ご縁のあった人たち

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2021年2月28日 (日)

格差は乗り越えたが・・・

 東洋経済オンラインに「東大生の中の格差」の記事があった。

貧乏東大生が見た「金持ち東大生」との残酷格差 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 (toyokeizai.net)

 私は、東大生では無い(私の年は東大入試は無かった!)が、旧帝大で、ここに書いている様な状況は、経験している。まず経済面では、生活水準の違いを経験し他。例えば学食の安いどんぶりに対して

「お前が上手そうに食べているのを見て、一度食ったがこんなにまずいとは思わなかった」

と同級生に言われた。彼らは、生協のグリルでランチを食べていた。私にとっては、昼食を百円以下で抑えること外気のこりの手段であった。

 さらに、学問の世界でも、何人かの学生は、数式の展開を当然としてみている。私はその関係を理解しようとするが、ついて行けない。一方、参考書も効果で手が出ない。一般力学の講義は、ランダウの教科書が種本とはわかっているが、翻訳された本は高くて買えない。そこで、ロシア語の原本なら安く手に入るので、それを買って勉強したが、理解は難しかった。

 さて、私は親と姉に無理を言って、何とか修士課程まで終了し、その後メーカーに就職した。

 メーカー就職後も、勉強は続けた。特に、自分の金で好きな本が買えたことがうれしかった。

 こうして、基本となる本を色々と読んでいく内に、数学の本質などが見えてきた。なお時代の助けとして、ちくまの学芸文庫に、多くの古典的な教科書が翻訳された事も大きい。前に書いた、ランダウの物理学教科書も、ちくま学芸文庫から出ている。こうして、ランダウの物理学と、ファインマンの物理の教科書の両方を読むと、物理学という物が何となくわかってくる。

 このような経験から、登用経済の『残酷格差』は、少なくとも学問理解の上では乗り越えたと思う。

 しかし、そのために就職後の数十年を費やしたことも事実である。

 この体験から、

「格差は乗り越えられる」

と言い切って、多くの人に強制するのは善いのだろうか?可能性があるが、実行は難しい。

2021年2月27日 (土)

「わきまえない女性」に助けられる話

 少し古くなったが、森元総理の「わきまえない女」発言について、思いついたことがるので書いておく。

 私は昨年、ある難病で入院した。その病院で、色々な診察と治療を受けたが、そこで多くの女性医師に助けていただいた。彼女達に共通する点は

「患者のことを第一に考え他の医師の了解へも踏み込む」

点である。私の主治医は、男性であったが、その科にいたA女医も、私の症状について色々とケアをして下さった。特に

「メンタル面のサポートまで踏み込む」

姿勢を感じた。これは、普通の医師なら

「看護師に任せる領域」

ではないかと思う。また、別の科のB先生は、私の飲んでいる薬の副作用などにも、ある程度踏み込んで説明してくださったし、私がそれまで治療を受けていた地域の医者の治療に関して、少し不安を抱いていると感じたら

「この件は、こちらで見つけた症状なので私が継続してみます」

と安心させてくださった。

 なおA女医は、私が入院中に同室の患者がベッドから落ちた時

「念のため頭のCTを取りました。脳の専門家に見てもらいますが、
私も画像を見たところ大丈夫と思います」 

と主治医として、患者の全体的な面倒を見る姿勢が強くでていた。

 これが、「立場をわきまえる」人たちなら、

「専門以外には口出さない」
「同業の医者のことは悪く言わない」

と言う対応を取るだろう。

 しかし、「わきまえない女性」はそこを踏み越えて、

「患者のために」

自然に行動している。ありがたいことである。

 なお、彼女たちは、現在より厳しい状況で、医学の道に進んだのだろう。それだけの力に裏打ちされた行動ではと思う。

2021年2月26日 (金)

自分で教科書を書く効果

 昨日書いた「知識を体系化して納得し覚える」手段として、自分で教えるつもりで、資料を作ることは効果が大きい。

   納得して覚える: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 私は会社に入って、色々な物作りに携わった。そこで

「目的とする物作りのために、必要な知識な知識を体系化する」

必要性を感じた。こうして

「知識を目的に向けて整理する」

経験をすると、

「無駄な知識で無く必要十分阿知識の習得」

ができ、しかも知識が生きてくるようになった。

 さて、これを仕事以外での学問修得に使えないだろうか?

 私が出した答えは

「自分に講義するつもりで資料を整理する」

となった。

 考えてみれば、

「教科書やノートも『形あるモノ』」

である。このような、

「有形化したモノに収束させる」

効果は大きい。こうして一度書き出すと、後から色々な関連事項が見えてくる。それを書き込むことで知識が充実し、使いこなせるようになっていく。

 なお、ここで教科書の効用について、パワーポイントなどの資料との違いを指摘しておく。私も講義するときには、プレゼン用のソフトを使えば準備時間が短く済むので助かった。メモ的な書き込みもできるので、これで講義準備は十分と思ったときもあった。

 しかし、教科書として文章をまとめ、

「これだけで理解できるようにする」

と言う決意で書き込むと、一段と理解が深まってくる。

 やはり、知識を整理するためには、自分の教科書を作ることが有効だと思う。

2021年2月25日 (木)

納得して覚える

 記憶が定着する方法について、もう少し議論する。私の経験では、

本当に理解できた知識は自然に覚える

が基本である。そこで次のステップは

理解はどのように行うか

である。これに対して、

体系化してつながった知識

を持ったとき

「理解した!」

と言う感動体験が一つの答えになる。次の問題は、体系化をどのように実現するかである。私の経験では以下の3面がある。

  1. その知識の中での論理的な展開
  2. 他の理論知識との横の繋がり
  3. 現実例への縦の繋がり

このような3つの方向への広がりが、密なネットワーク化すると、納得することが多い。例えば、電磁気学の教科書を読むとき、その本の中では、Maxwellの方程式から、数学的な展開をみる。一方、力学などの関連分野との関連を見る、さらにアンテナの実現などで、現実との関連を見ていく。こうした、展開を自分の力でモデル化していくと、

納得した!

と言う感動体験を自分のモノとするだろう。

2021年2月24日 (水)

忘却の恐怖を克服

 私は、大学院生時代は、狭い分野を深く勉強していた。具体的には、人工知能の為のモデル化と、コンピュータプログラミングである。しかし、会社に入って仕事をすると、いやでも周辺分野に気を配らないといけない。当時は、マイクロプロセッサが動き出した時代で、

「マイクロプロセッサとは何か?」

と言う議論から入っていった。そこでは、ハードウエアの知識が必要になり、回路の知識、電子素材の知識など多様な分野の知識が必要になる。そのために、多くの本を読みあさった。これは、必要に駆られて行った面もあるが、純粋に自分の知識を増やしたい、と言う動機も大きかった。

 そこでは、一応ノートをとったり、重要部に線を引いたり、書き込んだりしたが、やはり理解不足で忘れることが多い。そこで

「忘れることへの不安」
「解らないことへの焦り」

が発生した。しかし、この勉強は学校の場合と異なり、決まった期限で終わりではない。仕事のための情報収集としての勉強は、期限があるが、その場合には

「目的達成のための情報収集」

であり

「自分の納得のための勉強」

と違うことが解ってきた。「自分のための勉強」では、時間をゆっくり取ることが可能であり『積読』のように、一旦手に負えない者は寝かしておく。特に

「覚えきれない者は忘れてもかまわない」

と割り切ることで、自分で学ぶことが楽になった。これに関連して、前に買った本を、後で読み返すと、納得がいって理解が深まる、このような体験も何度かしたので、

「解らないことでも、時間が解決する」

と思うようになった。

 会社の仕事でも、必要なことはメモに書き、それは忘れても良い。必要なときに調べて解るなら、忘れても良い。このような割り切るが、気持ちを楽にしたように思う。

2021年2月23日 (火)

丸暗記の功罪

 先般書いた、記憶に関する議論に関連して、私の昔の経験を少し書き残しておく。

 一つ目の体験は、大学院の受験に関連する話である。当時の私は、数学の理解に関して『納得の壁』を超えることができていなかった。そこで、電磁気学などの、『数学的な証明』が必要な分野では苦戦していた。しかし、これでは大学院の試験は通らない。そこで、最後の手段として、主要部分の証明で

「証明で出てくる数式を総て暗記する」

と言う方法で対処した。自力で数式を展開して、証明するのが本筋だが、数式の展開を理解するために、色々と調べていると結局解らなくなる。それより、証明の全過程を暗記した方が速い。このような邪道とも言える勉強法だった。しかしながら、この方式にも利点があり、

「証明の全体像が見えて来ると、その意味を考えることができる」

様になってきた。こうして、最後には

「電磁気学がある程度解った」

と言う段階になった。

 なお、この時

「記憶することを恐れてはいけない」

と言う、心理的な障壁を壊したことも大きいと思う。それまでの学校的価値観では

「理解が大切であり、丸暗記は邪道である」
「丸暗記依存になると、考える力が無くなる」

と言う風な『恐怖感』があった。これを、『覚えてしまえ』と振り払ったことが大きいと思う。見方を変えると、自分の心にある、覚えすぎに関する恐怖、つまり

「頭の力をこのようなことに使って善いのか?」

と言う不安に対して、自分の可能性を信じて

「人間の頭脳は90%は眠っている。だから少しぐらい暗記を増やしても邪魔にならない。」

と言う、『信念』が持てたことが大きかった。もっと言えば、

「できないという、心の中にある『リミッター』を外す」

ことが記憶力アップにつながっている。

(続く)

スマホ脳と記憶に関しての議論

 先日、「スマホ能」に関して少し書いたが、その後気になって、今話題の新潮新書「スマホ脳」アンデシュ・ハンセン著、久山葉子訳を読んでみた。

 精神科医が書いただけあって、体内の化学物質の働きなどもよくわかる。

 さて、この本の後ろの方に、

スマホに依存するために発生する記憶力低下

と言う指摘があった。このブログは、「勉強の方法」と問題を取り上げているので、この問題はきちんと向き合う必要があると思う。

 まず議論したいことは、

記憶力の低下と言うことが本当に悪いことか?

これは、人類の歴史を見れば

文字なし暗記の世界 -> 文字の出現 -> 紙への記述 -> 安価な紙の大衆への普及

と言う風に、暗記力依存から外部記憶である書き物への移行が、大きな流れになっている。ノートに記述することができる。その結果、記憶の負荷から解放される。これは、創造的思考を働かせるためには、有効な手段である。

 従って、一旦スマホなどの電子的手段に、思いつきなどを保存しておいたり、参考になると思ったことを、リンクだけお気に入りで保存したりすることは、積極的な面も評価すべきだと思う。

 私の体験でも、色々と思いついたことを、このブログに書くことで、電子的に保存できるので、ノート保存の本棚があいて助かっている。しかも、検索機能が充実しているから、色々と引き出すこともできる。

 このような、知的生産の補助という側面を考えて

スマホ脳を上手く育てる

発想が必要である。

 古事記や日本書紀を書き写した時に、記憶の達人に依存した伝承から解放された。このような進化を受け入れて私達は育ってきた。

2021年2月22日 (月)

政治に民衆が期待するモノ ソクラテスは何故処刑されたか

 政治に対して、民衆が期待するモノは何だろう?

 例えば、ロシアのプーチン政権は、反対する人を暗殺するなど、色々と悪いことを行っている。いわゆる西側諸国は、これに対して批判しているが、ロシアの民衆にとっては

「ソ連崩壊後の苦しみは困る」

と言う一心で、プーチン強権政治を受け入れている面がある。この問題は、もう少しい言えば

「ソ連崩壊後に、十分な支援を行わなかった、西側諸国の冷たさ」

がある。確かに、共産主義の限界と資本主義の反映を見せることで、旧ソ連に対して民衆は見切りを付けた。しかしながら、ソ連崩壊の後に、資本主義からの支援は少なく、多くの人間が飢えに苦しんだ。このトラウマがある。

 この状況をもう少し一般的な表現にすると、

民衆が求めるのは「まずは生存」であり
「現状より悪くならない」
と言う保証が無いと改革には進めない

となる。これをきちんとりかしていない政治家は

  1. 現状の悪口を言う
  2. 理想論で良い世界の話だけする

等の行動を取るが、これでは多くの大衆の支持を得ることはできない。

 この観点で見ると、自民党の存在理由は

「他の政党に政権を委ねると、もっと悪くなる!」

ではないかと思う。別に自民党が優れているわけでは無い。しかし

「自民党なら現状維持はできる、他はもっと悪くする」

と言う判断で大衆の支持を得ている。だから、大阪で維新が実績を持つと、自民は崩れてしまった。

 これは歴史的に見ても、1955年体制で、米ソ対立の中、アメリカ寄りの自民党とソ連寄りの社会党、そして共産党という選択肢なら、

「自民党ならまし」

と言う選択になり、アメリカの支援を引き出し、戦後の復興を成功させた。

 さて、この観点でプラトンの『国家』を読んでみると、

「真実を見抜く『哲学者』に国の舵取りを任せろ」

と書いているが、本当に今より良くなるという革新は持てなかった。そういう意味では、

「ソクラテスは、若者に、現状の不満と不信を、抱かせた」

と言う罪はあると思う。

2021年2月21日 (日)

いわゆる「スマホ脳」について

 スマホに依存することで

「脳が退化する」

と言う説があるらしい。この問題をもう少し踏み込んで考えてみた。

 まず、スマホに依存することでどのような弊害があるのだろう。一通りあげてみると

  1. 自分で考えずに答えを探す
  2. 検索もせずに人に聞く
  3. イイネの評価を求める(依存する)

等がある。

 これをもう少し深掘りすると

  1. 自力で考えない癖
  2. 他人に依存する癖

は、

  1. 正解で無いことに対する恐怖
  2. 自力で正解と言えない自信のなさ

によって起こっている。この原因をもう少し深掘りすると

学校で

「正解で無いと怒られる」
「教科書に書いていることを正解と信じる」

と言う躾の効果が大きい。教科書に書いていることを疑わない、従って自分で正しさを証明することも無い。これでは自信を持てるわけが無い。

 こうした、

学校教育への過剰適応

の延長に、スマホ脳がある。

2021年2月20日 (土)

織田信長について 謀反は明智光秀だけか?

 織田信長について、色々と考えている。一つ目は、

謀反を考えたのは明智光秀だけか?

と言う問題である。言い換えると

本能寺の変が失敗に終わっても次は誰が?

と言う歴史の思考実験である。私の考えでは、

誰かが隙を見いだしたら謀反した

状況だったと思う。それまでも、織田信長は浅井長政に裏切られ、荒木村重の謀反もあった。織田信長のように、激しい性格の主なら、多くの配下は、

成功するなら謀反

と考えるのは当然である。

 さて、ここで別の見方で織田信長を見てみよう。織田信長の支配は厳しい。例えば

一銭斬り

と言う様に、犯罪に対して厳罰で臨んだ。これで、当時当たり前であった、

戦いの後の略奪行為

も厳しく取り締まっている。この裏には、

経済力に裏付けされた兵士の厚遇

がある。武田信玄や上杉謙信でも、戦いに略奪は付随していた。相手領地の、稲の刈り取りを狙って出陣し、それを奪うなどという行為もある。もう少し言えば

農民の雑兵の報償は略奪行為で得る物

と言う発想すらあった。これを断ち切ったのが、織田信長である。このような治安維持に熱心な支配者は、大衆にとってありがたい。従って、京都の町衆などからは、織田信長は強力な支持を得ている。従って

外部からの織田信長暗殺などは難しい

と言う状況である。これは、負け戦でも、住民の反乱が起こらず信長が逃げ延びたことからも解る。しかし、

外敵がいないと自己の防衛力は弱くなる

と言う面がある。つまり

外的には強いが内部からの反逆には弱い

になってしまう。この対策としては、

部下同士で相互に牽制する

形が有効である。本能寺の変の時にも、大坂に丹羽長秀達がいたが、これが抑止力にならなかった。これが、織田信長の誤算だった。まとめると

明智光秀は織田信長に対する謀反の最終成功者
ただし
謀反だけしかできずその後の政権維持は失敗

ではないかと思う。  

2021年2月18日 (木)

ポランニーの暗黙知と野中郁次郎の暗黙知

  •  このブログで何回か『暗黙知』について書いたが、原型であるポランニーの『暗黙知』と、日本で普及している、野中郁次郎の『暗黙知』の違いについて、ようやく解ったので書いておく。

 私の結論は、

  • ポランニーの『暗黙知』は個人の体験 
  • 野中郁次郎の『暗黙知』は組織内の情報共有

である。ポランニーの場合には、個人の価値観や、訓練された身体感覚の育ち方などが『暗黙知』として働いている。

 一方、野中郁次郎の場合には、組織内での経験やKnow/How等が、文章などで明示化されていない物を言っている。

 これは、日本の経営においては、『就社』して、会社内での蓄積を重視し、OJT(OntheJobTraining)で伝承している力を、『暗黙知』として明示化し、経営学的に扱えるようにした効果がある。

 一方、欧米の文明では、情報の伝達において文脈依存が低いので、組織内での『暗黙的』な共有は少ない。従って、

日本的経営において『暗黙知』が重要

と言う表現は、欧米の研究者に受け入れられたと思う。 

 ここまで書いて、大きな発見があった。それは、

組織にも人格的なモノがある
つまり
組織のスキルや知識蓄積その結果の潜在意識や価値観

がある。例えば、相互の支援や認め合いが、自然にできる組織は、対人スキルが備わった組織だろう。このような助けを無意識に行う、子乗れは価値観に支えられている。この価値観が、組織として共有されている。このような組織は強い。

 このように考えると、ポランニー流の暗黙知と野中郁次郎流の暗黙知の間隔が狭くなったように思う。

「中退」に関して少し

 将棋の藤井二冠が、高校卒業を待たずに「中退」する。これがニュースになっているが、半世紀ほど前だと、このような「中退」は多く見受けたと思う。私は1973年に大学を卒業したが、当時から

「東大の法学部の学生は、上級の国家公務員試験に合格したら退学して公務員になる」

であった。従って、当時の国家公務員の学歴観は

東大中退 > 東大卒業 > 他の大学

という感じであった。

 しかし、現在は「中退」という言葉のイメージは、あまり良くない。

 この理由をもう少し考えてみた。私は以下の2点が大きいと思う。

  1. ギブアップでの中退が多い
  2. 学校で教えることが役に立っている

一つ目の、ギブアップ問題であるが、現在の社会では、色々なトラブルが発生したときに、引きこもる形で逃げる人が多くなっている。学校生活においての種々の挫折においても「中退」という形で逃げることが多くなっている。社会が、そのような逃げ方を認めている面もある。確かに、自殺と比べれば、「忠太してくれた方が」という発想は解る。

 一方、二つ目の方は、現在の学校教育が、現実世界で役立つ面がでている、と言う話である。これを電子回路で考えてみよう。1960年代なら、電子回路はトランジスタで組まれていることも多く、回路の設計や調整は「現場の経験」で行われる面が多かった。学校の教科書で書いている回路は参考、現実に動くモノは、現場で調整が必要であった。

 しかし現在の回路は、電子回路でも高集積の演算増幅器などでできていて、「教科書に書いている計算式どおりの性のがでる」状況にある。更に言えば、電気自動車等のモーターの制御には、複素関数の知識が必要であり、学校の知識がきちんとしていないと仕事ができなくなっている。

 文系でも、MBAの手法で経営を見るなど、色々と知識が役立つようになっている。

 このような時代の変化をもう少し考えてみたい。

2021年2月17日 (水)

不安で人を動かすのは?

 二月一五日の和歌山市の直下型地震は、市街地に震源があり、マグニチュードは低くても震度4まで揺れた。

 さて、この地震で和歌山市議会場の照明の一部が落下し、審議が中断する状況がテレビで放送されていた。

和歌山で震度4 市議会で照明落下し中断も(気象ニュース 2021年02月15日) - 日本気象協会 tenki.jp

 ただし、和歌山市に住んでいる人に聞いたが、

「揺れたが被害は少ない、どこかの灯籠が倒れた程度」

と言う状況らしい。

 一方、SNSでは和歌山市議会に関して

「見てくれ良さで、こった照明にするからあのような被害に遭った」

と言う意見がある。確かに、安全設計という面では、照明金具の落下などはない方がよい。しかし、和歌山県や和歌山市の大きな政策を見ると、もう一つのモノが見えてくる。

 それは、

「和歌山県の南海トラフ地震津波対策」

で、

「和歌山市内でも津波の被害に遭う。従って、高いところに移住する等の対策をとるように!」

と住民に伝えていて、県の機能なども、高いところに移している。

 この文脈で、このような「地震被害映像」を流すことは、住民の地震対策意識をかき立てる、有効な手段だと思う。

 しかし、『不安』で人を動かすのが本当によいのか?

 私は、納得が基本ではないかと思う。

2021年2月16日 (火)

プラトンが見るモノ

 昨日書いた、プラトンの『国家』で、描いた

『真実』の世界

は、

『イデア』という理想的なモノ

で記述した世界である。このように、現実を抽象化し、理想化して記述する方法が、現在の科学的な西洋文明を生み出す力となっている。プラトンのイデアは、ルネッサンス以降の近代科学では、理想条件での思考という形で、大きな成果を生み出した。

 例えば、ガリレオの思考実験では、

「同じ重さの鉄級を二つ繋ぐ」

と言う極端な形で議論して、当時のアリストテレスの自然学の

「重い物は速く落ちる」

と言う定説を打ち破った。更に、ニュートンの力学では

「大きさがない質点にその物体の質量が総てある」

と言う理想的な条件で、万有引力に支配された、物体の動きを数学的に記述できるようにしていった。

 こうした抽象化した概念を上手く使うことで、西洋文明の理論的な力が増えていった。そこでは、『正しい』と『間違い』が明確になり、議論も進む。

 このような、

抽象化した世界で普遍的な法則という本質を理解する力

を持った人間が、支配する国家を、プラトンは『正義』が行われる『国家』と考えたのだろう。

 しかし、プラトンが考えた、抽象化された『形式的な記述』だけで、全てを支配するのは無理がある。

 例えば、野中郁次郎が提案した『暗黙知』の発想も、プラトンとその子孫への対抗策だろう。

2021年2月15日 (月)

プラトンがなぜ『国家』を書いたか?

 プラトンの大著『国家』は、『哲人政治』の有効性を示した。現在の私たちには、『哲人政治』は実現できない、または危険性が大きく、『民主制』の方がましと言う認識がある。しかし、プラトンがなぜ『哲人政治』を善いとしたのか、プラトンが生きた古代ギリシャの時代背景を想像しながら考えたことは少ないだろう。そこで、以下の問題を考えて見た。

なぜプラトンは哲人政治を善いとしたのか?

 当時の常識は、私たちのそれとは違う。まずは

大衆の裁判によりソクラテスは死刑になった

と言うプラトン達の厳しい経験を、私たちはもう一度見直すべきである。尊敬する師であったソクラテスが、大衆が裁判で有罪として死刑になった。この体験が、『民主制』への不審を抱かせただろう。さて、彼らは私たちのように、体系的な科学の知識を知っていない。彼らのレベルの学問的知識と言えば『ユークリッドの幾何学』の成功例である。エジプト文明において、ナイルの氾濫は毎年の行事であり、その後の土地の復旧とその争いの調停は政治の重点課題である。そこで、同じ形、面積と言うことをきちんと判定する。これが幾何学の力である。更に数値の扱い等を見て、

一般的な規則性を見いだす

ことは可能であると知っていた。

 このような、『普遍的な原理』を発見する可能性を、プラトンは『国家』の舵取りに求めた。こうした知的な活動は、

ソクラテスのような哲学的問答

によってのみ育つ。これがプラトンの信念であり『国家』は、これを多くの人に伝えるために書かれたと思う。

2021年2月14日 (日)

大阪の緊急事態宣言への対応

 大阪府などは、独自の解除基準を満たしているが、医療関係者などの意見から、今回の緊急事態宣言の解除要請を見送ることになったらしい。

 これに関して、今朝の朝日新聞は

「吉村知事が突っ走った」解除要請に揺れた大阪、反発も [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル (asahi.com)

という風に、少し吉村知事に批判的な記事を載せている。

 しかしながら、私は今回の吉村知事の対応は、ギリギリの政治的行動として、高く評価すべきだと思う。理由は

  1. 大阪府民のコロナ対応への協力を評価したい
  2. 医療の法界はなんとしても避けたい

と言う両面のバランスを取るため、

「皆さんの協力で緊急事態宣言解除レベルまで来た!!」

しかし

「医療状況の逼迫のためもう少し我慢してほしい」

という、メッセージを伝えるためには、今回の行動が最適だったと思う。行政の目的は、住民の不安を取り除くことが第一であり、更に希望を持たせることも重要である。単に「解除」だけが目的になってはいけない。

 そのように考えると

根回し不足の独走知事

と言う一部マスメディアの表現が、如何にピント外れかよくわかる。朝日新聞は、一面で五輪関係の密室政治を攻撃しながら、社会面で吉村知事の根回し不足を批判している。この自己矛盾に気がつかないのだろうか?

2021年2月13日 (土)

会議の効率化か?仕事の効率化か?

 この数日間、森失言に絡んで『会議能効率化』について、色々と書いてきた。しかし、もう少し視野を広げると、

『会議の効率』より『仕事の効率』

が大切である。このような問題を明確にすることで、本当の改善につながっていく。

 今回議論したいことは

会議の出席者を絞ること

についてである。単純に考えると

「発言しない人を出席させるな!出席者を絞れ!」

は正論に見える。しかし、実際の会議では、発言する人間は、出席者の20%程度が多い。特に質疑ができる人間は限られている。しかしながら

反対しないことに意味がある

と言う人もいる。そのような人は黙って座っているだけでも、重みが出てくる。

 さて、もう少し視野を広げてみよう。仕事の遂行という観点で見れば

会議で決まったことが実行されてこそ効果が出る

ことは皆が同意するだろう。しかしながら、

自分が知らない間に決まったこと

自分も参加して決まったこと

の比較をすれば、『自分が参加した』という意識がある方が、積極的な実行につながる。このように考えると、多くの人を参加させての会議、発言しなくても、利害関係者を巻き込むための会議は必要では無いかと思う。

2021年2月12日 (金)

専門家と言っても色々

 コロナの問題で、色々と『専門家の意見』がでている。しかしながら、専門家にも色々とあると言うことを、きちんと理解している人が少ないように思う。今回の感染状況について、発言する専門家を大きく分けると、以下の2パターンになる。

  1. ウイルスの伝搬の細部の専門家
  2. 多数の感染状況を数理モデルで予測する専門家

1.の立場を『ミクロの専門家』、2.の立場を『マクロの専門家』と呼ぶと、イメージが掴みやすい。例えば、ミクロの専門家は、ウイルスが飛沫感染するからくりなどを教えてくれる。そこで具体的な内作を提案する。また、ワクチンの種類や、その効果について教えてくれるのも、ミクロの専門家である。

 一方、マクロの専門家は、多くは数学的なモデルを使って、感染の拡大状況を予測する。そうして、政策への提言を行う。例えば

「現状で対策を取らなければ、XX時点での病にはXX、そのうち死者はXX人となる」

と言うような予測を行う。さて、専門家のコミュニケーションというと、ミクロの場合には、その伝搬メカニズムなどの具体的な話についての議論となる。しかしながら、マクロの専門家に関しては、議論の向きが二通りに分かれる。

  1. 検討の前提に関する可否
  2. 手法自体の妥当性

ここで大事なことは、専門家の議論では、どちらかというと『手法の妥当性』の方での議論が多くなる。これは、

「数学的な議論なら『正しい』と言いやすい」

ことが影響している。

 しかし現実に適用するためには、前提をきちんと評価する必要がある。このような前提に関しては、

「素人も口出しできる」

ために

「会議が長くなる」

可能性がある。しかし、この問題を避けて通ると、予測外れのトラブルになり、結局専門家の地位を危うくすると思う。

 このような前提に関する議論を行う、専門家の周辺の人財を、育てる必要がある。

2021年2月11日 (木)

会議の効率化について少し追加

 昨日書いた、会議の効率化に関してもう少し議論したい。

 まず、専門家同士のコミュニケーションに関しては、既にこのブログで書いた。

 専門家の閉じた世界を造ったネット化と高学歴化: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)  

この記事では、社会の分断という観点で書いたが、専門家の育成の効果についても少し書いている。つまり

「専門家の厳密な言語でのコミュニケーションは効率が良い」
ただし
「その言葉について行けない人間の対応をどうするか?」

と言う問題がある。

 この問題は、専門家の説明責任とも絡んでくる。専門家の間で議論し、決まった結果に関しては、きちんと一般にも解るように説明する。この努力が見過ごされているのでは無いだろうか?

 ただし、これを全て会議の場で行うべきかは、議論の余地があると思う。資料の形で見せる、事前説明を子なっておく、このような対処は必要では無いかと思う。会議という、多くの人間を拘束する場での議論は、少数の人間の満足のために時間を取るのが得策だろうか?特にネット化した社会では、事前の説明や資料送付は容易になった。その上で多くの人が参列する議論はどのようなモノか、もう少し考える必要があると思う。

 このような会議のあり方を考えることは、管理職に必要では無いかと思う。参加者の絞り込み、事前事後の対応、このような配慮が必要になってくる。ただし、

「もめ事を起こす人間の排除」

を安易に行うのは、管理とは言えない。多様な意見ヤ立場を尊重しながら、効率的な時間配分を考えるのが本当の管理だと思う。

2021年2月10日 (水)

会議効率化の観点で

 昨日の記事に関連して、会議の効率化に関してもう少し議論しておきたい。会社生活などでは、会議の効率化は、重要な事項である。私が若いときには

「会議に参加する前に、議事録案を作っていき、その場で結論を書いてまとめる」

という風に準備しての参加を指導された。これには

「会議には多数の参加者がいるので、その人の時間を無駄にしない。」
(参加者が多いと情報共有でき、参画意識で責任感を共有)

という、多数を巻き込むが、それでも効率化を図るという知恵があった。確かに、効率重視の人は

「(有効な)発言しない人間は参加させるな」

と言ったりしたが、このような人は

「反対しなかったことに意味がある」

面を忘れている。自分が参加した会議で決まったことは、不本意でも守る。これがある程度できていた。

 さて、このような『予定調和型会議』だけで、物事を進めて良いのだろうか?新しいことを始めるときには、不調和がどうしても生じる。また現状への疑問を投じることも必要である。こうしたときには

「流れや空気を読まない素人発言」

は貴重な意見である。しかしそれに対応することは、多くの時間を必要とする。

 日本的な『根回し』は、このような議論を、個別に行うことで、多数の参加者の束縛を避ける効果がある。

 このような会議の見直しも、効率的な経営には必要だと思う。

 会議管理論というモノがあっても良いだろう。

2021年2月 9日 (火)

森失言に関して色々と思うこと

 東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が女性蔑視とも取れる発言に関して、色々と思うことがあるので、忘れないうちに書いておきたい。まず、私は

「森発言は、五輪憲章などの主旨からしてアウト!」

と判断している。この点は世間の意見と同じだろう。しかし、森発言を

女性一般論とせずに守護を飼えてみる

とすると、別の景色が見えてくる。例えば

その分野の素人を入れると
(一から説明しないと行けないので)
会議が長くなる

と言う表現はどのように評価されるだろう。これをもう少し極端にすると

素人は黙って専門家の意見に従え

となる。これをもっと進めると

「私は学者としてしっかりした思考法の訓練を受けている。
あなたは受けていないのだから私の言うことに従え。」

と言う、高学歴者の発言が出てくる。この発言には、多くの人が反発するだろう。

 しかし、議論の効率からすれば

「数学的な議論を直ぐに受け入れることができる
人間同士のコミュニケーションは速く結果が出る」

と言う面もある。

 こうした、専門家同士のコミュニケーション効率と、一般人への説明は、分けて考えるべきだろう。

2021年2月 8日 (月)

持続可能な社会を目指すなら根本的な解決が必要

 公務員のキャリア官僚の出世レースでは、同期の一人が頂上の事務次官になったら、他は皆外に出る。これは、蜜蜂の雄蜂が沢山いるが、それが女王を追いかけて、唯一匹だけ残った者が女王蜂と結ばれる話を思い出す。それ以外の雄蜂は、皆脱落して死んでいく。多くの企業でも、トップ選別レースを展開しているが、トップになれなかった者は、関連会社の幹部などに割り当てている。

 しかし、この発想の本質は、

雄蜂のように一匹以外は脱落

と言う発想にある。しかし、木の葉層が本当に良いのだろうか?

 人材が豊富にあり、使い捨てができる社会なら、これで良いという説もある。例えば、アメリカ的な市場原理の信奉者には、

適任者以外は去れ

と言う発想がある。しかしこのとき

去った人間の存在場所は?

と言う問題がある。人間を使い捨てにして、どこかに追いやるな、極端に言うなら殺す。ここまで想像力を働かした上で、市場原理によって、人材を選別するという議論が行われるべきである。

 しかし、私達の社会は、このような人材の使い捨ては、許されなくなってきている。少子化、若年労働力不足という現状を考えても、

人材の有効活用

は必要である。

 そのために、

  1. 人財をどのように評価し育成するか?
  2. 育成不可能な場合はどうするか?
    1. 外部調達できるか?
    2. 育成不可能な資質の人罪をどう処理するか?

等の問題を、多様な観点から考えていかないと行けない。

 このように、人材問題を根本から考えることが、現在社会の持続可能性について、方向を示すことになる。

 私が今知りたいことの一つは、縄文時代に人口過剰が起き鱈、どのような解決を立ったかが知りたい。戦争などの解決が無い社会で、しかも長期の持続性がある。そこで人口増加をどのように吸収したか、これは現在につながるヒントがあると思う。

2021年2月 7日 (日)

文章を書くときに妨げるモノ

 ここしばらく、コロナの問題もあり『不安』について、色々と考えていた。その関連で、リスク・コミュニケーションについて考え、一番大事なことは

自分が納得する

ということが、見えてきた。

 それでは、どうすれば納得するか?一つの答えは

自分の頭の中にしっかりしたモノができたとき

である。頭の中のモデルが、落ち着きその登場(人)物が動き出す。一般論や経験での裏付けがされていて、動きや、外部情報からの各欄が入っても、微少な修正で概略は生きている。これが『しっかりしている』条件だと思う。

 さて、納得するための手段として、昔から言われていたのは

人に説明する等のアウトプットを考える
ことで
自分も納得する

と言う方針である。

 私も、若いときから、色々と人に教える機会があり、教材作成などを通じて、理解を深める体験をしてきた。元々は学生時代はAIの狭い分野しか知らなかったが、会社に入ってマイクロプロセッサーのハードやソフトを学び、ソフトウエアの問題全てに関わるようになる。その後は、会社で社員教育を行ったので、電気工学・機械工学や信頼性の話まで教えるようになった。また、AIのモデル化に使えると思った、社会科学の手法はライフワークになってしまい、カウンセリングなどの勉強までして、色々な分野を知るようになってしまった。

 さて、ここで一つ気になったのは、時間と伴に

文章作成のハードルが下がった

と言う現象が起こっている。1980年代頭には、教材を書くとタイプやワープロを依頼すると言うことになり、しっかり考えて書く必要があった。その後、自分でワープロを使うようになって、修正が楽になると『思いつきをそのまま書いて後で修正』という風に流れてきた。

 さて、2006年にこのブログを書き出したが、そこから更に思いつきを、直ぐに吐き出すようになってしまった。さらに、SNSの時代になると

思いつきを反射的に書く

ことが増えてきた。

 しかしながら、まとまった文章を書くためには、

文章の世界を自分で安定したモデル化

しておかないと、自信を持った文章は書けないと思う。逆に、自分の持っているモノに『不安定』を感じたとき、文章が書き難くなると思う。

2021年2月 6日 (土)

発言することの責任をどこまで感じているか?

 元総理大臣の不適切なる発言で色々と騒ぎが起こっている。この問題は、当人の資質にも絡むが、現在日本の『言葉の軽さ』にも、一つの要因があると思う。これに関連して、先日SNS上で、

「占いについて深く勉強せずに占う人がいる」

という、ぼやきがあった。これは一つの問題だが、もっと大きな

「占う時には相手の宿業まで踏み込む覚悟が必要
自分も命がけで占う」

と言う前提が抜けている。私も少しは占いをするが、病人を占ったときには、その病の気がこちらに流れてくる。そのような怖さがあるので、とても金を取っての占いなどできない。

 しかし、色々な仕事を見ると、多くの仕事では

関わっている人の命や一生に影響を与える

判断をしていることがある。

 典型的な事例は,医者の判断である。

薬は毒の面もある

これを知って,患者のために判断する。このような、「相手にとって悪くなる可能性」を見据えた判断が必要になる。

 また、コンサルタントやカウンセラーに関しても、一言でクライアントの一生を変える可能性がある。

 こうした発言の重さ、これを現代人は忘れているのでは無いかと思うことが多い。

 もう少し言えば、私達は

死の危険性から遠過ぎる

と言う面がある。元々,民主主義の言論世界は、戦争や決闘という

命のやりとりでの解決

を代行していた。そこでは一言の重みを十分感じていただろう。それでも『ソクラテスが死刑になる』世界である。

 この厳しさを知ると,軽率な発言が減ると思う。

2021年2月 5日 (金)

進化か?適応か?

 「技術の進歩」と言う表現には、

進歩はよい!

と言う価値観が前提にある。しかし、このような進歩が、本当によいモノだろうか?昭和の高度成長期には

進歩はよい!

公害反対!

という対立図式があった。しかし、戦後の貧困国で生きてきた世代にとって

進歩によりとりあえず飯が食える

世界はありがたいモノであった。そこで本音として

進歩はよいモノである

と言う共通感覚があった。

 しかし、令和の現在は

多様な価値観の世界

であり、一本道の進化という考えは当てはめることができない。

 そこで必要な発想は

社会環境によく適応する

と言う目標ではないか?このような、『進化論』的社会観を超えた、新しい社会のあり方を議論していく必要がある。

  さて、進化を良いとすること、これは常識だろうか?逆に言えば,進化を認めない世界春のだろうか?

 実はこのような世界が多く存在することを、私達はもう一度確認すべきである。例えば,儒教の教えを考えてみよう。儒教の理想は

古代の聖人の指導した社会に戻る

ことであり、『昔は良かった』発想である。この文脈で考えると、キリスト教,特にローマカトリック教会が,ダーウインの進化論を否定したこととも関連している。イスラム原理主義でも,マホメットの教えに戻って判断している。

 さt、仏教をこの観点で見ると,興味深い現象がある。それは上部坐仏教と大乗仏教の対立である。『上部坐』という言葉が示すように、彼らは,仏教界のエリートであり,お釈迦様の直系の教えを受け継いでいるという自負がある。つまり、昔ながらの教えを重視している。一方、大乗仏教には,法華経の寿量品に見るように

仏は今も法を説いている

と言う信仰なので

現状に合わせて適切に対応

が正しいと言う発想になる。このような考えから、古代の教えからの変化・適応を肯定する発想になる。

2021年2月 4日 (木)

『不安』はどこにあるのか

 先日から『不安』について考えている。さて『不安』の実態はどのようなモノだろう。禅問答などでよく言う

「お前の『不安』をここに出せ」

と言われて

「出せません」

と答えたら

「出せないようなモノは気にするな」

と言う『解決?』がある。

 この発想には少し強引なモノがあるが、一面の真理がある。それは、

「外で見れる不安の実態はない」
言い換えると
「不安は自分の心が作りだしたモノ」

と言う考えである。不安の実態は、自らの心が描くモノである。実際のモノが無いから、心の中で勝手に育っていく。他人の言葉などに影響を受け、大きくなったり小さくなったりする。山本七平の言う『空気』にも、このような『不安』の性格が影響している。

 こうした『不安』の暴走に対しては、

「現実体験を伝えて『水』を差す」

と収まる。また、『不安」の原因を正しく認識し

「ある範囲に対する『不安』に局所化」

することも有効な対策である。

 抽象的な一般論の暴走が『不安』を拡大する。そのため現実性を持った議論が必要になる。ただし、一つの体験だけにこだわると、全体が見えなくなる。全体像を描く抽象論と、実体験を上手に組み合わせる必要がある。

2021年2月 3日 (水)

『不安』による動機付け

 今回のコロナ対応でも、人々の『不安』を煽ることで、行動させている事例が多い。ここから一歩踏み込んでみると、

私たちは子供の頃から『不安』で動機づけられている

と言う経験を思い出してしまった。小学生時代から

「勉強しないとついて行けない、将来困る」

等の脅しを受け『不安』に駆られて勉強する。

「将来何をしたいから、勉強する」
と言う
「目標に向かう勉強でなく『不安』解消の勉強」

が、学校で学ぶ多くの人の動機付けではないか?そう言えば、停電になったとき

「隣の奥さんが内も停電です」

と聞いたら安心する、と言うジョークがある。一説によると、

「田植えで横並びで作業する習性が染みついている」

為に、『横並びから外れる不安』が大きいのではと言う仮説もある。

 確かに、明治以降の学校教育では、

「均質な生徒を作ることで、一定歩調で行進させる」

ことを目標とした面もあり、その中で

「置いておかれる不安」

を強調し活用した。このように、私達は『不安』による動機付けにならされている。

 しかし、ヴェーバーが『プロ倫』で指摘したように、キリスト教文明でも

「自分が救われているという確証がない『不安』が
激しく働く原動力になる」

と言う側面もある。これと同じ反応が、日本の場合にも

「地獄に落ちないために!」

と言う恐怖で大衆を押さえた例もある。逆に、一向宗の信者達などは

「働くことは阿弥陀様の救いの保証」

と言う形で、勤勉に導いた。

 動機付けにおいて、『不安』の力と弊害をもう少し考えていきたい。

2021年2月 2日 (火)

リスクコミュニケーションについて一アイデア

 今回のコロナ危機に対応して、一般大衆へのリスクコミュニケーションの重要性が、明らかになってきた。

 さて、リスクコミュニケーションが難しいのは何故だろう。私は、この問題について一つの仮説を持っている。それは

  1. 大衆の不安が拡大するとリスクコミュニケーションは失敗する
  2. 当事者以外の方が不安は大きくなる

と言う二点である。つまり

不安という『空気』が暴走する

とリスクコミュニケーションは失敗する。

 さて、このような『空気』の暴走は、どのような状況で起こるのだろう。大事な要素は

自分が体験せず想像や伝聞情報で考える

場合に、暴走が起こることが多い。逆に

当事者は現実対応に追われるので
不安を感じる暇が無い

から『空気』の暴走は避けられる。

 私は、昨年ある難病で入院し、ステロイドの大量投与と、血液製剤の点滴を受けた。その時、句するに副作用の可能性などの、必要なリスクの説明を受け、その旨の書類に署名した。その時は、

とにかく治療が優先でリスクは取らざるを得ない

と言うのが正直な感想である。その結果、症状は収まったが、まだステロイドの減薬の行程であり、先は長い。こうして落ち着いてみると

ステロイドの副作用が今では怖い
(骨がもろくなるなど!)

と考えるようになった。このように、現場から距離を置くことで、色々考えたり、ネット情報に触れると、不安が拡大してくる。

 このような不安が、リスクコミュニケーションを難しくする。

 解決策としては、全体的な現場の感覚を、伝えることでないかと思う。

2021年2月 1日 (月)

悪意あるメディアへの対応

 今回のコロナ対応で、一部マスメディアが、興味深い動きをしている。それは、

「悪意あるメディアに対する予防策」

である。もう少し具体的に言うと

「コロナへのワクチン接種の妨害」

を意識的か無意識的は知らないが、実行するメディアへの予防策である。具体的な手法は

ワクチン接種が、高齢者や基礎疾患保有者に大量に行われたとき、
高齢や基礎疾患という状況では百万人に一人の割合でも
接種の後、2~3日で死ぬ人もある。
これを大々的に報道することで、
多くの人に『危ない副反応がある』と思わせる。」

と言う、

「因果関係の不明瞭な事実での扇動」

である。これは、マックス・ヴェーバーが言った

「事実をして語らしめる」

という、不誠実なマスメディアの行動そのものである。実は、これに近いことが既に行われている。子宮頸がんワクチンに関して接種後の障がいを、アピールする報道が行われ、被害者の状況をテレビで大きく取り上げた。その結果、子宮頸がんワクチンの接種は少なくなっていた。

 これは、

「政府のやることを妨害する」

を社是とする一部メディアなどが行いそうなことである。某新聞社の幹部は

「トイレを詰まらせろ」

と書いたが、

「ワクチン接種を滞らせて救える命を殺す」

様な報道を野放しにしてはいけない。このことを警告した読売テレビなどの誠意を評価すべきだと思う。

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