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2020年12月31日 (木)

2020年の振り返り

 今年も残りわずかになった。コロナに大きく影響された一年だったが、私個人にも色々と大きな変化があった。

 良い方の変化は、今まで考えていたモヤモヤが、かなりはっきりしたように思う。今年一年で見えたモノは

  1. 日本教の発想
  2. 質的研究の発想
  3. 空海が見た梵字のメディア論的な意味づけ
  4. モデルの安定性
  5. ヴェーバー著作の見直し

がある。来年はこれらをもう少し深めて、具体的な話に持って行きたい。

 さて、私個人にとっては、病魔にやられた一年であった。五月ぐらいからの皮膚病が、国指定難病である天疱瘡とわかり、6月末に入院、8月頭に多淫と、一ヶ月超えの入院生活を送った。しかもその最中にステロイドの大量投与(50mg/日)や血液製剤の点滴を受け、現在も免疫抑制剤を飲みながら、ステロイドの減薬をしている。このステロイドの減薬は長くかかりそうである。

 このような、吉凶両面で激しい一年だったが、来年はもう少し平安に迎えたいと思う。

 読者の皆様に、この一年のご愛読を感謝し、来年のご多幸を祈念して今年のまとめとしたい。

 

2020年12月30日 (水)

指導者の選別方法としての競争原理について

 先日書いた、アメリカや中国の競争原理による、ベンチャー企業の選別について、リーダー選択の観点で考えてみた。

 先日の記事はこちら 競争原理について考える: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 このブログでは、日本教の話を何度も書いているが、欧米文明の発想と、日本教文明の発想根本的な違いは、

キリスト教の影響下の欧米文明:人の能力は神の力都は遙かに劣る
               従って、完全な人間はいない

日本教の発想:        大乗仏教の全てが仏の力がある、神に人間もなれる
               従って、完全なる指導者が育つ可能性がある

にある。

 このような西洋文明の発想では、

「完全な指導者などはいない」

従って

「少しでもましな指導者を求めて、試行錯誤していく」

と考えるだろう。そこで、『競争原理による淘汰』は自然に出てくる。

 一方、日本教の発想では

「完全な知識と知恵で皆を導く指導者」

を求めて、皆が努力するようになる。ここに競争原理と別のモノが動くようになる。

2020年12月29日 (火)

会社と人間は違うのか

 昨日の競争原理に関する議論を見直して、一つの問題を見つけ出した。

  競争原理について考える: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

昨日の議論の問題点は、

「個人と会社を混同している」

である。つまり、個人が傷つくことを、会社と言うことに無意識に類推している。確かに経営者の一人一人は、個人でもあるが、会社というモノには別の見方があっても善いと思う。端的に言えば

「会社は潰れても善い、個人は潰してはいけない」

と言う発想である。この問題は、前にもこのブログで書いた。

  コロナ危機以降の社会について 続き: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

今回は、会社と個人の問題をもう少し考えてみたい。私が犯した誤りは

「会社に人間の類推を持ち込んだ」

である。これは、

「(組織を扱う)社会科学を(個人を扱う)心理学に還元する」

と言う単純化の失敗である。例えば、既得権益問題に関しても、組織として持つ既得権益意識の方が強烈な場合が多い。これには、いわゆる『空気』が発生して強固になっていく事例などがある。

 また、時代遅れ組織が、有能人材を抱え込む、事例も多くある。このように考えると、組織としての淘汰は、あっても善いのではないかと思う。

 ただし、日本人の場合には、まだ組織帰属の依存心が大きい人が多い。欧米では、もう少し個人が育っているように思う。この問題も考慮する必要がある。フーコーが『監獄』と言った監視社会、これを日本人は、近所付き合いなどの『組織組み込み』により、自然に実現している面がある。これは悪い面でなく、コロナ対応の自主規制の効果などでの良い面もある。

2020年12月28日 (月)

競争原理について考える

 昨日、テレビで『ベンチャー企業』の話を見ていた。そこで印象に残ったのは

「中国やアメリカの激しい競争社会」

つまり

「負けた会社は潰れる」
「生き残った強者に全てを取らせる」

と言う状況である。一方、日本の場合には

「大企業が生き残っている」

ために、

「ベンチャー企業が育たない」

という内容であった。このように、厳しい生存競争の場に放り込み、

「弱いモノは潰していく」

と言う発想が『市場主義経済』である。確かにこのような競争原理を使えば

「強いモノを選別」

はできる。しかし弊害についての議論が抜けている。それは、

「強くないモノの扱い」

である。いわゆる『敗者復活』や『セーフティネット』の発想が、『市場原理』や『競争原理』を主張する人から聞こえることもあるが、本当にこれで良いのだろうか?確かに、一度の失敗からの復活は、経験を生かした成長につながる。しかし、『敗者復活』で勝ち残れる人間は、並外れた力を持つ強者に限られている。敗者復活戦でも負けた人間はどうなるのか?これに対して『ベーシックインカム』は一つの答えになっている。しかしながら、ベーシックインカムの発想は、

「生存だけの保証」

であり

「モラルなどの面は考えていない」

という感じがする。それまで、上昇志向で必死に頑張ってきた人間が、簡単に

「負けたら終わり」

と納得するのだろうか?

 もう一つの問題点は、人材育成の観点である。昔あるソフトウエアのベンチャー経営者が講演したとき

「社内教育は、できる人間を見いだす手段」

と言いきった。これは、つまり

「育てる発想はない」

ということで社内の技術蓄積を大事にした、『大企業文明病』の自分達にはカルチャーショックであった。

 しかしながら、多様な人材を生かすためにも、育成の努力は必要であり、蓄積の伝承の効果もある。蓄積と変化の両面を生かす、日本的な経営が求められている。

2020年12月27日 (日)

常に変化する自然界との付き合い方

 コロナウイルスの変異が発生した。これは、

「イギリスで変異したウイルスが発生」

と言う観点と

「イギリスの科学技術力があってこそウイルスの変異を発見できた」

と言う二つの観点がある。私は後者の観点が正しいように思う。人間の認識能力は、その人の力や経験等が影響している。しかし、その影響をしっかりと理解している人は少ない。

 さて、今回のウイルスの変異だが、これは十分起こりうることである。もう少し一般的に言えば

「自然界にあるモノは常に変化する可能性がある」

と言う原則がある。外界からの影響、自分自身の不安定性、これらの影響で常に変化する可能性を持っている。もう少し言えば

「現在存在するモノは、何らかの手段で、自分を安定化させている」

コトが多い。これは、フィードバックなどの作用で、

「外れたら戻す」

機能が働いているからである。

 さて、これは私たち自身の認識機能や意識にも、あてはまる議論ではないかと思う。つまり

「私たちが意識的に考える、世界のモデルは常に変化している」

ので

「思考の前提や、認識の時の選別基準は、常に変化している」

状況にある。つまり

「私たちの思考は、自分で思っているよりも不安定」

なモノである。これが認識できていない人が多い。もう少し言えば

「不安定さの不安を隠すため、一度言ったことに固執する」

等の、無意識の防御反応がでている人もある。

 ただし、この不安定さは、悪い面だけではない。変化することで、良い方向に行く可能性もある。多様な可能性を拓き、そのなから善いモノを選んでいく。これが、私たちの進化ではないかと思う。そのためには

「自分達が善くなっていくことを信じる」
「従来に捕らわれず、善いモノを見いだす」

姿勢が大切ではないかと思う。ただしこの姿勢は、実行することは難しいモノがある。何故なら

「伝統に従って、先例墨守の方が楽」

と言う側面が強いからである。この抵抗もしっかり認識しておく必要がある。 

2020年12月26日 (土)

日米の開発力に関する議論

 日経BPの記事に、

 「失敗を恐れない」 元宇宙飛行士が語るスペースXのスゴさ(上):日経ビジネス電子版 (nikkei.com)

があった。興味深い議論だがその中で  

 スペースXは、人命に影響があるなどの致命的な結果を招かない限り、たとえ大きなリスクであったとしても積極的に取ります。これも開発のスピードを速めた要因だと思います。

~一部略~

 もちろん、何でも無謀にやっていいわけではないですが、コストも実は、実際にやってみて失敗したほうが安くつく場合が多いのです。

 というのも、失敗を恐れて実験をしなければ、同じ問題を解決するのにもっと長い年月がかかってしまいます。高給で優秀な技術者を長期間、雇い続けなければなりません。でも失敗をしてそこから学べば、結論に早くたどり着けます。失敗は、それほど数多くの知見を技術者に与えてくれるものなのです。

と言う部分について、もう少し突っ込んでいきたい。

 この記事が言いたいのは

「日本の組織は、失敗を恐れてチャレンジしないから開発スピードが遅い」

と言うことだが、スペースXの開発においては

「有能な人材を抱え込む費用を最適化するには、短期で結果を出すべきであり、失敗でもかまわない」

 と言う発想がある。これをもう少し突っ込むと

「アメリカでは人件費は変動費、日本では固定費」

と言う観点がある。つまり、アメリカの場合、有能な人財でも有期契約で切っているので、できるだけ契約期間を短くして、早期に結果を出す、と言う発想がある。

 一方、日本の場合には、長期雇用契約の正社員に仕事をさせる場合には、

「どのみち人件費は発生するから、しっかり検討して失敗しないようにしよう」

と言う発想がある。この観点で、日米比較を行ったら、もう少し見えてくると思う。

 なお、スペースX的な管理には、もう一つ大事な発想がある。

「有能な人財を悩ませる時間がもったいない。失敗でも実行したら早く決着がつく。」

と言う、『仕事の上での悩み』に対する配慮である。これは開発管理の上で大切だと思う。

 一方、日本的な管理には

「時間をかけて人材を育てる」

と言う発想がある。これは、長期雇用の安定の上での能力開発のメリットだと思う。

 両者の善いとこ取りとして、老舗和菓子店の「たねや」の経営手法も面白い。「たねや」では、色々な新製品が出てくる。この発想は

「一勝九敗」

という感じで、若い力にチャレンジさせ、そのうち生き残ったモノを製品として残していく。こうして

「チャレンジさせながら、人材育成も行う。そのために、芯となる製品でしっかり稼ぐ。」

発想が、長年生き延びた老舗の智慧だと思う。

2020年12月25日 (金)

自然界の物を見ると言うことは?

 昨日の立体視の議論をもう少し進めて考えた。

複眼的な思考と立体視: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 昨日の議論で、機械製図の図面を取り上げたが、図面で表せる情報は、その形状が主である。なお、加工の精度なども情報として追記できるが、それだけで、そのものの情報全てとは言えない。つまり、機能などは、自分が塑像しないといけない。しかしながら、これは設計された物であり、設計者の意図は、何らかの手段で手に入れることができる。(設計者が奇矯すぎたら誰も解らないと言うことはありうる)

 しかし、自然界にある物を見るときに、その形状は見ることができるが、その働きなどを見ることはできるだろうか?例えば、多数の木が神社の周りにある。この木は、暴風林としての働きなどもしていると思う。しかしそれはどうして解るのだろう?

 このような解釈は、私たちが今まで持っている知識から導き出される物である。学校等から教えられた知識、そして自分の体験で学んだもの、これらが、目の前にある物の働きを、私たちに見せてくれる。学校で『防風林』という言葉を学ぶ、さらに子供の頃に、風が寒いときに、林の中に逃げたら『風の寒さが和らぐ』という体験をした。このような情報が上手く組み合わさると、神社の周りの木々が防風林と見えてくる。

 このように、自然界にある物を見るときには、自分の体験や知識に影響されて、そのフィルターを通して、その知識に合う物を見ることが多い。

 こうした知識の影響を意識することも大切だと思う。

2020年12月24日 (木)

複眼的な思考と立体視

 多様な経験や、複数の学問を身につけることで、複数の視点で見ることができる。これで、物事を立体的に見ることができる。このような意見を慶応大学の坂井教授が言っていた。

ミルグロム教授(1)ビジネスに使える! オークション理論って何?:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)

 この話、もう少し精密に議論しておきたいと思う。

 まず、複数の視座から見ることで、

「そのモノが現実にあるように立体的に見える」

と言う現象はあると思う。ただもう少し整理すべきではないかと思う。

 まず厳密に、立体的なモノを、二次元の複数視座から合成する方法がある。これの代表は、機械製図の三角法である。正面・側面そして上方などの直交した視点からの図形を、3枚合わせることで、立体的な形状を二次元の図形に落としていく。個のようね厳密な記述法がある。

 一方、人間の視覚は、両眼から入ってくる情報を、脳内で処理して、立体視している。このような脳内処理の働きを自覚するためには、特殊な印刷の図形による、立体視を経験するのがよい。このような

「脳内処理の能力が私たちにある」

これを意識することが大切である。

 さて、今回議論するのは、

「社会現象などの立体視」

である。これは、

「自分達がモデル化したモノが自律的に動き出す」
「多様な見地から見れば、別の性格が見えてくる」

と言う状況である。例えば、小説などを書くと、

「登場人物が勝手に動き出す」

時がある。こうしたモノを想像する、これが本当の複眼的思考法だと思う。

 このようなスキルは、簡単に身につくモノではない。しかし求めない人はそれを探すこともない。このような、想像したモノが動く効果を知っておくことは大事だと思う。

2020年12月23日 (水)

最後にマックス・ヴェーバー

 ここしばらく書いている西洋文明の進化について、マックス・ヴェーバーを方法論で考えてみた。ヴェーバーの

『理念型』

は、プラトンのイデアの発展したモノである。一番の違いは

「概念と同時に,その概念が使われる状況も一体化」

して考える所にある。イデアは、どこでも使えるモノと考えていたから、個別のモノの定義をきちんとしたら善いという発想である。確かに,ユークリッド幾何学は、『点』や『線』の定義させしっかりしていれば、どこでも使える。(非ユークリッドの空間は別として)

 しかしながら,社会の学問では、『貨幣』と言っても使われる環境で色々な意味が出てくる。

 このように、使われる環境や,理論と一体になって,概念を使えるようにした。これがヴェーバーの理念型の効果だと思う。

 ヴェーバーは,色々な社会を比較する研究も行っている。

 こうした、

「多様性を見ることから本質を見いだす」

力は、AI等の力を本質的に引き出すために必要だと思う。

2020年12月22日 (火)

次はニュートン

 昨日書いた、ガリレオ達が拓いた科学的思考は、『測定』という道具を、科学に与えた。

「測定できれば数値化できる」
そして
「数値に対して数学的な手法が使える」

 このようにして、ケプラーは地球などの軌道を、楕円形であると導いた。

 更に、ニュートンは、微積分という数学的手法を編み出して、力学の理論体系を作り上げていく。力学の世界は、数式で予測したモノが、きちんと現実の世界にあてはまる。天文学に対して、物理学の理論的な予測が使われて、新しい惑星等が見つかったりした。

 この後は、物理学は数学的な基礎がなければ成立しなくなっていく。数学の、綺麗な理論体系によって、多くの物事が説明され予測される、予測を観測で確認することも行われていく。こうした物理学的世界観が、産業革命以降の技術進歩を生み出す。これを見た他の学問も、物理学の様な『数学的な記述』を欲しがるようになる。

 この影響は、社会科学などにも及び、統計的数値の活用などが、社会科学の方法論に持ち込まれるようになった。

 しかし、ここで一つ大事なことを、確認する必要がある。それは、

「力学の理論の成立は、理想化された条件である」

例えば、

「大きさがない質点に、全質量を集中したとして、運動を考える」

と言う発想である。これで、現実の物と対応したときに誤差が生じる。例えば、野球のボールに

『重い球というコトはあり得ない」・・某物理学の参考書
「打ったときに手応えが違う。XXの球は重い」・・野球選手の実感

これは、ボールの構造や、バットとボールの接触の状況などを精密に調べれば、

「反発力が大きい『軽い球』も、反発せずに食い込む『重い球』もある」

と言う発想が出てくる。このような、理想化と現実の関係に向き合うことが、本当に物理学的世界観を生かすことになる。

2020年12月21日 (月)

ルネッサンス以降の科学

 先日からの西洋文明の力に関する議論は、ルネッサンス以降で大きく変化する。

 古代ギリシャの哲学についてもう一度考えてみた: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 リーダーの条件(哲人政治を見直す): 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 『法』というシステムの力: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 ルネッサンスの時代は、先人の成果に縛られることなく、自分たちの目で観察し、本質を考える様になってきた。それまでの『教会の権威』に従って、アリストテレスなどの『先人の発言を○のまま信じる』のではなく、

「自らの目で観察したモノを信じる」

コトを重視するようになった。レオナルド・ダヴィンチの詳細な観察はその一例である。

 この後科学は『実験』という手段を手に入れる。ガリレオは、思考事件と現実の物での実験の両面で、大きな貢献をした。思考実験の事例は

自然学(アリストテレス)の
「重い物は速く落ちる」
と言う説に対して
「鉄の玉を二つ独立に落とす時と、紐でつないで落とすときは、同じ速さで落ちるだろう」
と言う反例

が有名である。

 また、物の落下に関しては、

「普通に落とせば、速すぎて測定できない」
そこで
「斜面を作ってゆっくり転がすコトで見えるようにした」

と言う具体的な物での実験を行っている。

 このように、観察と実験という、

「理論を現実の世界で確認する」

手法が生まれてきた。

2020年12月20日 (日)

『法』というシステムの力

 先日から書いている、古代ギリシャの哲学の力に関連して、西洋文明の基盤には『ローマ法』が存在することに気がついた。ローマ法を狭く取るのではなく、西洋文明の基盤としての『法』というシステムで考えると、

「有限の明文化した規則で複雑な社会を制御」

を可能とした優れた機構である。

 複雑な現実を,限られた文字数、そして文の数で記述する。これを実用化するために、抽象化の階層的な構造ができていく。また現実への適用に当たっては、一般的な原理から具体化していく方向を考えて、応用を利かせないと行けない。このような仕組みは、私たちにとっては当然と思っているだろう。しかし、実際には前例に縛られた制度が多くあるし、一般原則からの展開という発想が解らない人もいる。

 もう一つ大事なことは,このような『法体系』という形になったモノがあれば、それに対する議論ができるようになる。

「正しいと言えるモノは作られたモノ」

これは、社会学の祖であるヴィーコの言葉となっているが、ヴィーコ自身が『法学の教授』を目指していたことを思い起こすと、やはり法というシステムが、西洋文明に貢献していると思う。

 私たちは、基礎的な教養として、またスキルとして、法律の階層構造を知り、一般原則から具体例への展開について、訓練すべきではないかと思う。

 

2020年12月19日 (土)

リーダーの条件(哲人政治を見直す)

 先日書いた、ギリシャの哲学についてもう少し、その時代に立ったつもりで、考えてみた。

 プラトンは「国家」の中で『哲人政治』が望ましい形だと書いている。現在の私たちは、『民主主義』を正しいと教育されているので、独裁につながりかねない『哲人政治』には、嫌悪感を持つ人も少なくないだろう。

 しかしながら、プラトンやソクラテスが生きた時代を考えてみよう。現在のような学問体系や教育システムは存在しない。そこで、

「善き市民にするための教育」

はどのように行われていたかを考えてみよう。ここ答えは、プラトンが書いているように

「先人の功績をたたえる叙事詩を学ぶ」

形で行われていた。つまり、市民として勇敢に戦い、知恵を働かす。このような価値観を、昔の英雄の活躍等で伝えていた。これに対して、ソクラテスやプラトンは

「哲学者は、本質を考えて、普遍的な規則性を見いだすことができる」

と、哲学的思考法の優位性を説いた。このように考えると

「先行事例を単純になぞるより、その本質を見抜き一般的な規則性を見いだす力」

を持ったリーダーを選ぶのは、皆のためになると思う。

色々な物事の、本質を見抜き、普遍的な規則性とその限界を見いだす力

このような力が、リーダーにある。これは望ましいことだと思う。この力を身につけることが、哲学を学ぶなら、指導者の訓練としては善いと思う。単に

「プラトンの本のXXにXXと書いている」

と応えて、大学で単位を取るだけの哲学者ではない。また専門的な狭い範囲の議論だけの学者でもない。現実世界の本質を見抜く、哲学的な思考法を使う『本当の哲人』の指導は善いモノだと思う。

2020年12月18日 (金)

わかりやすい物を作るために

 昨日見た、日経BPの「ノーベル経済学賞ミルグロム教授のオークション理論」の解説で、色々と思いついたことがあった。

 その中で

「よくわかっていない人が仕組みを作ると、色々な意見のつぎはぎで、複雑すぎて使えない物になる」

と言う主旨の発言があった。この問題に関して、私は自分で経験したことがあり、もう少し詳しく説明できる。

 私が、1970年代半ばに、マイコンの組み込みソフトを作ったときには、プログラム生産性の向上が最大課題であり、そのための有効な手段が標準化であった。私は、開発担当として、この問題に正面から取り組んでいった。ただし、標準化は巻単位できるモノではない。最初の製品は、何とかロジックと設定部門の分離をしただけであった。次の製品は、スペックの可変範囲を全て吸収しようとして、複雑なモノとなってしまった。このときの教訓は

「使い方の説明書が書けないようなモノは使えない」

であった。

 こうして苦労していると、

「自分の仕事の全体像が見える」

時が来た。そこで私が思いついたことは

「処理をデータの変換と見て、フォーマットを記述する設定表を使う」

である。このとき学生時代に習ったFORTRNのFORMAT文や、コンパイラの知識が色々と応用できると見えてきた。

 こうして

「全体像を見渡した上で、すっきりした標準化製品を作る」

コトに成功した。

 なお、このとき

「全ての要求に対応するのではなく、頻度の少ないモノは、その時々の特殊処理で対応」

と割り切ったことも、複雑怪奇なパッチワークを逃れるために要綱であった。

 この話は、

「使いやすいモノを作るための考え方」

として有効だと思う。

 なお、この講座の中で、慶応大学の坂井教授が

「複数の視点で見ること」

の有効性を指摘しているが、上記経験談でも

  • 色々な現場体験
  • 学生時代のプログラム経験
  • コンパイラの知識

と言う、複数の視座が役立っている。   

2020年12月17日 (木)

古代ギリシャの哲学についてもう一度考えてみた

 先日から、マックス・ヴェーバーの『職業としての学問』を読んで、プラトン達の求めたモノについて、考え直してみた。実は、この問題は前にこのブログで一度書いている。しかしその時見えなかったモノがあるので、今回はもう一度議論したい。

 西洋文明の発想について振り返ってみる 古代ギリシャ: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 ソクラテスの見た世界: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 今回の論点は、プラトンやソクラテスが求めたモノは

「良き市民としての生活」
であり
「先人の教訓を生かしてよりよい生活にする」

と言う観点である。そこで、ソクラテスの前に行われていた手法は

「古代の出来事を叙事詩で伝える」

であった。しかし、ソクラテスやプラトンは、このような具体的な事例の裏側にある、本質的なモノを見いだす可能性を発見した。それが

「幾何学が使っている『概念』による抽象化」

である。当時の幾何学は、測量を抽象化して、同じ図形と言う概念の本質を押さえて

「合同な図形ならどこでも同じ」

と言う普遍的な原理を与えていた。このような

「抽象的な『概念』を使って普遍的な規則性を見いだす」

手法が哲学者の道具として使えるようになった。この発見がプラトンの『国家』の中で

「詩人より哲学者が若い人の教育をすべき」

と言わせている。

2020年12月16日 (水)

GoToに関する議論は本質を突いているか?

 政府が、GOTOトラベルを停止した。これは,現状ではやむを得ない話だと思うが、何か間違っているように思う。私も前に、医療関係の問題としてこのブログで議論したが、今一歩踏み込み不足だった。

Goto停止より行うべきコト 本質への対策: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 今回は、経済面からGOTOについてもう少し議論したい。まず根本問題は

「経済振興対策としてGOTOは効果があるのか?」
いいかえると
「もっと良い政策がないのか?」

である。更に踏み込むと

「政治が経済振興にどこまで踏み込むべきか?」
つまり
「個別企業の自助努力に任せるべきでないか?」

がある。これは極論すると

「小さな政府は関与を最低限としてセーフティネットだけにする」

と言う発想になる。私は、この意見に少し賛成する。理由の一つは、

現在の官僚は、法学部出身者が多く、経済政策など解っているのか?

もう一つは、

政府の中央発想で多様化した経済対策ができるか?

もある。確かに、昭和の時代なら、経済出身と言っても、マルクス経済学なので、本当に役に立つかは疑問であった。当時は、アメリカに追いつく形で、『中央集権的な大企業先頭による突破』政策が通用した。

 しかし、現状の多様化対応の経済では、中央官庁が考える景気振興策には限界があると思う。それよりは、規制の見直しや、セイフティネットの救済策に注力するのが、政治のあるべき姿ではないかと思う。

2020年12月15日 (火)

ジェネリック医薬品の問題

 水虫の飲み薬に、睡眠導入剤の成分が混在して、死亡事故にまでつながっている。この問題は、

「作業者の不注意」

と単純化せずに、もう少し深く考えるべきだと思う。今朝の朝日新聞を読むと

「工場での検査データに、通常と異なる値が出たが、問題の無い範囲であった」

と書いてあった。

 私は、これを

「会社の検査態勢の甘さ」

につながっていると考える。つまり、

「微妙な誤差にも敏感に原因を追及する」

から本当に良いモノができる。一方、利益が大事なら

「今日範囲での物作りで良い」

と言う発想にもなる。

 ジェネリック医薬品は

「安価で医療費の削減に役立つ」

と色々な面から推奨されている。

 しかし、人の体に入るモノは、

「主成分だけでなく、充填物など全てに注意を払う」

必要がある。そこまで、きちんと配慮ができているか、しっかり見届けるべきだろう。そのためのコストは、利用者負担になっても、不純物混入などで病気になるよりはましだと思う。

 このように、本当に良いモノを求める努力が必要ではないかと思う。

2020年12月14日 (月)

『有能な人』という表現の危険性

 先日歴史の本を読んでいたら

「後醍醐天皇は無能」

と言う説があった。

 この議論について、たしかに建武の新政の状況を見れば、

「後醍醐天皇の政治能力は低い」

と言う判断には納得する。しかし、鎌倉幕府を倒した、

「革命家としての能力」

は高く評価すべきではないか?このように考えて、

「人の能力を、機能に対応して評価する」

発想について考えてみた。

 会社生活では

「XXサンは有能である」

と言う評価をすることが多い。しかし、よく考えてみると

「XXさんは(XX業務で)有能である」

と言う(XX業務で)の部分が、隠れていることが多い。確かに、思慮の深さ、発想の豊かさ等、個人の資質が優れている人はいるが、業務対応で有能さを示している人が少なくないことも現実にある。

 さて、このような個人を『有能』と評価することは良いのだろうか?これは、裏側の議論を考えると、危険性がよくわかる。先ほどのXXサンが、別の業務に移ったとする。そこで、仕事ができなかったら

「XXサンは、無能だった」

と人格の否定になってしまう可能性がある。ピーターの法則の

「人は自分が無能であると証明されるまで出世る」

はこの一例である。

 このように考えると、人の能力は、業務や機能に関連付けて

「XXサンはXXの仕事では有能である」
「XXサンのXXスキルは高い」

と表現するべきだと思う。

2020年12月13日 (日)

ソクラテス、プラトンそしてヴェーバーの見たモノ

 昨日の話を、もう少しその人達を想像しながら考えてみた。

 まず古代ギリシャの哲学者の立場で考えてみよう。ソクラテスやプラトンは、

「市民のあるべき姿」

について考えていた。彼らが生きている状況は、色々なことが起こっている。この多様さの中で、

「本質的なモノは何か?」
「普遍的なモノはあるか?」
「何か一般的な規則は?」

と言う疑問を持つのは、

「同じような失敗をしない賢い人間になる」

ために大切なことである。このような動機付けで、悩んでいた人たちに、『ユークリッド幾何学』と言う成功事例が与えられている。そこでは、

「現実世界の多様な形を、抽象化した点や線で考えることで、一般化し体側を見いだし、しかもそれを定義や公理という、少数の前提から展開できた」

と言う、理論展開の成功例があった。そこで

「現実の事象を『概念』で切りとり、本質的な関係に注目する」
「『概念』の間に本質的な因果関係を読み取る」

手法が有効であると気がついた。これが、ヴェーバーの指摘する、『概念』の発見である。

 このように

「自分で法則性を見いだす」

ために注力している人間には、

「現実の複雑さから雑音を除いて、本質的なモノで理想化する」

手法が有効である。与えられた、法則を使う立場なら、

「抽象的、理想的な話は現実的ではない」

と切り捨てるかも知れないが、自分で切り開く人間には、『抽象化』という道具は有効である。

 ヴェーバーもこれを考えて、『理念型』の発想に至ったのだろう。

2020年12月12日 (土)

マックス・ヴェーバーの理念型について

 マックス・ヴェーバーの理念型は、定性的な議論を行うために、基本として抑えるべきである。社会科学などの人文系の研究では『概念装置』を上手に使うことが、成功のために必要である。しかしながら、たんに『概念』だけで話が終わるわけではない。その『概念』が働く世界を構築し、その上での動きを見ることで、『概念』の有効性が解ってくる。しかし、世界を見る時に、『概念装置』を上手に使って、必要な部分だけに注目する必要がある。このように、『概念装置』と『モデル世界』の両者が、お互いに相互関係を持ちながら明確になっていくのが、理論の構築過程である。

 さて、このような理論成果が、他から与えられた人にとっては、

「理論は現実とは別のモノ」
「現実を知ることが大切」

と言うコトが多くなる。

 しかしながら、自分で現実と向かい合い、

「多様な現実の中から、普遍的な法則を見いだす」

ために注力しているなら、

「根本的な要因は何か?」

と複雑な状況を切り取り、

「問題解決に本質的な要素だけに理想化した概念装置」

で考えることは、一つの有効な手段だと思う。

 マックス・ヴェーバーは「職業としての学問」の中で、プラトンの『洞窟の比喩』を引いて、『概念』の発見が、古代ギリシャの哲学を育てたと言っている。私は、もう一歩遡って、『ユークリッドの幾何学』の

「抽象化した図形は、普遍的な特性を持っている」

と言う経験が、ソクラテスやプラトンに『抽象化した概念=イデア』の力を発見させたと思う。

2020年12月11日 (金)

Goto停止より行うべきコト 本質への対策

 コロナの猛威は、まだ収まりそうにない。そこで

「Goto制作の停止」

と言う大声を上げている人たちがいる。確かに政府の見直しが遅いこともあるが、今言うべきことはそれかという感じもする。

 現在の状態は、

「北海道(旭川)で発生し、大阪等で発生しそうな医療崩壊の防止」

が一番の課題である。そこで行うべきコトは、

「医療従事者の負荷低減」

であり、これに関しては直接的な人員の対応も必要だが、それ以外に管理面等でできることが多くある。この問題に関しては、大阪と他の都道府県との温度差がある。もう少し具体的に言うと

「大阪府の吉村知事が率いる医療行政関係者は、病院の割り当てなど細部まで自分の問題として対応している」

一方、東京の小池知事などは

「病院に患者を押しつけたらそれで終わり」
「誰かに押しつければ終わり」

と言う空気を感じる。

 責任感の違いが、大阪の危機を突出させているように思う。

 さて、ここで大阪の状況を見れば、取るべき対策が色々と見えてくる。

 一つの処方は、

「病院清掃や、食事の提供などの補助業務から医療従事者の解放」

である。ただし、このような作業者は

「コロナ汚染地域の活動なので、特殊な装備と訓練が必要」

である。当然それなりの処遇も必要であるが、医療従事者ほどの養成期間でなく、装備の使い方を訓練して、ルールをきちんと守れば、コロナ感染もなく、ウイルスまき散らしもない作業ができるようになるだろう。

 行政面では、このような

「ウイルス汚染地域作業従事者」

等の制度を作り、医療従事者の間接作業を減らすことで負担低減委なると思う。このような作業者の訓練は、自衛隊が経験を積んでいるので、自衛隊や自衛隊OBの活用も良いと思う。

2020年12月10日 (木)

弘法大師空海と山の一族の関係について

 弘法大師空海に関する伝説の一つに、高野山をその土地の丹生の神様から、譲り受けたという話がある。

 しかし、この話もう少し、その時代背景も含めて考えてみた。当時も水銀など山でとれる鉱物は貴重であった。また、農耕においても、鉄の道具は大事なモノであり、このような鉱物加工品を提供する一族は、それなりの力を持っていただろう。

 さて、このような鉱物を採取する場合には、

「どこに鉱物があるか見いだす力」
(ダウンジングと言う)

が大切である。また、鉱物採集に関連した土木技術も必要である。

 空海は、ある種の超能力を持っていたし、『弘法の井戸』の伝説が示すように、ダウンジングの才能はあっただろう。従って、

「山の一族にとって空海は貴重な人」

であった。そこで、空海が

「唐で勉強したい」

と言えば、必要な金を支援するぐらいのことはやっただろう。先が見える指導者なら

「ついでに、土木工事についても勉強してくれ」

と言ったかもしれない。こうして、空海は唐に入ったときには、豊富な資金があったので、職人を雇って法具や曼荼羅なの複製を多く作り、日本に持ち帰ることに成功した。これだけの経済力は、当時の『鉱山を操る一族』などの有力者が後ろにいるとしないと説明がつかない。

 このように考えると、高野山の選定も、既に話がついていた可能性がある。

 『もののけ姫』は名作であるが、あのような対立だけではないような気がする。

2020年12月 9日 (水)

応援の心得

 今回のコロナ対応での応援に関して、トラブル発生時の応援一般の問題を考えて見た。私は,医療関係者ではないが、ソフトウエアのプロジェクト崩壊などは色々と経験している。応援をする側、受ける側、両方を経験している。さて、今回のコロナ対応の応援で一つ気になることは、

  • 上から目線の応援
  • 下働きでの応援

のどちらの姿勢で応援者が入るかという議論である。

 クルーズ船のコロナ患者に対応に対して、「偉い先生」が口出しして、つまみ出されたという話がある。このように、

「混乱したように見える現場にも、荒削りな秩序でもあればそれを尊重すべき」
〈この秩序を崩壊させると混乱が激しくなる〉

と言う原則は、トラブル現場では大切である。時間余裕があるならば、理想的な形を議論し体制の組み替えも必要である。しかしながら時間との闘いの場では、

「現状あるモノが動くならそれを使う」

発想も大事である。

 しかし、

「秩序が完全に崩壊している」

状況では、全体を見て

「支配する」

ぐらいの「上から目線」的な介入が、関係者のモラル維持に効果的な場合もある。

 応援というのは難しいモノである。

2020年12月 8日 (火)

応援から学ぶ

 コロナ対策として、大阪府の要請に対して、いくらかの都道府県から、応援の派遣が検討されている。

 これは、応援する側も活かすべき機会と思う。大阪では、専門病棟をプレハブで作るなど、先進的な試みをしている。また、住民に対しても、積極的な広報活動も行っていたし、飲食業界なども協力的に動いていた。

「それでも大量の重症患者を出した」

さらに

「重傷者のベッド数が余裕なし」

と言うかなり危ない状況になっている。行政側がしっかり動いても、ここまで危機となったのはなぜか?

「大阪で起こったことは、全都道府県の行政の教訓とすべき」

と言う観点で、現地で起こっていることをしっかり学ぶべきだろう。

 そのために、現地に応援という形で、指導者クラスの看護師の派遣はあると思う。

 なお、阪神大震災の時、全国の電力会社から、応援として多数の人材が派遣された。これは、現場で役に立つ戦力としての面より、

「各電力の社員に、震災の被害状況と、復興の手順を見させる」

もくろみがあった。

 地方自治体の首長にも、このような見識を持ってほしい。

コロナ対策における自衛隊の活動について

 コロナ関連での病院の過負荷に対応して、北海道と大阪府に自衛隊が、災害派遣として看護官の派遣を検討している、との報道があった。

 新型コロナ: 自衛隊看護師を北海道に派遣 政府、大阪も検討: 日本経済新聞 (nikkei.com)

 さて、この派遣は看護官だけで良いのだろうか?

 私は、コロナ対応は、

「生物化学兵器との戦いの場」

の一つと考えている。確かに国際法上は、生物兵器の使用は禁止となっている。しかしながら、相手国の主権を無視し、侵入して拉致を行う『無法国家』が、直ぐ近くにある。その国は、少なくとも化学兵器については色々と噂されている。オウム真理教事件の、サリン製造に関してもK国の関与の噂があった。このように、生物兵器にも手を出しかねない危険な国が、直ぐそばにある。私たちはこれを忘れてはいけない。

 そのような状況を考えると、

「自衛隊は生物化学兵器対応の訓練を、きちんと行っている。」
「優れた実力を持っている」

と内外に誇示することは、防衛上も大事なことではないかと思う。例えば、クルーズ船の患者搬送などの場でも、

「自衛隊員は感染せずに任務を遂行した」

これは世界に誇るべき能力である。もう少し露骨に言えば、

「例えK国などが、生物化学兵器で我が国を攪乱しようとしても、自衛隊員は無傷で反撃する力がある」

と誇示することで、どこやらの『太りすぎの独裁者』に、

「日本に侵略したら反撃する。お前の命はない。」

と警告することで、国の安全を守ることになる。

 このように、コロナ対策では、病院の消毒作業やゴミ処理のような作業でも、自衛隊の活躍を皆に見せる価値があると思う。 

2020年12月 7日 (月)

コロナ対策から見る「員数合わせ思考」

 コロナ患者の重傷者ベッドの占有率が、大阪府等の対応から注目されている。しかし、大阪のベッドの状況と、他の都道府県のベッドの空き状況には、大きな違いがあるように思う。具体的には

[大阪府は、実際に使えるベッドが少なくなっている、と悲鳴をあげている。」
しかし
「東京都などは、報告書のベッド数で、占有率を計算している。」

もう少し具体的に言えば

「都京都などの要請に応じて、提供できると答えたベッド数」

を分母に占有率を計算している都道府県が多い。しかし、現実的には、

「即時に提供できると入っていない」
「ベッドを担当する看護師は考慮していない」

等の現実的な問題が発生して、大阪府の危機が示す状況が、コロナ蔓延地域では発生している。

 さて、このような実態に合わない数値遊びは、山本七平らが指摘した

員数合わせ

的な対応である。第二次大戦の日本軍は、員数合わせの「作文的戦争」の結果大負けとなった。

 さて、このような

「現実を無視した員数合わせ」

は何故起こるのだろう?この原因を少し考えてみた。一つの理由は

「机上の学問で現場を知らない、『優等生』が政策などを考えている」

点にある。更にもっと突っ込めば

「学問が、理論の成立条件を教えず、『理想社会』の上での議論だけを教えている」

と言う側面がある。更にこれを混乱させるのが

『数値的なデータへの信仰」
(客観的な数値を絶対視)

という科学的態度である。

 数字だけを絶対的に正しいと思い込み、それを一般市民にも公言していく。しかし、現実にはその数値は、

「複雑なる現実の一側面」

と言う謙虚な見方が必要である。これができないから、

「員数合わせ政策」

がまかり通っている。

2020年12月 6日 (日)

コロナへの対応について

 コロナ重傷者患者の受け入れ設備逼迫が、大阪で発生している。今回の大阪の対応は、医療の現場の声を正面から受け止めたモノであり、

「空きベッド数」

と言う机上の数値でなく、

「看護師不足がネック」 

と言う、現場の実情を踏まえた危機感の表明である。この問題は、どこの地域でも発生しているはずだが、大阪が声をあげているのは、大阪の医療行政がしっかり現場の状況を把握しているからだろう。

 さて、ネット上の議論で

「大阪府知事が『トリアージ』という言葉を使ったのがけしからん」

と言う形を見受ける。これにも色々なパターンがあるが、要するに

「『トリアージ』には『命の選別』が含まれる。それを言うな」

と言いたいらしい。

 私はこの風潮には危険なモノを感じる。確かに

「命の選別を軽々しく言う」

ことは良くないかも知れないが、

最悪の事態に関して目をつぶることはもっと悪い

現実に

「ヨーロッパなどでは、人工呼吸器の装着に優先順位を付け、命の選別が行われた」

と言う状況に目をつぶってはいけない。このような、最悪の事態に対しても、配慮するのが政治家の仕事であり、大阪府知事が『トリアージ』について、考慮するのは当然の仕事である。

 もう少し踏み込めば、行政のトップは、色々な利害関係の交わりの中での、

「皆が受け入れられる対応策」

を見いだすのが仕事である。その中には、究極の仕事として

「命の選別」

の決断責任もある。これを、大阪の吉村知事や松井市長は理解しているようだ。

2020年12月 5日 (土)

日本の「分断」について

 日本の現状に対して

「格差社会になった」
「貧富の分断が進む」

等の議論が出ている。確かに所得の格差については色々な問題がある。しかしながら、これを

収入という、金銭的な尺度だけで考えて良いのだろうか?

私は、もう一つ別の切り口で考えてみた。それは、

専門家とそれ以外の分断

である。今回のコロナ危機においても、医療の専門家の発言が強いが、どうも狭い範囲の専門家の意見に振り回されているように思う。ようやく大阪府が

医療崩壊は看護師不足から起こる

「現実を観察した議論」

を行っているが、今までは医師会ヤ学者の発言が多く、看護師に関する議論は「声が小さい」状況だった。

 このように、専門家とそれ以外の分断は、日本以外の多くの社会でも発生していた。逆に、日本の

「素人の勉強」

が世界の不思議に見られていた。例えば、1960年代~70年代に日本の半導体工場を見学した人が、

「工員が休み時間に物性などの半導体関係の勉強をしている」

と驚いたという記録がある。専門家と素人の間をつなぐ啓発書が、多く発行されているのも日本の特徴である。

 しかし、中華文明では、

「科挙合格者との分断」

があり欧米文明でも

「学位取得者とそれ以外の分断」
「軍隊では士官以上と下士官以下の分断」

等が存在している。

 日本の良いところは、

「専門家の議論を素人が理解する知的な融合」

だったが、これが壊れているように思う。

2020年12月 4日 (金)

イノベーションの色々な形

 ここしばらくイノベーションについて書いている。今回は、どのような切り口でイノベーションに向かうかを考えてみた。私の考えでは、大きく分けて二つの方向がある。

  1. 既に欲しいものが解っているが、現在の状況で手に入らないモノを手に入れる
  2. 価値観などを変革し、新たな価値や意味を見いだしそれを実現する

この二つを、混同してはいけない。

 1.の既に欲しいものが解っている状況には、技術的な解決が有効な場合が多い。ただし、そのような場合にも、社会の力というか変革が必要なときもある。また、理論的な研究により、一つのブレークスルーが生まれれば、その突破口から実現につなぐことも多い。

 一方、2.の「価値観や意味の変化」に関しては、社会などの外部環境の変化が、大きく影響している。社会の中での位置づけを考え、そのものの意味を見直す。このような活動が必要になる。

 昨日書いた記事で「質的研究のための理論入門」を参考にしたのも、

「社会の中での意味を探る」

手法のヒントが多くあったためだと思う。

 さて、日本の経済成長の流れは、戦後の数十年は、

「アメリカに追いつけ」

と言う単調路線で、1.の欲しいものが解っている段階であった。しかし現在は、社会の要求自体が多様化しているので、2.の価値観や意味などから根本的に見直す、質的な思考法が必要だと思う。

2020年12月 3日 (木)

イノベーションを起こすために

 昨日の続きで、イノベーションを行うための条件を考えてみた。私の考えでは、イノベーションを起こすためには、まずは

  1. 状況の確認
  2. 理想状況の記述

を行う必要がある。1.の状況の確認では、課題そのものより周辺への目配りがたいせつである。また関係者が、

「本当に必要としているモノ」

を見いだすコトも大事である。

 一方、理想の状況の記述は、現在あるモノや、現状でできることに捕らわれず、あるべき姿を考えることで、検討の方向付けなどを行う。ただし、理想像に縛られることは、実現への足かせとなる。

「理想像は方向付けを示す」

ぐらいの割り切りがたい説だと思う。

 さてここで、両者は段階的に進むのではなく、相互に作用し循環的に成長していく。これが安定すると、

「何が問題で、どのようなモノがあれば良い」

と言う方向付けができるようになる。

 次に解決のためのアイデアを探すのだが、これも二つの道がある。

  1. 個別の問題手に対する解決する、技術的なシーズなどを探す
  2. 全体的に使えそうな他分野の成功例から類推していく

ここで大事なことは、全体像を描くことと、部分的な課題解決が、相互に絡み合っている。これが上手く回り収束すると、何か形が見えてくる。この段階でまず

「自分が解る」

経験を経て

「人に説明する」

段階になってくる。

 これがイノベーションの最初の突破口になると思う。

 なお、上で書いたとように、

「理解がらせん状に上がっていく」

状況は、「質的研究」などの手法に通じるモノがある。

 

2020年12月 2日 (水)

イノベーションを起こすために必要なモノ

 昨日の記事に関連して、イノベーションを起こすために必要なモノを考えてみた。

 この議論にはもう一つ、日経BPのバナジー教授の講座が問題を提起してくれた。

 https://business.nikkei.com/atcl/seminar/20/00030/112400003/

バナジー教授は、経済学に客観的な実験手法を導入した功績で、ノーベル賞を受賞している。しかしながら、客観的な手法が、イノベーションに役立つのだろうか?私は疑問を感じている。

 私の意見は以下の通りである。

  1. イノベーションを起こすためには、基本原理への深い理解が必要である
  2. 客観的なデータにこだわらず、本質に関する定性的な考察が必要
  3. 色々な考察が交わって、安定したモデルが生まれるときに、イノベーションが起こる
  4. イノベーションの検討を行っている人財には、ある種の生活安定などの保証が必要になる
  5. イノベーションにおいては、可能性を拓いた後も、実現のための地道な努力が必要である

例えば、1.の基本原理に忠実という議論では、富士フイルムとコダックの比較が面白い。1960年代には、コダックのフイルムの品質に、富士フイルムはとても及ばなかった。しかし、現在コダックは潰れ、富士フイルムは色々な業種に転換しながらも生き延びている。これこそ、社内イノベーションの成功例だと思う。なお、1950年代から富士フイルムには一つの神話がある。

日本で最初に動いたコンピュータは、富士フイルムが作った

これは、レンズの設計用に作ったコンピュータである。このように基本原理を実現するための貪欲さ、これが会社のDNAとして残っているのではないかと思う。

 なお、「遊びの専門」としてこだわり抜いた、ニンテンドーのイノベーションや、多様な製品を試しながら「一勝九敗」と割り切って進む、和菓子メーカーの老舗の智慧もイノベーションの良い実例だと思う。

 これらの成功例の定性的研究が、イノベーションを導くのではないかと思う。

2020年12月 1日 (火)

高専と大学の比較がきちんとできているか?

 文部科学大臣が

大卒よりも即戦力である高専卒の給与水準を、大卒と同じ水準にするよう、いや、むしろ逆でもいいくらいだと産業界に働きかけていきたい」

と発言したらしい。

文科相も推す「高専卒」メリットとデメリット | CHANTO-WEB | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 (toyokeizai.net)

 私は、元電機メーカで社員の育成に当たり、また採用の仕事もしたので、この問題に関しては、かなり突っ込んで発言できる。

 まず一つ目の、高専卒業生の即戦力性に関しては、昔ある大学教授との議論が一つの答えになる。

メーカーの人間
「近頃の若い子は、電気系の学生でも三相交流の基礎も知らない」
某大学教授
「大学では理論的な基礎を追いかけるから、三相交流の実用的な話を教える時間が無い。そのような知識は高専が教えている。」

これをもう少し具体的に展開すると、例えば電気自動車のモーターの制御のプログラムを作るなら、モーターとしての回転力と、発電機として動くときの逆転の力を生み出す、電気の流れについて、成分に分解したプログラムを作らないと行けない。この時の数式への展開などは、高専の教科書なら書いてあるが、大学の電気の教科書にはそこまで親切に書いてなかった。このように高専の即戦力性は高い。

 しかしながら、このような制御の基礎まで踏み込み、どのような近似展開を行ってモデル化しているかという議論を行うなら、数学的な基礎や電磁気学の基礎が必要になる。モーターの制御なら、クラーク座標の知識、更にその奥にある複素関数の扱いなどを知る必要がある。歪み波の扱いなら、フーリエ級数展開から、過渡現象に関する深い議論が必要になってくる。このような理論的基礎が、大学のメリットではないかと思う。

 更にもう一歩踏み込めば、イノベーションを起こすためには、広い見識も必要になり、文系のリベラルアーツも土台にあった方が良い。ここまで考えて、大学のメリットも議論してほしい。なお、高校の数学レベルも怪しい、いわゆるFランク大学は、この範疇から除くべきだろう。

 なお、高専の学生に関して、昔ある国立高専の先生と議論したことを思い出した。

「貴学からは、N大学の理学部に進学していますね?」
「そうなんです、基礎を学びたいという子がいます」
「高専の実用的知識を持った上で、基礎から学び直す姿勢が素晴らしいですね」

これが一つの答えではないかと思う。

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