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2020年11月30日 (月)

仮名文字を最初に使い出したのは誰か?

 このブログで何回も書いた、日本語の特異性、特に仮名文字の位置づけについて、今回は仮名文字を使い出した人について、少し想像してみた。

 なお今までの記事はこちらを見てほしい。

 仮名文字の不思議: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 五十音図が先か仮名文字が先か?: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 日本語の特異性: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 私が思いついたことは、

「仮名文字を最初に使い出したのは、大陸から来た仏教の僧侶ではないか」

である。この根拠は、

「漢字の表音的利用は、お経の中にある陀羅尼部分に実例がある」

ので、

「外国語としての『倭人の発言』を記録する時に、漢字の音だけを当てはめ」

使用していたのではと思う。特に、固有名詞の部分は、翻訳不可能なので音だけを表現し記録する必要がある。そこで、例えば

「『ア』の音に『阿』の字を当てはめる」

等の発想は自然に出てきたと思う。

 ここで一つの可能性は、彼らの中に、梵字の心得がある人材がいた場合である。梵字の体系は、母音と子音での組み合わせがしっかりしている。これを使えば、日本語の『ローマ字表記』のように、母音と子音を組み合わせて整理することができ、五十音の発想に至る。私は昔は、

「五十音は、仮名文字が誕生した後に整理するためにできた」

と考えていた。もう少し言えば

「五十音は、梵字の理解が深い、空海が作った」

と言う説をかなり信じていた。

 しかし、『物を作る立場』で考えると

「仮名文字の整理は、五十音の発想がないとできない」

と言う問題に直面した。例えば、

「母音は、なぜ『あいうえお』だけか?」
「子音は、今ある音だけか?」
「子音だけで独立した文字は『ん』だけ?」

と言うように、実際に飛び交っていた音を、かなり強引に整理して、『いろは48文字』にまとめた人材は、梵字などの知識があって、五十音的なモノの構想があったからではないかと思う。

 彼の人物像をもう少し見ると

  1. 知識はあったが儒教的なモノとは異なる
    中華文明のエリートではない
  2. 仏教でも上位の僧侶だった化は不明

と言う、

「大陸では評価されなかった才人」

のイメージが湧いてくる。このように考えると、

「日本文明では科挙の導入を拒んだ」 

のも解るような気がする。

2020年11月29日 (日)

日本語の特異性

 先日から、仮名文字に関して色々と考えてきたが、これをもう少し突っ込むと、

「日本語の特異性」

と言う論点で、色々と話ができると解った。

 私が注目したのは、

「象形文字でもなく、
アルファベットのような、
徹底した表音文字でもない
仮名漢字交じり文」

の特徴である。これをメディアの特徴として考えると

「象形文字の多数を記憶した知識人」

「アルファベットから派生した記号体系を使いこなす知的特権階級」

の両者の知的活動の独占を防止している。

 前者の、「象形文字~~」は、古代エジプトの神官や、中国の科挙合格者のように、

「多数の文字を記憶しない限り文字を使いこなせない」

と言う独占状況を示している。中国や韓国では、科挙合格者とそれ以外に大きなギャップがある。

 一方、アルファベットを使った古代ギリシャ文明に始まる西洋文明は、

「文字記憶の壁は大衆化したが、論理的思考は哲学者の独占」

と言うもう一つの壁ができている。プラトンの哲人政治や、今でも残る「高学歴者の独占」が、論理的思考法の壁を示している。

 さてここで日本語をメディア論的に考えてみよう。象形文字の子孫である漢字が残っているので、直観的なイメージが文字に残っている。しかも漢字には『訓読み』を行うことで、母国語としての機能をきちんと保持している。一方、漢字を覚えることが難しければ、表音文字としての仮名を使って随時表現できる。このような日本語の論理思考には、直観的なイメージを用いた思考法が生きてくる。例えば幾何学の例で考えれば

「点と線で描く図形」

と言ったイメージが浮かび、それを頭の中で、動かし重ねたり、回転させたり、縮小拡大したりする。このよう直観的な脳内作業での証明や議論ができる。これ学問の大衆化にもつながっている。しっかりした、公理や定義での上での幾何学議論は、数学の専門家には必要だろう。しかし、

直観的な議論での納得

は、知的議論の大衆化には必要だと思う。このために、日本語の果たした役割は大きい。 

2020年11月28日 (土)

55万アクセスの御礼

 このブログのページへのアクセスが、とうとう55万の大台に達した。9/15に54万達成だから、それまでよりペースが上がっている。アクセスの多いページは、相変わらず「正社員登用」関連であるが、近頃の傾向として、色々なページを見ていただく方が増えている。とてもありがたいことだと思っている。2006年の書き初めから始まり、15年以上書き続けたブログが、ここまで見ていただけたこと、深く感謝する。

 さて、この機会に昔書いた物を、時々見直しているが、昔と今で。は、一つの記事の長さが大きく違っている。昔は、一つのアイデアを忘れずに書く、忘却防止のメモ的な扱いが多く短い文章が多かった。しかし、今では

「一つの完結した文章、小論文的なモノ」

として書くので、800文字程度の記事が多くなっている。これは、会社を退職して、時簡に余裕ができたこと、知識の表現方法に理論と実現の両面を加えるというスキルが身についたことなどが影響している。

 確かに、長い記事には、アイデアだけでなく、実例的なモノも含むので、読んだ人に役立つことは多いと思う。こうした長い記事が多くなったことも、アクセス増加に貢献しているだろう。

 この先、60万の目標、さらには100万アクセスの大台を目指して頑張っていきたい。

読者の皆様に多謝

2020年11月27日 (金)

五十音図が先か仮名文字が先か?

 前に書いた、仮名文字に関する議論で、もう一つ思いついたことがある。それは、

仮名文字が先か?五十音図が先か?

と言う問題である。普通は、

「漢字しか文字がなかった時代に、その当時の発音を万葉仮名で記述した。それを簡略化して仮名文字が生まれた。」
さらに
「その後、仮名文字を整理する形で、いろは歌や五十音図が生まれた。」

と言う風になっている。

 特に、五十音図はサンスクリット語などの音韻に関する知識がないと、作ることは難しい。そこで、

「いろは歌の空海作は無理があるが、五十音図は空海でないとできないのではないか」

と言う説はかなり説得力がある。確かに、カ行~ワ行までの子音と母音のきちんとした組み合わせは、サンスクリットやアルファベットの表音文字の知識なしで、ここまでの整理は難しいと思う。

 なお、少し脱線するが、ハングル文字も表音文字として、母音と子音の組み合わせを文字のルールとして表現した、完成度の高い物となっている。一部の文書にでる、『日本の古代文字』と称する文字には、ハングルのような母音と子音の組み合わせが見える。これは、ハングルなどの模範例なしで、作れるとは思えないので、江戸時代に誰かが作ったと想定するのが妥当ではないかと思う。

 さて、ここで本題に戻るが、私が仮名文字に関して、今一度問いたいのは以下の問題である。

「日本語の母音と子音は誰が決めたのか?」

もう少し具体的に言うと

「母音が『あいうえお』だけに絞られ、子音も現在の形に絞ったのは誰か?」
例えば
「ハ行にFの発音が入らずHの発音になったのは何故か?」

と言う疑問である。私の感触では

「仮名文字の存在で、発音の自由さが制限されている」
つまり
「五十音の発音しかできなくなっている」

状況があると思う。現在は学校教育の普及で、発音が制限されるのは当然である。しかし、万葉仮名の時代にこのような発音の制限があったのだろうか?

 一つの大胆な仮説は、

「飛鳥時代に日本に移ってきた、渡来人の中に、梵字の知識のある僧侶がいた。彼らがその知識を使って、私たちの先祖の言葉を整理し、五十音的な形にまとめ上げ、その上で万葉仮名の音韻の当て字を作っていった。」

と言う発想である。学問的な検証に値するかは別として、一つの考えとしてみてほしい。

2020年11月26日 (木)

日本人のコミュニケーションの変化

 今話題の、『鬼滅の刃』に関して、面白い意見があった。

  空前の大ヒット!映画「鬼滅の刃」なぜ社会現象?(テーマ別)【そこまで言って委員会NP|2020年11月8日放送】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=1geJ-sII-Sc&t=173s

 私が注目したのは大野氏の

「全てを台詞で言ってしまう」
〈とても分かりやすい〉

と言う発言である。これは、今までの日本語のコミュニケーションにおける、高度の文脈依存を除去している。この発想なら

「勧進帳の皆が、『義経と解っている』が知らないとして芝居する」

と言う、腹芸の世界が成立しなくなっている。

 この現象は、

「脚本家にとって革命的」

らしい。

 このような作品が生まれる背景を、少し考えて見た。

 一つの影響は、西洋文明的な思考法などの教育結果がある。コミュニケーションの明確化、論理的な表現をもとめる流れ、この成果が出ている。更に言えば、SNS等のコミュニケーションの普及も、丁寧に記述する方向に進んでいる。Lineでのメッセージは、そのやりとりで全てが解るよう持って行く。この影響もあるのではと思う。

2020年11月25日 (水)

空海が観たモノは?

 空海の『吽字義』を理解するために、もう一度サンスクリット語について、見直してみた。サンスクリットでは、母音子音の複雑さ、その組み合わせのルールを、梵字の書き方に反映させている。少数の文字を使うが、組み合わせのルールを上手に使うことで、多様な音声を表現している。

 梵字を理解すると、象形文字の系列に属する『漢文』に慣れた人間にとっては、カルチャーショックを受けたのではないかと思う。漢字を『真名』と言って、

「真実の文字は漢字しかない」

と思っていた中華文明に影響された人間が、

「お釈迦様の文字は別にあり、それは見事な体系である」

とシッタ感激というか、ショックは大きいと思う。マクルーハンが

「アルファベットの発明はメディの革命の一つ」

と言ったことが納得できる。

 さて、空海はこれを密教の修行という実践に繋いでいく。例えば

「梵字の子音を書くときは、母音の阿を追加する」

と言うルールを、密教の教えに反映させて

「全ての仏の根源である大日如来を『阿』字で象徴する」

とし、他の仏や菩薩を色々な梵字で象徴する。このような

「要素的なモノの組み合わせで理解する」

発想が、曼荼羅などに反映し手、構造的な整理が行われている。 

 また、梵字の『阿字』をしっかり観る、『阿字観』という修行もある。この修行においても、梵字の構造まで考えて、

「全てに展開する『阿』字を観る」

ことが、空海が観たモノを理解することではないかと思う。

2020年11月24日 (火)

仮名文字の不思議

 空海の『吽字義』などを読んでいると、梵字についてもう少し考えたくなった。梵字、つまりサンスクリット語について、少し学んだだけでも、表音文字として、きちんとした構造ができていることが解る。母音と子音等の『音の組み合わせのルール』が、文字の上でもきちんと表現されている。

 これを見ると、

「表音文字とはどうあるべきか」

がよくわかる。マクルハーンが、

「アルファベットの発明はメディアの大改革の一つ」

と言ったのも解るような気がする。

 さて、ここで一つの疑問が出てきた。私たちは、

「仮名文字は表音文字」

と思っている。しかし本当にそうだろうか?一つの実験事例がある。録音装置で

「あかいとり」

と記録し逆回ししたらどのように聞こえるだろう。表音文字なら文字を逆に読み

「りといかあ」

となるはずである。しかし実際は

「いろちあか」

と言う風に聞こえる。これはローマ字で表現するとよくわかる。

akaitori → irotiaka

と言う風に、ローマ字表現の逆転がきこえる。これでも解るように本当の表音文字なら

「子音を独立して扱えないと行けない」
もう少し言えば
「音に忠実に記述して、その組み合わせルールを明確にする」

が必要がある。

 これを考えると、仮名文字という物は、表音文字と言えるのか、怪しくなってくる。

 今これを書きながら考えた仮説は、日本に仏教を伝えた人たちが、お経の陀羅尼の部分の

「梵字に対する当て字としての漢字」

「当時の日本語の発音を五十音図的に整理」
した結果として
「仮名文字が生まれた」

のではないだろうか。

2020年11月23日 (月)

いわゆる「Goto~~」について考えるべきコト

 政府の「Goto~~」については、色々な議論がある。しかしながら、この議論の前提とすべき情報が漏れているように思う。それは、

「コロナでの死亡者の総計は二千人」
であるが
「十月一ヶ月の自殺者は二千人を超えている」

と言う状況である。自殺者の原因の内訳が明確になっていないが、コロナによる経済状況逼迫が影響している人が、少なからずいるだろう。控えめに考えて一割としても、コロナでの病死者に匹敵する数になる。(コロナの病死者は二月からの集計)

 このような状況では、景気対策も重要という議論は、しっかり行わないと行けない。

 ここで、橋下徹元大阪府知事が

「問題があったのは名前。Go Toキャンペーンは今の時期良くない」と名称に苦言。「やっぱり、助け合い、頑張ろう事業とか、もうちょっと地味な、ウキウキした、浮かれたような名前を付ければいいのに、なんでこんな名前になっちゃったのか。コロナが収束した後はGo Toキャンペーンでいいけど…コロナが収束していない状況を見越し、もうちょっと違う名前をつけておけば、状況も違ったと思う」

と言う議論を展開している。

橋下徹氏 「Go To」の名称に苦言「もうちょっと違う名前をつけておけば」― スポニチ Sponichi Annex 芸能

 私はこの意見は、一理あるが

自殺対策としてなら、『Goto~~』表現はある

と考えている。

 理由は、

「引きこもって心が暗くなる場合には、『外に出る』ことが効果がある」

と考えるからである。

 実は私自身、現在は自己免疫疾患(難病)治療のため、ステロイドと免疫抑制剤の投与を受けているので、外出は控えるようにしている。ネットでのお付き合いなどがあるから救われているが、このような状況でこもっていると、ストレスが貯まり、メンタル的に参りそうに思う。

 このような側面も考えて、”Goto”はありだと思う。

2020年11月22日 (日)

コロナ対応で考える日本文明の特異性

 昨日の菅首相のコロナに関する会見で、スパンコンのシミュレーションを例に取った説明を見て、やはり『日本教』の

「大衆の理解力を信じる」

発想は生きていると思った。専門家の厳密な知識や思考力は求めず、直観的に感じ取る力で納得する。この力が、日本のコロナに対する

「全員参加での対応」

を実現している。これは前に書いた話の実例として残しておく。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-7a0a08.html

 さて、ここで日米のコロナ対応についてもう少し考えてみよう。アメリカなどでは、指導者達が

「本当に大衆の知性を信じているか?」

については疑問が多い。それより

「強制的に命令し、従わせるしかない」

と考えているようだ。

 さて、日米のコロナの状況で目につくのは、死者数の違いである。日本の二千台とアメリカの二十万台で、二桁の違いが出ている。

 この状況を一言で言えば

「まだ通常状況の日本と、戦争中のアメリカ」

と言うべきである。

 さてここで大事なことは、戦争中のリーダーシップは平穏時とは異なり、

「平和なときより人命が軽くなる」

状況である。

「死者は出さざるを得ない、その数を減らすのが、リーダーの仕事」

という発想になる。現在の平和日本では、このような発想を受け入れない人が多い。しかし、アメリカなどでは、戦時中のリーダーの役割という物はわかっている。そこでは、ワクチン接種においても

「少しぐらい副作用が出ても仕方ない」

と言う発想になる。この点を考えると、アメリカのワクチンは、日本より速く開発され、強引に実用化すると思う。

 現在、日本政府、特に厚生労働省などは

「枠地の副菜用に関しても慎重に見極める」

と言う姿勢を崩してはいない。これは、平常時の対応である

「副菜用の被害者を一人でも出してはいけない」

と言う発想である。この発想で本当に良いのか、もう一度見直すときになっていると思う。 

2020年11月21日 (土)

悪い物から目をそらさないで議論すべき

 昨日、コロナのワクチンが日本で開発できない理由の一つに、

  「軍事に関する研究に目をつぶっている」

  https://twitter.com/suzyoshi1/status/1329298753686175744?s=20

とTwitterに書いた。

 しかし、この問題はもっと広げて、議論すべきではないかと思う。現在の学術会議等の

「国防研究拒否症」

は、本質的に

「目をつぶっていれば、悪い物はない」

と言う発想である。しかし、世の中には、色々な国や支配者がいる。これと向き合わずに、「平和憲法」と唱えるだけで良いのだろうか?

 さて、もう一つ別の問題を考えてみよう。これは、犯罪被害者の

「復讐権」

に関する議論である。私はある番組で、『人権派』の弁護士が

復讐権という物は存在しない

と公言したのを見ている。ただしそれは他の弁護士からたしなめられていた。私は、

「被害者が復讐の感情を持つ」

のは正常なことと考えている。ただし、

「法治国家として、被害者の復讐権を取り上げて、法の裁きとした」

いる現状がある。しかし、被害者の感情などにきちんと向き合い

「復讐権とはどうあるべきか」

と言う議論がきちんと行われるべきではないかと思う。ハムラビ法典の

「目には目を」

と言う項目は、

「復讐の限度をきちんと示した」

機能がある。このような面から議論を積み上げるべきだと思う。

2020年11月20日 (金)

知恵の種類について

 先日から書いている、「照準と修正」の話に関連して、仏教の智慧の扱いで、一つ見えてきたモノがある。大乗仏教の唯識等の教えでは、人の智慧を

  1. 大円鏡智:全ての経験等を記憶し収める智慧
  2. 平等性智:自我のこだわりを昇華し、仏の力を見る力
  3. 妙観察智:全ての良いところを見いだして考える
  4. 成所作智:実際の対応を行う、当意即妙の智慧

と分けて考えている。このほかにも全てをまとめる、「法界体性智」もあるが、今回は置いておく。

 さて、この四つの知恵の働きについて、私たちはどこまで意識しているだろうか?教えられたことを記憶していく、これだけで成績が良くなる。特に、実際の対応に当たる

「成所作智」

と事前にじっくりと考える

「妙観察智」

を、きちんと分けて考えることが大切である。更に、自分の考えは、自我による

「無意識の選択」

が働いている。価値観や道徳などが、無意識的に働いている。この部分を意識し、できるだけ「平等」に考えることも大切である。ここに「平等性智」の働きがあるし、心の奥には、色々な体験が

「鏡に映るよう」

にたまっている。

 このように考えると、大乗仏教の教えは、私たちの心の働きについて、大事な物を伝えているように思う。

2020年11月19日 (木)

学者の戦争への関与について

 昨日書いた記事の主旨は、

「じっくり検討して考える力と、現状に応じて機敏に修正する力は別」

であった。その中で、

「アメリカの科学技術に対して、日本人は個人技で対応したから比較的修正が上手」

と書いた。しかしながら、修正できずに泥沼に陥った例がある。それは、太平洋戦争における日本人の対応である。第二次大戦における、日本の戦争責任は、公式発表では

「軍部の暴走に国民がだまされた」
「学者達もいやいや協力した」

と言うことになっている。しかし、これは真実の姿であろうか?ここで、私が『太平洋戦争』と言う表現を使ったことに、注意してほしい。その場では、真珠湾攻撃、マレー沖海戦、そしてシンガポール陥落と、開戦後の数ヶ月の戦勝気分に、全国民が酔っていた。このことを忘れてはいけない。その中では、

「東条英機の弱腰を叩く」

世論すらあった。

 そのような空気に押されて、一部の学者には、『日本民族の優秀性』等の議論を展開し、『戦争協力』を行った人もいる。

 さて、ここで、最初の主題に戻るが

「学者が発表する物は、きちんとした検討が必要である」
従って
「気軽に修正できない」

と言う側面がある。これを考えると、最初の数ヶ月の戦勝気分に酔って、書いてしまった議論が、引っ込みがつかなくなって、最後まで一人歩きしたことは十分起こりうることである。

 学者が、全て

「軍部の脅迫に屈して不本意な意見を発表した」

訳では無いと思う。なお、軍人達には

「戦後の復興のために学者をかばい、自分たちが罪を負った」

人たちもいることも考えるべきだろう。 

2020年11月18日 (水)

「照準と修正」という観点から見えてくる

 太平洋戦争中のアメリカ軍は

「照準は上手だが、修正は下手」

であった。ここで、照準というのは、最初に狙いを付けることで、敵のいる予想位置に対して、一発目を打ち込むことまで含んでいる。次の修正とは、前に撃った砲弾が外れたときに、狙い直して調整することである。アメリカは日本に比べて優れた、レーダーやアナログ計算機などの技術を活かして、日本の艦船や飛行機の位置を予測する力があった。そこで、

「照準は上手」

となっている。しかしながら、当時のレーダーやアナログ計算機は、大きな設備で操作も大変で、稼働時間もかかる。従って、一度計算が終われば、その後の修正まで計算機を使うことはできなかった。その結果

「修正は下手」

と言う結果になる。このような相手と戦うときには、

「とりあえず一発目を外せ!」

が有効になる。相手の方に突っ込む形なってもよいから、今までの延長した場所にいないようにする。これが生き残りの対策になる。

 なお、日本の軍隊にはそこまでの科学技術も資源も無い。アナログ計算機の概念は知っていても、信頼性の高い真空管をたくさん供給できないから、実現は不可能である。従って、

「個人の技を磨き、優れた人間に任せる」

方法で対応した。その場合には

「どちらかというと修正が上手」

な傾向がある。

 さて、この話は

「戦争における銃砲を命中させる」

と言う問題としてだけ考えるのは、もったいない感じがしてきた。一般的に

「事前準備をきちんとして、時間をかけて検討する力」

「現状を見て機敏に修正していく力」

には、共通する部分と、別の部分がある。この違いをきちんと考えて、使い分けをしないといけない。

 また、

「修正下手」

に対して、アメリカが取った

「科学技術的な対応」

と言う発想も、学ぶべきモノがある。つまり、

「照準で近所まで行けば、その後はミサイルが自動的に目標に向かう」

と言う、

「修正を機械に行わせる」

発想での対応がある。このように、

「あくまで科学技術で対応し、個人芸に対する依存を少なくする」

発想は、第二次大戦後中からアメリカ人が得意とした。私たちは、このアメリカ的発想の影響を、意識していなくても受けているように思う。

2020年11月17日 (火)

アメリカ人の教育政策の失敗について

 昨日書いた、アメリカ人の「科学的思考」教育の失敗に関して、今回は数学教育の事例、特に幾何学で考えてみた。

 日本の幾何学教育も色々と迷走したが、教え方には以下のステップを踏むことが有効とされている。

  1. 小学校高学年か中学の間に、定規とコンパスでの作図とその重ね合わせで「同じ」という感覚を得る
  2. 三角形の合同と言う概念を学び、定規とコンパスから離れて抽象化して考えるようにする
  3. 抽象化した考えを組み合わせて証明ができるようにする
  4. 高校ぐらいでユークリッドの公理系からの展開を学ぶ
    ただし、点や線のイメージの助けを借りた推論
  5. 大学で数学の専門家は、完全な抽象体験としてのヒルベルトの幾何学を学ぶ
    ここでは「点」「線」についても、特定の公理を満たす抽象的存在でしかない

しかしながら、効率的な教育と言う観点からすれば、ユークリッドの幾何学や、定規とコンパスの作図は、無駄な時間を費やしていると判断される。確かに、一部の有能な人材は、きちんとした公理系からの議論ができるだろう。このような人材には、

「無駄なモノを教え時間を浪費しない」

と言う発想はある。しかしながら、

「多くの生徒に納得させるためには、定規とコンパスなどの手順を踏むことが大切」 

と言う、教育現場の経験則もある。日本の数学教育においては、ある程度湖のような現場の声も届いている。逆に言えば、フィールズ賞受賞学者が、大衆向けの教育を行い、

「一般向けに教えるためには段階を踏むことが大切」

と発言している。

 しかし、「すべててのアメリカ人のための科学」を見ると、どうもいきなり「ヒルベルト幾何学」の高みに行こうとしているように見える。アメリカでは、有能な人材は時間を無駄にせずに若くして大学に入っていく。

「そのような有能な人材が考える施策」

には、無駄を省く教育になっていく。しかしそれに大衆がついて行くかは別である。これが一つの失敗要因ではないかと思う。 

2020年11月16日 (月)

アメリカの「科学的思考法」の挫折について

 私は、このブログで昔「全てのアメリカ人のための科学」について、かなり前向きに評価した記事を書いてしまった。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/3-1c91.html

しかしながら、このプロジェクトは実行できなかった。この理由は、

「現在の『科学的思考法』で本当に社会を良くすることができるのか?」
つまり
「科学の力で、プラトンの『哲人政治』を実現できるか?」

と、

「理想的なモノと実現のギャップを超えることができるか?」

という二組の問題が解決できなかったからである。これに加えて、もう一つの要因として、

「アメリカの強力な敵対者である、ソ連の崩壊」

と言う条件も、考えないと行けない。ソ連の崩壊がアメリカの教育に影響する理由の一つは、

「競争相手の消滅による、モチベーション低下」

と言う側面がある。競争による動機付けは有効である。もし相手がいないと、自分で目標設定し管理しないといけない。これを実行できる人間は少ない。

 しかし、もう一歩踏み込むと、

「戦争中の政治決断は、一部の犠牲を無視する、平均知的発想が使える」

と言う状況がある。これはもう少し具体的に考えてみる。現在のコロナ対応を、ウイルスとの戦争と考えてみよう。

「コロナウイルスにより、一日一千人が死んでいる。その状況では、副作用のある薬でも効果があれば使う必要がある」
例えば
「薬の副作用で1%の人間に悪影響が出ても、残り99%が救われるなら使う」

と言うのが、緊急事態の発想である。

「薬を使ったら、九百九十人が救われるが、副作用で十人が死ぬ」
しかし
「放置したら千人全員が死ぬ」

と言う状況は、戦争事態のリーダなら、躊躇無く決断する。このようなときは、統計的処理で、平均値や多数派を評価し、それらに対する施策を優先し実行することになる。

 これが平和なときなら

「副作用を受けた人の人権はどうなる」

と大きな声でわめく人が出てくる。このような多様性に向き合うのは、平和なときには大事なことである。私たち日本人は、このような平和なときの政治になれてしまっている。この特性をしっかり理解しておく必要がある。

2020年11月15日 (日)

HSPに対する私なりの対策

 前に書いた、HSP的な症状に関して、私自身が今まで生き延びるために、役だった対策を書いておく。

 一つの対策は、人に頼る他力の対策である。具体的には

「自分を受け止めてくれる人を見いだし、その人の前では無条件に自分をさらす」

コトで、心の安定を得る。更に応用編としては、

「部下に、自分の感受性の弱い面を知らせ、部下の方が感じたモノを報告や注意して貰うことで、適宜自分の行動を修正する」

様に、上手く分業する方法もある。なお、分業に関しては

「計画のように、じっくり考えることは自分が行う」
しかし
「直接人に接して、臨機応変に対応する作業は部下に任せる」

と言う風に、自分が苦手とする部分を明確にして、それをカバーする方法を考える手法もとった。

 二つ目の対策は、

「視野を広げて全体像を描く」

様にして、その結果として

「自分を客観的に見て評価できるようになる」
その結果
「自分を認めることができる」

ことで、心を安定させる方法である。周りについて、考えすぎることで、自分を追い込んでしまう。そこで、自分を含めた絵を描き、冷静に他人の視点や、理論的な知識で評価ができれば、落ち着いて対応できる。なお、ここで『絵』と言ったが、図形的なモノでも善いし、言葉での記述もあると思う。私は、時々シミュレーション的な小説を書くが、これも全体を把握するためには有効である。

 三つ目の対策は、

「自分の感覚の働き方などを、知識として知っておく」

ことで、

「何となく気が楽になる」

効果がある。例えば、

「自分が見るモノは網膜に映る全ての情報でなく、色々な知識経験等が影響した、脳内処理の結果である」

と言う知識は、

「全てを観ようとして、注意を払う必要が無い」
「必要なモノだけを見ればよい」

と言う発想にもつながってくる。また、

「ランダムに入ってくる雑音は、少しぐらいあっても耳に障らない」
逆に
「特定の音だけあれば、耳障りになる」

と言う知識があれば、個別の音に対してのこだわりが薄くなることもある。

 このように、知識が自分を助ける面もある。

2020年11月14日 (土)

HSP(高度感受性人材)について

 色々なところで、HSPについての記事を見るようになった。

 https://twitter.com/kenken_kaneko/status/1327182387915096064

 https://www.note.kanekoshobo.co.jp/n/n60ba14db91ff


 実は、私もこの傾向があるので、当事者としての意見を少し述べておきたい。ただし、私が精神科などにかかって、HSPと診断されるかは、微妙なところである。現在の日本の(特に)精神科の傷病診断は、

「脳機能の欠陥がある場合」

に判定が下りやすい。つまりHSPの診断のためには

「感覚の一部の感受性が極めて高い」

と言う状況なら診断がでやすくなっている。

 しかし、私の場合は逆に

「ミラーニューロンなどの働きが弱いから、認知機能をフル活動して補おうとして疲れる」

と言う症状である。もう少し具体的に言うと、

「一般的な人より、他人の感情を感じる力が、弱いと自覚している」
そのため
「何とか相手の心を推察しようと、色々観察したり推測したりしている」
この結果
「いつも気を使って疲れる」

と言う症状がある。例えば

「買い物に行っても、スーパーの中で、他人の動線を常に気を使い、邪魔にならないようにしている」
そこで逆に
「通路を塞いで話し込んでいる人等を見るとイライラする」

と言う状況になっている。

 私は、このように、

「自分の感性が弱いから、気配りし、頭を働かせて補う」

と言う

「後天的に身につけたモノ」

も、大きな負担になっていると思う。

 なお、感受性に関しては、一番の問題は

「情報を上手くまとめる機能の働き」

にあると思っている。必要なモノをまとめて一括りにする。不要なモノを識別して、意味の無い背景情報に落としていく。これができるかできないかでHSP症状が出ると思っている。この点はもう少し議論したい。

2020年11月13日 (金)

「アメリカ教」についてもう少し

 昨日の「アメリカ教」の話をもう少し突っ込んでみる。スミスの作品では

絶対の善も、絶対の悪もない。ただ「最大多数の最大幸福」の原則を守らないといけない

が出てくる。これは、当時のマルクス主義者の

「正義のための革命とプロレタリア独裁」

と言う発想に反発したモノであろう。それほど、当時のアメリカでは、共産主義者への嫌悪感は強かった。逆に言えば、

「共産主義者のスパイがどこに潜んでいるか?」

と言うかなり緊迫した状況にあったらしい。もっとも、この話は私たち日本人の平和ぼけの結果かも知れない。私たちも

「近所に住んでいる人間が、北朝鮮の工作員であって、拉致事件が発生し、同胞が多く連れ去られた。」

と言う痛い経験をしている。それでも

「朝鮮総連の権利を守れ」

と言う声は大きい。

 さて、絶対の善悪に関してもう一つ大事なことは

「キリスト教の教えからの決別」

である。最後の審判での裁き、ここで決まる絶対の善悪、これを否定している。逆に

「神のような全能の立場に、優れた人間が立つ」

発想が出ている。

 これは、

「貴族制度などがなく、誰もが成功できる」

と言う、アメリカンドリームの影響もあると思う。彼らが決めた人間の範囲では

「誰にも機会がある」

と言うのが、アメリカの正義でもある。

 このような、「神の立場」に到達できる可能性を、当時のアメリカ人達は、科学技術に進歩に見いだしていた。この一つのまとまりが、1989年に提案された

「すべてのアメリカ人のための科学」http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf

である。

 しかしながら、このプロジェクトは、盛りだくさんすぎて、実行には移せなかった。ここからも、アメリカの迷走が見えてくる。

2020年11月12日 (木)

「アメリカ教」があるか?

 このブログでは、山本七平が見いだした「日本教」について、色々と述べている。「日本教」は、キリスト教をはじめとする、ヨーロッパ文明に対比して考えると分かりやすい。

 しかし、ここで「アメリカ文面」について、考えてみると、「日本教」と大きく異なる、しかもキリスト教の文明とも、根本で異なるモノが見えてきた。今回は、私が考える

「アメリカ教」

について、議論する。今回議論する「アメリカ教」は、第二次世界大戦の戦勝国であり、しかもソビエト等の共産主義勢力と、正面から対決していた時代の産物である。当時アメリカで熱狂的に売れたSF作品から、当時の共産主義への反発というか、恐怖が伝わってくる。(実際、大統領の速記にまでスターリンの手が伸びていた。ソ連の侵略はそこまで来ていた。)

 私が、注目しているのは、E.E.スミスの一連の作品である。彼の代表作のレンズマンシリーズでは、人類の最強の遺伝子を組み合わせ新しい「宇宙の守護者」を生み出すというアイデアが組み込まれている。この作品が示しているモノは

  • キリスト教などとは違い、優れた人間は「全能の力」を持つことができる
  • 日本教と違い、優れた人間が権力を持って、一般庶民を救う
  • 科学に対する無邪気な楽観主義

であり、日本教ともキリスト教徒も違っている。

 なお、科学に対する無邪気な楽観主義は、二十世紀末には崩れていく。

 しかし、「アメリカ教」という戯概念で少し見えるモノがある。

2020年11月11日 (水)

会社の存続という問題

 米国では、

「会社が潰れることはよいことだ」

と言う発想がある。この主旨をもう少し説明すると

「時代に適合しない会社が、人材を抱え込むことを避けて、成長分野に人材を回せる」

と言う発想で

「会社が潰れることはよい」

と表現している。確かにこの話の実例として、太平洋戦争の真珠湾攻撃の裏話がある。

「日本海軍の真珠湾攻撃で、米国は旧式戦艦を多く失った。その結果、その戦艦に乗るべき人材を、新しい空母などに有効活用できた。一方、日本海軍は、大和と武蔵の巨大戦艦が最後まで残ったため、有能な人材を、大和や武蔵に縛り付けられたので、実戦での活躍ができなかった。」

この事例が示すように、旧来の組織が残ることで、資源の無駄遣いになる可能性はある。

 しかしながら、私たち日本人は、会社の存続と言うことの重みも知っている。よい実例が任天堂である。私は戦後の昭和からの人間なので以下の変遷を知っている。

  1. 昭和の30年代ぐらいまでは、たばこ屋で「任天堂の花札」を売っていた
  2. 昭和の30年代には、ディズニートランプを、トランプマジックの番組で上手く売り込んだ
  3. 昭和50年代からテレビゲーム機
  4. 昭和60年代からファミリーコンピュータ

等のすさまじい変化を遂げて、現在も生き残っている。この会社は

「遊びと言うことの専門の会社」

と言う「芯になるもの」を大切にしながら、色々と適合し成長している。このような、会社を残すよい面も知っておくべきだろう。

2020年11月10日 (火)

大阪「都構想」投票の真の勝者は?

 先日の「大阪都構想に関する住民投票」は、否決という結果になった。これは、都構想を推進していた維新の勢力には、痛手になったと思う。しかし、今回の住民投票の要旨を見ると

「大阪市廃止」

に関する賛否の表現が表に出ている。これでは、今回の住民投票の結果は、

「大阪市廃止だけを問うたモノで、二重行政廃止などの政策までは束縛しない」

と言う結論を導けると思う。確かに、投票用紙に

「大阪市廃止の賛否」

と書かれたら、反対側の票が増えることは予想できたと思う。しかしながら負けたときに被害を最小化する戦術なら、これは有効に働いていると思う。

 現在、二重行政排除のための条例案が提出されていると聞く。これは、維新の勢力が

「名目の負けを取り実利を取った」

戦術的な勝利ではないかと思う。松井市長のような老練な政治家なら、これぐらいの芸はするだろう。

2020年11月 9日 (月)

トランプ大統領候補は遵法的

 先日のテレビ番組で、橋下徹氏が

「トランプ大統領は法律はきちんと守っている」

とコメントしていた。

 確かに彼の評価は

「ならず者、無法者」

と言うイメージだが、合衆国憲法や、議会決議に準じた行動であることは間違いない。ただし、アメリカ議会の決議には色々なモノがあるので、そのどれを選択して実行するかという問題はある。そこでは、例えば「エルサレム首都運用問題」のように

「専門家の判断で、実行しないでおく決議」

と言うモノを実行してしまう。これがトランプの本質だと思う。

 こうした、

「専門家同士の暗黙の了解」
もっと言えば
「大人の知恵」

を無視する。ただし、これは

「教えられていない」

のだから、無視というのは不適切かも知れない。

 こうした、

「明文化したルール以外にある暗黙の枠」

の伝承は、昨日書いた新人研修の大きな問題だと思う。

2020年11月 8日 (日)

コロナ時代の新人研修について

 日経ビジネスの最新号が、「コロナ後の新人」と言う特集をしていた。

https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/mokuji/00094/?i_cid=nbpnb_sfrec

 この中でも、新人研修のあり方の議論がある。

  https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00650/
  https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00652/
  https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00653/

私は、某電機メーカーで研修関係の仕事を、15年ほどしてきた。その時に悩んだ問題が、

「新人をどこまで枠にはめるか」

である。もう少し解説すると、

「個人の独創性を壊してはいけない」
しかし
「社会の約束事を守らない人間は、他人に受け入れられない」
そのためには
「ある程度の枠への当てはめは必要である」

と言うジレンマである。

 これをもう少し具体的に言うと、

「能力のある個性は伸ばしたい」
しかし
「それが、あまりにも周囲とぶつかり、壊れることは避けたい」

と言うのが一つの悩みである。もう一つは、

「それほどの力が無いのに、自分の独自性があると思い込んでいる人在の扱い」

である。またこの逆に

「自分の力に自信を持てない人財」

の問題もある。よくあることだが、『人罪』向けに言った言葉が『人財』にだけ響くと言うことが多くある。そこで、『人財』が萎縮し、『人罪』がのさばる。このような事態もある。研修の難しさは、このような社員の全体像を見た上で、個別の対応を考える必要がある点だと思う。

2020年11月 7日 (土)

米国の大統領選挙について思うこと

 米国の大統領選挙が、トランプ候補の『負けっぷりの悪さ』で、混迷している。今回の選挙が,ここまでもつれ込むんだおかげで,米国の大統領選挙という仕組みが見えてきた。私たちは、

民主主義の模範としてのアメリカ

を見ているが、実際の米国は

「民主主義を試行錯誤中の国」

であった。そこでは、

「選挙制度も発展途上」

である。このように考えると、今回のトラブルも何となく納得する。

 もう一つ言えば,今までの米国の政治は

「政治の専門家達」

が支えていた。そこでは、専門家の間の暗黙の了解があり

選挙における負け方の美学

を共有していた。しかし、

トランプという素人の参入

は、このような暗黙の約束を壊してしまった。

 トランプが見ている

「負けた大統領の末路」

「韓国の負けた大統領」

という感じではないかと思う。

 民主主義は、もう少し時間をかけて完成させるべきではないかと思う。

2020年11月 6日 (金)

帰納的に考えるために

 論理的な思考法には、自明な公理から推論を展開する演繹的思考法と、経験を一般化する帰納的な思考法がある。しかしながら、両者には以下の欠陥がある。、例えば、万有引力の法則から、地球を含む惑星の公転について知るのが演繹的思考法である。一方、木からリンゴの落ちるのを見て、他のモノも落ちると言うことを考えるのが帰納的思考法である。

  • 演繹的思考法には公理の範囲から推論できるだけしか解らない
  • 帰納的思考法には誤りの可能性がある

今回は、帰納的思考法の欠点と、その対策について考えてみた。帰納的思考法の欠点は

「柳の下に二匹目のドジョウはいない」

と言う言葉が示すように、一つの事例を一般化しすぎる失敗である。言い換えると

「個別事例をどこまで一般化できるか解らない」

と言うのが、帰納的思考法の欠点である。

 このような帰納的思考法の欠点は、どのようにして防止することができるのだろう。

 私の提案は、

からくりの再構築

である。つまり、経験的に見たモノを、実現させる機能や機構を、思考の上で再構築してみる。これは

「与えられたモノを受け入れるだけではなく、積極的に自分で作ろうとする」

姿勢で学ぶと言うことである。

 こうした経験から、

「今見ている現象を実現させるからくりが見える」

状況になれば、どこまで一般化して善いか、限界も見えてくるだろう。

 学ぶことにおいて、積極性が重要である。

2020年11月 5日 (木)

『辺境』の悪い効果

 先日書いた辺境の話は、どちらかというとよい面を書いていた。しかしながら、物事にはよい面もあれば悪い面もある。今回は、悪い面について少しばかり議論しておきたい。今回の議論は、

「辺境における一部権力者の独断の弊害」

である。この問題の典型例は、1960年代末の心臓移植の話である。当時心臓移植は

「南アフリカなどの文明の中心以外」

で盛んであり、日本では

「札幌医科大学」

が最初に行った。日本の事例は、特に和田心臓移植事件として有名である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%BF%83%E8%87%93%E7%A7%BB%E6%A4%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 このとき言われたことは

「中央の相互監視の厳しいところでは、心臓移植は難しい。地方の独裁的権力者が行う可能性が大きい。」

である。つまり、

「辺境では相互監視が弱くなり、同断で事を進める可能性が大きい。」

と言う弊害が出ている。

 これは、新しいことの実行の裏側であるが、注意すべきコトである。

2020年11月 4日 (水)

今後の大阪のあり方について

 先日の『都構想』に関する住民投票は、僅差での否決となった。この民意に関しては、

「大阪市は残したい」
しかし
「維新の改革の道も支持している」

と言う両面のバランスが出た結果だと思う。

 そこで、今回の民意を維新の関係者はきちんと受け止め

「市議会の自民党など既得権益関連の集団を潰す」

コトに注力してほしい。現在の大阪では、府市の連携は上手くいっている。これは

「両方とも維新が議会の多数派で、首長も押さえている」

からである。この体制をきちんと維持していけば、別に『都構想』にこだわる必要は無い。見方を変えれば、『都構想』は、大きな組織をいじる、いわば『箱物改革』の発想に近い。維新の本質は、

「箱物より地道な体質改善」

ではないかと思う。このように考えると、

「旧来の記憶権益につながる集団の弊害を除去する」

ことを、一つ一つ地道に行っていくことが、維新の政策としてはふさわしいのではないかと思う。

 なお、旧民主党は、あまりたいした勢力にはならないと思うが、今回の都構想に関しても自滅している。

「解らなければ、とりあえず現状維持に入れよう」

という運動をしていたらしい。これは、革新政党にとっては致命的な発想である。現状の政治や社会に不満な人が、

「とりあえず与党に反対で野党に入れる」

と言う票を拾うべきなのに、

「とりあえず現状維持に入れよう」

なら革新政党の出る幕はなくなってしまう。もっとも、旧民主党の体質の一つは

「労働組合の利権団体」
であり
「既存の組合員の利権を守る現状維持のため、新卒採用を控えさせた」
結果
「就職氷河期を招いた」

と言う体質もあるから、本質的には現状維持勢力かも知れない。

 もう一度繰り返すが、維新の人たちは、都構想という大きな制度でなく、地道な活動で、府市の両面で勢力を伸ばして、無駄排除を頑張ってほしい。抵抗勢力の市議会自民党など潰していってほしい。

2020年11月 3日 (火)

大阪都構想の投票結果について

 昨日見た、大阪都構想に対する投票結果について色々と考えてみた。これが、市民の審判と言うことは、重く受け止めるべきである。さて、この結果について、私なりの解釈をしてみたい。

 まず、都構想が実現した場合をシミュレーションすると、

「大阪市議会の自民党は壊滅状態、府議会の自民党は維新と協力体制に入る」
つまり
「維新の完全支配」

と言う形なるのではと思う。

 一方、否定側が圧勝したら

「市議会の自民党が再度力を持つ」
そのため
「既得権益へのばらまき政策を再開する」

と言うシナリオが見えてくる。

 今回の大阪市民の選択は、その両者の間で絶妙のバランスを取ったモノだと思う。両極端の弊害を除去し、

「維新の政策は概ね良しとする、しかし絶対権力にはしない」

と言う落とし所である。もう一つ言えば

「大阪市廃止という、恒久的な変革は困る」
しかし
「維新の進める改革路線は、自民党のバラマキ路線よりはまし」
そこで
「市長や知事なら維新を選ぶ」

と言う意見が結構あるのではと思う。

 維新の勢力は、都構想にこだわらず、府市の合理化に進んでほしい。

 もう一つだけ、予言であるが、どこかのマスメディアの馬鹿が

「我々の力で、都構想を潰し、維新の独裁を封じた」

と自慢しそうな気がする。このようにして、『大新聞』が自滅する姿が、おぼろげながら見えてくるような気がする。

2020年11月 2日 (月)

マスメディアの安全策が本当に善いのか?

 昨日の読売テレビの、「そこまで言って委員会NP」で、考えるべき意見があったので、忘れないうちに書いておく。それは、

「マスメディアが安全策をとって報道しないことによる弊害」

と言う問題である。

 最初に出てきた話は、

「コロナ対策のための不況によって、多くの自殺者が出ている。」
しかしながら
「自殺に関する報道は追従者の可能性があるのでできるだけ控えるようになっている」

と言う状況で、マスメディアの報道は

「コロナ対策による自粛や行動制限のみ」

になっている。このような情報を与えられれば、多くの人たちは外出を控え、その結果消費も控え、景気が悪くなって倒産や失業が増える。そのために自殺等の報道は抑えられている。

 確かに自殺の報道は難しいモノがあり、個人の情報に配慮して、統計的なデータを出すだけでも、

「それほどいるなら自分も」

と追従者が出かねないと言う危険性はある。しかしながら、それでも現状を正確に示すことは、マスメディアの使命だと思う。

 さて、もう一つはカルト宗教に関する話であった。これは、司会の辛坊治郎氏が実体験を踏まえた話で言っていたが、

「一見神秘体験と思い込むこともあり得る」
と知らせるだけで
「カルト宗教の勧誘に対する免疫を付ける効果がある」

と言う指摘である。これも鋭い指摘だと思う。例えば

「座禅の姿勢のまま、数センチ飛び上がるだけでも大変な力がいる」
(並の人間にはできない)

であり、少し座ってみた人間は、数センチ飛び上がるのを見て感心するかも知れない。しかし、明治時代からの各種の呼吸法の話を知っている人間は、

「そのような飛び上がる例は少なくない」

と冷静に流すことができる。更に、このような結跏趺坐から跳ねると、着地の時に尾てい骨に刺激を与える。この刺激で、

「光のようなモノを見他と感じる現象は起こることがある」

と言う知識を持っていれば、カルト宗教の勧誘時に、

「ここでしかできない神秘体験」

と言われても、

「他でもある話」

と冷静に流すことができるだろう。この問題も、

「神秘体験は触れてはいけない」

とメディアが逃げずに向かうべきではないかと思う。

2020年11月 1日 (日)

「辺境」の意味について

 日経ビジネスの最新号に、「イノベーションは辺境で起こる」と言う記事が載っていた。この記事の主旨とは少しずれるが、私は

日本という国は中華文明の辺境の地

と言う発想がある。これは地勢的なもので、

「東の果ての島国」

と言う立場は、『辺境』とならざるを得ない。さて、この辺境のメリットを考えてみた。私の考えでは、辺境のメリットは

「文明の伝達が遅れる」
この遅延は
「完成度の高いモノを選んで受け入れることができる」

である。つまり、中華文明の色々なモノが、ある程度完成してから伝わってくる。従って

「全体像を見ながら、自分たちに合わせて、取り入れることができる」
「失敗作に巻き込まれることが少ない」

と言う利点がある。日本が外国の文明を受け入れる場合には、

完成度の高いモノを鑑賞し、その上で自分たちによいように消化しながら取り入れる。

と言う悪知恵が働いているように思う。これは、

「自分で苦労して開拓してモノでなく、成果をただ乗りしている」

と言う批判を受ける面もある。しかし、実用化するにはそれなりの苦労もある。こうした面も評価していくことも大切ではないかと思う。

 なお、現在は文明の流入が高速化している。これでは、失敗が淘汰されるまでに、新しいモノに飛びついていく可能性が出てきた。このような状況は、上述の辺境のメリットを無くしてしまう。

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