ご縁のあった人たち

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2020年7月 1日 (水)

正しいものは作られたもの

「正しいと言い切れるモノは作られたモノだけである」

この言葉は、社会学の祖と言われている、ウ゛ィーコが、デカルトの厳密なる思考方に対立して言った言葉で、人間の力の限界を示している。確かに、自然界の物事で

「正しい」

と言い切れるだろうか?何らかの不確定要素が存在する。これに対して謙虚な対応を求めた言葉であろう。

 しかし、これは西洋文明の、人間の力を有限とする立場である。仏教の一部では、人間の力を仏の力と同じと見る。

 法界体性智と言うように、「法界」自らの体であり性である。この力で創造し、その責任を取る。これが仏の力だと思う。だから、「正しい」と言い切れる。

2020年6月22日 (月)

智慧の大衆化に関してもう一歩議論が必要

 前に書いた、知識の大衆化と智慧の大衆化に関する議論と関連して、西洋文明と『日本教』の立場の大きな違いが見えた。つまり

      西洋文明:人間は限られた知恵しか無い

      日本教(大乗仏教):衆生にも仏の智慧がある

という、人間の知恵の可能性に関する信仰の違いである。可能性を信じなければ、何事も成功しない。

 西洋文明では、

「神様の智慧には人間はとても及ばない」

という基本的な思想があり、更に人間の間にも、

「哲学者の智慧だけが真相に迫れる」

という、階層的な発想がある。

 一方、日本教の基本的発想は

「話せば解る」
つまり
「皆が理解できる知恵がある」

である。

 さて、この問題に関して、もう一つ議論すべき、専門化領域の問題がある。例えば

  • 法律の専門家:法的三段論法などの知恵の使い方
  • 学者:該当分野の専門の議論の仕方

等がある。これらは、専門家に任せる法が上手くいく場合がある。 

 しかし、それでも、

「結果について説明を受け、理解する知恵は皆にある」

という発想は、日本教の信者には大切である。

2020年6月19日 (金)

知識の大衆化か?智慧の大衆化か?

 昨日書いた、知識の大衆化の議論を読み返すと、もう一つ大きな問題点が見えてきた。今回議論したいことは

智慧の大衆化

についての議論である。これは、西洋文明を見ると、プラトンの「国家」が示す『哲人政治』の発想で、

「本質に迫る思考は、哲学者が持っている」

という

智慧の独占発想

がある。確かに、厳密な思考能力は、厳しい訓練で身につき、その力でないと達成できない境地もある。この力で、多くの問題解決を行って近代文明を切り開いた功績は大きい。

 しかしながら、日本の文明にある

衆知を合わせて解決する

発想も、捨てるには惜しい。全員参加の効果は色々な改善活動などで力を発揮している。

 そのためにも、日本語の

『直観的な表現力』

を上手く活用することも大切ではないかと思う。

2020年6月16日 (火)

日本教の失敗のパターン

 「日本教」について、このブログで何度も書いているが、どうも

「日本教礼賛」

となってしまう傾向がある。

 しかし、「日本教」的な指導には大きな欠陥がある。それは、

「一度動き出したら修正が難しい」

という問題である。

 この事例は、多くの倒産した会社の場合や、第二次大戦の日本の戦争指導を見れば解るだろう。つまり

「小幅な修正能力はあるが、抜本的な見直しは難しい」

という欠点である。

 これに対して、山本七平は

「明治の日本の指導者は、自分で別案を持っていたから修正できた」

と指摘している。

 これは、日露戦争時の戦いを見れば明らかである。旅順攻防戦でも、乃木司令部は、試行錯誤し学習している。第二次大戦の硬直した指令とは全く異なっている。

 この理由は明確である。

「日露戦争までは、実戦経験を積んだ人間が、自分の体験を生かしながら戦争指導を行った」
一方
「第二次大戦時代には、教科書で学んだ秀才が、戦争を指揮した」

という違いである。

 なお、今回の大阪府の指導者達は、実践を通して学んで修正したいるように思う。

 

2020年6月14日 (日)

アメリカの「人種差別」報道について根本的な理解が抜けている

 アメリカの『人種差別』問題に関して、トランプ大統領の対応を批判する報道が多く見受ける。確かにトランプ大統領の対応は、軍の扱いと言うことで批判されるべきである。

 しかし、日本のマスメディアというか、日本人の知識は、この問題の根本を理解していないと思う。私の考えでは、

「この問題の本質は、アメリカの建国以来の体質である、
『人間』としての権利を限定された者達に与え、
彼らに暴力で他の者を圧することを許した体質」

にある。これは、黒人差別だけに止まらない。アメリカの歴史を見れば、

「ネイティブアメリカン(いわゆるインディアン)の土地を銃で脅し殺して奪った開拓史」

もある。当時の『アメリカ人』の発想に、ネイティブアメリカンの権利などを認識していたとはとても思えない。

 その後の奴隷問題もあり、黒人差別が発生した。さて彼らの発想をもう少し突っ込むと

「キリスト教徒の人間の線引き」

が一つの見えてくる。キリスト教の発想は

「洗礼を受けて人間として生まれる」

がある。このような発想が、根底にあり彼らが

「人間として扱わない」

行動は、本質的に獣に対する行動であった。この歴史を理解しないと、現在の人種問題、特に差別を受けた側の怒りは解らないと思う。

2020年6月12日 (金)

「日本教」とノブレス・オブリージュ

 『日本教』の良いところは、大衆の力を認めることにある。その一つの例が

「コロナ危機の自粛」

である。

 しかし、この逆の面は

「ノブレス・オブリージュの不成立」

という形で表れてくる。

 この問題に関して、江戸時代までなら、豪商が町のために金を出すなどの仕組みもあった。

 しかし、現在の社会を見るとどうもこの仕組みが壊れているように思う。

 一つは、上位者側の識の問題であり、もう一面は、利益を受ける側の尊敬などの不足という面があるように思う。

 建前の平等主義が、上滑りして、悪い面だけが出ているように思う。

2020年6月11日 (木)

仏教の大衆化を日本教の発想で見直してみた

 数年前に書いた、仏教の大衆化から見えてくるもの、という記事にここ数日いくらかのアクセスがある。

 この記事を書いたときから,私の方は日本教の理解が進んだので、この内容を修正しないといけない。

 前の記事では、

  阿弥陀浄土を観想する厳しい修行 -> 「南無阿弥陀仏」と口頭で唱える簡易な行

という単純な図式で、

「仏教の大衆化」

と表現してしまった。

 しかし、日本の仏教の教えは、このような単純な二分法で、割り切ってはいけないように思う。

 例えば浄土信仰においては、「多くの仏像、仏画、浄土の絵図」等等の多様な手段で、僧侶が一般庶民に布教している。そこではある程度のイメージの共有ができている。僧侶も大衆の理解力をある程度信じて、極楽浄土の話を皆に説いている。大衆もそれを受け入れている。

 このように考えると、

「きちんとした観想念仏の修行ができた僧だけが占有する世界」

ではなく、

「その世界をいかに大衆に伝えるか、大衆が感じるようにする」

というお互いの歩み寄りの努力がなされている。

 これはいかにも日本教的な発想である。

 

2020年6月 9日 (火)

一般的なモノと具体的なモノの融合

 昨日も書いたが、抽象的な一般論と、具体的な話の関係は、もう少し考えるべきだと思う。私たちの学問では

  • 一般規則から具体例を展開する演繹的思考法
  • 具体的な話から抽象化して一般論を見いだす帰納的思考法

という二つの方法が教えられている。

 しかしこれらの方法は、一方向の流れである。完成した一般論を具体例に当てはめて説明していく。または、現実の問題を抽象化して、一般法則を見いだす。このような「科学的思考法」を私たちは学んできた。

 しかし実際の問題解決には、抽象的にモデル化して、一般論で考えながら、現実の状況に合わせて、色々と修正していく必要もある。そのように考えると、一般論と具体的なモノが一度に見れる、図式のようなモノも必要かもしれない。

 このように考えたとき、一つの良い例が見つかった。真言宗などの利用する、胎蔵曼荼羅である。これは、中心原理たる大日如来、その展開である五智如来、更にその展開の四菩薩が、菩提心を発して、大慈悲で皆を救うという展開を示す。更に周囲の多くの菩薩や明王は、方便としての具体的な展開を示している。この二次元の図式に描かれた展開状況、そして中央の大日如来への収束は、多様な具体例に支えられた、本質の力が示されているように思う。

 一方向の流れに止まらず、多様な展開の中に身を置き、そこで本質を見いだす。このような努力も必要かもしれない。

2020年5月25日 (月)

天台の摩訶止観の実践記録を小説風に書いてみました

 天台の摩訶止観の内、非行非坐三昧の観音様による瞑想法について一つ書いてみました。

 

 

2020年5月20日 (水)

人を救う形は様々

 またTwitterで考えるべき議論が出てきた。自称、破戒僧のかとうれい師のつぶやきである。

宗教活動は法人獲得の基準満たしではなく人の心の拠り所であり続けることでは無いのだろうか?宗教法人の基準を満たすことだけで本質を見失いがちな教団は多い。そんな話を弟子の一人と話してた。彼は法人作りに頓着しない私に疑問を感じているようだが、こんな時代だからこそこのスタイルを通したい。

この話について、私は両方の意見に賛成してしまう。つまり、かとうれい師の

「あくまでも自分の信念による信仰を貫きたい」

という立場は、宗教人として立派であり、尊敬するしかない。

 しかしながら、弟子の方が

「宗教法人にして安定することで多くの人を救ううことができる。
少なくとも今いる信者の心はもっと安らぐ」

と考えることにも同感するモノがある。特に、かとうれい師は修験道の大先達であるが、修験道が明治以降にたどった弾圧の歴史を考えれば、法人による安定を求める気持ち痛いほど解るような気がする。

 ここまで書いて、この図式どこかで観たことがあると思ったが、浄土真宗にこのような話があった。浄土真宗は親鸞が開祖になっているが、親鸞の教えというか、生き方は、純粋そのものであり、弟子達がついて行くことも難しいモノであった。その当時は、一遍の時宗の方が布教には成功していた。しかし、蓮如が出現してから、浄土真宗の大衆化、組織化は一気に進み、戦国時代の一向宗の力となっていく。

 蓮如がしたことは、親鸞の教えの大衆化であり、原理主義者から見ると、困った所業かもしれない。しかしこれで救われる人もいる。

 ただし、かとうれい師が行っている、

「純粋な信仰による突破」

も現在の宗教状況を観れば必要と思う。

 かとうれい師のすごさの解るYouTubeを参考に挙げておく。

 

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