ご縁のあった人たち

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2020年9月22日 (火)

西洋文明の「支配者」とは

 アリストテレスの「詩学」を読んで、プラトンの「国家」との違いに、少し戸惑っている。プラトンの考えでは、

「哲学がイデアに迫る最善の手段で、詩は劣った手段である」

となっているが、アリストテレスの発想では

「悲劇は神の意向を展開したモノ」

という感じで、哲学と同じレベルに置いている。私個人の今までの偏見では、アリストテレスの方が、「哲学者優位」を言いそうだと思っていたが、諸学に通じた立場では、詩についても平等に評価したらしい。

 しかしながら、西洋文明には

「優れたモノが大衆を導く」

という発想がある。更に言えば

「市民と奴隷の違い」

があり、

「支配者の立場を根拠づける、理論武装としての学問」

という伝統が潜在しているように思う。

 昨日ちらっと書いたが、奴隷制度の根拠になる、人種差別には、『(科学的に)劣性と判定された人種』を、『有能な人種が支配する』という、『科学的』根拠付けが行われていた。その後継者が、ヒットラーである。

 しかし、よく考えてみると、西洋文明には、オリエントの宗主権契約の時代から、支配者の正当化の理論を探していて、学問もそれに使われていたように思う。

2020年9月18日 (金)

記述が難しいモノをどのように表すか

 近頃、社会科学の実用化について色々と考えているが、根本的な問題として

「社会科学の対象とは何か?」
「それはどのように表現されるのか?」

と向き合ってみた。

 この問題を

「関係や動き、そして働きを、どのように記述するか?」

と具体化してみた。もう少し、物理学と比較すると物理学では、

「対象の物体は明確に存在する。」
「物体間の関係は数式で表される程度に明確である。」
「動きに関しても、微分などの数学的道具が備わっている。」

という恵まれた条件がある。

 一方、社会科学の場合

「対象は社会という曖昧なモノ」
「関係や動きを数式で記述すると、部分的な表現となる」

という段階である。

 このような社会科学の記述には

  1. その世界のモデル(舞台と登場人と登場物)を作り
  2. その上での典型的ストーリーを展開し
  3. 一般的な規則を見いだして理論化する

段階を踏む必要があるのではないかと思う。

 もっと言えば、登場(人)物の特性(本性)を、きちんと記述し、その一般性を見いだすなどの手順があるかも知れない。これは、ソフトウエアでシミュレーションする側の発想に近い。

2020年9月16日 (水)

実現重視の日本と体制から入る西洋文明

 先日書いた、明治の日本の近代化

「先に人材育成を行って、その後役所を作る」
例えば
「帝国大学が先にでき、その後に文部省ができた」

という風な、

「実現のための人材育成を先に行い、人材が揃えばその後は組織を作る」

発想である。これは

「組織を先に作り、人材を募集する。調達する。」

発想とは根本的に異なっている。この発想について、議論していくと面白いモノが出てくる。まず、明治維新に関しては、

「松下村塾など、人材育成の場が、社会を変える母体になっている」

という面がある。しかし、これだけではない。日本人の発想の根本に、

「全体を観て、実現可能性をきちんと考え、その後で実行する」

がある。今回のコロナ対応でも

「PCR検査を抑える。なぜなら、陽性者を受け入れる体制が整っていない。」

という発想で、諸外国から

「日本のPCR検査比率は低いので、発症者数は怪しげ!」

という批判を、のらりくらりと躱しながら、医療崩壊を回避した行政手腕がある。

 このような、

「実現体制まで、総合的に観てから動き出す」

体質は、日本の美点である。ただし、

「緊急事態への対応が遅れる」

リスクをきちんと認識しないと行けない。

2020年9月 8日 (火)

日本文明の根本に「建前と本音の二層構造」がある

 山本七平の思想には、

「承久の乱が日本の革命」

という考えがある。これは大事な発想だと思うが、

「貞永式目に始まる固有法」

という議論に関して、少し疑問に思う事が出てきた。

 私の言いたい事は

  1. 律令制度の公地公民は「建前」で実質生きていない
  2. 荘園制度など私有地は「本音」として生きていた
  3. 建前の律令制度は、中華文明に対して見せるモノである
  4. 国の運営は「本音」で行ったから、科挙なども導入しなかった

という、「建前と本音の二層構造」が、律令制同導入の初期からできていた。もっと言えば、

「中華文明とのお付き合いの仕方で、建前のショウルームを上手に創って見せていた」
「国の運営は、本音の世界で無事行っていた」

という、中華文明との上手い付き合い方が、日本教の本質の一つだと思う。

 この発想なら、

「固有法は貞永式目を待たずに、荘園運営などの経験則で生まれていた。」
「北条泰時の時代に明文化した。」

という言い方ができる。

 

2020年9月 7日 (月)

日本の意志決定機構についてどこまで公開されているか

 諸外国の人たちには、日本の意志決定機構がわかりにくいと、言われる事が多い。先日は、自民党の意志決定機構が見えないと書いたが、これは自民党に限った事ではないように思えてきた。

 もっと言えば、裁判や国会審議でも

「予定調和の筋書き通りの芝居を見る」

コトが多い様に思う。もっと言えば、

「江戸時代の御前将棋は、事前に対局して、その結果を並べるだけ」
(考慮している時間を見せて待たせない)

という雰囲気で、

「綺麗事の場面だけ見せる」

ことになっている。

 もう少し言えば、

「日本の権力の役割」

についても、

自分の意向を前に出して引っ張る
「西洋文明のリーダーシップ」

と違うモノがある。日本のリーダーは

「皆に意見を言わせて、それを採用する」
「皆の意見を承認する」

機能が重視されている。従って、

「リーダーからの発言はない」

という形が多くなる。

 なお、明治維新の時のように、

「極論対立でどうしようもないときには、天皇陛下のご意向が決着」

という事例もあるが、これは混乱時の例外的なモノだろう。(室町時代は、幕府の仲裁機能が弱く混乱を招いた。又幕末に関しても、幕府の蹴って気力が無くなったから混乱した。)

 このような、権力の見方は、西洋文明と少し違っているように思う。

 

2020年9月 4日 (金)

動機付けに関して西洋文明と大乗仏教の文明の発想の違い

 昨日の続きで、動機付けについて、西洋文明的発想と、大乗仏教的発想の違いについて議論しておく。

 西洋文明的発想なら、動機付けならマズローの理論などが出てくる。

https://motivation-up.com/motivation/maslow.html

 しかしながら、この議論の根底には、貨幣経済社会などの西洋文明が前提にあり、しかも

「人間は神の智慧には及ばない」

という諦めがある。又、マズローの5段階説を見ても解るように、

「できるだけ単純な項目で考える」

という発想がある。

 しかし、現実社会をこのように単純化してみる発想がよいのだろうか?

 例えば、会社生活においてて、管理職になる動機付けを考えてみよう。

「出世したい」
「給与が上がる」
「他の皆に遅れたくない」

等の単純な理由だけで出生したがる人間は、どれほどいるだろう。

 管理職の重み、責任を感じたとき、色々な悩みがある。しかし、

「その部門の重要性」
「働いている人たちの個々人の立場」
「他の人間が管理者苦になるリスク」(不適切能力者のリスク)

等色々な事を考えて、悩んだ末に受け入れる人は、よい管理者になる可能性が高い。

 さて、ここで大事な事は、大乗仏教的な発想である。大乗仏教には

「誰もが仏の智慧を持っている」
「仏の智慧とは全てを自分のモノとし、衆生を我が子のように見る智慧である」
「この智慧で社会をよくすることができる」

という発想がある。少なくともキリスト教の

「神の世界への到達不可能限界」

とは別の、可能性を拓く発想がある。

 又、これと併せて、色々なモノを見るとき、具体的に多様な見方をする。例えば、管理職が部下を見るときも、

「契約した機能を果たす部下」

という見方が、西洋文明の経営学敵味方なら、日本的管理では

「個人としての生活のある部下」
「将来的な成長可能性のある部下」

等の、血の通った見方になる。

 こうした、実体観の上で、

「皆のためになる」

という動機付けを行うなら、強い力を得ると思う。

 もっと言えば、仏教では

「皆を救う」

という発願がある。この力は、西洋文明的なモノより強いのではないかと思う。

2020年9月 3日 (木)

全体の幸せが自らの幸せになる

 昨日書いた、江戸時代の豪農や豪商の働きに関連して、もう少し踏み込んで考えてみた。

 まず、西洋文明に縛られた私が、先に思いついたのは、

「投資と回収の発想」

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-939bb8.html

である。

 しかし、これは金銭的尺度に縛られているように思う。もう少し言えば、単純化したモデルの思考法で考えている、という西洋文明の

「分けて考える」

という発想を実践している。

 しかし、江戸時代の日本人の発想には、大乗仏教の教えなどが、染み込んでいる。例えば、お経を唱えた後

願わくばこの功徳を持って、遍く一切に及ぼし、我らと衆生と、皆伴に仏道を成ぜん
国土安穏、万民豊楽、功徳の余慶を持っては先祖代々の諸精霊に回向し、それがし家運長久~~

という風に、

「まず全体がよくする、その後個人の事を考える」

と言う発想が体質になっている。

 このように考えると、江戸時代を現在のマルクス史観などで見て

「地主に搾取される水呑百姓」

という図式トは別の世界が見えてくるように思う。

 もっと言えば、動機付けに関しても、現在的な発想でなく、大乗仏教の「発願」という発想で見た方がよいと覆う。

2020年9月 2日 (水)

意味をどこで見いだすか?

 先日から、社会科学におけるモデルの役割について、考えていたら、色々なモノがつながってきた。そこで、まだ荒削りだが、思いつくところを書いておく。

 まず一つ目のアイデアは、社会科学のモデル論から来た

「物事の意味はそのモデルの上でで考えるべき」

である。自分が感じる意味、というのではなく、その物事が起こった状況をモデル化し、その上で考える。

 もう一つのアイデアは、江戸時代の豪農や豪商の働きで思いついたが、

「社会全体がよくなる事が自分の幸せ」

という発想である。これに関連して、仏の慈悲について

「太陽の光のように遍く照らす」

という発想が、

「個別の一対一の関係でなく、社会全体への影響」

という形で見えてきた。これは逆に言えば、

「西洋文明の物理学モデル=一対一の関係の簡略化」

で表せないモノを見直す考えである。もっと言えば、西洋文明的に

「局部的な関係に集中して考えすぎ」

という私たちの思考の偏りをただす。こうしたときに見えるモノがある。このような感じがしてきた。

2020年8月31日 (月)

私たちが学んだ江戸時代は偏っているのではないか?

 先日から、日本の歴史を見直していると江戸時代の、町人文明について、私の理解がない事に気がついた。更に言えば、豪農などの文明への貢献についても、理解ができていない。この理由は、学校教育が偏っているからだと思う。

 一つは、権力体制を重視し、法制度などのが整ったものを対象に教える。つまり、江戸幕府の支配だから、幕府と各藩の支配が主な話となる。もう一つの偏りは、マルクス主義史観である。つまり、搾取する地主と、支配される小作人という図式である。このような、

「水呑百姓の悲惨な生活」

という一面的な図式で描く農村社会、このようなイメージしか浮かばない。

 しかし、よくよく考えてみると、大阪の淀屋橋や道頓堀は、豪商の力でできた。さらに、多くの農地が、豪農の力で開拓されている。これは、当時の豪商や豪農の富裕層が

「将来のための適切な投資を行った」

結果と考えてもよい。つまり、資本主義の基本である

「投資と回収のセンス」

が既にあったと見るべきではないかと思う。

 更に言えば、江戸時代は一応鎖国という、かなり閉鎖的な経済状況である。そこで、

「持続可能な経済成長」

を行ったとしたら、これも現在学ぶべき者が大きいと思う。特に、国土環境を護りつつ、持続可能な成長ができたのかは興味深い。

 なお、一説によると、

「山の木を燃料として購入する豪商のために、多くの山が荒れ果てた。」

という側面もあるらしい。この観点で見れば、明治維新の新たな意味づけもでるかも知れない。

 日本の文明は、環境との共存が大切だと思うが、山を壊した報いが、明治の大変革というのは、一つの可能性である。

2020年8月30日 (日)

本当に護るべきものは国土という発想で地方創生を考えてみた

 首相の退陣の話が出て、色々と政治が動きそうである。この機会に、この国のあるべき姿について、少し考えてみた。

 私が考えたこの国のあるべき姿は、

「風土を大事にした持続可能な国」

である。つまり、

「環境問題なども考慮した国土の運営であるべき」

が私の主張である。日本という国は、これまで何とか持続してきた。特に

「水などの資源に恵まれ枯渇させずに来た」

という、持続可能性を維持してきた。これは、世界の中でも誇るべきコトである。逆に言えば

「水と安全はただ」

という発想の「お花畑住民」という側面もある。

 しかしながら、現在の日本を見ると、この水と安全が、色々な面で脅かされている。梅雨時の水害などが、その典型である。

 私は、この原因を

「国土が弱くなっている」

と考える。もう少し具体的に言うと

「山が死にかけ、木々の力がなくなった為、土も弱くなった」

状況が、治水上のトラブルや、山崩れを起こしていると思う。

 このように考えると、現在の緊急課題は

「山を救う!」
「林業の復権」

である。このため

「公共投資を活用して、国を護るために、山の保持と林業を活性化させる」

事が第一優先である。そのために、必要な人材や、ロボット等も投入すべきである。更に言えば、山のメンテの人たちが住むための町作りはどうあるべきか、そのためには農業なども活性化すべきという議論も出てくると思う。

 既存の枠組みを外し、国土を護るためにはどうあるべきか、根底から考える時が来ているように思う。

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