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2020年8月31日 (月)

私たちが学んだ江戸時代は偏っているのではないか?

 先日から、日本の歴史を見直していると江戸時代の、町人文明について、私の理解がない事に気がついた。更に言えば、豪農などの文明への貢献についても、理解ができていない。この理由は、学校教育が偏っているからだと思う。

 一つは、権力体制を重視し、法制度などのが整ったものを対象に教える。つまり、江戸幕府の支配だから、幕府と各藩の支配が主な話となる。もう一つの偏りは、マルクス主義史観である。つまり、搾取する地主と、支配される小作人という図式である。このような、

「水呑百姓の悲惨な生活」

という一面的な図式で描く農村社会、このようなイメージしか浮かばない。

 しかし、よくよく考えてみると、大阪の淀屋橋や道頓堀は、豪商の力でできた。さらに、多くの農地が、豪農の力で開拓されている。これは、当時の豪商や豪農の富裕層が

「将来のための適切な投資を行った」

結果と考えてもよい。つまり、資本主義の基本である

「投資と回収のセンス」

が既にあったと見るべきではないかと思う。

 更に言えば、江戸時代は一応鎖国という、かなり閉鎖的な経済状況である。そこで、

「持続可能な経済成長」

を行ったとしたら、これも現在学ぶべき者が大きいと思う。特に、国土環境を護りつつ、持続可能な成長ができたのかは興味深い。

 なお、一説によると、

「山の木を燃料として購入する豪商のために、多くの山が荒れ果てた。」

という側面もあるらしい。この観点で見れば、明治維新の新たな意味づけもでるかも知れない。

 日本の文明は、環境との共存が大切だと思うが、山を壊した報いが、明治の大変革というのは、一つの可能性である。

2020年8月30日 (日)

本当に護るべきものは国土という発想で地方創生を考えてみた

 首相の退陣の話が出て、色々と政治が動きそうである。この機会に、この国のあるべき姿について、少し考えてみた。

 私が考えたこの国のあるべき姿は、

「風土を大事にした持続可能な国」

である。つまり、

「環境問題なども考慮した国土の運営であるべき」

が私の主張である。日本という国は、これまで何とか持続してきた。特に

「水などの資源に恵まれ枯渇させずに来た」

という、持続可能性を維持してきた。これは、世界の中でも誇るべきコトである。逆に言えば

「水と安全はただ」

という発想の「お花畑住民」という側面もある。

 しかしながら、現在の日本を見ると、この水と安全が、色々な面で脅かされている。梅雨時の水害などが、その典型である。

 私は、この原因を

「国土が弱くなっている」

と考える。もう少し具体的に言うと

「山が死にかけ、木々の力がなくなった為、土も弱くなった」

状況が、治水上のトラブルや、山崩れを起こしていると思う。

 このように考えると、現在の緊急課題は

「山を救う!」
「林業の復権」

である。このため

「公共投資を活用して、国を護るために、山の保持と林業を活性化させる」

事が第一優先である。そのために、必要な人材や、ロボット等も投入すべきである。更に言えば、山のメンテの人たちが住むための町作りはどうあるべきか、そのためには農業なども活性化すべきという議論も出てくると思う。

 既存の枠組みを外し、国土を護るためにはどうあるべきか、根底から考える時が来ているように思う。

2020年8月29日 (土)

大企業文明に入っていてもトラブルはある

 先般書いた日本社会の課題の議論で、今回は

「大企業文明の恩恵に浴する場合」

について少し考えてみたい。この場合には

生活を維持できるレベルの給与を支払う雇用にすべきである

という議論が普通は成立する。つまり

「大企業の正社員は,生活保障がついている」

が暗黙の了解事項になっている。その代わり、就社であり,どこに飛ばされるか解らないが、生活は保障される。

 これが大企業所属の利点である。これは言い換えると

「大企業村の住人として面倒を見てもらう」

と考えてよい。

 そこでは、

「大企業文明に即したスキル蓄積も行う」

ことも仕事に含まれている。安心したスキル蓄積、経営側の教育投資が上手く回ると、日本企業の「高度技能集団」の力が発揮されるようになる。

 さて、このような大企業文明の恩恵だが、周辺では色々とトラブルが発生している。これは正社員登用とも絡むのだが、企業側の発想では

「正社員にしてやる」

という、上から目線が多くでている。しかし、実際の処遇において

「正規採用に及ばない場合が多々ある」

という状況が発生する。このとき、

「処遇改善された後の不満」

が結構重たくなる。パートタイマーから正規雇用になった人が、処遇に不満を言って退職する場合は少なくない。

 このような、大企業文明の管理職や既存社員側の思い上がり(?)は、少なからず見受ける。

2020年8月28日 (金)

社会の分断に関して『科挙』を考える

 先日から考えている、社会の分断問題について、今回は中華文明の『科挙』の影響について、考えてみた。『科挙』という制度は、実力主義という観点では、奴隷制度などより優れている面がある。しかしながら、『科挙制度』がもたらす、知識人階級とそれ以外の人間の、分断問題に派大きな弊害があるように思う。

 この問題に関しては、我が国には格好の比較検討材料がある。朝鮮半島は、中華文明の直撃を受け、

「中華文明の受け入れ優等生」

であり、科挙制度などもきちんと受け入れていた。

「清のような異民族国家より本当の中華文明」

というぐらい、中華文明をまねしている。一方、我が日本国と言えば、適当に中華をつまみ食いしている、朝鮮半島から見れば『劣等生』であった。

 さて、こうして朝鮮半島を見てみよう。朝鮮半島での、

「(特権階級である)知識人とそれ以外の分断」

の激しさと色々な弊害は、歴史が示している。特に、戦争や外国との交渉時に、知識人のひ弱さというか、現実対応力の低さが目立っている。確かに、黒船来航時の江戸幕府の対応もお粗末だったが、李氏朝鮮の対応はもっとひどかった。

 また、一人の科挙合格者が生まれると、それに群がる親族たちが、利権に群がる図式ができている。

 これは、全て

「知識人の特権」

「科挙合格という一発勝負で得る」

という状況が生んだのではないかと思う。

2020年8月27日 (木)

社会の分断の一つの出方

 先日書いた、

一人のシングルマザーが、


「つい先ほど入った子と、同じ評価が腹が立つ」
つまり
「スキルの蓄積などが評価されていない」

という不満である。これをもう一歩踏み込むと

「人間として尊厳を持って扱われていない」

という不満になる。

という記事に関して、もう少し議論しておく。

 この問題を突き詰めると、

  1. パートタイマーの能力を認める
  2. パートタイマーはマニュアル通りの仕事だけすればよい

という異なる二つの姿勢に行き着く。

 

 私の個人としての組織運営方針は、

「誰もが人間としての力を認める」

であり、例えパートタイマーであろうと、

「スキルの蓄積効果は認める」
「意見を言う機会はあるし、よい意見は吸い上げる」

事を事項していた。スキル蓄積に対しては、ほんの少しでも時給を上げるなどをしていた。

 しかし、この考え方が、通用しない組織である場合も多い。一つの考え方は

「アメリカ式マニュアル世界」

である。彼らの発想には、レイバーとしての労働者を見ていて、自発性のあるワーカーやプレイヤーとしてみていない。もう少し言えば

「パートタイマー労働者には、レイバーしか期待していない」

という発想である。つまり、働く人間を階層化し

  1. 知的活動を行うワーカーやプレイヤー
  2. 知的活動を期待しないレイバー

を分断している。この発想は、軍隊組織における、士官と下士官以下の違いに一つの原型がある。士官たちは、命令受領時にも取引をする必要があるし、意見具申や緊急時の指揮権引き継ぎの対応が要求されている。一方、下士官は「命令に従う事のみを要求されている。この根拠として、

「知的能力の違い」

を色々と述べる事が多い。

 しかし、本当に知的な差があるのか?

 さて、もう一つの差別の原因は、

「日本社会の既得権保持機能」

である。

 これは、なかなかいやらしい問題を含むが典型は

「正社員だから偉い」

という発想である。正社員に採用されたという『既得権益』を守る。これは、『正社員共同体』で利益共有している。

 このような発想で、

「パートタイマーの分際で意見を言うなど許されない」
「スキル蓄積など認めない」

という行動を取る人がいる。これも悲しいかな現実である。ある本屋に行くと

「賢い店員がこちらの必要な本を直ぐ見つけてくれた」
彼女は
「何をおいたら売れるか、と話をしていた」

しかし私はある時見てしまった。

「そこの本屋の本部からきた、偉そうにしている『総合職』らしい人間に命令される彼女たち」

現場を知らず、客が待っているのに、従業員への話を優先する『本部職員』、このような店はだめだと思った。

 実際、私が買っていた従業員も直ぐに退めた。

 長く書いたが、パート社員に対する姿勢でも、色々なモノがあり、その根底にあるものを理解しておく事は大切だと思う。

 いわゆる『正義』で通用するものではない。

2020年8月26日 (水)

分断化した社会で罪悪感なしの優位に立てるか

 昨日書いた、キャリアアップ論などでは、一つ疑問が出てきた。それは、

「自分が優位に立つことへの疑問はないか?」
言い換えると
「罪悪感を持っていないか?」

である。

 実は、私自身の底流にこの疑問が存在する。遡れば、大学受験の発表時に、多くの同級生が落ちたとことを考え、

「サバイバーズギルト」

のような感覚を持ったことが、一つの発端である。

 後に判明したが、私の大学入学成績は、「合格最低点の一点違い」であった。その成績が私の人生を変えた。確かに大学で身に付けたモノは多く有り、それが後々の仕事でも生きている。少なくても会社生活においても、生涯賃金の数倍の利益を会社にもたらす貢献はしている。このあたりの経緯は

 「彼は成績しか取り柄がない」 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-3a9e4d.html
等に書いている。

 しかし、大学受験に失敗したとき、対人スキル不足の私が社会でどのような使いを受けただろう?この疑問は、時々私の心に浮かんでくる。これを言い換えると

「自分の給与に比べ、同様に働く協力会社や、非正規雇用の給与は十分といえない」
「自分は給与差だけの事ができているか?」

となる。確かに、技術の世界や、総合的判断では

「私の頭脳でしかできない」

と言い切れるときもあり、その時は少しは精神が落ち着いている。

 さてここで周りを見ると、どうもこの問題でおかしくなっている人が少なくないように思う。

「XXの正社員」

という事だけを振り回し、マウンティングする人間がいかに多いか、更に言えば

「昔成績がよかった」
「XXに合格した」

という、一時期の成果を盾に優位を維持しようとする。

 このような人が少なくないように思う。

 そうして、彼らの多くは、一緒に仕事をしている人間の、恨みなどを買っている。その力が働くかどうか解らないが、私が見るところ

「分不相応な出世した人間の早死には少なくない」

という状況がある。多くは酒などの結果、成人病で体を壊す者が多い。

 この問題に対して、昨日のように理屈を付けて、逃げる事ができるのだろうか?私は、日本人には難しいように思う。

2020年8月25日 (火)

安易なキャリアアップ論にだまされてはいけない

 昨日書いた、「日本社会の課題」について、もう少し議論していく。

 今回は、私が安易なキャリアアップ論に反対する理由を述べておきたい。 

小熊は3通りの解決案を提示している。

  1. 生活を維持できるレベルの給与を支払う雇用にすべきである
  2. 「同一労働、同一賃金の原則」からして、同じ仕事なら給与は変わらない。不満があるなら、資格取得や学位取得でキャリアアップすべきである。
  3. この問題は、社会としての生活保障として考えるべき事である

私が反対するのは、生活苦のシングルマザーに対して、安易にキャリアアップが対策という上記2.の姿勢である。

 このような、キャリアアップ論は、どちらかというと、アメリカの自由競争社会的な発想から持ち込まれる事が多い。さて、アメリカというか、西洋文明をきちんと見ると、彼らの発想は私たちと根本的に違う面がある。それは

支配者と被支配者の峻別の伝統
奴隷制度を長く続けた伝統

である。私たち日本人には、根底に大乗仏教の

「皆が仏になる」
という
「究極の平等思想」

がある。一方、西洋文明には

「優れた者が支配する」

という発想があり、場合によっては、

「科学的知見を総動員しても、自分たちが優れていると保証」
例えば、進化論を使うなど

することで、支配の合理化を図っている。

 このような観点で、キャリアアップ論を見ると、

「学位や資格で、支配を正当化」

という発想が見えてくる。

 私が反発するのは、このような支配のための理屈づけとしての、安易な議論である。

 更にこの議論の危険な点は、

「現実的に実現不可能」

な点である。実際に生活苦であえいでいる人が、資格取得の勉強や、学位のために通学などできるだろうか?奨学金などと云っても、またもや謝金を背負うだけになってしまう。このようなリスク負って、時間とお金の投資ができるだろうか?

 確かにチャンスはある。そこで

「機会の平等は与えている」

という、言い訳はできるだろう。しかし、これはあくまで言い逃れであり、他人を低賃金でこき使っている立場の弁解に過ぎないように思う。

 私が、安易なキャリアアップ論、特に「大学で学び直せ」論に反発する理由の一つこれである。

2020年8月24日 (月)

日本社会の課題

 前に書いた小熊英二の「日本社会の仕組み」の終わりに大事な問題提起がある。

一人のシングルマザーが、

「つい先頃入った,高校生のバイトの子と、自分の給与がほとんど違わない」

という不満をもった

これに対して、小熊は3通りの解決案を提示している。

  1. 生活を維持できるレベルの給与を支払う雇用にすべきである
  2. 「同一労働、同一賃金の原則」からして、同じ仕事なら給与は変わらない。不満があるなら、資格取得や学位取得でキャリアアップすべきである。
  3. この問題は、社会としての生活保障として考えるべき事である

私は、この問題に関しては、色々な切り口があると思う。

 まず、この問題に関して、訴えてきた人の不満には、二つの側面がある。これを混同してはいけない。

  1. 生活苦の側面
  2. スキル評価がされていない側面

これをもう少し突っ込むと、まず生活苦という面では、「シングルマザーの子育て」のために必要な、金銭収入確保ができているか、という議論である。これは、小熊も指摘している、「大企業文明の給与には、生活保持の側面」があった。しかし、パート労働者などにはその配慮がないという問題である。言い換えると、

「給与だけで生活できる社会になっていない」

という問題である。

 一方、もう一つ別に、働く人のプライドというか、動機付けの問題がある。

「つい先ほど入った子と、同じ評価が腹が立つ」
つまり
「スキルの蓄積などが評価されていない」

という不満である。これをもう一歩踏み込むと

「人間として尊厳を持って扱われていない」

という不満になる。

 この両面を考えて、議論すべきではないかと思う。

 なお、私は上記解決案の2.の姿勢には、強く反対する。この点については、長くなるので別途議論したいが、日本教の根本思想である、皆が平等という発想と、アメリカなど奴隷社会の伝統のある、支配/被支配文明に対して、根本的な反発が根底にある。

日本の歴史を見るときに「思い込み」にだまされてはいけない

 日本の歴史を見ると、

「瑞穂の国日本」
つまり
「農業国」

というイメージが湧く事がある。しかしこれは本当だろうか?

 この問題を追及すると、

「律令制度は本当に成立していたか?」

という議論まで踏み込んでしまった。この議論の発端は、明治の戸籍における

『百姓』という分類のいい加減さである

つまり

『工業・漁業・果ては商業』までも『百姓』に分類されている可能性あり

という議論である。これは、江戸時代から曖昧な『百姓』という分類の継続と考えてよいだろう。

 さて、この問題を考えていくと、もう一つ私たちが、思い込んでいる可能性が出てきた。それは、

「律令制度の『公地公民』は本当に成立したのか?」

という議論である。この話は、

「公地で与える土地があるのか?」

という問題であり、現実に

「墾田私有の法」

が、色々な形ででている事、また租税に関しても、『米本位』が本当に成立していたか?等の状況から、疑うべきであろう。

 このように考えると、根本的な問題として

「律令制度は、日本では機能していたのか?」
言い換えると
「建前としてお飾り的な律令制度」
もっと云えば
「中華文明での付き合いに、恥をかかないための、律令制度実行の格好だけした」

という可能性が見えてくる。

 このような状況を考えると

「日本の歴史では、常に建前と現実主義のバランスの上で社会が動いていた」

という見方ができるのではないかと思う。

2020年8月23日 (日)

「歴史の作法」から気になる部分の抜粋 その8 リアリズムと理想主義

 歴史への依存は、危機の時に強くでる。特に、明治の西洋文明との出会いは、中国のアヘン戦争という事例もあり、国難と言うべき状況であった。このような時期に、陸奥宗光は「歴史を活かした」一人である。

 さて、陸奥宗光は西洋の偉人伝を読み、「偉人」が出現する共通の前提に関心を持っている。

  1. 時局の行き詰まり
  2. 旧勢力の「力」でもはやどうしようもできなくなった
  3. 最もよく新たな時代の型にはまった人
  4. 少しも前例や時勢にとらわれないで思い切った仕事ができる人
  5. その人が出現する前に前人がある程度の準備行動をとっていた

また、陸奥は荻生徂徠とベンサムの功利主義にひかれている。

 徂徠は、

「ある主体の活動によって制度が実現しても、その活動が実を伴わないと制度が失われるという循環論で歴史を捉えた」

一方、ベンサムは

「自由なくして人智の進歩がありえず、人智の進歩なくして人間の幸福があり得ない」

と主張している。両者をつなぐのが経験主義である。

 陸奥宗光は、「権力」と「理念」との間で引き裂かれた「分裂した魂」を持ちながら、対立する二つの要素の醸し出す緊張をいつも心に抱いたリアリズムの権化である。特に、政治技術ヘの深い関わりが、陸奥の現実主義を表している。

 歴史を理解するには観察者の側に理想主義とリアリズムのバンスをとる必要がある。

 批判的な言辞だけの傍観者や認識者と、建設的な関与をめざす行為者は違う。

 

2020年8月22日 (土)

「歴史の作法」から気になる部分の抜粋 その7 広がる歴史

 この本の問題意識の一つは 

歴史学の細分化は、人間の社会や世界の全体を、理解しようとする意欲を後退させる。 p161

一般歴史学は生き残れるか?

であり、著者は専門化に対抗して踏みとどまろうとしている。

 ただし、その前にモンテーニュの皮肉を味わうべきである。

「わたしは、極めて単純な歴史家か、さもなくば卓越した歴史家を好んでいる」

つまり、自分を出せず忠実に記録するか、知る価値のある事を選ぶ能力があるから、より信憑性のある者うぇらぶことができる歴史家が必要である。

また、世界史という大きな視野を忘れず、しかも人間の多面的かつ多元的な生活を、具体的に捉える必要がある。

 特に、「文明の衝突」に注目すべきである。黒船来航の衝撃は日本史の転換点である。

 逆に、

歴史が正当性や根拠を与えなかった近代国家というものが果たして存在するのでしょうか。日本とて同じ事なのです。 p200

は、重い指摘である。

2020年8月21日 (金)

「歴史の作法」から気になる部分の抜粋 その6 危機対応の教訓としての歴史

 「歴史を生かす」という発想では、危機対応の教訓になる、直接的な先例を求める場合と、もう少し一般的に考えて、今までの歴史から一般的な教訓を引き出そうという発想がある。「歴史の作法」の第三章「危機における歴史」の第一節は

慈円の「道理」、マルクスの「法則」、愛山の「マコト」

で始まっている。

社会秩序が音をたてるように崩れ去る様を見た慈円らの貴族は、

「急激に変化する政治的な状況を追認し、その変化に遅れないように懸命の努力を続けた」

「彼らは世の中の動きに目を配り、世の中を動かしている力が何であるかを考え、時代の行方を読み取ろうとした」 p118

もちろん、歴史の変動をヘーゲルやマルクスのように歴史的必然性という名の「法則」から説明する人が今でもいます。 p118

日本人の読者のなかには、マルクスのいう意味での「法則」よりも、歴史で事件が起こる「道理」が時代とともに移り変わるという慈円の説に感覚としてひかれる人も多いでしょう。歴史でせいぜい成り立つ因果関係は、整然とした「法則」というよりも、相関社会学者村上泰亮のいう「亜法則」や「傾向束」(いくつかの可能な傾向の束)のような緩い傾向性なのかも知れません。もう少し古い例でいえば、これは山路愛山の「マコト」とも通じるものがあるといえましょう。 p119

ここで、山路愛山の「マコト」をきちんと理解することは大切だと思う。

「マコト」とは、「此国民が如何に成長し、如何に発達したるかという云う大躰の事」についての観察であり。それは歴史と社会に内在する「国家発達の法則」なのでした。それは「人心の帰一」という「原則」であり「同じ事情と同じ性癖との下には人間は同じ動作に出づるものなりてふ原則」にほかなりませn。そこで、愛山のいう「マコト」は。時代と場所が違う場合にも共通して現れる人間の行動や事象の「類型」やそれと結合した形を取る「パターン」といってもよいのです。 p119~p120

 さて、本題に戻って、危機対応の役に立つ歴史書は、

  1. 北畠親房「神皇正統記」
  2. 新井白石「読史余論」
  3. 伊達千広「大勢三転考」

歴史の転機と時代区分を説いた先達の古典的書物に直接あたってはどうだろうか。いずれも古い時代から新しい時代への転換と過渡期の歴史構造を理解しようとした本であり、その〈時代精神〉から現代人が学ぶべきものは多い。 p120~p121

である。

 歴史家の任務は

「歴史家も歴史哲学者も、歴史的事件の原因や、これを支配する法則を発見し、これによって人類の過去の経験を組織立てようとする試みに没頭」

「現在でも、歴史家に問われるのは、複雑な事件の連鎖を分かりやすく総合的に解ける脂質であり、生き生きとした叙述を通して事件を物語的な連関の中で表現できる能力」

である。

 歴史家と原因の探求に関して、E.H.カーの指摘が鋭い。

原因が歴史の過程に対する歴史家の解釈を決定すると同時に、歴史家の解釈が原因の選択と整理を決定する。

合理的原因と偶然的原因の区別

他の時代や条件にも適用されることで「有効な一般化」を生み出し、われわれに理解力や深さを与えてくれるのが合理的原因、

一般化できない特殊なものが偶発的原因      p154~p156

但し、ある価値判断で正確にこれを切り分けることは難しいものがある。

「歴史の作法」から気になる部分の抜粋 その5 科学と文学

 「歴史の作法」の著者、山内昌之の意見は

歴史学において芸術と科学が整然と区別されるものではない p75

歴史と文学には、大きな共通点があるように思えます。

それは、自然への愛や人間の可能性に対する信頼だと言ってもよいかもしれません。

実際に、歴史と文学は、〈叙述〉という表現手法が重視される点でも似通っているというのが私の考えです。 p76

が基本にある。

 一方、彼の科学に対する見方は、

「法則」を科学性の根拠にする歴史学者たちもいます p76

すべての学問を自然科学と文化科学に区分したドイツの新カント学派の主張は、いまだに私たちに興味深い論点を示してくれます。

自然科学は一般法則の解明を目的としており「法則定立的」な作業を果たします。それに対して「文化科学」としての歴史学は一回限りの個性的な出来事を理解する「個性記述的」な作業に自己限定すべきだというのです。 p78

という、観点もあります。

 彼の主張は

  1. 原因の探求という〈科学性〉は歴史学の大本
  2. 〈科学性〉と〈文学性〉を結びつけた歴史は、叙述や物語の重視と矛盾しない
  3. 現代の歴史学に必要なのは、叙述的な歴史学を復権させ、科学的な歴史学を豊かにする

つまり

  歴史とは、理解することなのであり、それは言葉を使って書かれるものである

という、表現を重視してる歴史学を考えている。

 さて、人物描写を重視する歴史についても、色々と記述がある。

(明治の在野の学者)田口卯吉は『北条政子』といった作品のように「輪切躰」と呼ばれる歴史叙述のスタイルを取り入れています。それは、ある人物を対象に定めて、そこから同時代の社会一般の事情を論じながら、政治や文学などの事象を観察するスタイルを指します。人物評伝に託してその社会事情を歴史論として記すものといってよいでしょう。

卯吉は、歴史が扱う社会という有機体には、有形部分と無形部分(思想・文学・宗教など)の両面があって、それが一体になっている以上、二つの連関に留意すべきだと考えました。しかし、有形無形の関係を追いながら古来からの沿革を描くのは非常にむずかしいこともあって、一人の人物を中心に論を展開させたのでしょう。 p99~p100

こうしてみれば、事件や人物について、歴史を貫く大きな論理と調和させながら、生気あふれる筆致で巧みに描いた点こそマコリーと竹越三叉の本領だったといえるでしょう。 p101~p102

強調しているのは、

「歴史が学として成立する上で重要な条件が想像力と構想力にある」

「現在の歴史学でいちばん大事なのは、集団を支配しがちなイデオロギーから離れて個人の表現者としての想像力を豊かにし、多様な世界の人間的自由と個人的自発性を開花させる見方を歴史からくみとる点にあるのかもしれません。」

「歴史の読者にも、外に現れた形跡から隠されている真実を慎重に探し出すことも必要とされるのかもしれません。」

という、想像力の重視である。

2020年8月20日 (木)

「歴史の作法」から気になる部分の抜粋 その4 史記

 歴史書として、『史記』の価値は誰もが認めるだろう。『史記』の理解は、中華文明自体にもつながってくる。例えば

古代中国の人びとが、歴史を「神の意志」、総じて超越的な存在の意志発露したものと考えた事実がよくわかります。 p46~p47

は基本でしょう。次に司馬遷の姿勢です。

司馬遷にとって『史記』は「単に昔からの事実を羅列したのではない」のであり「編纂の微妙なる意味、論談」に特色を出した

その間に「古今を通じた沿革上の真理」を得ようとした。

「自分(=司馬遷)は事によって直書し、その間に自然に善悪を表し、又自然に褒貶を表すという意味で書いたのであるから、春秋の精神は取ったが、形は一変したのである」     

ここまでp48

こうした、「応報の哲学」による「倫理的啓蒙的性格」が『史記』にあるが、現実の歴史はそこまで甘くない。

『史記』が倫理的批判の書であると言う真の意味は、単に表面的な善悪の基準によって歴史を批判したものという意味に解してはならない。それは、人間世界の秩序を成立させる根本原理からの批判という深い意味を持つのである。歴史に対するこのような根本的批判が出てくる根拠は、いうまでもなく、人間世界の運命を問題にする意識にあるだろう。実際に司馬遷は、単純な善悪の基準がそのまま通用するほど、歴史的世界が甘くないことを、身にしみて十分認識していた。 p52~p53

さて、司馬遷から学ぶ歴史家的態度を以下の四ヵ条にまとめている。

  1. 「自由」を強調し、権威や誘惑に負けず自己の信念に沿って生きる人間を描く
  2. 対立の中から新たな統合が生まれるという、弁証法による歴史観
     ただし、起承転結の四段弁証法で、時間をおいて転に出会い対立が生まれ、そこから結が生じる
  3. 歴史認識において理想と現実が不断に往復する
  4. 経済と理財の感覚

こうした歴史を見る目は、現在社会でますます必要になってくる。

2020年8月19日 (水)

「歴史の作法」から気になる部分の抜粋 その3 春秋

 中国の歴史書で、一番大事なのは、やはり「史記」である。しかし、その前に孔子の「春秋」が存在したことを、私たちはもう一度考えるべきだろう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B

『春秋』は、人間世界をつくっている秩序の基本原理にこだわった書物でした。人間社会の秩序原理を尊重し、これに従うこと、秩序の原理を維持しようとすることが、歴史に生きる者として自然な義務だと司馬遷は考えたといっても差し支えないでしょう。 p47

さて、ここで『春秋の筆法』という言葉がある。これは、言葉として知っている人は時々いるが、真意をきちんと理解している人は少ないように思う。

孔子が範を垂れた春秋の筆法とは、事実を事実として尊重し、少しもこれを曲げて書くことを許さず、対象を批判する態度も公明中立な歴史解釈を旨とした厳正な歴史の記述法を指しています。 p62

それでいながら ~一部略~ 筆者の価値観を交えて独自の表現を用いることを許すのです。

また、春秋が些事をとりあげて、大局への関係を説く論法であることから、『大辞林』(第二版)などは、

「間接的な原因を直接的な原因として表現する論法」あるいは「論理に飛躍があるように見えるが、一面の真理をついているような論法」と説明しています。  p63

この背景には

歴史の叙述とは、単なる事実の羅列であってはならないという考えなのでしょう。この記述法こそ、『史記』が春秋から継承した個性にほかなりません。春秋の筆法とは、史実を確定した後に文章を持って叙述する際に善悪のけじめをつける、歴史の作法だといってもよいでしょう。 p63

という考えがある。

2020年8月18日 (火)

「歴史の作法」から気になる部分の抜粋 その2

 昨日の続きで、「歴史の作法」から、興味を引いた部分を場推しておく。

 まず本日の一番大事な話は、古代ギリシャの哲学者の歴史学認識である。

アリストテレス(前384~前322)は、ヘロドトスを念頭に置きながら、「詩作は歴史にくらべてより哲学的であり、より深い意義を持つ」と語りました。この指摘は、普遍的なことを語る詩、ひいては経験的事実から普遍的判断を引き出す哲学こそ、個別的なことを語り「経験的事実の収集に過ぎぬ」歴史よりも有用だという信念を吐露したものと理解されます。 p34

つまり、詩は「ありそうな、あるいは必然的な」出来事を描くのに、歴史は現実に起こった個別的な出来事を描くに過ぎない。 p35

これに対する歴史家からの反論は、以下のように史料批判にこだわる。

内面的には、歴史は思索であり、真理の探究であり、存在物そのものやその起源の詳細な説明であり、また諸事件の様態とその原因に関する深い知識である。 p36

一方、史料批判の弱い研究者には厳しい意見がある。

彼らは真相の追求に務めることが少なく、史料批判の目も概して弱い。また誤謬と憶測が歴史的報告と同居している。

真実とは、何人もその権威に立ち向かうことのできないものであり、虚偽の悪には、思索の光輝が投げつけられる。 p37

加えて、洞察力の話がある。

報告者は、ただ情報を述べて書き取らせ、伝えるだけである。そうした資料を見るさい、そこから隠れた真実を選び出すには、洞察力が必要であり、またその洞察力を用いて数々の真実を明るみに出し、それを正しい一つの書物に磨き上げるには、知識が必要である。 p38

つまり、知識・洞察力と実証性、これがきちんと働くことが、本当の歴史家という議論である。このような、歴史の記述は現実の問題解決に役立つ、というのは吉田松陰の意見であり、我々が生かすべきことだと思う。

 まだ書き足りないが、「史記」の話は長くなるのでとりあえず、一区切り。

2020年8月17日 (月)

「歴史の作法」から気になる部分を抜粋 その1

 昨日の続きで、「歴史の作法」山内昌之著、文春新書345から、気になる部分を拾ってみる。

歴史学が、物語的、実用的、発展的という三段階をたどって、学問の領域に達する p19

次の指摘は、学問全体にもかかってくる。

日本の未来と歴史的進路について、文明論的な洞察と過去とのバランスのとれた対話を歴史家たちに期待する市民がどれほどいるでしょうか。たしかに、最近では格別に歴史的実証の努力に携わってきたわけでもない歴史家以外の学者、はたまた作家や評論家までも、左右を問わずに「戦争責任」に関わる歴史論争の<主役>になっています。 p20

この問題に関して著者の一つの見解は、一四世紀のアラブの歴史学者イブン・ハルドゥーンのもの。

歴史という学問は政治や生活に有益な具体性を手がかりとして与えてくれるものだったのに、「後世の歴史家は本質を理解せず、形式だけを踏襲することで満足するようになった」というのです。支配者自身の問題、権力や優勢さに関する各王朝相互の関係などの枝葉末節にこだわるあまり、歴史学の目的の追求を忘れてしまったとも述べています。「人の話を盲目的に信ずることは、人間にとって根深く、代々受け継がれる特質であり、何の資格もない者が、学問に与ろうとするのも広く起こりがちなことである」という指摘は、やや木津かも知れませんが、近現代の歴史学の一部にさえあてはまる警告かも知れません。 p21

次の部分は、総合的な発想と言うことで、私も共感することが多い。

歴史とは混淆性や全体性において成り立つものであり、そこに含まれる多元的要素については物質の「分子」を扱うように慎重に個別解析すると同時に、全体模型を俯瞰する視点を併せ持つ必要があるのです。明治維新このかたの日本史をまるで悪の年代記と考える立場にしても、戦争や植民地支配の負の現実を忘れがちな立場にしても、歴史の決定要因の複合性を解釈できない人々が一部には見受けられます。 p23

どの分野であれ、特に現代に関わる研究対象を正しく理解するためには、公角度かつ多元的に事象を相対化する視点こそ必要なのです。 p24

とりあえず、序章からの抜粋。

2020年8月16日 (日)

実用的な学問について

 文春新書の「歴史の作法」山内昌之を読み直している。この本が、問いかけているモノは、文系の学問全般に関わる

  「実用と学問的な成立」

の問題がある。歴史の研究には

  • 事件の意味を理解する
  • 事件が実際に起こったことを確証する

という二つの側面がある。しかも

「歴史」を事実によって知ろうとするとするなら、まず疑念やこだわりを持たなければ、未知や謎に包まれた歴史の森に分け入ることはできません。

という、理論的な枠組みの中で、

  「正しい疑問を持つ」

という宿命がある。これは、物理学の様に確実なモノでなく、社会科学・人文科学に特有の多様な見方を認める必要がある。

 著者の姿勢は

研究の政治史偏重を改め、全体像の構築を目指す歴史学・・・アナール派
歴史家の条件は人生に関心を抱く

に近い。その上で

  1. 歴史を決定する時間の流れと人間の営みとの関係について考える
     歴史は「正義」などの価値観で動くか?
     本質を理解する洞察力はどのように働くか?
  2. 歴史と叙述の関係を整理する
     過去と現在をつなぐ因果関係を見いだすには「想像力」が必要
     叙述と学問的厳密性との緊張関係
     複雑な事件の連鎖を分かりやすく総合的に説く
     生き生きとした叙述を通して事件を物語的な連関で表現できる能力が歴史家には必要
  3. 歴史と現実政治の関わりについて理解を整理する
     政治の危機を歴史の中に位置づける日本歴史家

という作法について書かれている。深く、しかも共感できる。

 また著者は、マルクス主義などの単純化した、原理主義に関しても批判的であり、これも同意したい。

 なお私が昔書いたブログも参考にしてほしい。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-432e.html


 

2020年8月15日 (土)

日本と西洋文明の違い

 昨日書いた、社会資本への投資の話を、もう一歩踏み込むと、

   「仕事を通じた指導育成という発想が、西洋文明にあるか?」

という議論につながってくる。

 これは、図式的に言うと

  日本文明:親ー子   が基本で常時育成

  西洋文明:成人ー成人 が基本で契約通りの実行

となる。

 西洋文明においては、古くはヒッタイトの宗主権契約などから始まり、プラトンなどの古代ギリシャの哲学も影響している。一方、日本の文明に関しては、大乗仏教が説く

  「全ては仏の子」
  「誰にも仏の力がある」

という発想が根底にある。

 この違いを、きちんと認識できていないから、現在日本の諸制度には歪みが出ている。

2020年8月14日 (金)

認識するモノは何か?

 社会科学などの分野では、物事を見る目が、その人が持っている、知識の影響を大きく受けている。これは、自然科学の分野と大きく異なる。私たちは、自然科学、特に物理学の影響を受けているので、

   「自然界のモノを素直に見る」

ということは、当たり前に考えている人も多いと思う。しかしながら、社会の現象や人間の営みは、多くの側面があり、更に社会科からの関わりも多様になっている。私たちは、その全てを知ることができているのだろうか?プラトンが突きつけた『洞窟の比喩』は、確かに成立している。

 私たちは一面しか見ることができず、それは自分たちの知っていることに制限される。

 例えば、マルクス主義にこだわれば

   「労働者は資本家に搾取されてこき使われている」

という観点で議論が進む。しかし、江戸時代の篤農家が

   「多くの人を指導して、開拓させる」

という活動は、

    「社会資本への投資で、将来的に皆がよくなる」

という側面がある。投資と回収、全体としての幸せ、等の概念がないと、このような発想は出てこない。

 このように考えると、私たちが見ているモノは、私たちの今までの知識に大きく影響されている。

 なお、私たちが作った制度に関しては、自分たちが創ったから、定義もはっきりしている。

   「正しいと言い切れるモノは、作られたモノである」

このヴィーコの言葉は、流石に社会学の祖といわれることがると思った。

2020年8月13日 (木)

いわゆる『大企業型』についてもう少し

 昨日書いた、記事をもう少し補足しておく。なお断っておくが、私自身大企業に所属し、その恩恵を受けた身である。そこで少し割り引いて、この文章を読まれる人がいるのは仕方ないと思う。

 一つ目の議論は、大企業文明が日本社会に対して行った貢献である。これは、明治以降の富国強兵や、戦後の高度成長以降の国力増加に、やはり大企業文明の貢献は大きかった。戦後の社会を見れば、鉄・重工・電機そして車と、大手メーカが活躍している。これに加えて、電力会社やNTTなどの通信等、色々な側面で大手メーカーの技術や技能の蓄積活用は素晴らしい。

 そうして、これらの会社が生み出した利益は、税収という形や、雇用という形で、社会の安定にも大きく貢献している。このような、よいところをきちんと認めないと行けない。

 しかし、これらの関係者が全体の1/4という問題も考えるべきである。

 そこで、残りの立場か、この大企業文明をどのように見るべきだろう。戦後にあった、マルクス主義的な見方で

「大企業悪人論」

を持ち出すのは、困ったモノであるが、現在もまだこのような論調が残っている。

 もう一つは、

   「ドロップアルト組に派生した怨念」

の問題である。

 昨日も書いたが、日本の学校教育は

   「大企業文明に入ることを目的とする」

という側面がある場合が少なくない。乱暴に言えば1/4の枠に対して、1/2程度の人材が、『大企業就職』に向かっている。

 この歪みを改善する方法を、考えるべきだと思う。

 私の考えでは、『地元型』の人財育成を、もう少し強化すべきだと思っている。具体的に言えば、

   「その土地での産業指導を行える『神様』の育成」

が重要かと思っている。 

2020年8月12日 (水)

文明の衝突でなく共存ではないか

 先般取り上げた、小熊英二の観点から、もう少し踏み込んで考えてみた。

 小熊の『大企業型』に関しての分析は、鋭いモノがあると思う。私の意見は以下の通りである。

  • 大企業はそれ自体『大企業村』を構成している
  • 大企業の体質は、企業戦争に勝つ軍隊組織である

つまり、地域密着の『地元型ムラ』ではなく、企業内のムラ社会である。しかも、目的達成のための、軍隊組織に近い体質を持っている。このように考えると、日本の企業体質がよくわかる。軍隊の体制なら、命令に従って、移動するのは当然であるし、必要に応じて色々な作業を行う。例えば、歩兵であっても、自分たちの身を守るためには、塹壕を掘る。これは、工兵仕事だと逃げていたら、死んでしまう。

 このように考えると、日本的な雇用の、仕事に対する忠実さ、柔軟さが説明できる。

   『産業戦士』

という表現があったが、これは本質を突いていると思う。

 ただし、このような『大企業型』の雇用者は、ぜんたいの1/4程度である。これに対して、大学などからの人材供給が過剰になっているのが、現在の一つの歪みである。

 さて、小熊が指摘しているように、『大企業型』の他にも『地元型』『残余型』という働き方がある。私はこの部分をもう少し分けて考えるバキだと思うが、とりあえず

 『大企業型文明』とそのほかの文明は違う!

ということを、きちんとしておくべきだと思う。

 そこで大切なことは、

  複数文明の共存

の道を図るべきだ後思う。確かに西洋的な発想なら

  「文明は支配的なモノであり、衝突すれば勝ち負けを決めるようになる」

という発想がある。

 しかし、日本という国は、そのような衝突を上手く避ける知恵があるように思う。

 今回の記事を書いていて念ったことは、『大企業型』を軍事組織と観るなら、江戸時代の武家社会がこれに当たる。一方、残りの部分は町人文化や農民文化に当たるだろう。ここで、武家文明と町人文明は、上手く棲み分けし、共存していた。

 この発想をもう少し活用したらよいと思う。

 

 

2020年8月11日 (火)

社会の二極化を正当化する一派

 先日から、都市への集中問題を考えていると、どうしても

    「低賃金での労働者こき使い」

の問題が出てくる。この問題は、古くは

    「ドヤ街の口入れ屋」

という形で、高度成長時代からあった。そして現在は、

    「派遣労働者やパート労働者に対する低賃金労働」

という形で顕在化している。

 さて、この問題に関して、一つ注目すべきことは、

    「正義感の違い」

である。つまり、昔の「口入れ屋」などには、非合法に誓う後ろめたさのようなモノがあった。実際、後ろのヤクザが見え隠れっすることも少なくなかった。

 一方、現在の低賃金労働者を使っている者には、そのような後ろめたさが見えない。どちらかというと

    「アメリカ流儀の市場競争力重視」
    「労働力対する至当な評価」
    「しっかりしたマニュアルに基づく労働である」

という風な理屈づけを行っている。確かに、アメリカ流儀の

    「科学的な管理方法」

を用いて、単純化して労働対価を計算すれば、このような結果が出るかも知れない。また彼らは言う。

    「単純労働から抜け出したければ、資格を取ったり、学位を取って抜け出せばよい」

というのがアメリカ流儀である。

 しかし、私はこのような

    「下層階級の低賃金を正当化する議論」

には危険なモノを感じる。何故なら、欧米人には

    「奴隷制度を正当化するために、白人優位の『科学的』議論まで育てた」

伝統がある。

 科学の裏付けと称する、正義の振り回しが、西洋文明のどこかに潜んでいるように思う。 

2020年8月10日 (月)

東京一極集中の崩壊について

 今回の、コロナ危機の結果を予測すると

   「東京への集中が止まる」

のではないかと思う。もう少し言えば

   「東京に出れば何とかなる」

という幻想が、崩壊するのではないかと思う。これは、東京という、人口密集地のメリットで

   「多様な人が存在する」
    そこで
   「色々な人が受け入れられる、集団ができていた」 

    例えば
   「小劇場やライブハウスを拠点とする、メジャーでないアーティストとそのファン」
    という関係は、大人口の中での、一部のクラスタとして成立する。 

という状況が、コロナによる接触禁止で、崩壊する可能性がある。

 これを逆にとって、ネット配信を使い、地域のこだわりがない、世界への進出を果たす人もいるだろう。

 しかし、今までの漫然とした発想での

   「多くの人がいる東京なら何とかなる」

という考えは、成立しなくなるのではと思う。

 もう少し考えれば、

   「多くの人間がいるから、安い賃金で使い捨てる」

という発想も崩れるのではないか?

 このような問題を考えるのが、政治の役割ではないかと思う。

 大阪は、西成の特定地区問題で、これについてある程度理解しいる。しかし小池都知事にこのような理解力があるだろうか? 

2020年8月 9日 (日)

一発勝負の必要性

 昨日書いた、記事に関して、逆に

  「強烈な勝利」

の必要性に関しても、もう少し考えるべきだと思った。確かに、織田信長も桶狭間の戦いで勝つまでは、無名であった。

 このように、

  「無名のモノが世間に認められる、一番の早道は、強烈な勝利」

である。

 私自身、現在も無名の立場だから、

  「強烈なデビュー作」

があれば、もう少し皆の注目を引けるから、意見を述べても、受け入れてくれる人が増えると思う。

 ただし、いつも強烈な話だけでは、無理がでる。織田信長も、桶狭間の奇襲以外は、正攻法の戦いをしている。確かに、新機軸を考えているが、無理はしていない。(油断はあったから、本能寺で打たれたが!)

 このように考えると、一度は強烈なことをしても、後は持続可能な安定に持って行くのが大事だと思う。このバランス感覚が大切だと思う。 

2020年8月 8日 (土)

勝利の確保と言うこと

 昨日書いた、記事に関連して、もう少し議論しておく。今回は、海軍の発想と陸軍の発想という観点で、もう少し考えてみたい。なお、今回考える軍隊は、戦前の日本陸海軍を想定している。もう少し言えば、

  「日露戦争で発想が止まった軍隊」

である。つまり

  • 海軍は日本海海戦
  • 陸軍は奉天の戦いか旅順の攻略戦

というレベルの発想で進化が止まった軍隊である。こうしてみると

  • 海軍の場合は、相手の船が沈めば終わり
  • 陸軍の場合には、相手が逃げれば、それを追う

という違いがある。つまり、

  「陸軍の方が継続的な戦いになる」

ということである。一発勝負で、相手の艦船を多く沈めた、日本海海戦は、内外に日本の勝利をアピールした。この功績は大きいが、発想として

  「一発勝負重視」

という偏りがでてしまう。

 一方、陸軍の戦いは、相手を撃退し進軍したら、その場できちんと足場を固め、次の準備をしないといけない。また必要に応じて、繰り返しの攻撃も必要になる。そのためには、戦う人材をきちんと確保することも、戦争指揮には大切なことである。

 このように考えると、

  「海軍善玉、陸軍悪玉」

という単純な発想がおかしいことがよくわかる。

 一つの戦いで勝利したら、その後の足場をきちんと固め、次の戦いの準備をする。このような、継続的な戦い方が大事であり、一発勝負に全てをかける発想は危険である。 

 

2020年8月 7日 (金)

小説家が政治に関与することの危険性

 前に私は

  「政治に対して、全体像を描く力は、学者より小説家の方があるので、政治家には小説家の方がよい」

という議論を書いた。

 しかし、よく考えてみると、小説家の危険性もある。今回はこの問題を議論してみたい。

 私が、小説家の危険性を感じるのは、

  「どうしても、派手な場面に注力してしまう」

側面である。もう少し具体的には、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で考えてみたい。この作品は、文句なく名作だろう。しかし、この作品に切り捨てられた、多くのモノがある。

 例えば、秋山好古の騎兵の使い方であるが、実際の戦い方は、

  「馬に、機関銃や鉄条網や杭を運ばせ、適宜野戦での陣地構築を行い、コサック騎兵を撃退した」

という戦い方である。これは見方によれば

  「長篠の戦いの小規模版を何度も実行した」

という、素晴らしい戦法である。

 しかし、

  「小説的には、一撃で決まる『桶狭間の奇襲』を評価する」

為に、この評価は消えている。

 更に言えば、司馬遼太郎自身が述べているが

  「海軍ひいきの陸軍嫌い」

である。

 しかし、日本海軍の性格は

  「日本海海戦のように一発勝負」

発想である。確かに小説的には、一発勝負は美味しいだろう。

 しかし現実の政治や仕事では、

  「一つ一つの小さな勝利の積み上げ:

の方が重要である。その発想では、まだ陸軍の方が勝っている。

 海軍的な、

  「一発勝負発想」

なら、持続可能性がなくなり、その延長に特攻がでる可能性すらある。陸軍の特攻の方は、まだ機会があれば、次の攻撃に備えて、生還する余地が残った場合もある。

 このような危険性について、もう一度見直すべきだと思った。 

2020年8月 6日 (木)

大衆の支持を得た専門家が必要ではないか

 今回のコロナ危機に関して、色々な専門家の発言が飛び交っている。

 そこで一つ思いついたことは、専門家の立場の不安定な感じがすると言うことである。例えば、

   「八割おじさん」

という揶揄などである。

 この問題は、もう一歩踏み込むと

   「専門家は、自分たちの村だけで、認め合っている」

という側面があるが、

   「そこでの権威が一般大衆にも通用する」

こ思い込んでいる傾向がある。

 しかし時代は高学歴化し、ネット情報があふれている現状では、

   「単なる、地位などの権威は通用しなくなる」

傾向がある。

 そのため、自分の考え方をしっかり説明して、

   「大衆の支持を得る専門家」

になるべきではないかと思う。

 または、

   「専門家を評価し、保証する役割」

を誰かが持つのも一案かもしれない。

 そのようにしないと、権威便りの専門家は自滅するのではないかと思う。

2020年8月 5日 (水)

現在日本社会の歪の原因について

 現在の日本社会に関し、歪みの原因が見えてきたので、忘れないうちにメモをしておく。発端は、JAICO産業カウンセリングNo384の小熊英二の記事にある。

 小熊は日本社会における働き方を

  1. 大企業型 26%
  2. 地元型  36%
  3. 残余型  38%

と分けている。私はこの分類は当たっていると思う。ただし、残余型には、非正規労働者が含まれるため、大企業型から流れ込む人がかなりいて、増加傾向にあるかと危惧する。

 さて、ここで大事なことは、日本の教育などのシステムが、1/4ほどしかない、大企業型を目標としていることにある。つまり、1/4しか枠がないのに、そこへ向けて少なくとも1/2程度の人間を向かわせる。当然はみ出した人間の対策が必要となるが、それが不十分なのが一つの問題点だと思う。

 更に言えば、大企業の中でも、出世競争で勝ち残るのは1/4ぐらいである。

 このように1/4の人財の育成というか、発掘のために、残りの3/4を切り捨てる。これが現在の歪みではないかと思う。

 さて、このような発想はどこから来たのだろう。私は、明治以降の急速な成長路線に原因がある、と考えている。特に、軍隊的な組織を考え

  「よい司令官を選抜するために篩いをかける」

システムがそのまま他にも適用されている。

 この問題をもう少し踏み込むと、西洋文明の特質である

  「大陸国家は常に侵略の危険性がある」

という背景がある。そのような世界では

  「よい司令官を得ることは生存条件である」

ために、他を犠牲にしても、選抜することは必要悪かもしれない。

 しかし、明治までの日本の文明をよく見ると

  「多くの開拓できるフロンティアがあり、豪農や豪商が私財をなげうってでも指導した」

という、多様な人材の活躍があった。

 このような多様性をもう一度見直す、それが本当の人材の多様化であり、地域に密着した活性化ではないかと思う。

2020年8月 4日 (火)

退院しました

 先ほど退院し、自宅に戻りました。

 まだ通常運転は難しいですが、ぼちぼちならしていきます。

 とりあえずご報告いたします。

2020年8月 3日 (月)

一本道の人材育成の限界 

 現在の人材育成の多くが、一本道というか、単一価値観で動いている。

 学校なら、良い成績で、企業なら、利益をあげて出世、という感じである。

 しかし、学校教育で、志望校に入れな人はどうなるだろう。会社で、出世と言われても、課長のポストは一つしかない。数年の盥回しはしても、恩恵を受ける人数は限られている。このように、単一路線で煽っておいて、

「あなたのポストはありません」

と言われても、おかしくなるだろう。

 一方、単一路線で、1度も挫折感を経験しない人間も、何か怖いものを感じる。一部の霞ヶ関官僚にも、それを感じる。

 例えば、前の東京都知事M氏が、有るテレビ番組で、

「国家公務員の成績優秀者を連れていったので、都の役人の反発を買った。彼らは、(東大の)成績が劣ったので国家キャリアになれなかったコンプレックスがある」

と言っていた。

 このように、大学の成績という、一本尺度しかない人間が国を動かして良いのだろうか。

2020年8月 2日 (日)

効率的な部分をどの程度とすべきか

 現在の社会の歪みの原因の一つは、一本道の学校教育である。

 「良い大学に入り、大企業に正社員で入る」

この単一価値観で頑張っている。

 この動機付けが成功する場合もある。

 現実に、日本の大企業はそれなりの成果を出し、踏み止まる。

 しかし、この流れからこぼれた人間が、存在する。この人達の救済と、従来型の良いとこの、両面を生かす政策が必要である。

2020年8月 1日 (土)

戦争の正義とは

「戦争は無条件に悪い」

という議論が現在の日本では主流であるように見える。特に「知識人」の間ではこの姿勢が必要だろう。

 確かにに、昔の

「決闘の勝者が正しい」

発想の延長としての

「戦争で決着」

は、捨てられべきだと思う。

 しかしながら、

「自分たちの生活を守る権利」

は、固有のモノであり、この為の

「防衛的戦争」

は、権利として持つべきだろう。

 この場合の正義は

「大衆の納得した支持」

が支えると思う。

 いくら有能でも

「独裁者が行う戦争」

正義から外れると思う。

 尤も、衆愚政治の時に、国を守る人間が、後に独裁者になるケースが多い。

 このためにも、大衆の納得した政治が重要ではと思う。

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