ご縁のあった人たち

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2018年7月23日 (月)

タブレットのOS更新

 先月ぐらいから、使っているタブレットで、Facebook等のアプリが異常停止を繰り返すようになった。仕方ないので、簡易版を使ったり、ブラウザで見るようにしていた。
 この原因が判らず苦労していたが、Yahooの方から、OS(アンドロイド)のヴァージョンが古いものでは、アプリの対応ができないと告知があった。
 そこでヴァージョンを見たら4.4と確かに古い。
 そこで何とかできないかと、タブレットの設定を弄り回したら、システム更新というものがある。これを試したが一回目では、OSのバージョンアップまではいかず不発であった。しかし何回か確認していると、やっとアンドロイドのバージョン5への更新ができた。
 その後は、何とかアプリも動き出したので、元に戻している。
 これは、ネットワークセキュリティの強化の一環で、古いバージョンを切り捨てているかららしいが、どうもタブレットメーカーの更新が後手に回っているように思う。
 さらに告知もしてくれていない。
 このようなことを考えると、アップル系やマイクロソフト系に負けそうな気がする。
 アフターサービスは重要だと思った。
 

2018年7月22日 (日)

「ゲーム障害」という言葉が意味するもの

 WHOが「ゲーム障害」を疾病として認定したらしい。
世界保健機関(WHO)報道官は5日、オンラインゲームやテレビゲームのやり過ぎにより日常生活が困難になる症状を新たな疾病として定義し、WHOの「国際疾病分類」に加える見通しだと明らかにした。ジュネーブで記者会見した。
 ゲームにはまりすぎ人間の問題というのは確かにある。しかし、これを『疾病』として扱うことで、本当に良いのだろうか?
 私が危惧するのは、『疾病』として扱うと、すぐ医者や脳科学者が出てきて、
  「大脳のXX野が委縮している~~」
  「依存症的人間とそうでない人間を比較検討すると、XXの活動に優位差がある。」
 
という風な議論になって、脳の一部の障害という風に局所的な議論になってしまう可能性である。
 そもそも「ゲーム依存」などになるときは、本人の性格、育ち方、そして家庭やその他の社会環境の問題が複雑に絡んでいる。この問題を、医療関係ということで議論すると、個人の体に局所化する可能性がある。せいぜい精神科などでは、家族療法という観点で見るかもしれないが、そこに局所化する可能性が大きい。
 もっともこれを社会学者に持って行くと、『社会の影響』を重大視してしまい、個人の病的な要素を無視する可能性もある。ミルズが言っているが、個人の歴史的経緯と、環境的な影響の両面を見ることが重要である。
 色々な所で、総合的な議論が必要だと思う。

2018年7月21日 (土)

セキュリティ問題には総合的な視野が必要

 少し古くなってしまったが、SNS上での他人を罵倒していた人間が、とうとう実世界で殺人を犯すという事件が発生した。
 この問題に関しては、色々な観点から議論が必要だと思う。
 まず一番に議論すべきは、この国の正当防衛の扱いである。アメリカでは、殴りかかってきたら、殴り返しても罪にならない。しかし、日本に法律では
  「まず逃げる義務がある」
ということで、
  「逃げられないときに正当防衛が成立」
ということになる。しかも、このような暴力行為が、ない世界を前提に話が進んでいる。従って、子供の時から武道などしていない限り、逃げる訓練もできていない。
 次に議論すべきは、危険人物の洗い出しの問題である。精神的に不安定な人間の行動には、ある程度の予兆がある。この段階で拘束できないか、安全のための議論が必要ではないかと思う。確かに、病的な性格でも人権はある。しかし、それが他人を攻撃したときに、こう檄された人間の人権が侵されることが許されるのだろうか?アメリカ式の、
   「自分で銃を持って身を護ろう」
という議論は極端だが、このように攻撃的な人間から、身を護る権利ぐらいは、認められてもよいのではと思う。
 そして、最後にあまり議論されていない、大きな問題がある。今回の被害者が、ネット上のセキュリティの専門家として、活動していたという話である。このような、セキュリティに関する話は、総合的な対策が必要である。具体的に言うと、ネット上の侵入や、攻撃の対策は大切である。しかし、物理的または個人の身体に対する攻撃ということも、可能性として考えておかないといけない。
 IT技術者の特性として、どうしてもIT社会だけを見てしまうことがある。例えば、
   「環境問題」
と言っても、「ネットワーク環境」などを考えてしまい、現実的なモノの話を配慮しない人もある。
 しかし、攻撃というのは、一番弱いところを攻めるのが鉄則である。人体や、住居など、物体を攻撃することが簡単なら、そちらから攻撃を受けることがある。
 
 ネット社会での視野狭窄にならないことも大切である。

2018年7月20日 (金)

マスメディアの行動に関して皮肉を少し

 いわゆる「カジノ法案」が国会を通ろうとしている。このことに関して、批判的な報道を行うメディアもある。確かに、ギャンブル依存症という問題は、カジノが国内で公になれば、増えるかもしれない。但し、その報道を行うニュース番組のコマーシャルタイムには、
  「ロト〇」「XXジャンボ」
等の広告が流れている。
 このようにわが国は公営ギャンブルによる収入に依存している面もある。さらにパチンコという大きな市場もある。
 このような問題の存在に目をつぶり、さらにスポンサーとしてお金をもらいながら、
  「ギャンブル依存症の問題」
という心臓の強さはいかがなモノであろう。
 そう言えば、熱中症の警報が出ているとき、学校行事を行うことに対して、批判的な論調も展開する、A新聞も、自社が主催する、高校野球はそのまま実行している。
 さらに言えば、過労死問題に関しても、マスメディアになかでもいろいろなものが発生している。
 このように、自分の問題には目をつぶり、他人の問題に関しては厳しく追及する、このような姿勢がどこまで続くのだろう。
 SNSなどで、揚げ足を取られることが多くなっている現状を、もう少し反省すべきではないかと思う。

2018年7月19日 (木)

人材の活用のために多様な道を考えるべきではないか

 数日前の朝日新聞で、引きこもりでハッキングなどの行為をしていた子が、ホワイトハッカーとして活躍の道を探る話を見た。 https://www.asahi.com/articles/ASL7G61B4L6XUTIL00J.html
 私も、このような『オタク的天才』の扱いに関しては、一つの意見がある。実は、このような子たちには、ある種の『社会常識の欠如』というものがあることは、否定できない。しかし、それを補う力が存在することも、認めないといけない。
 さて、このような人の力を発揮させるにはどうしたらよいだろう。
 私の答えは、
  「このような人たちに寄り添い支援を続ける、優しい親の役割の人財を育てる。」
ということである。母親的な立場で、できる限りそばにいる。特に外出など社会に触れる時には、寄り添ってトラブルが起こらないように見守り、必要ならカバーしていく。このような、守られている感じがあれば、彼らも安心して、世の中に触れることができるようになっていく。できれば、私生活上の伴侶となって、色々と面倒を見ていく。
 このような形での、社会との接触はあると思う。
 さて、これも多様性の活用だと思う。今の学校教育では、誰もが就職するという、一本道で育てている面がある。しかし、『(保護者的)サポート役に徹する』という道も、認めては良いのではないかと思う。
 そのためには、『いびつな才能』でも、その成果には十分評価を行う。つまりサポート役の分まで、十分な給与を支払う。このような仕組みも大事だと思う。
 このようなアイデアもあってよいのではと思った。

2018年7月18日 (水)

日本の現代歴史をもっと検証すべきではないか

 昨日、日経BPのHPで
   世界を忖度させる中国の「シャープパワー」
という記事があった。
 
 この記事の趣旨は、
 中国やロシアといった権威主義的な体制の国が、米国など民主主義諸国に自国の立場や価値観を受け入れさせる狙いから、世論を巧妙に操作したり、圧力をかけたりする手法を指している。ロシアが16年の米大統領選にSNSを通じて影響を及ぼそうとしたケースが典型的な事例。中国が世界各地に設立している教育機関「孔子学院」も、「シャープパワー」の事例とされる。
なる「シャープパワー」に、我々は以下に対抗すべきかという問題提起である。
 しかし、よく考えてみれば、我が国に対する「シャープパワー」は既に色々な形で存在する。典型的な例は、1990年代まであった
朝鮮民主主義人民共和国は理想の国、拉致などはアメリカ帝国主義の捏造
と熱心に主張した、人権主義者が多くいてことを忘れてはならない。このように、一方的な理論で、視野狭窄に陥ると、ある価値観で支配されることも多くある。
 ただし、朝鮮半島をめぐる議論に関しては、もう少し歴史的に見るべきかもしれない。朝鮮半島の南北問題に関しては、我が国にはいろいろと言いたいことをさえつけられている。
 まず韓国に関する問題が、先に発生している。これは、李承晩ラインによる明らかな、領土侵犯と、国民拿捕という主権侵害を、泣き寝入りさせられた事件がある。また、KCIAが日本国内で大きな顔をして行動した、金大中事件もある。この背景には、アメリカが選択した大統領を否定できないという、日本の特殊事情もあった。
 これらの、抑圧された不満が、北朝鮮の「シャープパワー」を増長させた一因だろう。
 このように、日本の現代歴史は、中国などの文化侵略に対して、色々と参考になるものがある。これを世界に発信すべきではないかと思う。

2018年7月17日 (火)

学校教育での正解について

 学校教育において、教師が言う正解について、少し深堀してみた。どこかのHPで見た話だが、
「二等辺三角形を書きなさい」
という課題に対して
「正三角形を書いている」
子がいた。この子に
「これも正解だから自信をもって出しなさい」
と指導した。
他の子は、正三角形を二等辺三角形に入れなかったが、先生はそれを正解にした。
という話があった。
 この話は、数学的に言えば正しいことが多いだろう。ただし、論理をきちんと検証すると、この問題も一筋縄ではいかなくなる。まず定義の問題だが
  二等辺三角形:二つの辺の長さが等しい三角形
  正三角形:   三つの辺の長さがすべて等しい三角形
となる。ここで、正三角形の場合にも、どの二辺も等しいのだから、二等辺三角形の条件も満たしているというのが、『正解』にする理由である。
 しかし、これをもう少し考えてみよう。まず明確にしないといけないのは、
    「正三角形は、二等辺三角形に含まれている」
ということである。
 さてここで、世の中の議論において、
    「特殊事例の排除」
ということは、多く使われている点をもう一度確認しておかないといけない。今話題の労働時間規制でも、
    「年収XX以上は除く」
という議論が入っている。ここでは、『労働者』という大きな枠でも、『特定業務に従事する講習入社』という特別な場合は除いている。
 このような論理の立て方からすると、
    「正三角形は特殊なものとして排除」
という議論も成立する。
 
 教育の場においては、数学的議論という前提に建てば、
    「含まれているものすべてを認める」
でよいかもしれないが、一方的に
    「正三角形も正解」
と決めつける態度は、権威主義というべきではないか?色々な立場を考慮したうえで、説明できる能力が教える側にも必要である。
 

2018年7月16日 (月)

中間案での立場には幅広い検討が必要

 学校教育について、少し考えてみた。学校教師の立場は
  1. 教育勅語に裏付けられた絶対的支配者
  2. 生徒に対するサーバント
の両極端があるように思う。なお、1.の『教育勅語』に関しては、少し説明が必要である。つまり、
   「教育勅語反対」
と叫ぶ、日教組系の教職員の中にも、
   「教師の言う事には無条件で従え」
という、タイプの教師は少なからずいる。彼らの一部には、『教育勅語』を『マルクス思想』などに置き換えて読むべきだろう。
 さて、この正反対に、
   「教師は生徒にサービスする、仕える人間である」
という発想がある。現在の父兄にはこのような人種が少なくない。いわゆる「モンスターペアレント」である。
 
 このような、極論に走るのは、現実の状況を無視して、理念だけで議論しているときに、よく生じる問題である。
 実際問題、学校教師には、
   「ある程度の権威と、必要な場合には誤りを認める謙虚さ、
    そして、生徒のために考える優しさ。」
がすべて必要になる。そのような中間的な立場は、
   「足して2で割る」
というような割り切りで求まるものではない。
 色々な立場を理解しながら、全体的な像を描いていくことが必要である。今の教育に抜けている問題は、全体像の描き方ではないかと思う。

2018年7月15日 (日)

できない理由の深堀が必要だが

 近頃、
    「難しいことを解りやすく書く」
という問題に取り組んでいる。これは口で言うのは簡単だが、なかなか難しい。
 そこでまず、難しい理由を考えてみた。
 このような時の定跡として、場合に分ける方法がある。この問題なら
  1. 自分に原因がある場合
  2. 読み手をきちんと理解していない

という風になる。
 ここで自分の原因をもう少し掘り下げてみよう。

  1. 自分の理解が浅くて説明できない
  2. 解りやすいということ自体が判っていない

このようなものが出てくる。ここで、一つ大事なことは、

  「難しい目標は達成できるが、判っていない目標は達成できない」

ということである。つまり、

  「必要性すらわからない」

という状況の対策がまず必要になる。
 今回の場合で少し考えてみよう。人が納得するには、以下の4つの条件がある。

  1. 権威に従う・・・偉い人の発言、教科書など
  2. 他の根拠から論理的に導き出したもの・・・数学の定理など
  3. 霊感による納得・・・自分の体験や他人の話から直観的に納得
  4. 科学的に検証する・・・理論と現実の交流による納得できる体系化
ここで、学校教育の世界なら、1.の「教科書に書いてある」や、2.の「教科書な内容から論理的に導いた」で十分な説明になる。しかし、実際の社会では、理論と現実の違いを説明しないといけない。従って、読み手が直観的に納得するほどの、「臨場感のあるストーリイ」を作れるか、または「現実と理論のしっかりとした交流」で検証できていないといけない。
 このような現実世界の問題解決に、必要なものが見えていない。
 これが本当の、
  「難しいことを分かりやすく書けない理由」
ではないかと思う。
 学校教育の延長では、論理的展開の詳細を書くことで、解りやすくしたつもりになるかもしれない。 しかし、読み手が求めるものは、別のモノだった時、いつまでたっても答えが出ない問題になってしまう。

2018年7月14日 (土)

今回の災害対応における行政能力について

 今回の災害に対して、今までの危機管理対応ができていた地方自治体と、そうでない自治体の差が大きくなっている。例えば総社市は、災害の支援受け入れなどに素早く対応している。
 この理由を今朝のNHKニュースでも報道していたが、今までの災害時に、他の自治体に支援を行い、東北や熊本で災害時の対応を学んできたことも大きい。
 このように、地方自治体の相互支援は、貴重な学習の場でもあるということで、有効に活用してほしいものである。
 さて、今回の災害には、行政の対応がまずかったことも、大きく影響している案件がある。特に治水事業の在り方に関して、利水だけでダム廃止を訴えたことが、本当に良かったのか、よく検証しないといけない。
 ただし、この手の議論では、行政の首長の判断が問われることが多い。行政の判断ミスの、原因をきちんと追求することは重要である。 しかし、政争の具にして、首長の個人攻撃にしてよいのか、これはもう少し議論が必要である。
 確かに、行政の長は、能力に関しても、きちんと評価すべきである。従って、
   「判断ミスが続いたり、判断過程で、どう見ても理解力がない」
とみえるような首長は、
   「無能と判定」
して、お引き取り願うのが正しいだろう。
 ただし、今の日本の政争では、
   「無能は言わない、人格の問題は言う」
という風潮がある。このため、無能な人間でも、引きずり下ろすためには、スキャンダルなどで追及している。
 
 本当に政治を考えるなら、有能無能の評価をきちんとすべきではないかと思う。ただし、出身大学だけで、評価するようなことは困ったことだと思う。考え方や判断過程をきちんと公開して評価すべきではないだろうか

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