ご縁のあった人たち

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2020年11月20日 (金)

知恵の種類について

 先日から書いている、「照準と修正」の話に関連して、仏教の智慧の扱いで、一つ見えてきたモノがある。大乗仏教の唯識等の教えでは、人の智慧を

  1. 大円鏡智:全ての経験等を記憶し収める智慧
  2. 平等性智:自我のこだわりを昇華し、仏の力を見る力
  3. 妙観察智:全ての良いところを見いだして考える
  4. 成所作智:実際の対応を行う、当意即妙の智慧

と分けて考えている。このほかにも全てをまとめる、「法界体性智」もあるが、今回は置いておく。

 さて、この四つの知恵の働きについて、私たちはどこまで意識しているだろうか?教えられたことを記憶していく、これだけで成績が良くなる。特に、実際の対応に当たる

「成所作智」

と事前にじっくりと考える

「妙観察智」

を、きちんと分けて考えることが大切である。更に、自分の考えは、自我による

「無意識の選択」

が働いている。価値観や道徳などが、無意識的に働いている。この部分を意識し、できるだけ「平等」に考えることも大切である。ここに「平等性智」の働きがあるし、心の奥には、色々な体験が

「鏡に映るよう」

にたまっている。

 このように考えると、大乗仏教の教えは、私たちの心の働きについて、大事な物を伝えているように思う。

2020年10月29日 (木)

朝ドラ「エール」に見る芸術家の力

 朝ドラの「えーる」は、敗戦後の『戦争協力者』の悩みを描いている。しかし、現実は違うという調査があった。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76563


つまり、主人公のモデルである古関裕而 は、戦後直ぐに作曲活動をしている。

 ここで大事なことは、古関祐而は、元々色々な立場での作曲をした人間である。

 六大学なら、早稲田も慶応も、そしてプロ野球なら、阪神も巨人もと

「敵対する立場の両方に立って作曲している」

切り替えの早い人間である。

 もう少し踏み込むと、

「作曲時には、特定の立場に踏み込み感情移入などする」

「終わると次に行く」

と言う発想が常に行われているのではないか。

 現在の我々は、

「戦争責任の重さ」

だけを捉えて議論しているが、

「芸術の創造における、精魂のかけ方は、平等である」

ならば、『戦争協力』だけを特別視することはできないと思う。

 ここまで、人間の心が変わるか?この問題に関しては、チェスタトンのブラウン神父シリーズが、一つの答えを出してくれると思う。

 本当の、ニュートラルな芸術家は、色々な心をそのまま写す鏡があるのではと思う。

 

2020年10月28日 (水)

『言行一致』についてもう一度見直し

 このブログでは、何回か『言行一致』について議論している。例えば

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-46cb.html

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-d308c3.html

 しかしながら、今回はこの問題に新たな見通しが立ったので、もう少し議論を進めたい。まずは、言行一致でのトラブルを考えて見よう。一つは

「人間の多様性を無視し自分の信じている姿を押しつける」

というある種の『学問カルト』的な対応になる人がいる。特に、理論的成果の完成度が高いときに、このような現象が起こる。また別の見方をすれば、

「自力で創りだした人なら、その限界が見えている。しかし与えられたモノなら、それを全てと思い込む。」

と言う問題がある。このような状況で『空気』が発生すると、歯止めがなくなり暴走するのは、第二次大戦中の日本が経験したことである。

 ここで、

「与えられた民主主義」
「与えられた学問の自由」

と言う今までの議論と重ね合わせてみよう。

 この状況での言行一致は、危険性がある。特に

「建て前と本音の区別」

を考言行一致だけを墨守する危険性は大きい。

 先日書いた、山本七平が、

「沖縄の米軍核兵器に関する国会答弁」

「勧進帳の芝居のようだ」

と揶揄した話があるが、この後ろの本音である

「アメリカに対する、日本世論の力での歯止め効果」

が私たちの理解から消えている。しかし、五十五年体制の政治状況で、国益のために綱渡りの芝居をした、先人たちの苦労に敬意を忘れてはいけない。

 言行一致を信じすぎて、理想世界しか視野にない人間が、リーダーとなれば、その世界は怖い物となるだろう。

2020年10月24日 (土)

理論理解の方法

 先日の、ヴェーバーの社会科学について、もう一歩考えを進めてみた。ヴェーバーは『理念型』や、『理想的な類型』を重視している。この理由をしっかりと理解することが、理論が解るための大切な一歩だと思う。一言で言うと

「理論が成立する『理想的な状況』で議論する」

為の舞台設定が、『理念型』の発想である。

「理論が成立するための世界モデル」

と言う発想は、ご都合主義に見えるかもしれない。しかし、物理学の世界では

  • 大きさを無視した質点
    • 分子の大きさを無視した『理想気体』

と言うような、理想化が色々と行われている。

 この必要性を理解するために、16世紀のガリレオの時代に戻って、考えて見よう。当時の学問は、『アリストテレスの自然学』が支配的であった。アリストテレスは、自然を真面目に観測し、観察結果をまとめて自然学を構築した。これは観測と論理がしっかり絡んだ優れた学問体系であった。しかしながら、現在の知識から観れば間違いもある。例えば、

「重い物は、軽い物よりは速く落ちる」
例えば
「重い鉄の塊は羽毛より速く落ちる」

と言う『法則の記述』がある。

 これに反論したのが、ガリレオ・ガリレイの思考実験である。

「重い物が速く落ちるなら、鉄の塊1㎏より、2㎏の方が速く落ちるはずである。しかし、1㎏の鉄の塊を二つを合わせたら、速く落ちるだろうか?極端な例で考えると、二つの鉄の塊を、紐で縛って繋いだら、速く落ちるだろうか?これはあり得ない。」

このような考えから、

「落下速度の変化は、空気の抵抗などの別の要因が入っている。それを排除すると、落下速度は重さには関係ない。」

と言う議論になる。

 このように、

「種々の雑物を除いた『理想的な世界』で考える」

ことが、世の中のからくりの本質を見いだす道である。物理学の道はまずこのような理想的なモノで考えて、その後現実の複雑さに対応して色々な項目を増やしてきた。

 社会科学でも、同じような発想が必要であるが、物理学ほど

「抽象化の道が見えていない」

ために多様な意見が乱立し、一般人が苦労していると思う。

2020年10月 2日 (金)

社会科学の理論成立について モデルとの同時成立

 社会科学の理論については、その理論が成立する事例というか、そのような世界条件と一体で考える必要がある。マックスヴェーバーは、これを理念型と言った。そこで昨日の議論に引き続き、物理学的世界観と社会科学の勉強について、もう少し踏み込んでみたい。

 工学などの世界は、物理学などの基礎の上に、理論を活用しモデル化したモノで議論を行う。例えば、エンジンの図式などを参考にしてほしい。

https://www.bing.com/images/search?q=%e3%82%a8%e3%83%b3%e3%82%b8%e3%83%b3%e3%81%ae%e4%bb%95%e7%b5%84%e3%81%bf+%e5%9b%b3%e8%a7%a3&id=88A1EFFD4D91F7E6EEB9C83AA11AAD1AAA3FD874&form=IQFRBA&first=1&scenario=ImageBasicHover

 物理学的なモデル化は、理論がある程度完成した後、その知識を用いて演繹的に構築して場合が多い。

 しかし、社会科学の場合には、

    資本家
 搾取  ↓ ↑ 労働力提供
    労働者

と言う風な、社会のモデル化と理論の構築が、同時並行で進んでいくコトが多い。つまり、このようなモデルに、

「何を入れるか?」

と言う議論が理論の成立にも関わってくる。

 確かに物理学的なモデルの時にも

「なにをいれるか?」

と言う議論はあるが、これは

「理論的な構造が決まった後の、近似の度合いをどこまで精密にするか?」

と言う理論構造の元での議論である。

 一方社会科学の場合には、

「考慮範囲の変化が理論の根本を変える」
つまり
「理論とモデルが同時に成立する」

コトが多くなる。

 こうして、

「理論とモデルの関係が、安定したときに一つの理論が生まれる」

パターンが多い。これを知っておくことは、特に物理学的世界観に毒された私たちには重要だと思う。    

2020年10月 1日 (木)

社会科学などの理論知識を生かすためのヒント

 一般に、理系の学問は、大学で学んだ知識が、社会に出てからも役立つことがある。例えば、モーターの制御などを考えても、三相交流として扱うためには種々の数学的知識が必要である。線形代数や複素数の知識が必要になる。しかし、文系の学問が、世の中に出てから役に立つかというと、なかなか難しいモノがある。法学関係の知識は、法律を理解するときに、法律・施行規則~判例の展開などで役立つかも知れないが、工学部と工業との関係のような直接的な結びつきが見えないことが多い。

 この理由に対して、私が見いだした仮説は以下の通りである。

「自然科学は、現実のモデル化に関して、皆の同意が得やすい」
しかし
「社会科学などでは、現実のモデル化は、理論の作り方で変わってくる」
言い換えると
「社会科学の理論は、一般的に成立するといえない」
逆に言えば
「社会科学の理論は、成立する条件を理解しないと使えない」

これは経済学などで、色々な論争が起こっている現状を見れば、

「どれが正しいか解らない?」

なる、混沌とした状況と言ってしまいたくなる。

 しかしながら、これらの理論は、ある程度の説明力はある。しかし、物理学の様な

「一般的に成立する」

とはいえない。そこで、

「理論知識を学ぶときには、その成立する前提も考える」

ことで、理論知識が使えるようになってくる。

 そのためには、『ヘイグの理論構築法』や、『ワラスの輪』などの方法論をしっかり学ぶことが重要ではないかと思う。

2020年9月24日 (木)

デジタル化が進まない理由の一つはコンテンツ重視の体質にあり

 日本のディジタル化は、諸国の中でも遅れているらしい。この理由に関して、色々な観点から議論がされているが、私は日本教的な体質から、少し意見を言っておく。まず、日本教の体質は

  1. 上からの命令だけで動かない
  2. 多くの人たちが納得すると一気に動く

という面がある。これが、西洋文明的な「契約で縛られた」、共産主義などの「独裁者の命令に従わせる」世界とは根本的に異なっている。西洋文明では、リーダーシップというかたちで「命令に従う契約」を結べば、いやいやでも仕事が進む。また中国でも、中央からの目入れに無理矢理従わせる形で、新技術の導入は速やかに行われる。ただし、定着するかは別問題である。腹の中で逆らうのは、どちらにもある。

 さて、もう一つ日本の体質として、

「組織内での蓄積重視」

がある。これは企業内教育なども関連し、今までの前例重視という事で、紙の資料が残っている限りはそれに縛られるコトが多い。

 これは逆に、ディジタル化したコンテンツが充実すると、一気に仕事が変化する事がある。

 ディジタル化を議論するなら、コンテンツの充実に関しても、しっかり考えるべきだと思う。

 

2020年9月 9日 (水)

自分の納得と権威の受け入れの関係

 私たちは、学校で勉強するときには、教科書や教師という「権威」に従うことを、強制されている。

 しかしながら、自分の意見を持つためには、どこかで

「自分としての納得」

を得る必要がある。この納得の根拠として

  1. 信じている人などの言葉
  2. 自分の経験
  3. 直観的な理解

等がある。

 特に、経験や直観的な理解の裏付けがあると、信じる力が強くなり、迫力のある議論ができる。

 しかしながら、直観的な理解にこだわると、そこから進まなくなるコトもある。このバランスが難しい。特に西洋文明的な学問は、ある決められたルールの上で展開する場合が多く、そのルールには従うしかない。自分の直観に合わないでも、そのルールでの推論結果は受け入れないと行けない。特に数学ではこのような事が起こる。

 こうした、権威との付き合い方を上手に行う事が、学問を使いこなすための条件だと思う。

 最後に、人に説明するときに、自分はきちんと納得した根拠を持っている場合と、自分もどこかの「権威」に従っている場合の違いを、きちんと意識する必要がある。自分が納得しているなら、そのまま説得できる。しかし、自分が「権威」に従っているなら、相手にも「権威」を押しつけてしまう。これをきちんと意識していないと、説明や説得を受ける側の反発を買ってしまうだろう。

2020年9月 2日 (水)

意味をどこで見いだすか?

 先日から、社会科学におけるモデルの役割について、考えていたら、色々なモノがつながってきた。そこで、まだ荒削りだが、思いつくところを書いておく。

 まず一つ目のアイデアは、社会科学のモデル論から来た

「物事の意味はそのモデルの上でで考えるべき」

である。自分が感じる意味、というのではなく、その物事が起こった状況をモデル化し、その上で考える。

 もう一つのアイデアは、江戸時代の豪農や豪商の働きで思いついたが、

「社会全体がよくなる事が自分の幸せ」

という発想である。これに関連して、仏の慈悲について

「太陽の光のように遍く照らす」

という発想が、

「個別の一対一の関係でなく、社会全体への影響」

という形で見えてきた。これは逆に言えば、

「西洋文明の物理学モデル=一対一の関係の簡略化」

で表せないモノを見直す考えである。もっと言えば、西洋文明的に

「局部的な関係に集中して考えすぎ」

という私たちの思考の偏りをただす。こうしたときに見えるモノがある。このような感じがしてきた。

2020年8月14日 (金)

認識するモノは何か?

 社会科学などの分野では、物事を見る目が、その人が持っている、知識の影響を大きく受けている。これは、自然科学の分野と大きく異なる。私たちは、自然科学、特に物理学の影響を受けているので、

   「自然界のモノを素直に見る」

ということは、当たり前に考えている人も多いと思う。しかしながら、社会の現象や人間の営みは、多くの側面があり、更に社会科からの関わりも多様になっている。私たちは、その全てを知ることができているのだろうか?プラトンが突きつけた『洞窟の比喩』は、確かに成立している。

 私たちは一面しか見ることができず、それは自分たちの知っていることに制限される。

 例えば、マルクス主義にこだわれば

   「労働者は資本家に搾取されてこき使われている」

という観点で議論が進む。しかし、江戸時代の篤農家が

   「多くの人を指導して、開拓させる」

という活動は、

    「社会資本への投資で、将来的に皆がよくなる」

という側面がある。投資と回収、全体としての幸せ、等の概念がないと、このような発想は出てこない。

 このように考えると、私たちが見ているモノは、私たちの今までの知識に大きく影響されている。

 なお、私たちが作った制度に関しては、自分たちが創ったから、定義もはっきりしている。

   「正しいと言い切れるモノは、作られたモノである」

このヴィーコの言葉は、流石に社会学の祖といわれることがると思った。

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