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2020年10月28日 (水)

『言行一致』についてもう一度見直し

 このブログでは、何回か『言行一致』について議論している。例えば

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-46cb.html

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-d308c3.html

 しかしながら、今回はこの問題に新たな見通しが立ったので、もう少し議論を進めたい。まずは、言行一致でのトラブルを考えて見よう。一つは

「人間の多様性を無視し自分の信じている姿を押しつける」

というある種の『学問カルト』的な対応になる人がいる。特に、理論的成果の完成度が高いときに、このような現象が起こる。また別の見方をすれば、

「自力で創りだした人なら、その限界が見えている。しかし与えられたモノなら、それを全てと思い込む。」

と言う問題がある。このような状況で『空気』が発生すると、歯止めがなくなり暴走するのは、第二次大戦中の日本が経験したことである。

 ここで、

「与えられた民主主義」
「与えられた学問の自由」

と言う今までの議論と重ね合わせてみよう。

 この状況での言行一致は、危険性がある。特に

「建て前と本音の区別」

を考言行一致だけを墨守する危険性は大きい。

 先日書いた、山本七平が、

「沖縄の米軍核兵器に関する国会答弁」

「勧進帳の芝居のようだ」

と揶揄した話があるが、この後ろの本音である

「アメリカに対する、日本世論の力での歯止め効果」

が私たちの理解から消えている。しかし、五十五年体制の政治状況で、国益のために綱渡りの芝居をした、先人たちの苦労に敬意を忘れてはいけない。

 言行一致を信じすぎて、理想世界しか視野にない人間が、リーダーとなれば、その世界は怖い物となるだろう。

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