ご縁のあった人たち

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2020年3月30日 (月)

コロナと原発事故 西洋文明的発想の落とし穴

 新型コロナウイルスの影響で、イタリアは医療崩壊したし、アメリカやフランスでもかなりの被害が出ている。1月や2月の段階では、

「中国の政治体制だから~~」

と、欧米の『先進国』は比較的甘く見ていたのではないだろうか?

 しかし、現在の状況は

「欧米の先進国でも医療崩壊まで起こりうる」

と言う厳しい現実に直面している。

 さて、イタリアなどのニュースを聞いていたとき、私は10年ほど前のあるニュースを思い出した。

福島原発事故の時
「日本ですら原発事故が起こった!」
(旧ソ連などとは違う西洋文明先進国で!)

と言う、驚きである。あのとき、多くの国が原発に対して腰が引けるようになった。

 さて、今回のコロナ対策に関しても

「中国のような独裁国で、隠蔽などしているから、コロナ流行を引き起こした」

と言う論法は、もはや通らない。それどころか、

「独裁国の方が、強引な手段で抑え込むから、早期収束させる」
(中国、北朝鮮・・・)

と言う結果すら出るかもしれない。

 これは極端だが、日本の対応は、まだ医療崩壊など、最悪の事態を逃げるよう、上手く踏みとどまっているように思う。

 この知恵は、西洋文明と一線を画す日本の力ではないかと思う。

「現実を見据えながらしぶとく妥協点を探す」

これが、

「机上の検討で方針を作る」
「個人の主張だけをぶつけ合う」

西洋文明との違いではないだろうか?

2020年3月17日 (火)

実用的でないものが尊ばれる

 昨日書いた、薬師信仰の現実主義に関して、

「戦前の日本では,功利主義や実用主義はほとんど思想として認められなかった」

と言う部分について,もう少し議論しておく。

 まず、戦前の日本という限定なら、この問題の原因は比較的明らかである。つまり、

「西洋文明を伝える学者様は、実現の細部などの下々のことは知らなくてもよい」

と言う発想である。例えば、工場などの物作りでも

「大学卒の設計者が概要を決める。それを現場の職人の技で実現する」

と言うことで

「実用化する匠の技」< 「高学歴者の思想」

と言う評価図式がある。極端に言えば

「英語が読めて、外国のお手本を紹介する人が偉い」
「実現するのは下々」

と言う図式である。

 しかし、これは戦前日本だけだろうか?

 私は,もっと深い理由があると考える。私の仮説は以下の通りである。

  1. 日本人の発想は,指導者に現実の解決を求める(実用主義)
  2. しかし、現実論として「指導者に解決できない問題」は存在する
  3. そこで、「指導者ができない」と追求すると指導者交代になる
  4. 指導者交代による混乱は、現状より悪くなる
  5. 従って、「実用的な答え」を求めないで黙っておく

と言う,「現実主義」的な発想があるのではと思う。

 この話、「なぜ安倍政権が続くか」という議論にも使えそうだな(笑)。

2020年3月16日 (月)

薬師如来信仰について

 昨日の続きで、薬師如来信仰について、NHKブックスの「仏像ー心とかたち」に面白い指摘があった。(私が読んだのは1965年版)

 「薬師如来像に心を探る 梅原猛」

薬師信仰は実利的合理主義に支えられた

抜粋

しかし薬師、それは病気を直す仏様なのだ。われわれは喜びの声をあげる。病気を直すばかりか、現世の利益を与えてくれる仏、それは誰にもわかりやすい。そして、仏教とともに医術が大陸から伝わり、僧は同時に医者であった。薬師崇拝の中に、こうした合理主義、実利主義への崇拝をみないとしたら、われわれは盲目なのである。

~一部略~

われわれの祖先が仏教を現世否定の教えでなく、現世肯定、科学的技術と結びつきうる現世の幸福促進の宗教として受容したモノであることを示している。

薬師信仰ははからずも日本人の魂の秘密を示す

戦前の日本では、功利主義だの実用主義だのという思想は、ほとんど思想として認められなかった。日本でもてはやされた思想は、人格だの、実存だの絶対矛盾の自己同一だのの思想であり、功利とか実用とかを口にするのは、自らの浅薄なる人格を告白するかのようであった。従って哲学史においても、それらの思想は、大抵数行で片付けられてしまった。しかもそれにもかかわらず、日本人は、公的にも、私的にも、大変功利的であり、実用的あったかに思われる。実用主義、功利主義こそ、日本人の魂の底にあり、しかもそれを浅薄、通俗として、公の価値から排除することが、日本人の魂の基本的羞恥であるように思われるが、今この薬師をめぐる評価の中に、この魂の矛盾の秘密が、解き明かされているように思われる。

この話は、『日本教』の本質に関わる議論だと思う。

 なお、実用主義に関する遠慮については、もう少し議論をしたい。

2020年3月15日 (日)

平安時代までの仏教について

 今回のコロナ騒動に関連して、

「昔なら神仏にすがっただろう」
「薬師如来の信仰がある」

と考えた。現在のように科学的な医学知識や,医療技術が無い時代なら、神仏を拝むことが対処法の一つだと思う。

 そこで、病気なら

「お薬師さま、薬師如来にお願いする」

と言うのが一つのすがり方だと思う。例えば、天平時代などには、

「行基菩薩による薬師如来信仰」

が広く大衆に広がっているし、国の政策としても薬師寺など多くの寺院が建てられている。

 特に注目すべきは,比叡山延暦寺である。大雑把な歴史理解だと

「最澄は、遣唐使に従い唐に留学し、多くの仏典を持ち帰り、比叡山延暦寺を開いた」

と言う表現となっている。さて

「延暦寺のご本尊は?」

と言う質問に答えられる人はあまり多くない。正解は薬師如来である。これは、単純に納得しては困る問題である。なぜなら

「法華経を重視した、最澄がなぜ薬師如来をご本尊したのか?」
「法華経の中に、薬王菩薩が出ても薬師如来は出てこない」

と言う突っ込みがある。

 この問題の一つの答えは、比叡山の由来にある。つまり

「最澄は、唐に行く前から、比叡山で薬師如来を観る、止観の修行を行っていた」

であり、

「唐から帰ってから比叡山を開いた」

のではない。もう一つ言えば、

「最澄は、唐に行く前から『止観業』を行っていた」

と言う点も注目すべきだろう。

「空海は、唐に渡る前に、既に密教修行をしていた」

と言う話は、多くの人が知っているが、

「最澄も既に天台大姉の説く『止観業』を修行していた」

と言う話も併せて知るべきであろう。

 当時の『和魂漢才』は、このように

「日本で既に修行して自分の土台を作り、その上で唐の文明を移植する」

形で行われた。

 延暦寺の僧侶の位置を見ると、法華経の説く

「大地から湧き出る菩薩」

が実現しているのがよくわかる。しかし、法華経に忠実なら、

「ご本尊はお釈迦様」

でないとおかしいが、それを今までの自分の修行に合わせて、お薬師さまにする。この融通が日本文化の特徴だと思う。

2020年3月 5日 (木)

議論の底にある「日本教」的発想

 先日書いた,論破による分断の話に関連して、「日本教」の発想で少し見えてきた。

 今回議論したいのは、「日本教」の影響下の議論と,西洋文明の前提での議論の違いである。つまり

  1. 「日本教」の発想では、神様とその代理の人間が、全体像を持っている
    この場合、決められた枠の中で正解が存在する
  2. 「西洋文明」の発想では,人間は有限の部分的知識しか持っていない
    従って,お互いの知識の持ち寄りで,少しでも善くしようと努力する

と言う違いである。なお、「日本教」でも,同じ「世界観」の中での,見落としの修正や,精度向上などでは協力関係も成立する。しかし、世界観の違う者の間では,戦いしかなくなってしまう。

 一方、人間の限界を信じている場合には、お互いの断片を持ち寄って,全体像を構成する協力関係が成立する。弁証法はこのための道具である。この違い意識することで,もう少しましな議論ができると思う。

 

 

2020年3月 2日 (月)

『日本教』の革命について

 『日本教』の特徴について考えたいると、『日本教』は本質的に『保守的』な体質を持っている。この理由は以下の通りである。

 まず、『日本教』の教義は

「全てを見通した神様がいて、皆のために力をかけてくれる」
「そのような神の力を持った人間がいる」
「社会の支配者はそのような人たちである」

と言う風に、

「全てに目を配り、皆をよくしてくれる指導者に従う」

と言う信仰である。ここで大事なことは、

「全体の図式を知った人が指導者」

と言う発想である。このような全体像を、人間が得ることができるかどうかの議論は、プラトンが否定したが、大乗仏教は肯定した。しかも、円頓止観や即身成仏と言うことで、そのような力を得るための具体的な方法まで示している。

 しかしながら、このような『全体図式』を一から描くことは難しい。しかしながら、ここで日本の地政学的な利点が出てくる。つまり、中華文明の辺境の地であり、しかも島国という閉鎖性も持っている。更に言えば、木火土金水の全ての資源が手に入る。こうして、

「模範となる、先進中華文明を見て、自分たちの国家イメージを作る」

と言うのが律令制度の導入であった。こうした

「模範を見て自分向けに変更する」
「その後も現状に合わせて成長させる」

と言うやり方が『日本教』の信者の生き方である。これは

「現状を肯定する『保守』の発想」

と親和性が良い。

 さてここで、『日本教』では革命は起こるのかという議論がある。私は二つのパタンがあると思う。

 一つは、平安末期から鎌倉武家政権の成立である。これは、平将門の先行失敗例から、平家の力による平安貴族の没落、そうして鎌倉幕府の政権が独自の御成敗式目という法制度を作った一連の流れが、

「独自の思想による革命」

であったと考える。これは『一所懸命』に自分たちのあり方を考えた武士が、『あるべきようは』を知ることができるという、宗教的な支えもあって、実現した。

 もう一つのパタンは、明治維新や昭和の敗戦など、

「圧倒的に優勢な外国文明の受け入れ」

である。これは律令制度の導入時にあった、『和魂漢才』を『洋才』に変えただけである。確かに、学校システムなどのメディアが進んだので、高速転換ができたが、本質は

「まねして変える」

従来手法である。

 このように考えると、現在の社会で『革新』を行うために必要なモノが見えてくる。

それは全体像を描く力である!

2020年3月 1日 (日)

現在日本社会の問題の原因

 現在の日本社会の問題点は、『和魂洋才』の失敗にあると思う。特に、『和魂』と『洋才』の正体を知らないことが原因だと思う。

 『和魂』に関しては、今まで書いてきた日本教の発想で、

「神様は全て知っている。そのような智慧を私たちでも持てる。」

と言う考えが土台にある。

 一方、『洋才』の方では、プラトン以来の

「人間の知恵は、神の領域の及ばず、部分的に見ているだけ。」

と言う発想がある。

 ここで、西洋文明は、上記の

「部分的知識しか無い」

と言う謙虚さの上に成立しているが、日本人は『和魂』で

「完全なモノが与えられる」

と信じている。この結果の一つが

「平和憲法信仰」

である。この問題点を意識するだけでも、色々な見方が変わると思う。 

2020年2月21日 (金)

経験のある哲学者の支配が望ましいのか

 世の中には、

「博士号を持っているような論理的思考ができる人間を大事にしろ」

と言う議論がある、これをたどっていくと

「プラトンの哲人政治」

に行き着く。しかし反面では

「MBAの経営者に任せると会社は潰れる、経験が必要である」

と言う意見もある。また、哲人政治に関しても、あまり良い評価なはい。

 それでは、

「哲学的な思考の訓練を積んだ人間が、経験を積むと良い支配者になる」

のだろうか?

 私は、この問題に関しては、もう一歩の踏み込みが必要だと思う。つまり

  1. なぜ「しっかりした学問的思考」が必要か?
  2. なぜ「経験が必要か?」

この二つの問いにきちんと答える。これが必要だと思う。

 私の答えは、

  1. トラブル発生の原因究明や、新しいモノの提案に学問的知識を生かす思考力
  2. 全体像を見て総合的な判断を下すために経験

の両面が必要だと思う。

 なお新しいモノの提案に関しては、項を改めて書きたい。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-2c75c6.html

 

2020年2月19日 (水)

評価されるということ

 ここしばらく、「怒り」について書いている。現在社会での「怒り」の原因の一つは、

「正しく評価されていない」

と言う思いである。

 しかしながら、『正しい評価』というものがあるのだろうか?この問題を、もう少し考えてみた。

 私の現在の考えは、

「絶対的に、『正しい』評価などは存在しない」
「その状況に対応した、相対的な『正しさ』しかない」

である。人間の能力も、状況対応で必要と不要が変わる。チームを組むときには、同じ面の人材ばかりでなく、異なった力が必要になる。その時には希少価値が力を発揮するが、その力が不要なときには邪魔者となる。4番バッターだけでのチームはできない。しかし、

「XX殺しのワンポイント専門」

は、XX引退で不要になってしまう。

 さて、今までの議論は、

「当然のこと」

と言う人が多いだろう。しかし、

「実行できているか?」

と言うと困った顔をする人が多い。

 さて、このブログで今年になってから書いている『日本教』の観点から、評価問題について一言指摘しておく。

「日本教の信者には、全て解っている人がいる、と思い込む」
従って
「正しく自分が評価される、と思い込む」

危険性がある.これは西洋文明の

「人間は所詮不完全」

の割り切りがないので、とても怖い話である。この危険性を明確に意識するだけで、少しはトラブルを避けることができるだろう。

2020年2月10日 (月)

『日本教』の元で論争は上手くいくのだろうか?

 今年に入ってから、色々と議論している『日本教』の根本には、

「全てを知っている親のような神様がいる。この境地に人間でも到達できる。」
(神様と自然は日本教の信者に対して善意で対応する)

と信じている面がある。

 さて、このような条件で、論争などの争いごとになったら、どうなるだろう。日本教の図式で言えば

「子供と子供のけんか」

となので、

「親の裁定が必要」

となる。これが根本にあるから、自分が間違っていると言うことを、「相手の説得から受け入れる」ことは難しい。確かに力の差がある場合なら、「相手を親の立場と認めて従う」ことはあるが、平等な議論は難しくなる。

 一方、西洋文明は、

「神の下にいる不完全な人間同士」

の議論なので、お互いの意見を持ち寄り、よりよくすることも可能である。

 この違いは、色々なところに問題を引き起こしているように思う。例えば、日本の場合、「XXが悪い」と刑事訴追することが基本の発想で、民事で追い込むのは少ない。しかし、欧米流の法律の発想なので、

「疑わしきは被告人有利」(被告は弱い立場という原則)

が働いてしまう。これは、性犯罪などで顕著になるが、

「刑事事件なら十分な弁護機会があるので無罪」

と言う可能性が出てくる。一方、被害者側が民事で訴えると

「加害者側の主張はおかしい」

と言う判決になることも多い。(ただし、この前に刑事事件で無罪になっていれば、それを盾に主張する可能性あり)

 このようなことも考えて、検察側が不起訴にする場合もある。

 ただし、『日本教』発想では、お上に決めてもらう刑事裁判が多くなるだろう。

 この矛盾をよく考えておく必要がある。

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