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2017年12月17日 (日)

日本の学校教育が権威を保った理由

 昨日書いた、日本のマスメディアの信頼について、もう一つ書いておくべきことがある。それは学校教育の問題である。敗戦時にGHQの指示というか、日本政府や各レベルの『忖度』により、教科書の墨塗りが行われ、教師たちは
  「立派な兵隊さんになって、お国のために死んで来い」
と生徒を送り出していたのが
  「マッカーサー万歳、日本の軍部は悪い」
という手のひら返しを演じていた。普通の神経なら、このような教師の教えに、従う生徒がいることが不思議である。それでも、現在の日本という国は、学校教育への適合度が、非常に高い国になっている。もう少し言えば、学校教育に過剰適応し、学校社会で排斥されると、一生が狂わされるような世界になっている。
 ここまで、学校教育の権威が高い社会はどうしてできたのだろう?
 さて、もう一度戦後の社会を振り返ってみよう。実は、「お国のために~」から「マッカーサー万歳~」に手のひら返しをした人間は、日本国中いたるところにいた。一例を取れば、戦時中には東条英機の家族に、弱腰だという手紙が多数送られてきたらしいが、戦後には東条英機の孫あたりまで、
  「お前の一族のために我々は不幸になった」
と糾弾するようになっていた。
 これを考えると、教師のことを責めると、自分にも帰りそうで、追及できないという事情は分かる。
 さて、このような手のひら返しと、学校社会への過剰適応は、どのようにして行われたのだろう。私の理解では、日本の学校教育は
  「理想ではなく利益のために皆が受けた」
という点にあると思う。つまり、
  「教育を受ければ得をする。受けないと損をする。」
という観点で動機づけが行われた。これは明治の対西洋文明で
  「知らない人間が馬鹿にされる」
という体験が、根底にある。
 そして、戦後は、
  「学歴による出世」
という話が広がり、これを偏差値という数値化したもので、一般化していく。このような仕組みが、今の世の中を作ったのだと思う。

2017年12月16日 (土)

日本のマスメディアの信頼について

 昨日本屋に行く用事があったので、岩波新書の「メディア不信:林香里著」を買った。
 これを見てある程度予想していたが、日本のマスメディアについて、歴史的な観点が全く抜けた議論となっていた。
 私は戦後生まれだが、終戦後の『空気』はある程度分かる。この経験からすると、戦後の日本にマスメディアを信じる気持ちが生じた方が奇跡である。
 状況を整理しておこう。まず第2次大戦に至るまでの新聞の戦意高揚報道はどうだったろう。国際連盟脱退の時に、それをあおった新聞の働きを考えてみよう。そして、敗戦直後の新聞はどうなっただろう。手のひら返しで、
  「マッカーサー翼賛会」
に参加し
  「マッカーサー学会の聖教新聞」
となった。(この部分は山本七平の表現に倣った)
 この後も、アメリカ様の悪口は賭けないから、
  「李承晩ラインの暴虐」
に関しても、どこかに行ってしまった。(本来、北の拉致事件と南の拿捕問題は、どちらも主観侵害の人権問題である。李承晩大統領は、最低の大統領の一人だが、アメリカ様の人選である。)
 また逆の流れでは、
  「朝鮮民主主義人民共和国は理想の国、拉致はアメリカ帝国主義者の陰謀」
というような、共産主義万歳報道もある。
 このような、自分の主義や忖度で曲がった報道を、どうしてここまで信じるようになったか、それが不思議である。
 私はこの答えとして、日本の『優れた』教育システムがあると思う。実は学校教育も、敗戦時の教科書墨塗り事態で、今までの教育を自己否定した。そして、マッカーサー翼賛会に賛同したものと、マルクス主義万歳に分かれた。
 しかし、この後見事に、学校教育に適合し、教師に従う子供の作成に成功する。
 そして、この学校教育と
  「新聞を読め」
がきっちりリンクしている。
  「天声人語は大学入試などで出る」
という形で、A新聞を読ませるように強く勧める。これが日本の教育であった。
 ここまで進めたから、日本のメディア信頼が生まれたと思う。
 

2017年12月15日 (金)

「哲学」の勉強について

 昨日、44万アクセスの節目の記事を書いたので、今日は初心に戻り、勉強の方法というか、効果について議論してみたい。この問題を考えるもう一つのきっかけは、先日から本棚の整理をしていた時、色々と見つかった本がある。特に講談社学術文庫の「哲学入門:田中美知太郎」と、講談社現代新書の「哲学とは何か:後藤平」の2冊を読み直した結果、哲学勉強の意味を整理することができた。
 私が考える、「哲学」を学ぶ意味は以下のように分かれる。
  1. 厳密な論理的思考方法の訓練
  2. 西洋の思想の根本にあるものの理解
  3. 現実の複雑さに向き合うための知的活動方針
この内、1.の論理的思考法の訓練は、例えばちくま新書「哲学思考トレーニング:伊勢田哲治」を読んで基礎的な力を鍛えるとよい。
 一方、西洋の思想的な背景、特にキリスト教的な「神のみぞ知る」という発想や、西洋文明における、「物理学的世界観」について考えるなら、講談社現代新書の「哲学とは何か」が役に立つだろう。その他、今の日本の教育では、西洋哲学史が比較的よく教えられている。この内容を自分で消化して、今の欧米的発想の根源に、このような哲学思想が影響していることを考えることができれば素晴らしい。
 さて、3.の現実の複雑さに関する姿勢は、田中美知太郎の「哲学入門」のなかでも、「哲学の根本問題」が役に立つと思う。この中で書いてある
事実、アリスティッポスは、いかなる場所、いかなる場合、いかなる役割にも。適応することができたということが言われています。昔から哲学に期待されているとのは、何かそのような身の処し方、生き方であるとも考えられます。(p162)
哲学のいちばん大切な問題は、私たち自身の努力を、世界のあり方のうちにおいて、できるだけ正しく見ることにあるということができるでしょう。(p187)
姿勢が大切である。現実の問題に逃げずに、総合的に考える。
 このような姿勢があれば、哲学をきちんと身に着けた人は、
    「企業で喜ばれる」 伊勢田p8を参照
ということになるだろう。
 
 

2017年12月14日 (木)

44万アクセスの御礼

 昨日、アクセスカウンターを確認したら、44万を超えていた。この10月4日に43万の御礼記事を書いているので、2か月少しで、1万のアクセスを頂いたことになる。
 実は、毎年この時期はこのブログのアクセスが増える傾向がある、そこで多く見ていただくのが、正社員登用関連の記事である。この時期は、正社員登用の推薦書作成などが忙しいらしい。
 確かに私の書いた「正社員への道」でも12月から始まっていた。これを考えると、この時期に正社員登用のアクセスが増えるのは良い傾向だと思う。しっかりした管理の上で、人材育成を考えるなら、正社員登用を真剣に考えてほしい。
 そのほかでは、信頼性関連のアクセスや、開発・研究の話が時々検索されている。この話も私の経験がお役に立つならうれしいことである。
今後ともご愛読をお願いいたします。

2017年12月13日 (水)

ギャンブル依存症に関する取り組みについて

 昨日読売テレビで、IRの話と、ギャンブル依存症の話を放送していた。(関西情報ネットTEN.)この放送は、パチンコや公営ギャンブルに関しても、取り上げていたし、放送中の広告にも、「〇トシックス」や「歳末〇ャンボ〇億円」などは入らなかったので、まじめに放送しているのだと思う。
 ギャンブル依存症の放送を、某有名政治家の兄弟の俳優が、社長になって、『部下が〇トシックスで〇億円を当てるというプロジェクト』に金をつぎ込んでいるのを黙ってみているCMで、流しているなら、これは悪質なギャグである。
 
 さて、ここで私が言いたいことは、ITに反対する野党などが、現在の公営ギャンブルや、全国に存在する遊戯機器の存在に目をつぶっている現状を、議論すべきということである。
 この問題に関しては、前から私が書いているが、この国には
  「解決できないものは見ないようにする」
傾向がある。
 
 そこで、この原因について少し掘り下げてみると、一つの有力な根拠が見つかった。講談社学術文庫「哲学入門:田中美知太郎著」の中に、「哲学とその根本問題」という章がある。その「5.哲学の自己否定」の部分(p139~p152)に、ヴィトゲンシュタインやバートランド・ラッセルなどの、立派な哲学者が厳密な言語で記述できない問題を、無意味ということで無視する姿勢を教えている。
 つまり、現状に於て
   「IR法案の賛否」
という成否が分かるものには反対する。しかし、多くの被害者がいる
   「ギャンブル依存症」
の問題は、どうしてよいかわからないから目をつぶる。という、立派な論理実証主義の考えを身に着けている、国会議員などが多いらしい。
 なお、田中美知太郎の流れをくむ、まともな哲学者のために、しっかり描かないといけないが、「哲学入門」の、次の節「六.『知』と『生』」には、このような態度を
自分の知らない問題が出たからといって、答案用紙を破り捨てても、何の解決にもならないわけです。(p156)
ときちんとたしなめている。
 
 本当の哲学というものは、本質に切り込むものだとおもう。
 酸っぱい葡萄論が、学会や政界に蔓延しないことを望んでいる。

2017年12月12日 (火)

人工知能の脅威について(続き)

 昨日書いた、人工知能による情報提供問題に関して、もう少し考えてみた。
 このような、情報提供のひずみは、我が国では、色々と経験している。まず日露戦争の講和後の、大衆扇動は、当時のマスメディアである新聞の情報操作が大きい。
 さらに、第2次大戦中の大本営発表と、それを垂れ流した、また煽った新聞やラジオもある。
 そして、戦後は山本七平に「マッカーサー翼賛会」と表現された、アメリカ万歳が続く。
 もっとも、一部には
 「共産主義万歳」
という方向もあった。
 これを考えると、今までも、十分ひずみのある情報を、我々は受け取っていたのである。
 逆に言えば、Webにある多量の情報を見ることで、偏った情報に惑わされなくなる。新聞を複数誌取るのは、経済的にも場所的にも負担になる。しかし、ネット上のニュースポータルを見れば、色々な新聞の記事が見ることができる。これで、偏った意見の中和ができることもある。
 このように考えると、情報選択を、Webの機能に任せる、スマホアプリに任せる、このような任せる姿勢が問題である。
 自分が反対意見の存在に注意を払って、意識してみるようにすれば、この問題の対策になるだろう。
 もう一歩踏み込めば、ネット上で個人プロフィールを作る機能が、AIでできるなら、多様な人間像の提供も、AIがしてくれるだろう。このような人間像を見ることができれば、多数の人の反応を見ることもできる。
 このようなAIの活用こそ、本当の人間の力の拡充だろう。

2017年12月11日 (月)

人工知能の脅威について

 AIブームとその裏にある「人工知能脅威論」が色々と議論されている。しかし、ここで議論されているAIは、どちらかというとロボットのイメージで、
  「人の仕事を奪う」
形での脅威が、色々と取りざたされている。
 しかし、人工知能の利用法には、大きく分けて二つある。
  1. 独立して仕事をするロボット的なもの
  2. あくまで人間と協力し人間の能力を拡張するモノ
つまり、1.タイプのAIの脅威が議論されることが多い。一方、ロボットスーツなど、人間を助ける場合には、主体が人間なので、それほど抵抗なく受け入れられているように思う。
 しかし、この
  「人間の力の拡張」
は、我々の自覚しないところで既に大きな力を発揮している。具体的に言うと、インターネットの各種業者の中での、個人サポートという形である。例えば、アマゾンでは
  「貴殿にはこのような本がお奨めです」
という、「親切」なメッセージが入ってくる。これは、単純なものではなく、個人個人をあの手この手で追跡し、個人対応のデータを蓄積したうえで、深層学習などのAI手法を駆使して、推奨してくるのであるこれは、ベテラン店員が、お客様と長い付き合いで生み出した知恵で、推奨するようなものである。これを一人一人対応で行う。このようなことは、現在のIT技術進化に対応した人工知能でないと、とても実現できない。
 さてこれは、物の購入という、まだ人間側が意識的に対応できるものであった。
 しかし、これがGoogleの検索や、ニュースサイトの閲覧になると、さらに危険性が増えてくる。つまり、自分のみたい情報を多く見るようになってしまう。例えば、今話題の大相撲の暴力事件でも、協会側の意見、貴親方側の意見という風に分かれているが、検索の学習機能で、一方の意見をよく読んでいると。それに関連する記事だけが提供されるようになってしまう。
 このような意見の偏り、極端化が、今のWeb閲覧で発生する。これこそ、
  「人工知能の脅威」
だと思う。

2017年12月10日 (日)

日本的集団の方向転換におけるマネージメント

 先日から書いている、日本企業の現場の強さに関連して、これをマネージメントする立場で少し考えてみた。
 私は、日本企業の組織の動きを、魚の群れが動いているイメージで理解している。一方、アメリカ型の管理社会は、一つの体で頭脳に相当する組織が命令すれば、手足はその通りに動くというイメージである。
 このようなアメリカ型の管理には、軍隊式の
  「部下は命令に従え」
という運営が効果的である。なお、軍隊組織でも、士官レベルには、命令受領時に
  「取引を来なう」
権限が与えれている。命令実行に当たって、無理な点、解決が必要な点、優先度などを、上官に交渉する権利である。この交渉が成立した後は、命令実行にまい進する。これが軍隊組織である。
 一方、日本の組織は、魚の群れに例えたように、個々の人間がある程度は独自の動きで動いている。(少なくとも本人は)自主的に動いていると思っている。これを変えるためには、その場の『空気』や『流れ』を変えないといけない。単に命令しただけでは、動かない。成功する前例などを持ってきて、納得させることができれば、流れを変えることができるが、それまでの慣性が大きいのが、日本型の組織である。
 さて、ここで、日本型組織のマネージメントについて考えてみよう。特に変革時期には、リーダーシップをとって、新しい方向に向けることが、組織のトップには要求されている。しかし、彼らが習ったマネージメント手法の多くは、アメリカから来たものである。もう少し言えば、上記の軍隊的な、
  「命令すれば従う」
方式のマネージメントである。少しマシな例なら、命令受領時のトレードオフに関しての配慮もあるだろう。しかし、今度は部下の側が、
  「MBA手法で突き付けられた情報を理解できるか?」
  「MBAの言葉で議論できるか」
という問題がある。
 このような状況を考えて、部下たちの納得を作り出し、『空気』を換えるマネージメント力が、変革時の経営は必要だと思う。そのためには、成功のためのストーリつくりや、それを現実感を持って伝える力、このようなものを育成するのが、マネージメントではないかと思う。また、それを裏付ける情報を、うまく提供する。インターネット社会では、フィルタリングやプッシュ機能を使って、押し付けていきながら、空気を作るのも一つの組織運営方式かもしれない。

2017年12月 9日 (土)

企業の力はどこにあるのだろう

 昨日書いた、日本企業の力について、もう少し考えてみたい。
確かに、高度成長時代の、追いつき型の仕事の進め方なら、先輩の身につけたものをしっかり学んでいくという、仕事を通じた伝承が強みとなった。そして、作るものが大きければ、そのための生産設備も必要になる。このような設備の運用にはそれなりのKnow Howが必要となり、蓄積効果が効いてくる。
 しかし、このような強みは、変革が激しい時代には、かえって弱点となる。いつまでも、前の考え方、設備を引きずることは、経営上の負担となってしまう。特に、電子化した場合には、ダウンサイジングと集積化が進み、部品点数が大幅に減少している。このようになると、個人で組み立てる、セル生産まで実用化する。この先には、少し汎用性を加えた、ロボットアームによる組み立ても視野に入るだろう。
 このソフトウエアは一つの競争優位になる。しかし、それを作る力はどこにあるのだろう。学問的な力か、個人の技芸に頼るのだろうか?
 ここでもう一つの答えは、知的な生産を進める、マネージメントだと思う。このようなマネージメントにはいろいろな側面がある。一つは人材の選抜の力であり、その人材を活性化する動機付けの管理である。しかし、その仕事自体を管理していく手法が大切である。管理といえば、勤務状況の管理、進捗の管理、必要経費の管理、品質の管理などが思い浮かぶかもしれない。
 しかし、現在の技術を考えると、これに情報管理を加えるべきではないかと思う。作業する者に、必要十分な情報を提供する。不要な情報をカットする。これが重要ではないかと思う。今のIT技術を使えば、これは実現可能だと思う。このような観点で、マネージメントをもう一度見直すべきだはないかと思う。
 何でもかんでもメールを転送したり、写しを入れることで、「情報共有」の満足しているだけでは、本当のマネージメントはできないと思う。すべてを使いこなせる人がそろうことは、理想かもしれないが、現実は難しいように思う。
 

2017年12月 8日 (金)

日本の現場は有能だろうか?

 昨日書いたシャープに関連した、日本の現場の力についてもう少し議論を深めておきたい。
 私は、1980年代はソフトウエアのエンジニアとして、実務と管理を行っていた。その時代で、日米の技術差について、色々と感じたことがある。1980年ごろにあった、PACALとFORTRANの論争もその一つである。これは、アメリカでソフトウエアのプロジェクトを行う場合には、大学で皆が習得したPASCALを使うことが多い。しかし、日本では、社内の蓄積を重視しFORTRANでのプロジェクトとなることが多い。
 この本質は、アメリカでは大学卒業で一人前として、それまでに習得した力で会社に貢献する。一方、日本では、就職後に会社が鍛えなおす。これには両社のメリットデメリットがある。アメリカの方式の場合には、個人の理論的知識が充実し、最新理論なども導入しやすい。一方、日本の場合には企業内の技術蓄積の伝承がうまくいく。
 これを考えると、すり合わせによるモノづくりが上手な日本と、モジュラー化したものが得意な欧米という差もよくわかってくる。集団ですり合わせを行うためには、集団内での合意というか価値観の共有が必要である。このためには、日本的な企業内OJT(仕事を通じた育成)が効果を持っていた。
 さて、PASCALとFORTRANの論争に関しては、どのような結果となっただろう。現在のソフトウエアの状況を知っている人なら、どちらも知らないという答えが返ってくるだろう。確かに、両言語とも欠陥があった。両者の欠陥を埋めたのがc言語であり、UNIXの環境上のサポートで急速に普及した。このようなサポートがしっかりした状況では、集団開発より、少数精鋭による開発が有効になる。実際UNIXも研究所の個人的趣味から発生し、大学などで広がっていった。
 このような、個人のプレイなら、個人的にすり合わせができるし、伝承も個人とサポート環境で行うことができる。
 このような変化に現在の日本の管理が対応できたか、その点が反省すべき点である。

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