先日、HSPについて、解説資料を読んだ。この人たちの状況に関連して、発達障害者の過剰適応の問題がある。

 両者は、

「人に対して気を使いすぎる」

という外見的な症状では、同じ様に見えるかもしれない。しかし,脳内の構造は全く違っている。

 HSPの人は、そもそも感受性が高い、いわば高感度センサー所有であり、センサーの敏感さに対して、フィルターをかける必要がある。

 一方、過剰適応者の場合には、センサーの感度は高くない,それどころか低いことを自覚しているので、その後での脳内の処理が活発に働き何とか補おうとする。その結果、頭の働きか過剰になって疲れてしまう。

 さて、このような人々に対しては、対応が同じで善いのだろうか?

 まず、HSPに対しては、「ある種の病気」と言うことで治療という感じになる。薬での治療などという話になると,周囲の理解も得やすくなる。

 一方、過剰適応者に関しては、後天的に身についたモノだから、訓練等で何とかならないかという発想がある。このとき周囲の目が、

「努力すべき」

と厳しくなる場合がある。

 この違いについて、もう少しよい答えがほしいが,どうも出てこない。

2020年6月20日 (土)

大阪都構想の意味

 大阪都構想が、もう一度住民投票にかかるらしい。私個人としては、大阪の二重行政というか二重投資、例えば大阪市水道局と大阪府水道局の淀川での取水状況や、設備の重なり、を見ているだけに、都構想には賛成である。

 さて、ここでは別の切り口で、都構想の功績について考えてみたい。

 前から『日本教』について議論しているとき、

全体像を持った指導者の重要性

を指摘している。

 このような全体像は、既存の体制をそのまま利用するなら、

「今あるモノのイメージ」

で話ができる。

 しかし新しい世界観を提示する場合は、

全体的な話や設計図

を一度作っていないと、日本教の大衆には通用しない。

 今回の維新の指導者達は、都構想の設計図を作った経験で、全体像を握っているから、

日本教的な新規改革

を提示できると思う。

 もっと言えば、コロナ危機のような、

従来の延長で対処できない状況

に現実的に見事な対応を見せた大阪府の力は、このような全体像の詳細検討にあったのではと思う。 

2020年6月19日 (金)

知識の大衆化か?智慧の大衆化か?

 昨日書いた、知識の大衆化の議論を読み返すと、もう一つ大きな問題点が見えてきた。今回議論したいことは

智慧の大衆化

についての議論である。これは、西洋文明を見ると、プラトンの「国家」が示す『哲人政治』の発想で、

「本質に迫る思考は、哲学者が持っている」

という

智慧の独占発想

がある。確かに、厳密な思考能力は、厳しい訓練で身につき、その力でないと達成できない境地もある。この力で、多くの問題解決を行って近代文明を切り開いた功績は大きい。

 しかしながら、日本の文明にある

衆知を合わせて解決する

発想も、捨てるには惜しい。全員参加の効果は色々な改善活動などで力を発揮している。

 そのためにも、日本語の

『直観的な表現力』

を上手く活用することも大切ではないかと思う。

2020年6月18日 (木)

アルファベットは知識の大衆化に役立ったか?

 マクルーハンのメディア論によると、

「アルファベットは、象形文字の難しさから、表音文字の単純化により、知識の大衆化に役立った」

とされている。確かに、エジプトの複雑な象形文字を独占した神官の特権は、

「表音文字によって、話し言葉との言文一致で記述する」

大衆化が行われただろう。

 しかし、完全な表音文字化したときには、

「文字列に対して、きちんとした定義を行わないと、厳密な議論が行われない」

という新たな問題が生まれている。つまり

「文字列により議論や推論できる階級」

の出現である。プラトンはこれを『哲学者』と読んでいる。

 一方、表意文字を使ったときには、文字の直観的要素から、定義が無くても共有感覚が生じ、

「何となくイメージで理解する」

ことができる。これが

「日本語による知識の大衆化」

に役だったと思う。

 

 

2020年6月17日 (水)

北朝鮮情勢について

 北朝鮮が、南北関係を壊すような動きに出てきている。

 これは、北朝鮮の内部崩壊の兆候だろう。コロナの影響で、中国や韓国との貿易がなくなれば、北朝鮮という国は色々とトラブルが起こる。しかもコロナの患者は,無視できない数発生しているだろう。こうした内外の力で,今度こそ北朝鮮が崩壊する可能性は高くなってきた。

 しかし、この時期に,日本政府の方針が立っていないことがもどかしい。

 確かに,米中対立の時期に、日本独自の動きを見せることは難しい。

 歴史的に見れば、

「朝鮮半島は中国に任せる」
ただし
「中国の海洋進出は断固拒否する」

という判断が正しいと思う。つまり、陸続きなら許すが,海洋進出は拒否する発想である。

 アメリカの動きが、今不安定だが、トランプ退陣ともなれば、中国と妥協の上で、上記の線で納める手はないのだろうか?

 北朝鮮の崩壊で、我が国まで被害が出ることは、できるだけ避けたい。

2020年6月16日 (火)

日本教の失敗のパターン

 「日本教」について、このブログで何度も書いているが、どうも

「日本教礼賛」

となってしまう傾向がある。

 しかし、「日本教」的な指導には大きな欠陥がある。それは、

「一度動き出したら修正が難しい」

という問題である。

 この事例は、多くの倒産した会社の場合や、第二次大戦の日本の戦争指導を見れば解るだろう。つまり

「小幅な修正能力はあるが、抜本的な見直しは難しい」

という欠点である。

 これに対して、山本七平は

「明治の日本の指導者は、自分で別案を持っていたから修正できた」

と指摘している。

 これは、日露戦争時の戦いを見れば明らかである。旅順攻防戦でも、乃木司令部は、試行錯誤し学習している。第二次大戦の硬直した指令とは全く異なっている。

 この理由は明確である。

「日露戦争までは、実戦経験を積んだ人間が、自分の体験を生かしながら戦争指導を行った」
一方
「第二次大戦時代には、教科書で学んだ秀才が、戦争を指揮した」

という違いである。

 なお、今回の大阪府の指導者達は、実践を通して学んで修正したいるように思う。

 

2020年6月15日 (月)

コロナ被害の東京と大阪の違いに理由あり!

 昨日も東京では、コロナ新規感染者が47人と多数出している。一方、大阪は出ても一桁台に抑えている。この違いについて、少し仮説を上げておきたい。

 まず一つ目の仮説は、知事をはじめとするトップの説明力の違いである。根本には、

「大阪の知事には、住民に納得してもらいたいという意志を感じる」
一方
「東京都知事は何かかっこの良い言葉を並べている」

という違いを感じる。

 更に言えば、

「大阪の政策には、住民一人一人を信じ見ている」
これに対し
「東京では、机上の検討だけで進めている」

という感じがする。これは、東京なら

「夜の繁華街での感染」
という言い方で
「どこか夜の町で働いている人への差別的な見方」

を感じる。一方、大阪の場合には

知事なども
「夜の接待の業者も苦しいだろうが協力してくれ」
とメッセージを送り
それに対して業者側も
「私たちの所で感染者を出せば大変なことになる」
と答えている

この相互の歩み寄りが、感染対策の徹底に結びついていると思う。

 いわゆる、エリート達が

「夜の繁華街の仕事」

と一括りにして、見下しているのが、東京的発想ではないかと思う。

 大阪では

「色々な仕事それぞれの誇り」

を大事にしている。この違いが大きいと思う。

2020年6月14日 (日)

アメリカの「人種差別」報道について根本的な理解が抜けている

 アメリカの『人種差別』問題に関して、トランプ大統領の対応を批判する報道が多く見受ける。確かにトランプ大統領の対応は、軍の扱いと言うことで批判されるべきである。

 しかし、日本のマスメディアというか、日本人の知識は、この問題の根本を理解していないと思う。私の考えでは、

「この問題の本質は、アメリカの建国以来の体質である、
『人間』としての権利を限定された者達に与え、
彼らに暴力で他の者を圧することを許した体質」

にある。これは、黒人差別だけに止まらない。アメリカの歴史を見れば、

「ネイティブアメリカン(いわゆるインディアン)の土地を銃で脅し殺して奪った開拓史」

もある。当時の『アメリカ人』の発想に、ネイティブアメリカンの権利などを認識していたとはとても思えない。

 その後の奴隷問題もあり、黒人差別が発生した。さて彼らの発想をもう少し突っ込むと

「キリスト教徒の人間の線引き」

が一つの見えてくる。キリスト教の発想は

「洗礼を受けて人間として生まれる」

がある。このような発想が、根底にあり彼らが

「人間として扱わない」

行動は、本質的に獣に対する行動であった。この歴史を理解しないと、現在の人種問題、特に差別を受けた側の怒りは解らないと思う。

2020年6月13日 (土)

専門家の意見の活用法

 大阪府が、新型コロナウイルスの専門家会議を開き、これまでの対策の見直し検証を始めた。これは大事なことだと思う。

 ここで大事なことは、

「専門家の役割について、政策実行者が理解しているか?」

ということである。

 もう少し言えば、

「専門家は、自分が決めた範囲の力を発揮する人」
であり
「全てについて力を発揮する人でない」
ということを
「理解するして評価するのが総合的政策決定者の責任」

という議論ができているか?

 例えば、ある専門家は、

「最悪条件の積み上げでモデルを造って、無策の場合の悲劇の警鐘を鳴らす」

これは、一つの警告であるが、最悪条件の積み上げなど、実際はまず起こらない。そこで

「この専門家の数値が当たらないと批判する人」

がいるがこれは間違っている。彼は、

「専門家としての警鐘をならす役割」

であり、これを活用するのは、政治なりマスメディアの解説である。

 また、今回のコロナ専門家については、

「ミクロな感染プロセスの専門家」

「マクロな感染状況の数値化データ解析の専門家」

の識別も必要である。大体、

病気の話に「核物理学者」が出てくるのか?
京大の山中教授ですら、感染症の専門家?

という突っ込みがないのがおかしい。

 なお、今回の議論では

  1. 数値的なデータの解析は物理学一般の基礎的な力であり、数式の扱いに慣れた物理学者が予測する力はある
  2. 山中教授は医療行政全般を指導する立場での実績があり、今回も総合的な視点で発言している

という答えが「専門家の活用法」としては出てくると思う。

 なお、もう一言言えば

「数値モデルの予測に対して、
ミクロな構造をモデル化し、
因果関係を定性的に説明する、
感染症対策の専門家からの発信」

があるべきだと思う。そのようにして、数値結果の信頼性や適用範囲が見えてくる。このような科学的姿勢の方法論は、社会科学の方がしっかりしていると思う。

2020年6月12日 (金)

「日本教」とノブレス・オブリージュ

 『日本教』の良いところは、大衆の力を認めることにある。その一つの例が

「コロナ危機の自粛」

である。

 しかし、この逆の面は

「ノブレス・オブリージュの不成立」

という形で表れてくる。

 この問題に関して、江戸時代までなら、豪商が町のために金を出すなどの仕組みもあった。

 しかし、現在の社会を見るとどうもこの仕組みが壊れているように思う。

 一つは、上位者側の識の問題であり、もう一面は、利益を受ける側の尊敬などの不足という面があるように思う。

 建前の平等主義が、上滑りして、悪い面だけが出ているように思う。

2020年6月11日 (木)

仏教の大衆化を日本教の発想で見直してみた

 数年前に書いた、仏教の大衆化から見えてくるもの、という記事にここ数日いくらかのアクセスがある。

 この記事を書いたときから,私の方は日本教の理解が進んだので、この内容を修正しないといけない。

 前の記事では、

  阿弥陀浄土を観想する厳しい修行 -> 「南無阿弥陀仏」と口頭で唱える簡易な行

という単純な図式で、

「仏教の大衆化」

と表現してしまった。

 しかし、日本の仏教の教えは、このような単純な二分法で、割り切ってはいけないように思う。

 例えば浄土信仰においては、「多くの仏像、仏画、浄土の絵図」等等の多様な手段で、僧侶が一般庶民に布教している。そこではある程度のイメージの共有ができている。僧侶も大衆の理解力をある程度信じて、極楽浄土の話を皆に説いている。大衆もそれを受け入れている。

 このように考えると、

「きちんとした観想念仏の修行ができた僧だけが占有する世界」

ではなく、

「その世界をいかに大衆に伝えるか、大衆が感じるようにする」

というお互いの歩み寄りの努力がなされている。

 これはいかにも日本教的な発想である。

 

2020年6月10日 (水)

日本教についてKindleで一冊出しました

 今までこのブログで議論してきた、日本教の話をまとめて、Kindleで出版しました。

 

まだシリーズ化して書きたいことは多くありますが、日本教の原点について、まとめることができました。

なお、2020/6/10 17:00から四日間の無料ダウンロードキャンペーンがあります。

その時を活用いただければ幸いです。

 

2020年6月 9日 (火)

一般的なモノと具体的なモノの融合

 昨日も書いたが、抽象的な一般論と、具体的な話の関係は、もう少し考えるべきだと思う。私たちの学問では

  • 一般規則から具体例を展開する演繹的思考法
  • 具体的な話から抽象化して一般論を見いだす帰納的思考法

という二つの方法が教えられている。

 しかしこれらの方法は、一方向の流れである。完成した一般論を具体例に当てはめて説明していく。または、現実の問題を抽象化して、一般法則を見いだす。このような「科学的思考法」を私たちは学んできた。

 しかし実際の問題解決には、抽象的にモデル化して、一般論で考えながら、現実の状況に合わせて、色々と修正していく必要もある。そのように考えると、一般論と具体的なモノが一度に見れる、図式のようなモノも必要かもしれない。

 このように考えたとき、一つの良い例が見つかった。真言宗などの利用する、胎蔵曼荼羅である。これは、中心原理たる大日如来、その展開である五智如来、更にその展開の四菩薩が、菩提心を発して、大慈悲で皆を救うという展開を示す。更に周囲の多くの菩薩や明王は、方便としての具体的な展開を示している。この二次元の図式に描かれた展開状況、そして中央の大日如来への収束は、多様な具体例に支えられた、本質の力が示されているように思う。

 一方向の流れに止まらず、多様な展開の中に身を置き、そこで本質を見いだす。このような努力も必要かもしれない。

2020年6月 8日 (月)

抽象的な一般論と具体的な展開の関係

 昨日書いた使える地図の話はもう少し議論する価値があると思う。

 この問題をメディア論を加味して、検討すると

「西洋文明的発想では、抽象的な地図という、記号の上での世界がある」
「日本教的発想では、現実に適応した地図があるべき」

という発想になるのではないかと思う。これを一歩進めると

「数式などの抽象世界だけで思考できる学者」
「直観的に理解できるモノで考える現実の人間」

という対立軸が見えてくる。プラトンが「国家」で主張した

「哲学者だけが真実に近づける」

という発想が前者であり、仏教とその影響を受けた日本教なら

「誰もが真実の世界を知る」
「あるべきようはを皆が知る」

という発想になると思う。この問題に関して、技術者として一つの経験がある。

「大学で制御理論の数式的処理をきちんと学んだが、現実の対応は判らなかった。
そこで工業高校の教科書を手に入れて勉強することで、全体像と直観的な理解を得た。」

ただし、この場合にも、実現の細部には、もう一度数式的な検討も必要になり、ここでは大学教育などが役立った。

 このように考えると、全体像の把握と、細部の検討、この両面を上手く切り替える人材が必要ではないかと思う。

2020年6月 7日 (日)

使える地図を作る

 一般意味論の基本原理は

「地図は現地ではない」

である。しかし、『日本教』の信者にとっては、

「実用になる地図があり、指導者は私たちに与えてくれる」

という願いがある。それでは、このような実用になる地図は、どのようにして描くのだろう。一つの発想は、

「現実の場所の写真などを使って、抽象化して描く」
「現実の世界を縮小して描く」

という、現実のモノの大きさ比率を保持し、縮小し抽象化するという、抽象化への一本道で考える。実際の一般的な地図は、このようなルールに従って作られる。

 しかし用途が明確な地図を作るときには、これと別の道がある。実際に利用者の立場で、そこまで動いてみる。そこで目標になるモノを見いだし、書き込んでいく。広告などで、自分のところへのアクセスマップを作る場合には、主要な目標物を書き込むだろう。

 このときの作業を一般化すると、

  1. 抽象化した地図を写真などから作る
  2. その地図を持ち現場に言って自分で動きながら目標物を探す
  3. 目標物を書き込んでいく(建物の名称や色なども重要情報)
  4. 動きやすさを確認して目標物を絞り込んでいく

というう風に、具体的な世界で実際の動きを確認していく作業が主体となる。

 一般意味論なら

「抽象の梯子を下る」

と言うところだが、このような体験的な記述が、日本教的な発想にあっているように思う。

2020年6月 6日 (土)

高学歴社会と『日本教』

 『日本教』について、色々と考えていると、今までぼやっとしていた

「高学歴社会への反発」

の理由が見えてきた。

 私自身、大学院での思考法の訓練を受けて、論理的な思考法も、ある程度は判っている。そうして、大学から企業に入ったときは、情報化社会の幕開けの時であり、研究成果の実用化の時代でもあった。その時に私が悩んだことは

「研究成果を受け入れるほど企業社会が成長していない」

というもどかしさであった。もっと言えば

「情報工学系の大学院出身者が過半数を占めれば、もっと効果的に改善できるのに」

というもどかしさであった。

 しかし、今にして思えば、私の知識は

「点と線の骨格だけ」

であり、実現するためには

「多くの具体的経験を積み上げながら肉付けする」

必要があった。私自身は、当時の環境でソフトウエア生産や保守の現場に長く身を置いたので、このような現場体験での肉付けもできた。

 こうした体験から、

「実体験などのイメージにより充実した議論は、単なる理論より強い」

ことは経験的に判っている。

 一方、

「理論的体系を共有している人の間のコミュニケーションは効率的」

ということも判る。

 この一例が、MBAの世界である。MBA所有者同士なら、ある程度の情報交換で、企業の強み弱みは判る。しかし、それで十分かどうかは別物である。

 このように考えると、『日本教』の、

「お互いが話せば判る」

という発想には、場面共有などの総合的な観点があるのだと思う。これがない、『高学歴者の理論』はの反発は、日本人の多くが持っているように思う。

2020年6月 5日 (金)

数学教育のあるべき姿は

 数学の基礎的な教育の重要性は、色々な先生が指摘している。実際、文庫本にも素晴らしい教材がある。私が、特に感動したのは、ちくま学芸文庫ヨ13-1『数学序説:吉田洋一・赤攝也』である。この本は、立教大学の文系の一般教養の講義を土台としているが、数学基礎論の大家の講義だけあり、厳密な論理展開で、現在数学の基礎をしっかりと教えてくれる。この本をマスターすれば、ヒルベルトの本も怖くないと思う。私は赤先生の本は、大学3年頃から計算理論で色々と読んだが、難しすぎて何度もくじけた。当時、この本が手に入っていれば、もっと数学の見通しがよくなったと、後悔している。

 しかし、ここでもうフィールズ賞受賞者の、小平邦彦先生の『幾何学への誘い:岩波現代文庫学術7』を読むと、もう少し別の世界が見えてくる。ここでは、数学といえども、図形を自分で操作する形で、直感的にわかる推論を重視している。このような、直感的な推論は、厳密性には欠けるので、大学院のレベルで専門的な議論をするのは不適切である。 

 但し、一般社会での論理的な議論を行うだけなら、図形操作の幾何学的議論も、かなり有効ではないかと思ってきた。

 文系の学生ですら、数学の専門的な議論の基礎作りを行う立場、大衆的な推論を広げるための。定規とコンパスの幾何を教える立場、どちらもが必要かもしれない。

 

2020年6月 4日 (木)

東京アラートと大阪の対応力は、何故違うのか? 維新の政治の強さの秘密

 今回、東京では第二次感染拡大の危険性が高まり、東京アラートなる、よく分からないモノがでている。しかしながら、大阪府などでは、住民の協力もあり、今のところ抑えることに成功している。この理由について、大阪の吉村知事は

 「ケンミン性」

 https://news.yahoo.co.jp/articles/ec81f14bd97baf252694552bb2ebb5d198657da7

と表現している。

 しかし、この違いについては、きちんと説明のつく面もある。このような成功理由を明確にすることは、今後の展開にもつながる。

 まず、一つ目の論点は、

「吉村知事の説明力」

である。大阪モデルについて、自分で納得しながら、色々と説明している。これは専門家の意見を聞きながらも、政治家として総合的に判断した結果である。小池都知事の会見には、専門家の意見の垂れ流しという感じがする。この違いが、住民に伝わる力の差となっている。

 しかし本当に大事なことは、大阪府における、維新の政治の積み重ねである。具体的に言えば

「住民の意思を大事にする政治」

が今まで積み重ねられてきたから、今回も自主的な参加が行われたと思う。

 これは、橋下知事の時代から

「ふわっとした民意を大事にする」

ことが実行されていた。そこで大阪府民は、

「自分たちが参加する府政」

を実感している。例えば、学校での暴力があれば、教育委員会の独立などを排除して、処罰されることは、民意の反映でもある。そこで、松井市長が

「医療従事者の防護服不足に対して、雨合羽を供出して!」

と叫べば、皆が参加していくようになる。

 この蓄積を、大阪府民は誇りに思うべきだし、政治家達も大事にしないといけない。

2020年6月 3日 (水)

コロナ危機の後で

 コロナ以後の社会が、色々と動き出している。この機会に、今までの弊害を修正すれば、V字回復の可能性がある。そこで、私なりのヒントを探してみた。一つの切り口は、

『テレワークの普及』

である。これは、事務所のスリム化などで、経営的な資産も軽くなってくる。但し、私はここにもう一つ、大きな問題の解決可能性を見ている。それは、

「就職氷河期などの若冲年の『引きこもり者』の社会活動への参画」

のハードルを下げる効果がある。自室から出なくても、IT技術で社会とつながる。仕事にもつながってくる。こうして、『引きこもり者』の社会復帰への道が開けるようになる。

 なお、就職氷河期のトラブルの根底には、親の世代の問題がある。彼らの

「良い大学を出て、大企業に勤める」

と言う単純な価値観で支配された子供が、

「一度挫折すると、社会から取り残されたと思う」

ことで引き困っている人も少なくない。

 コロナ危機で、色々なモノが混乱しているとき、従来の価値観を壊すこともできるから、この機会に引きこもり脱出できる人もいると思う。

2020年6月 2日 (火)

無罪請負人が善いのか?

 大分前に、テレビで弁護士評価の話になって

「H弁護士は無罪請負人、もう一人のH弁護士は有罪請負人」

という話があった。これは、一見すると

「無罪請負人にお願いすべき」

という感じがするかもしれない。しかし、もう少しよく見ると、無罪請負人は

「被告は何もやっていません!」

という無罪主張は、失敗すると最高刑になる可能性もある。

 一方、有罪請負人の場合には

「被告は罪を犯したが、情状を組むべき点も多い、そこで執行猶予などいかがでしょう」

とのらりくらりと落とし所に持ち込む。これがどちらが善いかは考えるべきである。例えば、和歌山のカレー事件においても

「有罪ではあるが、激情による行動で計画性はなく、殺人罪ではなく傷害致死である」
(この場合死刑は成立しない)

という弁護の成立した可能性は、報道関係者や法曹関係の一部からささやかれている。しかし、

「無罪主張で押した場合は、負ければ殺人罪になる」

という形での死刑判決になった。

 このとき有罪請負人の弁護士が、きちんと仕事をしていれば、有期刑で収まっていたのではないかと思う。

2020年6月 1日 (月)

東京アラートに関する議論について

 先日、橋下徹氏のYouTubeで、「東京アラート」に関する話をしてた。ここで問題になったのは

「陽性者増加比率(週単位) 1未満」

という項目である。確かに、

「増加傾向ならば危険」

という直観的な納得はしやすい。しかも「週単位」という制約も加えているので、

「XX病院の院内感染で5名が陽性」
「昨日の二倍以上の大事件!」

というう風な軽挙妄動には一応の対策ができている。ここまでは専門家として良い仕事ができている。

 しかし実際の運営になった時、

「一週間の陽性発生者が10名以下」

というような状況なら、

「今週は7名、先週は6名だった!!」

等という、警報発生がでるかもしれない。

 ここで、政治家やマスメディアの人たちには、このような数値の使い方について、きちんと理解しているかどうかが、資質の判定条件になる。

「数値的な扱いは、個別の対応が難しい、多くの事例が発生しているときに有効である。
特に平均値は、多数のばらつきをまとめて大局的な判断に必要である。
しかし、事態が収束に向かい、トラブル事例が少なくなれば、個別対応に切り替えるべきである。」

この程度の基本を知っていない知事がいるなら、怖いことである。

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