ご縁のあった人たち

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2020年7月 2日 (木)

コロナ専門家会議に欠けているもの

 コロナ専門家会議については、いろいろな議論があるが、一つ見えて来たモノがあるので、忘れないよう書いておく。

 私は現在、皮膚科の病気で入院中である。そこで一つのハプニングがあった。同じ病室の患者さんが、立ちくらみでこけて、頭を少しぶつけたらしい。その時、近所で作業していた方が、看護師を呼び、自分が聞いた音の状況等を上手く説明し、協力してベッドに戻していた。その後、当直医も来て、頭を打ったということでCTをとり、

「一応大丈夫だが、放射線科の専門医に読見取りを願う。」

という話になった。

 その後、皮膚科の主治医が様子を見に来た。そこで

「CTの状況は私も確認します。」

と、凛として言い切った。

 読図の専門は放射線科だろう。しかし、その分野に近い専門家は、隣接分野の専門家を評価出来る。これが、ポランニーが言った、専門分野の繋がりでの保証だろう。更に、患者の立場で考えると、信頼感のある主治医の説明が受け入れ安いだろう。こうした安心への配慮ができている。

 さて、コロナ専門家会議は、これができているか?まず、隣接分野の相互評価が、あったか?あってもそれが大衆に伝わっただろうか?も一つ言えば、大衆を信頼させる「主治医」の役割を誰が担っただろうか?

 もっとも、大衆相手は政治の仕事という発想もある。それなら、政治家に対する「主治医」役は誰が担っただろうか?

 このような議論も必要かと思う。

2020年7月 1日 (水)

正しいものは作られたもの

「正しいと言い切れるモノは作られたモノだけである」

この言葉は、社会学の祖と言われている、ウ゛ィーコが、デカルトの厳密なる思考方に対立して言った言葉で、人間の力の限界を示している。確かに、自然界の物事で

「正しい」

と言い切れるだろうか?何らかの不確定要素が存在する。これに対して謙虚な対応を求めた言葉であろう。

 しかし、これは西洋文明の、人間の力を有限とする立場である。仏教の一部では、人間の力を仏の力と同じと見る。

 法界体性智と言うように、「法界」自らの体であり性である。この力で創造し、その責任を取る。これが仏の力だと思う。だから、「正しい」と言い切れる。

2020年6月30日 (火)

専門家会議という組織について

コロナ対応の専門家会議について、色々な議論が出ている。

このblogでは、「専門家」の位置づけについて、色々な切り口があるので、少しお付き合い願いたい。一つ目の議論は、

   「感染症の専門家出ない人が口出しするべきではない」

という論点である。確かに感染症の専門家は、ウイルスの伝搬等にしっかりした論理展開が出来るだろう。但し、今回の問題は社会への影響など医学の範囲すら超えている。そこでは、多様な専門家の議論が必要である。

 確かに

   「原子力の先生が?」

という疑問は出るだろう。

 しかし、

   「統計データの読み取りと、特徴抽出と、一般市民への安心説得」

というなら、原子力の分野はそれなりの蓄積があり専門家といえるだろう。

 さて、ここである大学の先生が、「ポランニーの暗黙知」を持ち出していた。確かに、ポランニーは、近接領域の相互評価の輪で、専門家の会議が成立する、という議論をしている。これを文字通り読むと、「なんで原子力?」となる。

 しかし、ポランニー自体も多様なる活躍をしている。そこでは、科学的な思考スキルの保有者の集団の力を認めており、ここで多様な分野の専門家の会議もあると思う。

 なお、私が現在主として信奉している「日本教」発想では、専門家の発想を多くの人が理解できる可能性を認めている。これが大阪モデルの成功の理由ではないか?

 病院からなのでタブレット利用のカキコミなので乱れたらゴメン!

2020年5月28日 (木)

テレワークの成功条件(持続可能性)

 新型コロナウイルスの影響で、テレワークが推進されている。この働き方は、現在のネット環境やIT技術を考えれば、しばらくは効果があると思う。ここで

「しばらくの効果」

と表現したことに注意してほしい。私の会社員生活は既に前世紀期が大部分だが、このテレワークに発生する問題点を、経験している。それは、

「関係部門への配慮不足」

という問題である。これは大きく分けて、パソコン画面やタブレット画面、極単にはスマホ画面の制約という一面と、組織の横などへの配慮不足などから発生するモノである。しかもこのトラブルは、

「世代交代してから発生する」
または
「まれなトラブル時に発生する」

傾向がある。通常上手く流れているときは、限られた範囲の情報伝達で良い。また色々な経験をした人間が、分散しているときには、それなりの配慮をする。現在なら、メールの写しを入れておくし、その写しに目を通すという配慮もあるだろう。

 しかし経験が無くなった世代が働き出すと、このような写しなどには反応しなくなる。

 こうした状況を考えると、テレワークの成功のためには以下の方策が必要ではないかと思う。

  1. 全体を見て交通整理を行う管理者スキルの育成
  2. 全体像を皆で共有する「物語(伝説)」やゲームなどの作成

2020年5月 8日 (金)

読書の方法

 外出自粛の影響で、自宅にこもる人も多いと思う。特に学生の場合は、自分で本を読む機会も多くなるだろう。そこで、今回は

『読書の方法』

について少し議論しておく。

 私の考えでは、読書には以下の3段階がある。

  1. 本に書いている世界で考える
  2. 本の登場人物の心に寄り添って理解する
  3. 著者の立場を思いやり、『何故この本が書かれたか』を理解する

なお、これは3段階と言ったが、優劣を付けるつもりではない。ただこの違いを意識することが大事である。

 1.の『書いてある世界で考える』の極端な例は、数学である。本の中で書いている、定義に従って議論する。それ以外の直観的要素などを持ち込んではいけない。例えば、群論では『積』と言う表現を使うが、これを

  「今までの数学で使った整数などのかけ算」

のイメージで考えると失敗する。あくまで

  「二つの項の間の演算で制約条件を満たすモノ」

と言うルールで考えないと失敗する。大学数学の初心者の失敗は、このような

  「抽象的なルールできちんと考える」

訓練ができず

  「直観的な思考に縛られてしまう」

弊害が残った場合がある。

 一方、2.の『人の心に寄り添う』読み方は、文学作品などに対して必要である。このときには、自分の想像力や直観的な感覚も大いに生かすべきである。

  「人の悲しみ、喜びについて、自分も共感していく」

一方、

  「そのような共感している自分を客観的に観る」

このような経験が、文学的な読書には必要だろう。

 さて、最後に『著者の立場を思いやる』読み方であるが、これは考え方によれば『上から目線』という危険性もある。しかし、

  「著者の生きた時代背景を考え、何故このように書いたか」

を想像することは、著作を理解するために大事な作業だと思う。これは自然科学の論文でも、社会科学の本でも、文学作品でも大切なことである。例えば、物理学の基礎として

  「マックスウエルが電磁気の基礎方程式に関する論文は、当時の機械の発想が入っている」

と言うことを読み解けば、どうして『場の概念』という創造ができたか解るだろう。

 また、私は天台の『摩訶止観』を読むときには、6世紀の環境をできるだけ意識して読んでいる。紙が貴重な時代、これを意識するだけでも得るものがある。

 このような本の読み方を考えるのも良いのではと思う。

2020年4月 9日 (木)

解っていないという評価 学会報告の事例

 昔、学会の研究会で報告するとき、

「自分の報告は、だめではないか?」

と悩んだことを思い出した。この悩みには、大きく分けて二つの要素がある。

 一つは、研究の論理展開の弱さなどである。議論の飛躍があったり、証拠不足だったりして、研究者としての手法の問題がある場合である。これは、自分の未熟と言うことで、自己責任という面が大きい。

 さて、もう一つがやっかいな問題で、

「この研究は,報告に値するか?」

と言う悩みである。極端な事例は、発表内容に対して座長などから

「XXが既に報告している。」
「教科書のXXに書いてある。」

と一蹴される場合である。

 これは、研究分野の全体的な見通しと、最先端研究への見識がないと、

「自信を持って,大事な研究である。」

と言えないからである。更に踏み込めば、

「科学哲学の立場で、研究の新規性や価値を評価できるか?」

まで考えないといけない。

 ただし、ここで指導者の役割が出てくる。

「研究の価値を決めるのは指導者の責任」

と言う割り切りも有る。多くの研究者は、若い間は指導教官や先輩の指示に従って、分担した研究を行う。この立場では、研究の価値の責任はない。

 ただし、この立場なら、「先輩には服従」という縦社会になってしまう。そこで、研究者としてのスキルが身につくまでは,先輩の指示通りの研究が必要だろう。しかし、ある程度手法が身につけば、自力評価を行える力も必要になる。そのために学会の各種資料を広く読んで、見識を広げていくことも大切だと思う。 

2020年1月10日 (金)

日本文明の意思決定論

 昨日書いた、日本文明に関する話について、今回は意思決定の部分で議論していく。山本七平が指摘している、

「日本人の責任者不在形式」(雨傘連判状的持ち回り)

について、色々と思いついたことがある。ここで書いた、『雨傘連判状』というのは、江戸時代などの百姓一揆などで使った物で、関係者が署名する連判状を、円状に配置することで、筆頭者をなくし首謀者を隠す形式である。この理由は、百姓一揆の時には、領民全員を処刑することはできない。そこで、中心となった者だけを処刑する。それを防ぐ手段である。連判状に記載した者全てを処刑したら、大事件として幕府から責任追及される。しかし、雨傘連判状で、皆が一体と言い張れば、処刑すべき犠牲者が出せなくなる。このような仕組みである。

 しかし、山本七平が描いた、『責任者不在』の図式は、もう少し悪い。つまり、

「皆が責任逃れをしている」

形になっている。これを

「『空気』が発生してそれに皆が縛られている」

と表現している。

 確かに、明治以降の日本的意思決定には『空気』が発生して、それが暴走したという図式があった。そこで、このような『空気』発生のメカについてもう少し考えてみよう。まず、議論すべきことは

「多数が意見を言う形の意思決定は悪くない」
「特定の決定者に依存するのでなく多くの人の納得による決定はよい」

という日本的な慣行である。これを

「稟議と根回し文明」

という人もいるが、このような納得による物事の推進は『全員参加の力』を発揮しやすく、実現への力が大きい。ただし、この方式の運用において、

「間違ったときの反省と修正をきちんと行う」

という条件が満たされていないと、トラブル発生時にも

「惰性で止まらなくなってしまう」

弊害がある。

 この理由は、

「意思決定のプロセスや検討事項が明文化されていない。
決定の前提が明らかになっていない。」

ことが大きい。このような欠点を補うためにも、日本的意思決定についてもう少し深掘りする。(続く) 

2019年10月20日 (日)

「音楽を外に連れ出す」ために必要なモノ

 昨日に続いて,「蜜蜂と遠雷」から感じたモノを書いてみたい。

 この作品のテーマに

「(自然界に満ちあふれている)音楽を外に連れ出す」

と言う考えがある。

 これは、自然の恵みを受けると言う大切なことである。

 しかしながら、人間にとっては、これは大きな負担になることもある。世界は音にあふれている。そのあふれている音に向き合い、その中から『音楽』を見つけ出す。この負担をもう一度考えないといけない。無数の音、その中にある秩序を見いだす。もう少し言えば、無数の音の中から、一部のモノを選び、それを組み合わせて音楽にしていく。音楽に値するモノを、選び引き出す。

 今までのしがらみを捨てて、全てと向き合った上で、自分の感性だけを頼りに、もう一度選ぶべきモノを決める。『決める』というと、理性の働きに聞こえるかもしれないが、全身で反応し『感じる』べきモノだろう。

 この段階の苦しみに向き合う覚悟と力が、創造には必要である。

 しかしながら、毎日このような、全てを受け入れる対応をしていれば疲れてしまう。実際、HSP(高感覚処理感受性)と言う人たちの苦しみについて、色々な議論がある。

 私はこの問題に関しては、大乗仏教の唯識の教えが、解決のヒントになると思う。唯識では

  1. 表面的に出てくる意識(前六識)
  2. 前六識に登るモノを選択するマナ識
  3. 全ての知識体験等が入っているアラヤ識

の存在を考えている。つまり、私たちが意識に登らせ考えているモノは、世界の全てを認めたアラヤ識にある情報を、マナ識で選択した結果と考えている。このマナ識の作用が無意識に行われることで、偏見等の発生があると考えられている。

 しかし、私は『マナ識の選択作用』こそ、人間が楽に生きていくための知恵だと思っている。あまりにも多量の情報に触れるのではなく、必要なモノだけを感じることで、楽に生きていくことができる。

 もう一つ大事なことは、このような『マナ識』の作用は、ある程度コントロールができるのである。私自身、諸般の事情でHSPの傾向があるが、今までの経験や知識を生かして『マナ識』の選択能力を上げる様にしてきた。また逆に、色々と新しい発想が必要になれば、『マナ識』の選択作用を、『眠らせる』ことで、色々な発想を引き出している。

 このような、『マナ識』の存在を意識し、そのコントロールを考えることが、創造と日常生活の両面に役立つと思う。

2019年10月14日 (月)

「ティール組織」について

 日経BP社のHP等で,色々と気になる記事があったので,英治出版の

「ティール組織」

を読んだ。

 確かに,色々と考えるべきモノがあり,仕事の上でのヒントもあると思う。しかし、何か違和感も覚えた。この理由を考えてみると,色々なモノが見えてきたので書いておく。

 まず、著者は『進化』という言葉を使っている。つまり『管理』と称している機能、スタッフ機能がなく,それぞれの自主性に任せ、関係者が助言して育てていくシステムを,従来のシステムより『進化』した『ティール組織』と称している。もう少し言えば,『ティール組織』でないと、『進化』できないという風に読み取れる。私はこの意見に違和感を感じた。

 その理由を考えてみると、私自身の昔の経験があると思う。1980年頃、私が30になるかならないとき、ソフトウエアの専業の子会社設立に当たり出向して、一つのグループを預かったことがる。そこでは管理者としてグループを運営した。しかしながら、当時の管理についての考え方は現在のように完成されていない。そこで私が取った運営方法は以下のようなモノである。

仕事の状況の全体像は皆で共有する
お互いの仕事への助言は行う
リーダーの私の技術力は皆が認めているので私の判断には皆が従う
(ただしそれまでに皆が言いたいことは言う)
他部門より利益が大きいので上司およびよそから文句は付けさせない
リーダー不在時の代行順位は明確で、対外折衝も含めて代行者が対応する

という感じで、総合的なビジョンを共有したフラットな組織である。これは、『ティール組織』と同じではないかと思う。別に、IT技術があるがなかろうが、このような組織運営は、できると思う。

 更に言えば、ベンチャー企業などの立ち上げ時にも、同様に皆が情報と責任を共有した運営となっていることが多い。また、大規模化に関しても、『小集団活動』『QCサークル活動』などの現場単位での情報共有と参加意識から責任の分担が行われている。

 一方、従来型の管理でも、トヨタの事例のように

進化する官僚制

という進化・適応が行われている場合もある。

 このように考えると、この本の内容を丸呑みして、信じ込むことは危険だと思う。

 ただし、この本には色々なヒントがあることも確かである。

 私が面白いと思ったのは、『組織のOS』という発想である。これは私は『組織のスキル』として前に書いたモノに近いと思う。例えば以下のブログから一連を参考にしてほしい。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-33353c.html

 また、もう一つ大事なことは、管理者の交代による組織の崩壊である。これは私の反省でもある。情報共有よりは、情報独占で威張りたがる管理者が多い現状は、やはり知っておくべきだった。そうして部下を守る手段を考えなかった。これは私の背負う十字架でもある。

2019年9月20日 (金)

大学文明と企業文明の「マジョリティ」

 昨日書いた、「ソーシャル・マジョリティ」の話に関連して、一つ思い出したことがある。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-db14d4.html

大学から、特に研究者のレベルから、一般企業に就職するときに、やはり

「それぞれの社会の立場は異なる」

ためのトラブルは今までも生じている。この問題も「ソーシャル・マジョリティ」の暗黙の価値観を明示していくことで、もう少し改善できるのではないかと思う。

 私の経験では、

  大学文明:理論の厳密さが命
  企業文明:総合的観点での現実的実現性が命

と言うことで、重点の置き方が違っている。しかし、大学出たての場合

「私の知っている理論では今の会社は間違っている?」

等と言い出して、失敗することが多い。

 このような人たちは、

「とりあえず会社の現状を知り、自分の思っている理論知識で、
どこまで説明できるか考える。」

ことが有効ではないかと思う。説明していくことで理解が深まるし、理論の及ばないモノも見えてくる。理論で全て押さえようとすると失敗する。しかし、理論を活かそうとする努力は必要である。

 なお、この逆もある。一般人が、学問の世界に踏み込むと

「せめて定説を学んでこい」

と言われる。しかし

「何が定説か解らない?」

このような事態も起こるだろう。文明の切り替えにはやはりそれなりの努力が必要である。私も歴史のことを学ぶためには、

 講談社学術文庫 日本の歴史00~

を読まないといけないと思っている。

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