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2020年10月28日 (水)

大阪都構想について少し思うこと

 大阪都構想について、昭和の時代からの歴史を考えてみた。私が知っているのは昭和でも戦後の時代だが、少し歴史を振り返ることで、現在と異なる観点で議論ができるだろう。

 一つ目の問題は、

「大阪市が強すぎる!!」

である。行政的に言えば、

府 > 市

であるが、大阪においては、

「市の方が強い」

と言う状況になっていた。例えば1960年代までなら

大阪市大 > 大阪府大

と言う世間の評価である。この評価は、大学紛争時の大阪市大の対応や、大阪府大の努力により、平成の時代には、同等か

大阪府大 > 大阪市大

に逆転している。なお、この逆転には、

「市より都道府県が上という『常識』」

が普及したため、府外の評価が働いた効果も大きい。

 さて、戦後の一時期には、現在の都構想とは逆に

「大大阪市構想」

というものがあり、現在の豊中市などの周辺地域を、大阪市に取り込んでいく計画があった。

 その舞台の一つが、先般の『森友学園問題』で有名になった、

『豊中市庄内地区』

である。当時の庄内町は、

  1. 独立して将来は大阪市に入る
  2. 豊中市に合併する

の両案で大混乱になった。1.案の後ろには、『大大阪市構想』の大阪市がいたし、2.案の後ろには

「将来性のある、豊中市に合併した方がよい」

と言う、大阪府のご指導があった。結果として、豊中市に合併し、大電器メーカーの誘致や、航空機騒音対策費の活用で、庄内地区と豊中市は後に大もうけをするが、それは今回は置いておく。〈但し、現在の豊中市は、都構想に入れば税収が損と言っている)

 さて、豊中市と大阪市の関係は、これで悪化していく。しかし、豊中市は大阪市のベッドタウンであり、大阪市との交通が重要であった。しかしながら、両市の間には、神崎川があり、それを渡る主要道路は、国道176号線だけであり、新三国橋が渋滞の常習地域となっていた。

 そこで、豊中市と大阪府は、豊中市の南北を176号線と平行に走る、『神崎・刀根山線』を作り、この問題を解決しようとした。

 しかしながら、ここで

「大阪市は、神崎川にもう一つの橋を架けることに同意できない」

と言う、状況が発生した。大阪市側の言い分は、

「豊中市の対岸である、三国地区の開発計画は既に決まっている。何度も大阪府と豊中市にも示し、意見を聞いている。その時に何も言わず、いきなり橋を架けて、交通量を増やすと言われても、こちらの道路計画には組み込めない。」

と言う形で、理屈は大阪市にあった。この結果、神崎刀根山線は、大阪市への合流は結局176号線を通じて行うことになり、新三国橋の渋滞を増やすことになった。

 これが、一つの具体例であるが、

「強すぎる大阪市と弱い大阪府」

と言う図式が、昭和の時代にまでは存在し、大阪府と大阪市で有能な官僚という人材の二重投資が発生している。

 この問題の解消のためには、現在の『大大阪市』を解体することは、有効な手段だと思う。

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