ご縁のあった人たち

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2020年9月21日 (月)

大坂なおみの苦しみを理解するためには

 アメリカで活躍している、テニスプレイヤーの大坂なおみが、アメリカの人種差別による被害者の名前をマスクに書いて、戦っていた。

https://naomiosaka.com/special/

 私たちが、彼女の背負っている物を理解するためには、アメリカの奴隷制度の歴史を知らないと行けない。例えば、マークトウェインの「まぬけウイルソンの悲劇」を読んだら、アメリカの奴隷制度で、『黒人』と判定された人たちの人権が蹂躙されていたか解るだろう。

 

更に踏み込めば、西洋文明における奴隷制度の位置づけも、知っておくと理解が深まる。古代ギリシャの時代から『民主制度』があったと言うが、その『民主制度』は、『奴隷制度』の上に成立していた。これを理解していないと、西洋文明の支配者と支配される人間の関係が見えてこない。

 また別の面から考えると、進化論等の『科学的思考』も、『人種差別の理論的根拠』として使われていた。

 西洋文明の、人種差別は『科学的根拠』というカルト的な信仰の上で、成立していた。

 このような歴史を踏まえた上で、大坂なおみの悲痛な声に向き合うべきだと思う。

2020年9月17日 (木)

物理学的な世界観と社会科学的な世界の見方

 大乗仏教の「唯識」について、少しばかり本を読んでみた。

「唯『識』だけがある」

という発想は極端だが、社会現象などを観るときに、

「そのようなモノが実在する」

と思い込む危険性については、よく意識すべきだと思う。考えてみれば、私たちは

『物理学的世界観』

の影響を受けいている。天体や機械などの

「物理学の対象」

は実在する。この発想は、社会科学には通用しない場合がある。例えば、

「搾取する資本家、搾取される労働者」

と言われても、

「株でもうけている労働者は?」

という風に、理論通りの実在は、存在しない場合もある。

 更に言えば、

「理論的な知識の力で、社会の現象を観る」

場合も多い。極端な話、貨幣経済という概念が無い人が、日本の現状を見たら、何が解るのだろう。

 このように考えると、社会科学の場合には、世界の見方を学びながら、理論的な知識を充実させるべきだと思う。

2020年9月13日 (日)

実現のための専門的な智慧の働きについて

 昔書いた、「中間層を育てているか?」という記事に、アクセスがあったので見直してみた。

 当時は、管理職の育成に関して考えていた時期だったので、管理職の役割を中心に考えていた。今回は、理論検討側の立場で、中間管理職などの役割を考えてみた。今回の発想は、真言密教などの五智の発想である。五智とは

 https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E6%99%BA-65136

にある。

(1) 究極的実在それ自身である智 (法界体性智)
(2)
のようにあらゆる姿を照し出す智 (→大円鏡智)
(3)
自他の平等を体現する智 (→平等性智)
(4) あらゆるあり方を沈思熟慮する智 (
妙観察智)
(5) なすべきことをなしとげる智 (→
成所作智) の5つ。

大日如来の力を五つに分けたモノであるが、ここで実行段階の「成所作智」を独立させている。これは、唯識の教えなら、意識のレベルで考える、

「阿弥陀如来の理想的な浄土」
のあり方を、私たちがいる娑婆世界で
「実現するために方便を説くお釈迦様」

の力と理解できる。

 このように、実現するときに、現実に合わせる努力を分離し、

「とりあえず理想像を描く」

ことは、結構役立つ。現実の多様さに向き合いすぎると、いつまでも完成しない。ある程度見通しを立てて、実行時には状況に合わせて修正する。

 このような考えも重要である。

 そのためにも、中間層の活躍が必要である。

2020年9月 6日 (日)

弱者の優しい代弁者が存在するか?

 昨日の話で、

「弱者の代弁者」

という問題を思いついたので、忘れないうちに書いておく。昨日の議論では、国会議員である杉村太蔵が、同じ国会議員の石破茂に馬鹿にされたというレベルであり、馬鹿にされた方にも問題ありと処理してもよいだろう。しかし、これが一般国民の問題と考えると、色々と広がってくる。

 まず、一つ目の問題は、

「本当に困っている人の状況を、きちんと伝える人が必要」

である。しかし現状では、これが上手くいかない。理由は、

「論理的な意見をいえるという、スキル面だけで代弁者になる」
「極論や過激な発言する代弁者が少なくない」

という側面がある。

 例えば、予防接種の副作用で、苦しんでいる人がいる。この人に対しては、医療的側面、心理的側面、生活的側面などで色々と支える必要がある。しかし、

「副作用が生じるから、予防接種を禁止すべき!」

という極論を言う人が、

「被害者の代弁者」

として振る舞う事で、結局

「予防接種の効果で救われる命を奪う」

という事態になってしまう。このような機会損失に関しては、被害の申し立ても難しいので、極論がまかり通っていく。

 この問題を考えると、親的な発想で、弱者の代弁をする人材を、もう少し育てていくべきではないか、言うなら

『穏やかな社会学者』

が必要ではないかと思う。

2020年9月 4日 (金)

動機付けに関して西洋文明と大乗仏教の文明の発想の違い

 昨日の続きで、動機付けについて、西洋文明的発想と、大乗仏教的発想の違いについて議論しておく。

 西洋文明的発想なら、動機付けならマズローの理論などが出てくる。

https://motivation-up.com/motivation/maslow.html

 しかしながら、この議論の根底には、貨幣経済社会などの西洋文明が前提にあり、しかも

「人間は神の智慧には及ばない」

という諦めがある。又、マズローの5段階説を見ても解るように、

「できるだけ単純な項目で考える」

という発想がある。

 しかし、現実社会をこのように単純化してみる発想がよいのだろうか?

 例えば、会社生活においてて、管理職になる動機付けを考えてみよう。

「出世したい」
「給与が上がる」
「他の皆に遅れたくない」

等の単純な理由だけで出生したがる人間は、どれほどいるだろう。

 管理職の重み、責任を感じたとき、色々な悩みがある。しかし、

「その部門の重要性」
「働いている人たちの個々人の立場」
「他の人間が管理者苦になるリスク」(不適切能力者のリスク)

等色々な事を考えて、悩んだ末に受け入れる人は、よい管理者になる可能性が高い。

 さて、ここで大事な事は、大乗仏教的な発想である。大乗仏教には

「誰もが仏の智慧を持っている」
「仏の智慧とは全てを自分のモノとし、衆生を我が子のように見る智慧である」
「この智慧で社会をよくすることができる」

という発想がある。少なくともキリスト教の

「神の世界への到達不可能限界」

とは別の、可能性を拓く発想がある。

 又、これと併せて、色々なモノを見るとき、具体的に多様な見方をする。例えば、管理職が部下を見るときも、

「契約した機能を果たす部下」

という見方が、西洋文明の経営学敵味方なら、日本的管理では

「個人としての生活のある部下」
「将来的な成長可能性のある部下」

等の、血の通った見方になる。

 こうした、実体観の上で、

「皆のためになる」

という動機付けを行うなら、強い力を得ると思う。

 もっと言えば、仏教では

「皆を救う」

という発願がある。この力は、西洋文明的なモノより強いのではないかと思う。

2020年9月 3日 (木)

全体の幸せが自らの幸せになる

 昨日書いた、江戸時代の豪農や豪商の働きに関連して、もう少し踏み込んで考えてみた。

 まず、西洋文明に縛られた私が、先に思いついたのは、

「投資と回収の発想」

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-939bb8.html

である。

 しかし、これは金銭的尺度に縛られているように思う。もう少し言えば、単純化したモデルの思考法で考えている、という西洋文明の

「分けて考える」

という発想を実践している。

 しかし、江戸時代の日本人の発想には、大乗仏教の教えなどが、染み込んでいる。例えば、お経を唱えた後

願わくばこの功徳を持って、遍く一切に及ぼし、我らと衆生と、皆伴に仏道を成ぜん
国土安穏、万民豊楽、功徳の余慶を持っては先祖代々の諸精霊に回向し、それがし家運長久~~

という風に、

「まず全体がよくする、その後個人の事を考える」

と言う発想が体質になっている。

 このように考えると、江戸時代を現在のマルクス史観などで見て

「地主に搾取される水呑百姓」

という図式トは別の世界が見えてくるように思う。

 もっと言えば、動機付けに関しても、現在的な発想でなく、大乗仏教の「発願」という発想で見た方がよいと覆う。

2020年9月 2日 (水)

意味をどこで見いだすか?

 先日から、社会科学におけるモデルの役割について、考えていたら、色々なモノがつながってきた。そこで、まだ荒削りだが、思いつくところを書いておく。

 まず一つ目のアイデアは、社会科学のモデル論から来た

「物事の意味はそのモデルの上でで考えるべき」

である。自分が感じる意味、というのではなく、その物事が起こった状況をモデル化し、その上で考える。

 もう一つのアイデアは、江戸時代の豪農や豪商の働きで思いついたが、

「社会全体がよくなる事が自分の幸せ」

という発想である。これに関連して、仏の慈悲について

「太陽の光のように遍く照らす」

という発想が、

「個別の一対一の関係でなく、社会全体への影響」

という形で見えてきた。これは逆に言えば、

「西洋文明の物理学モデル=一対一の関係の簡略化」

で表せないモノを見直す考えである。もっと言えば、西洋文明的に

「局部的な関係に集中して考えすぎ」

という私たちの思考の偏りをただす。こうしたときに見えるモノがある。このような感じがしてきた。

2020年8月31日 (月)

私たちが学んだ江戸時代は偏っているのではないか?

 先日から、日本の歴史を見直していると江戸時代の、町人文明について、私の理解がない事に気がついた。更に言えば、豪農などの文明への貢献についても、理解ができていない。この理由は、学校教育が偏っているからだと思う。

 一つは、権力体制を重視し、法制度などのが整ったものを対象に教える。つまり、江戸幕府の支配だから、幕府と各藩の支配が主な話となる。もう一つの偏りは、マルクス主義史観である。つまり、搾取する地主と、支配される小作人という図式である。このような、

「水呑百姓の悲惨な生活」

という一面的な図式で描く農村社会、このようなイメージしか浮かばない。

 しかし、よくよく考えてみると、大阪の淀屋橋や道頓堀は、豪商の力でできた。さらに、多くの農地が、豪農の力で開拓されている。これは、当時の豪商や豪農の富裕層が

「将来のための適切な投資を行った」

結果と考えてもよい。つまり、資本主義の基本である

「投資と回収のセンス」

が既にあったと見るべきではないかと思う。

 更に言えば、江戸時代は一応鎖国という、かなり閉鎖的な経済状況である。そこで、

「持続可能な経済成長」

を行ったとしたら、これも現在学ぶべき者が大きいと思う。特に、国土環境を護りつつ、持続可能な成長ができたのかは興味深い。

 なお、一説によると、

「山の木を燃料として購入する豪商のために、多くの山が荒れ果てた。」

という側面もあるらしい。この観点で見れば、明治維新の新たな意味づけもでるかも知れない。

 日本の文明は、環境との共存が大切だと思うが、山を壊した報いが、明治の大変革というのは、一つの可能性である。

2020年8月26日 (水)

分断化した社会で罪悪感なしの優位に立てるか

 昨日書いた、キャリアアップ論などでは、一つ疑問が出てきた。それは、

「自分が優位に立つことへの疑問はないか?」
言い換えると
「罪悪感を持っていないか?」

である。

 実は、私自身の底流にこの疑問が存在する。遡れば、大学受験の発表時に、多くの同級生が落ちたとことを考え、

「サバイバーズギルト」

のような感覚を持ったことが、一つの発端である。

 後に判明したが、私の大学入学成績は、「合格最低点の一点違い」であった。その成績が私の人生を変えた。確かに大学で身に付けたモノは多く有り、それが後々の仕事でも生きている。少なくても会社生活においても、生涯賃金の数倍の利益を会社にもたらす貢献はしている。このあたりの経緯は

 「彼は成績しか取り柄がない」 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-3a9e4d.html
等に書いている。

 しかし、大学受験に失敗したとき、対人スキル不足の私が社会でどのような使いを受けただろう?この疑問は、時々私の心に浮かんでくる。これを言い換えると

「自分の給与に比べ、同様に働く協力会社や、非正規雇用の給与は十分といえない」
「自分は給与差だけの事ができているか?」

となる。確かに、技術の世界や、総合的判断では

「私の頭脳でしかできない」

と言い切れるときもあり、その時は少しは精神が落ち着いている。

 さてここで周りを見ると、どうもこの問題でおかしくなっている人が少なくないように思う。

「XXの正社員」

という事だけを振り回し、マウンティングする人間がいかに多いか、更に言えば

「昔成績がよかった」
「XXに合格した」

という、一時期の成果を盾に優位を維持しようとする。

 このような人が少なくないように思う。

 そうして、彼らの多くは、一緒に仕事をしている人間の、恨みなどを買っている。その力が働くかどうか解らないが、私が見るところ

「分不相応な出世した人間の早死には少なくない」

という状況がある。多くは酒などの結果、成人病で体を壊す者が多い。

 この問題に対して、昨日のように理屈を付けて、逃げる事ができるのだろうか?私は、日本人には難しいように思う。

2020年8月25日 (火)

安易なキャリアアップ論にだまされてはいけない

 昨日書いた、「日本社会の課題」について、もう少し議論していく。

 今回は、私が安易なキャリアアップ論に反対する理由を述べておきたい。 

小熊は3通りの解決案を提示している。

  1. 生活を維持できるレベルの給与を支払う雇用にすべきである
  2. 「同一労働、同一賃金の原則」からして、同じ仕事なら給与は変わらない。不満があるなら、資格取得や学位取得でキャリアアップすべきである。
  3. この問題は、社会としての生活保障として考えるべき事である

私が反対するのは、生活苦のシングルマザーに対して、安易にキャリアアップが対策という上記2.の姿勢である。

 このような、キャリアアップ論は、どちらかというと、アメリカの自由競争社会的な発想から持ち込まれる事が多い。さて、アメリカというか、西洋文明をきちんと見ると、彼らの発想は私たちと根本的に違う面がある。それは

支配者と被支配者の峻別の伝統
奴隷制度を長く続けた伝統

である。私たち日本人には、根底に大乗仏教の

「皆が仏になる」
という
「究極の平等思想」

がある。一方、西洋文明には

「優れた者が支配する」

という発想があり、場合によっては、

「科学的知見を総動員しても、自分たちが優れていると保証」
例えば、進化論を使うなど

することで、支配の合理化を図っている。

 このような観点で、キャリアアップ論を見ると、

「学位や資格で、支配を正当化」

という発想が見えてくる。

 私が反発するのは、このような支配のための理屈づけとしての、安易な議論である。

 更にこの議論の危険な点は、

「現実的に実現不可能」

な点である。実際に生活苦であえいでいる人が、資格取得の勉強や、学位のために通学などできるだろうか?奨学金などと云っても、またもや謝金を背負うだけになってしまう。このようなリスク負って、時間とお金の投資ができるだろうか?

 確かにチャンスはある。そこで

「機会の平等は与えている」

という、言い訳はできるだろう。しかし、これはあくまで言い逃れであり、他人を低賃金でこき使っている立場の弁解に過ぎないように思う。

 私が、安易なキャリアアップ論、特に「大学で学び直せ」論に反発する理由の一つこれである。

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