ご縁のあった人たち

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2020年7月 1日 (水)

正しいものは作られたもの

「正しいと言い切れるモノは作られたモノだけである」

この言葉は、社会学の祖と言われている、ウ゛ィーコが、デカルトの厳密なる思考方に対立して言った言葉で、人間の力の限界を示している。確かに、自然界の物事で

「正しい」

と言い切れるだろうか?何らかの不確定要素が存在する。これに対して謙虚な対応を求めた言葉であろう。

 しかし、これは西洋文明の、人間の力を有限とする立場である。仏教の一部では、人間の力を仏の力と同じと見る。

 法界体性智と言うように、「法界」自らの体であり性である。この力で創造し、その責任を取る。これが仏の力だと思う。だから、「正しい」と言い切れる。

2020年6月28日 (日)

緊急出版:Kindle版 「日本教的リーダーシップ」

 今まで書いていた、日本教のリーダーシップについて、このたびKindleで出版しました。

https://www.amazon.co.jp/dp/B08BXQDJLD/

日本教の元では、指導者が、全体像を持たないと行けないという議論です。

 今回急いだのは、コロナ対策の話と、東京都知事選に便乗という話もあります。

 なお、もう一つ別の理由として、私が明日より、天疱瘡の治療のため、一ヶ月入院することになったので、それまでに出したかったからです。

 また、来週からはこのブログの更新をしばらくお休みさせていただきます。

 元気で戻ってきますので、それまでお待ちください。

 

2020年6月27日 (土)

ステークホルダーに関する議論

 株主総会シーズンが終わりつつある。そこで、

「会社は誰のモノ」

という議論が、出てくる。前は

「株主最優先」

だったときもあったが、今は、

「従業員、お客様、地域への貢献、株主」

等等を考慮しないといけないという議論になっている。

 これを、MBA等の理論では

「ステークホルダーの利害関係を調整しろ」

という言い方で、関係者を列挙し、利害関係を明らかにし、譲れるモノと譲れないモノを明確にすることで、調整していく。

 一方、我が国には

「売り手よし、買い手よし、世間よしの、三方よし」

という言葉がある。この違いは、氷山モデルの議論の実例となっている。

 確かに理論化するときには、全てを列挙する必要があるだろう。ただし、日本教的な、

「その場を想像した議論」

では、人や社会のイメージで、十分伝わっているように思う。

2020年6月25日 (木)

氷山モデルの『日本教』的な考察

 知識の使い方などで、氷山モデルという例えがよく出てくる。例えば、意識と無意識という議論である。

 しかし、このような氷山の水面下の部分について、私たち『日本教』の信者には、

「何かあるのは解っている」
「何となく感じている」

ことが多い。

 しかし、西洋文明では、

「定義されていないモノは見ない」

と言う発想がある。これは、アルファベットの文字列で考える場合と、漢字仮名交じりのイメージの働く推論の違いだと思う。

 例えば   

   ”line” と 「線」

と言う言葉で考えても、「線」と言う文字には、糸偏の「糸のイメージ」や旁の「泉から水が流れるイメージ」という含みがある。

 こうした意識していない、イメージの働きが、氷山の水面下を思いやる働きに通じていると思う。

 

2020年6月23日 (火)

リーダーシップに関する『日本教』と西洋文明

 『日本教』のリーダーシップは、支配される人々の知性に、ある程度の信頼を置いている。これは、

「話せば解る」

という聖徳太子以来の伝統である。

 しかし、西洋文明においては、支配者が全てを決めて、支配される人間は

「言われたことだけする」

という発想がある。これを歴史的に見ると、

「奴隷を使っていた伝統」

が一つの相違点ではないかと思う。西洋文明には、侵略し支配し、場合によっては奴隷にする、という伝統がある。この違いが、リーダーシップの違いに出ていると思う。

 さて、『日本教』的なリーダーシップのよいところと悪いところを考えてみよう。

 よいところは、全員参加の力である。特に参加者個々人が、弱い力でも色々と貢献することで、全体としてまとまる成果は大きい。一方、悪いところは、不適切(無能)なリーダーでも、惰性で務まる場合があることである。今までの延長なら、皆に任せてそのままで行けばよい。このような状況で、ずるずる壊れる例は少なくない。

 ただし、『日本教』のリーダーでも、全体像を示して、皆を納得させることができるなら、新しい世界へ導くことも可能である。

2020年6月22日 (月)

智慧の大衆化に関してもう一歩議論が必要

 前に書いた、知識の大衆化と智慧の大衆化に関する議論と関連して、西洋文明と『日本教』の立場の大きな違いが見えた。つまり

      西洋文明:人間は限られた知恵しか無い

      日本教(大乗仏教):衆生にも仏の智慧がある

という、人間の知恵の可能性に関する信仰の違いである。可能性を信じなければ、何事も成功しない。

 西洋文明では、

「神様の智慧には人間はとても及ばない」

という基本的な思想があり、更に人間の間にも、

「哲学者の智慧だけが真相に迫れる」

という、階層的な発想がある。

 一方、日本教の基本的発想は

「話せば解る」
つまり
「皆が理解できる知恵がある」

である。

 さて、この問題に関して、もう一つ議論すべき、専門化領域の問題がある。例えば

  • 法律の専門家:法的三段論法などの知恵の使い方
  • 学者:該当分野の専門の議論の仕方

等がある。これらは、専門家に任せる法が上手くいく場合がある。 

 しかし、それでも、

「結果について説明を受け、理解する知恵は皆にある」

という発想は、日本教の信者には大切である。

2020年6月20日 (土)

大阪都構想の意味

 大阪都構想が、もう一度住民投票にかかるらしい。私個人としては、大阪の二重行政というか二重投資、例えば大阪市水道局と大阪府水道局の淀川での取水状況や、設備の重なり、を見ているだけに、都構想には賛成である。

 さて、ここでは別の切り口で、都構想の功績について考えてみたい。

 前から『日本教』について議論しているとき、

全体像を持った指導者の重要性

を指摘している。

 このような全体像は、既存の体制をそのまま利用するなら、

「今あるモノのイメージ」

で話ができる。

 しかし新しい世界観を提示する場合は、

全体的な話や設計図

を一度作っていないと、日本教の大衆には通用しない。

 今回の維新の指導者達は、都構想の設計図を作った経験で、全体像を握っているから、

日本教的な新規改革

を提示できると思う。

 もっと言えば、コロナ危機のような、

従来の延長で対処できない状況

に現実的に見事な対応を見せた大阪府の力は、このような全体像の詳細検討にあったのではと思う。 

2020年6月16日 (火)

日本教の失敗のパターン

 「日本教」について、このブログで何度も書いているが、どうも

「日本教礼賛」

となってしまう傾向がある。

 しかし、「日本教」的な指導には大きな欠陥がある。それは、

「一度動き出したら修正が難しい」

という問題である。

 この事例は、多くの倒産した会社の場合や、第二次大戦の日本の戦争指導を見れば解るだろう。つまり

「小幅な修正能力はあるが、抜本的な見直しは難しい」

という欠点である。

 これに対して、山本七平は

「明治の日本の指導者は、自分で別案を持っていたから修正できた」

と指摘している。

 これは、日露戦争時の戦いを見れば明らかである。旅順攻防戦でも、乃木司令部は、試行錯誤し学習している。第二次大戦の硬直した指令とは全く異なっている。

 この理由は明確である。

「日露戦争までは、実戦経験を積んだ人間が、自分の体験を生かしながら戦争指導を行った」
一方
「第二次大戦時代には、教科書で学んだ秀才が、戦争を指揮した」

という違いである。

 なお、今回の大阪府の指導者達は、実践を通して学んで修正したいるように思う。

 

2020年6月12日 (金)

「日本教」とノブレス・オブリージュ

 『日本教』の良いところは、大衆の力を認めることにある。その一つの例が

「コロナ危機の自粛」

である。

 しかし、この逆の面は

「ノブレス・オブリージュの不成立」

という形で表れてくる。

 この問題に関して、江戸時代までなら、豪商が町のために金を出すなどの仕組みもあった。

 しかし、現在の社会を見るとどうもこの仕組みが壊れているように思う。

 一つは、上位者側の識の問題であり、もう一面は、利益を受ける側の尊敬などの不足という面があるように思う。

 建前の平等主義が、上滑りして、悪い面だけが出ているように思う。

2020年6月11日 (木)

仏教の大衆化を日本教の発想で見直してみた

 数年前に書いた、仏教の大衆化から見えてくるもの、という記事にここ数日いくらかのアクセスがある。

 この記事を書いたときから,私の方は日本教の理解が進んだので、この内容を修正しないといけない。

 前の記事では、

  阿弥陀浄土を観想する厳しい修行 -> 「南無阿弥陀仏」と口頭で唱える簡易な行

という単純な図式で、

「仏教の大衆化」

と表現してしまった。

 しかし、日本の仏教の教えは、このような単純な二分法で、割り切ってはいけないように思う。

 例えば浄土信仰においては、「多くの仏像、仏画、浄土の絵図」等等の多様な手段で、僧侶が一般庶民に布教している。そこではある程度のイメージの共有ができている。僧侶も大衆の理解力をある程度信じて、極楽浄土の話を皆に説いている。大衆もそれを受け入れている。

 このように考えると、

「きちんとした観想念仏の修行ができた僧だけが占有する世界」

ではなく、

「その世界をいかに大衆に伝えるか、大衆が感じるようにする」

というお互いの歩み寄りの努力がなされている。

 これはいかにも日本教的な発想である。

 

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