ご縁のあった人たち

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2021年2月24日 (水)

忘却の恐怖を克服

 私は、大学院生時代は、狭い分野を深く勉強していた。具体的には、人工知能の為のモデル化と、コンピュータプログラミングである。しかし、会社に入って仕事をすると、いやでも周辺分野に気を配らないといけない。当時は、マイクロプロセッサが動き出した時代で、

「マイクロプロセッサとは何か?」

と言う議論から入っていった。そこでは、ハードウエアの知識が必要になり、回路の知識、電子素材の知識など多様な分野の知識が必要になる。そのために、多くの本を読みあさった。これは、必要に駆られて行った面もあるが、純粋に自分の知識を増やしたい、と言う動機も大きかった。

 そこでは、一応ノートをとったり、重要部に線を引いたり、書き込んだりしたが、やはり理解不足で忘れることが多い。そこで

「忘れることへの不安」
「解らないことへの焦り」

が発生した。しかし、この勉強は学校の場合と異なり、決まった期限で終わりではない。仕事のための情報収集としての勉強は、期限があるが、その場合には

「目的達成のための情報収集」

であり

「自分の納得のための勉強」

と違うことが解ってきた。「自分のための勉強」では、時間をゆっくり取ることが可能であり『積読』のように、一旦手に負えない者は寝かしておく。特に

「覚えきれない者は忘れてもかまわない」

と割り切ることで、自分で学ぶことが楽になった。これに関連して、前に買った本を、後で読み返すと、納得がいって理解が深まる、このような体験も何度かしたので、

「解らないことでも、時間が解決する」

と思うようになった。

 会社の仕事でも、必要なことはメモに書き、それは忘れても良い。必要なときに調べて解るなら、忘れても良い。このような割り切るが、気持ちを楽にしたように思う。

2020年12月28日 (月)

競争原理について考える

 昨日、テレビで『ベンチャー企業』の話を見ていた。そこで印象に残ったのは

「中国やアメリカの激しい競争社会」

つまり

「負けた会社は潰れる」
「生き残った強者に全てを取らせる」

と言う状況である。一方、日本の場合には

「大企業が生き残っている」

ために、

「ベンチャー企業が育たない」

という内容であった。このように、厳しい生存競争の場に放り込み、

「弱いモノは潰していく」

と言う発想が『市場主義経済』である。確かにこのような競争原理を使えば

「強いモノを選別」

はできる。しかし弊害についての議論が抜けている。それは、

「強くないモノの扱い」

である。いわゆる『敗者復活』や『セーフティネット』の発想が、『市場原理』や『競争原理』を主張する人から聞こえることもあるが、本当にこれで良いのだろうか?確かに、一度の失敗からの復活は、経験を生かした成長につながる。しかし、『敗者復活』で勝ち残れる人間は、並外れた力を持つ強者に限られている。敗者復活戦でも負けた人間はどうなるのか?これに対して『ベーシックインカム』は一つの答えになっている。しかしながら、ベーシックインカムの発想は、

「生存だけの保証」

であり

「モラルなどの面は考えていない」

という感じがする。それまで、上昇志向で必死に頑張ってきた人間が、簡単に

「負けたら終わり」

と納得するのだろうか?

 もう一つの問題点は、人材育成の観点である。昔あるソフトウエアのベンチャー経営者が講演したとき

「社内教育は、できる人間を見いだす手段」

と言いきった。これは、つまり

「育てる発想はない」

ということで社内の技術蓄積を大事にした、『大企業文明病』の自分達にはカルチャーショックであった。

 しかしながら、多様な人材を生かすためにも、育成の努力は必要であり、蓄積の伝承の効果もある。蓄積と変化の両面を生かす、日本的な経営が求められている。

2020年12月26日 (土)

日米の開発力に関する議論

 日経BPの記事に、

 「失敗を恐れない」 元宇宙飛行士が語るスペースXのスゴさ(上):日経ビジネス電子版 (nikkei.com)

があった。興味深い議論だがその中で  

 スペースXは、人命に影響があるなどの致命的な結果を招かない限り、たとえ大きなリスクであったとしても積極的に取ります。これも開発のスピードを速めた要因だと思います。

~一部略~

 もちろん、何でも無謀にやっていいわけではないですが、コストも実は、実際にやってみて失敗したほうが安くつく場合が多いのです。

 というのも、失敗を恐れて実験をしなければ、同じ問題を解決するのにもっと長い年月がかかってしまいます。高給で優秀な技術者を長期間、雇い続けなければなりません。でも失敗をしてそこから学べば、結論に早くたどり着けます。失敗は、それほど数多くの知見を技術者に与えてくれるものなのです。

と言う部分について、もう少し突っ込んでいきたい。

 この記事が言いたいのは

「日本の組織は、失敗を恐れてチャレンジしないから開発スピードが遅い」

と言うことだが、スペースXの開発においては

「有能な人材を抱え込む費用を最適化するには、短期で結果を出すべきであり、失敗でもかまわない」

 と言う発想がある。これをもう少し突っ込むと

「アメリカでは人件費は変動費、日本では固定費」

と言う観点がある。つまり、アメリカの場合、有能な人財でも有期契約で切っているので、できるだけ契約期間を短くして、早期に結果を出す、と言う発想がある。

 一方、日本の場合には、長期雇用契約の正社員に仕事をさせる場合には、

「どのみち人件費は発生するから、しっかり検討して失敗しないようにしよう」

と言う発想がある。この観点で、日米比較を行ったら、もう少し見えてくると思う。

 なお、スペースX的な管理には、もう一つ大事な発想がある。

「有能な人財を悩ませる時間がもったいない。失敗でも実行したら早く決着がつく。」

と言う、『仕事の上での悩み』に対する配慮である。これは開発管理の上で大切だと思う。

 一方、日本的な管理には

「時間をかけて人材を育てる」

と言う発想がある。これは、長期雇用の安定の上での能力開発のメリットだと思う。

 両者の善いとこ取りとして、老舗和菓子店の「たねや」の経営手法も面白い。「たねや」では、色々な新製品が出てくる。この発想は

「一勝九敗」

という感じで、若い力にチャレンジさせ、そのうち生き残ったモノを製品として残していく。こうして

「チャレンジさせながら、人材育成も行う。そのために、芯となる製品でしっかり稼ぐ。」

発想が、長年生き延びた老舗の智慧だと思う。

2020年12月18日 (金)

わかりやすい物を作るために

 昨日見た、日経BPの「ノーベル経済学賞ミルグロム教授のオークション理論」の解説で、色々と思いついたことがあった。

 その中で

「よくわかっていない人が仕組みを作ると、色々な意見のつぎはぎで、複雑すぎて使えない物になる」

と言う主旨の発言があった。この問題に関して、私は自分で経験したことがあり、もう少し詳しく説明できる。

 私が、1970年代半ばに、マイコンの組み込みソフトを作ったときには、プログラム生産性の向上が最大課題であり、そのための有効な手段が標準化であった。私は、開発担当として、この問題に正面から取り組んでいった。ただし、標準化は巻単位できるモノではない。最初の製品は、何とかロジックと設定部門の分離をしただけであった。次の製品は、スペックの可変範囲を全て吸収しようとして、複雑なモノとなってしまった。このときの教訓は

「使い方の説明書が書けないようなモノは使えない」

であった。

 こうして苦労していると、

「自分の仕事の全体像が見える」

時が来た。そこで私が思いついたことは

「処理をデータの変換と見て、フォーマットを記述する設定表を使う」

である。このとき学生時代に習ったFORTRNのFORMAT文や、コンパイラの知識が色々と応用できると見えてきた。

 こうして

「全体像を見渡した上で、すっきりした標準化製品を作る」

コトに成功した。

 なお、このとき

「全ての要求に対応するのではなく、頻度の少ないモノは、その時々の特殊処理で対応」

と割り切ったことも、複雑怪奇なパッチワークを逃れるために要綱であった。

 この話は、

「使いやすいモノを作るための考え方」

として有効だと思う。

 なお、この講座の中で、慶応大学の坂井教授が

「複数の視点で見ること」

の有効性を指摘しているが、上記経験談でも

  • 色々な現場体験
  • 学生時代のプログラム経験
  • コンパイラの知識

と言う、複数の視座が役立っている。   

2020年12月14日 (月)

『有能な人』という表現の危険性

 先日歴史の本を読んでいたら

「後醍醐天皇は無能」

と言う説があった。

 この議論について、たしかに建武の新政の状況を見れば、

「後醍醐天皇の政治能力は低い」

と言う判断には納得する。しかし、鎌倉幕府を倒した、

「革命家としての能力」

は高く評価すべきではないか?このように考えて、

「人の能力を、機能に対応して評価する」

発想について考えてみた。

 会社生活では

「XXサンは有能である」

と言う評価をすることが多い。しかし、よく考えてみると

「XXさんは(XX業務で)有能である」

と言う(XX業務で)の部分が、隠れていることが多い。確かに、思慮の深さ、発想の豊かさ等、個人の資質が優れている人はいるが、業務対応で有能さを示している人が少なくないことも現実にある。

 さて、このような個人を『有能』と評価することは良いのだろうか?これは、裏側の議論を考えると、危険性がよくわかる。先ほどのXXサンが、別の業務に移ったとする。そこで、仕事ができなかったら

「XXサンは、無能だった」

と人格の否定になってしまう可能性がある。ピーターの法則の

「人は自分が無能であると証明されるまで出世る」

はこの一例である。

 このように考えると、人の能力は、業務や機能に関連付けて

「XXサンはXXの仕事では有能である」
「XXサンのXXスキルは高い」

と表現するべきだと思う。

2020年12月 2日 (水)

イノベーションを起こすために必要なモノ

 昨日の記事に関連して、イノベーションを起こすために必要なモノを考えてみた。

 この議論にはもう一つ、日経BPのバナジー教授の講座が問題を提起してくれた。

 https://business.nikkei.com/atcl/seminar/20/00030/112400003/

バナジー教授は、経済学に客観的な実験手法を導入した功績で、ノーベル賞を受賞している。しかしながら、客観的な手法が、イノベーションに役立つのだろうか?私は疑問を感じている。

 私の意見は以下の通りである。

  1. イノベーションを起こすためには、基本原理への深い理解が必要である
  2. 客観的なデータにこだわらず、本質に関する定性的な考察が必要
  3. 色々な考察が交わって、安定したモデルが生まれるときに、イノベーションが起こる
  4. イノベーションの検討を行っている人財には、ある種の生活安定などの保証が必要になる
  5. イノベーションにおいては、可能性を拓いた後も、実現のための地道な努力が必要である

例えば、1.の基本原理に忠実という議論では、富士フイルムとコダックの比較が面白い。1960年代には、コダックのフイルムの品質に、富士フイルムはとても及ばなかった。しかし、現在コダックは潰れ、富士フイルムは色々な業種に転換しながらも生き延びている。これこそ、社内イノベーションの成功例だと思う。なお、1950年代から富士フイルムには一つの神話がある。

日本で最初に動いたコンピュータは、富士フイルムが作った

これは、レンズの設計用に作ったコンピュータである。このように基本原理を実現するための貪欲さ、これが会社のDNAとして残っているのではないかと思う。

 なお、「遊びの専門」としてこだわり抜いた、ニンテンドーのイノベーションや、多様な製品を試しながら「一勝九敗」と割り切って進む、和菓子メーカーの老舗の智慧もイノベーションの良い実例だと思う。

 これらの成功例の定性的研究が、イノベーションを導くのではないかと思う。

2020年12月 1日 (火)

高専と大学の比較がきちんとできているか?

 文部科学大臣が

大卒よりも即戦力である高専卒の給与水準を、大卒と同じ水準にするよう、いや、むしろ逆でもいいくらいだと産業界に働きかけていきたい」

と発言したらしい。

文科相も推す「高専卒」メリットとデメリット | CHANTO-WEB | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 (toyokeizai.net)

 私は、元電機メーカで社員の育成に当たり、また採用の仕事もしたので、この問題に関しては、かなり突っ込んで発言できる。

 まず一つ目の、高専卒業生の即戦力性に関しては、昔ある大学教授との議論が一つの答えになる。

メーカーの人間
「近頃の若い子は、電気系の学生でも三相交流の基礎も知らない」
某大学教授
「大学では理論的な基礎を追いかけるから、三相交流の実用的な話を教える時間が無い。そのような知識は高専が教えている。」

これをもう少し具体的に展開すると、例えば電気自動車のモーターの制御のプログラムを作るなら、モーターとしての回転力と、発電機として動くときの逆転の力を生み出す、電気の流れについて、成分に分解したプログラムを作らないと行けない。この時の数式への展開などは、高専の教科書なら書いてあるが、大学の電気の教科書にはそこまで親切に書いてなかった。このように高専の即戦力性は高い。

 しかしながら、このような制御の基礎まで踏み込み、どのような近似展開を行ってモデル化しているかという議論を行うなら、数学的な基礎や電磁気学の基礎が必要になる。モーターの制御なら、クラーク座標の知識、更にその奥にある複素関数の扱いなどを知る必要がある。歪み波の扱いなら、フーリエ級数展開から、過渡現象に関する深い議論が必要になってくる。このような理論的基礎が、大学のメリットではないかと思う。

 更にもう一歩踏み込めば、イノベーションを起こすためには、広い見識も必要になり、文系のリベラルアーツも土台にあった方が良い。ここまで考えて、大学のメリットも議論してほしい。なお、高校の数学レベルも怪しい、いわゆるFランク大学は、この範疇から除くべきだろう。

 なお、高専の学生に関して、昔ある国立高専の先生と議論したことを思い出した。

「貴学からは、N大学の理学部に進学していますね?」
「そうなんです、基礎を学びたいという子がいます」
「高専の実用的知識を持った上で、基礎から学び直す姿勢が素晴らしいですね」

これが一つの答えではないかと思う。

2020年11月11日 (水)

会社の存続という問題

 米国では、

「会社が潰れることはよいことだ」

と言う発想がある。この主旨をもう少し説明すると

「時代に適合しない会社が、人材を抱え込むことを避けて、成長分野に人材を回せる」

と言う発想で

「会社が潰れることはよい」

と表現している。確かにこの話の実例として、太平洋戦争の真珠湾攻撃の裏話がある。

「日本海軍の真珠湾攻撃で、米国は旧式戦艦を多く失った。その結果、その戦艦に乗るべき人材を、新しい空母などに有効活用できた。一方、日本海軍は、大和と武蔵の巨大戦艦が最後まで残ったため、有能な人材を、大和や武蔵に縛り付けられたので、実戦での活躍ができなかった。」

この事例が示すように、旧来の組織が残ることで、資源の無駄遣いになる可能性はある。

 しかしながら、私たち日本人は、会社の存続と言うことの重みも知っている。よい実例が任天堂である。私は戦後の昭和からの人間なので以下の変遷を知っている。

  1. 昭和の30年代ぐらいまでは、たばこ屋で「任天堂の花札」を売っていた
  2. 昭和の30年代には、ディズニートランプを、トランプマジックの番組で上手く売り込んだ
  3. 昭和50年代からテレビゲーム機
  4. 昭和60年代からファミリーコンピュータ

等のすさまじい変化を遂げて、現在も生き残っている。この会社は

「遊びと言うことの専門の会社」

と言う「芯になるもの」を大切にしながら、色々と適合し成長している。このような、会社を残すよい面も知っておくべきだろう。

2020年11月 8日 (日)

コロナ時代の新人研修について

 日経ビジネスの最新号が、「コロナ後の新人」と言う特集をしていた。

https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/mokuji/00094/?i_cid=nbpnb_sfrec

 この中でも、新人研修のあり方の議論がある。

  https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00650/
  https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00652/
  https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00653/

私は、某電機メーカーで研修関係の仕事を、15年ほどしてきた。その時に悩んだ問題が、

「新人をどこまで枠にはめるか」

である。もう少し解説すると、

「個人の独創性を壊してはいけない」
しかし
「社会の約束事を守らない人間は、他人に受け入れられない」
そのためには
「ある程度の枠への当てはめは必要である」

と言うジレンマである。

 これをもう少し具体的に言うと、

「能力のある個性は伸ばしたい」
しかし
「それが、あまりにも周囲とぶつかり、壊れることは避けたい」

と言うのが一つの悩みである。もう一つは、

「それほどの力が無いのに、自分の独自性があると思い込んでいる人在の扱い」

である。またこの逆に

「自分の力に自信を持てない人財」

の問題もある。よくあることだが、『人罪』向けに言った言葉が『人財』にだけ響くと言うことが多くある。そこで、『人財』が萎縮し、『人罪』がのさばる。このような事態もある。研修の難しさは、このような社員の全体像を見た上で、個別の対応を考える必要がある点だと思う。

2020年10月16日 (金)

哲学科出身者の就職事情

 近日話題になっている、日本の文系の非実用性に関して、ある逸話がある。

アメリカの大学の哲学科教授
「内の学生を欲しがる企業が多くて割り当てに困る」
日本の大学の教授
「哲学出身者の就職口に困る」

この状況に関して、きちんと議論ができているだろうか?この問題には、色々な切り口があるが、まず思いつくところだけでも書いておく。

 一つ目はアメリカの大学の哲学の広さである。プラグマティズムが哲学の一分野であるし、「一般システム思考」のワインバーグなども哲学科に所属していた。つまり、日本の哲学のイメージより、実学に近い分野が哲学に含まれている。このレガ、哲学出身と言っても、企業が欲しがる傾向につながっている。

 二つ目は、アメリカの文明に、論理的思考を重視する、風土がある。つまり、哲学を勉強することで身につく、クリティカルシンキングのスキルを重視している。これで、哲学出身者を重用する。なおこれと関連して、

「理論武装としての哲学的考察」
〈自分たちが正しいと、哲学的に述べる〉

と言う側面もある。欧米文明には、本質的に侵略的・制圧的側面がある。その時

「自分たちが正しいことを理路整然と言いたい」

と言う側面が、哲学的思考重視に向かったのではないかと思う。

 さて、日本の哲学者は、どうなっているのだろう?

 この問題に関連しては、戦前・戦中の戦争協力問題が微妙に絡んでいる。

 戦争中の、学者の戦争協力の問題は、現在の人間が考える以上に、厳しいモノがあった。つまり、

「学者個人の生き残りのための戦争協力!」

である。学徒動員という形等で、大学卒業生が軍隊に入ると、一兵卒でいじめられるか、いきなり予備仕官という扱いになる。ここで、予備仕官になれば、よい処遇に見えるかもしれない。しかし、

「予備仕官は、先頭に立って突撃する、小隊長の補充品」

と言う厳しい現実がある。士官学校卒などの、率先垂範できる人材が枯渇してきたので、大学卒という高学歴者を、小隊長にして、先頭に立たせる。こうして多くは死んでいく。この現実から逃げるには、軍隊の気に入ることをして行く。

 こうした戦時中の行動は、戦後多くは蓋をされてしまった。例えば、マックス・ヴェーバーの研究者達の一部は、ヴェーバーが戦時中に行った、戦争の見通しを含んだ講演を、翻訳するときには、終戦後の講演と誤訳して紹介したりして、自分たちの手のひら返しを隠そうとしていた。

 日本学術会議の

「軍事研究嫌い」

にも、このような歴史があることも知っておいて欲しい。

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