ご縁のあった人たち

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2020年9月30日 (水)

「一隅を照らす」について

 日本の天台宗の教えに

「一隅を照らす」

https://ichigu.net/index.php

がある。これに関しては、

「自分の持ち場をきちんと行う」

と言う解釈がある。しかし元の中国の故事は

「一隅にあっても千里まで光が及ぶ」

と言うことらしい。

 私の理解では、

「自分の持ち場で輝く仕事をする」
ただし
「外の世界に出て行っても光っている」

と言う

「グローバルでも通用する力を持ちながら、目立たないところでも一生懸命」

姿勢が本当の

「一隅を照らす」

ではないかと思う。身内だけの評価で、光っているのは、

「一隅で輝いている」

様に見えるかも知れないが本物ではないと思う。

2020年9月29日 (火)

日本の権力はどこにあるか? ー無責任な権力の怖さー

 今朝の朝日新聞を見て、相変わらずの安倍前首相批判の文体だと思った。そこで、少し考えてみたが、

「前首相の病状悪化の原因の一つは心労である。」
そこまで追い込んだのは誰か?
「野党勢力にはそこまでの力はない」
「まだ朝日新聞等の大新聞の方が力がある」

と言う事態が見えてきた。ただし、私が怖いと思うことは、新聞などのまずメディアの多くは

「自分が保有している権力に足して自覚がない」
つまり
「政府の権力にいじめられている弱者の格好をしている」

と言う状況が問題ではないかと思う。昔、大阪府の知事・市長であった、H氏に対して、出自などの卑劣極まりない記事を書いたときに、彼が家族まで巻き込まれた事態に激怒し、記事差し止めを要求したら

「報道の自由が権力で阻害された」

と、

「弱者の振りして逃げようとした」

図式が、

「権力を持っている人間の自覚のなさ」

を示している。

 しかし、この問題を考えると、我が国の権力は本当にどこにあるのか、もう一度問い直すべきではないかと思う。私が思いつく候補は以下のようになった。

  1. 政府などの政治的権力
  2. マスコメディア
  3. 学者や知識人
  4. 企業(経営者?)
  5. 労働組合など
  6. 学校
  7. 世間

これらの権力関係者は、自覚がない者も少なくない。それどころか、

「弱者の格好をして攻撃する」

得意技を持つモノもいる。また、相互に絡み合って、お互いが支持し合うことで、強固になる例がある。例えば、

「知識人(学者)の意見が、マスメディアに載る」
これで
「マスメディアは自分の意見の裏付けと元気になって報道を増やす」
一方
「学者は大新聞が取り上げたと言うことで発言力を増す」

と言うような形で、自分たちで雪だるまを大きくしていく。このような現象が起こっている。

 伊藤は、山本七平流の「空気」に関して、「政治・マスメディア・世論」の3面の内、二極が同調したら「空気」が発生すると指摘した。

 この構造を多極化した現在社会の、SNSなど多様なるコミュニケーション環境で、もう少し考えるべきどとおもう。

http://www.mediacom.keio.ac.jp/publication/pdf2006/kiyou56/kojin/ito-yoichi.pdf

2020年9月28日 (月)

現在の経済的閉塞感を打破するには「神様」を生み出すのが一方法

 今朝の朝日新聞を見ていたら、

「最低賃金を政治で決める」

話が載っていた。確かに、このような規制は効果があるだろう。しかし、本質的な問題点は解決していないと思う。私が観るこの問題の本質は

  • 経営者側:「人件費抑制でしか利益を見いだせない」
  • 働く側: 「付加価値の高い労働ができていない」

がある。つまり、

「機械的なレイバーに対して、支払賃金を叩くことで利益を生む。」

この体での発想で経営が行われている。

  • 高付加価値のある製品やサービスを生み出し、提供することで利益を生む。
  • そのために人材を育成し大切にする

このような発想が生まれていない。これが経営側での、根本的な問題の一つだと思う。

 次に労働者側の問題だが、この問題には、

  • 全ての人が『高付加価値』の創造的な仕事で成果を出せるか?
  • それが難しいなら、使われる人を生かす管理職の育成は?

と言う問題になる。どこかで高付加価値を生み出す必要がある。それを、全員に丸投げせず、ある程度は絞った人材に、期待して

「XXの神様」

として大衆を指導していく。このような形がよいのではないかと思う。

2020年9月27日 (日)

議論では極論となるが実際の答えは?

 議論の場では極端には知ることが少なくない。また、極端な事例を見せることで、本質の理解を進めることもある。しかし、現実の状況はその両極端の間にあることが多い。一例として、会社の存続の問題に関して、考えてみた。これは、大分昔になるが、K首相とK議員の対立から大選挙になった事案の根底にある議論である。

<K議員側の意見>

 地元の経営者が自殺した!このような悲劇を出さないように、会社の経営に対して支援すべきである。
 国債を出してでも、支援金をばらまけ!

<K首相側の意見>

 ゾンビ企業を助ける必要はない!市場原理に任せて多くの会社を作り、だめな会社は潰せばよい。
 財政再建のためにも無駄な補助金等出すべきではない。

この選挙では、「財政再建」の主張というか、「バラマキ体質反対」という民意が通り、K首相の誕生となった。

 この流れで、会社法も改正になり。

「簡単に会社ができるように資本金の縛りを緩める」

ことになった。しかし、

「市場原理に任せた場合には、敗者の生活が苦しくなる」

と言う配慮が弱かったため、現在色々な人が苦しんでいる。

 逆の見方では、

「市場原理が弱いため、まだ既得権益で、美味い汁を吸っている人がいる」

と言う言い方もある。

 この問題に関しては、

「本質的な解決は、景気回復にある」

と言う条件設定の見直しが必要だと思う。その上で、

「ゾンビ企業は退陣、しかし残すべき企業は支援」

と言うバランスのとれた政策が必要だと思う。

 このような全体像を上手に描き、国民に納得させる。これが政治の仕事ではないかと思う。

2020年9月26日 (土)

存在しているモノは安定したモノ

 社会に存在しているモノについて考える時に、私たちは全てを観る力がない。そこで、

「見えているモノで考える」

ことがおおい。これは、一つには

「認識しやすいモノ」

を観るという事で,理論的な知識や事前体験などの先入観に導かれる。もう一つは

「安定して存在するモノ」

である。不安定なモノ、移ろい行くモノ、消えてしまうモノは認識する事が難しい。

 さて、安定の逆で不安定という事を考えてみよう。世の中で不安定なモノで存在しているモノは、何らかの支えが行われている場合が多い。これは物質的なモノだけでなく、精神的なモノでも起こる。つまり

「皆が納得した安定したモノ」
なら
「反対意見を言う者がいてもよい」
しかし
「不安定な状況なら意欲を無理矢理かき立てて維持する」
そこでは
「反対意見を弾圧する」

と言う状況を多く見受ける。

 しかし、このように

「無理して意欲をかき立て活性化したモノはいつかは潰れる」

ことになる。

 持続可能なモノは、安定している事が大切である。

2020年9月25日 (金)

変革期の政治指導とはどのような姿がよいのか

 現在の政治について、変革期というか危機の時代という、厳しい側面がでている。このような状況では、全体を観た総合的判断を、速やかに行う必要がある。例えば、コロナ流行に対する、行動制限のような対応である。こうした対応においては、

民主主義の制約での意志決定の遅さ

が一つの弱点であると、特に中国などから言われている。確かに

独裁国なら意志決定は速い

これは確かである。ただし、

「独裁国は間違った方向に進む時ブレーキが効きにくい」
「結局革命でしか止められない」

という欠点がある。

「民主主義の利点は、適切な反論ができ、多面的な見方ができる」

ので、大きく狂う事が少なくなる。

 しかしながら、

「従来の延長で上手くいかない変革期には、新しいモノを理解してくれる人が少ない」
「従って、強烈なるリーダーの誘導も必要である」

という考えもある。

 私は、この考えに対して、日本教の発想で

「大衆に理解させる思想教育の普及」

を行って、

「新しい世の中のあり方を提示し、大衆の納得を得る」

方向で、学問界と政治の世界が協力するのがよい解決だと思う。

 現在の日本は、この関係が上手くいっていないように思う。

2020年9月24日 (木)

デジタル化が進まない理由の一つはコンテンツ重視の体質にあり

 日本のディジタル化は、諸国の中でも遅れているらしい。この理由に関して、色々な観点から議論がされているが、私は日本教的な体質から、少し意見を言っておく。まず、日本教の体質は

  1. 上からの命令だけで動かない
  2. 多くの人たちが納得すると一気に動く

という面がある。これが、西洋文明的な「契約で縛られた」、共産主義などの「独裁者の命令に従わせる」世界とは根本的に異なっている。西洋文明では、リーダーシップというかたちで「命令に従う契約」を結べば、いやいやでも仕事が進む。また中国でも、中央からの目入れに無理矢理従わせる形で、新技術の導入は速やかに行われる。ただし、定着するかは別問題である。腹の中で逆らうのは、どちらにもある。

 さて、もう一つ日本の体質として、

「組織内での蓄積重視」

がある。これは企業内教育なども関連し、今までの前例重視という事で、紙の資料が残っている限りはそれに縛られるコトが多い。

 これは逆に、ディジタル化したコンテンツが充実すると、一気に仕事が変化する事がある。

 ディジタル化を議論するなら、コンテンツの充実に関しても、しっかり考えるべきだと思う。

 

2020年9月23日 (水)

専門家と一般大衆の両方が満足する政治

 今回のコロナ危機の対応を見ても、専門家の意見と大衆の感覚に、ずれがあるような場合が多い。本来、専門家の意見を、総合的に見て判断するのは、政治の役割であるが、現在の政治にはこれが上手くできていないように思う。もう少し言えば、

「専門家の扱い方を政治家が理解していない」

為に、色々な問題が起こっている。

 さて、この問題に関して、本質的な理解をしているのが、元大阪府知事・大阪市長の橋下徹である。かれは

専門家の厳密な議論は大切にしないといけない。
しかし、全体的な判断は政治家が方向付けをしないといけない。
また、一般大衆が「言葉上手くいえないが不満を持っている」時にはそれを大事にしないといけない。

と、専門家・政治家そして一般大衆の関係を、きちんと考えている。ここで、専門家と一般大衆の感覚について、彼が昔ある番組で、裁判員裁判制度に関し発言したコメントが本質だと思う。

プロ裁判官や法律家は、罪の認定等の専門的な議論は、きちんとできる訓練を積んでいる。しかしながら、一般大衆の感覚も重要である。例えば、
「飲酒運転」
に対して、法律の専門家の議論なら
「酒の影響で判断力低下したから、故意ではない、従って減刑の理由になる」
という方向になるが、一般大衆の意見は
「飲酒して運転すること自体が厳罰にすべき」
であり、この感覚を大事にすべきである。そのため、裁判員制度で意見が出るのは望ましい。

このように、大衆の意見が方向付けて、専門家がそれを実現する。このような政治が必要ではないかと思う。

2020年9月22日 (火)

西洋文明の「支配者」とは

 アリストテレスの「詩学」を読んで、プラトンの「国家」との違いに、少し戸惑っている。プラトンの考えでは、

「哲学がイデアに迫る最善の手段で、詩は劣った手段である」

となっているが、アリストテレスの発想では

「悲劇は神の意向を展開したモノ」

という感じで、哲学と同じレベルに置いている。私個人の今までの偏見では、アリストテレスの方が、「哲学者優位」を言いそうだと思っていたが、諸学に通じた立場では、詩についても平等に評価したらしい。

 しかしながら、西洋文明には

「優れたモノが大衆を導く」

という発想がある。更に言えば

「市民と奴隷の違い」

があり、

「支配者の立場を根拠づける、理論武装としての学問」

という伝統が潜在しているように思う。

 昨日ちらっと書いたが、奴隷制度の根拠になる、人種差別には、『(科学的に)劣性と判定された人種』を、『有能な人種が支配する』という、『科学的』根拠付けが行われていた。その後継者が、ヒットラーである。

 しかし、よく考えてみると、西洋文明には、オリエントの宗主権契約の時代から、支配者の正当化の理論を探していて、学問もそれに使われていたように思う。

2020年9月21日 (月)

大坂なおみの苦しみを理解するためには

 アメリカで活躍している、テニスプレイヤーの大坂なおみが、アメリカの人種差別による被害者の名前をマスクに書いて、戦っていた。

https://naomiosaka.com/special/

 私たちが、彼女の背負っている物を理解するためには、アメリカの奴隷制度の歴史を知らないと行けない。例えば、マークトウェインの「まぬけウイルソンの悲劇」を読んだら、アメリカの奴隷制度で、『黒人』と判定された人たちの人権が蹂躙されていたか解るだろう。

 

更に踏み込めば、西洋文明における奴隷制度の位置づけも、知っておくと理解が深まる。古代ギリシャの時代から『民主制度』があったと言うが、その『民主制度』は、『奴隷制度』の上に成立していた。これを理解していないと、西洋文明の支配者と支配される人間の関係が見えてこない。

 また別の面から考えると、進化論等の『科学的思考』も、『人種差別の理論的根拠』として使われていた。

 西洋文明の、人種差別は『科学的根拠』というカルト的な信仰の上で、成立していた。

 このような歴史を踏まえた上で、大坂なおみの悲痛な声に向き合うべきだと思う。

2020年9月20日 (日)

地域のリーダーを中央でコントロールすべきか

 大阪での『地域政党維新』の活躍を見ると、中央の権力と一線を画した、地域の力というモノを感じる。ここから少し、明治維新とその前の江戸時代を考えてみた。まず、江戸時代には、各藩が独自性を持って支配し、さらに地域の豪商・豪農や寺などが、民衆を指導していた。これはよく言えば独自性を持った指導であるが、悪く言えばバラバラで、玉石混淆の状況であった。

 これに対して、黒船来航やアヘン戦争による西洋文明の侵略の危機は、国としてまとまった対応が必要になる。そのためには、中央集権的な政策で、指導を一律に行う必要があった。色々な制度ができたが、中央の指導で全国一律という発想が根底にある。この状況で、指導者としては、学校教師や巡査などの役人たちが働いた。

 こうした中央のコントロールで、一律な社会を作り、人材の底上げを行う発想は、昭和の高度成長までは無事働いたと思う。

 しかし、多様化した社会への対応には、『地域の独自性重視』の発想を、もう一度考えるべきである。

 ただし、江戸時代のような、野放しではなく

「他の地域の良い物は取り入れ、間違いを指摘される開放性」

を持った上で、地方の独自性を生かしていくべきだと思う。

 数あわせや、他所の模倣だけでは、地域の活性化の指導者は生まれない。しっかりした方法論が必要だと思う。

2020年9月19日 (土)

東大法学部の力とその限界について

 国家公務員の働き方に関して、河野大臣が何かメスを入れるらしい。これはよい事だと思う。しかし、国家公務員の過労状況に関して、ここでもう少し踏み込んでみたい。まず明治の国家公務員育成に関してであるが、先に帝国大学法学部ができて、その後官僚組織ができていった、歴史的経緯を抑えておく必要がある。つまり、国家公務員は、東大法学部出身者を前提の、働き方を考えていた。

 さて、東大法学部出身というのは、どのような力を持っているのだろう。私は、1冊の本がそれを物語っていると思う。

 

この「法学の基礎」は、「法学の土台」とも言うべき本で、法律を作るための配慮すべきコトなどを、網羅している本である。このような、基礎教養を持っていれば、法律に関する検討も、比較的短時間でできるだろう。昔、ある番組で橋下徹弁護士が

「霞が関の官僚は、法律を作るときに、大宝律令まで調べる」

と半ば揶揄していた。しかし、国民の権利に関して整合性を取るなら、既存の法律の立場を調べるのは当然であり、行くところまで行くと律令制度まで行く。これを納得し、要領よく調べるのが、「法学の基礎」などで鍛えられた人財だろう。

 このように考えると、こうした「基礎的な配慮」のできない人材が、長時間労働で苦しむ状況が見えてくる。

 ただし、この発想は、「法学の基礎」で、要領よく仕事をしようとする人間にも、ブーメランで還ってくる。現在の歴史研究では、律令制度の時代でも、実質の「公地公民」は不成立な部分が多く、私有地などの「律令の抜け穴」が多く存在する、という意見がでている。これを踏まえると、

「前例検討で、大宝律令を調べた」

だけでは済まなくなってしまう。こうして、新たな残業地獄が生まれる可能性が出てくる。

2020年9月18日 (金)

記述が難しいモノをどのように表すか

 近頃、社会科学の実用化について色々と考えているが、根本的な問題として

「社会科学の対象とは何か?」
「それはどのように表現されるのか?」

と向き合ってみた。

 この問題を

「関係や動き、そして働きを、どのように記述するか?」

と具体化してみた。もう少し、物理学と比較すると物理学では、

「対象の物体は明確に存在する。」
「物体間の関係は数式で表される程度に明確である。」
「動きに関しても、微分などの数学的道具が備わっている。」

という恵まれた条件がある。

 一方、社会科学の場合

「対象は社会という曖昧なモノ」
「関係や動きを数式で記述すると、部分的な表現となる」

という段階である。

 このような社会科学の記述には

  1. その世界のモデル(舞台と登場人と登場物)を作り
  2. その上での典型的ストーリーを展開し
  3. 一般的な規則を見いだして理論化する

段階を踏む必要があるのではないかと思う。

 もっと言えば、登場(人)物の特性(本性)を、きちんと記述し、その一般性を見いだすなどの手順があるかも知れない。これは、ソフトウエアでシミュレーションする側の発想に近い。

2020年9月17日 (木)

物理学的な世界観と社会科学的な世界の見方

 大乗仏教の「唯識」について、少しばかり本を読んでみた。

「唯『識』だけがある」

という発想は極端だが、社会現象などを観るときに、

「そのようなモノが実在する」

と思い込む危険性については、よく意識すべきだと思う。考えてみれば、私たちは

『物理学的世界観』

の影響を受けいている。天体や機械などの

「物理学の対象」

は実在する。この発想は、社会科学には通用しない場合がある。例えば、

「搾取する資本家、搾取される労働者」

と言われても、

「株でもうけている労働者は?」

という風に、理論通りの実在は、存在しない場合もある。

 更に言えば、

「理論的な知識の力で、社会の現象を観る」

場合も多い。極端な話、貨幣経済という概念が無い人が、日本の現状を見たら、何が解るのだろう。

 このように考えると、社会科学の場合には、世界の見方を学びながら、理論的な知識を充実させるべきだと思う。

2020年9月16日 (水)

実現重視の日本と体制から入る西洋文明

 先日書いた、明治の日本の近代化

「先に人材育成を行って、その後役所を作る」
例えば
「帝国大学が先にでき、その後に文部省ができた」

という風な、

「実現のための人材育成を先に行い、人材が揃えばその後は組織を作る」

発想である。これは

「組織を先に作り、人材を募集する。調達する。」

発想とは根本的に異なっている。この発想について、議論していくと面白いモノが出てくる。まず、明治維新に関しては、

「松下村塾など、人材育成の場が、社会を変える母体になっている」

という面がある。しかし、これだけではない。日本人の発想の根本に、

「全体を観て、実現可能性をきちんと考え、その後で実行する」

がある。今回のコロナ対応でも

「PCR検査を抑える。なぜなら、陽性者を受け入れる体制が整っていない。」

という発想で、諸外国から

「日本のPCR検査比率は低いので、発症者数は怪しげ!」

という批判を、のらりくらりと躱しながら、医療崩壊を回避した行政手腕がある。

 このような、

「実現体制まで、総合的に観てから動き出す」

体質は、日本の美点である。ただし、

「緊急事態への対応が遅れる」

リスクをきちんと認識しないと行けない。

2020年9月15日 (火)

54万アクセスの御礼と近況報告

 先ほどアクセスカウンタを確認したら、五四万を超えていた。5月17日に五三万アクセスを超えてから、四ヶ月で一万アクセスをいただいた。ありがたい事である。

 人気記事は相変わらず、正社員登用関係が強いが、

  図と絵との違い

  『FTA』と『なぜなぜ分析』

もそれなりにアクセスいただいている。

 又近頃は、色々なとがった意見のページにアクセスいただく読者がいて、うれしく思う事が多い。深く感謝の意を表する。

 さて、この5月から私自身も、色々とあった。5月の待つぐらいから発症していた皮膚病が、国の難病指定の天疱瘡と判明し、6月末から1ヶ月以上入院となった。そこでは、高単位のステロイド投与や、血液製剤の点滴を受け、現在はステロイドの減薬中である。ようやく、ステロイド服用量は最大時の半分ぐらいに減ったが、まだ先は長い。今でもステロイドの副作用で、顔が丸くなったし、字を書くときに手が震える。

 このような状況だが、まだまだ頑張ってこのブログは書き続けるので、皆様のご愛読ほどを願いします。

 

  

2020年9月14日 (月)

社会科学の実用化に関して

 先日から書いている、

「学問をする価値」

に関連して以下の問題を考えてみた。

「自然科学は、物理学から工学という実用の流れがあった。社会科学にそのような流れはあるか?」

この問題に関しては、昭和の時代なら一つの答えが出てくる。

「マルクス主義に影響を受けた、学校教育は忘れてもらって、社会に出てから実務を習う。」

という事で、

「文系の学生に関しては、学生時代の勉強を無視する。」

という流れができていた。ただし、一部の法学部系などでは

「法学部の論理能力を生かす。」

という面もあったが、これは例外に近い。

 その後、平成の時代には、

「アメリカ仕込みのMBA(経営学修士)手法を生かす」

という形の、大学教育が即戦力という面が出てきている。簿記などの資格取得も一つの流れだろう。(平成の終わりには、マルクス主義が収まった事も影響している。)

 しかし、もう一歩進めて、

「社会科学をベースにして、社会のシステムを提案する、社会技術や社会工学はないのか?」

という疑問が、まだ残っている。

 この問題に対して、栗本慎一郎が面白い意見を出している。

明治の体制では、大学を作ってから、文部省ができた。法律に関しても、法学校を先に作った。

社会工学などという発想でなく、その場に対応した政策が行われた。

これは本質を突いていると思う。また「社会技術」という本も出ているので、もう少しこの問題を考えていきたい。

2020年9月13日 (日)

実現のための専門的な智慧の働きについて

 昔書いた、「中間層を育てているか?」という記事に、アクセスがあったので見直してみた。

 当時は、管理職の育成に関して考えていた時期だったので、管理職の役割を中心に考えていた。今回は、理論検討側の立場で、中間管理職などの役割を考えてみた。今回の発想は、真言密教などの五智の発想である。五智とは

 https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E6%99%BA-65136

にある。

(1) 究極的実在それ自身である智 (法界体性智)
(2)
のようにあらゆる姿を照し出す智 (→大円鏡智)
(3)
自他の平等を体現する智 (→平等性智)
(4) あらゆるあり方を沈思熟慮する智 (
妙観察智)
(5) なすべきことをなしとげる智 (→
成所作智) の5つ。

大日如来の力を五つに分けたモノであるが、ここで実行段階の「成所作智」を独立させている。これは、唯識の教えなら、意識のレベルで考える、

「阿弥陀如来の理想的な浄土」
のあり方を、私たちがいる娑婆世界で
「実現するために方便を説くお釈迦様」

の力と理解できる。

 このように、実現するときに、現実に合わせる努力を分離し、

「とりあえず理想像を描く」

ことは、結構役立つ。現実の多様さに向き合いすぎると、いつまでも完成しない。ある程度見通しを立てて、実行時には状況に合わせて修正する。

 このような考えも重要である。

 そのためにも、中間層の活躍が必要である。

2020年9月12日 (土)

納得と理解の違い

 昨日の話に関連して、「論争・学力崩壊」では、

  1. 理解型の子供
  2. 納得型の子供

の違いについて、少し取り上げていた。私はこの問題は、社会の分断に関連して議論すべきだと思う。

 まず、理解型の子供は、

先生などから与えられた範囲で、きちんと学んで理解しようとする。

ので、効率よく学校教材を吸収していく。しかし、理解が上滑りになる可能性がある。

 一方、納得型の子供は、

学校で学ぶ事を、自分の体験等に照らし合わせて、納得しようとする。

ために、学問の吸収速度は遅くなる。しかし、一度納得すると、本質的なモノまで解っているので、応用も利くし新しい事を実行する可能性もある。

 さて、社会の分断という観点で、この問題を考えると、昭和の時代、特に高度成長の前には、中学の教育までには、

「納得を重視した面」

もあった。例えば、中学で学ぶ幾何学は、

「まず図形を描き、それを移動して重ねる事で、合同の概念を教える」

という、『直感重視』の教育から、徐々に定義や定理の証明に入っていった。これが、数学教育の偉い先生方が、

「幾何学を厳密に教えないと行けない」
「幾何学ではだめだ、整数論がよい」

等と言い出して、しかも田中角栄の教員の処遇改善で、高学歴教師の増加が起こり、一気に

「厳密なる公理系による学問を理解させる」

流れになったように思う。ここでは、学問は

「専門的手法をきちんと行う」
コトを重視し
「直観的に理解し、納得する」
コトを軽視する。言い換えると
「素人は口出しするな、専門家に任せろ」

 というう空気になってしまった。この結果、

  1. 厳密なる体系での推論を行う専門家
  2. 学問の価値を認めない大衆

の分断が進んだのが平成の時代ではないかと思う。

 しかし、数学の厳密さの前に、直観的な納得を求める幾何学も大事だと思う。更に言えば、

「けんかの道具でなく、社会の全体像を見せる社会学」

等も、必要ではないかと思う。これらが上手く働く事で、大衆参加の社会委運営になり、そのための学問知識を得る人が増えるようになると思う。

2020年9月11日 (金)

学力崩壊と社会の分断は関連しているのではないか

 少し古いが、中公新書クラレの「論争・学力崩壊」を読んだ。色々と気づきがあったので忘れないうちに書いておく。

 この本でも指摘しているが、

「日本の高度成長を支えたのは、中流階層の知的な力による」

という観点は、私もメーカーにいた立場で納得する。QCサークル活動など、現場力として色々な人が貢献していた。

 しかし、現在の学力崩壊は、そのような「一般教養」が危うくなっている。この理由は

  1. 教える側の問題としての時間削減
  2. 教わる側の問題としての意欲低下

の両面がある。

 さて、私が注目するのは、教わる側の意欲低下についてである。ここでもう一歩深掘りすると

「高度成長時代ぐらいまでは、一般人の参加の余地があった」

という感触がある。しかし、いつの間にか

「専門家の社会に口出しするな」

という空気が生まれた感じがする。このような

「専門家と素人の分断」

から、

「素人は学問しても発言できない」
「学問の価値がない」

という流れになったのではないかと思う。

 この流れをもう少し見ると、

「昔は、素人に解る直観的説明を大事にしていた」
  例えば、定規とコンパスの幾何学
「現在は、専門家の厳密な議論法を重視いている」
  ヒルベルトの公理系による幾何学

という風に、

「専門家の学問を重視し、一般人の直観的理解を排除する方向へ、教育が向かったため学問の分断を生んだ」

という仮説である。

 専門家の地位は、それなりの評価が必要だろうが、一般の理解という裾野を軽視していると、学問自体の存続が危なくなると思う。

2020年9月10日 (木)

専門家の暴走について

 今回のコロナ騒動において、一部の専門家が

「このままで行くと~~」

という過激な発言を行っている。

 この問題に関して、きちんと評価する人が少ないように思う。実は、この問題を一般化して考えると、

「ポジティブ・フィードバックによる爆発モデルによる予測」
しかし
「資源の枯渇等の外部環境変化で爆発までに収束する」

という状況があてはまる。つまり

「現状の延長なら、事態は雪だるま式(ねずみ算式)に悪化していく」

であるが、現状の環境が、どこかで変わってしまう。例えば

「ねずみ算というような、生き物の異常発生なら、餌がなくなって死滅する」
例えば
「バッタの異常発生は、餌がなくなれば死滅する」

様な話である。昔、ローマクラブが地球の環境問題で予言したときにも、このようなポジティブ・フィードバックのシミュレーションが使われていた。そこでも、シミュレーション前提の変化を見過ごし、結局予言外れになっていった。

 このように、

「専門家の意見をきちんと評価し、限界を見ながら使える部分を生かす」

このようなスキルを、私たちは身につける必要があると思う。これが本当の教養ではないだろうか?

2020年9月 9日 (水)

自分の納得と権威の受け入れの関係

 私たちは、学校で勉強するときには、教科書や教師という「権威」に従うことを、強制されている。

 しかしながら、自分の意見を持つためには、どこかで

「自分としての納得」

を得る必要がある。この納得の根拠として

  1. 信じている人などの言葉
  2. 自分の経験
  3. 直観的な理解

等がある。

 特に、経験や直観的な理解の裏付けがあると、信じる力が強くなり、迫力のある議論ができる。

 しかしながら、直観的な理解にこだわると、そこから進まなくなるコトもある。このバランスが難しい。特に西洋文明的な学問は、ある決められたルールの上で展開する場合が多く、そのルールには従うしかない。自分の直観に合わないでも、そのルールでの推論結果は受け入れないと行けない。特に数学ではこのような事が起こる。

 こうした、権威との付き合い方を上手に行う事が、学問を使いこなすための条件だと思う。

 最後に、人に説明するときに、自分はきちんと納得した根拠を持っている場合と、自分もどこかの「権威」に従っている場合の違いを、きちんと意識する必要がある。自分が納得しているなら、そのまま説得できる。しかし、自分が「権威」に従っているなら、相手にも「権威」を押しつけてしまう。これをきちんと意識していないと、説明や説得を受ける側の反発を買ってしまうだろう。

2020年9月 8日 (火)

日本文明の根本に「建前と本音の二層構造」がある

 山本七平の思想には、

「承久の乱が日本の革命」

という考えがある。これは大事な発想だと思うが、

「貞永式目に始まる固有法」

という議論に関して、少し疑問に思う事が出てきた。

 私の言いたい事は

  1. 律令制度の公地公民は「建前」で実質生きていない
  2. 荘園制度など私有地は「本音」として生きていた
  3. 建前の律令制度は、中華文明に対して見せるモノである
  4. 国の運営は「本音」で行ったから、科挙なども導入しなかった

という、「建前と本音の二層構造」が、律令制同導入の初期からできていた。もっと言えば、

「中華文明とのお付き合いの仕方で、建前のショウルームを上手に創って見せていた」
「国の運営は、本音の世界で無事行っていた」

という、中華文明との上手い付き合い方が、日本教の本質の一つだと思う。

 この発想なら、

「固有法は貞永式目を待たずに、荘園運営などの経験則で生まれていた。」
「北条泰時の時代に明文化した。」

という言い方ができる。

 

2020年9月 7日 (月)

日本の意志決定機構についてどこまで公開されているか

 諸外国の人たちには、日本の意志決定機構がわかりにくいと、言われる事が多い。先日は、自民党の意志決定機構が見えないと書いたが、これは自民党に限った事ではないように思えてきた。

 もっと言えば、裁判や国会審議でも

「予定調和の筋書き通りの芝居を見る」

コトが多い様に思う。もっと言えば、

「江戸時代の御前将棋は、事前に対局して、その結果を並べるだけ」
(考慮している時間を見せて待たせない)

という雰囲気で、

「綺麗事の場面だけ見せる」

ことになっている。

 もう少し言えば、

「日本の権力の役割」

についても、

自分の意向を前に出して引っ張る
「西洋文明のリーダーシップ」

と違うモノがある。日本のリーダーは

「皆に意見を言わせて、それを採用する」
「皆の意見を承認する」

機能が重視されている。従って、

「リーダーからの発言はない」

という形が多くなる。

 なお、明治維新の時のように、

「極論対立でどうしようもないときには、天皇陛下のご意向が決着」

という事例もあるが、これは混乱時の例外的なモノだろう。(室町時代は、幕府の仲裁機能が弱く混乱を招いた。又幕末に関しても、幕府の蹴って気力が無くなったから混乱した。)

 このような、権力の見方は、西洋文明と少し違っているように思う。

 

2020年9月 6日 (日)

弱者の優しい代弁者が存在するか?

 昨日の話で、

「弱者の代弁者」

という問題を思いついたので、忘れないうちに書いておく。昨日の議論では、国会議員である杉村太蔵が、同じ国会議員の石破茂に馬鹿にされたというレベルであり、馬鹿にされた方にも問題ありと処理してもよいだろう。しかし、これが一般国民の問題と考えると、色々と広がってくる。

 まず、一つ目の問題は、

「本当に困っている人の状況を、きちんと伝える人が必要」

である。しかし現状では、これが上手くいかない。理由は、

「論理的な意見をいえるという、スキル面だけで代弁者になる」
「極論や過激な発言する代弁者が少なくない」

という側面がある。

 例えば、予防接種の副作用で、苦しんでいる人がいる。この人に対しては、医療的側面、心理的側面、生活的側面などで色々と支える必要がある。しかし、

「副作用が生じるから、予防接種を禁止すべき!」

という極論を言う人が、

「被害者の代弁者」

として振る舞う事で、結局

「予防接種の効果で救われる命を奪う」

という事態になってしまう。このような機会損失に関しては、被害の申し立ても難しいので、極論がまかり通っていく。

 この問題を考えると、親的な発想で、弱者の代弁をする人材を、もう少し育てていくべきではないか、言うなら

『穏やかな社会学者』

が必要ではないかと思う。

2020年9月 5日 (土)

自民党総裁選について思う

 今回の自民党総裁選びに関連して、元議員の杉村太蔵が大事な事を言っている。

https://www.daily.co.jp/gossip/2020/07/18/0013521375.shtml

杉村は「いいアイデアが浮かんで持っていくじゃないですか。総理は『いいな。幹事長にも言ってくれ』と言うんですが、石破さんは『ダメ。帰りなさい』だけ」とエピソードを披露。

つまり、石破茂候補は、若手議員を育てる気が無いというか、そのような力が無いらしい。これは、国のトップとして、かなり問題の多い姿勢だと思う。

 そう言えば、石破候補は、直接ふれあう国会議員に人気が無く、遠くの地方党員の人気が高い。このような人種には、何らかの問題がある場合が少なくない。

 自民党の総裁ともなれば、総理大臣として国を動かす可能性もあり、官僚なども上手に動かしてもらい、更に後継者の育成などもしっかりしてもらう必要がある。そのような面で問題があるなら、国民に公開してただすべきだろう。

 しかし、よく考えてみると、自民党内部の意志決定の流れなど、一般人に見えていないコトが多すぎる。このあたりの見える化を図っていくのも、新しい政治のあり方ではないかと思う。

2020年9月 4日 (金)

動機付けに関して西洋文明と大乗仏教の文明の発想の違い

 昨日の続きで、動機付けについて、西洋文明的発想と、大乗仏教的発想の違いについて議論しておく。

 西洋文明的発想なら、動機付けならマズローの理論などが出てくる。

https://motivation-up.com/motivation/maslow.html

 しかしながら、この議論の根底には、貨幣経済社会などの西洋文明が前提にあり、しかも

「人間は神の智慧には及ばない」

という諦めがある。又、マズローの5段階説を見ても解るように、

「できるだけ単純な項目で考える」

という発想がある。

 しかし、現実社会をこのように単純化してみる発想がよいのだろうか?

 例えば、会社生活においてて、管理職になる動機付けを考えてみよう。

「出世したい」
「給与が上がる」
「他の皆に遅れたくない」

等の単純な理由だけで出生したがる人間は、どれほどいるだろう。

 管理職の重み、責任を感じたとき、色々な悩みがある。しかし、

「その部門の重要性」
「働いている人たちの個々人の立場」
「他の人間が管理者苦になるリスク」(不適切能力者のリスク)

等色々な事を考えて、悩んだ末に受け入れる人は、よい管理者になる可能性が高い。

 さて、ここで大事な事は、大乗仏教的な発想である。大乗仏教には

「誰もが仏の智慧を持っている」
「仏の智慧とは全てを自分のモノとし、衆生を我が子のように見る智慧である」
「この智慧で社会をよくすることができる」

という発想がある。少なくともキリスト教の

「神の世界への到達不可能限界」

とは別の、可能性を拓く発想がある。

 又、これと併せて、色々なモノを見るとき、具体的に多様な見方をする。例えば、管理職が部下を見るときも、

「契約した機能を果たす部下」

という見方が、西洋文明の経営学敵味方なら、日本的管理では

「個人としての生活のある部下」
「将来的な成長可能性のある部下」

等の、血の通った見方になる。

 こうした、実体観の上で、

「皆のためになる」

という動機付けを行うなら、強い力を得ると思う。

 もっと言えば、仏教では

「皆を救う」

という発願がある。この力は、西洋文明的なモノより強いのではないかと思う。

2020年9月 3日 (木)

全体の幸せが自らの幸せになる

 昨日書いた、江戸時代の豪農や豪商の働きに関連して、もう少し踏み込んで考えてみた。

 まず、西洋文明に縛られた私が、先に思いついたのは、

「投資と回収の発想」

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-939bb8.html

である。

 しかし、これは金銭的尺度に縛られているように思う。もう少し言えば、単純化したモデルの思考法で考えている、という西洋文明の

「分けて考える」

という発想を実践している。

 しかし、江戸時代の日本人の発想には、大乗仏教の教えなどが、染み込んでいる。例えば、お経を唱えた後

願わくばこの功徳を持って、遍く一切に及ぼし、我らと衆生と、皆伴に仏道を成ぜん
国土安穏、万民豊楽、功徳の余慶を持っては先祖代々の諸精霊に回向し、それがし家運長久~~

という風に、

「まず全体がよくする、その後個人の事を考える」

と言う発想が体質になっている。

 このように考えると、江戸時代を現在のマルクス史観などで見て

「地主に搾取される水呑百姓」

という図式トは別の世界が見えてくるように思う。

 もっと言えば、動機付けに関しても、現在的な発想でなく、大乗仏教の「発願」という発想で見た方がよいと覆う。

2020年9月 2日 (水)

意味をどこで見いだすか?

 先日から、社会科学におけるモデルの役割について、考えていたら、色々なモノがつながってきた。そこで、まだ荒削りだが、思いつくところを書いておく。

 まず一つ目のアイデアは、社会科学のモデル論から来た

「物事の意味はそのモデルの上でで考えるべき」

である。自分が感じる意味、というのではなく、その物事が起こった状況をモデル化し、その上で考える。

 もう一つのアイデアは、江戸時代の豪農や豪商の働きで思いついたが、

「社会全体がよくなる事が自分の幸せ」

という発想である。これに関連して、仏の慈悲について

「太陽の光のように遍く照らす」

という発想が、

「個別の一対一の関係でなく、社会全体への影響」

という形で見えてきた。これは逆に言えば、

「西洋文明の物理学モデル=一対一の関係の簡略化」

で表せないモノを見直す考えである。もっと言えば、西洋文明的に

「局部的な関係に集中して考えすぎ」

という私たちの思考の偏りをただす。こうしたときに見えるモノがある。このような感じがしてきた。

2020年9月 1日 (火)

社会科学におけるモデルの役割

 社会科学は、現実の社会に発生している事を、上手くモデル化して、多くの人に伝える役割を担っている。

 しかし、このモデル化について、しっかりした議論が行われていないのが、現在の社会科学の問題点ではないかと思う。私は、この理由を

「物理学の理想を追いすぎた」

点にあると思う。もう少し具体的に言うと、

「物理学のような、きれいな抽象化の階層を求めている」

「社会現象の切り口は多様で、物理学のような綺麗な階層化はできない」

事を理解できていない。ヘイグの「理論構築の方法」ですら、「完全なモデル」を「到達できない目標」と書いている。しかし、社会現象は多様な関わりがあり、しかも理論的な観点も多様にわたっている。これを図式的に描くと

「モデル作成」↔「理論的な視点」

という風に、理論の成果により、モデルの作り方が違ってくる。これは、

「理論の力で社会の見方が変化する」

ことでもある。このような事をきちんと認識しておかないと、偏見や先入観から自由に成れない。

 もう一つ言えば

「完全なモデル」
を求めずに
「満足できるモデル」

を求めるべきである。

「その時点で役に立つ、説明のできるモデル」

これが社会科学のモデル作成の目標ではないかと思う。

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