ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

2020年11月27日 (金)

五十音図が先か仮名文字が先か?

 前に書いた、仮名文字に関する議論で、もう一つ思いついたことがある。それは、

仮名文字が先か?五十音図が先か?

と言う問題である。普通は、

「漢字しか文字がなかった時代に、その当時の発音を万葉仮名で記述した。それを簡略化して仮名文字が生まれた。」
さらに
「その後、仮名文字を整理する形で、いろは歌や五十音図が生まれた。」

と言う風になっている。

 特に、五十音図はサンスクリット語などの音韻に関する知識がないと、作ることは難しい。そこで、

「いろは歌の空海作は無理があるが、五十音図は空海でないとできないのではないか」

と言う説はかなり説得力がある。確かに、カ行~ワ行までの子音と母音のきちんとした組み合わせは、サンスクリットやアルファベットの表音文字の知識なしで、ここまでの整理は難しいと思う。

 なお、少し脱線するが、ハングル文字も表音文字として、母音と子音の組み合わせを文字のルールとして表現した、完成度の高い物となっている。一部の文書にでる、『日本の古代文字』と称する文字には、ハングルのような母音と子音の組み合わせが見える。これは、ハングルなどの模範例なしで、作れるとは思えないので、江戸時代に誰かが作ったと想定するのが妥当ではないかと思う。

 さて、ここで本題に戻るが、私が仮名文字に関して、今一度問いたいのは以下の問題である。

「日本語の母音と子音は誰が決めたのか?」

もう少し具体的に言うと

「母音が『あいうえお』だけに絞られ、子音も現在の形に絞ったのは誰か?」
例えば
「ハ行にFの発音が入らずHの発音になったのは何故か?」

と言う疑問である。私の感触では

「仮名文字の存在で、発音の自由さが制限されている」
つまり
「五十音の発音しかできなくなっている」

状況があると思う。現在は学校教育の普及で、発音が制限されるのは当然である。しかし、万葉仮名の時代にこのような発音の制限があったのだろうか?

 一つの大胆な仮説は、

「飛鳥時代に日本に移ってきた、渡来人の中に、梵字の知識のある僧侶がいた。彼らがその知識を使って、私たちの先祖の言葉を整理し、五十音的な形にまとめ上げ、その上で万葉仮名の音韻の当て字を作っていった。」

と言う発想である。学問的な検証に値するかは別として、一つの考えとしてみてほしい。

2020年11月25日 (水)

空海が観たモノは?

 空海の『吽字義』を理解するために、もう一度サンスクリット語について、見直してみた。サンスクリットでは、母音子音の複雑さ、その組み合わせのルールを、梵字の書き方に反映させている。少数の文字を使うが、組み合わせのルールを上手に使うことで、多様な音声を表現している。

 梵字を理解すると、象形文字の系列に属する『漢文』に慣れた人間にとっては、カルチャーショックを受けたのではないかと思う。漢字を『真名』と言って、

「真実の文字は漢字しかない」

と思っていた中華文明に影響された人間が、

「お釈迦様の文字は別にあり、それは見事な体系である」

とシッタ感激というか、ショックは大きいと思う。マクルーハンが

「アルファベットの発明はメディの革命の一つ」

と言ったことが納得できる。

 さて、空海はこれを密教の修行という実践に繋いでいく。例えば

「梵字の子音を書くときは、母音の阿を追加する」

と言うルールを、密教の教えに反映させて

「全ての仏の根源である大日如来を『阿』字で象徴する」

とし、他の仏や菩薩を色々な梵字で象徴する。このような

「要素的なモノの組み合わせで理解する」

発想が、曼荼羅などに反映し手、構造的な整理が行われている。 

 また、梵字の『阿字』をしっかり観る、『阿字観』という修行もある。この修行においても、梵字の構造まで考えて、

「全てに展開する『阿』字を観る」

ことが、空海が観たモノを理解することではないかと思う。

2020年11月24日 (火)

仮名文字の不思議

 空海の『吽字義』などを読んでいると、梵字についてもう少し考えたくなった。梵字、つまりサンスクリット語について、少し学んだだけでも、表音文字として、きちんとした構造ができていることが解る。母音と子音等の『音の組み合わせのルール』が、文字の上でもきちんと表現されている。

 これを見ると、

「表音文字とはどうあるべきか」

がよくわかる。マクルハーンが、

「アルファベットの発明はメディアの大改革の一つ」

と言ったのも解るような気がする。

 さて、ここで一つの疑問が出てきた。私たちは、

「仮名文字は表音文字」

と思っている。しかし本当にそうだろうか?一つの実験事例がある。録音装置で

「あかいとり」

と記録し逆回ししたらどのように聞こえるだろう。表音文字なら文字を逆に読み

「りといかあ」

となるはずである。しかし実際は

「いろちあか」

と言う風に聞こえる。これはローマ字で表現するとよくわかる。

akaitori → irotiaka

と言う風に、ローマ字表現の逆転がきこえる。これでも解るように本当の表音文字なら

「子音を独立して扱えないと行けない」
もう少し言えば
「音に忠実に記述して、その組み合わせルールを明確にする」

が必要がある。

 これを考えると、仮名文字という物は、表音文字と言えるのか、怪しくなってくる。

 今これを書きながら考えた仮説は、日本に仏教を伝えた人たちが、お経の陀羅尼の部分の

「梵字に対する当て字としての漢字」

「当時の日本語の発音を五十音図的に整理」
した結果として
「仮名文字が生まれた」

のではないだろうか。

2020年11月21日 (土)

悪い物から目をそらさないで議論すべき

 昨日、コロナのワクチンが日本で開発できない理由の一つに、

  「軍事に関する研究に目をつぶっている」

  https://twitter.com/suzyoshi1/status/1329298753686175744?s=20

とTwitterに書いた。

 しかし、この問題はもっと広げて、議論すべきではないかと思う。現在の学術会議等の

「国防研究拒否症」

は、本質的に

「目をつぶっていれば、悪い物はない」

と言う発想である。しかし、世の中には、色々な国や支配者がいる。これと向き合わずに、「平和憲法」と唱えるだけで良いのだろうか?

 さて、もう一つ別の問題を考えてみよう。これは、犯罪被害者の

「復讐権」

に関する議論である。私はある番組で、『人権派』の弁護士が

復讐権という物は存在しない

と公言したのを見ている。ただしそれは他の弁護士からたしなめられていた。私は、

「被害者が復讐の感情を持つ」

のは正常なことと考えている。ただし、

「法治国家として、被害者の復讐権を取り上げて、法の裁きとした」

いる現状がある。しかし、被害者の感情などにきちんと向き合い

「復讐権とはどうあるべきか」

と言う議論がきちんと行われるべきではないかと思う。ハムラビ法典の

「目には目を」

と言う項目は、

「復讐の限度をきちんと示した」

機能がある。このような面から議論を積み上げるべきだと思う。

2020年11月20日 (金)

知恵の種類について

 先日から書いている、「照準と修正」の話に関連して、仏教の智慧の扱いで、一つ見えてきたモノがある。大乗仏教の唯識等の教えでは、人の智慧を

  1. 大円鏡智:全ての経験等を記憶し収める智慧
  2. 平等性智:自我のこだわりを昇華し、仏の力を見る力
  3. 妙観察智:全ての良いところを見いだして考える
  4. 成所作智:実際の対応を行う、当意即妙の智慧

と分けて考えている。このほかにも全てをまとめる、「法界体性智」もあるが、今回は置いておく。

 さて、この四つの知恵の働きについて、私たちはどこまで意識しているだろうか?教えられたことを記憶していく、これだけで成績が良くなる。特に、実際の対応に当たる

「成所作智」

と事前にじっくりと考える

「妙観察智」

を、きちんと分けて考えることが大切である。更に、自分の考えは、自我による

「無意識の選択」

が働いている。価値観や道徳などが、無意識的に働いている。この部分を意識し、できるだけ「平等」に考えることも大切である。ここに「平等性智」の働きがあるし、心の奥には、色々な体験が

「鏡に映るよう」

にたまっている。

 このように考えると、大乗仏教の教えは、私たちの心の働きについて、大事な物を伝えているように思う。

2020年11月16日 (月)

アメリカの「科学的思考法」の挫折について

 私は、このブログで昔「全てのアメリカ人のための科学」について、かなり前向きに評価した記事を書いてしまった。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/3-1c91.html

しかしながら、このプロジェクトは実行できなかった。この理由は、

「現在の『科学的思考法』で本当に社会を良くすることができるのか?」
つまり
「科学の力で、プラトンの『哲人政治』を実現できるか?」

と、

「理想的なモノと実現のギャップを超えることができるか?」

という二組の問題が解決できなかったからである。これに加えて、もう一つの要因として、

「アメリカの強力な敵対者である、ソ連の崩壊」

と言う条件も、考えないと行けない。ソ連の崩壊がアメリカの教育に影響する理由の一つは、

「競争相手の消滅による、モチベーション低下」

と言う側面がある。競争による動機付けは有効である。もし相手がいないと、自分で目標設定し管理しないといけない。これを実行できる人間は少ない。

 しかし、もう一歩踏み込むと、

「戦争中の政治決断は、一部の犠牲を無視する、平均知的発想が使える」

と言う状況がある。これはもう少し具体的に考えてみる。現在のコロナ対応を、ウイルスとの戦争と考えてみよう。

「コロナウイルスにより、一日一千人が死んでいる。その状況では、副作用のある薬でも効果があれば使う必要がある」
例えば
「薬の副作用で1%の人間に悪影響が出ても、残り99%が救われるなら使う」

と言うのが、緊急事態の発想である。

「薬を使ったら、九百九十人が救われるが、副作用で十人が死ぬ」
しかし
「放置したら千人全員が死ぬ」

と言う状況は、戦争事態のリーダなら、躊躇無く決断する。このようなときは、統計的処理で、平均値や多数派を評価し、それらに対する施策を優先し実行することになる。

 これが平和なときなら

「副作用を受けた人の人権はどうなる」

と大きな声でわめく人が出てくる。このような多様性に向き合うのは、平和なときには大事なことである。私たち日本人は、このような平和なときの政治になれてしまっている。この特性をしっかり理解しておく必要がある。

2020年11月13日 (金)

「アメリカ教」についてもう少し

 昨日の「アメリカ教」の話をもう少し突っ込んでみる。スミスの作品では

絶対の善も、絶対の悪もない。ただ「最大多数の最大幸福」の原則を守らないといけない

が出てくる。これは、当時のマルクス主義者の

「正義のための革命とプロレタリア独裁」

と言う発想に反発したモノであろう。それほど、当時のアメリカでは、共産主義者への嫌悪感は強かった。逆に言えば、

「共産主義者のスパイがどこに潜んでいるか?」

と言うかなり緊迫した状況にあったらしい。もっとも、この話は私たち日本人の平和ぼけの結果かも知れない。私たちも

「近所に住んでいる人間が、北朝鮮の工作員であって、拉致事件が発生し、同胞が多く連れ去られた。」

と言う痛い経験をしている。それでも

「朝鮮総連の権利を守れ」

と言う声は大きい。

 さて、絶対の善悪に関してもう一つ大事なことは

「キリスト教の教えからの決別」

である。最後の審判での裁き、ここで決まる絶対の善悪、これを否定している。逆に

「神のような全能の立場に、優れた人間が立つ」

発想が出ている。

 これは、

「貴族制度などがなく、誰もが成功できる」

と言う、アメリカンドリームの影響もあると思う。彼らが決めた人間の範囲では

「誰にも機会がある」

と言うのが、アメリカの正義でもある。

 このような、「神の立場」に到達できる可能性を、当時のアメリカ人達は、科学技術に進歩に見いだしていた。この一つのまとまりが、1989年に提案された

「すべてのアメリカ人のための科学」http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf

である。

 しかしながら、このプロジェクトは、盛りだくさんすぎて、実行には移せなかった。ここからも、アメリカの迷走が見えてくる。

2020年11月12日 (木)

「アメリカ教」があるか?

 このブログでは、山本七平が見いだした「日本教」について、色々と述べている。「日本教」は、キリスト教をはじめとする、ヨーロッパ文明に対比して考えると分かりやすい。

 しかし、ここで「アメリカ文面」について、考えてみると、「日本教」と大きく異なる、しかもキリスト教の文明とも、根本で異なるモノが見えてきた。今回は、私が考える

「アメリカ教」

について、議論する。今回議論する「アメリカ教」は、第二次世界大戦の戦勝国であり、しかもソビエト等の共産主義勢力と、正面から対決していた時代の産物である。当時アメリカで熱狂的に売れたSF作品から、当時の共産主義への反発というか、恐怖が伝わってくる。(実際、大統領の速記にまでスターリンの手が伸びていた。ソ連の侵略はそこまで来ていた。)

 私が、注目しているのは、E.E.スミスの一連の作品である。彼の代表作のレンズマンシリーズでは、人類の最強の遺伝子を組み合わせ新しい「宇宙の守護者」を生み出すというアイデアが組み込まれている。この作品が示しているモノは

  • キリスト教などとは違い、優れた人間は「全能の力」を持つことができる
  • 日本教と違い、優れた人間が権力を持って、一般庶民を救う
  • 科学に対する無邪気な楽観主義

であり、日本教ともキリスト教徒も違っている。

 なお、科学に対する無邪気な楽観主義は、二十世紀末には崩れていく。

 しかし、「アメリカ教」という戯概念で少し見えるモノがある。

2020年11月 2日 (月)

マスメディアの安全策が本当に善いのか?

 昨日の読売テレビの、「そこまで言って委員会NP」で、考えるべき意見があったので、忘れないうちに書いておく。それは、

「マスメディアが安全策をとって報道しないことによる弊害」

と言う問題である。

 最初に出てきた話は、

「コロナ対策のための不況によって、多くの自殺者が出ている。」
しかしながら
「自殺に関する報道は追従者の可能性があるのでできるだけ控えるようになっている」

と言う状況で、マスメディアの報道は

「コロナ対策による自粛や行動制限のみ」

になっている。このような情報を与えられれば、多くの人たちは外出を控え、その結果消費も控え、景気が悪くなって倒産や失業が増える。そのために自殺等の報道は抑えられている。

 確かに自殺の報道は難しいモノがあり、個人の情報に配慮して、統計的なデータを出すだけでも、

「それほどいるなら自分も」

と追従者が出かねないと言う危険性はある。しかしながら、それでも現状を正確に示すことは、マスメディアの使命だと思う。

 さて、もう一つはカルト宗教に関する話であった。これは、司会の辛坊治郎氏が実体験を踏まえた話で言っていたが、

「一見神秘体験と思い込むこともあり得る」
と知らせるだけで
「カルト宗教の勧誘に対する免疫を付ける効果がある」

と言う指摘である。これも鋭い指摘だと思う。例えば

「座禅の姿勢のまま、数センチ飛び上がるだけでも大変な力がいる」
(並の人間にはできない)

であり、少し座ってみた人間は、数センチ飛び上がるのを見て感心するかも知れない。しかし、明治時代からの各種の呼吸法の話を知っている人間は、

「そのような飛び上がる例は少なくない」

と冷静に流すことができる。更に、このような結跏趺坐から跳ねると、着地の時に尾てい骨に刺激を与える。この刺激で、

「光のようなモノを見他と感じる現象は起こることがある」

と言う知識を持っていれば、カルト宗教の勧誘時に、

「ここでしかできない神秘体験」

と言われても、

「他でもある話」

と冷静に流すことができるだろう。この問題も、

「神秘体験は触れてはいけない」

とメディアが逃げずに向かうべきではないかと思う。

2020年11月 1日 (日)

「辺境」の意味について

 日経ビジネスの最新号に、「イノベーションは辺境で起こる」と言う記事が載っていた。この記事の主旨とは少しずれるが、私は

日本という国は中華文明の辺境の地

と言う発想がある。これは地勢的なもので、

「東の果ての島国」

と言う立場は、『辺境』とならざるを得ない。さて、この辺境のメリットを考えてみた。私の考えでは、辺境のメリットは

「文明の伝達が遅れる」
この遅延は
「完成度の高いモノを選んで受け入れることができる」

である。つまり、中華文明の色々なモノが、ある程度完成してから伝わってくる。従って

「全体像を見ながら、自分たちに合わせて、取り入れることができる」
「失敗作に巻き込まれることが少ない」

と言う利点がある。日本が外国の文明を受け入れる場合には、

完成度の高いモノを鑑賞し、その上で自分たちによいように消化しながら取り入れる。

と言う悪知恵が働いているように思う。これは、

「自分で苦労して開拓してモノでなく、成果をただ乗りしている」

と言う批判を受ける面もある。しかし、実用化するにはそれなりの苦労もある。こうした面も評価していくことも大切ではないかと思う。

 なお、現在は文明の流入が高速化している。これでは、失敗が淘汰されるまでに、新しいモノに飛びついていく可能性が出てきた。このような状況は、上述の辺境のメリットを無くしてしまう。

より以前の記事一覧