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2020年10月12日 (月)

大衆が受け入れるリーダーとは

 前に書いた、「反ポピュリズム論」の中に、

マックス・ウェーバーの権威の理論を痛烈に批判し、その理論の中には、民主主義的な指導力の問題がどこにも位置を与えられていないと攻撃 p108

と言う記述がある。

 これについて、もう少し踏み込んで考えてみた。民主主義的な社会において、

「指導者として認められる条件は何か?」

もう少し条件を緩めて、一般的に

「指導者として皆が認める条件は?」

と言う議論ができていただろうか?この議論が、少ないことはある意味社会が安定して平和な時だと思う。いわゆる、鼓腹撃壌の時代である。

 平和なときには、指導者は

「争いの仲介や裁定」

等の機能を行えばよい。そのようなときは

「個人の能力に依存せずとも、何らかの権威などで認められた人」

でも務まることが多い。しかし変革時や危機の時にはそれでは困る。そのようなときには

「皆が生き残るように導いてくれる人」

を最低限求めるようになる。極端な例では、旧日本陸軍の指揮官に関して

「兵卒を経験した特務士官は人間性もよくて最高の指揮官、士官学校卒業生は能力はあるが部下を人間扱いせず酷使する。しかし、士官学校卒の判断力は高く、従っていると生存する確率は高いので、いやな人間でも従う」

と言う評価があった。このように、生存と言うことを考えると、能力主義が出てくる。

 更に、危機としての認識が薄くても、変革時には、

「将来に何が起こるか示し、それに対応する道を示す」

指導者が求められるようになる。

 大衆が受け入れる、民主主義のリーダーは、このような能力を持っている人だと思う。

 なお、これは個人でなくチームの活動でもよい。

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