ご縁のあった人たち

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2021年2月15日 (月)

プラトンがなぜ『国家』を書いたか?

 プラトンの大著『国家』は、『哲人政治』の有効性を示した。現在の私たちには、『哲人政治』は実現できない、または危険性が大きく、『民主制』の方がましと言う認識がある。しかし、プラトンがなぜ『哲人政治』を善いとしたのか、プラトンが生きた古代ギリシャの時代背景を想像しながら考えたことは少ないだろう。そこで、以下の問題を考えて見た。

なぜプラトンは哲人政治を善いとしたのか?

 当時の常識は、私たちのそれとは違う。まずは

大衆の裁判によりソクラテスは死刑になった

と言うプラトン達の厳しい経験を、私たちはもう一度見直すべきである。尊敬する師であったソクラテスが、大衆が裁判で有罪として死刑になった。この体験が、『民主制』への不審を抱かせただろう。さて、彼らは私たちのように、体系的な科学の知識を知っていない。彼らのレベルの学問的知識と言えば『ユークリッドの幾何学』の成功例である。エジプト文明において、ナイルの氾濫は毎年の行事であり、その後の土地の復旧とその争いの調停は政治の重点課題である。そこで、同じ形、面積と言うことをきちんと判定する。これが幾何学の力である。更に数値の扱い等を見て、

一般的な規則性を見いだす

ことは可能であると知っていた。

 このような、『普遍的な原理』を発見する可能性を、プラトンは『国家』の舵取りに求めた。こうした知的な活動は、

ソクラテスのような哲学的問答

によってのみ育つ。これがプラトンの信念であり『国家』は、これを多くの人に伝えるために書かれたと思う。

2021年2月 5日 (金)

進化か?適応か?

 「技術の進歩」と言う表現には、

進歩はよい!

と言う価値観が前提にある。しかし、このような進歩が、本当によいモノだろうか?昭和の高度成長期には

進歩はよい!

公害反対!

という対立図式があった。しかし、戦後の貧困国で生きてきた世代にとって

進歩によりとりあえず飯が食える

世界はありがたいモノであった。そこで本音として

進歩はよいモノである

と言う共通感覚があった。

 しかし、令和の現在は

多様な価値観の世界

であり、一本道の進化という考えは当てはめることができない。

 そこで必要な発想は

社会環境によく適応する

と言う目標ではないか?このような、『進化論』的社会観を超えた、新しい社会のあり方を議論していく必要がある。

  さて、進化を良いとすること、これは常識だろうか?逆に言えば,進化を認めない世界春のだろうか?

 実はこのような世界が多く存在することを、私達はもう一度確認すべきである。例えば,儒教の教えを考えてみよう。儒教の理想は

古代の聖人の指導した社会に戻る

ことであり、『昔は良かった』発想である。この文脈で考えると、キリスト教,特にローマカトリック教会が,ダーウインの進化論を否定したこととも関連している。イスラム原理主義でも,マホメットの教えに戻って判断している。

 さt、仏教をこの観点で見ると,興味深い現象がある。それは上部坐仏教と大乗仏教の対立である。『上部坐』という言葉が示すように、彼らは,仏教界のエリートであり,お釈迦様の直系の教えを受け継いでいるという自負がある。つまり、昔ながらの教えを重視している。一方、大乗仏教には,法華経の寿量品に見るように

仏は今も法を説いている

と言う信仰なので

現状に合わせて適切に対応

が正しいと言う発想になる。このような考えから、古代の教えからの変化・適応を肯定する発想になる。

2021年2月 3日 (水)

『不安』による動機付け

 今回のコロナ対応でも、人々の『不安』を煽ることで、行動させている事例が多い。ここから一歩踏み込んでみると、

私たちは子供の頃から『不安』で動機づけられている

と言う経験を思い出してしまった。小学生時代から

「勉強しないとついて行けない、将来困る」

等の脅しを受け『不安』に駆られて勉強する。

「将来何をしたいから、勉強する」
と言う
「目標に向かう勉強でなく『不安』解消の勉強」

が、学校で学ぶ多くの人の動機付けではないか?そう言えば、停電になったとき

「隣の奥さんが内も停電です」

と聞いたら安心する、と言うジョークがある。一説によると、

「田植えで横並びで作業する習性が染みついている」

為に、『横並びから外れる不安』が大きいのではと言う仮説もある。

 確かに、明治以降の学校教育では、

「均質な生徒を作ることで、一定歩調で行進させる」

ことを目標とした面もあり、その中で

「置いておかれる不安」

を強調し活用した。このように、私達は『不安』による動機付けにならされている。

 しかし、ヴェーバーが『プロ倫』で指摘したように、キリスト教文明でも

「自分が救われているという確証がない『不安』が
激しく働く原動力になる」

と言う側面もある。これと同じ反応が、日本の場合にも

「地獄に落ちないために!」

と言う恐怖で大衆を押さえた例もある。逆に、一向宗の信者達などは

「働くことは阿弥陀様の救いの保証」

と言う形で、勤勉に導いた。

 動機付けにおいて、『不安』の力と弊害をもう少し考えていきたい。

2021年1月29日 (金)

超能力への依存ではなく正攻法のスキル習得が大切

 前に「坂の上の雲」に関連して、『一発逆転の派手なモノ』を求めることの弊害について書いた。

 これは、私達のスキル習得に関しても、あてはまると思う。例えば、知識の習得に関連して、『記憶力』は重要な要素である。そこで色々な記憶力の強化法がある。私も若い頃には、渡辺式記憶術を使って、暗記問題を処理した。

 さて、この記憶力強化の中に、『イメージ記憶』の活用を説く一派がある。これは、古くは弘法大師空海などが修行した『虚空蔵求聞持法』からの伝統があるが、習得できる人とできない人がある。もっと踏み込めば、サヴァン症候群の一部の人たちが持っている力と、同じモノを求めることになる。

 このような、超人的な能力は、習得できれば便利かも知れない。しかし、そのために費やす時間は少なくないし、成功するかも解らない。そのように、派手の技を考えずに、地道に記憶しやすくする工夫が大切ではないかと思う。

 具体的には、習得したい知識をきちんと整理する。整理の中には、

原因->結果

一般論->具体例

典型的なストーリー

等の秩序を見いだして、配置よく描いてみる。このような関連付けを行うと頭に入りやすくなる。

 こうした、正攻法の学習が結果として力を付けることになると思う。 

2021年1月27日 (水)

空海は財力と権力の応援を自ら引き出した

 昨日書いた、

「科学者が自分のやりたいように権力や財力の支援を受ける」
科学者の意見が政治に反映されるまで: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

話に関して、E.E.スミスの「大宇宙の探求者」というSF作品を挙げた。この本は、スペースオペラの大家、E.E.スミスの駄作と言われている。しかし、私はこの本を見直して、ある既視感を覚えた。この本の主人公は、ある経緯で、鉱物資源を見つける超能力を持つ。この力を使い、超大企業や政治的な権力の支援を受けて、自分のやりたいことを行っていく。

「これは弘法大師空海の話ではないか!」

空海は、若いときに山の民との交流があり、水銀鉱脈を探す『丹生の民』などからの支援を受けていた。空海が、唐に渡った時に、大量の砂金を持っていた。これを使って、多くの密教法具や曼荼羅などの複製を、職人を雇って作り、日本に持ち帰った。

 空海は、日本の歴代でも最高の超能力者の一人であり、鉱脈探知のダウンジングの才能をあっただろう。それは、水銀を使う『丹生の民』にとって貴重な力であり、十分な支援を受けたであろう。また、超能力を抜きにしても、空海の学識は卓越したモノがあり、そして当時の唐の土木技術で、それを洗練させれば、さらに鉱山の採掘などにも役立つだろう。これだけでも『山の民』が、空海の留学時に砂金等の支援をしただろう。

 このように

「新しい技術を学んでくることは利益を生む」

と、当時の鉱山企業の幹部に納得させたことは、現在にも通じるモノがある。

 また空海は、帰国後も嵯峨天皇等にも、真言密教の価値を納得させ、政府の支援を引き出している。

 学者などが、

「支援がない」

と嘆く前に、空海の成果をもう一度見直すもよいのではと思う。

2021年1月19日 (火)

「国師」がいない?

 昨日の菅総理の所信表明には、色々と酷評している人が多い。確かに、コロナに対する対応も不十分だし、この国の将来ビジョンも見えない。しかし、この問題は総理を責めるだけで良いのだろうか?

 まず、コロナの問題に関しては、早急なるワクチンの接種で、集団の免疫力を増加する以外に、根本的な対応策は見えていない。また、コロナによる経済の落ち込みは、もっと対応が難しい。「GOTO~」で景気が良くなる、直接的な効果を期待できそうに無い。

 さて、もう少し見方を変えて

政策を考える智慧はどこにあるのか?

と言う問題を考えてみよう。

 政治に強烈なリーダーシップを求める。この場合、多くは「カリスマ」の出現を求め、彼の智慧に皆が従うという形になる。ただし、個人の能力を超える場合には、彼を支えるスタッフの黒子としての働きもある。

 一方、アメリカなどのようにシンクタンクが独立して存在し、そこから多様な提案が出て、それを政治家が選ぶという形もある。日本の場合には、霞が関の官僚機構が「日本最大のシンクタンク」としての働きをしていた。ただし、霞が関の官僚が一番効果を発揮したのは、戦後の高度成長であり、そこでの方針は

「アメリカに追いつけ」

と言う単調成長路線で、

「将来ビジョンを自分で描く必要なし」

と言う面もあった。

 さて、現在のような、多様化対応の時代には、政府に対して、色々な側面から建設的な意見や、ビジョンを言う人間が必要になる。

「現在こそ『国師』と言える人財」

が必要だと思う。なお、『国師』といっても、

「カリスマ的な権威で教えを押しつける」

人ではなく

「皆が納得するように教えを説く」
そして
「他人の意見の良いところを受け入れて修正する」

柔軟性も必要である。現在の学者や専門家には、このような面が少し弱いように思う。

2021年1月15日 (金)

絶対的な『善』とは?

 プラトンの『国家』を読むと、絶対的な『善』という概念が出てくる。プラトンの発想では、

「神が作った『善』である国家」

を理想としている。この問題に関しては前にも書いた。

全能の神と進化する神: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 さて、今回議論したいことは

「絶対的な『善』はあるのか」

と言う問題である。

 私は、この問いに対して

「絶対的な『善』はあるが、キリスト教等の『神の世界』ではない」
「大乗仏教で言う根本的な仏の力が絶対的な『善』である」

と応える。この違いは、視野の広さによる。大乗仏教の仏の力は、法界全てを広く見てその中での最善を見いだしている。広いという意味は、空間的な広がりだけでなく、過去・現在・未来の時間軸にも広がっている。近頃『持続可能性』などと言っているが、過去~未来の時間軸で考える人なら、今まで行ってきたことである。

 また、キリスト教の宣教師と日本大衆の議論として伝わっている

「ありがたい耶蘇の教えでは、既に死んでいる祖先も救われるのか?」
「その人達の裁きは終わっている。あなた方を救うコトが大事だ!」
「そんな効果の無い教えなら入らない」
(日本の仏教は、子孫の信心で先祖も救われると説く)

議論は、大乗仏教の仏の力が、過去まで遡ることを示している。このような広い観点で、多くの人を救う力が

『絶対の善』

ではないかと思う。

2021年1月13日 (水)

全能の神と進化する神

 プラトンの『国家』を読んでいて、感じることは、

「プラトンは神が作った『国家』は完全なモノ」

と信じている。そこでは

「神が行うことが『絶対的な善』である」

と言う信念がある。これが私達都は少し違うように思う。私の感じる神様ヤ仏様は

「進化して現在の状況に合わせる」

力があると思っている。この発想は、大乗仏教の成立とも関連している。大乗仏教は、当時において

「お釈迦様の正当な教えを受け継いだ」

『上部坐仏教』に対抗する形で生まれている。つまり

「伝統的なモノに対する反発」

が根底にある。それに対抗して

「仏の命は永遠であり、現在も霊山で法を説いている」

従って

「現在の状況に合わせた法を説く」

と言う、仏様の進化というか適応力を信じている。

 この発想は、

「昔の社会が理想」

という儒教とも一線を隔する。

 また、状況に対応するから、『絶対の善』という思想とも相性が悪くなると思う。

 日本教と西洋文明の違いがまた一つ見えてきた。

2021年1月 6日 (水)

『無限』という概念の力

 プラトンの功績は、イデアという『概念装置』を見いだした点にある。ただし、『概念』を教育で伝えられた人間は、その概念の一人歩きというか、上滑りに注意する必要がある。

 例えば、私たちは数学などを学び『無限大』や『無限小』と言う概念を使っている。高校で微分の初歩を学ぶときに、

「無限に小さい区間での変化を見ていく」

と言う説明で、微分という物がわかった感じになっている。

 一方、数値の扱いを色々と行って冪乗の操作などを習っていると、

「無限に大きい」

と言うことが何となく解った気になっている。実際は数学の厳密な体系によって、『無限大』等の定義を行わないと行けないのだが、直観的な感覚で

「とても大きいモノ」

ぐらいで逃げている。このような『無限大』の概念は、数学で言うなら『可算無限』の領域をでていないことが多い。私も、『可算無限』と『実無限』の違いがやっとわかったのは50過ぎて、数学の基礎を見直したときであった。

 さて、このような『概念装置』を持たないときには、どのようなことになるだろう。事例が、仏教の経典にある。大乗仏教の経典には、

「久遠の寿命の仏」

と言う表現があリ、久遠の昔と言うことを

「天人の羽衣が岩の表面をかする。これを繰り返して、岩がなくなるまでの時間」
「多くの世界をすりつぶして持ち、それを一粒づつ落としながら過ぎゆく時間」

等の

「具体的な動作」

で久遠の昔を表現している。

 このような具体性から自由になるのが、抽象的な概念の効果であるが、上滑りする危険性がある。

2020年12月31日 (木)

2020年の振り返り

 今年も残りわずかになった。コロナに大きく影響された一年だったが、私個人にも色々と大きな変化があった。

 良い方の変化は、今まで考えていたモヤモヤが、かなりはっきりしたように思う。今年一年で見えたモノは

  1. 日本教の発想
  2. 質的研究の発想
  3. 空海が見た梵字のメディア論的な意味づけ
  4. モデルの安定性
  5. ヴェーバー著作の見直し

がある。来年はこれらをもう少し深めて、具体的な話に持って行きたい。

 さて、私個人にとっては、病魔にやられた一年であった。五月ぐらいからの皮膚病が、国指定難病である天疱瘡とわかり、6月末に入院、8月頭に多淫と、一ヶ月超えの入院生活を送った。しかもその最中にステロイドの大量投与(50mg/日)や血液製剤の点滴を受け、現在も免疫抑制剤を飲みながら、ステロイドの減薬をしている。このステロイドの減薬は長くかかりそうである。

 このような、吉凶両面で激しい一年だったが、来年はもう少し平安に迎えたいと思う。

 読者の皆様に、この一年のご愛読を感謝し、来年のご多幸を祈念して今年のまとめとしたい。

 

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