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2020年8月 7日 (金)

小説家が政治に関与することの危険性

 前に私は

  「政治に対して、全体像を描く力は、学者より小説家の方があるので、政治家には小説家の方がよい」

という議論を書いた。

 しかし、よく考えてみると、小説家の危険性もある。今回はこの問題を議論してみたい。

 私が、小説家の危険性を感じるのは、

  「どうしても、派手な場面に注力してしまう」

側面である。もう少し具体的には、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で考えてみたい。この作品は、文句なく名作だろう。しかし、この作品に切り捨てられた、多くのモノがある。

 例えば、秋山好古の騎兵の使い方であるが、実際の戦い方は、

  「馬に、機関銃や鉄条網や杭を運ばせ、適宜野戦での陣地構築を行い、コサック騎兵を撃退した」

という戦い方である。これは見方によれば

  「長篠の戦いの小規模版を何度も実行した」

という、素晴らしい戦法である。

 しかし、

  「小説的には、一撃で決まる『桶狭間の奇襲』を評価する」

為に、この評価は消えている。

 更に言えば、司馬遼太郎自身が述べているが

  「海軍ひいきの陸軍嫌い」

である。

 しかし、日本海軍の性格は

  「日本海海戦のように一発勝負」

発想である。確かに小説的には、一発勝負は美味しいだろう。

 しかし現実の政治や仕事では、

  「一つ一つの小さな勝利の積み上げ:

の方が重要である。その発想では、まだ陸軍の方が勝っている。

 海軍的な、

  「一発勝負発想」

なら、持続可能性がなくなり、その延長に特攻がでる可能性すらある。陸軍の特攻の方は、まだ機会があれば、次の攻撃に備えて、生還する余地が残った場合もある。

 このような危険性について、もう一度見直すべきだと思った。 

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