ご縁のあった人たち

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2020年9月 9日 (水)

自分の納得と権威の受け入れの関係

 私たちは、学校で勉強するときには、教科書や教師という「権威」に従うことを、強制されている。

 しかしながら、自分の意見を持つためには、どこかで

「自分としての納得」

を得る必要がある。この納得の根拠として

  1. 信じている人などの言葉
  2. 自分の経験
  3. 直観的な理解

等がある。

 特に、経験や直観的な理解の裏付けがあると、信じる力が強くなり、迫力のある議論ができる。

 しかしながら、直観的な理解にこだわると、そこから進まなくなるコトもある。このバランスが難しい。特に西洋文明的な学問は、ある決められたルールの上で展開する場合が多く、そのルールには従うしかない。自分の直観に合わないでも、そのルールでの推論結果は受け入れないと行けない。特に数学ではこのような事が起こる。

 こうした、権威との付き合い方を上手に行う事が、学問を使いこなすための条件だと思う。

 最後に、人に説明するときに、自分はきちんと納得した根拠を持っている場合と、自分もどこかの「権威」に従っている場合の違いを、きちんと意識する必要がある。自分が納得しているなら、そのまま説得できる。しかし、自分が「権威」に従っているなら、相手にも「権威」を押しつけてしまう。これをきちんと意識していないと、説明や説得を受ける側の反発を買ってしまうだろう。

2020年9月 2日 (水)

意味をどこで見いだすか?

 先日から、社会科学におけるモデルの役割について、考えていたら、色々なモノがつながってきた。そこで、まだ荒削りだが、思いつくところを書いておく。

 まず一つ目のアイデアは、社会科学のモデル論から来た

「物事の意味はそのモデルの上でで考えるべき」

である。自分が感じる意味、というのではなく、その物事が起こった状況をモデル化し、その上で考える。

 もう一つのアイデアは、江戸時代の豪農や豪商の働きで思いついたが、

「社会全体がよくなる事が自分の幸せ」

という発想である。これに関連して、仏の慈悲について

「太陽の光のように遍く照らす」

という発想が、

「個別の一対一の関係でなく、社会全体への影響」

という形で見えてきた。これは逆に言えば、

「西洋文明の物理学モデル=一対一の関係の簡略化」

で表せないモノを見直す考えである。もっと言えば、西洋文明的に

「局部的な関係に集中して考えすぎ」

という私たちの思考の偏りをただす。こうしたときに見えるモノがある。このような感じがしてきた。

2020年8月14日 (金)

認識するモノは何か?

 社会科学などの分野では、物事を見る目が、その人が持っている、知識の影響を大きく受けている。これは、自然科学の分野と大きく異なる。私たちは、自然科学、特に物理学の影響を受けているので、

   「自然界のモノを素直に見る」

ということは、当たり前に考えている人も多いと思う。しかしながら、社会の現象や人間の営みは、多くの側面があり、更に社会科からの関わりも多様になっている。私たちは、その全てを知ることができているのだろうか?プラトンが突きつけた『洞窟の比喩』は、確かに成立している。

 私たちは一面しか見ることができず、それは自分たちの知っていることに制限される。

 例えば、マルクス主義にこだわれば

   「労働者は資本家に搾取されてこき使われている」

という観点で議論が進む。しかし、江戸時代の篤農家が

   「多くの人を指導して、開拓させる」

という活動は、

    「社会資本への投資で、将来的に皆がよくなる」

という側面がある。投資と回収、全体としての幸せ、等の概念がないと、このような発想は出てこない。

 このように考えると、私たちが見ているモノは、私たちの今までの知識に大きく影響されている。

 なお、私たちが作った制度に関しては、自分たちが創ったから、定義もはっきりしている。

   「正しいと言い切れるモノは、作られたモノである」

このヴィーコの言葉は、流石に社会学の祖といわれることがると思った。

2020年8月 6日 (木)

大衆の支持を得た専門家が必要ではないか

 今回のコロナ危機に関して、色々な専門家の発言が飛び交っている。

 そこで一つ思いついたことは、専門家の立場の不安定な感じがすると言うことである。例えば、

   「八割おじさん」

という揶揄などである。

 この問題は、もう一歩踏み込むと

   「専門家は、自分たちの村だけで、認め合っている」

という側面があるが、

   「そこでの権威が一般大衆にも通用する」

こ思い込んでいる傾向がある。

 しかし時代は高学歴化し、ネット情報があふれている現状では、

   「単なる、地位などの権威は通用しなくなる」

傾向がある。

 そのため、自分の考え方をしっかり説明して、

   「大衆の支持を得る専門家」

になるべきではないかと思う。

 または、

   「専門家を評価し、保証する役割」

を誰かが持つのも一案かもしれない。

 そのようにしないと、権威便りの専門家は自滅するのではないかと思う。

2020年7月21日 (火)

いわゆる「夜の街問題」についてもう少し

 先日も書いたが、いわゆる「夜の街問題」の根底には、社会の分断の問題がある。

 そこでは、

「底辺労働」

等の表現もあるし、さらに

「一部のホストは社会に適合できず、それしかできない」

という表現もある。

 さて、このような表現は、差別的と、糾弾したり、言葉を禁止する向きがある。しかし、これは問題の覆い隠しである。

 本当の解決の為には、このような表現を引き出す、価値観を明らかにすべきである。

 私の考えでは、この根底には、

「学校成績重視、企業所属重視」

という、単一化路線の、価値観の支配があると思う。

 このような、価値観の影響を明らかにすることが、価値観から自由になり、根本的な解決に結ぶ付く。


2020年7月 5日 (日)

「ヘイグの理論構築の方法」の利用について

 昨日書いた、「理論構築の方法」についての議論で、抜けていたことがあるので補足しておく。

 まず、この本は社会学等の研究者等が読むことが多いと思う。確かに難しいので、一般的に読まれるまで至っていない。しかし、この本の使い方は、学者の価値観である、新規の発見よりも、説明的な扱いの方で効果を生むと思う。

 研究者の価値観では、説明的な扱いは、新規性が無いので評価が低くなる。しかし、現実の世界を動かすなら、説明が大切だと思う。政治家等もこのような説明を活かしてほしい。

 次に、この本では、「連結」という言葉を使っている。しっかりした論理展開の為には、原因ー結果等の明確な命題や、検証可能な仮説が重要である。しかし、説明の為には、因果関係が見えない時も、同時に起こる等も、まだ不明瞭なモノも、記述しておくと、他人の協力で関係が明確になるかもしれない。

 このような実用を考えることが大切ではないか。

2020年7月 2日 (木)

コロナ専門家会議に欠けているもの

 コロナ専門家会議については、いろいろな議論があるが、一つ見えて来たモノがあるので、忘れないよう書いておく。

 私は現在、皮膚科の病気で入院中である。そこで一つのハプニングがあった。同じ病室の患者さんが、立ちくらみでこけて、頭を少しぶつけたらしい。その時、近所で作業していた方が、看護師を呼び、自分が聞いた音の状況等を上手く説明し、協力してベッドに戻していた。その後、当直医も来て、頭を打ったということでCTをとり、

「一応大丈夫だが、放射線科の専門医に読見取りを願う。」

という話になった。

 その後、皮膚科の主治医が様子を見に来た。そこで

「CTの状況は私も確認します。」

と、凛として言い切った。

 読図の専門は放射線科だろう。しかし、その分野に近い専門家は、隣接分野の専門家を評価出来る。これが、ポランニーが言った、専門分野の繋がりでの保証だろう。更に、患者の立場で考えると、信頼感のある主治医の説明が受け入れ安いだろう。こうした安心への配慮ができている。

 さて、コロナ専門家会議は、これができているか?まず、隣接分野の相互評価が、あったか?あってもそれが大衆に伝わっただろうか?も一つ言えば、大衆を信頼させる「主治医」の役割を誰が担っただろうか?

 もっとも、大衆相手は政治の仕事という発想もある。それなら、政治家に対する「主治医」役は誰が担っただろうか?

 このような議論も必要かと思う。

2020年7月 1日 (水)

正しいものは作られたもの

「正しいと言い切れるモノは作られたモノだけである」

この言葉は、社会学の祖と言われている、ウ゛ィーコが、デカルトの厳密なる思考方に対立して言った言葉で、人間の力の限界を示している。確かに、自然界の物事で

「正しい」

と言い切れるだろうか?何らかの不確定要素が存在する。これに対して謙虚な対応を求めた言葉であろう。

 しかし、これは西洋文明の、人間の力を有限とする立場である。仏教の一部では、人間の力を仏の力と同じと見る。

 法界体性智と言うように、「法界」自らの体であり性である。この力で創造し、その責任を取る。これが仏の力だと思う。だから、「正しい」と言い切れる。

2020年6月30日 (火)

専門家会議という組織について

コロナ対応の専門家会議について、色々な議論が出ている。

このblogでは、「専門家」の位置づけについて、色々な切り口があるので、少しお付き合い願いたい。一つ目の議論は、

   「感染症の専門家出ない人が口出しするべきではない」

という論点である。確かに感染症の専門家は、ウイルスの伝搬等にしっかりした論理展開が出来るだろう。但し、今回の問題は社会への影響など医学の範囲すら超えている。そこでは、多様な専門家の議論が必要である。

 確かに

   「原子力の先生が?」

という疑問は出るだろう。

 しかし、

   「統計データの読み取りと、特徴抽出と、一般市民への安心説得」

というなら、原子力の分野はそれなりの蓄積があり専門家といえるだろう。

 さて、ここである大学の先生が、「ポランニーの暗黙知」を持ち出していた。確かに、ポランニーは、近接領域の相互評価の輪で、専門家の会議が成立する、という議論をしている。これを文字通り読むと、「なんで原子力?」となる。

 しかし、ポランニー自体も多様なる活躍をしている。そこでは、科学的な思考スキルの保有者の集団の力を認めており、ここで多様な分野の専門家の会議もあると思う。

 なお、私が現在主として信奉している「日本教」発想では、専門家の発想を多くの人が理解できる可能性を認めている。これが大阪モデルの成功の理由ではないか?

 病院からなのでタブレット利用のカキコミなので乱れたらゴメン!

2020年5月28日 (木)

テレワークの成功条件(持続可能性)

 新型コロナウイルスの影響で、テレワークが推進されている。この働き方は、現在のネット環境やIT技術を考えれば、しばらくは効果があると思う。ここで

「しばらくの効果」

と表現したことに注意してほしい。私の会社員生活は既に前世紀期が大部分だが、このテレワークに発生する問題点を、経験している。それは、

「関係部門への配慮不足」

という問題である。これは大きく分けて、パソコン画面やタブレット画面、極単にはスマホ画面の制約という一面と、組織の横などへの配慮不足などから発生するモノである。しかもこのトラブルは、

「世代交代してから発生する」
または
「まれなトラブル時に発生する」

傾向がある。通常上手く流れているときは、限られた範囲の情報伝達で良い。また色々な経験をした人間が、分散しているときには、それなりの配慮をする。現在なら、メールの写しを入れておくし、その写しに目を通すという配慮もあるだろう。

 しかし経験が無くなった世代が働き出すと、このような写しなどには反応しなくなる。

 こうした状況を考えると、テレワークの成功のためには以下の方策が必要ではないかと思う。

  1. 全体を見て交通整理を行う管理者スキルの育成
  2. 全体像を皆で共有する「物語(伝説)」やゲームなどの作成

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