ご縁のあった人たち

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2020年1月10日 (金)

日本文明の意思決定論

 昨日書いた、日本文明に関する話について、今回は意思決定の部分で議論していく。山本七平が指摘している、

「日本人の責任者不在形式」(雨傘連判状的持ち回り)

について、色々と思いついたことがある。ここで書いた、『雨傘連判状』というのは、江戸時代などの百姓一揆などで使った物で、関係者が署名する連判状を、円状に配置することで、筆頭者をなくし首謀者を隠す形式である。この理由は、百姓一揆の時には、領民全員を処刑することはできない。そこで、中心となった者だけを処刑する。それを防ぐ手段である。連判状に記載した者全てを処刑したら、大事件として幕府から責任追及される。しかし、雨傘連判状で、皆が一体と言い張れば、処刑すべき犠牲者が出せなくなる。このような仕組みである。

 しかし、山本七平が描いた、『責任者不在』の図式は、もう少し悪い。つまり、

「皆が責任逃れをしている」

形になっている。これを

「『空気』が発生してそれに皆が縛られている」

と表現している。

 確かに、明治以降の日本的意思決定には『空気』が発生して、それが暴走したという図式があった。そこで、このような『空気』発生のメカについてもう少し考えてみよう。まず、議論すべきことは

「多数が意見を言う形の意思決定は悪くない」
「特定の決定者に依存するのでなく多くの人の納得による決定はよい」

という日本的な慣行である。これを

「稟議と根回し文明」

という人もいるが、このような納得による物事の推進は『全員参加の力』を発揮しやすく、実現への力が大きい。ただし、この方式の運用において、

「間違ったときの反省と修正をきちんと行う」

という条件が満たされていないと、トラブル発生時にも

「惰性で止まらなくなってしまう」

弊害がある。

 この理由は、

「意思決定のプロセスや検討事項が明文化されていない。
決定の前提が明らかになっていない。」

ことが大きい。このような欠点を補うためにも、日本的意思決定についてもう少し深掘りする。(続く) 

2019年10月20日 (日)

「音楽を外に連れ出す」ために必要なモノ

 昨日に続いて,「蜜蜂と遠雷」から感じたモノを書いてみたい。

 この作品のテーマに

「(自然界に満ちあふれている)音楽を外に連れ出す」

と言う考えがある。

 これは、自然の恵みを受けると言う大切なことである。

 しかしながら、人間にとっては、これは大きな負担になることもある。世界は音にあふれている。そのあふれている音に向き合い、その中から『音楽』を見つけ出す。この負担をもう一度考えないといけない。無数の音、その中にある秩序を見いだす。もう少し言えば、無数の音の中から、一部のモノを選び、それを組み合わせて音楽にしていく。音楽に値するモノを、選び引き出す。

 今までのしがらみを捨てて、全てと向き合った上で、自分の感性だけを頼りに、もう一度選ぶべきモノを決める。『決める』というと、理性の働きに聞こえるかもしれないが、全身で反応し『感じる』べきモノだろう。

 この段階の苦しみに向き合う覚悟と力が、創造には必要である。

 しかしながら、毎日このような、全てを受け入れる対応をしていれば疲れてしまう。実際、HSP(高感覚処理感受性)と言う人たちの苦しみについて、色々な議論がある。

 私はこの問題に関しては、大乗仏教の唯識の教えが、解決のヒントになると思う。唯識では

  1. 表面的に出てくる意識(前六識)
  2. 前六識に登るモノを選択するマナ識
  3. 全ての知識体験等が入っているアラヤ識

の存在を考えている。つまり、私たちが意識に登らせ考えているモノは、世界の全てを認めたアラヤ識にある情報を、マナ識で選択した結果と考えている。このマナ識の作用が無意識に行われることで、偏見等の発生があると考えられている。

 しかし、私は『マナ識の選択作用』こそ、人間が楽に生きていくための知恵だと思っている。あまりにも多量の情報に触れるのではなく、必要なモノだけを感じることで、楽に生きていくことができる。

 もう一つ大事なことは、このような『マナ識』の作用は、ある程度コントロールができるのである。私自身、諸般の事情でHSPの傾向があるが、今までの経験や知識を生かして『マナ識』の選択能力を上げる様にしてきた。また逆に、色々と新しい発想が必要になれば、『マナ識』の選択作用を、『眠らせる』ことで、色々な発想を引き出している。

 このような、『マナ識』の存在を意識し、そのコントロールを考えることが、創造と日常生活の両面に役立つと思う。

2019年10月14日 (月)

「ティール組織」について

 日経BP社のHP等で,色々と気になる記事があったので,英治出版の

「ティール組織」

を読んだ。

 確かに,色々と考えるべきモノがあり,仕事の上でのヒントもあると思う。しかし、何か違和感も覚えた。この理由を考えてみると,色々なモノが見えてきたので書いておく。

 まず、著者は『進化』という言葉を使っている。つまり『管理』と称している機能、スタッフ機能がなく,それぞれの自主性に任せ、関係者が助言して育てていくシステムを,従来のシステムより『進化』した『ティール組織』と称している。もう少し言えば,『ティール組織』でないと、『進化』できないという風に読み取れる。私はこの意見に違和感を感じた。

 その理由を考えてみると、私自身の昔の経験があると思う。1980年頃、私が30になるかならないとき、ソフトウエアの専業の子会社設立に当たり出向して、一つのグループを預かったことがる。そこでは管理者としてグループを運営した。しかしながら、当時の管理についての考え方は現在のように完成されていない。そこで私が取った運営方法は以下のようなモノである。

仕事の状況の全体像は皆で共有する
お互いの仕事への助言は行う
リーダーの私の技術力は皆が認めているので私の判断には皆が従う
(ただしそれまでに皆が言いたいことは言う)
他部門より利益が大きいので上司およびよそから文句は付けさせない
リーダー不在時の代行順位は明確で、対外折衝も含めて代行者が対応する

という感じで、総合的なビジョンを共有したフラットな組織である。これは、『ティール組織』と同じではないかと思う。別に、IT技術があるがなかろうが、このような組織運営は、できると思う。

 更に言えば、ベンチャー企業などの立ち上げ時にも、同様に皆が情報と責任を共有した運営となっていることが多い。また、大規模化に関しても、『小集団活動』『QCサークル活動』などの現場単位での情報共有と参加意識から責任の分担が行われている。

 一方、従来型の管理でも、トヨタの事例のように

進化する官僚制

という進化・適応が行われている場合もある。

 このように考えると、この本の内容を丸呑みして、信じ込むことは危険だと思う。

 ただし、この本には色々なヒントがあることも確かである。

 私が面白いと思ったのは、『組織のOS』という発想である。これは私は『組織のスキル』として前に書いたモノに近いと思う。例えば以下のブログから一連を参考にしてほしい。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-33353c.html

 また、もう一つ大事なことは、管理者の交代による組織の崩壊である。これは私の反省でもある。情報共有よりは、情報独占で威張りたがる管理者が多い現状は、やはり知っておくべきだった。そうして部下を守る手段を考えなかった。これは私の背負う十字架でもある。

2019年9月20日 (金)

大学文明と企業文明の「マジョリティ」

 昨日書いた、「ソーシャル・マジョリティ」の話に関連して、一つ思い出したことがある。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-db14d4.html

大学から、特に研究者のレベルから、一般企業に就職するときに、やはり

「それぞれの社会の立場は異なる」

ためのトラブルは今までも生じている。この問題も「ソーシャル・マジョリティ」の暗黙の価値観を明示していくことで、もう少し改善できるのではないかと思う。

 私の経験では、

  大学文明:理論の厳密さが命
  企業文明:総合的観点での現実的実現性が命

と言うことで、重点の置き方が違っている。しかし、大学出たての場合

「私の知っている理論では今の会社は間違っている?」

等と言い出して、失敗することが多い。

 このような人たちは、

「とりあえず会社の現状を知り、自分の思っている理論知識で、
どこまで説明できるか考える。」

ことが有効ではないかと思う。説明していくことで理解が深まるし、理論の及ばないモノも見えてくる。理論で全て押さえようとすると失敗する。しかし、理論を活かそうとする努力は必要である。

 なお、この逆もある。一般人が、学問の世界に踏み込むと

「せめて定説を学んでこい」

と言われる。しかし

「何が定説か解らない?」

このような事態も起こるだろう。文明の切り替えにはやはりそれなりの努力が必要である。私も歴史のことを学ぶためには、

 講談社学術文庫 日本の歴史00~

を読まないといけないと思っている。

2019年9月15日 (日)

組織としてT型のスキルを持つ

 経営学が取り上げる,勝ち組負け組の事例として、コダックと富士フィルムの比較がある。両社は、半世紀以上前はカメラのフィルムメーカーとして有名であった。もっとも,コダックと富士フイルムを同列に置くことには抵抗があるかもしれない。1960年代の私の経験では、コダックのフイルムは高級品であった。

 しかし、現在のディジタルカメラ全盛の時代にはフィルムメーカーの生存は難しい。そこで、両社の明暗が分かれていく。コダックは2012年に倒産し、富士フイルムは化学的な技術力を薬品や化粧品の分野に展開して、日本でトップクラスの大手企業の地位を保っている。ただし、コダックは倒産したが、コダックからスピンアウトした会社は高度な技術力を持って、ヘルスケア分野でも富士フイルムに負けない活躍をしている。

 さて、ここでもう少し考えてみたいのは、スピンアウトする必要性である。逆に言えば、多様な拡張を受け入れる組織力についての議論である。

 私が提案したいのは、

「組織にも個人と同じようにスキルがある」

と言う観点での議論である。つまり富士フイルムには、

「新しい分野へ拡張する『組織のスキル』があった」

と言う観点で考えてみた。

 この議論で、私が最初に思い出したことは、日本で初めて動いたコンピューターのはなしである。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/FUJIC

これは、富士フイルムがレンズの計算のために作ったコンピュータである。このように、

「基礎研究を大事にして、関連分野まで手を出す」

会社の度量があった。これが一つの組織のスキルだと思う。

 さて、私が今回表題にしたT型のスキルと言うことについて、もう少し説明しておこう。T型という話は、人材開発で

「専門分野を深掘りするI型の力と、幅広い知識を受け入れる一型の力」

の両方を持つことを言う。しかし、組織の場合にはもう少し意味が広がってくる。まず

「一つの分野を深掘りしブレークスルーするI型の力」

「ブレークスルーした成果を安定した実用化に育てる一型の力」

の両方があるとき『T型のスキル』を持っているという。

 ここで大事なことは、ブレークスルー自体は可能性を開く段階であり、これは一人の才能で突っ走ることが効率が良い。しかし、安定した技術にして、商品化できるまで持って行くためには、色々な目で見ながら育てることが大切である。このような、個人プレイとチームプレイの融合、相乗効果がT型スキルの特徴である。

 このアイデアについてもう少し深めていきたい。

2019年8月25日 (日)

AIでなくIAを実用化すべきではないか

 先日書いた「言葉で表現できない人の立場」の話をもう少し考えてみた。

 これは、一般的な表現をすると、

「自分が思っている問題意識や違和感に、既に表現された近いモノを探す」
これは
「漢字を書くことはできないがスマホ画面で識別できる」
様な状況

である。これは上手に使うと、色々な人が持っている情報を、文書化して他の人にも伝えることができるようになる。このために、

「今までの経験や、考えていることをデータベース化して保存しておく」
「モヤモヤを持った者はそこを検索して近いモノを見いだす」
「それを適宜加工して自分の状況を表現する」

と言う段階で、言葉に出せないモノを形にして、人にも伝えることができるようなる。このような、文書作成業務は、『知的作業』であるが、『適切な事例』を提供することで、効率向上を図ることができる。

 このような、知的作業の支援を行うシステムをIA(Intelligence Amplifier=知能増幅器)と呼ぶ。現在、AI(人工知能)がブームになっているが、このようなIAの活用も大きな成果が期待できると思う。

 ただし、この形のIAの実現には、大きな危険性がある。自分の思い込みに近い事例を探し、それを全てと思い込む、『エコーチェンバー化』の危険性である。

 例えば今までの議論のIAの事例として、

「就労支援の前例(成功例)データ」

も一案だろう。就労支援において、個々人の色々な状況がある。一方、雇用する側も色々な事情がある。それを上手く表現できない人もいる。その時、前例データを上手く使えれば、それをたたき台に議論して、上手くいく形態を作り上げることは、一から提案書を作るよりは楽だろう。しかし、どちらも自分に都合の良い事例だけを探し、それを前例と主張する危険性もある。

 このような危険性を見定めて、自分を抑制しながらシステムを使う人間、これを育てることが必要かもしれない。

 

 事例を検討しました。8/26追記

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-3ebca7.html

2019年7月 1日 (月)

「貴方は知っていない」の二つの意味

 色々と論争になったとき、

「貴方は知っていない」

という攻撃を行う人がいる。しかしながら、この内容は、全く別の二つの方向がある。一つは、専門家的な言い方で

「貴方の議論の仕方には、論理的な展開が分かっていない。」
または
「専門的な知識がないから細部の漏れがある」

という意味である。

 一方、もう一つの言い方は、経験豊かと思っている人間の言い方で

「貴方は、今までの経緯を知らない」
「現実を知らない}
などで、これを議論的に言うと
「貴方の議論は、前提条件に漏れがある」
「総合的な視野による検討ができていない」

と言いたいが、議論の言葉にできにくい人間が言う場合が多い。

 この二つの言い方は、それぞれ『学会的文明』と『会社的文明』の違いでもある。なお、ここで『会社的』と言ったが、経験豊かな政治家や官僚などでも同じ立場になる。一つのモノを作り上げる難しさを知った人間は、その時の総合的検討の難しさを知っている。これは、学問的な細部の厳密へのこだわりとは、完全に別のモノである。

 就活において、この切り替えを学ぶことは、その後の生存のためにも重要なことである。

2019年6月 6日 (木)

学会的価値観からの解放

 先日から書いているいる、学者的発想と芸術家などの発想の話について、もう少し大きな問題として考えてみたい。今回取り上げるのは、

「ポスドク問題」

である。これは大学院の博士課程まで進んだが、その後研究者や大学の教官などの言わゆる「アカポス(アカデミック・ポスト)」に着けない人の問題である。これはざっくり言って、1万~2万の間の人数らしい。(研究者としての中途半端な雇用状況の人数が絡むので、実数はもっと多いかもしれない)

 このような人の活用に関して、

「企業などで人材を活用しろ」

という大学などからの発言があることは承知している。しかしながら、それを認められない状況もある。具体的に言うと

「実用性がない」

ということである。この問題のついて、一つの原因は

「学会的価値観と行動陽子からの脱却ができていない。」

ということである。つまり、研究者として認められるためには、

「学会の今までの文脈の上に新しいものを発表する。」

ことが必要になる。もう少し言えば、

「今までの研究者の実績を踏まえて、それに何を加えるか、何を修正するか?」
これを、決められた枚数の論文で発表し受け入れられる

ことが重要である。確かに、まったく新しい考えを出す人もいる。そのような人は、自分の前提条件から説明しないといけないので、いきなり本を執筆して、そこで詳しく説明する。または、実験的なモノを作って、そのれを提示して認めてもらう。このような苦労が必要になる。しかし現実には、執筆が許されるのは、既にある程度の成果のある人間である。従って、研究者としての徒弟修業中は、

「学会に受け入れられる論文執筆」

が大事な仕事になる。そこで育ってくると

「学会で認められることが全て!」
「学問的思考法が全て!」
「これを習得した私は偉い!皆は従え!」

という人種を生み出すことになる。

 しかし現実の世界で仕事をしている人間は、

「多様な利害関係の中での調整が大切」
「何とか共用できる解決案を見出すのがやっと」(ワインバーグ)

という苦労をしている。

 このような状況をしっかり理解したうえで、ポスドク問題を考えるべきだと思う。 

2019年5月 5日 (日)

いわゆる「ラベル張り」に関連して、概念構成の議論を行う

 世の中というか、特にネット社会では色々なラベル張りと、それに対する批判が行われている。
   「反日」「ネット右翼」「ポピュリズム」「大衆迎合」
等である。

 しかし、このようなラベルの定義を明確にしたまま、ラベルだけが独り歩きしている。

 この問題をもう少し突っ込むと、私たちは色々な『概念』という装置を使って考えることで、色々な物事を考えている。しかし、この『概念装置』について、どのようにできたかよく考えているのだろうか?この問題は、深く考えるべきものがあると思う。

 まず『概念装置』の供給元は、学校教育である。極端な事例では、数学で使っている色々な記号、それどころか1,2,3・・という数字自体も、現実の色々なものを抽象化して作られた『概念装置』なのである。その後、理科や社会でもいろいろな『概念装置』が供給されていく。これらについて、

 「どのような物事を、まとめ上げ一般化して、抽象化して作ったか?
  その文脈はどのようなモノだったか?」

という、根本的な議論が抜けている場合が少なくない。

 私の考えでは、『概念装置』を生み出すためには、実例とそれが起こった舞台(文脈)を見る。さらに複数の文脈でも、その概念が必要になる。しかもその概念が安定している。そうして、この概念を使うと、さらに別のことでも説明に使える。このような経験を通じて、概念装置を生み出す。

 しかし現在、このような経験が少なくなって、ネット上にあふれている『言葉』を切り取って、それが使えると思い込み、深く考えずに使っている人が多いように思う。これでは、AIに仕事を奪われる言われても仕方ないように思う。

2019年2月21日 (木)

学問の姿勢

 前に自分で構成する話を書いた。これは学問においても同じ面があると思う。例えば、数学や物理学などでは、理論を構築するための定理を、自分で証明することで、再構成させようとしている。

 しかし、このような再構築のためには、部分的な証明の前に、全体の構想を示しておく必要がある。方向が決まったものの証明なら、確実な手法で進めることができる。一方、方向付けが決まっていない状況で、全体像を創り上げるためには、色々な試行錯誤などが必要である。今の教育では、美術などで少しは教えるかもしれないが、モノづくりや理論構築のための、全体像の検討を教える場は少ないように思う。

 ただし、いきなり創造と言うのではなく、今まである全体像を理解したり、そのような発明発見をした人のケーススタディなどから、手法学ぶなどの訓練も必要である。

 このような能力開発が、本当の意味の経営者や総合職を生み出すために必要と思う。

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