2009年8月12日 (水)

評価の重要性について

 今朝のNHKニュースを見ていたら、派遣会社が『僧侶』を派遣する話しを、放送していた。そもそも、お盆のお経は、自分で心を込めてあげれば良いと思う。一方、日頃からお付き合いのあるお坊さんで、尊敬できる方にあげて頂くのも、ご利益があってよいであろう。

 しかし色々な事情があり、お坊さんを紹介してもらいたいときもあるだろう。そこで派遣会社にお願いと言う発想もわかる。ただ今回のニュースで、よいと思ったのは、派遣会社の営業担当者が僧侶に同行し、動きを評価していた点である。悪い点もこれで改善されるし、良いと認められれば、僧侶もやりがいが出るだろう。評価を受けないと人間は進歩しないと思う。

 むかし、「学校教師は他人の評価を受けないと言う事で、聖職者だ」と書いたことがあったが、現在は聖職者の方が評価が厳しいようだ。

 

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2009年7月23日 (木)

日本語の主語について

 日本語は主語が曖昧だ、という議論を良く聞く。主語が曖昧なので、主体性を持つ所がどこか、曖昧になる。主体性がないと、規則や法律を、自ら作ることは、難しいのではないかと思う。法律は、自らの理想にもとづいて、作り上げるものだと考える。

 しかし、日本の固有法である、貞永式目の制定者の北条泰時は、自分で作ると言うより、その当時の『道理』を、素直に書き表している。北条泰時は、華厳宗の高僧である明恵上人を尊敬していた。明恵上人は、島に恋文を出しとこともある、全てに仏性を見出すお方である。

 このように、「我一人尊し」でなく「全て仏性」と考えると、「あるべき姿が自然に現れる」と言う発想になるのではと思う。皆が主体の合意、この「擦り合わせでの法」と言う発想が、日本的かなと思ってしまった。

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2009年7月21日 (火)

人間と親しい神様

 京都の葵祭りについて、テレビで放送していたが、これほど、神様と人間が親しいのかと、改めて認識した。神事の一つ一つは、大事なお客様に喜んでいただくためと、はっきり見て取れる。神様が、みなの心の中に生きていることが、はっきり判る。

 真言密教でも、色々な行いは、皆大事なお客様を迎えるためと言われるが、このような神の世界と人間の世界に隔たりがない世界も、良いものだと思う。

 

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2009年7月 4日 (土)

脳死議論について

 臓器移植に関して、現在の国会でやっと法律が改正されるようだ。しかし、この議論がこのような展開になった、根本の原因について、もう少し踏み込むべきではないかと思う。

 私が考える、この議論の原点は、日本で最初の心臓移植である、「和田移植」の事件である。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%BF%83%E8%87%93%E7%A7%BB%E6%A4%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6この時代の心臓移植は、南アフリカでの実施例が多数存在した。その時ささやかれた話しは、
  「心臓移植が行われるのは、日本では東京や京阪神などの
  多数の大学のある地域ではなく、地方大学であろう。相互に監視
  している関係では、行いにくいものがある。」
と言うことであった。そして、この時の和田氏の行動、特にドナーへの対応には、種々の疑惑があり、正しく説明しているとはいえない。しかも医学会の説明も、一般に対しまともの納得させるものではなかった。但し、当時の医学会に対立する"世論"も、まともの論理的な議論で応じるものではなく、ヒステリックな否定論が多かったことも指摘しておかないといけない。当時は全共闘時代で、『論理の形をした一方的な糾弾』が横行していた時代である。

 さて、現在に戻ってみよう。今回は、自分の意見を言えるか疑問の、子どもからの臓器移植の問題である。この観点から移植反対派の不安を、もう少し考えてみたい。まず、子どもの場合には、保護者の意向と言うことになる。しかし現在の保護者の状況では、安全と言いがたい面がある。明治大正の昔から、「親のために子どもの身売り」と言う話しがあり、子どもを親の所有物として、金のために臓器を売る例があるかもしれない。

 またもう一つの面として、移植を受ける側の関係者からの、有形無形の圧力の可能性である。移植が法的に認められると、脳死に近い子どもに対して、医療関係者を含めて、"世論"と言う形で、圧力をかける可能性もある。

 このような問題点はあるが、海外で移植を受けるようなことは、『海外の臓器買い』と国際批判を浴ることになり、この国での移植を実現して欲しい。そのためには、医療関係者に、臓器提供者の立場を理解した、説明をお願いしたい。反対者が論理的でない、と一言で切って済む問題ではないと思う。

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2009年6月20日 (土)

日本に欧米的思考法を持ち込む危険性

 昨日は資本主義の成立に関して、キリスト教の選民思想が、日本では影響が少ないので、ヴェーバーの言う所と違うと、書いた。しかし、この外にも、この国の制度に、欧米思想を持ち込む時に生じる差異について、今度は法律に対して考えてみたい。

 『法学の基礎:団藤重光著有斐閣』を読むと、法は民衆の主体的な意思で生まれたものであり、「お上から与えられたものではない」とある。確かに、欧米の民主主義は、王権と民衆の戦いから育ってきたものである。しかし、日本の法律を見ると、対立思想とは別のものが動いたように思う。

 まず、日本で独自に生まれた法律として、鎌倉時代の御成敗式目について考えてみよう。これは、文言だけ見ると、武士間の法律であり、一般民衆に影響が及んでいない様に見える。しかし、江戸時代には手習いの教材として使われるなど、一般民衆にも影響が大きい。さて、この御成敗式目は、武士間の争い、特に土地の所有や相続に関する争いを、幕府が正しく裁くために作っている。つまり、武士と言う戦闘力のある集団間での、武力での解決を禁止して、『お上に任せる』仕組みづくりである。

 その後、戦国時代を経て、皆が武力を持って自己の意思を通す世界が出現した。特に神社仏閣も僧兵を持ち、十分な戦闘力を持っている。この世界を、平和に導いたのは、織田・豊臣・徳川の兵農分離や、宗教団体の武装解除である。特に、宗教に関しては、排他的な思想を、特に嫌っていた。日本の教育は、キリスト教禁止ばかり述べるが、日蓮宗不受布施派に対する弾圧も、見逃すことはできない。

 このような伝統があるので、日本の『お上依存』の発想は、かなり根深いものがあると思う。西洋の革命論ばかり見ていると、何か見落としがあるのでと思う。

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2009年6月 5日 (金)

禅について思うこと

 昔は、若い『知識人』がかぶれるものとして、「マルクス」と「禅」があった。しかし、彼らの求めているものが、本当の「禅」だったのだろうか?彼らの求めた「禅」は、知識過剰の論理を少し離れた所で求めているように思う。左脳的思考を補う右脳的思考を求めているようだ。

 しかし、実際の「禅」の教えは、もう少し神秘的な要素が入っているように思う。確かに、禅の教えには、「魔境」を禁じると言うことで、各段階で生じる神秘的なものを押さえている。そして、公案の話しなどを聞くと、ある種の超越的な論理を感じることもある。

 しかし、白隠禅師の「延命十句観音経霊験記」等によると、もっと素直に御仏の教えを信じその姿を求める、「正しい神秘」を求めるものではないかと、思ってしまった。

 そのような観点で見ると、顕教の代表的経典である法華経も、お釈迦様の姿を見るための瞑想のお経に見えてくる。

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2009年5月30日 (土)

大乗経典としての法華経

 あるところで、「法華経はお釈迦様が直接説いた教えではない」と言う意見を聞いた。これは、時代的には当たり前の話で、法華経の成立は紀元50年ぐらいだが、お釈迦様は紀元前383年ごろに入寂されている。

 但し、これをもう一度考え直すと、色々考えるべきことがある。まず、宗教的に神秘体験と言うものは、理屈を超えるものがある。従って、本尊界にいらっしゃる、お釈迦様から直接教えを頂く可能性はある。この可能性は否定できない。

 しかも、法華経は、他のお経と違うところがあるように思う。華厳経では世界と人間の関係から、人間の可能性を説明する面がある。しかし、法華経では、
 「自分が将来成仏すると言うことを信じろ」
と言うくり返しのように思う。

 しかし、信じるということは、議論を超えたものである。そう考えると、法華経は神秘的な体験に裏づけされると、明快な教えと思う。白隠禅師が晩年に法華経を重視したことも、何となく納得する。

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2009年2月 3日 (火)

成功哲学は本で学べるのか

 世の中には、「成功方法」と言うか「成功哲学」の本が沢山出ている。
   「それで本当に成功するのか?」
との疑問には
   「決定版がないから沢山本が出ている」
と言う、説得力のある答えが返ってくる。しかしこれでは、本を買った人は浮かばれない。しかも、どうしたら『成功』するかと言う答えがないまま放置されている。

 さて、このブログの思想は、できるだけ答えを出すことにしている。そこで私なりの成功法を説明したい。

 まず、本を与えられても、「それを実行する仕組み」と言うか「推進力」がないというのが、実体であろう。逆に、自分でこのような成功手法を調べて、自分の訓練方法を編み出し、実行する人なら、このような本を読まなくても成功する。

 そこで、実行するための推進力であるが、一つの候補は、「他人からの受容体験」である。つまり、「あなたは大切です。素晴らしい。」と、誰かに認められた経験である。これは、実在の人物でなくても、神様や仏様でも良い。自分が、その神様に認められていると言う感触だけでも、落ち着いて自分の良さを認め、それを伸ばすことができる。もっとも、ガネーシャ様は、恐れ多いから、普賢菩薩様のご眷属様の"白い象さん"あたりが優しいので良いと思う。観音様も優しいし、弁財天様も美しい。

 どうしても、そのようなものが見つからないなら、自分で自分の良い所を見つける。それも客観的に評価しながら、見つける。こうして、自分を褒めながら伸ばすことが有効と思う。成功哲学の本は、このような話があるのかな? 

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2009年1月 1日 (木)

新年を迎えて

 新年を迎えて、テレビを見ていたら、富士山で修験道の行者さんの様子が、放映されていた。修験道は、明治維新後の廃仏毀釈で大きく力を削がれてしまった。その結果、神道自体も、力を失ってしまったと感じる。

 古神道の力は、神仏習合の力が大きく働いていたことは、多くの識者が指摘している。しかしもう一つ、隠されたものとして、陰陽道を経由した道教の影響も指摘しておきたい。そのような部分は、多くは修験道に入り込んでいた。それを、神仏分離で壊したのが、明治以降の新神道である。

 そう思っていたときに、修験道を新年に見ることをできたのは、今年の幸先が良い。洋風文明から、もう一度「古来日本のよさをみなすべき」と言う辻占と感じてしまった。

 今年は、欧米に振り回せない、良い年になって欲しい。

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2008年12月 4日 (木)

勤勉さの原動力としての宗教

 ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で主張したのは、

   「プロテスタントの過酷な教えによる禁欲的精神が、
    天職である労働に向かったとき、資本蓄積と
    飽くことなき改善が進み、資本主義を成立させる。」

と言うことであった。厳しい教えの下で、神の最後の審判で救われることを確信するために、必死で努力している。これは痛ましいような感じもする。

 一方、日本の場合には、自分が神様と一緒になって、ものを作っている。このような、道を求めているように感じる。さらに、理趣経の教えでは、「欲が世間を整える」と言うことで、「世界を良くする大きな欲を持て」と教えている。

 私はどちらかと言えば、日本的な発想の方が、持続的な発展には有効と思う。

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2008年12月 1日 (月)

救われることを信じている人は?

 ヴェーバーの「プロ倫」を読んでいて、よく判ったのは、プロテスタント特にカルビン派の、すさまじい教義である。

 「誰が神によって救われるかは、あらかじめ決まっている。」

この教えは信者に厳しく迫り、禁欲的な生活を要求する。そのエネルギーが、死ぬまで天職で働き続けさせ、結果として資本主義が成立したと言うのが、ヴェーバーの主張である。

 確かに、神に救われていることが既に決まっている。これは、ある意味で恐いことであり、その不安逃れるための仕事と言うのも何となくわかる。ここまで書いて、日本の浄土真宗を思い出した。親鸞は皆が救われていることを、確信していた。そこで、戒律を緩めて、僧侶の肉食妻帯を許した。

 キリスト教と仏教でこうも違うのだろうか。

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2008年11月27日 (木)

資本主義の成立について

 マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神:岩波文庫」を、今一度読み直している。今回は、解説から入ってみた。ヴェーバーがこの本を書いたのは、当時の意見を踏まえて、
  「プロテスタントの教義では営利の追求を否定している。しかし、
   プロテスタントの力が強い世界から近代資本主義が生まれた。」
さらに、
  「中国やユダヤ人など他の世界では、営利の追求は
   プロテスタントの世界より認められている。
   そこでも近代資本主義は生まれなかった。」
と言う、一見逆説に見える問題提起を行い、これに対して厳密な議論で答えを提示している。このような、本を書いた背景を理解していないと、納得がいかない部分がある。

 また、今回読んで気が付いたのは、『資本主義の成立期』には、現在私達が予想するより経営者と労働者の両方に厳しいものがあり、労使の区別なく最善の努力を最低限の報酬で行うことで、資本蓄積を行って、経営体力を作り上げる必要があったということである。

 個人的には、搾取に繋がる「最低報酬で、最大成果」と言う発想は、危険と思っていたが、創成期にはこれぐらいの努力が必要だった納得した。

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2008年11月26日 (水)

キリスト教だけ取り上げるのは

 先日、江戸時代のキリスト教殉教者が、ローマ教皇庁に認められたと言う、ニュースが流れていた。確かに、江戸時代には、キリスト教に対する弾圧があったことは確かである。しかし、これだけを教えている日本の歴史教育に、大きな疑問を感じる。なぜなら、同時代にあった、「日蓮宗不受布施派」に対する弾圧に関して、教えていないからである。しかも、日蓮宗不受布施派に対しては、豊臣秀吉もキリスト教と同じく、禁制をかけている。

 このように見ると、豊臣から徳川の時代には、「排他的な宗派は弾圧を受ける」と言う流れがでている。これは、それまでの宗教がもっていた、
 「他宗派の人間を、自宗派に引き入れるのは善である」
と言う、ある意味宗教として当然の行動を、抑えるということである。

 なぜなら、このように自宗派に引き入れるのが”善”なら、武力を用いても言うことを聞かせるまで進んでいく。宗教が、暴力を否定するなどと言うのは、幻想である。
  「魂を壊すような言葉を聞くぐらいなら、
   その発言者を殺すのは、宗教的には正しい。」
これを、宗教的テロと切り捨てることは、現在の欧米文明圏と日本ぐらいである。イスラム原理主義は、これを実践している。そして、日本でも戦国時代には、比叡山と法華宗の戦いなどはこれに当てはまるであろう。

 そのような宗教の暴力性を抑えて平和を生んだ、織田信長・豊臣秀吉~江戸幕府の発明を、世界に誇るべきではないか。更に言えば、仏教と神道の融合を実現した、聖徳太子から弘法大師へ道も、日本の誇るべき文化遺産ではないかと思う。

 このような力を、イスラム原理主義とキリスト教の対立への調停に仕えないであろうか。

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2008年11月 7日 (金)

欲は悪いものか?

 ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読むと、禁欲精神が資本主義を生み出したと言うことになる。確かに、禁欲・勤勉と言うつながりは、何となく解かる。

 しかし、欲というものは本当に悪いものであろうか。仏教では、理趣経に
  「欲が世間をととのえて~~」
とある。ただし、自分のことだけでなく、世界を良くすると言う、”大きな欲”が大切である。

 このように、”金を儲ける”と言う行為を、
  『世間を良くする大きな欲の行為』
と評価する方が、資本家の悪人呼ばわりよりは、よっぽど良いと思う。

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2008年10月25日 (土)

仏像の受難

 ある人が、
  「仏像は昔は信仰の対象だったが、今は美術品に堕落した。」
と言ったらしい。

 しかしもう一歩昔に戻ってしまうと、明治維新の廃仏毀釈時代では、
  「仏像は風呂の薪であった。」
と言うこともある。奈良の興福寺などでは、「仏風呂」と言ったらしい。

 そのような立派な伝統のある、奈良の仏教界が、仏に角を生やすイメージを糾弾している。自分のしたことは棚に上げ、人には偉そうに言う。何か、お釈迦様が嘆いていそうに思う。

 さてそのような迫害を生き延びた、興福寺の寺宝展が開かれているらしい。そのような状況を生き延びた仏様だから、さぞご利益があると思う。もっとも、燃えにくい物で風呂につかねないだけかもしれないが・・・

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2008年10月12日 (日)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神について

 ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」について、もう少し補足しておく。前の記事では、ヴェーバーの言う『資本主義の精神』について書いたが、ここではその精神が何処から来たかについて、ヴェーバーの論旨に従って書いてみる。

 資本主義の精神には、禁欲的な勤勉のエートス(=倫理的な環境)が必要である。プロテスタントの一派、カルヴィニズムの教理では、
  「自分が救われているかどうかは、神の元では既に決まっている。」
そのために、信徒は、
  「自分の救いを確信するため天職に励む。」
ことで、安心するようになる。また、別の一派、ピューリタンは、
  「後期のピューリタンたちは自分の行動ばかりでなく、神の行動を
   さえも審査して、生涯のあらゆる出来事のうちに神の指をみた。
   彼らは、カルヴァンの真正の教説とは異なって、神がなぜにこの、
   あるいはあのように導き給うたかを知ることができたのだった。
   こうして生活の聖化は、ほとんど事業経営という性格をさえ
   もつものとなりえた。」(p214)
という風に、評価能力まで、信仰の中で見出すようになった。

 このような世俗内の禁欲が、萌芽期の資本主義を育てるのに役立つと言うのが、ヴェーバーの論旨である。

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2008年9月25日 (木)

真善美の一体化教育

 前に、日本の国語教育は、道徳教育と国語教育が分離していないと書いた。真善美と言うが、国語は真理の伝達手段であり、道徳は善の伝達であるから、この両者の分離ができていないと言うことである。

 しかし、昔はもっと上手があった。江戸時代の寺子屋では、習字の教材に、貞永式目や論語の一説を使った場合がある。この場合、素読と併合しているから、真善美を一気に学ぶことになる。

 ここまで一体化すると、見事なすり合わせの教材設計と言える。日本の擦り合わせ上手は案外このようなところにあったりして・・・

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2008年9月24日 (水)

日本人の論理性について

 日本人の論理性に関しては、欧米の論理との違いについて、思いついたことがある。欧米の論理は、アリストテレスがまとめた三段論法が基本として、きちんと教えられている。

  AならばBである
  CはAである
 ーーーーーーーーー
  故に、CはBである

  例えば

  人間ならば死ぬ
  ソクラテスは人間である
  ーーーーーーーーーーー
  故にソクラテスは死ぬ

と言う形で議論している。しかし、日本的な論理は一寸違うように思う。

  ソクラテスは人間である
  ーーーーーーーーーーー
  故にソクラテスは死ぬ

 このような二段論法で、議論をしていることが多い。「人間ならば死ぬ」と言う前提は、常識である。改めて言う必要はない。このような発想で、議論しているように思う。

 この発想を辿っていくと、聖徳太子の十七条の憲法の「和ぐ以て貴しとし」が出てくる。さらに、貞永式目を作った、北条泰時に深く影響を与えた、明恵上人の「あるべきようわ」の思想があるように感じる。

 ただし、人には色々な見方があり、前提が異なる議論を行うためには、やはりきちんとした三段論法を使って欲しいと思う。

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2008年9月23日 (火)

鎌倉時代から教訓

 井沢元彦氏の「日本史集中講義」を読んだ。色々面白い見方があるが、浄土真宗の布教の話が参考になった。親鸞の教えは大衆化は難しかったが、蓮如が一気に大衆化した。其の一つの仕組みが、信者の集まりである「講」である。ここで重要なことは、当時は
  「自由にものの言える場がほとんどなかった」
と言うことである。本当に会話や、意見を聞くと言うことは、大衆には遠い世界であったのであろう。

 そう言えば、北条泰時と明恵上人の関係も、何となくお互いが相手のことを受け入れたと見ることができる。当時の武士は、都の貴族には何となく、軽蔑されていたことは、想像に難くない。しかし明恵上人の対応には、そのような偏見は感じられない。上人は全てがお釈迦様の弟子ではないか。

 このように見ると、相手の言うこと聴き、受け入れる重要性が見えてくる。

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2008年9月14日 (日)

日本人と法

 この国の法律の変化を考えてみると、何となく見えて来るものがある。

 まず、聖徳太子の憲法17条(固有法?)
  「和も持って貴しとなす」

 中国の制度に倣った、大宝律令(継受法)

 貞永式目(固有法)
  「あるべきようわ」・・・明恵上人の教え

 明治憲法(継受法)

 現在の憲法(継受法)

固有法の部分が、日本人の感性を示しているように思う。

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2008年9月12日 (金)

お経の読み方と論理的思考について

 日本人の論理性を考える時、仏教の影響を無視できないと思う。明治の文明開化の前では、日本の教養陣の一角には、必ず僧侶がいた。そこでどのような思考方法を身につけたか、考えてみたい。

 僧侶が勉強するものと言えば、お経であろう。私が考える、お経の読み方には二通りある。一つは顕教の読み方で、お経の内容を理屈として理解していく方法である。この代表は、天台宗の開祖最澄であろう。法華経の寿量品が、悟りを開いたお釈迦様が、凡人のように死ぬのはなぜか、見事に説明している。このような理屈を、きちんと理解する読み方である。

 一方は密教の読み方である。お経を解く菩薩の境地を、自ら体験する読み方である。これは、弘法大師空海が代表である。例えば理趣経の百字の偈や、般若心経秘鍵などの読み方が、これに当たる。またこれに近い読みかたとして、お経を唱えれば、それを聞いて、喜んでくれる菩薩様方のお力をいただく、と言う読み方もある。白隠禅師の延命十句観音経の読み方などがこれである。

 日本人の思考法には、密教的な読み方の影響も深く根を下ろしているように思う。

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2008年8月12日 (火)

奈良の仏教について

 奈良のマスコットキャラクターについて、仏教界から色々意見があるらしい。しかし、奈良の仏教界は、そんなこといえるのだろうか。

 明治の廃仏毀釈の時に、京都から、「今日から仏教は廃止である。僧は還俗せよ、もし希望があれば春日神社の神官にしてもいい」という書付で、仏様を薪にした。魂を密教の方法で抜いて、薪にして風呂をわかし、仏風呂といった。

 これは、司馬遼太郎氏の話しだが、これは十分信じられる。

 しかしこれと比べれば、鹿の角など、可愛いものだと思う。

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2008年7月27日 (日)

宗教について色々

 ヴェーバーの著作を勉強していると、日本の学校教育では宗教の扱いが、軽んじられているかよく解る。例えば、カソリックとプロテスタントの違いである。私は、プロテスタントが聖書を読むことで、カソリック教会に反発したというぐらいしか理解していなかった。しかし、プロテスタントは、聖書の根本まで遡った厳密な動きと言うことは、始めて知った。

 考えてみると、既存宗教から派生する新宗派は、基本経典の新解釈か、教祖の霊的体験によるカリスマ化によることが多い。基本経典に依存する場合には、原理主義になり信者を厳しく律するようになることが多い。

 さて、そこで日蓮宗を考えて見た。法華経を重視する観点では、日本天台宗の原点に戻っているように思う。しかし、経典自体を尊んだり、日蓮大菩薩等と言うことは、開祖の霊的体験のカリスマ依存と言うことになる。これは、最澄のもっとも嫌ったことであり、比叡山の僧兵が、異端排除のため日蓮宗徒を攻撃したのも、分からないことは無い。

 このような、宗教の異端排除のための武力行使は、宗教の常識であるが、日本では非常識になっている。比叡山の皆殺しの前に、天安法華の乱で京の町衆を皆殺しにした、比叡山の僧兵についても理解しておく必要がある。ここまで平和な宗教にしたのは、織田信長~徳川幕府の一連の政策が効果を発揮したと思う。

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2008年7月24日 (木)

托鉢の思想を再考

 托鉢について考えてみた。本来の宗教は、信者が自発的に差し出す寄進によって成立するものである。そのため、強固な信仰が必要である。そこで、江戸時代に徳川幕府のしたことを、見直してみると、檀家制度が出てくる。

 つまり、仏教の伝道者である僧侶は、しかるべき寺に入りさえすれば、生活が保障される制度になっている。そのため、強固な信仰は必要ではない。しかも他宗派の信徒を、自分の信仰に引きずり込むような、動きは厳しく制限される。このようにして、戦国時代の仏教の危険性を、安全化した功績は大きい。

 しかし、僧侶の生活を保障する制度が、現在は他でも副作用があるように感じる。

 大学なども、発祥を考えれば、受講者の費用負担で成立したものである。つまり、関係者の寄進で成立している。それが、税金からの安定した資金投入があると、競争力が弱くなると思う。

 本来大学は、寄進で成立するものではないか?大学教授は、一度托鉢に出たらどうだろう。

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2008年7月 9日 (水)

死を学ぶ

 今の医療は、死について学んでいるのであろうか?どうも、解剖等の授業が行われているようだが、死体の研究や、死に至るプロセスを、多く学んでいるとは思えない。

 そういえば、工学の世界でも、機械が壊れる段階について、学ぶのは不十分なように思う。

 無事を祈る、言霊信仰が行き過ぎているように思う。

 

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2008年7月 4日 (金)

右脳と左脳について

 先日テレビで脳の不思議について、特集をしていた。特にサヴァン症候群の話しについて、考えることが多かった。彼らの記憶力の説明として、
   「右脳の情報が無制限に取り出せる」
という説明があった。通常の場合は、左脳で取り出せる情報を制限している。情報を絞ることで、推論などができるようになっている。

 こう考えると、人間の学習は、右脳を抑える方向で、訓練しているように思う。右脳を使えという言うことは、本当に人間の能力を増やすのであろうか?

 もう一つ、右脳と左脳で分かったことがある。日本の仏教における、左脳の作用である。日本の仏教において、法華経の影響は大きい。一方、韓国では華厳経の影響が大きい。この二つのお経はどちらも、久遠の仏の救いについて述べたものであるが、華厳経は全てのものに仏と言う、イメージが強く、右脳に訴えるように感じる。(これは、華厳の一部しか見ていないというご批判はあるかも!)一方、法華経では、壽量本に示すように、きちんと論理的に如来の寿命が無限であることを解き明かす。これは左能の世界である。

 なお、日本の法華経に関しては、聖徳太子の影響も大きいと思う。

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2008年7月 1日 (火)

罪の意識

 海外の世界文化遺産に、日本人の旅行者が落書きをしたというニュースが相次いでいる。しかし、彼らが罰せられていないのが不思議である。

 特に、日本は他国の文化・宗教に関して、無神経すぎる。国によっては、国旗・国家に対する敬意を示さないだけで罪になる。それを、独裁国のように、あしざまに言う人種もいる。

 今回のような宗教的財産を、汚す罪は、非常に重いものと思う。中世なら、教会への侮辱と言うことで、宗教裁判で火あぶりになるかもしれない。それを野蛮と言う、この国の”進歩的教育”がこのような、人間をつくったのではないか。

 特に文化財のように、ものを言わないものの被害に関しては、皆で厳しく追及すべきと思う。

 

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2008年5月 9日 (金)

キリスト教禁止について

 江戸時代のことを少し考えてみた。徳川幕府のキリシタン禁制は、中学・高校の歴史で学んだが、同時期にあった「日蓮宗不受布施派」への禁制は、教わった覚えがない。西欧崇拝かつマルクス主義の歴史学では、
  「キリスト教は権力者に都合が悪いから、禁制にした。」
と教えられた。

 しかし、キリスト教と日蓮宗不受布施派は、どちらも他宗派への排斥を行う教えである。更に、戦国時代までは、仏教と言えども、他宗派への武力攻撃を行っていた。織田信長の比叡山焼き討ちを非難する人は多いが、その比叡山の僧兵が、法華宗の宗徒を焼き討ちにしたこと。また、高野山と根来の僧兵の争いを、同時に述べる人は少ない。

 考えてみれば、宗教における異端は地獄に落ちる救いのないものであるから、武力を持ってしてでもやめさせるのが、宗教の慈悲かもしれない。そういう意味では宗教戦争を行うのも、当たり前に見えてくる。

 但し、日本では聖徳太子の大発明で、従来の神道と新たな仏教の融和が行われている。これこそ世界に誇る、日本の独自性かもしれない。

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2008年5月 4日 (日)

禅について

 セルフ・コントロールの医学 (NHKブックス 321) の第6章に、「魔境」と言う項目がある。魔境とは座禅をしている時に、感じる神秘的な体験のことである。禅ではこれを乗り越えて、真の悟りを目指すらしい。

 さて、この本の243ページには、静岡県の松蔭寺の、白隠禅師の墓の周りの、2,30の小さな丸石の墓の話がある。それらは、白隠禅師のもとで修業中に発狂して死んだ雲水の墓だと言う。白隠禅師は、『内観法』『軟酥の法』を教えて、禅病対策を教えていた。そういう立派な師の下でも、30もの墓がある。

 筑摩書房の「公案ー実践的禅入門:秋月 竜珉著」には、「一度座って死んだ上で言える言葉」と言う表現があった。このように、死と正面から向かい合って禅と言うものが成立したと思う。少なくとも江戸時代の侍は、自らを処する方法として、切腹の作法を教えられていた。

 命を大切にししかも死というものに常に向き合う。これが本当の侍であろう。これを理解し、体得できていない人間が武士道と言っているのが、現在のひずみではと思う。

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2008年1月14日 (月)

日本の特殊性

 アメリカのイラク政策が、難しい状況にある。アメリカの考えている、模範は第二次大戦後の、日本の統治を考えていたらしい。

 しかし日本の戦後の統治は、ある意味で木と竹を繋いだ制度である。確かに、憲法はアメリカが指導して作った。しかしながら、その下の法律は、大部分が従来のままである。そのような状況で、よく制度変更を受け入れたと思う。

 そこで、日本の特性を考えてみよう。昔から和魂洋才・和魂漢才で、輸入文明を上手に消化していた。さらに、聖徳太子に始る神仏の融合もある。

 このような、文明消化力を持った日本だからこそ、戦後のアメリカ政策が無事入ったと思う。イスラムの教えの国には、難しいものがあると思う。

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2007年12月29日 (土)

比叡山の役割

 織田信長と比叡山について考えてみた。織田信長の比叡山の焼き討ちは、残虐行為として有名である。しかし、その前に比叡山の僧兵は、法華宗の宗徒を襲い、皆殺しにしたことを書いている歴史教科書は少ない。それ以外に、戦国時代には、本願寺は大名より力があったし、根来寺の鉄砲衆も有名である。

 つまり織田信長以前の、日本の仏教は、戦闘力を維持していたのである。ある意味で、宗教の異端は論理の説得を超えた世界である。そういう意味では、異端者を処罰するのは、武力討伐もやむをえないと言う発想もある。高野山の僧兵は、新義真言宗である、根来の僧兵と戦ったとも聞く。そこで比叡山の僧兵は、一寸余計なことをしすぎたのかもしれない。ただし、真言宗や南都の仏教以外は、大部分比叡山から出たのであるから、比叡山の僧兵に言わせれば全て、異端と言うことが出来るかもしれない。前に書いたが、日蓮の教えは、天台宗にとっては、異端そのものであろう。

 そこで、織田信長は、仏教を聖徳太子の原点に戻し、平和主義の日本仏教を復元したのである。その成果を受け、比叡山も平和な仏教の世界になった。そして現在は、世界に宗教による、平和を説いている。その中では、織田信長の虐殺を解いても、比叡山の僧兵が京の町衆の主体である法華宗徒を殲滅したことは、あまり大きい声で言わない。

 どこかの国で、色々戦争をしたくせに、平和憲法のことを大きな顔で説く姿と、何となく重なって見えてしまった。 

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2007年10月16日 (火)

宗教について

 またカルト宗教のリンチ事件のニュースが紙面を賑わしていた。そこで思うのだが、宗教の中で、異端の扱いは最後には、暴力になることが多いのではないか。宗教は、本質的に価値観であり、理屈では簡単に動くようなものではない。

 一寸昔に戻って、日本の仏教を考えてみよう。僧兵の役目は、本質的には異端の排除である。高野山と根来寺の真言宗の争い、比叡山と法華宗の戦いは、どちらも宗祖の教えに背く、異端の教えを排除するためには、力の行使も辞せない戦いであった。

 確かに弘法大師は、南都の僧侶達の前に大日如来の姿を示し、通力にて圧倒しているし、日蓮上人は刀を折っている。しかしその後の、日本の僧兵は、異端排除に力の行使も辞さなかった。比叡山の法華宗焼き討ちも、世俗的な勢力争いではなく、「宗祖伝経大師の教えを汚して、法華経を読まず題目を唱える異端の排除」と考えたい。

 そう考えると、織田信長は宗教も、問答で解決させようとした平和主義者であった。 

 歴史に関してもう一度考え直してみたい。

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2007年10月11日 (木)

武士道の効果

 日本の教育で、「金儲けを軽蔑する傾向」があるという事は、何回か述べた。その原因として、マルクス主義と儒教の2つを、今までは考えていた。

 しかしもう一つ、見落としていたものがあった。それは、明治以降の「武士道」である。なぜ明治以降かというと、明治時代の「士族の商法」の恨みを感じるからである。士族の商法で失敗した人たちが、金儲けを軽蔑するのは、何となくわかる。

 もっとも、「田沼意次を否定した文化がある」と言う反論もあるかもしれない。しかしこれも、彼を排斥した「松平定信の書き物」が作ったイメージが大きい。

 こう考えてみると、昔の日本は結構実学を尊敬しているように思う。弘法大師様は、土木工事でも立派な業績を残している。江戸時代には、大坂商人が支えた「懐徳堂」もある。何か明治以降の、変化は大きいように思う。

武士道 (岩波文庫)

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2007年10月 8日 (月)

禅宗の指導法

 日本の教育を、ややこしくしているものに、一つはマルクス主義史観と思っていたが、もう一つ思い当たった。それは”禅”の教えである。?十年前の私達の若い頃は、「禅かマルクスにかぶれる」と言うのが教養人といわれていた。

 現在では、マルクス主義史観の問題は、「年貢で搾取した込めは何処に行った」と言う風に、適切なる追求がされていると思う。しかし、禅の影響については、見過ごされている面があるように思う。そこで私が若い頃であった影響を受けた、「公案:実践的禅入門:秋月龍珉著、ちくま文庫 あー8」から、教育に影響している部分を抜いてみよう。

 まず、「不立文字」の原則である。つまり「言葉では言い尽くせないものがある」と考えている。この影響は、「西田幾太郎の講演で、哲学を理解できないが哲学を見た」と言う感想に繋がっていく。

 師資契合:禅の修業において、師と弟子の気合が符節をあわせるようにぴたりと会うこと。

「三年学ばずして師を選べ」、「師資相承」正しい師匠から伝承されることが重要である。

 よき師は求めて得られるものでもない。しかしまた求めなくてはけっして得られない。

 「しからば良師はいかにして見つけるか。それには師たるべき人の私生活を観察するのが捷径であろう。言行一致するや否や、常識的に見て私生活が立派なりやを否やを観察すれば、だいたい誤りはない。私は禅機とともに禅によって練られたヒューマニティに魅力を覚える」 野口明先生

 また、成長を示す十牛図の扱いについて、現在の教育に通じるものがあるが、別途書いてみたい。

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体罰問題へもう一つの切り口

 相撲部屋の話しも含めて、体罰に関する議論が色々ある。ここで、体罰に関する新たな観点で、議論してみたい。今回の議論の本質は、
 「体罰向けの指導書がないので体罰反対である」
と言う観点である。指導書と言うのは、教科書出版会社が教師向けに、教科書を使って事業を進める方法を書き加えた本である。検索して見ると以下の様な例が見つかった。http://www.nichibun.net/textbook/heisei_19/guidancebook/index.php

 私も正規教師ではないので、現物は見ていないが中々の優れものらしい。特に大学卒業して直ぐの新卒先生が授業できると言うのが不思議であったが、指導書のことを聞き何となく解った。

 なお、指導書について二人の元教師の名(迷)言がある。ある人が、作文指導をしたいと言った時の発言である。
 「あんた指導書なしにやってはいけません」
 「作文の指導書はない。だから、学校では教え方が不十分、頑張りなさい」

 このように指導書なしで、教えられない先生に、「指導書なしで体罰」などされると、たまったものではない!そういう意味で、私は体罰反対にせざるを得ない。

 なお、体罰の一つの根拠として、禅宗の警策の使用を挙げる人もいる。ここでもこのような公案がある。

 「徳山・行応底は且らく置く。上座が一棒作縻生(そもさん)か受用せん」

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2007年9月30日 (日)

歴史の見方

 昨日の仏教と神道の問題について、もう一度視点を変えて考えてみた。大きく年表で見てみよう。

 594年 聖徳太子の仏教興隆の詔
 710年 平城京への遷都
 794年 平安京への遷都
1180年 平重衛の奈良攻めで、東大寺・興福寺を焼く
1185年 平氏が滅びる
1571年 織田信長の比叡山攻め
1599年 日蓮宗不受布施派は、キリシタン同様禁制となる
1637年 島原の乱の影響で、徳川幕府は檀家制度を強化
1687年 生類憐みの令
1868年~ 廃仏毀釈の流れで、神仏分離

 この年表で見る限り、仏教と神道が分かれたのは、1868~2007の140年足らずである。一方、奈良の都が出来てから、1150年間は神仏の仲は非常に良かった。(正しくは僧侶と神官の関係)興福寺の僧兵が、春日大社の神木を担いで行った強訴も有名である。

 もう一つ、僧兵の話しから、仏教の”平和”主義について考えてみたい。まず僧兵の存在である。平安時代は強訴で活躍したが、平氏の奈良攻めに対しても、立派に抵抗している。また、戦いの相手には、呪詛で殺すことも行っている。例えば、平家滅亡は奈良の寺を焼いた罪としている。これは、「織田信長の比叡山攻め~徳川幕府の檀家制度~徳川綱吉の生類憐みの令」の100年で、やっと平和化している。こう考えると、日本仏教の平和主義も、たったの320年の歴史でしかない。もっとも、聖徳太子の神仏融和を考慮すると、1400年の歴史といえないこともない。

 このように、大きく歴史をとらえると、見えてくるものもある。昔は学校の教室の一番前には歴史年表が貼ってあった。これの見方を教えてもらえなかったのが残念である。もっとも当時の教育は、マルクス主義で、変な歴史観になったかもしれないので、現在考えるほうが良いのかも知れない。 

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2007年9月29日 (土)

今朝の朝日新聞を見て

 今朝の朝日新聞を見て、色々と気になった記事がある。

1.3面(関西版?)「前鳥取県知事 片山善博さんに聞く」の記事

 この主旨は、「大阪がしっかりして、西日本のリーダーとなれ」と言うことらしい。しかし、このような中央集権的発想は、それこそ東京的・霞ヶ関の官僚的発想だと思う。

 関西には、商売の中心大阪と、千年の古都である京都、国際都市神戸等の色々な個性が、それぞれ棲み分けている。(良い意味も含めて)変人を育てる京都大学、実用的な大阪大学、経済・経営では阪大・京大を無視していた神戸大学と色々面白い分担がある。これを一律に、大阪中心の共同体と言っても上手くいかなでしょうね。ただ大阪の官庁に自覚を促すのでは、スローガンとしては良いかもしれない。

2.35面(関西版) 神道・仏教共に祈る

 これは、
  「ミャンマー情勢などを懸念し、奈良の主要寺社の僧侶と神職が
   春日大社で、紛争の早期終結を祈った。」

と言う記事である。

 この記事自体は、悪くないが
  「仏教、神道の宗教者がこうした行事を一緒に開くのは異例のことだ」

と言う表現には、おいおいと言いたくなる。歴史的に見れば、神道と仏教の疎遠な関係は、明治の廃仏毀釈以降の話である。千年のことにとってはホンの100年一寸の出来事である。まあ、興福寺の僧侶から春日大社の神官に変身した、立派な方々のやったことを、考えれば少しは寺側に恨みがあるかもしれないが・・・

 春日明神と明恵上人の世界を引き出して、もう一度考えて欲しいと思った。

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2007年8月26日 (日)

受け入れられない生徒への救い

 前の記事を踏まえて、学校内で荒れている子供の話を考えてみた。今の教育では、成績が悪い場合は救いがないように見える。

 この対策としては、「全人格での教育」が望ましいのは、総論としては良いと思う。しかし、ここで一つの条件がある。今の教育の評価は、「良くも悪くも成績中心」評価である。しかしこれが、全人格教育になると、評価が悪くなると「全人格否定」となってしまう。これでは救いが無い。

 また、逆の見方で見ると、「教育成果が出ない生徒」を、教師がどのように処遇するかも、怖いものがある。山本七平氏の「ヨブ記」の解釈ではないが、「効果がでないのは生徒が悪い」と言う感じで進めると、救いがなくなってしまう。

 これを踏まえて、今本当に必要なものは
 「教える側の不完全さを自覚した全人格教育」
だと考える。これは、教える側には大きな負担であるが、教師の長期的な育成を含めて、対応して欲しいと思う。なお、「不完全さを自覚した、全人格教育」は、終戦直後の学校教育で成立していたと思う。「戦後の教科書墨塗り」の反省を背負いながらの、全人格教育には、良いものがあったと思う。もっとも、自分の反省をせずに、天皇批判ばかり叫んで、さらに押し付けに転向した、困った先生もいたが・・・

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2007年8月21日 (火)

相撲とは何だ?

 モンゴルから来た横綱の振る舞いについて、色々取りざたされている。しかし、どうも議論の食い違いがるように思う。皆が、相撲に何を期待しているかが、外国から来た人に、伝わっていないのではと思う。

 海外の人たちは、格闘としての相撲しか見ていない。しかし、日本の相撲への期待は、神事ではないかと思う。このような暗黙的な了解での文化は、国外の人たちには、理解が出来ないものがある。自分の思いを勝手に押し付けると、海外との摩擦を引き起こさないか、心配である。

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2007年8月17日 (金)

五山の送り火

 昨日のNHKテレビで、京都五山の送り火の放送があった。そこで、妙法の送り火に関連して、戦国時代の法華宗徒の町を、比叡山の僧兵が焼き討ちした話しを、取り上げていた。

 織田信長の比叡山焼き討ちは取り上げても、「天文法華の乱」を取り上げる史書は少ない。さらに、法華宗が一向宗の寺院を焼き討ちしたのもとりあげない。

 われわれは、宗教は平和なものと考えている。しかし、考えてみれば、「異端の教えは人を地獄に導く」ので「いかなる手段を用いても排除すべき」である。

 そのために、宗教戦争は必然ではないかと思う。神道と仏教が融合した、日本の平和的宗教は、ある意味で奇跡である。

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2007年8月16日 (木)

京都五山の送り火を見て

 本日は、大文字を代表とする、京都五山の送り火が焚かれている。それぞれの山が、独自の方法で点灯する。それが調和するのが、千年の都に相応しい。

 日本の宗教には、『清め』の心があるように感じる。清めには。『火』によるものと『水』によるものがある。どちらかと言うと、『火』は下から上に起こり人体では腹から発生する。『水』は、上から下に下りてきて、頭からかぶるものである。宗教的儀式でも、護摩を焚く場合と、頭から水をかぶり、滝に打たれる水行がある。水の理性と火の胆力の違いではと思う。

 今の世の中は、「頭で考える理性が走りすぎている」ように思うが、腹で火を燃やす力も必要ではないかと思う。

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2007年8月10日 (金)

日本人は劇的が好き?

 少し遅れた話になるが、臨床心理学者の河合隼雄さんが、7/19にご逝去された。河合さんの功績は色々あるが、ユング派の精神分析を日本紹介したことは大きい。逆に彼が偉大すぎて、
  「日本のカウンセリングは、精神分析が主流」
と誤解している向きも多いように思う。フロイトに始まる精神分析は、あることが見つかれば、劇的に病気が治るような印象を人に与えている。

 関連して、禅においても、見性という体験で、一気に世界観が変わるような、印象がある。

 しかしカウンセリングにおいては、まず来談者を受け入れる、ロジャーズの流れが主流であり、禅でも単に座り呼吸を整えるだけでも効果がある。

 劇的な変化を求めるのも良いが、少しずつの進化を地道に求める努力も重要だと思う。 

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2007年8月 4日 (土)

韓国のキリスト教

 タリバンの人質騒動に関して、前にも書いたが、もう少し補足しておく。http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_58c3.html

 現在の韓国では、キリスト教が全盛で多くの組織が、布教をしているとの事である。布教と言うか、多数派工作と言うか、勧誘と言うか、言い方には色々あるが、
  「勢力拡大のため海外まで出る派も多い」
と言うことである。しかも、キリスト教の原理主義が多いという話である。

 ここまで聞くと、十字軍や南米でのキリスト教の侵略を、思い出してしまった。イスラムの原理主義のタリバンと、キリスト教の原理主義では、戦いになるのは自然の成り行きであろう。しかし、
 「剣か、貢納か、コーランか?」
と言う、イスラム教の布教方針から言えば、人質と身代金と言う解決もあるかもしれない。

 韓国のキリスト教の布教に関して、日本でももっと知るべきではないかと思う。日本は、日本教と言う武器があるので、キリスト教の侵入を、料理したが、韓国はそうではなかった。山本七平氏がこれを見たらどのように、述べるか聞いてみたいと思った。

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2007年7月29日 (日)

弘法大師のご遺徳をもう一度

 昨日の新聞で、種智院大学が、仏教学部の名称を変更して人文学部にすると言う記事を載せていた。記事のホームページは、以下を参照して欲しいが、大学の生き残り作戦と言う、とらえ方であった。

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200707280066.html

また、同大学のホームページは、ここである。

http://www.shuchiin.ac.jp/

さて、ここで

 「本学のルーツをたどると、弘法大師創設の
  『綜藝種智院』に至ります。」

と言う記載を見て、一寸待ってそんな浅薄な話しで済ましては、お大師様に申し訳が立たないという気がした。日蓮宗や浄土宗系の大学ならともかく、弘法大師の伝統を引く大学なら、人文科学は言うまでもなく、工学部や経営学部を創設しても不思議ではない。

 まず、現在我々が使っている五十音の表は、弘法大師が作ったという説がかなり有力である。なぜなら、50音は母音・子音の区別が確り判らないと構築が難しい。これは、サンスクリット語の知識があり、その他の言葉を使いこなし、しかも真言での発声法も身に付けた、弘法大師以外では、あの時代では、とても出来そうにない。つまり、弘法大師様は、その当時の世界最高の言語学者であったのである。

 一方、満濃の池の工事と言う大プロジェクトを成功させた、土木技術とプロジェクト管理力は、工学部と経営学部の先祖といえるであろう。話しは少しそれるが、聖徳太子も『大工の神様』と言う伝承もある。

 このように、日本思想史上の2大巨人が、工学系等での指導者であったことは、明治維新後の日本の工学教育の推進に、潜在的な支えとなったと思う。一言指摘すると、ヨーロッパでは、工学部の地位は低く、東京大学の工学部が世界初の総合大学の工学部であった。

 種智院大学には、お大師様の遺徳を継ぐべき立場として、小さく閉じこもって欲しくないと思う。

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