ご縁のあった人たち

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2020年10月31日 (土)

6500件目の投稿

 今回で,このブログの記事の6500件目となる。2006年の1月から書き始めて、15年間の結果がこの値になった。

 十五年と言えば、子供が生まれてから中学を卒業するまでの年月である。その間に自分はどれだけ成長したか、一度見直す機会に、6500記事を生かすべきだろう。この間に、四十年近く務めた会社生活も終わった。また大学の講師も終わった。また新たに、産業カウンセラーやキャリアコンサルタントの資格も取得した。こうして、ソフトウエアのエンジニアという、理工系の人間が、人文科学や社会科学の方向に向かっていくようになった。それまでも、ヴィーコやヘイグの本を読んでいたので、社会科学には少しは触れていたが、ヴェーバーやルーマン、そしてミルズなどと触れることで、社会科学というモノが少しは見えてきたように思う。また、仏教に関しても、天台の摩訶止観や空海の著作を読み直すことで、色々と見えてきた。

 このような基礎の上で、山本七平を読み直すと、新たな「日本教」の構想ができた。

 こうした、基礎ができたので、最近では1回の投稿の記事が、四百字原稿用紙二枚程度に伸びている。このようなまとまった記事の方が、アクセス数が伸びるように思う。

 なお、私の仕事の上での経験した、「正社員登用」に関する記事は、現在でもアクセスのトップになっている。その他では、信頼性に関する話、「図と絵」の話などが、アクセスをいただいていると思う。

 ありがたいことに、現在の一日あたりのページビューは100~200の感じになっている。書き出した頃の20ぐらいで喜んでいたことと思うと感慨深いモノがある。

 とりあえず、6500と言う通過点を、読者の皆様に感謝して味わいたい。

 

2020年10月30日 (金)

人間はどこまで『悪人』となるのか

 昨日書いた戦後の日本人の対応について、現代人の感覚からすれば

「戦争の責任を感じないのはおかしい!」

と言う人が多いと思う。

 このような、道徳に関しての感覚は、時代の流れで大きく変わることは、私のような年寄りは色々と経験している。何度もこのブログで書いたが

「朝鮮民主主義人民共和国は理想の国、拉致などはアメリカ銀地主義のでっち上げ」

叫んでいた『良識派』が多数存在した。その人たちの多くは、自分たちがしたことの口を拭い、

「北朝鮮の人権侵害を許すな」

と叫んでいる。

 このような変節が、自然にできるのである。

 こうして考えてくると、

「人間の主義主張の一貫性などは、怪しいモノである。」

という感じがしてくる。

 もう少し言えば、

「人間は弱い面があり、それまでの主張を飼えたり、裏切ったりする」

と言う可能性に向き合わないと行けない。

 教科書通りの、『道徳的人材』だけの世界ではない。人間には多様な面がある。これに向き合う必要がある。チェスタトンのブラウン神父が、

「どのような悪人の心も理解したい」

と言った話を真剣に考えないと行けないと思う。

 

2020年10月29日 (木)

朝ドラ「エール」に見る芸術家の力

 朝ドラの「えーる」は、敗戦後の『戦争協力者』の悩みを描いている。しかし、現実は違うという調査があった。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76563


つまり、主人公のモデルである古関裕而 は、戦後直ぐに作曲活動をしている。

 ここで大事なことは、古関祐而は、元々色々な立場での作曲をした人間である。

 六大学なら、早稲田も慶応も、そしてプロ野球なら、阪神も巨人もと

「敵対する立場の両方に立って作曲している」

切り替えの早い人間である。

 もう少し踏み込むと、

「作曲時には、特定の立場に踏み込み感情移入などする」

「終わると次に行く」

と言う発想が常に行われているのではないか。

 現在の我々は、

「戦争責任の重さ」

だけを捉えて議論しているが、

「芸術の創造における、精魂のかけ方は、平等である」

ならば、『戦争協力』だけを特別視することはできないと思う。

 ここまで、人間の心が変わるか?この問題に関しては、チェスタトンのブラウン神父シリーズが、一つの答えを出してくれると思う。

 本当の、ニュートラルな芸術家は、色々な心をそのまま写す鏡があるのではと思う。

 

2020年10月28日 (水)

大阪都構想の本音の狙い

 大阪都構想に関して、維新の本音を憶測するに

「積年の弊害の除去には、組織の抜本的改編が有効」

と言う発想があると思う。これは、維新の生みの親の一人、堺屋太一の

「遷都による積年の弊害排除」

と言う発想につながっている。維新の基本的な閑雅として

「既得権益の見直し」

がありこれが

  1. 旧来の自民党につながる利権集団
  2. 労働組合などの既得権益とそれに依存する政党

等と、鋭く対立している。

 このような、しがらみからの絶縁を考えると、新組織による抜本的見直しは、重要だと思う。

大阪都構想について少し思うこと

 大阪都構想について、昭和の時代からの歴史を考えてみた。私が知っているのは昭和でも戦後の時代だが、少し歴史を振り返ることで、現在と異なる観点で議論ができるだろう。

 一つ目の問題は、

「大阪市が強すぎる!!」

である。行政的に言えば、

府 > 市

であるが、大阪においては、

「市の方が強い」

と言う状況になっていた。例えば1960年代までなら

大阪市大 > 大阪府大

と言う世間の評価である。この評価は、大学紛争時の大阪市大の対応や、大阪府大の努力により、平成の時代には、同等か

大阪府大 > 大阪市大

に逆転している。なお、この逆転には、

「市より都道府県が上という『常識』」

が普及したため、府外の評価が働いた効果も大きい。

 さて、戦後の一時期には、現在の都構想とは逆に

「大大阪市構想」

というものがあり、現在の豊中市などの周辺地域を、大阪市に取り込んでいく計画があった。

 その舞台の一つが、先般の『森友学園問題』で有名になった、

『豊中市庄内地区』

である。当時の庄内町は、

  1. 独立して将来は大阪市に入る
  2. 豊中市に合併する

の両案で大混乱になった。1.案の後ろには、『大大阪市構想』の大阪市がいたし、2.案の後ろには

「将来性のある、豊中市に合併した方がよい」

と言う、大阪府のご指導があった。結果として、豊中市に合併し、大電器メーカーの誘致や、航空機騒音対策費の活用で、庄内地区と豊中市は後に大もうけをするが、それは今回は置いておく。〈但し、現在の豊中市は、都構想に入れば税収が損と言っている)

 さて、豊中市と大阪市の関係は、これで悪化していく。しかし、豊中市は大阪市のベッドタウンであり、大阪市との交通が重要であった。しかしながら、両市の間には、神崎川があり、それを渡る主要道路は、国道176号線だけであり、新三国橋が渋滞の常習地域となっていた。

 そこで、豊中市と大阪府は、豊中市の南北を176号線と平行に走る、『神崎・刀根山線』を作り、この問題を解決しようとした。

 しかしながら、ここで

「大阪市は、神崎川にもう一つの橋を架けることに同意できない」

と言う、状況が発生した。大阪市側の言い分は、

「豊中市の対岸である、三国地区の開発計画は既に決まっている。何度も大阪府と豊中市にも示し、意見を聞いている。その時に何も言わず、いきなり橋を架けて、交通量を増やすと言われても、こちらの道路計画には組み込めない。」

と言う形で、理屈は大阪市にあった。この結果、神崎刀根山線は、大阪市への合流は結局176号線を通じて行うことになり、新三国橋の渋滞を増やすことになった。

 これが、一つの具体例であるが、

「強すぎる大阪市と弱い大阪府」

と言う図式が、昭和の時代にまでは存在し、大阪府と大阪市で有能な官僚という人材の二重投資が発生している。

 この問題の解消のためには、現在の『大大阪市』を解体することは、有効な手段だと思う。

『言行一致』についてもう一度見直し

 このブログでは、何回か『言行一致』について議論している。例えば

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-46cb.html

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-d308c3.html

 しかしながら、今回はこの問題に新たな見通しが立ったので、もう少し議論を進めたい。まずは、言行一致でのトラブルを考えて見よう。一つは

「人間の多様性を無視し自分の信じている姿を押しつける」

というある種の『学問カルト』的な対応になる人がいる。特に、理論的成果の完成度が高いときに、このような現象が起こる。また別の見方をすれば、

「自力で創りだした人なら、その限界が見えている。しかし与えられたモノなら、それを全てと思い込む。」

と言う問題がある。このような状況で『空気』が発生すると、歯止めがなくなり暴走するのは、第二次大戦中の日本が経験したことである。

 ここで、

「与えられた民主主義」
「与えられた学問の自由」

と言う今までの議論と重ね合わせてみよう。

 この状況での言行一致は、危険性がある。特に

「建て前と本音の区別」

を考言行一致だけを墨守する危険性は大きい。

 先日書いた、山本七平が、

「沖縄の米軍核兵器に関する国会答弁」

「勧進帳の芝居のようだ」

と揶揄した話があるが、この後ろの本音である

「アメリカに対する、日本世論の力での歯止め効果」

が私たちの理解から消えている。しかし、五十五年体制の政治状況で、国益のために綱渡りの芝居をした、先人たちの苦労に敬意を忘れてはいけない。

 言行一致を信じすぎて、理想世界しか視野にない人間が、リーダーとなれば、その世界は怖い物となるだろう。

2020年10月27日 (火)

見せるための政治機構

 昨日書いた、『与えられた議会制民主主義』という発想は、どこかで観たという既視感があった。よく考えてみると、日本の律令制度は、中国に見せて、

「文明国扱いして貰うため」

に格好をつけたモノであって、運用の実質は色々の工夫があった。例えば、租税に関しても、米などの農作物以外に、その土地の産物で納めることを許していた。公地公民の建前はあっても、荘園などの私有地を認めている。

 このように考えると、日本の政治は、

「中国という先生に見せるきれい事」

「実運用上の工夫」

と言う、

「きれい事と実質の二本立て」

の運用が昔からあった。

 これは、中華文明の辺境で、しかも島国である我が国の立場とも関連している。つまり、

「中華文明に「取り込まれるずに、得点だけを得る。」

戦略が成立したのである。これが、大陸内なら難しいが、島国なので中国も手を出しにくかったので、

「形だけでも律令政治があれば、文明国として処遇した。」

のが中国側の本音だったと思う。

2020年10月26日 (月)

日本の議会政治について

 昨日書いた、学術会議の記事について、もう少し一般的に考えて見た。学術会議の議論は

「学問の自由を勝ち取ったのではなく、お上から与えられた」

であった、しかしよく考えてみると、

「議会制民主主義も、民衆の力で勝ち取ったのではなく、お上から与えられた」

状況である。特に現在の議会政治は、太平洋戦争の敗戦後の

「アメリカによる指導の民主主義」

であり、

「自分たちが、必死で求めたモノでなく、支配者〈アメリカ〉が認める民主主義」

を求めていた。この結果、

「議会の場での議論は、そこで創造を行うためでなく、観客が満足することを目的とする。」

と言う状況になる。この観客は、多くは議員にとって選挙区の人たちが主体になる。但し、もう一つの観客は

「アメリカの政治家達とマスメディア」

である。これは、1955年体制と呼ばれる、米ソの冷戦構造が大きく影響している。つまり

「日本は,ソ連等の社会主義勢力に取り込まれる可能性がある。」
従って
「アメリカに反発する世論を抑える必要がある。」
なお
「占領中のアメリカの政策による『平和憲法』は国民に染みついている。」

等の状況から、

「アメリカにとって、朝鮮半島で起こったように、社会主義の進出はとどめる必要があり、日本はその最前線である。」
ただし
「占領時の平和憲法の成果で、戦わせることはできない。」
また
「占領時に教えた、思想や学問の自由のため、『マルクス主義』が日本の知識人にはやっている。」

という微妙な立場で、

「アメリカの支援は受けるが、軍事的な貢献はしないで済ませる。」

と言う絶妙な立場を維持していた。

 このように考えると、山本七平が

「勧進帳国会」
と揶揄した
「沖縄の核持ち込み議論」

にも、

「アメリカさん、日本の世論は、これ以上の核持ち込みを、許しません。」

と言う歯止め効果があったと思う。

2020年10月25日 (日)

日本学術会議について雑感

 日本学術会議の会員に関して、会議からの推薦者の内6名が総理に拒否されたと言うことで、色々ともめている。

 私は、1980年代頭までの学術会議について、色々の見聞きしたことがあるので、そこから思うことを書いておきたい。一応、私も

『学術会議会員の選挙権』

を一時期取得したが、行使する前に制度変更になった身である。(苦笑)

 また、当時の私は、大学の工学部からメーカに就職した立場なので、文系の話は見聞きしたことがない点をお断りしておく。

 一つ目の経験は、学術会議会員の利権という側面である。これは、噂話が絡むが、私は信じてしまった話である。

「ある大学の研究室が、文部省の特別な研究予算申請を出した。かなりの大規模プロジェクトで、高額の予算であった。」
その時
「学術会議会員を頭に担ぐプロジェクトでなければこれほどの予算は通らない。」
と言う囁きが聞こえた。結果として審査で落ち
「身の程を知れ」
と言う声が聞こえた。

これは噂話だが、少なくとも工学部など理系の設備などが必要で、工学の研究予算が必要な場合には、学術会議会員が絡む方が、文部省の通りがよかったようである。そこで、学術会議会員の選挙には、多くの大学関係者が動いた。

 さて、別の切り口で、学者世界と政治の話を考えてみよう。昔の朝日新聞に、先般内閣と自民党の合同葬が行われた、故中曽根康弘元総理が

「昔と比べて、学者が政治に対して、あるべき姿を言えなくなっている」
(これは、学者側の能力低下についての苦言)

と言っていた。これは本質を突いていると思う。学者の意見をそのまま政治に反映させるのではないが、傾聴すべき意見が発信できていない。このような退化が、元老の目に見えていたのだと思う。

 次に、私が議論したいことは、

「日本の学者は、自力で学問の自由を戦い取ったか?」

と言う観点である。皮肉な見方をすれば、

「江戸時代の学者は、自分の主張のために命をかけていた」

と言えるだろう。しかし明治以降は

「お上の支援での文明開化」

が進み、敗戦後は

「GHQの圧力による『学問の自由』の獲得」

であった。つまり、自力でなく権力頼依存の学問の自由である。

 もう少し別の観点で見れば、日本の学者は

「ラボアジェの死刑」

を経験していない。ラボアジェは『質量保存の法則』を発見した、『近代科学の父』と言われる人材であるが、税金取り立て人の罪で、フランス革命でギロチンで処刑された。

 西洋文明では、『学問の自由』を得るためには、市民の支持が必要と言うことを、このような血のにじむ経験で知っている。一方、日本の学者の多くは、戦時中の戦争協力のあと、自分たちは口を拭って、生き延びて学問世界に復帰している。

 フランス革命の教訓が身にしみていれば、学術会議の会委員選考や東大総長選挙について、一般大衆が納得するような説明が行わるのではないかと思う。

 

2020年10月24日 (土)

理論理解の方法

 先日の、ヴェーバーの社会科学について、もう一歩考えを進めてみた。ヴェーバーは『理念型』や、『理想的な類型』を重視している。この理由をしっかりと理解することが、理論が解るための大切な一歩だと思う。一言で言うと

「理論が成立する『理想的な状況』で議論する」

為の舞台設定が、『理念型』の発想である。

「理論が成立するための世界モデル」

と言う発想は、ご都合主義に見えるかもしれない。しかし、物理学の世界では

  • 大きさを無視した質点
    • 分子の大きさを無視した『理想気体』

と言うような、理想化が色々と行われている。

 この必要性を理解するために、16世紀のガリレオの時代に戻って、考えて見よう。当時の学問は、『アリストテレスの自然学』が支配的であった。アリストテレスは、自然を真面目に観測し、観察結果をまとめて自然学を構築した。これは観測と論理がしっかり絡んだ優れた学問体系であった。しかしながら、現在の知識から観れば間違いもある。例えば、

「重い物は、軽い物よりは速く落ちる」
例えば
「重い鉄の塊は羽毛より速く落ちる」

と言う『法則の記述』がある。

 これに反論したのが、ガリレオ・ガリレイの思考実験である。

「重い物が速く落ちるなら、鉄の塊1㎏より、2㎏の方が速く落ちるはずである。しかし、1㎏の鉄の塊を二つを合わせたら、速く落ちるだろうか?極端な例で考えると、二つの鉄の塊を、紐で縛って繋いだら、速く落ちるだろうか?これはあり得ない。」

このような考えから、

「落下速度の変化は、空気の抵抗などの別の要因が入っている。それを排除すると、落下速度は重さには関係ない。」

と言う議論になる。

 このように、

「種々の雑物を除いた『理想的な世界』で考える」

ことが、世の中のからくりの本質を見いだす道である。物理学の道はまずこのような理想的なモノで考えて、その後現実の複雑さに対応して色々な項目を増やしてきた。

 社会科学でも、同じような発想が必要であるが、物理学ほど

「抽象化の道が見えていない」

ために多様な意見が乱立し、一般人が苦労していると思う。

2020年10月23日 (金)

社会学の基本的な考え方

 岩波文庫のマックス・ヴェーバー著『社会学の根本概念』清水幾太郎訳が本棚から出てきた。

  この本では、ヴェーバーの言う『理解社会学』の考え方が述べられている。『理解社会学』の主要なアイデアは、

  1. 社会学は社会的行為を解釈により理解する手法で、社会的行為の過程と結果を因果的に説明する
  2. 行為とは、行為者が主観的な意味を含ませている人間的行動
  3. 意味を考えるために概念的に構成された、純粋類型の行為者を考える
  4. この「理解社会学」から外れるモノで、大切なモノもある

である。もう少し言えば

『社会学』では、人間の行動の意味を検討対象とする。そのために、理想化した、社会と個人の類型を考えて、その上で考える。

このような類型に至るまでに、歴史上の事例での個人の考える意味、多くのケースで平均的に考える意味を検討し、それらを抽象化し理想化して、類型化していく。(物理学の大きさが無い質点のような、その概念が成立するために、必要十分な抽象的理想的なモノ)

『理解』には、行為の主観的意味の直接的理解と説明的理解がある。

なる、『類型』を構築し、その上で意味を考え理解するコトが、『理解社会学』の手法である。

 なお人間の行為には

  1. 目的合理的行為
  2. 価値合理的行為
  3. 感情的な行為
  4. 伝統的行為

がある。理解社会学では、1.の『目的合理的行為』を対象に、一般的な規則性を見いだそうとする。

 これは、社会学の基本的な考え方を、明確にしている。このような、学問の前提を明確に学んでいないから、私たちは学問の役立てかたを知ることができないのではと思う。

2020年10月22日 (木)

自分の中での論争

 昨日の記事に関連して、一つの可能性を思いついたので忘れないうちに書いておく。

 強迫神経症などの思い込みに関して、

「自分の頭の中で、賛成/反対の論争が発生している」

可能性である。

 現在、私たちは学校教育などで、『道徳的』や『科学的』な考え方の型枠がはめられている。そこで、

〈例えば不潔恐怖を感じている人に)
「目に見える『汚さ』が無ければ何もない」
と理屈で押さえつけるが
「フラッシュバック的に発生した不潔感」

が発生してしまう。例えば

「自分の脳内で、
『科学的に考える自分』

『不潔感を持つ自分』
の戦い」

が生じてしまう。

 この時、いわゆる『理性的』な押さえが強くなると、感情を殺す鬱病的な対応となるし、感情面が強くなると、自己の思い込みを守るために、種々のいいつのりを繰り返し、強化することで、強迫神経症的な要素が悪化していく。

 このように、自分の心の中での『思い込み強化』が起こる可能性がある。 

2020年10月21日 (水)

論争による思い込みの強化

 強迫神経症等の思い込みについて、少し考えることがある。一部の強迫神経症の患者は、周囲の無理解と戦っていて、かえって症状を悪くする場合がある。例えば、不潔恐怖におびえる患者に対して

「そこは汚くない、触ってみろ」

と強制したとき、患者の方は

「絶対いやだ、そこに汚いモノがある!!」

と強く主張していくようになる。周囲が、

「あなたは、不潔に感じるかも知れないが、他の人は気にしないですよ」

と言うぐらいに軽く流して、争う輪図に流していけば、思い込みが深くなることもないだろう。頭から、否定されると、どうしても自分の言ったことを護りたくなり、より思い込みが深まっていく。

 このような現象は、そう言えば他でも見た気がする。例えば、山本七平が指摘している、

「百人斬り報道論争の新聞社の対応」

等が、一つの事例になる。論争が始まる前は、中立たっだマスメディアが、山本七平に対して、敵対しだすと、戦時中の新聞報道への検証など放り出し、山本七平の論を潰しにかかっていく。この図式は、一度言い出した主張にこだわるという点で、上の話と通じるモノがある。

 私の意見は、

「山本七平の論法は、法廷で議論するには甘い。しかし、マスメディア側が、戦時中の戦意高揚報道への反省をしないのもおかしい。特に『百人斬り』への誇張などは、報道関係者として反省すべき事項である。また新聞記事が原因で、戦犯有罪になった場合には、新聞記事の誇張表現は、それなりの責任があり、マスメディアの反省が必要である。」

である。

 話が少し脱線したが、物事を多様な見方から見ることができない場合には、論争が行われたとき、自分の意見に執着し、思い込みが激しくなる傾向があるように思う。もう少し言えば、多面的な見方をし、全体像を持った上で、自分と相手の意見を客観的に評価できれば、論争においても、自分の考えを修正し、太らせることもできるだろう。このような力が、現在弱くなっているように思う。

 もっとも、多様な見方を育てる教育は、明治以降の教育にあったのだろうか?

2020年10月20日 (火)

短い文章でのコミュニケーションについて

 世の中では、SNS等の短い文章でのコミュニケーションが普及している。このような情報は

「断片的!深い理解がない」

と、否定的な見方をする。「有識者」が少なくない。

 しかし、昨日書いた空海の著作などを読むと

「経典の一句の抜き出し」

で、その経典の本質を描いている。空海だけでなく、日本で生まれた「稲荷心経」や「十句観音経」も、他のお経の抜き出しが多くある。このような抜粋したモノで、本質を伝える発想は、SNSでの短い文章による情報伝達に通じるモノがあると思う。

 一方、西洋文明の学び方には、

「抽象化してまとめる」

発想がある。これを、SNSの上で行うと、抽象的な議論や、スローガンだけの暴走になってしまう。

 本来、共有的な基本情報が存在し、その上での断片を伝えることで、新たな見方を導く。これが、短文でのコミュニケーションではないかと思う。また別の見方では、両論対立の時などには、片方の証拠を提示するのは、短い情報提供でよいのかも知れない。

 俳句や禅問答の短いやりとりは、このような読み手が意識できていない、モヤモヤとした情報を、刺激によって整理し体系化させる。これが一つの悟りになる。

 SNSの短文情報交換も、このような見方で観ると、西洋文明と日本教の違いが出てくる。

2020年10月19日 (月)

空海の学び方と西洋文明的学習法

 先日から、弘法大師空海の著書を読んでいる。私ごときが理解できたとは言いがたいが、私たちが今まで身につけてきた、西洋文明的な学習法とは、全く別の学び方が見えてきた。

 空海には、密教が完全に体に入っている。つまり、お経を読む場合にも、そのお経を説いた仏様になりきって、自分のモノとして解説するような読み方になる。このような読み方は、私たちが西洋文明的な発想で教えられた、教科書を読み理解していくという発想とは違ったモノが見えてくる。

 例えば、般若心経を読む場合にも、唯識や華厳等の今までの教えが詰まった上に、密教的な呪法の解釈と説明している。このような体験型の読み方は、密教体系が完成した後から修行した成果でもあったと思う。既に全体像ができている、それを自分のモノとして、体得した上で発言する。

 このような空海の勉強法は、梵語を習得した体験も、影響しているのではないかと思う。文字の体系が座りよく構成されている。これは全体を見通した上で解る。その上で、個別の文字が、その位置にある必然性のようなモノが見えてくる。こうした経験があるから

  一見阿字 五逆消滅 即身成仏 真言得果

と言う、一文字を観ただけで、全てが悟れるという境地になるのではないかと思った。

 この話と、Twitterなどの短い文字でのコミュニケーション可能性に関しても、もう少し考えていきたい。

2020年10月18日 (日)

学問で何を身につけるか?

 昨日書いた、T型人間に関する議論で思いついたことだが、

「この学問で何を得るか?」

と言う議論ができていないように思う。

 もっと言えば、学問の価値というか、目的に関して、厳しく評価することができていない。ないしは、そのことに触れさせないようにしている。この問題は、明治以降の学校制度の根本に関わっているように思う。つまり

「教育勅語に依存した学校教育」
つまり
「天応陛下の権威に依存した教育の押しつけ」

である。戦後の、日教組などの

「教育勅語否定」

はあっても

「権威依存の教育押しつけ」

は変化していない。

 しかし本来は、

「学問で身につくモノ」

をきちんと提示して、自主的に学ばす。これが本来のあるべき姿だと思う。そのように考えると、

「江戸時代の寺子屋」
そしてその拡張の
「大坂商人が作った私塾」

が、学問の場のあるべき姿だと思う。

 そのためには、科学哲学などが、学問のあるべき姿をきちんと議論し、そこで何を選るかを示すべきではないかともう。

 私の考えでは、

「身につくスキルと知識情報の分離」

をきちんと示し、スキルの展開状況を示すことが、本当の学問の効果を実感させる手立てだと思う。

2020年10月17日 (土)

T型人間に関して

 いわゆる「T型人間」は、自分の専門を深めるI部分と、広い視野を持つ一部分を兼ね備えた人財である。さてここで、I部分の意味について,少し考えて見たい。よく言われることだが、

「専門を窮めることで人間としての深みが出る」
「他の専門家の理解が深まる」

等の人格形成での効果が指摘されている。

 しかし、もう少し具体的な効果を示すことができそうである。一つの事例で、物理学の理解と応用について考えて見よう。もう少し絞り込んで、電磁気学をきちんと学ぶ効果で考えると、

  1. Maxwellの方程式から展開する数式の世界
  2. 静電気や磁気的な力などの具体的な世界
  3. 実世界の製品化のための電気回路の理論〈近似的展開〉

等の知識の階層構造が解るようになる。つまり、静電気の力による引き合いのような現実的な事例と、数式のきちんとした理論展開の間の関係づけができ、さらに電気の回路を記述するための『オームの法則』などは、Maxwellの方程式という上位の理論の、近似的な展開と言う風に、きちんとした理論の階層構造を観ることができる。

 こうした考え方は、理論的知識の現実の問題への適用方法を示す。現実の問題を説明し、予測するためにも、このような理論知識の使い方を学ぶことは大切である。また、物理学における、主要な道具としての数学の位置づけも、よくわかると思う。

 このような学問自体の効用をきちんと評価することも大切ではないかと思う。 

 しかし、個人としての体験で得るものは、他にもあると思う。厳しい仕事の体験、自分の限界を超える体験から得るものは大きい。色々な知識を総動員し、実現するために種々の考えを巡らす。工学としての実現や、法規則としてのまとめ上げ、このような物を創る経験は大きい。この面の効果も考えておくべきだろう。

2020年10月16日 (金)

哲学科出身者の就職事情

 近日話題になっている、日本の文系の非実用性に関して、ある逸話がある。

アメリカの大学の哲学科教授
「内の学生を欲しがる企業が多くて割り当てに困る」
日本の大学の教授
「哲学出身者の就職口に困る」

この状況に関して、きちんと議論ができているだろうか?この問題には、色々な切り口があるが、まず思いつくところだけでも書いておく。

 一つ目はアメリカの大学の哲学の広さである。プラグマティズムが哲学の一分野であるし、「一般システム思考」のワインバーグなども哲学科に所属していた。つまり、日本の哲学のイメージより、実学に近い分野が哲学に含まれている。このレガ、哲学出身と言っても、企業が欲しがる傾向につながっている。

 二つ目は、アメリカの文明に、論理的思考を重視する、風土がある。つまり、哲学を勉強することで身につく、クリティカルシンキングのスキルを重視している。これで、哲学出身者を重用する。なおこれと関連して、

「理論武装としての哲学的考察」
〈自分たちが正しいと、哲学的に述べる〉

と言う側面もある。欧米文明には、本質的に侵略的・制圧的側面がある。その時

「自分たちが正しいことを理路整然と言いたい」

と言う側面が、哲学的思考重視に向かったのではないかと思う。

 さて、日本の哲学者は、どうなっているのだろう?

 この問題に関連しては、戦前・戦中の戦争協力問題が微妙に絡んでいる。

 戦争中の、学者の戦争協力の問題は、現在の人間が考える以上に、厳しいモノがあった。つまり、

「学者個人の生き残りのための戦争協力!」

である。学徒動員という形等で、大学卒業生が軍隊に入ると、一兵卒でいじめられるか、いきなり予備仕官という扱いになる。ここで、予備仕官になれば、よい処遇に見えるかもしれない。しかし、

「予備仕官は、先頭に立って突撃する、小隊長の補充品」

と言う厳しい現実がある。士官学校卒などの、率先垂範できる人材が枯渇してきたので、大学卒という高学歴者を、小隊長にして、先頭に立たせる。こうして多くは死んでいく。この現実から逃げるには、軍隊の気に入ることをして行く。

 こうした戦時中の行動は、戦後多くは蓋をされてしまった。例えば、マックス・ヴェーバーの研究者達の一部は、ヴェーバーが戦時中に行った、戦争の見通しを含んだ講演を、翻訳するときには、終戦後の講演と誤訳して紹介したりして、自分たちの手のひら返しを隠そうとしていた。

 日本学術会議の

「軍事研究嫌い」

にも、このような歴史があることも知っておいて欲しい。

日本の文系学問が何故弱いのか?

 このブログで前に書いた、軍事研究と文系学問の話が、現在の学術会議論争と関連して、色々と話題になっている。

 そこで、今回は、

何故日本の文系の学問が実用的でないのか?

と言う議論をしてみたいと思う。この議論の基本アイデアは、高根著「創造の方法学:講談社現代新書」に書いてあった話が土台になっている。

 この本でマックス・ヴェーバーの代表的な著書、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」についての議論が、日本の学者とアメリカの学者で根本的に違うと言っている。

日本の学者は、XXの何ページにどのような記述がある・・・これを正確に言う

アメリカの学者は、ヴェーバーの発想を、日本の資本主義発生に適用できないか議論する

この違いは大きいと思う。ある本を読んでも、その内容を一字一句記憶してなぞるのではなく、根本的なアイデアまで踏み込みそれを別の形で展開する。ここまでやって本当に、その本を読んだと言えるだろう。

 なお、高根の本では

日本の資本主義を助けたのは
「勤勉を善とする」石田心学の影響

と言う議論を紹介している。

 私はこの議論は踏み込みが弱いと思う。ヴェーバーの『プロ倫』に対抗するなら、

「キリスト教のカルバン主義には、最後の審判で救われるという恐怖から、仕事をすることで自分の善ある面を信じようとした」
と言うヴェーバーの主張に対し
「日本の大乗仏教には、天台の本覚思想で全てが救われると言う発想が根底にある。その現れとして
『口に念仏の意ずる時は神仏のご催促』
という神仏と一体になって自分お救いを信じ、安心して仕事に励む国民性がある。

と言うぐらいの議論を展開してほしいと思う。

 ヴェーバーの著書の、一字一句で議論しているなら、実用性は乏しいと言われても仕方ないと思う。

2020年10月15日 (木)

人間を個別にきちんと観ていく必要がある 教員の不適切行動について

 今テレビのニュースで、某市の中学校の柔道指導者の暴力行為が話題になっている。さて、この問題の本質はどこにあるのだろう。私の考えでは、

「凶暴なる性格の治療はできるのか?」

が、本質的な問題点だと思う。更に付随する問題点は、

「もし治療できないなら、他の人に被害が出ない対策はどうする?」

が出てくる。

 この両者に真剣に向き合っていないから,同じような問題が何度も起こっている。

 さて、一つ目の議論であるが、今回の暴行教師は,前にも暴行を行っていて、「アンガーマネジメント」の講習を受けている。

 つまり、今回が初犯ではないと言うことである。しかも、怒りの感情が抑えきれない体質、と言うことも明確になっている。さて、犯罪者に対する刑罰の基本発想に

「犯罪者が二度とこのような犯罪を超さないように治療する」

と言う考えがある。そこで、講習などを行っているが、今回の行動を見る限り、そのような講習の効果がなかった。

 さて、このような、

「凶暴なる性格の治療の効果」

に関して、きちんとした評価が行われているのだろうか?

 もう少し踏み込めば

「効果のある人もいる」
(何%まで言えればもっとよい)
「しかし例外的に効果のない人もいる」

と言うような議論ができているのだろうか?犯罪者の再犯に関して、もう少し正面から向き合い、

  • 治療的な効果が出る場合
  • 効果が出なかい場合

の両者を明確にし、効果が出ない人間の対策をきちんとすべきではないかと思う。

 この問題は、暴行だけでなく、性犯罪的な行動でも同じである。学校教師の性犯罪歴についての議論があるが、治療効果の出た人間の再生と、治療効果がない人間からの再犯防止をきちんと分けて考えるべきだと思う。

 なお、この問題をもっと踏み込むと、現在の政策設計者の問題に至る。つまり、

「個別の人間の多様性に向き合っているか?」
もっと言えば
「極端な犯罪傾向や凶暴性がある人間の存在」
「他人の人格を踏みにじっても平気な人間の存在」

等の、逸脱可能性まで観ているか?更にそのような、

「犯罪者によって被害に遭った人の苦しみ」

をきちんと観ているか?

 平均的な人材、理想的な人材だけで、社会設計をしているのではないかと思うことがある。

2020年10月14日 (水)

リーダーの行動に関して平時と非常時の違い

 リーダーの説明や、従属者の納得という議論は、時間的に余裕のある場合には有効である。しかし、災害時や戦場での、時間的な余裕がない場合には

「説明は後だ、命令に従え!」

という一方的な指示も必要になる。例えば、洪水時の避難指示などは、時間との勝負になる。このようなときリーダーには、意志決定の速さが必要能力となる。

 ただし、終わった後で、リーダーの指示内容について検証し、

「何故そのような意志決定が行われたか?」
「他の案はなかったか?」
「今後この方法でよいのか?」

を議論し、多くの人が納得いく説明を得る努力は必要である。

 さて、時間的に余裕のある場合には、多くの人が納得いくような説明をして、自発的に従わせるようにることは、単に命令に従わせるより得るものが大きくなる。例えば、空海が満濃池の工事を指導したとき、

「堰き止める場所は流れな緩やかな場所」
「堤の形は丸みを持たせる」

等を

「何故そうした方がよいか」

きちんと説明し、参加した大衆に

「これまでと違う!」
「よい見通しがあっての仕事!」

と成功への見通しを与えて、士気を高めている。

 このような、時間の余裕のある平常時には、

「できるだけ説明して納得させる効果」

が大事であリ、緊急時には

「時間的に間に合う意志決定と明確な指示」

が必要になる。

 この使い分けができる本当のリーダーを育てないと行けない。

2020年10月13日 (火)

大阪【都】構想について 【みやこ】への憧れ

 いよいよ大阪都構想の住民投票が始まった。

 私は、大阪府市の二重行政の弊害は、色々と体験しているし、組織の旧弊を直すために、根本的に変えることのメリットも解っている。従って、都構想には本来賛成の立場である。

 しかしながら、先日の読売テレビ番組で、大阪の松井市長がちらっと漏らした本音が、気になっている。彼は

【都】という言葉への憧れを意識している。

と言う趣旨の発言をした。つまり、

「多くの人が、【都】である東京に憧れる。
そこで、大阪【都】にも憧れるようになってほしい。」

と言う、憧れの対象としての【都】の地位を、大阪が得ようとしている。

 実はこの発想は、維新の創始者橋下徹が師事した、堺屋太一の怨念がこもっている。堺屋太一が通産省の官僚だった時代に、

「皆が憧れるのは、東京都だけでよい。
大阪は二軍でないと行けない」
例えば、絶世の美人は東京に行く、お笑い顔は大阪

と言ういじめに遭っている。

 このときの恨みが、今回の都構想にも影響していると思う。

 確かに、

「吉村知事の方が小池知事よりかっこよくて頼りになる!」

と今なら言うことができそう。

2020年10月12日 (月)

大衆が受け入れるリーダーとは

 前に書いた、「反ポピュリズム論」の中に、

マックス・ウェーバーの権威の理論を痛烈に批判し、その理論の中には、民主主義的な指導力の問題がどこにも位置を与えられていないと攻撃 p108

と言う記述がある。

 これについて、もう少し踏み込んで考えてみた。民主主義的な社会において、

「指導者として認められる条件は何か?」

もう少し条件を緩めて、一般的に

「指導者として皆が認める条件は?」

と言う議論ができていただろうか?この議論が、少ないことはある意味社会が安定して平和な時だと思う。いわゆる、鼓腹撃壌の時代である。

 平和なときには、指導者は

「争いの仲介や裁定」

等の機能を行えばよい。そのようなときは

「個人の能力に依存せずとも、何らかの権威などで認められた人」

でも務まることが多い。しかし変革時や危機の時にはそれでは困る。そのようなときには

「皆が生き残るように導いてくれる人」

を最低限求めるようになる。極端な例では、旧日本陸軍の指揮官に関して

「兵卒を経験した特務士官は人間性もよくて最高の指揮官、士官学校卒業生は能力はあるが部下を人間扱いせず酷使する。しかし、士官学校卒の判断力は高く、従っていると生存する確率は高いので、いやな人間でも従う」

と言う評価があった。このように、生存と言うことを考えると、能力主義が出てくる。

 更に、危機としての認識が薄くても、変革時には、

「将来に何が起こるか示し、それに対応する道を示す」

指導者が求められるようになる。

 大衆が受け入れる、民主主義のリーダーは、このような能力を持っている人だと思う。

 なお、これは個人でなくチームの活動でもよい。

2020年10月11日 (日)

日本における大乗仏教の展開に学ぶ大衆参加の道

 先日から書いている、大衆参加に関連して、日本の仏教の広がりで考えてみた。日本の仏教は、聖徳太子などの上からの動きと,行基菩薩などの大衆を巻き込んだ動きの両面から広がっていった。

 しかし、教えの面から見ると、

「大衆の行動はやりやすい向きに展開していく」

と言う一つの流れが見えてくる。もう少し具体的に言うと

  1. 聖徳太子などの法華経の解説
  2. 源信の浄土世界の図式化
  3. 法然の称名念仏

と言う3段階に代表される動きである。

 最初は,法華経の理解など経典をきちんと読む,それを説明してもらう形で皆が聞いていく。しかしこれでは、なかなか解らない。そこで、源信は阿弥陀如来に関するお経の世界を、もっと具体的に展開した往生要集を書いた。

 しかし、この教えは瞑想により、自力で極楽浄土の姿を観る

「観想念仏」

であり、瞑想ができない人には救いにならなかった。これを助けるために、色々な仏像・仏画そして曼荼羅が描かれた。これを観て救われた人もいるが、多くの人には手が届かない。

 そこで法然などが説いたのが

「南無阿弥陀仏」

と唱える

「口称念仏」
「専修念仏」

である。

 このように、集中して想像力を働かせずに、口頭で唱えるだけの易しい行に展開する。これが大衆化の流れである。

 ただし、その世界を伝えるために、曼荼羅や仏像などを作り、多くの人に見せて土台を作っていたことも、忘れてはいけない。

 このような大衆への展開の智慧が、我が国には昔からあった。これをもう一度見直すべきだろう。

2020年10月10日 (土)

西洋文明の階層分断に関して深い根を考えてみた

 昨日書いた、西洋文明の階層分断について、もう少し歴史の目で考えてみた。

 一つ目の観点は、ヒッタイトの宗主権契約である。

http://ketchup.ciao.jp/member/ht/jisyosa.htm から引用

宗主国と属国の間に結ばれた条約で両国間の支配、従属関係を定める。
ヒッタイトの条約の多くに見られるように、宗主国による保護と引き換えに
属国は貢納や戦争時の兵力派遣、王朝の維持、亡命者の送還、属国間の戦争禁止
など片務的な義務を負う点を特徴とする。

基本的に
①前文
②両国間の過去の関係を回顧した歴史的序文、
③条文

④文書の保管場所と定期的朗読の規定
⑤証人となる両国の神々のリスト

⑥呪と祝福
という構成を持つ。

このように、戦った後の支配を定着させるため、支配者と被支配者の関係を明確にし、越えられない壁を作っておく。この発想が、西洋文明の根底にある。

 更に、戦った後の戦果としての奴隷の存在も忘れてはいけない。奴隷制度を理論的に裏付けるためにも、

「人には色々な違いがあり、これは超えることができない」
場合によっては
「人間としての条件から排除する」
「劣等民族とする」

と言う理屈づけが必要であった。この延長に

「神の力は人間には到達できない」

と言う絶対的な壁が生まれてくる。

 また奴隷とは逆に貴族制度の

「支配者の理由付け」

も存在した。なおアメリカは、欧州の貴族制度を排除するために、

「自由と平等の国」

を掲げたが実際の国作りにおいて

「先住民を迫害し彼らの人権を無視した」
「奴隷制度によりプランテーションを支えた」

等の人種差別が体質にある。

 このような発想が根底にあることを理解しておく必要がある。

 一方、日本においては、大乗仏教の影響が大きい。そもそも仏教は、インドのカースト制度による、差別に苦しむ人たちに支えられた教えである。更に大乗の教えは、

「上部坐と言うエリートに反発した教えの大衆化」

が根底にある。この平等主義は、中華思想によるマウンティングを排除するためにも有効であった。

 こうした歴史的な観点から、階層分断を考えることも大切だと思う。

2020年10月 9日 (金)

本当の大衆参加とは コロナ対応で考える

 コロナ対応の反省が行われているが、逆に

何故日本の患者数は少ないのか?

と言う議論も必要だと思う。私の考えでは、

本当の大衆の協力があった

その理由は

大衆がコロナの感染のイメージを持ち納得して対策した
(ソーシャルディスタンス、マスク着用、手洗いうがいなど)

と思う。この対応は、

政治の主導権でなく自粛に依存した

と言う批判を受ける面もあるが、全員参加の実行という効果は大きい。

 このような大衆参加を支えた、テレビなどの報道の効果も大きい。例えば、咳をしたときに飛沫の飛び具合の状況など、多くの機会に画面でPRしていた。こうした、大衆の直観的な理解を得るための努力が、自主的な予防活動として定着していき、他国に比べて感染者数、および重傷者数を抑えることができた。更に言えば、医療崩壊を避けることができたのが、死者数低下につながっていると思う。

 さて、このような全員参加が

日本では成立したが他の国では成立しなかったのか?

と言う問題が出る。なおこの問題はもう少し緩めて

「他の国で全員参加が徹底できなかった理由は?」

と考えてもよい。

 私はこの答えは、西洋文明の分断思想にあると考えている。つまり、西洋文明の図式は

 

   神様・・・これは絶対的で到達不可能
    ↓    服従し誓い契約する

 ーーーーーーーーーー越えられない壁 

  支配者   神との契約で権力を持つ
    ↓     命令に従わせる(契約で縛る)

   一般市民  教養ある一般市民  

    ↓

   労働者(昔は奴隷だったが現在は指示通り動く労働者)

と言う階層構造になっていて、

上からの指示に従え

と言う発想だけで、下位階層の納得などは重視していない。

 一方、日本的な発想は

   指導者(親の立場)・・・神様的な場合でも親的

    ↓↑          親子の壁は越えられる可能性がある

   協力者(子の立場)・・・子供として従っている、成長したら親になる

と言う、本質的な平等思想がある。これは、大乗仏教の発想で、日本人の心の底に流れている。

 こうした、日本的な発想なら、自然に全員参加という形になる。

 一方、西洋文明的な発想が強くなると、階層化して口出しできなくなる。私がある病院で経験した事例では、

「理学療法士は筋肉の状況を見るが、医師にそれを伝えることはできない」
「医師の指示は絶対であり、下位資格者は口出しを許さない」

と言う状況があった。もっとも別の病院では

「理学療法士と巡回の医師が、院長の手術跡について上手下手の議論をしていた」

と言う事例もある。

 日本的な発想では、ある程度の資格の縛りがないと、素人の危険な口出しが生じる。しかし、実力ある人の意見が認められるべきでだろう。法律の世界でも、最高資格の弁護士より稼ぎの大きい、再開資格の行政書士と言う話もある。

2020年10月 8日 (木)

大阪都構想について 本当の無駄はどこにある

 大阪都構想に関して、色々な議論があるが、私の考えでは、大阪においては府市の一体化は必要であり、その手段としての都構想はあると思っている。なお大阪市民ではないが、昔は大阪府に住んでいたため、少しばかりは見えるモノがある。

 さて、大阪都構想の最大のメリットは、

「二重行政による重複解消」

である。

 私が指摘したいのは、

「有能な行政官僚の重複の無駄解消」
(シンクタンクとしての行政官僚の重複)

である。まず、多くの人は目にすることが少ないが、日本の行政官僚はとても優れた能力を持っている。しかもしっかり育てられている。例えば

休耕田となった土地の転用に関して、制度設計をしている若手に上司が
「長期的に考えると、緑の保全という環境問題の観点から、田園を残す方策もある。」
と言う風に長期的視野での検討も指導する。

T市のS地区には1960年代から急な造成の文化住宅が存在し、老朽化が問題と言われていた。これに対して、1970年代の頭から、鉄筋マンション化の方策を色々と考え、空港騒音対策費などを上手に活用しながら老朽家屋撤去を進めた。さいごに1995年の阪神大震災の復興で仕上げた。

と言う風に、長期的な戦略を持って、待ちのあるべき姿を作っている。

 しかしながら、大阪府市の二重投資の無駄もある。私は、水道関係の仕事に携わったので以下の経験をした。

  • 大阪府水道局の制御システムは標準化などが進み、日本国内でも有数の素晴らしシステムである
  • 大阪市水道局の監視制御システムは、優れた発想で作られている
      ただし、同じ淀川の近所にありながら、両者は別々である

このような優れたモノを考える人材は、集中投入して成果を広げた方がよいコトは誰でも解ると思う。

 しかしながら、大阪の歴史は、大阪市が先行し、大阪府がそれを追いかけると言う経緯もあり、府市の人材が取り合いとなっている。

 しかも、大阪という土地柄は、関東の権威に対抗する魅力があり、優秀な人材を確保できる力がある。

 このような人材を、有効活用するためにも、シンクタンクとしての官僚は、一体化で活用すべきだと思う。確かに、コロナ対策では、府市の協力で上手くいっているが、組織として形を決めておくことも悪くないと思う。

2020年10月 7日 (水)

大衆に理解してもらうための負荷

 昨日の続きで、リーダーが追従者に理解させるための負担を考えてみた。

 この逆は、

専門家同士のコミュニケーションの効率の良さ

これを意識している人はあまりいないが例えば、

「MBA取得者同士でないと会話ができない」
「先端分野で競い合ってる人なら一言で通じる」
「数式や数値でコミュニケーションできる」

等の経験をしたり、状況を見たりした人は多くいるだろう。

 実は、私も若いときにソフトウエアの仕事をしていたとき、この経験をしている。その時の感想は、

「もっと情報工学の出身者たちがいたら話が直ぐに通じるのに!」
「特に幹部が情報工学の言葉が理解してほしい」

であった。

 しかし今になって考えると、

「そのような状況で学問知識を実用化して、多くに人に受け入れてもらう」

と言う貴重な経験をした。このように、

「専門用語や道具を捨て、多くの人の理解を引き出す」

作業は、大衆の支持を得るための必要コストである。

 なお、私はこのとき

「理論的に作ったモノの実用化では、現場に合わせた対応が必要」

と言う経験もした。

 昨日書いた、三ステップを全て、ソフトウエアの生産性向上という現場で体験していた。これは今にして思うと貴重な体験だと思う。

2020年10月 6日 (火)

大衆参加を本当に実現するために

 昨日書いた、反・反ポピュリズムの記事の続編として、

「本当の大衆参加を実現」

するために必要なことを書いてみたい。

 まず、一つの前提として、

「現状の延長が続く事態なら今の民主主義は無事機能している」
言い換えると
「変革期には、現状の民主主義は上手くいかない」
具体的には
「決められない政治」
「問題先送りで、ゆで蛙状態の破滅の道を歩く」

を考えている。つまり変革期の問題であるが、このような状況では一般大衆にも

「リーダーシップを政治に求める」

傾向がある。

 しかし、リーダーシップと言っても、日本教的な場合と、西洋文明のリーダーシップは異なる。

 西洋文明は

      絶対的な神様

   ーーーーーーーーーーーーー越えられない壁

     一人前の個人    神との契約・支配される人との契約

 

     支配される大衆

 

と言う図式で、契約による支配ができている。

 一方、日本教の場合には

     

      親の立場・・・指導者

            この間が、子供の成長でつながる可能性あり

      子供の立場・・大衆

 

と言う、親子の壁が低い。このため、

「子供でも解る説明」

が指導者に求められる。

 しかしながら、新しい概念での社会を動かすためには、以下の3面での異なる力が必要になる。

  1. 新しい概念を組み立てる
    例えば、社会の仕組みなど
  2. 新し概念を大衆にも解るように伝える
  3. その概念を実行するときの現場でのトラブルを解決する

この三面のちがいをきちんと理解していないから、新しいことを提供することでの失敗が多い。

 この3面を本当に理解しているのは、維新の政治家ではないかと思う。橋下徹と言う人の頭に、新しい大坂のあるべき姿ができた。それを、浅田・松井などの府会議員の有志が皆に解るように伝えて、同志を募りながら一般大衆に向け説得していく。更に、現実の政治で起こるトラブルを、役人たちを活用しながら解決していく。

 これが大坂で、維新が多くの人に支持されている理由だと思う。 

2020年10月 5日 (月)

反・『反ポピュリズム』 黒幕政治から大衆参加の民主政治へ

 昔買っていた、新潮新書『反ポピュリズム』を読んだ。著者は、読売新聞の主筆であった渡邉恒雄で、見識はあるが好きには成れない人物である。

 

 前に読んだときに反発を感じたが、今回その反発内容が見えてきた。つまり

『知識人の独占政治』または『黒幕政治』

『大衆参加の政治』つまり『大衆の納得理解の政治』

の対立である。

 この本でも、橋下徹を意識しているが、橋下氏は大衆参加に関して大事なことを言っている。

専門家が、法的根拠等について、厳密に論理を添加し手いくことは重要である。
しかしながら
「大衆が、何か納得できない」
と言う不満も大切にしないといけない。

これは、弁護士である橋下徹の経験が言わせたモノであろう。つまり、

「弁護士の立場で法廷で争うときには、きちんと法廷の論理で議論する。」
しかし
「一般人の納得できない法廷テクニック的なモノへの反発は大事にしないといけない」

と言う問題である。これは、光市の殺人事件裁判の懲戒問題の時に、彼が板挟みになった状況からも見える。

  • 弁護士としての法廷テクニックとしての裁判引き延ばしは仕方ない
  • 被害者家族が傍聴に来たのに無駄足させた大衆の怒りも解る

つまり、専門家の事情が大衆の支持を受けなくなったときの怖さを彼は知ったと思う。これが維新の

「ふわっとした民意を大事にする」

と言う姿勢につながっていると思う。

 一方、渡邉恒雄の行動は、黒幕政治そのものであり、自民党の実力者を通じて、竹中改革を潰したり、大連立を仕掛けたりしている。

 このような、一部の人間だけの密室政治が、現在は成立しなくなってきていると思う。

 なお、大衆参加に関しては、多くの手間とコストがかかる。これに関しては長くなるので、別の議論としたい。(続く)

  http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-b51c58.html

 

2020年10月 4日 (日)

政治家の発言は大衆にも支持される論理的な展開であってほしい

 杉田水脈議員の発言が、色々と物議を醸し出している。

 https://www.j-cast.com/2020/10/02395817.html  

現状では、彼女の言わんとすることが、きちんと伝わっていないのは確かである。

 この問題は、現在の政治家とマスメディアの両方に、罪があると思う。私の主張は

政治家もマスメディアも、一般大衆の納得する、きちんとした論理展開を示すべき!

である。

 例えば、今回の杉田発言に関しても、

  1. 一般原則として
    「事件の当事者の片方から一方的な主張を受け入れると間違う危険性がある」
  2. 事例その一
    「痴漢えん罪」
  3. 事例その二
    「強制性交事件の加害者側が『同意の上』と主張する」
  4. 事例その三
    「韓国の慰安婦に関する主張」

と言う風に、一般論と具体例を整理して展開する。特に、具体例を多様に展開するコトで、視点の偏りを予防する。

 これぐらいの配慮を、政治家の発言には求めたい。ワンフレーズ政治だけでは、大衆の納得の上での支持を得ることは難しい。

2020年10月 3日 (土)

心があたたくなる冊子

 このブログでも紹介している、
   「子育てママさん応援カウンセラー春木めぐみさん」
が、素敵な小冊子を作っている。

 春木さんのブログはこちら↓

   https://ameblo.jp/cocotane-blog/

 メルマガはこちら↓   

 

 さて、小冊子の内容は、美しい花を育てる、言葉の力が美味くまとまっている。

 ワークの内容もきちんとしているし、絵も楽しく暖かくなる。

 春木さんの人柄が伝わってくる、楽しい本です。 

安定と言うこと

 先般から書いている、社会のモデル化に関連して、

「安定」

が大事な概念だと思う。極端な話

「私たちは安定したモノしか観ていない」

と言う議論も出てくる。

 しかし、本当に安定したモノだけであろうか?例えば

「江戸時代の農業などの生産性は幕府開設時代から二倍以上に増えている」
また
「貨幣経済や商業化も進んだ」

と言う状況を考えると、色々な変化が起こっている。これを考えると

「単純に安定ではなく漸進的な変化」
または
「その時点で変化と安定を繰り返しながら進む」

と言う

「擬似安定」

と言うべき状態がある。もう一つ言えば、

「強制的なコントロール機能で変化に対応しながら新たに安定させる」

と言う形で、安定と進化を実現しているモノがある。例えて言うなら

  1. 教師の言うことに絶対逆らわない生徒たちの「安定した学校」
  2. 生徒に自由にさせ、その中で善いモノを取り入れて「運営を変えてて安定化を図る学校」

と言う図式ではないかと思う。

 なお、私たちの現状は、

「全て過渡的な状況」

と考える発想もある。変化の中にいるときはそれが見えなくなっている。 

2020年10月 2日 (金)

社会科学の理論成立について モデルとの同時成立

 社会科学の理論については、その理論が成立する事例というか、そのような世界条件と一体で考える必要がある。マックスヴェーバーは、これを理念型と言った。そこで昨日の議論に引き続き、物理学的世界観と社会科学の勉強について、もう少し踏み込んでみたい。

 工学などの世界は、物理学などの基礎の上に、理論を活用しモデル化したモノで議論を行う。例えば、エンジンの図式などを参考にしてほしい。

https://www.bing.com/images/search?q=%e3%82%a8%e3%83%b3%e3%82%b8%e3%83%b3%e3%81%ae%e4%bb%95%e7%b5%84%e3%81%bf+%e5%9b%b3%e8%a7%a3&id=88A1EFFD4D91F7E6EEB9C83AA11AAD1AAA3FD874&form=IQFRBA&first=1&scenario=ImageBasicHover

 物理学的なモデル化は、理論がある程度完成した後、その知識を用いて演繹的に構築して場合が多い。

 しかし、社会科学の場合には、

    資本家
 搾取  ↓ ↑ 労働力提供
    労働者

と言う風な、社会のモデル化と理論の構築が、同時並行で進んでいくコトが多い。つまり、このようなモデルに、

「何を入れるか?」

と言う議論が理論の成立にも関わってくる。

 確かに物理学的なモデルの時にも

「なにをいれるか?」

と言う議論はあるが、これは

「理論的な構造が決まった後の、近似の度合いをどこまで精密にするか?」

と言う理論構造の元での議論である。

 一方社会科学の場合には、

「考慮範囲の変化が理論の根本を変える」
つまり
「理論とモデルが同時に成立する」

コトが多くなる。

 こうして、

「理論とモデルの関係が、安定したときに一つの理論が生まれる」

パターンが多い。これを知っておくことは、特に物理学的世界観に毒された私たちには重要だと思う。    

2020年10月 1日 (木)

社会科学などの理論知識を生かすためのヒント

 一般に、理系の学問は、大学で学んだ知識が、社会に出てからも役立つことがある。例えば、モーターの制御などを考えても、三相交流として扱うためには種々の数学的知識が必要である。線形代数や複素数の知識が必要になる。しかし、文系の学問が、世の中に出てから役に立つかというと、なかなか難しいモノがある。法学関係の知識は、法律を理解するときに、法律・施行規則~判例の展開などで役立つかも知れないが、工学部と工業との関係のような直接的な結びつきが見えないことが多い。

 この理由に対して、私が見いだした仮説は以下の通りである。

「自然科学は、現実のモデル化に関して、皆の同意が得やすい」
しかし
「社会科学などでは、現実のモデル化は、理論の作り方で変わってくる」
言い換えると
「社会科学の理論は、一般的に成立するといえない」
逆に言えば
「社会科学の理論は、成立する条件を理解しないと使えない」

これは経済学などで、色々な論争が起こっている現状を見れば、

「どれが正しいか解らない?」

なる、混沌とした状況と言ってしまいたくなる。

 しかしながら、これらの理論は、ある程度の説明力はある。しかし、物理学の様な

「一般的に成立する」

とはいえない。そこで、

「理論知識を学ぶときには、その成立する前提も考える」

ことで、理論知識が使えるようになってくる。

 そのためには、『ヘイグの理論構築法』や、『ワラスの輪』などの方法論をしっかり学ぶことが重要ではないかと思う。

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