コロナ対応で考える日本文明の特異性
昨日の菅首相のコロナに関する会見で、スパンコンのシミュレーションを例に取った説明を見て、やはり『日本教』の
「大衆の理解力を信じる」
発想は生きていると思った。専門家の厳密な知識や思考力は求めず、直観的に感じ取る力で納得する。この力が、日本のコロナに対する
「全員参加での対応」
を実現している。これは前に書いた話の実例として残しておく。
http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-7a0a08.html
さて、ここで日米のコロナ対応についてもう少し考えてみよう。アメリカなどでは、指導者達が
「本当に大衆の知性を信じているか?」
については疑問が多い。それより
「強制的に命令し、従わせるしかない」
と考えているようだ。
さて、日米のコロナの状況で目につくのは、死者数の違いである。日本の二千台とアメリカの二十万台で、二桁の違いが出ている。
この状況を一言で言えば
「まだ通常状況の日本と、戦争中のアメリカ」
と言うべきである。
さてここで大事なことは、戦争中のリーダーシップは平穏時とは異なり、
「平和なときより人命が軽くなる」
状況である。
「死者は出さざるを得ない、その数を減らすのが、リーダーの仕事」
という発想になる。現在の平和日本では、このような発想を受け入れない人が多い。しかし、アメリカなどでは、戦時中のリーダーの役割という物はわかっている。そこでは、ワクチン接種においても
「少しぐらい副作用が出ても仕方ない」
と言う発想になる。この点を考えると、アメリカのワクチンは、日本より速く開発され、強引に実用化すると思う。
現在、日本政府、特に厚生労働省などは
「枠地の副菜用に関しても慎重に見極める」
と言う姿勢を崩してはいない。これは、平常時の対応である
「副菜用の被害者を一人でも出してはいけない」
と言う発想である。この発想で本当に良いのか、もう一度見直すときになっていると思う。
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