ご縁のあった人たち

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2021年2月17日 (水)

不安で人を動かすのは?

 二月一五日の和歌山市の直下型地震は、市街地に震源があり、マグニチュードは低くても震度4まで揺れた。

 さて、この地震で和歌山市議会場の照明の一部が落下し、審議が中断する状況がテレビで放送されていた。

和歌山で震度4 市議会で照明落下し中断も(気象ニュース 2021年02月15日) - 日本気象協会 tenki.jp

 ただし、和歌山市に住んでいる人に聞いたが、

「揺れたが被害は少ない、どこかの灯籠が倒れた程度」

と言う状況らしい。

 一方、SNSでは和歌山市議会に関して

「見てくれ良さで、こった照明にするからあのような被害に遭った」

と言う意見がある。確かに、安全設計という面では、照明金具の落下などはない方がよい。しかし、和歌山県や和歌山市の大きな政策を見ると、もう一つのモノが見えてくる。

 それは、

「和歌山県の南海トラフ地震津波対策」

で、

「和歌山市内でも津波の被害に遭う。従って、高いところに移住する等の対策をとるように!」

と住民に伝えていて、県の機能なども、高いところに移している。

 この文脈で、このような「地震被害映像」を流すことは、住民の地震対策意識をかき立てる、有効な手段だと思う。

 しかし、『不安』で人を動かすのが本当によいのか?

 私は、納得が基本ではないかと思う。

2021年2月 4日 (木)

『不安』はどこにあるのか

 先日から『不安』について考えている。さて『不安』の実態はどのようなモノだろう。禅問答などでよく言う

「お前の『不安』をここに出せ」

と言われて

「出せません」

と答えたら

「出せないようなモノは気にするな」

と言う『解決?』がある。

 この発想には少し強引なモノがあるが、一面の真理がある。それは、

「外で見れる不安の実態はない」
言い換えると
「不安は自分の心が作りだしたモノ」

と言う考えである。不安の実態は、自らの心が描くモノである。実際のモノが無いから、心の中で勝手に育っていく。他人の言葉などに影響を受け、大きくなったり小さくなったりする。山本七平の言う『空気』にも、このような『不安』の性格が影響している。

 こうした『不安』の暴走に対しては、

「現実体験を伝えて『水』を差す」

と収まる。また、『不安」の原因を正しく認識し

「ある範囲に対する『不安』に局所化」

することも有効な対策である。

 抽象的な一般論の暴走が『不安』を拡大する。そのため現実性を持った議論が必要になる。ただし、一つの体験だけにこだわると、全体が見えなくなる。全体像を描く抽象論と、実体験を上手に組み合わせる必要がある。

2021年2月 3日 (水)

『不安』による動機付け

 今回のコロナ対応でも、人々の『不安』を煽ることで、行動させている事例が多い。ここから一歩踏み込んでみると、

私たちは子供の頃から『不安』で動機づけられている

と言う経験を思い出してしまった。小学生時代から

「勉強しないとついて行けない、将来困る」

等の脅しを受け『不安』に駆られて勉強する。

「将来何をしたいから、勉強する」
と言う
「目標に向かう勉強でなく『不安』解消の勉強」

が、学校で学ぶ多くの人の動機付けではないか?そう言えば、停電になったとき

「隣の奥さんが内も停電です」

と聞いたら安心する、と言うジョークがある。一説によると、

「田植えで横並びで作業する習性が染みついている」

為に、『横並びから外れる不安』が大きいのではと言う仮説もある。

 確かに、明治以降の学校教育では、

「均質な生徒を作ることで、一定歩調で行進させる」

ことを目標とした面もあり、その中で

「置いておかれる不安」

を強調し活用した。このように、私達は『不安』による動機付けにならされている。

 しかし、ヴェーバーが『プロ倫』で指摘したように、キリスト教文明でも

「自分が救われているという確証がない『不安』が
激しく働く原動力になる」

と言う側面もある。これと同じ反応が、日本の場合にも

「地獄に落ちないために!」

と言う恐怖で大衆を押さえた例もある。逆に、一向宗の信者達などは

「働くことは阿弥陀様の救いの保証」

と言う形で、勤勉に導いた。

 動機付けにおいて、『不安』の力と弊害をもう少し考えていきたい。

2021年2月 2日 (火)

リスクコミュニケーションについて一アイデア

 今回のコロナ危機に対応して、一般大衆へのリスクコミュニケーションの重要性が、明らかになってきた。

 さて、リスクコミュニケーションが難しいのは何故だろう。私は、この問題について一つの仮説を持っている。それは

  1. 大衆の不安が拡大するとリスクコミュニケーションは失敗する
  2. 当事者以外の方が不安は大きくなる

と言う二点である。つまり

不安という『空気』が暴走する

とリスクコミュニケーションは失敗する。

 さて、このような『空気』の暴走は、どのような状況で起こるのだろう。大事な要素は

自分が体験せず想像や伝聞情報で考える

場合に、暴走が起こることが多い。逆に

当事者は現実対応に追われるので
不安を感じる暇が無い

から『空気』の暴走は避けられる。

 私は、昨年ある難病で入院し、ステロイドの大量投与と、血液製剤の点滴を受けた。その時、句するに副作用の可能性などの、必要なリスクの説明を受け、その旨の書類に署名した。その時は、

とにかく治療が優先でリスクは取らざるを得ない

と言うのが正直な感想である。その結果、症状は収まったが、まだステロイドの減薬の行程であり、先は長い。こうして落ち着いてみると

ステロイドの副作用が今では怖い
(骨がもろくなるなど!)

と考えるようになった。このように、現場から距離を置くことで、色々考えたり、ネット情報に触れると、不安が拡大してくる。

 このような不安が、リスクコミュニケーションを難しくする。

 解決策としては、全体的な現場の感覚を、伝えることでないかと思う。

2021年1月31日 (日)

コロナワクチンに対する『空気』の働き

 コロナに対するワクチン接種について、世論が大分変わってきたように思う。今までは

「副反応の危険性があるから控えるべき」

と言う意見が目についたが、逆に

「早く接種してほしいが政府の対応が遅い」

と言う意見が出ている。現実に、アメリカでは、接種予定者が来れなかった時を狙う『ワクチンチェイサー』が出現している。これをマスメディアが放送している。このようなマスメディアの報道と、世論が結びつくと一気に

「ワクチン接種を急げ」

と言う空気が出てくる。

 さて、もう一つ皮肉な見方をすれば、政権の足を引っ張りたい一部のマスメディアにとって、

「ワクチン接種は推進すべきか?反対すべきか?」

と言う迷いがある。もう少し突っ込むと

「ワクチン接種の遅れを叩く方が政権に痛手になる」

と判断すれば、ワクチン接種推進の論陣になる。私は、このような利害関係が絡んで、一気に接種推進に空気が変わると見ている。

 ただし、今回のマスメディアの報道には、ワクチンの効力について

「空気感染を筋肉注射のワクチンでは止められないが、
肺炎の重症化は抑えることができる」

と100%では無いと、欠点を示した上で、ある程度納得のいく説明がでている。欠点も冷静に議論できるなら、『空気』の暴走は予防できるだろう。

2021年1月19日 (火)

「国師」がいない?

 昨日の菅総理の所信表明には、色々と酷評している人が多い。確かに、コロナに対する対応も不十分だし、この国の将来ビジョンも見えない。しかし、この問題は総理を責めるだけで良いのだろうか?

 まず、コロナの問題に関しては、早急なるワクチンの接種で、集団の免疫力を増加する以外に、根本的な対応策は見えていない。また、コロナによる経済の落ち込みは、もっと対応が難しい。「GOTO~」で景気が良くなる、直接的な効果を期待できそうに無い。

 さて、もう少し見方を変えて

政策を考える智慧はどこにあるのか?

と言う問題を考えてみよう。

 政治に強烈なリーダーシップを求める。この場合、多くは「カリスマ」の出現を求め、彼の智慧に皆が従うという形になる。ただし、個人の能力を超える場合には、彼を支えるスタッフの黒子としての働きもある。

 一方、アメリカなどのようにシンクタンクが独立して存在し、そこから多様な提案が出て、それを政治家が選ぶという形もある。日本の場合には、霞が関の官僚機構が「日本最大のシンクタンク」としての働きをしていた。ただし、霞が関の官僚が一番効果を発揮したのは、戦後の高度成長であり、そこでの方針は

「アメリカに追いつけ」

と言う単調成長路線で、

「将来ビジョンを自分で描く必要なし」

と言う面もあった。

 さて、現在のような、多様化対応の時代には、政府に対して、色々な側面から建設的な意見や、ビジョンを言う人間が必要になる。

「現在こそ『国師』と言える人財」

が必要だと思う。なお、『国師』といっても、

「カリスマ的な権威で教えを押しつける」

人ではなく

「皆が納得するように教えを説く」
そして
「他人の意見の良いところを受け入れて修正する」

柔軟性も必要である。現在の学者や専門家には、このような面が少し弱いように思う。

2021年1月15日 (金)

絶対的な『善』とは?

 プラトンの『国家』を読むと、絶対的な『善』という概念が出てくる。プラトンの発想では、

「神が作った『善』である国家」

を理想としている。この問題に関しては前にも書いた。

全能の神と進化する神: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 さて、今回議論したいことは

「絶対的な『善』はあるのか」

と言う問題である。

 私は、この問いに対して

「絶対的な『善』はあるが、キリスト教等の『神の世界』ではない」
「大乗仏教で言う根本的な仏の力が絶対的な『善』である」

と応える。この違いは、視野の広さによる。大乗仏教の仏の力は、法界全てを広く見てその中での最善を見いだしている。広いという意味は、空間的な広がりだけでなく、過去・現在・未来の時間軸にも広がっている。近頃『持続可能性』などと言っているが、過去~未来の時間軸で考える人なら、今まで行ってきたことである。

 また、キリスト教の宣教師と日本大衆の議論として伝わっている

「ありがたい耶蘇の教えでは、既に死んでいる祖先も救われるのか?」
「その人達の裁きは終わっている。あなた方を救うコトが大事だ!」
「そんな効果の無い教えなら入らない」
(日本の仏教は、子孫の信心で先祖も救われると説く)

議論は、大乗仏教の仏の力が、過去まで遡ることを示している。このような広い観点で、多くの人を救う力が

『絶対の善』

ではないかと思う。

2021年1月14日 (木)

手洗いうがいの原点

 コロナやインフルエンザの流行時には

「手洗いうがいの徹底」

が推奨される。さて、この手洗いはいつ頃方定着したのだろう。

19世紀に最初に手洗いを提唱した医師 上流階級に理解されず精神病に - ライブドアニュース (livedoor.com)

上記HPの情報では19世紀になっている。

 しかし日本の神話を見れば、伊弉諾尊が汚れを祓う行為が、既に手洗いうがいになっている。その後神社の参拝時の作法としての手水等で定着している。もっともこれを言うと、

「ユダヤ教やキリスト教の洗礼がある」

と言う反論があるかも知れない。しかし、私達のように、大衆にまで『手洗いうがい』が普及しているのは、日本の神様との付き合い方によると思う。

 ただし、この問題を日本の風土で考えると、

「水に恵まれた日本だからできた」

と言う発想はある。多くの発展途上国は、

「水を手に入れるために大変な努力」

をしている。また私も阪神大震災の時に、水道が止まり

「手洗いなどは贅沢」

と言う体験もしている。

 このように考えると、比較的水に恵まれた、日本の風土が

「参拝時の手水」

等を可能にしたと思う。これが現在のコロナ対策にも役立っている。

 なお、19世紀のセンメルヴェイス・イグナーツの業績は、細菌学につながっている。このような理論的基礎とその後の展開も考えないと行けない。

2021年1月13日 (水)

全能の神と進化する神

 プラトンの『国家』を読んでいて、感じることは、

「プラトンは神が作った『国家』は完全なモノ」

と信じている。そこでは

「神が行うことが『絶対的な善』である」

と言う信念がある。これが私達都は少し違うように思う。私の感じる神様ヤ仏様は

「進化して現在の状況に合わせる」

力があると思っている。この発想は、大乗仏教の成立とも関連している。大乗仏教は、当時において

「お釈迦様の正当な教えを受け継いだ」

『上部坐仏教』に対抗する形で生まれている。つまり

「伝統的なモノに対する反発」

が根底にある。それに対抗して

「仏の命は永遠であり、現在も霊山で法を説いている」

従って

「現在の状況に合わせた法を説く」

と言う、仏様の進化というか適応力を信じている。

 この発想は、

「昔の社会が理想」

という儒教とも一線を隔する。

 また、状況に対応するから、『絶対の善』という思想とも相性が悪くなると思う。

 日本教と西洋文明の違いがまた一つ見えてきた。

2021年1月 8日 (金)

民主主義と独裁のそれぞれの欠点

 昨日書いた、コロナ対応に関する議論で、民主主義と独裁政治の違いが見えてきた。今日はこの話をもう少し掘り下げてみたい。

 まず民主主義の欠点の一つは、民衆の不満を、中途半端に活性化することである。これは、アメリカの議会で、昨日起こったことでも解る。トランプ支持者の不満、これは従来の『政治の専門家による独占』に対する不満でもある。このような不満が、爆発すると民主主義は混乱に陥る。これに関連して

「不満を抱えた人の不服従」

も発生する。コロナ対応での、色々な大衆の動きを見れば、

「強権で押さえ込むのもやむを得ない」

と思った人も少なくないだろう。

 一方、独裁政権なら、このような効率の悪さや、不服従への悩みはない。従わない者は拘束すれば済むことである。そこで

「有能なる指導者の独裁」

が望ましい、と言う人は少なくないと思う。

 しかしここにも落とし穴がある。

「いくら有能な人でも失敗はある」

が、その間違いを指摘する人がいないのが独裁の独裁たるゆえんである。従って

「独裁政権は一度狂うとそのままおかしい方向に進む」

と言う形で自滅していくことが多い。

 さて、民主主義に話を戻して、日本教的な民主主義を考えてみたい。これは、日本教の教義にある

「皆話せば解る」

という

「大衆の智慧を信じ『納得』に基づく政治」

である。

 これは、現在の日本の政治でも少しは行われている。例えば、コロナ対策でも『飛沫感染のからくり』などを大衆に知らせ、協力を呼びかけた上での規制は、欧米より効果を生んでいる。

 ただし、このような納得には時間がかかる。また、状況の変化に対して、再度の納得を得る作業は、今までの惰性を破るため、大きな努力が必要となる。このような欠点をきちんと理解した政治が必要になっている。私の考えでは、タイムリーに、全体像を供給する制作スタッフが、民衆へのPR活動を行うことが解決につながると思う。

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