2009年10月27日 (火)

命令の下し方

 このブログの中で、アクセス件数の多いのが、管理職に関する項目である。管理職の業務の中で、大事なことは、部下に対して命令を下すことである。しかし、これが上手な人は少ない。そこで、極端な話しとして、軍隊組織の命令について書いてみたい。軍隊の命令は、ある意味議論のない一方通行に見えるが、結構よい点もある。
 まず軍隊の意思決定では、合議と言うことはない。意見具申はあっても、決定者は指揮官である。一方、命令の原則は以下のとおりである。

  1. 指揮官が実行できないことは言わない。(計画できないことは計画しない)
  2. 形容詞・副詞は使わない。(速やかに~~などは使わない)
  3. 背景となる状況認識を伝える。
  4. 後の命令は、前の命令を自動的に取り消す。

 この原則は、会社の仕事でも使えると思う。また、現場と中央のギャップに関しても、上記3.が大きな意味を持っている。命令には、背景となる状況認識をきちんと説明しなければならない。そして、現場の指揮者は、命令に関連した状況認識と異なった状況になれば、可能ならば上位指揮官の指示を仰ぐが、連絡の取れない場合には、独自の判断で行動する。そのように、上位者の命令がない場合の決定権を決めるために、軍隊の階級はある。階級上位者が、自動的に指揮権を継承する。
 なお、命令を受領した部下は、きちんと指揮官と取引をしないといけない。つまり、自分の保有する戦力で、決められた時間・空間において、任務を果たせるかどうかである、状況によっては、戦力の増援を求めなければならない。このような取引が出来ない部下を使ってはいけない。
 これらの話しは、現在の会社組織でも十分使えると思う。

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2009年8月22日 (土)

経済学に関して入門書を読んで

 私は、日経BP社のホームページを結構よく読んでいる。特に、日経ビジネス関係のページは、3年ほど継続して呼んでいる。http://business.nikkeibp.co.jp/

 そこのある記事を見て、経済学の入門書を読んでみることにした。
   はじめての経済学〈上〉 #日経文庫# はじめての経済学〈下〉 #日経文庫#
そこで、私達の世代の、「マル経」と「近経」と言う概念が消滅し、代りに「マクロ経済学」と「ミクロ経済学」となっているのを、初めて知った。これは、「不勉強」と言われればそれまでかもしれないが、大学から離れた人間にとっては、「経済学」に関してこのような認識である。

 私達のような団塊の世代は、「マルクス主義経済学」「マルクス主義歴史学」等等の影響を、大きく受け多教育を受けていた。しかし、社会に出たら、結構市場経済に順応していた。このあたりは、山本七平氏の著作に譲るが、学校で学ぶことと、実用の乖離を植えつけるのに、マルクス主義は大きく貢献したと思う。

 さて、ベルリンの壁崩壊後は、経済学の研究者も大きく変化し、「マルクス主義」の看板を外し、マクロ経済・ミクロ経済と言うことで、社会に対して、発言しようとしているらしい。しかし、長年猛威を振るった、「マルクス主義」の偉い先生方の恐怖は、そんなに簡単に消えるのであろうか?経済学の先生は、
   「祟りを受けないように敬って遠ざける。」
と言うことになっていたように思う。これに対して、恐怖感を払拭した後で、経済学の実用性を、世の中に知らせるのが大切ではないかと思う。特に学生さんたちは、経済学で学んだことで、「大企業攻撃や政府攻撃以外」の「積極的な提案」を出すようにして欲しい。

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2009年8月14日 (金)

正攻法を教えないとどうなる

 日本海軍の反省について、考え直してみた。太平洋戦争の日本海軍の戦いは、真珠湾攻撃から、奇襲重視で展開していた。開戦辞の真珠湾などは、航空母艦と飛行機と言う、新兵器の力もあり、米国に対し優位に立つことが出来た。しかしその後、米国に対し、飛行機の優位が崩れた後は、どうしようもなくなってしまった。真珠湾の作戦参謀である、黒島亀人少将が、軍令部第二部長に就任し、特攻兵器を推し進めたことも、新兵器への過度の依存を示している。

 戦争において、相手側戦力より多い兵力を、集中的に投入し、確実に撃破していくのが正攻法である。日本軍は、アメリカに対する国力差と言うことで、正攻法での戦いを挑むことはなかった。強いて言えば、英国の戦艦を迎え撃った、マレー沖海戦は、戦力差を評価した上での戦いであり、正攻法と言えるであろう。この形は、日露戦争の日本海海戦にも通じるものがある。

 さて、現在の経営指導を見ていても、新市場開発や新技術革新の話しが多く出ている。しかし、きちんとした資源を投入して、正攻法で経営を行っている例が、教科書に載る例は少ないように思う。奇襲ばかり称えていると、太平洋戦争のように、実戦経験のない指導者が、正攻法を無視してしまうのではなかろうか。

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2009年5月19日 (火)

この国の権利は何かおかしいのでは?

 わが国の国民の権利には、何かアンバランスなものを感じる。特に、物言わぬ一般人の権利が、色々と取り上げられているように思う。

 例えば、現在よく感じるのは、「復讐権」についてである。家族を殺された人達が、犯人に対する復讐を行わせないようにするため、刑事処罰制度をつくった。そこまではしかたない。しかし、刑事被告人には、色々な権利が保護されており、弁護のためには、殺された人や家族に責任があったような主張すら許されている。

 そのような弁護で、もう一度傷つけられた遺族の感情を保証する手段は、無いのであろうか。暴力的な報復はともかく、大量の賠償金を背負わせる民事訴訟と言う手段は、無いのであろうか?

 また、マスコミの人達が言う、「知る権利」と言うものについても、少し疑問を感じる。マスコミが大切にしているのは、
  「自分たちの『知らせる権利』」
では無いだろうか?インターネットやブログの反乱する世界では、検索能力さえあればかなりの情報を知ることができる。このような条件で、「知る権利」とはどうのようなものであろうか?確かに、日本は『空気』に支配されて、見えなくなる現象が起こっている。そこでは、知らないためのトラブルより、『変に知らされる』トラブルの方が大きいように思う。

 もう一つ言えば、供給側重視の体制が、「知らせる権利」重視になっているのではと思う。

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2009年5月 5日 (火)

戦争放棄と生類憐みの令

 憲法第9条と、徳川綱吉の『生類憐みの令』の関係を考えてみた。生類憐みの令については、以下のウィキペディアの『見直し論』による。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4

 つまり、行き過ぎた殺伐な雰囲気を、一気に平和主義に変えるには、これほど極端なものが必要と言う発想である。この発想の根本には、「お上がきちんと民を守る」がある。

 さてここで、アメリカ的な発想と、もう一度比較してみたい。どこかで聞いた話しだが、
  「XXはアメリカで使われて10年以上になる。
  アメリカでトラブルがあれば、大訴訟になる。
  それがないと言うことは、安全と見てよいと思う。
  従って日本に輸入してもよい」
と言う主張があった。

 アメリカの方式は、民衆の自由な選択を許す。そして自らは自分で守る。もし危害を受ければ、その場では自ら反撃し、それができなければ、裁判で相手を屈服させる。多様な生き方や、企業を許すが、他人に迷惑をかける場合には、即座に潰す。

 日本は、この考えが中途半端だと思う。お上がコントロールするなら、もっと制御すべきものがある。例えば、派遣労働者の問題でも、雇用保険のごまかしなど、違法な会社は認めるべきではなかった。また、アメリカ式に民事訴訟で高額賠償を取り立て、それを使って、失業者対策を行えばよい。

 繰り返して言うが、自由にやらせるなら、アメリカ式に自衛権も持たせて欲しい。確かに精神障害者は、責任が無いので罪に問えない。それならば、障害者に襲われたときに、自衛する手段を与えて欲しい。アメリカのように銃を持つ権利とまでは言わないでも、自宅に侵入した人間の両手、両足をへし折っても、過剰防衛等と言われない社会制度が必要であろう。なお、危害を加える精神障害者には、痛覚が麻痺している可能性があり、確実に戦闘力を奪わない限り、限りなく危険な存在である。現在の過剰防衛と言う言い方は、余りにも厳しすぎると思う。

 ここまで考えて本当にお上に何処までお願いすべきか、結論が出ていない。自衛と言うのも生易しくないし、なんでもお上といのも難しい。ただ救いは、日本の制度が民主主義で、多様な意見が言えるし、お上の間違いを指摘できることである。 

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2009年5月 4日 (月)

精鋭の限界

 山本七平氏の日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21) には、精兵主義の日本軍に、精兵がいないと言う言葉がある。精兵とは、百発百中の腕を持つ兵士のことである。有能な兵士だけが遂行できる作戦を立てて、失敗する。これが、旧日本軍の失敗だと言う。

 しかしこの話しは、現在の日本企業にも成立しそうな気がする。有能な社員だけが到達できる標準作業時間で、工程を計画する。セル生産等にもそのような傾向がある。このような精鋭主義には、大きく分けて二つの難点がある。

その1
 精鋭を育成するには、時間がかかる。

その2
 清鋭になる素質のある人材は、限られている。特に、多分野がこなせる人材は少ない。

 これを特に、マクロな視野で見てみよう。まず全国的に見た場合に、精鋭と言う人材は限られている。いくら大学をたくさん作り、高学歴の人材を作っても、本当の精鋭になっているだろうか?次に、時間的に見てみよう。現在の技術革新は、人間の7倍の速度で老齢化する犬に例えて、ドッグイヤーと言う言葉が当てはまる例も多い。ここで、上記のようにゆっくり訓練して、精鋭に育てても、仕事自体がなくなる場合もある。このような業務変化が、企業経営者に正規雇用者を増やすことに逡巡させる一要因となっている。

 さて、このような状況を解決する方策はあるのだろうか?

 一つのヒントは、トヨタの方式である。トヨタでは、確りした規則を、迅速に状況にあわせて変更していくと聞く。つまり、マニュアル化し、しかもそのマニュアルを迅速に改訂している。適応力のある官僚主義と言うイメージらしい。

 このようにマニュアル化することで、精鋭とは言いにくい人材も、何とか仕事ができるようにもっていくことが、一つの解決案と思う。また、総合職で就職したに人たちは、まず文書作成力を磨くべきだと思う。マニュアルを作る能力が、一つの条件となると思う。一人のマニュアル作成者が、10倍以上の雇用を生み出す、これが一つの狙いである。

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トヨタ方式について気になること

 トヨタ方式には、色々な側面があるが、一つの特徴として、
  「お客様が金を出さない作業は無駄である」
そしてその展開として、
  「物流コストは最小にしろ」
と言うものもある。これは、確かにもっともである。

 しかし、これを根本を理解しないで真似すると、第二次大戦の日本軍になる。第二次大戦では、戦場で鉄砲を撃つ兵隊を、重視しその兵を戦場まで運ぶ輸送については、真剣に考えていなかった。そして、陸軍の兵隊は戦場で死ぬより、輸送船が沈められて死ぬか、食糧輸送が届かなくて、餓死又は病死すると言う形で、無念の死を遂げた。このあたりは、山本七平氏の著作に詳しく書いているので、詳細は省くが、日本の軍隊の原型を作った、日清日露の戦いでは、補給や通信路の確保に、当時の戦時指導者がいかに配慮したかは、記憶にとどめて欲しい。

 さて、現在トヨタ方式を導入している会社は、物流改善の重要性も理解し、それなりの人材を当て、それなりの評価を行っていると思う。しかし、何年か後にまでこの評価が続くであろうか。日清日露の経験者が去った後の、昭和の軍指導者のように、物流軽視と言うことで、何かトラブルを起こしそうで心配である。

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高学歴者社会としての日本のあり方

 現在の日本社会の特徴を、
  「高学歴者社会」
と捉えてみた。ここで、”高学歴”と言う表現には、
  「知識は結構ある」
と言う意味合いである。ただし、
  「論理的な思考能力等が身についているか?」
と言う問いには、少し答えにつまるものがある。この理由として、なぜか、
  「物理学はどうあるべきか」
等の根本的な議論が弱いように思う。確かに大先生の、ご託宣は色々ある。ただそれに対して、反論し、更に再反論する中から、真実に近づくと言う過程が見えないのである。

 この理由を考えてみると、明治以降の日本の教育システムは、欧米の進歩をキャッチアップするためにできていたことが、一つの理由であろう。極論すれば、
 「大学と言うものは、海外の成果を、日本に導入して、展開するための道具」
であった。世界で最初に工学部ができたのは、東京大学であった。そして日本の大学では、基礎科学を研究する理学部より、応用を教える工学部の定員が多くなっている。更に、理学と言うものは、どうあるべきか考える、科学哲学を教えるところはもっと少ない。つまり、他人が考えてくれた、科学技術の成果を実用化することが重要で、その基礎を考えたり、社会との関連であるべき姿を考えることは、少なくとも人数的には、軽視されている。また、工学部での一般教養に、科学哲学のような分野が、きちんと教えられているかも疑問である。それどころか、一般教養と言う言葉自体も、死語になりかけている。

 ここで、明治以降の国家指導者の考えた構想を推察すると、
  「国家のあるべき姿に関して考え、議論すべき人間は、
  殖産興業に従事する人達より、少なくてよい」
と言う発想であろう。これは、『海外列強』と言うある意味での『正解』のある世界では、正しかったように思う。しかし、現在のように、方向付けが多様化している社会では、色々な立場からの議論が必要である。

 もう一つ、現在の『高学歴社会』の問題点は、変な大学間の平等主義である。上でも述べたが、科学哲学に関してきちんと論議できるように、1~2年時代の教養課程で確り教えた大学と、高校までの数学や国語の能力を補習して、やっと工学部の学生として卒業させた学生を、『大学卒業』と言う『平等な扱い』をしないといけない。これはおかしいと思う。確かに、工学部卒業と言うことで、もの作りに関しての実務は、大学できちんと教えているかもしれない。但し、自分の専門以外まで口出ししてよいかは、別の問題である。他の分野まで口出しするには、それなりの積み重ねが必要である。そのような基礎として、一般教養というものが存在したが、現在の大学において、一般教養の格差は大きい。

 但し、一般教養は、大学卒業後でも自らの鍛錬で身につけることは可能である。そのように、身につけた後で、他分野に関しての発言は大いに行ってもよい。ただ、
  「大学卒業したから教養があり色々な分野に発言できる。」
との発想には問題点があるといいたい。ヒポクラテスの誓いを、もう一度見直して欲しい。

 現在を『クレイマー社会』と言う人もいる。しかしまず専門家が説明責任を果たす、その説明を、論理的に聞いて判断する。この両者が成立して、社会が円滑に動くのである。現在の高学歴だが、論理的でなく、権威的な高圧発言のみが飛び交う社会では、クレイマーと言う現象が、多くでるのではと思う。

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2009年5月 3日 (日)

破産寸前の状況における政治的指導者

 今地方公共団体などで、破産寸前の所も多いと聞く。そのような時の、指導者都市民はどうあるべきか考えてみた。このような状況で、指導者層の動きは、大きく3つに分かれると思う。

その1 問題先送り方式
 現状維持と言う名目で、何もしない。員数合わせ的な対応を行う。山本七平氏の描く第二次大戦の日本軍の指導者が、この典型であろう。しかし現在官僚や、地方自治体の首長や議会の動きにもそのようなものが感じられる。

その2 お上に従え方式
 一般市民には、危機的な状況を知らせずに、政策決定エリートだけの意思決定で事を運ぶ動き。この典型は、明治期の指導者であろう。特に日露戦争後の、国家の経済状況を国民に知らせずに、政府及び軍部指導者だけで、戦争終結・講和までに進め軍部の拡張路線を比較的軽度に収めた戦略は、すぐれたものだと思う。

その3 危機感共有方式
 小泉純一郎総理や大阪の橋下知事のパターンで、現状の破産寸前の財政状況をあからさまに訴え、市民参加での改革を行う。

 本来、民主主義は、上記その3の危機感共有が基本であろう。しかしこれがうまく行っているのが珍しいのはなぜか?逆に言えば、大阪で橋下知事が一応成功しているのはなぜであろうか?

 私の仮説は、日本人市民の論理的思考の弱さ、特に冷静な議論の成立しない弱さが、一つの原因であると思う。一方、大阪にはまだ市民の底力があり、現実的に物事を判断する力があるので、橋下知事を支える力が生まれていると思う。1億円を投げ出す人もいるのだから。

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2009年4月11日 (土)

日露戦争の指導者について(補足)

 前にも書いたが、日露戦争時の日本の指導者には、戦略的視点で見事に国を導いている。しかしこれが、説明されていない。それどころか、
  「明らかな言葉で議論されたことがあったか」
も疑わしい。

 つまり、当時の日本の指導者は、
  「言葉で表される『哲学的なもの』ではなく、暗黙の了解で動く」
世界だった。彼らは、戊辰の役~西南戦争を、敵味方の別はあっても戦い抜いた戦友であり、更に日清戦争は一体になって、戦い抜いている。

 従って、軍人達及び政治指導者の間にも、共通感覚が生まれているし、指導者間の能力差も自然に皆に伝わっている。従って、上位者の判断に任せることもできた。また部下が、指導者の考えを理解していることもわかっているので、任せることも容易であった。

 これを乱暴に言うと、「指導者村の住人達」が、暗黙の了解でモノを進めていた。

 しかし、その後3代ぐらい後の指導者には、このような共通感覚がなくなり、第二次大戦の『員数あわせ指導者』が排出した。明治の指導者の失敗は、欧米式の指導者育成方式を取り入れている。そこでは、教科書や坐学等の言葉による伝達が主体である。欧米では、「法律作成」や「哲学議論」の伝統がある。しかしそれがない日本に欧米式のシステムを入れたのが失敗だった。まだイギリス式なら、もう少しましだったかもしれないが、ドイツ式やフランス式は、哲学議論なしの伝承は難しい。

 しかし、その後「野中郁次郎先生の暗黙知研究」が日本の知恵として、世界に顕彰されているのは興味深いものである。

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2009年4月 6日 (月)

言葉を知るということとスキルの関係

 日経ビジネスのHPに面白い記事を見つけた。http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090403/190984/?bv

 ここでは、
   「日本人は、仲間内の話には慣れているが、
    外の人を信頼する力が無い。」
と言う話しを展開している。その理由として、
   「人と信頼し信頼されていると言う
    シグナルを発し、受け取るスキルが未発達」
とここでは書いている。

 この話しは何となく納得してしまった。更にこの国を考えてみると、言葉を知るということに関しては、教育制度の効果で、かなりの成果を得ている。言い換えると、人の言うことを聞き取る能力は、多くの人に普及している。

 しかしながら、その根本を理解し、評価する能力が身に付いているかは、別物である。

 このように、「聞き・読む能力」と「評価する能力」のアンバランスでは、デマに惑わされることも多く、『空気』が力を発揮することが多いと思う。

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2009年4月 5日 (日)

日本人の戦略能力

 「日本人は戦略的発想に欠ける」と言う話しを、色々と聞く。確かに第二次大戦時の指導者には、どう見てもそのようなものが感じられない。しかし、日露戦争の指導者は、戦略眼が確りしていた。これは、『坂の上の雲』には書き切れていないと言うか、司馬遼太郎氏がまったく理解できていない要素があると思う。昨日のNHKテレビで、『坂の上の雲』の話しをしていたので、忘れないうちに書いておきたい。

 まず日露戦争の、日本の立場を言うと、
  「国力ではるかに劣る我が国が、ロシアに対して優位な立場で講和したい」
と言う大戦略がある。このためには、長期・総力戦を避け、短期戦で『判定勝ち』に持ち込みたい。このための戦術として、国際世論とロシア側が認める、戦術的勝利を得る。

 この指導原理は、良く機能したと思う。特に、海軍の戦いは、
  「バルチック艦隊の殲滅」
と言う形で、自他共に認める大勝利を得た。一方、陸軍の戦いであるが、この部分は『坂の上の雲』等に大きな誤解がある。まず、ロシアの陸上戦闘は、対ナポレオン戦闘を一つの模範としている。これは、
  「敵軍を戦略的後退で、自国内に引き入れ殲滅する」
と言う方針である。この発想では、奉天の会戦は、日本の勝利ではなく、ロシアの戦略的撤退となる。しかし、ロシアが認めざるを得ない敗北が、旅順要塞である。
  「ロシアが力を入れて作った近代的要塞が、
   日本軍の正攻法の攻撃で短期で落ちた。」
これは、ロシア陸軍にとって大きな敗北である。これを、児玉源太郎などの陸軍指導部は、正確に認識し上手に使っていた。旅順要塞の攻略は、二〇三高地の攻撃等の奇襲で決まるべきものではなく、正攻法で攻略されるべきものであった。

 しかも、日露戦争後の軍部を含む世論操作が、より戦略的に重要な決断である。陸海軍の指導部も、戦時の膨大な予算は、あくまで一時的なものであり、これを続ければ、国を滅ぼすと言うことを良く認識していた。言い換えると、
  「軍備を拡充し、弾薬を豊富に使う正攻法を、
   軍として求める危険性」
も良く認識していた。そのため、陸海軍の指導者は、『精神主義・精兵主義』に軍隊の流れを変えるように尽力した。

 海軍においては、東郷平八郎の連合艦隊解散の辞で、
  「百発百中の砲一門、良く百発一中の砲百門に良く対抗する」
との言葉があり、陸軍では旅順の二〇三高地である。更に織田信長の桶狭間の奇襲を顕彰し、精兵による奇襲は、少ない軍事予算で国防を行うと言う流れを作った。このような教育は、司馬遼太郎氏や山本七平氏のような、学徒動員の士官まで影響しているらしい。

 このように考えると、
  「明治の日本軍指導者は、大戦略で国を守った」
と言えよう。更に東郷平八郎元帥が、昭和の軍縮条約の時に軍部を押さえるために、
  「訓練には制限がない」
と反条約派を押さえたのも、立派な見識と思う。ただし、本当に戦争になったときに、このような精神主義では、悲惨なことになる。これは、昭和の軍事指導者の問題で、明治の軍事指導者の失策と言えば、本当に指揮者に値する後継者の養成に失敗したことであろう。

 

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2009年3月30日 (月)

山本史観に関する疑問

 山本七平氏は、第二次大戦の日本軍の指導者は、西南戦争の西郷軍に似ていると言う。初期の西郷軍は、政府軍の物量に対抗して、精神主義と精兵で対抗していた。西郷軍の兵士は、死ぬことを恐れず、鉄砲は立って相手に狙いをつけたし、刀を持っての切込みを勇猛にに行った。一方、政府軍の徴兵した兵士は、
  「鉄砲は相手に撃たれないように隠れてこわごわ撃つ。
   したがって命中率は低い。切込みが来たら逃げる。」
と言う情況であった。これに対して、政府軍は物量で対抗し、更に士族中心の羅卒抜刀隊で対応した。その結果、西郷軍の最後は、かなり規律も乱れ、兵士を無駄死させる指揮も多くなっていた。このように、実体のない精神主義は、第二次大戦の日本軍と通じるものが多い。

 しかし、日露戦争を戦い抜いた指導者は、精神論と現実論のバランスが取れていたと思う。更に、補給や通信線の確保まで、確り考慮していたのが、日露戦争の指導者であった。特に、議論の分かれる旅順要塞の攻防においても、乃木司令部の采配は、飛び切り劣っているとも思えない。確かに白襷体の突撃は、犬死かもしれない。しかし成功すれば、第一次大戦でドイツ軍が採用した、浸透作戦の先駆けとして、世界の戦史に残った可能性が高い。それ以外の、工兵の利用の要塞攻撃は、要塞攻撃の定跡として、後世に残るものだと思う。しかも、旅順では、適切な弾薬・兵器の補給が行われた、まともな指揮が行われている。

 さて、これを無能と言ったのは、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」である。しかし、これ以外にも、山本七平氏の著作でも、
  「陸軍内部での乃木無能論は有名」
と言う記述もあった。どちらの意見も、
  「二〇三高地攻撃を優先し要塞全体の攻撃後回しすべき。
   二〇三高地が落ちれば、要塞は楽に落ちる。」
と言う観点である。

 私はこの観点には、正攻法の攻撃を嫌う向きがあるように感じる。もう少し突っ込めば、日露戦争の政府軍から継続する、物量作戦に対して、
  「どこか抜け道を見つけた奇襲主義=桶狭間論」
が強力に作用しているように思う。

 そこで、私が持つ仮説は、当時の軍・政の指導者が、
   「後世まで考えた、戦略的判断を行った」
と言うことである。当時の日本の国力は、日露戦争の1年4ヶ月で疲弊していた。このような物量任せの正攻法の戦いを、今後続けることは、結局国を潰すことになる。そのためには、軍人の思考を
   「物量主義から精神論へ、正攻法から奇襲へ」
と言う風に、舵を切ったように思う。そのような観点で、以下の様に誘導して、国の財政を保ったのではと思う。
   「陸軍は、旅順の攻防は二〇三高地の奇襲で決まった。
    この含みとして、乃木将軍無能論も軍内では広める。
    海軍は、百発百中の砲一門は、百発一中の砲一門によく対抗する。」
と言う風に、訓練至上主義の精神論に持って言ったのではないか。

 これを考えれば、東郷平八郎元帥が、ワシントン条約で海軍の不満を抑えた、
   「でも訓練には比率も制限もないでしょう」
と言う発言は、高度の見識を示す、戦略的発言と思う。

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2009年3月29日 (日)

「日本はなぜ敗れるのか 敗因21カ条」を読んで(承前)

 山本七平氏の日本人論には、自分の戦場体験と言う、強烈な現実体験を踏まえているだけに、説得力がある。しかも、現在の『経営上の失敗』に対して当てはまる話も多い。ただし、一部突っ込み不足の感もあるが、とりあえず同感する部分を記述してみる。

 ・精兵(飛び切り射撃の上手な兵士)主義の軍隊に精兵がいない。員数主義で、数だけ合わせても、有能な兵士でないので、机上の計画通りの戦いができない。

 ・バシー海峡(台湾とフィリピン間海峡)の損害と、戦意喪失
 これは、陸軍でフィリピンで戦った山本氏の体験に裏打ちされている。戦う前の兵員を輸送する段階で、何十万と言う多くの人材が失われている。(アメリカの潜水艦がほぼ確実に沈めると判っている輸送路に、ぼろ舟で兵隊を送り込む。これは、日本軍指導部の殺戮と言う山本氏の指摘には説得力がある。)

 上記2点は、現在でもIT関連のプロジェクト崩れで、良く見る状況である。経験した人間でないとできない処理に、員数主義の数合わせの人間をつぎ込む。更に、崩れかけたプロジェクトに、人を突っ込んで、伸ばすべき人材を潰していく。しかも補給のような間接業務を軽視して、そこで大損害を出す。

 次の項目は、もう少し日本人の本質に関わってくる。(以下は21ヵ条から)

 ・20.日本文化に普遍性なき為、18.日本文化の確立なき為、5.精神的に弱かった

 ・13.一人よがりで同情心がない事、16.思想的に徹底したものがなかった事

 ・3.日本の不合理性、米国の合理性、6.日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する、7.基礎科学の研究をしなかった事、

 ・9.克己心の欠如、10.反省心なき事

 これらは、皆相互に関連しているが、まず明治以降の日本の文化が、本質的に輸入文化であり、自分で考え抜いて作ったものではない。しかも正解が外にある。したがって、他人に対しても、正解を押し付けてしまう。しかしその前提条件を考えないのではた迷惑になる。

 ここまでの議論に関しては、私も賛成である。

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2009年3月26日 (木)

山本七平氏の歴史観について

 昨日に続いて、「日本はなぜ敗れるのか 敗因21カ条」について思うところを、もう少し書きたい。まず、第1章の「目撃者の記録」から、ガツンとやられた気がする。歴史資料の評価尺度として、『現地性』と『同時性』と言うことは、知識として納得している。しかし、戦場の現実と言うものを、現在の私には理解できていなかったということが、ここできちんと判る。例えば、
  「遺品ですら日本に持ち帰ることは、ほぼ不可能であった。」
  「戦場では5m離れた戦友の戦死の情況だって正確にはわからない。」
と言う話、今まで考えていなかった。平和ボケしていたのであろう。これはある意味ではありがたいことである。しかしこれを他人に押し付ける場合には、重大な損害と成る場合もある。

 日本の敗因の第1章から伝わるのは、本当に現実を見ているかであろう。

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2009年3月25日 (水)

人間を生物として見ることの重要性

 山本七平氏の「日本はなぜ敗れるのかー敗因21ヵ条」を読んだ。色々考えることがあるが、最後の敗因21番目
  指導者に生物学的常識がなかった事
と言う言葉には、本質をだと感心してしまった。

 現在でも、人間を人間として扱わないと言う話しは、いろいろある。敗因ではないが、イノベーションの世界でも、
 「イノベーションを起こすのは人間である。人間は生物である。」
と言う基本をもう一度考えるべきではと思う。

 直ぐに、課題を投げつけて結果が生まれるものではない。しかし、時間をかければ育つ可能性もある。この両面から、『生き物』を確り育てるのが、これからの課題ではなかろうか? 

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2009年3月22日 (日)

与えられた学問としての物理学

 前にも書いたが、物理学の勉強の方法として、例えば電磁気学ならば、マックスウエルの方程式のような、綺麗な基本原理から展開していく方式と、クーロンの法則のような身近な問題から原理を追求して基本原則にいたる方式の2つの方法がある。前者の基本原則から展開する方法は、良く体系付けられて整理されているので、学ぶ時には効率的に見える。しかしながら、与えられた真理を、学ぶという『受け身の姿勢』がついてしまい、自分で新しいことを発見すると言うには、別の訓練が必要になる。

 ここまで、物理学の勉強について考えてきたが、これと同じような話しを、山本七平氏の話で何度か見たように思う。それは、法律の話しである。明治維新以降の日本の法律は、自分で議論して作り上げたものではなく、どこかの国のお手本を真似した、継受法である。

 こう考えてみると、日本の学問体系は、どこかに正解があり、それに合わせこむ秀才型の勉強が主体であり、自分で発見すると言う話しは弱いように思ってしまった。

 なお、どこかに正解があるという『プラトニズム』の姿勢は、研究やイノベーションについては、悪い話ばかりではない。現状を創造的に否定し、より良いものを求める。その時には、どこかに理想があると言う、求道的な精神が有効なことも多い。運慶が木の中から仏様を彫り出す話しもあったが、これは発見の一つの側面を良く突いている。どこかにある理想形を、自ら彫り出す。これは一つのイノベーションの姿勢ではないか。

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2009年3月12日 (木)

空気と水の考察

 山本七平氏の「空気」と「水」に関して、もう一度私の解釈を説明しておく。まず基本になる考えは、下の図にあるように、知識の構造における、抽象的な理論世界と、現実世界の2分化方法である。

  http://homepage3.nifty.com/manabizz/koukatekikyouiku.doc

私の考えでは、山本流の「空気」は、この図の記号の世界が暴走したことで発生する。特に、特定の記号が表す「概念」が、色々な人の口に上る間に膨れ上がり、更に特定の性格がついたときに、発生すると考える。人々の会話の中で、正のフィードバックが発生して、発信したものが、「空気」の暴力的な力となる。

 一方「水」は、記号世界に対して現実世界からの介入で、上記フィードバックを立ち切る役割をする。 「話しに水を差す」と言うのは、現実に必要なものなどを挙げた時に生じる。

 このように考えると、第二次大戦の指導者達は、実戦の経験が無いので、「空気」で暴走したと言うことも説明できるのではないか。

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2009年3月11日 (水)

新規開発を引き出す組織風土

 ここしばらく、研究開発の成功に関して書いている。その中で、一つ思い当たることがあった。アイデアの主要点は、山本七平氏の説く『空気と水』の使い方である。山本氏の『空気』に関しては、色々と書かれているので、説明は省略する。一方、『水』に関しては、あまり引用する人もいないようである。山本氏の『水』の使い方は、
  「熱狂に水を差す」
と言う使い方でイメージすればよい。ここで、
  「空気は理論先行の熱狂であり、水は現実で反省をする。」
と考えると、説明しやすいと思う。

 さてここで、新規開発が成功するためには、どのような『空気』が必要であろうか。
  ・新しいものを求める
    ・現状に甘んじない
このような『空気』が効果的に見える。しかし、このような『空気』だけでは、幼稚なアイデアなどで、突進するドンキホーテの群れになる。第二次大戦の日本軍のように、
  「今までの投資がもったいないと惰性が続く」
例も多い。

 そこで重要なものが、『水』の働きである。特に開発の場合は、
  「現場で作れるか?」
と言う、健全な『水』の判断の働きが重要である。

 ただし、現状でできるだけでは、本当の革命はできない。そこで、ある程度の冒険を行う必要もある。この時には『水』が足かせになることもある。このバランスをどうするか、そして責任を取るのが経営者の重要な仕事であり、判断力が経営者の重要な資質と言う一つの理由である。

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2009年2月11日 (水)

教育に於ける総合的なアプローチの効果

 前にも書いたが、日本の国語教育は、道徳教育と分離していない。これは、論理性を身につけたり、客観的な理解については、障害となる面がある。しかし、道徳的なものの見方が自然に身につく利点もある。江戸時代の寺子屋でも、手習いに道徳的な一節を書かせること多かったと聞く。

 更に、鉄道唱歌では、歌を通じて、日本各地の名物などを伝えて、地理の教育に役立てている。

 現在の教育は、少し専門に分かれすぎているように思う。そういう意味では、総合的に融合した教育も良いと思う。

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2009年2月 2日 (月)

正社員の高給与の根拠?

 実力もない正社員が高給与を甘受していると、色々批判が多い。さてこれと同じような話しが、歴史の世界であったかなと、考えてみた。

 そこで思い当たるのが、旧軍隊の「幹部候補生」の制度である。大学生を幹部候補生として採用し、速成訓練で士官とする。この制度の本質は、司馬遼太郎氏や山本七平氏の著書に色々と書いているが、要するに
  「兵隊の先頭に立って突撃して死ぬ小隊長」
の役割を果たす人間の速成養成である。つまり、先頭で死ぬ危険性の代償としての厚遇であった。

 更にもう少し歴史を遡ってみよう。江戸時代で、威張っていた武士について考えてみよう。武士の値打ちは、
  「お家のためにいつでも死ねる」
と言うことにある。そこで、狭い意味では、
  「戦場での死」
しか考えない武士もいたが、上杉鷹山のような指導者の下では、主君の命じる土木工事でも命がけで行っている。

 ただし、現在の会社で、万一の時に死ぬと言うことだけで、高給取りは許されないと思う。高い給与は、それなりの技能や知的貢献で、皆に納得してもらう必要がある。

 繰り返すが、大学を出ただけで、正社員の厚遇が期待できると思ってはいけない。

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2009年1月26日 (月)

アメリカの原理主義は?

 オバマ大統領の就任演説には、独立戦争からの話しが織り込まれていたと聞く。これはアメリカの原点に戻ると言うことであろうか?

 山本七平氏がどこかで、「アメリカも原理主義が強くなるときがある」という予言を書いていた。

 確かに、危機に国をまとめるには原理主義が有効と思う。

 日本の原理主義は何だろう?変にこだわらないことかな?

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2009年1月12日 (月)

現在の混乱の一原因

 今の社会的混乱の一原因は、理論的な学問の結果が、かなり現実に適合していることにあると思う。アメリカの金融工学も、物理学や数学の応用で、市場が予測できたと思い込んでできたようなものである。工学的ものづくりでは、パソコン上のシミュレーションでかなり精度良く予測でき、「それでも現場の知恵がいる」と言う議論がでている。

 これが社会科学的な分野にまで、広がっているような気がする。経営学しかり、官僚の体制つくりも同様である。しかも、それを一般的に認めているのが、一番の問題である。何でもかんでもお上に任せる「パターナリズム」的な発想が、これと結びついている。しかし現実と理論の齟齬が生じる。そこで、政府が悪いと言う議論が生じている。

 しかし、現実は多様に変化するものであり、理論はその一面を切り取ったものである。1898年にアメリカの哲学者C.S.パースが講演したは、「医学にしろ工学にしろ現実対応の技術が先行し、科学的理論がそれを説明し深めていく。」と言う主旨の発言がある。現実の複雑さに対し、柔軟に対応していく。特にそれを、色々な立場で行うことが忘れられているように思う。

 現在の派遣労働者の問題にしても、2005年に会社法が改正されて、会社設立が簡単にできるようになった。これは、競争社会の原理を導入することで、経済活動を活性化しようとする発想である。確かに、理論的にはその面での効果はある。しかし、競争第一主義の会社を乱立させて、社員の生活にたいする責任を持たない人間が、経営者になることを許すと言う弊害が出ている。この対策ができていないのが現状だと思う。 

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2008年12月15日 (月)

会社いじめ

 現在の雇用不安に対して、企業の責任を追及する声が高い。しかし何となく気になる面がある。まず追及している人の考えに、
  「貧乏人を搾取して太っている悪徳資本家」
と言うマルクス主義的発想や、
  「お上の金はいくらでも出るから、なんでも陳情」
と言う水戸黄門依存症的発想が見えることがある。

 特に立派な経済評論家や、学者、政治家が自分で解決のできない問題を、(大)企業にかぶせているように見える。

 更にもう一つ言うと、市場環境を悪化させている一面として、いわゆるボランティアがらみの低価格労働がある。例えば、年金併用の労働力で、市場に入ってくるなどがある。このような条件で、コストに厳しい経営となるのは企業だけ責めるのはおかしいと思う。

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2008年12月14日 (日)

忠臣蔵の見方

 年末になると「忠臣蔵」が流行ると言う。赤穂浪士の討ち入りに関し、結構人気がある。

 しかし見方を変えれば、多数の人間が集まって、一人の老人を討つ。これはある種のリンチである。また別の説では、
   「幕府の政治に対する抗議行動としての、討ち入り」
と言う意見もある。

 ここで気になるのは、後者の見解に於ける、「被害者の吉良上野介」の扱いである。幕府政治に対する抗議と言う、大きな目的のためには、
  「吉良上野介の名誉」
等と言う
  「小事は無視しても良い」
発想が見えてくる。

 このように片づけてよいのであろうか。

 この発想は、「沖縄ノート裁判」や「百人斬」論争にも影響しているように思う。

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2008年11月24日 (月)

マルクス主義教育の成果

 団塊の世代の受けた教育は、マルクス主義歴史観に支配されしかも大学では、全共闘的価値観で、
  「資本家は悪人・保守政治家は腐敗・自衛隊は旧軍の影響下で暴走する」
と推し付けられていた。そのような教育を受けた優等生が、田中角栄首相の教育優遇政策で、教師になった。

 このような教育の結果、悪人視された人達が、素直に仕事ができるとは思わない。信用されていない人間が、節度のある仕事をするとは思えない。

 まず労働は尊いことである。国のため、公共の福祉のために、働く人への尊敬が基本として、国民の合意が得られないといけないのではないか。

 平安時代から、令外官として貴族からさげすまれてきた、武士の革命が鎌倉幕府である。今の自衛隊は、令外官でしかない。しかも、軍人としての命令服従と言うことを理解できていない将官がいるような組織である。

 これも、戦後の平和野党などが、色々押し込めてきてツケが出ているように思う。

 仕事は、義務を果たすことで、皆から尊敬を受ける。その結果、良い仕事が広がっていく。どちらが欠けても、上手く廻らない。

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2008年9月26日 (金)

実力主義社会の仕組み

 山本七平氏の「日本的革命の哲学」によると、武家社会は実力主義だという。確かに戦いに勝たないと勝ち残れないから、実力主義になる。このような戦いで、決着をつけるのは、実力主義を簡単に実現できる。一方、中国では科挙の制度である種の実力主義を、実現していた。しかし日本は、律令制度を貴族制度にするため、科挙が入らなかったように思う。

 さて、日本で科挙に近い制度が入ってきたのは、明治維新以降の学歴主義であろう。特に戦後の受験は、まさしく科挙の再現であろう。ここで一つ、法制度との関連で指摘しておきたい。明治維新以降の日本の法律は、欧米の先輩から教わった、”継受法”である。つまり、教科書があり、それで評価しやすい世界である。

 実力主義に関しては、見える実力の評価法が重要である。

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2008年9月25日 (木)

真善美の一体化教育

 前に、日本の国語教育は、道徳教育と国語教育が分離していないと書いた。真善美と言うが、国語は真理の伝達手段であり、道徳は善の伝達であるから、この両者の分離ができていないと言うことである。

 しかし、昔はもっと上手があった。江戸時代の寺子屋では、習字の教材に、貞永式目や論語の一説を使った場合がある。この場合、素読と併合しているから、真善美を一気に学ぶことになる。

 ここまで一体化すると、見事なすり合わせの教材設計と言える。日本の擦り合わせ上手は案外このようなところにあったりして・・・

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2008年9月23日 (火)

鎌倉時代から教訓

 井沢元彦氏の「日本史集中講義」を読んだ。色々面白い見方があるが、浄土真宗の布教の話が参考になった。親鸞の教えは大衆化は難しかったが、蓮如が一気に大衆化した。其の一つの仕組みが、信者の集まりである「講」である。ここで重要なことは、当時は
  「自由にものの言える場がほとんどなかった」
と言うことである。本当に会話や、意見を聞くと言うことは、大衆には遠い世界であったのであろう。

 そう言えば、北条泰時と明恵上人の関係も、何となくお互いが相手のことを受け入れたと見ることができる。当時の武士は、都の貴族には何となく、軽蔑されていたことは、想像に難くない。しかし明恵上人の対応には、そのような偏見は感じられない。上人は全てがお釈迦様の弟子ではないか。

 このように見ると、相手の言うこと聴き、受け入れる重要性が見えてくる。

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2008年9月14日 (日)

日本人と法

 この国の法律の変化を考えてみると、何となく見えて来るものがある。

 まず、聖徳太子の憲法17条(固有法?)
  「和も持って貴しとなす」

 中国の制度に倣った、大宝律令(継受法)

 貞永式目(固有法)
  「あるべきようわ」・・・明恵上人の教え

 明治憲法(継受法)

 現在の憲法(継受法)

固有法の部分が、日本人の感性を示しているように思う。

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2008年9月 3日 (水)

天皇制について

 山本七平氏の「日本的革命の哲学」を読んで、日本の”天皇”制の意味が解かった。

 中国では、皇帝は「天」が選ぶ。そこで、天の意が離れた皇帝は、革命により退く。これを易姓革命と言う。

 しかし、日本の場合は”天皇”と言うことで、天が決めた”皇帝”と言うことで、革命は起こらない。”天皇”と言う称号を考えたのは、中国の制度や学問を深く理解していたのだと思う。そうすると、やはり聖徳太子と言うことになるのだろうか。 

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2008年8月26日 (火)

論理を嫌う(承前)

 昨日も書いたが、日本人の論理嫌いの一面と関連して、山本七平氏の関連する議論を見つけた。

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 これは、貞永式目を創った北条泰時の業績について、述べたものだが、そこで固有法と継受法と言う、概念装置が出ている。日本で昔からあった、大宝律令は、中国の法律を輸入した『継受法』である。『継受法』の場合には、一度に体系が入るので、論理的には美しいが、それに対して、改善や反論が難しい。

 この段階から、論理嫌いが生じて、「自然的秩序」を優先する発想が生まれたと言うのは、考えすぎかな?

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2008年8月13日 (水)

陸軍の幹部候補生

 戦前の日本陸軍では、幹部候補生という制度があったらしい。この制度は、徴兵検査の時に、当時として高学歴の大学生などを、幹部候補生として採用するものである。このようにして採用された、幹部候補生は、小隊長として歩兵で真っ先に突撃する要員である。つまり、消耗品である。このような幹部候補生は”員数将校””兵隊将校”と呼ばれて、兵隊からも軽蔑されていた。

 幹部候補生の原型は、ドイツのユンカー(大地主貴族)の志願兵制度を直訳した、「一年志願兵」制度からきている。ドイツの志願兵制度は、ユンカーで正規将校にならない人を、一年間の教育をして少尉にしておく。これは、当時のドイツでは、貴族が残っていていざというときには、ユンカーが小作人を率いて戦場に行く伝統があったから成立した。

 しかし日本では、単一階級にした手前、商業学校・農学校等の卒業生を卒業生に対して一定の教育を受けさせ一年で見習い士官とし、もう一度召集して予備役少尉にする、という制度にした。それが、戦時中に強制的に、幹部候補生で士官とした。

 その結果、下士官上がりの将校、士官学校出身の将校、そして幹部候補生の将校の3通りがある。実務能力は、当然下士官上がりの将校が一番で、士官学校出身者はその次になる。但し、この両者は一応軍人としての、基本が出来ている。しかし幹部候補生の場合には、実務能力が無いから、部下の兵隊にはたまらない。

 この話し、ここまで書いていたら、どこかで聞いたように思う。例えば、
  「名ばかり管理職」
と、幹部候補生の小隊長とどこが違うのか考えてみよう。

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2008年8月12日 (火)

奈良の仏教について

 奈良のマスコットキャラクターについて、仏教界から色々意見があるらしい。しかし、奈良の仏教界は、そんなこといえるのだろうか。

 明治の廃仏毀釈の時に、京都から、「今日から仏教は廃止である。僧は還俗せよ、もし希望があれば春日神社の神官にしてもいい」という書付で、仏様を薪にした。魂を密教の方法で抜いて、薪にして風呂をわかし、仏風呂といった。

 これは、司馬遼太郎氏の話しだが、これは十分信じられる。

 しかしこれと比べれば、鹿の角など、可愛いものだと思う。

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2008年8月11日 (月)

個人の人権について

 この時期になると、前の大戦の話が色々出てくる。そこで、一つ気になることは、
  「個人としての軍人の人権は、どうなっているのであろうか」
という問題である。例えば、
  「南京の百人斬り」
の名誉毀損事件では、戦犯として処刑された、2人の軍人の遺族が、マスコミの「誇大表現」により、戦犯となったので、その名誉を晴らしたいと訴えている。しかし、一部の進歩的な、知識人などが追及している場合には、旧日本陸軍の行った戦争犯罪に関して、個人を責めたてているように思う。

 しかし、この訴訟で気になることが、もう一つある。高裁の判決の理由は、
   「百人斬りに相当する事象が無かったと証明できない」
である。これは立証責任が原告側にあるという観点である。しかし、マスコミと一個人の遺族という力関係を考えれば、弱者である個人に対して、もう少し裁判所も配慮して欲しいものだと思う。

 そうい言う意味では、松本サリン事件での、誤報に対してマスコミが頭を下げているのは、少しはましになったのかもしれない。

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2008年8月10日 (日)

ウェブ世界の議論について

 ウェブ上での議論は、どうも過激になりやすい。この理由を考えると、一部の人間で、攻撃的になるものがいるらしい。

 この理由について、ウェブ世界の匿名性と言う指摘がある。特に自分が反撃を受けない状況で、人を攻撃している場合は、過激になりやすい。

 更に、現在の若い世代には、なにか他人に対する想像力が欠けているように思う。相手が傷つく、それが自分ならどうか、考える力がなくなっているように思う。

 確かに昔から、「憂さ晴らしに当り散らす」という現象はあった。そのような人間は、誰かに怒られ、自分も痛い目にあって、そういうことを収めるようになっていった。その仕組みがなくなっているように思う。

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2008年8月 8日 (金)

直線依存と計算機能力

 昨日書いた、仮説思考と直線の交点の話しは、現在では計算機による、多数の可能性を試行錯誤して探す能力で、大分変化してきた。グレブナ基底の活用も、その一つであろう。このような道具の進化で仕事の仕方も変ってくる。

 このような、仮説思考法を使いこなせるように、順方向の論理を身につけておくことが、重要である。

 一方、数学でも、逆数学がかなり実践で力を出している。これを使いこなすためには、順方向の数学処理の意味をよく理解しておくことが重要である。

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2008年8月 7日 (木)

仮説設定思考と測量

 論理思考の使い方として、仮説設定思考の有効性について述べた。仮説設定思考の名手といえば、C.S.パースが一番であろう。パースが自分で、犯罪を解決した話しと、シャーロックホームズの探偵談を上手く組み合わせた、本があったので紹介しておく。「シャーロック・ホームズの記号論―C.S.パースとホームズの比較研究 (岩波:同時代ライブラリー (209))」この本は、現在絶版かもしれないが面白い。

 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4002602095/nifty0b5-nif1-22/ref=nosim

 さて、この話しとは別に、マックス・ウェーバーに関する論争で、山本七平氏に関する議論があった。これは、「マックス・ヴェーバーの犯罪」という本が、山本七平賞を取ったため「日本マックス・ウェーバー論争」で、山本七平氏まで、否定的な議論がされている。その中で、山本七平氏が、佐伯真光氏との論争に対し、松本道弘氏の下した判定文が面白い。http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8442/research/sensei/ronsou.html

 つまり、松本氏は、今回の議論では、山本七平氏の負けと判定したが、
  「私は氏の直感的判断を今でも高く評価している。」
と山本七平氏の直観を高く評価している。しかしこれは、言い換えると仮説設定能力の高さである。

日本マックス・ウェーバー論争 「プロ倫」読解の現在

マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊 (MINERVA人文・社会科学叢書)

 さて、ここで、C.S.パースと山本七平の両氏の共通点は何であろうか。実は、両氏とも測量に関する経験が深いという共通点がある。パース氏は、測量に関しても造詣が深いと言うことは、伝記などでも明らかである。一方、山本七平氏は、軍隊で大砲のための観測を主として担当されていた。これは、2つの観測点から相手地点への角度を割り出し、その交点に大砲の照準を合わせる業務である。つまりどちらも、複数の線の交点で、ある一点を割り出す仕事をしていた。

 このように、複数の可能性の交点で、目標点を割り出す作業は、仮説を重ねて答えを求める、仮説思考法に類似していると思う。両氏が、仮説思考の名手になったことは、偶然ではないと思う。

 なお、「マックス・ヴェーバーの犯罪」は、私はどうも評価する気にはならない。こんな本に、山本七平賞を出すことで、山本七平氏まで貶められるとは、不本意である。

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2008年8月 6日 (水)

田中角栄と源義経

 昨日の話しに続いて、司馬遼太郎氏の「田中角栄」論も面白い。「田中角栄」を「源義経」と類比させている。どちらも、正統の育ちでなく、
   「ふつうの日本人の持って、それは排除するとか、拒否するとか、
  嫌うとか、といった気持ちを持たずにどんどん来た」
人間としてとらえている。さらに、終身地の新潟の、農耕地帯は貨幣経済の歴史が浅い。このような環境では、
  「貨幣経済的合理主義とそれに伴うマナーや
   心理的なものを知らずに通ってきた。」
ため、金の使い方のプラス面、マイナス面をどこか計算できない。このような、金の使い方をしらなに人間は、ローマ時代の貨幣経済の初期にも発生した。

 このような貨幣経済が発展した地域は、一つは大阪、一つは長州という指摘も、面白い。  
  「金を使うモラルと現実性は大阪にあり。」
これは、橋下知事の政策を、大阪府民が支持していることと、微妙に絡んでいるように思う。一方、東京の六本木当たりでは、貨幣経済の合理化とモラルを理解できていない、人種を作ってしまったように思う。

日本文明のかたち―司馬遼太郎対話選集〈5〉 (文春文庫)

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2008年8月 5日 (火)

盆地文化論

 前に書いた、司馬遼太郎氏と山本七平氏の対話で、盆地文化論という話しがあった。周辺の山岳に囲まれ、その水で生活する。つまり山岳信仰に囲まれるので汎神論的になる。いわゆる村社会の本質と、多神教的側面が上手く説明できそうなので、記録しておきたい。

 和を持って貴しとなす。

 これは日本人の基本原理といわれるが、その和は輪であるという指摘も時々聞く。しかし盆地と言う囲いは、もっとよくあたっているように思う。しかも多神教なので、あまり衝突しないように、適当に持っていく。従って、指導者は適当が良い。東条英機のように、規則の細部を持ち出すのは、日本人的でないということにも納得した。なお、田中角栄に関しても、予算の細かい数値を覚えていたが、本質を理解しているかは不明である。特に成金趣味が、他人に与える悪影響を、理解していないと言う指摘にも納得した。

 日本の意思決定は、見えない形で進み、織田信長ですら、部下の意見を採用する形で群議を進めたというのも、この盆地型に対応しているらしい。

 また日本の文化は、まだらに進んでいるので、貨幣文明も進み方に地方差があるというのも、面白い指摘であった。

日本文明のかたち―司馬遼太郎対話選集〈5〉 (文春文庫)

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2008年8月 2日 (土)

本屋に行くということ

 新聞広告で、「マックス・ヴェーバーの犯罪」と言う本を見て、面白そうだと思った。結構高価な本なので、一度現物を確かめて見ようと、近くのジュンク堂書店まで出かけてみた。すると関連した本が色々並んでいる。その中で、論争の全貌を掴むには、ナカニシヤ出版の、「日本マックス・ウェーバー論争『プロ倫』読解の現在」がよいと思ったので購入した。なお、これに関しては、北海道大学大学院経済学研究科准教授の橋本努先生のホームページに詳しい経過が乗っている。 http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Japanese%20Home%20Index.htm

 このような本は、広告を見るだけで無く、本屋まで言って周辺をよく確認することが大切と、改めて思った。インターネットで注文すれば、便利かもしれないが、周辺での広いものが無い。

 特に、ジュンク堂は品揃えと配置がしっかりしているので、安心して本を探しことが出来る。もっとも、先日パソコン上のデータベースACCESSの本を探していたら、「Webアクセス向上」の本が、間違って並んでいた。ジュンク堂のカリスマ店員は、こんなミスをしないと思うが、一寸おかしくなったのかな。もっとも、店員さんにささやいたら、「すみません」と素直な答えが返ってきた。これで、また良くなっているだろう。

日本マックス・ウェーバー論争―「プロ倫」読解の現在 日本マックス・ウェーバー論争―「プロ倫」読解の現在

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マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊 (MINERVA人文・社会科学叢書) マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊 (MINERVA人文・社会科学叢書)

著者:羽入 辰郎
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学問とは何か―「マックス・ヴェーバーの犯罪」その後 (MINERVA人文・社会科学叢書 143) 学問とは何か―「マックス・ヴェーバーの犯罪」その後 (MINERVA人文・社会科学叢書 143)

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2008年8月 1日 (金)

日本人のリアリティ

 司馬遼太郎氏と山本七平氏の対談を読むと、色々なヒントが見えてくる。日本文明のかたち―司馬遼太郎対話選集〈5〉 (文春文庫)

 まず、従軍経験から、日本人のリアリズム不足が議論されている。員数主義で、指揮能力の無い幹部候補生が二人の実例で説得力があった。大学卒業しても実務は出来ないという話は、陸軍の幹部候補生の話にも一つの例がある。ただし、戦車を作るときも、大きさを狭軌の鉄道に合わせるという、技術的細部のリアリズムはある。

 私は日本のリアリズムが無いのではなく、逆に強すぎるのではと思う。その反動で、きちんとした絵が無いものは、抽象的な員数まで、0-1反応で進んでいるように思う。

 次に参謀の無能さについてであるが、これについては型とおり正解思考と言うことで、今まで書いたので省略する。

 そして国家論が続くが、これも面白い。日本の国は律令時代が始った時に出来たという話は説得力がある。そこで、公田制度が基本となっている。お上が決めた税を取り立てる。これが、当然と思っているが、「初めに国家ありき」は、世界の常識ではないということが、一つの発見であった。そして、明治維新はある意味で、律令国家への復帰と言う観点も面白い。山本七平氏が、
 「革命時には、伝統の原点に復帰する」
と指摘していたこととも関連して説得力がある。

 私は、革命は、以下の3パターンのどれかが必要と思う。
 1)原理主義への復帰
 2)カリスマの支配
 3)外部の優秀事例の共有
実情はこれの混合になるが、技術革新でも同じと思う。

 しかしここで外部の勉強になったとき、リアリティがなくなるように思う。

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2008年7月31日 (木)

西南戦争の意味

 前にも書いたが、司馬遼太郎氏と山本七平氏の対談から、大切な話があったので忘れないうちに書いておく。同書では、
  「西南戦争は、太平洋戦争と丁度対応している」
と指摘している。

 西南戦争  政府軍(物量主義・緒戦は弱い)   西郷軍(精神主義・個人は強い)
 太平洋戦争  米軍(物量主義・緒戦で負ける)  日本軍(精神主義)

これは、目から鱗の指摘であった。確かに、この対応には納得する部分もある。ただし、政府軍にも、警視抜刀隊がいて単なる物量主義だけでなく、白兵戦で戦える戦力をそろえたことは、論点から抜けていたのが残念である。

 さてここから、私の個人意見を展開したい。まず、明治時代の日本の指導者は、戊辰戦争を勝ち抜いた、戦争の実戦経験は十分持っていた。彼らは、欧米諸国とは、技術・知識面で劣るものを感じたので、海外留学した知識豊富な参謀を使いながら戦争した。この経験から、彼らは日本の国で富国強兵を実現するために、以下の様な施策を展開した。

 1.西郷軍のようなつい良い兵隊を作る一般人教育
    1時間に6kmを行軍する体力、白兵突撃に耐える精神力教育
 2.欧米の戦争知識をきちんと伝える高級将校教育
    これは、自分勝手な戦い方でなく、型どおりに戦う人間の養成

 ここで問題になるのは2.項である。型通りの動きしか出来ない日本軍の欠陥は、太平洋戦争当時には、アメリカに完全に見抜かれていた。伝説で在るが、名将と言われた、山口多聞が、演習で指揮したとき、
 「相手軍の攻撃から一旦退避する行動をとり、
  その後攻撃を行って、大勝利を収めた。」
すると、
 「逃げると言うことは、日本海軍として、操典に無い不適切な行動」
と叱責されたと言う。このような型に嵌めて、骨抜きにした参謀達に、ミッドウウエー海戦の事前練習で、
 「今の爆弾が命中しないように工夫しろ」
と命じても、まともな答えが出るわけは無い。

 しかし、日露戦争当時では、まだ実戦経験は豊富な指導者が、多くいたので、彼らを指揮者の命令どおりに、動かすための命令服従として、形式化の訓練も必要だった。例えば、乃木将軍の旅順攻略でも、勝手な動きをしかねない部下将校を抑える必要があった。近代的な要塞攻略戦として、塹壕を掘り攻める動きは、武士の観点では理解できなかったが、工兵による地道な攻略が一番効果があったのは、近頃の戦史家の指摘しているところである。

 しかし、実戦経験者がほぼいなくなった、太平洋戦争時では、知識だけでの教育を受けた、参謀が指揮して、多くの被害を出した。

 どのような制度も、生まれたときにはそれなりの理由があるが、その後の環境変化で、使えなくなることも知って欲しい。

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2008年7月29日 (火)

大阪府民の空気

 大阪府の予算が決まったようだ。経費削減計画を100%出来たわけではないが、やはり合格点と言うべきであろう。これは、橋下知事の個人奮闘もあるが、大阪府民の
  「借金財政を解消すべき」
と言う、「空気」が出来たことも大きいと思う。

 そこで、面白い本を一冊見つけた。「司馬対話選集5日本文明のかたち」の山本七平氏との対談p264~p265で、大阪人の現実主義を、
 「大阪の人間ばかりに内閣を組織させていたら、太平洋戦争はやらなかった」
と表現している一節があった。

 これぐらい現実性のある、大阪人なら財政再建に対して、肯定的な空気が生まれるのは当然かもしれない。

日本文明のかたち―司馬遼太郎対話選集〈5〉 (文春文庫) Book 日本文明のかたち―司馬遼太郎対話選集〈5〉 (文春文庫)

著者:関川 夏央,司馬 遼太郎
販売元:文藝春秋
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2008年7月27日 (日)

宗教について色々

 ヴェーバーの著作を勉強していると、日本の学校教育では宗教の扱いが、軽んじられているかよく解る。例えば、カソリックとプロテスタントの違いである。私は、プロテスタントが聖書を読むことで、カソリック教会に反発したというぐらいしか理解していなかった。しかし、プロテスタントは、聖書の根本まで遡った厳密な動きと言うことは、始めて知った。

 考えてみると、既存宗教から派生する新宗派は、基本経典の新解釈か、教祖の霊的体験によるカリスマ化によることが多い。基本経典に依存する場合には、原理主義になり信者を厳しく律するようになることが多い。

 さて、そこで日蓮宗を考えて見た。法華経を重視する観点では、日本天台宗の原点に戻っているように思う。しかし、経典自体を尊んだり、日蓮大菩薩等と言うことは、開祖の霊的体験のカリスマ依存と言うことになる。これは、最澄のもっとも嫌ったことであり、比叡山の僧兵が、異端排除のため日蓮宗徒を攻撃したのも、分からないことは無い。

 このような、宗教の異端排除のための武力行使は、宗教の常識であるが、日本では非常識になっている。比叡山の皆殺しの前に、天安法華の乱で京の町衆を皆殺しにした、比叡山の僧兵についても理解しておく必要がある。ここまで平和な宗教にしたのは、織田信長~徳川幕府の一連の政策が効果を発揮したと思う。

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2008年7月11日 (金)

失敗力

 昨日にも書いたが、失敗の上手下手で被害者が、変ってくる。これは、ソフトウエアのプロジェクト管理と言うか、上司の物分り度という問題とも関連している。本当に、上手な失敗と言うのは、軽微な失敗の奥にある真因を探り、対策を打つことである。しかしこれは、難しい。

 それでは、下手な失敗と言うと、どのようなものがあるだろう。残念ながら、この例は多い。例えば、日露戦争前の、「八甲田山の死の行軍」がある。これは、新田次郎氏の小説になっている。これは、無理なプロジェクトを押し付けられた、部下の対処法として、最悪の失敗型であろう。このような場合、上司の想像力と言うか、論理的思考力が乏しく、最悪の事態を自分で体験しないと、対応が分からないパターンである。ただし、この場合も、事前の下見を、最悪の環境で行い、ある程度の軽い被害を出すことで、上司の目を覚ますことが出来たかもしれない。

 そういう意味では、上手な失敗といえば、皆が認識できて、しかも被害が最小で、今後の知見を得ることが出来るものである。

 しかし、上司がもう少しましなら、こんな手間もかからないのにと言う声が、色々な崩壊プロジェクトから聞こえてくる。

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫) 八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

著者:新田 次郎
販売元:新潮社
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2008年5月 8日 (木)

マスコミの権力

 マスコミと言うものは、この国では大きな権力を持っている。しかし、当事者がそれを理解していないような感じがする。この国を動かしているのは、『空気』と言うが、その『空気』の1極を担っているのは、マスコミである。

 我々凡人は、マスコミで取り上げられたと言うことで、それなりの権威を持って見る。そういう意味では、記者の着目と言うことは大きな影響力を持っている。そういう意味では、記者の持っている、デジカメの情報を解析したら、どれほどの情報を得ることが出来るであろう。

 しかし恐いのは、マスコミ関係者がこの権力を意識していないのでと思う節がある。

 マスコミに、ノブレス・オブリージュと言うことを、もう一度考え直して欲しいと思う。

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2008年4月22日 (火)

才能と素質について

 才能と素質について、一寸気になったので調べてみた。

 才能:物事をうまくなしとげるすぐれた能力。技術・学問・芸能などについての素質や能力。

 素質:(1)持って生まれた性質。(2)将来あるものになるのに必要な能力や性質。

 つまり素質は生まれつきの要素が大きく、才能は後天的に身につけるものもある。

 ある武術の本では、素質は体の動き、才能は良い動きを見分ける能力と書いていた。そして、才能がないと、良い師匠を見分けることが出来ない。そのため努力の方向が正しくない。

 努力の方向付けを自分でおこなうのが、一番の才能というのは、納得してしまう。

 

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2008年3月31日 (月)

ニックネームの効果

 スポーツの訓練で、各人に『司令塔』等のニックネームをつけることで、自己イメージを作らせる手法があるという。これは良い方法だと思ったが、これが一人歩きすると、一寸恐いことになりそうだ。

 山本七平氏の言う、『空気』の発生が、このようなラベルの一人歩きが、一つの原因だと思う。そういう意味では、この国は色々ラベルを貼るのが好きな人が多いと思う。

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2008年1月 6日 (日)

小説で経営勉強は?

 経営者の愛読書に、司馬遼太郎氏の歴史小説が、挙げられる例も多いと聞く。また、NHKの伝説的人気番組に、プロジェクトXがある。私も、この両方に熱狂したことがあった。しかし、冷静に考えると、これは非常に危ない話しである。特にプロジェクトXに明確であるが、多くの話しには、一貫した

 「経営的戦略ミスで、軽く見られた分野を、現場の頑張りで突破し成功する」

と言う図式がある。確かに、

 「経営的な戦略判断で、事前投資をきちんとして、当たり前のこととして成果を出す」

では、テレビ番組にはならないかもしれない。しかし、経営者はこれでないと困る。

 このような観点で司馬遼太郎氏の、坂の上の雲〈1〉 (文春文庫) を見ると、馬(騎兵)の使い方は、高速移動の奇襲しか見ていない。騎兵には、機動性を重視する"軽騎兵"と、相手に優越した武器の重装備で圧倒する"重騎兵"がある。現実の『坂の上の雲』の主人公、秋山好古は、機関銃を騎兵部隊に装備させると言う、バランスを持っている。しかし、どうも司馬遼太郎氏の評価は、奇襲・奇策を重視しているように思う。旅順攻防戦でも、乃木将軍の採用した、正攻法の塹壕作戦を評価せず、二百三高地決戦主義を取っている。

 これは、日本陸軍の日露戦争以後の戦略に合致している。確かに貧乏国であるから、装備の充実ばかり欲しがってはいけない。従って、奇襲に頼り、兵隊の超人的な働きで勝利を収めるのが良いとする、価値観を持たざるを得なかった側面もある。その明確な形は、山本七平氏も指摘している、「陸軍内部の乃木将軍無能論」である。

 確かに、少ない装備・寡兵で戦って勝つのは、英雄の条件かもしれない。しかし、自分の持つ経営資源の投入をきちんとして、静かに進んでいくことが、本当の経営者だと思う。このような話は、小説に書いても売れないだろうが、本当の経営は波風なしに、自然に進んでいるように、見えるのではないか。中国将棋に、"仙人指路"と言う言葉がある。前の方に指した手が、後で大きく利いて、非常に楽に勝てると言うことである。経営者は、部下が理解できないような、大局的な手を打ち、部下を楽にして欲しいものである。

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2008年1月 2日 (水)

kyがはびこる原因

 今時の恐がられている言葉として、「ky=空気が読めない」がある。「おまえはky」と言われたら、仲間はずれにされそうで、これを恐れている人も多い。

 確かに、昔から「場を弁えない人間」は嫌われてきた。例えば、学会の場においても、質問するのはその場の長老各の先生から順番、と言う不文律があり、若輩が質問すると睨まれたものである。もっとも、大会の状況では、質問が出なくて司会者が困り、誰でも良いから質問して欲しいと、すがるような目つきで会場を見渡すことも、特に地方の大会等では見受けられた状況である。そこでも、大先生の意向に逆らうような質問は出来ない。

 さて、これが小学校の教室で行われたら、どのようになるであろう。毎度おなじみの、滝山コミューン一九七四 ではないが、学校で疎外された子供の心は、どれだけキヅツクか、そして教師と教室の『空気』に必死に従うようになってしまう。しかも現在の教育では、『XX障害』と言う教師側の印籠がある。昔は、勉強ができるとよいと言う、一つの逃げがあり、教師よりよく知っている子供の活きる道は、何とか見つけることが出来た。しかし現在は、『高機能性広汎性発達障害等』と言う強力な武器がある。

 例えば、教師の教えていることが、非効率に見える、「インド式計算術」を身につけた子供が、学校に居る場合を考えてみよう。算数の問題演習では、時間が余って仕方がない。しかも先生の間違い等が目に付いてしまう。そこで落ち着きのない行動をしたら、「注意欠陥多動性障害」等と言う、診断が待っている。教師の言うとおりに、おとなしくしない子供に対応する手段が色々ある。

 このような世界で、育った子にとって、空気が読めないのは、「XX障害」の診断を受けるようなものである。

 「そんなの関係ない!」と言いいたい人間が、たくさん居るような気がする。

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2007年12月29日 (土)

日本人の論理の続き

 昨日も、日本人の論理構造について書いてみたが、もっと議論したいことが出てきた。まず、思考実験による考え方は、欧米でも存在する。アリストテレスの自然学に反発して、ガリレオが「落体のスピードは重量と無関係を説明するために、糸で繋がった2つの物体の落下」の思考実験は有名である。また、ニュートンの「りんごの落下と月の運動」も思考実験であろう。

 ただし、これらの思考実験だけでは、厳密さにかけるため、デカルト~ヒルベルトの厳密な、思考の流れが科学の主流として生きている。(しかし、ラカトシュの証明分析では、ラベルの影響を指摘している)

 ここで、明治~昭和の数学教育で、幾何学ですら、定規・コンパスの実験手法で教えていたことの、理由をもう一歩踏み込んで考えてみたい。明治の文明開化の教育は、皆が欧米の進んだ文明を吸収するように、理解しやすい形で教えたのではなかろうか。このための有効な手段は、記号的な論理より、現実的なたとえ話と思考実験である。

 逆に欧米でエリートのものとした、科学的思考を大衆化したのが、日本の教育システムではないかと思う。その結果、擬人化した例え話が多く動くようになっている。

 このような、考えで「日本の空気」を説明できないだろうか。

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2007年12月28日 (金)

日本人の論理手法

 日本人は、空気で意思決定すると言うのは、山本七平氏の指摘である。その理由を考えてみたが、一つは論理構造が欧米の知識人と、一寸異なっている点にあるように思う。日本人の論理は、シミュレーション的な思考実験を、主体にしているように思う。

 欧米では、アリストテレス以来の伝統ある、三段論法に始まる、記号論理の手法がある。そして、ヒルベルトの幾何学のようにきちんとした定義した用語で、議論をするようになっている。一方、日本の幾何学は、定規とコンパスでの作図を土台にした、教え方になっていた。

 しかも、日本は俳句の季語のように、共通感覚や連想を重視する文化がある。この影響で、思考実験の登場物はラベルが一人歩きする傾向がある。そして、だんだん具体的なイメージが膨らんでいく。これが空気を引き起こす一つのメカニズムのように思う。

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2007年12月16日 (日)

司馬遼太郎氏への疑問

 近頃は少し影響が薄くなったが、司馬遼太郎氏の歴史小説が、日本の企業人に与えた影響は大きい。特に幕末から、明治までの一連の著作の影響は大きい。私も、『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』を、愛読したものである。

 しかし一寸気になる点が出てきた。『坂の上の雲』で一つの重要場面である、日露戦争の旅順要塞攻防戦の取り上げ方である。旅順攻撃に関しては、色々な議論が出ているが、大別すると、乃木将軍の採った工兵主体の正面攻撃法と、海軍が主張した二〇三高地攻撃法と、どちらを是とするかに分かれる。司馬遼太郎氏は、後者の二〇三高地攻撃を採り、乃木将軍無能論に組している。確かに『坂の上の雲』の記述は、綿密であり、しかもあとがきで、新資料による指揮者の責任問題の訂正まで、入っている。しかし、旅順攻防戦では、一つ重大な議論が漏れている。それは、二〇三高地攻防戦の前に、乃木軍は既に、別の拠点を占拠し、旅順港内のかなりの部分に砲撃を加えて、実質旅順艦隊を無力化していたという話しである。これがあると、二〇三高地攻防戦の必然性は、大きく薄れてくる。

 確かに、二〇三高地攻防戦は、攻める方の被害も大きいが、守る方も兵力が要塞の外に出るだけに被害は大きくなる。従って、要塞攻防より短期で決戦が出来る、という説もある。しかし、兵力を損なうことが少ないのは、工兵と兵器を集中した、正攻法が優れている。乃木将軍の採った戦術は、最初は白兵突撃で、死者を多く出したが、その後は被害の少ない正攻法で攻めている。その意味では、『坂の上の雲』で書かれている様な、無能な将軍ではないように思う。

 また戦略的に考えても、旅順要塞の攻略は、日露戦争で世界が認める、日本陸軍の勝利である。奉天の会戦などは、ロシア得意の戦略的後退と言えばそれまでである。しかし、難攻不落と世界に宣言した要塞の攻略は、日本海海戦の勝利とおなじ意味がある。これを、奇襲で裏口から落としても、世界が認める勝利とはいえない。

 さて、ここで司馬遼太郎氏は気に入らないだろうが、山本七平氏の指摘を、一つ入れておく。
 「日本陸軍の幹部教育では、乃木将軍無能論が幅を利かせていた」

 この理由を私なりに考えると、日本陸軍が求めたのは、「奇襲により短期勝利」であり、「正攻法の装備を求めず、天才の発想で解決する」である。このスローガンが、
 「足らぬ足らぬは、工夫が足らぬ」
である。これは、予算を使わないで、兵隊の訓練と士官の工夫で戦いに勝てという話しである。確かに、日本の国力を考えれば、分不相応な装備を求めるのは無理である。従って、考え方としては、「装備より訓練で」と言うは間違っているとはいえない。そのために、日本の戦いとして、源義経の奇襲や、織田信長の桶狭間の奇襲を、持て囃している。このような奇襲至上主義が、日本陸軍の宣撫であった。

 司馬遼太郎氏の記述は、どうもこの「陸軍方針」と、一致しているような気がして仕方がない。

 なお、この方針は一部の経営者にとっても、非常に心地よいものである。
  「安易に設備投資を求めず、工夫せよ」
と言うのは、今でもどこか出来終えてきそうである。確かに司馬遼太郎氏の時代は、日本の経済力も弱く、
  「買いたいものが買えないから、何とか工夫せよ。」
  「どこか他所の思いついてない場所から攻撃しろ。」
としか経営者にも言えなかったであろう。

 しかし現在もう一度、正攻法の仕事の仕方を考える時が来ていると思う。

竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫) 坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)

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2007年12月 9日 (日)

民営化への反論

 政府が独立行政法人の民営化を求めているが、各法人の方では、民営化に対する反論が厳しい。

 その一つに、民営化すると、営利に走り各種保護が出来なくなるという議論がある。まるで、私企業悪人論で、マルクス主義そのものである。

 昔山本七平氏が、大学教育のマルクス主義の影響が無いと、述べていたが、今頃になって、当時の優等生達であるキャリア官僚たちが、それを実現しているようである。

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2007年9月 5日 (水)

日本の主体は武士か?

 近頃日本の文化として、武士道と絡めて話されることが多い様に感じる。しかし武士道や儒教の影響は、せいぜい江戸時代や明治以降の話しであろう。

 特に物造りの立場では、石田心学のほうが性に合うように思う。

 「商売人は口を出すな」

と偉そうに言う、学者等を生み出すのは、変な武士的特権意識ではと思う。

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2007年8月26日 (日)

受け入れられない生徒への救い

 前の記事を踏まえて、学校内で荒れている子供の話を考えてみた。今の教育では、成績が悪い場合は救いがないように見える。

 この対策としては、「全人格での教育」が望ましいのは、総論としては良いと思う。しかし、ここで一つの条件がある。今の教育の評価は、「良くも悪くも成績中心」評価である。しかしこれが、全人格教育になると、評価が悪くなると「全人格否定」となってしまう。これでは救いが無い。

 また、逆の見方で見ると、「教育成果が出ない生徒」を、教師がどのように処遇するかも、怖いものがある。山本七平氏の「ヨブ記」の解釈ではないが、「効果がでないのは生徒が悪い」と言う感じで進めると、救いがなくなってしまう。

 これを踏まえて、今本当に必要なものは
 「教える側の不完全さを自覚した全人格教育」
だと考える。これは、教える側には大きな負担であるが、教師の長期的な育成を含めて、対応して欲しいと思う。なお、「不完全さを自覚した、全人格教育」は、終戦直後の学校教育で成立していたと思う。「戦後の教科書墨塗り」の反省を背負いながらの、全人格教育には、良いものがあったと思う。もっとも、自分の反省をせずに、天皇批判ばかり叫んで、さらに押し付けに転向した、困った先生もいたが・・・

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2007年8月 4日 (土)

韓国のキリスト教

 タリバンの人質騒動に関して、前にも書いたが、もう少し補足しておく。http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_58c3.html

 現在の韓国では、キリスト教が全盛で多くの組織が、布教をしているとの事である。布教と言うか、多数派工作と言うか、勧誘と言うか、言い方には色々あるが、
  「勢力拡大のため海外まで出る派も多い」
と言うことである。しかも、キリスト教の原理主義が多いという話である。

 ここまで聞くと、十字軍や南米でのキリスト教の侵略を、思い出してしまった。イスラムの原理主義のタリバンと、キリスト教の原理主義では、戦いになるのは自然の成り行きであろう。しかし、
 「剣か、貢納か、コーランか?」
と言う、イスラム教の布教方針から言えば、人質と身代金と言う解決もあるかもしれない。

 韓国のキリスト教の布教に関して、日本でももっと知るべきではないかと思う。日本は、日本教と言う武器があるので、キリスト教の侵入を、料理したが、韓国はそうではなかった。山本七平氏がこれを見たらどのように、述べるか聞いてみたいと思った。

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2007年8月 3日 (金)

強者は攻撃しても良いが・・・

 この時期になると、戦争に関するニュース・意見が新聞等で色々でてくる。そこで、大切なことは、弱いものいじめは、見苦しいということである。もう一つ指摘しておくと、組織及びそのトップは、強者かもしれない。従って、"帝国陸軍""帝国海軍"や、陸軍指導者であった、東条英機・山本五十六と言うレベルは、批判に曝されても仕方ないと面がある。

 しかし、戦争の前線で戦った個人は、マスコミ等と比べれば『反論の手段も持たない弱者』であることが多い。しかし、軍隊の組織としての罪も、実行犯である個人の罪として糾弾する向きがある。特に、個人としての弁解も許さない糾弾が行われることも珍しくない。

 例えば、南京のいわゆる『百人斬り』報道について考えてみよう。戦時国際法から見れば、一人でも一般人を殺すことは、許されることではない。それは、軍隊としての罪である。しかし、その行動を「戦意高揚として百人斬りの英雄的行為」として、新聞報道を行う。戦後その新聞記事により、写真に載っていた"個人"が、極悪非道の重罪人として処刑される。

 この時、個人としての名誉の回復を行う行為自体が、この国では罪悪のようである。山本七平氏が、某有名新聞の有力記者から、糾弾を受けたのはその一例であろう。組織としての罪はあっても、個人への弁護まで閉ざすのはおかしいと思う。それを言うなら、第4の権力マスコミの、戦意高揚記事の捏造も、A級戦犯として裁くべきであろう。

 なお、朝日新聞の夕刊には、戦時の新聞社の戦争協力振りも、記載している。正当な評価を期待したい。

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2007年7月 9日 (月)

『空気』に関する補足

 前に、山本七平氏の『空気』に関して、書いたが、慶応大学の伊藤陽一先生が、「政府・マスコミ・世論の三極関係」と言う形枠上で、上手く整理していた。

 3極の内、2極が一致すると『空気』が発生する。

 忘れないうちに、記録しておく。

http://www.mediacom.keio.ac.jp/publication/pdf2006/kiyou56/kojin/ito-yoichi.pdf

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2006年10月10日 (火)

「関係の空気」「場の空気」から

講談社現代新書1844の「関係の空気」「場の空気」から、目から鱗と言う感じの表現があったので抜粋する。(p84~p85)

 右派のテロリストは、まず漠然と右派的心情に惹かれるのであろう。例えば、日教組系の教師から疎外されて憎悪を抱いたとか、特攻隊に憧れたとか、戦艦大和の滅びの美学に酔ったとか、きっかけはさまざまだろう。そして、ある時点で「左派」の言動に触れる。そこでショックを受けるのである。
 この人たちは高学歴だ。社会的な地位もある。強者だ。
 強者だから国家に依存することがない。そして不遜にも国家を批判する。
 さらに自分たちが善だと信じている。そして弱者の味方だと言っている。
 だが、この人たちは絶対に自分たちを救ってはくれない。われわれ弱者の本当の叫び知らない。
 そのくせ、大量の言葉をまき散らす。理想を掲げ、美辞麗句を並べ立てて、それ以上に反対派を舌鋒鋭く攻撃する。その言葉が気にくわない。その言葉はわれわれを敵視している。その言葉は醜い、だからわれわれは沈黙せざるを得ない。

この文章は、学生時代に運動家に罵倒された、私に何となくしっくり来る。物理的な暴力は色々と批判されるが、言葉の暴力に対しては甘い国ではなかろうか。もっとも現在は少し風が変わっている。昨日の北朝鮮の核実験に関しても、数年前なら、制裁案に対して、徹底的に罵倒する政党があっただろう。

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2006年10月 7日 (土)

「空気」論の補足

「関係の空気」「場の空気」から

この本は、アメリカで日本語を教えている著者の経験から、日本語と「空気」の関係を解き明かしたもので、参考になるものが多い。以下に内容を抜粋する。

まず、1:1の場合は「関係の空気」、3人以上の場合は「場の空気」と分ける必要がある。「関係の空気」は親密性を維持するため、むしろ必要なものであるが、「場の空気」は問題がある。現在、1:1の「関係の空気」は日本語が「窒息」ししつつある。一方、「場の空気」はまだまだ猛威を振るっている。これを日本語の実際を通じて検討している。

第1章 関係の空気
 話し手と聞き手の間で共有されている情報が濃密な場合は、省略表現で強い共感表現になっている。腹芸もこの一つ。ここで大切なことは、双方の地位が対等である必要がある。共通の価値観で話が進む。

第2章 日本語の窒息
 「空気の欠乏」は関係の閉塞でこれが多くなっている。例えば、書面やメールの一方的な押し付け、言葉の暴力など・・・ 日本の会社での解雇がこうなっている。
 昔の自殺の遺書は名文が多い。今は言葉が死んでいる。切れやすい人の増加、気まずい雰囲気、『バカの壁』の「ディスコミュニケーション」等も、日本語の窒息の一例である。
 現在の「勝ち組」の言う「コミュニケーション力」は、本当は何か?
 狭い勝ち負けで、自分の意見の押し売りではないか?
 「沈思黙考型」の技術者集団の良いものを、経営陣と間で通訳して、引き出す管理職の力が昔はあった。職人集団を生かす人材がいない。左派の饒舌は右翼を沈黙に追いやっていたが、今は右派が饒舌になっている。
 日本語の新語は急激にネット上で生まれ陳腐化している。
上下の関係の「ですます VS である 」コードスイッチ話法が流行しているが、上から下にしか使えない。

第3章 場の空気~空気の研究から三十年
 まずは、山本七平の空気の理解が必要である。しかし、現在も「空気」は猛威を振るっている。長時間労働の原因に「空気」が存在する。
教育現場でも「空気」は猛威を振るう。下克上に対して厳しい日本教師に比べて、アメリカでは「良い質問」と受け流す。

第4章 空気のメカニズムと日本語
 関係の空気は、悪いものではない。「例の件」で通じる関係は、共感で通じる世界を作る。しかしこれで、3人以上で一人が、「例の件」を理解できないと、彼は仲間はずれにされる。
 空気発生器の一つは、略語・造語がある。スーローガン作りは、簡略表現というのが常套手段だが、うっかりすると形骸化して骨抜きになる。「ダラダラ残業追放」が「ダラ残追放」になり、「単なる残業時間規制」に落ち込んでいく。「リストラ」も同様な変化を生んでいる。
 場の空気の問題点は、権力構造が絡む点である。「例の件」と言う表現は、上司しかいえない。これを理解していない人間は、上司を理解していない人間と、ダメ人間化する。公的な場での表現をわきまえない人が多い。

第5章 日本語をどう使うか
 5つの提案
その1:ちゃんと語れば日本語は伝わる。
  聞き手に配慮し、饒舌なぐらいに説明する。
その2:失われた対等性を取り戻すために敬語を見直す。
  尊敬することで相手も受け入れ対等になる。
その3:教育現場では「です、ます」のコミュニケーションを教えよ。
 この教育が、対等性と適切な距離のおき方身につける。
その4:ビジネス社会の日本語を見直すべきだ
丁寧語に統一する。
その5:美しい日本語探しはやめよう
 これは、情況で変わる。共通的なものの押し付けはやめよう。

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空気の研究追加

空気に関して一冊新しい本が見つかった。

「関係の空気」 「場の空気」 「関係の空気」 「場の空気」

著者:冷泉 彰彦
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

著者の意見では、空気は日本語の使用法と密接に絡んでいる。

納得してしまった。

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2006年10月 5日 (木)

「水」の検討(補足)

先般からの山本七平氏の「空気」と「水」の話に、もう一つ思いついたことを書いておく。

「水」の良い働きをもう一つ述べておく。日本の企業現場では、根回しをしておかないと、どんな良い理論も受け入れない特性がある。これは、革新的なものがとり入れにくいが、指導者の思い込みによる暴走を防ぐ効果がある。

別項でも書いたが、アメリカでは大学や大学院卒業で直ぐに指導的立場に立って、自分の方式で部下を指揮する。この場合失敗も多いであろう。この場合に間違った指導者についた部下がかわいそうである。

日本人ならこのような発想になるが、欧米ではどうであろうか。どうも、レーバーに対しては、賃金を払いさえすれば良いと言う感じがする。

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2006年10月 2日 (月)

「空気」の研究に思うこと

先般からの、「空気」の研究、について考えることを、書いておく。

まず、「空気」に関しては、擬人化した『何ものか』に対する感情移入が、原因というのが山本氏の説である。このような、考え方として、一つは真言密教の理趣経を聞いている感じがした。なぜなら、理趣経では、仏の色々な機能が、一人一人の菩薩等の形で、具体的に語りかけるからである。このように機能を人格的に具現化する発想は、神話や宗教では、充分ありうる話である。

一方、「水」に関しては、「空気」より威力があると感じた。これは日本国特有の武器であると思う。仏教も日本化し、和魂漢才、和魂洋才を実現したのは、この「水」の力だと思う。さらに、日本の文明を、外来文明から守り抜いたのは、「水」の消化作用だったと思う。これなしでは、原理主義による武装闘争を持って、文明を守るべきところを、「和をもって」丸く治めたのである。

「水」の正体として、情況倫理・論理があるというのは、村社会の同一発想の効果も大きいと考える。そういえば、雅楽もお互いの演奏に思いやりをもち、共感を持って演奏している。ただし、西洋文明が、きちんとした論理で推論を進めるのは、デカルト以降だと思う。日本で言えば、関が原の戦い以降である。

なお、情況論理に関して言えば、トヨタのナゼの追求は、情況に関して行っているように感じた。
   「その時はナゼそうしたか?」
これを単純に論理だけで、追求しても納得がいかない。トヨタは日本的な企業だったなと、再認識した。

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2006年9月30日 (土)

「空気」の研究への意見(その4)

今まで、空気の研究の山本理論を簡単にまとめてみたが、色々と参考になる。しかし、異論もあるので、少し突っ込んでみたい。

まず、山本氏は新井白石の洋学導入を述べているが、それよりもっと昔の伝統がある。まず明治の「和魂洋才」の原本は、遣唐使の時代の「和魂漢才」である。さらに、仏教伝来まで、日本の「水」は海外文明を上手く消化してきた。 確かに、
  「これが仏教?」
と言う質問は、日本仏教の大部分に当てはまるのではないか。神仏習合などもその際たるものである。そういう意味で、文明消化の天才と言えば、
  一に聖徳太子と弘法大師で三四がなくて、五に新井白石
といえるのではないか。

なお、日本仏教で原理主義者と言えば、最澄・日蓮の系譜があるだろう。日蓮大上人は、天台宗の原点復帰改革を考えていた。つまり、比叡山開祖の伝経大師(=最澄)の法華経信仰への原点回帰である。但し、日蓮宗でも三十番神が入り、お経を読む前の勧請でも、「日本国内の神祇」と言う表現がある。つまり、経典への原点回帰かは疑問がつく。
しかし、日蓮宗で不受布施派が生まれたのは当然かもしれない。逆に言えば、他の宗派が相互に寛容になってしまったのが、徳川政治の成果かもしれない。これについては、また改めて書く。

さて、日本人の論理が映像的という話には、西洋論理の成立より前に、弘法大師は種智院を創設していることを指摘しておく。西洋思想は、デカルト以降の確りした言葉で、論理を展開しているがこれより前に、真言密教の確りした教育システムが成立している。

弘法大師の真言密教システムは、曼荼羅等の映像的情報、体を使った行そして経典の勉強、と総合的に学べるようになっている。このような総合的な思考法は、現実性を失わずに考えるので、より安全と思う。ある意味で山本氏の黙示文学に近いかもしれないが、もっと優れているように思う。

特に視覚の情報は、言葉情報より遥かに大きく、総合的であり、イメージ上の伝達は、単なる言葉での伝達より遥かに情報が多い。現在の、コンピュータグラフィックスが普及した世界では、画像的思考・シミュレーションが充実し、日本的思考・意思伝達が、予想に弱い欠点を克服して、大きく花を開くように感じる。日本のアニメが、世界で評価が高いのはこの一面かもしれない。

なお、今回「空気の研究」を読み直して、再認識したのは「水」の効果である。日本で新しいものを導入するためには、「水」を変える、または「水」とうまくやることが重要と考え直した。

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「空気」の研究の続き(その3)

さて、「空気」の研究の第3部は
 日本的根本主義について
となっている。現在なら「原理主義」の方が通りが良いかもしれない。

まず「進化論裁判」の話から始まる。このような、
  「宗教の原理を真実として受け入れそれに従わない教育を訴える」
という姿勢は、我が国には求めにくい。山本氏は書いていないが、日蓮宗の不受布施派なら、これぐらいはやりかねないが、これは徳川幕府に大弾圧を受け、しかも国民も支持した形跡がある。一つの論拠としてキリスト教弾圧ほど記述に残っていないことを挙げておく。

さて、山本氏は日本の根本主義は、新井白石→伊藤博文の、
 「聖書絶対と合理性」は分かちがたいのに「合理性のみ分離した日本へ導入」
した手法を挙げている。つまり「和魂洋才」であるが、これが国際文明の衝突時点で、いかなる妙技であるか、日本人は理解していない。

この部分は、私の意見でもう少し突っ込みたいが、別途項を改めて話をする。山本理論に戻る。

日本時の特徴は、
「情況を臨在感的に把握し、それによってその情況に
 逆に支配されることによって動き、これが起こる以前に
 その情況の到来を論理的体系的に論証してもそれでは動かないが、
 瞬間的に情況に対応できる点では天才的。」
と言っている。もう一つの言い方では、
 「論証に納得してもそれで態度を変えず、一枚の壮大な写真に反応する。」
とも言っている。

このような映像に対する反応は、黙示文学など世界中にあるが、日本は激しい。

一方、言葉による思考が制限されているので、日本人の未来予測能力は限られている。一部特殊な言語を使う集団内では、予測ができるがそのような世界では、一部のエリートだけが予測し、民が従う世界になるのではと、山本氏は憂慮していた。

その3 終わり  これに対し私の意見を続編で書く

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「空気」の研究の続き(その2)

「空気」の研究の続きを少し。
まず明治の文明啓蒙では、「霊的な支配」は「ないもの」とした。しかし実際は、ご真影への遥拝など、空気の支配は残っていた。ただ「ないもの」としているので、表立った対策はできなかった。

これに対し、戦前までは、『水を注す』ことで現実に戻る、ブレーキが存在した。水=現実性の話で、皆が冷静になるようにしていた。ところで、日本世界ではこの『水』も猛威を振るっている。「空気」の研究、より少し引用する。

<引用>たとえば内村鑑三はこの作用を一種の腐食にたとえ、日本は雨が多いから、外来のどんな思想や制度もたえず「水」をさしつづけられて、やがて腐食されて実体を失い、名のみ残って内容は変質し、日本という風土の中に消化吸収されてしまうという、面白い観察を述べている。<引用終わり>

このような日本化は、古くは仏教から、近くは「日本共産党」の変貌までを、同書では「(日本的・無意識的)通常性的作用」と呼んでいる。「空気」で暴走していても、ある事件で外れると、この「通常性」が力を発揮するのが日本の力である。

「この後ろには、日本的情況倫理と情況論理がある」と言うのが、山本式日本人間である。日本人の議論では、「あの情況ではそうするしかなかった。=自分は正しい」と言うのが多いが、これは情況倫理(論理)で、世界で同じ発想が通用しないことが多い。
このような空気も水も、「虚構の世界」の支配が力を持っている。「いつも芝居を見ている日本人」と言う図式である。

ひとまず区切って続きはその3で

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2006年9月29日 (金)

「空気」の研究について

山本七平氏の「空気」に関して、もう少しまとめてみる。

まず彼は、
 「日本人の最終決定者は『空気』である」
 「日本人には『抗空気罪』があり、軽くても村八分になる」
 「我々には常に、論理判断と空気判断の二重基準で生きている」
 「空気は、臨在感的把握に基づく判断基準で醸成される」
 「擬似人格を持つ物心論的発想に基づく宗教的決断が、空気の表れ」
と言うような議論をしている。

つまり、「擬似的人格を持つ何物かを感じ、それに対する宗教的判断が空気」である。いいかえると、「感情移入の絶対化」である。このように自分の信じることを、絶対視するおっちょこちょいが日本民族の特徴である。

キリスト教など一神教の世界では、絶対者は神だけで、後は相対的である。更に偶像などは徹底拒否する。われわれは、アニミズムの世界の住人なので、空気の拘束が厳しい。

明治時代までは、『空気』に対抗して『水を注す』知恵があったが、戦後の論理主義をかぶると、『水』すら通用しない強固な『空気』になっている。

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2006年9月28日 (木)

日本人における「空気」

山本七平氏の空気の話は面白い。彼の意見には、大衆意見が暴走するときは「空気」で決まってしまう。但し、それを止める「水を注す」のが日本人のバランスである。

「空気」の研究 「空気」の研究

著者:山本 七平
販売元:文芸春秋
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 これを、「空気」の暴走で有名な、太平洋戦争でIFを加えて作ってみよう。舞台はミッドウエー海戦である。史実では、日本海軍の空母を4隻失い、これ以後の戦いは勝ち目がなくなったと言われている。特に、この作戦では、山本五十六司令長官が、作戦ミスを陸軍などからごまかすために、沈んだ空母をごまかし過大な戦果を報告した。
<概要>
 空母が沈められたと言う報告を受けた、連合艦隊司令部は、そのまま主力の戦艦部隊をミッドウエー島に急行させ、艦砲射撃でミッドウエー島の米軍部隊を降伏させた。

 連合艦隊司令部は、大本営に対し空母4隻を失い、今後の戦争継続は難しいが、ミッドウエー島の降伏という状況で、講和を提案する。

 空母4隻の沈没で、「水を注された」帝国陸海軍は、対米講和の交渉に進んだ・・・

<終わり>

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2006年7月 6日 (木)

2大先生の馬の使い方

このブログで時々取り上げる、『坂の上の雲』について、今度は別の側面で考えてみたい。この小説の一人の主人公は、騎兵隊の生みの親である秋山好古旅団長である。

「坂の上の雲」では騎兵の活躍を取り上げているが、騎兵の機動性を重視しているように思う。これは、どちらかと言うと、軽武装で素早く動く機能を求めている。確かに、馬の機能の一つは速さである。

しかし、馬のもう一つの機能として、多くの荷物を運ぶ能力がある。つまり重武装の騎兵部隊である。歩兵が運ぶ以上の大量の兵器を運ぶ能力は、戦場においても大きな力を発揮するであろう。

馬のこの機能を、指摘していたのは”山本七平氏”である。

このような2つの長所がある場合に、どちらを活用するかは難しい問題である。片方だけ割り切る方が有効な場合と、総合的な発想が必要な場合がある。最低限、両方の観点があることだけは、知っておくべきであろう。

司馬氏と山本氏の視点の違いは、両氏の従軍経験によるのかもしれない。司馬氏は、戦車兵として、本当に動けるのか悩んだし、山本氏は人力で物を運ばされて、馬の運搬能力を欲しがった経験があるからではなかろうか?

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2006年1月 3日 (火)

日本人の論理の続き

日本人の意思決定には、山本七平氏の言う所の「空気」と「水」が、大きく作用している。この「空気」は説明できない点で、ポランニーの言う所の「暗黙知」に近い感じである。しかし、暗黙知の方はあまり表に出ないが、「空気」は積極的な圧力として働いている。

「空気」を作るには、曖昧なイメージでの共感が、一番効果的である。一方これで、皆が熱狂している時に、「水」を注すのは、より具体的なイメージの効果である。

このような、イメージの共有は、単一言語の民族である日本人や英国人に多いが、日本の場合はより「村」的な協同意識が働いている感じがする。

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