ご縁のあった人たち

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2020年11月17日 (火)

アメリカ人の教育政策の失敗について

 昨日書いた、アメリカ人の「科学的思考」教育の失敗に関して、今回は数学教育の事例、特に幾何学で考えてみた。

 日本の幾何学教育も色々と迷走したが、教え方には以下のステップを踏むことが有効とされている。

  1. 小学校高学年か中学の間に、定規とコンパスでの作図とその重ね合わせで「同じ」という感覚を得る
  2. 三角形の合同と言う概念を学び、定規とコンパスから離れて抽象化して考えるようにする
  3. 抽象化した考えを組み合わせて証明ができるようにする
  4. 高校ぐらいでユークリッドの公理系からの展開を学ぶ
    ただし、点や線のイメージの助けを借りた推論
  5. 大学で数学の専門家は、完全な抽象体験としてのヒルベルトの幾何学を学ぶ
    ここでは「点」「線」についても、特定の公理を満たす抽象的存在でしかない

しかしながら、効率的な教育と言う観点からすれば、ユークリッドの幾何学や、定規とコンパスの作図は、無駄な時間を費やしていると判断される。確かに、一部の有能な人材は、きちんとした公理系からの議論ができるだろう。このような人材には、

「無駄なモノを教え時間を浪費しない」

と言う発想はある。しかしながら、

「多くの生徒に納得させるためには、定規とコンパスなどの手順を踏むことが大切」 

と言う、教育現場の経験則もある。日本の数学教育においては、ある程度湖のような現場の声も届いている。逆に言えば、フィールズ賞受賞学者が、大衆向けの教育を行い、

「一般向けに教えるためには段階を踏むことが大切」

と発言している。

 しかし、「すべててのアメリカ人のための科学」を見ると、どうもいきなり「ヒルベルト幾何学」の高みに行こうとしているように見える。アメリカでは、有能な人材は時間を無駄にせずに若くして大学に入っていく。

「そのような有能な人材が考える施策」

には、無駄を省く教育になっていく。しかしそれに大衆がついて行くかは別である。これが一つの失敗要因ではないかと思う。 

2020年11月13日 (金)

「アメリカ教」についてもう少し

 昨日の「アメリカ教」の話をもう少し突っ込んでみる。スミスの作品では

絶対の善も、絶対の悪もない。ただ「最大多数の最大幸福」の原則を守らないといけない

が出てくる。これは、当時のマルクス主義者の

「正義のための革命とプロレタリア独裁」

と言う発想に反発したモノであろう。それほど、当時のアメリカでは、共産主義者への嫌悪感は強かった。逆に言えば、

「共産主義者のスパイがどこに潜んでいるか?」

と言うかなり緊迫した状況にあったらしい。もっとも、この話は私たち日本人の平和ぼけの結果かも知れない。私たちも

「近所に住んでいる人間が、北朝鮮の工作員であって、拉致事件が発生し、同胞が多く連れ去られた。」

と言う痛い経験をしている。それでも

「朝鮮総連の権利を守れ」

と言う声は大きい。

 さて、絶対の善悪に関してもう一つ大事なことは

「キリスト教の教えからの決別」

である。最後の審判での裁き、ここで決まる絶対の善悪、これを否定している。逆に

「神のような全能の立場に、優れた人間が立つ」

発想が出ている。

 これは、

「貴族制度などがなく、誰もが成功できる」

と言う、アメリカンドリームの影響もあると思う。彼らが決めた人間の範囲では

「誰にも機会がある」

と言うのが、アメリカの正義でもある。

 このような、「神の立場」に到達できる可能性を、当時のアメリカ人達は、科学技術に進歩に見いだしていた。この一つのまとまりが、1989年に提案された

「すべてのアメリカ人のための科学」http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf

である。

 しかしながら、このプロジェクトは、盛りだくさんすぎて、実行には移せなかった。ここからも、アメリカの迷走が見えてくる。

2020年10月24日 (土)

理論理解の方法

 先日の、ヴェーバーの社会科学について、もう一歩考えを進めてみた。ヴェーバーは『理念型』や、『理想的な類型』を重視している。この理由をしっかりと理解することが、理論が解るための大切な一歩だと思う。一言で言うと

「理論が成立する『理想的な状況』で議論する」

為の舞台設定が、『理念型』の発想である。

「理論が成立するための世界モデル」

と言う発想は、ご都合主義に見えるかもしれない。しかし、物理学の世界では

  • 大きさを無視した質点
    • 分子の大きさを無視した『理想気体』

と言うような、理想化が色々と行われている。

 この必要性を理解するために、16世紀のガリレオの時代に戻って、考えて見よう。当時の学問は、『アリストテレスの自然学』が支配的であった。アリストテレスは、自然を真面目に観測し、観察結果をまとめて自然学を構築した。これは観測と論理がしっかり絡んだ優れた学問体系であった。しかしながら、現在の知識から観れば間違いもある。例えば、

「重い物は、軽い物よりは速く落ちる」
例えば
「重い鉄の塊は羽毛より速く落ちる」

と言う『法則の記述』がある。

 これに反論したのが、ガリレオ・ガリレイの思考実験である。

「重い物が速く落ちるなら、鉄の塊1㎏より、2㎏の方が速く落ちるはずである。しかし、1㎏の鉄の塊を二つを合わせたら、速く落ちるだろうか?極端な例で考えると、二つの鉄の塊を、紐で縛って繋いだら、速く落ちるだろうか?これはあり得ない。」

このような考えから、

「落下速度の変化は、空気の抵抗などの別の要因が入っている。それを排除すると、落下速度は重さには関係ない。」

と言う議論になる。

 このように、

「種々の雑物を除いた『理想的な世界』で考える」

ことが、世の中のからくりの本質を見いだす道である。物理学の道はまずこのような理想的なモノで考えて、その後現実の複雑さに対応して色々な項目を増やしてきた。

 社会科学でも、同じような発想が必要であるが、物理学ほど

「抽象化の道が見えていない」

ために多様な意見が乱立し、一般人が苦労していると思う。

2020年10月20日 (火)

短い文章でのコミュニケーションについて

 世の中では、SNS等の短い文章でのコミュニケーションが普及している。このような情報は

「断片的!深い理解がない」

と、否定的な見方をする。「有識者」が少なくない。

 しかし、昨日書いた空海の著作などを読むと

「経典の一句の抜き出し」

で、その経典の本質を描いている。空海だけでなく、日本で生まれた「稲荷心経」や「十句観音経」も、他のお経の抜き出しが多くある。このような抜粋したモノで、本質を伝える発想は、SNSでの短い文章による情報伝達に通じるモノがあると思う。

 一方、西洋文明の学び方には、

「抽象化してまとめる」

発想がある。これを、SNSの上で行うと、抽象的な議論や、スローガンだけの暴走になってしまう。

 本来、共有的な基本情報が存在し、その上での断片を伝えることで、新たな見方を導く。これが、短文でのコミュニケーションではないかと思う。また別の見方では、両論対立の時などには、片方の証拠を提示するのは、短い情報提供でよいのかも知れない。

 俳句や禅問答の短いやりとりは、このような読み手が意識できていない、モヤモヤとした情報を、刺激によって整理し体系化させる。これが一つの悟りになる。

 SNSの短文情報交換も、このような見方で観ると、西洋文明と日本教の違いが出てくる。

2020年10月18日 (日)

学問で何を身につけるか?

 昨日書いた、T型人間に関する議論で思いついたことだが、

「この学問で何を得るか?」

と言う議論ができていないように思う。

 もっと言えば、学問の価値というか、目的に関して、厳しく評価することができていない。ないしは、そのことに触れさせないようにしている。この問題は、明治以降の学校制度の根本に関わっているように思う。つまり

「教育勅語に依存した学校教育」
つまり
「天応陛下の権威に依存した教育の押しつけ」

である。戦後の、日教組などの

「教育勅語否定」

はあっても

「権威依存の教育押しつけ」

は変化していない。

 しかし本来は、

「学問で身につくモノ」

をきちんと提示して、自主的に学ばす。これが本来のあるべき姿だと思う。そのように考えると、

「江戸時代の寺子屋」
そしてその拡張の
「大坂商人が作った私塾」

が、学問の場のあるべき姿だと思う。

 そのためには、科学哲学などが、学問のあるべき姿をきちんと議論し、そこで何を選るかを示すべきではないかともう。

 私の考えでは、

「身につくスキルと知識情報の分離」

をきちんと示し、スキルの展開状況を示すことが、本当の学問の効果を実感させる手立てだと思う。

2020年10月15日 (木)

人間を個別にきちんと観ていく必要がある 教員の不適切行動について

 今テレビのニュースで、某市の中学校の柔道指導者の暴力行為が話題になっている。さて、この問題の本質はどこにあるのだろう。私の考えでは、

「凶暴なる性格の治療はできるのか?」

が、本質的な問題点だと思う。更に付随する問題点は、

「もし治療できないなら、他の人に被害が出ない対策はどうする?」

が出てくる。

 この両者に真剣に向き合っていないから,同じような問題が何度も起こっている。

 さて、一つ目の議論であるが、今回の暴行教師は,前にも暴行を行っていて、「アンガーマネジメント」の講習を受けている。

 つまり、今回が初犯ではないと言うことである。しかも、怒りの感情が抑えきれない体質、と言うことも明確になっている。さて、犯罪者に対する刑罰の基本発想に

「犯罪者が二度とこのような犯罪を超さないように治療する」

と言う考えがある。そこで、講習などを行っているが、今回の行動を見る限り、そのような講習の効果がなかった。

 さて、このような、

「凶暴なる性格の治療の効果」

に関して、きちんとした評価が行われているのだろうか?

 もう少し踏み込めば

「効果のある人もいる」
(何%まで言えればもっとよい)
「しかし例外的に効果のない人もいる」

と言うような議論ができているのだろうか?犯罪者の再犯に関して、もう少し正面から向き合い、

  • 治療的な効果が出る場合
  • 効果が出なかい場合

の両者を明確にし、効果が出ない人間の対策をきちんとすべきではないかと思う。

 この問題は、暴行だけでなく、性犯罪的な行動でも同じである。学校教師の性犯罪歴についての議論があるが、治療効果の出た人間の再生と、治療効果がない人間からの再犯防止をきちんと分けて考えるべきだと思う。

 なお、この問題をもっと踏み込むと、現在の政策設計者の問題に至る。つまり、

「個別の人間の多様性に向き合っているか?」
もっと言えば
「極端な犯罪傾向や凶暴性がある人間の存在」
「他人の人格を踏みにじっても平気な人間の存在」

等の、逸脱可能性まで観ているか?更にそのような、

「犯罪者によって被害に遭った人の苦しみ」

をきちんと観ているか?

 平均的な人材、理想的な人材だけで、社会設計をしているのではないかと思うことがある。

2020年10月 2日 (金)

社会科学の理論成立について モデルとの同時成立

 社会科学の理論については、その理論が成立する事例というか、そのような世界条件と一体で考える必要がある。マックスヴェーバーは、これを理念型と言った。そこで昨日の議論に引き続き、物理学的世界観と社会科学の勉強について、もう少し踏み込んでみたい。

 工学などの世界は、物理学などの基礎の上に、理論を活用しモデル化したモノで議論を行う。例えば、エンジンの図式などを参考にしてほしい。

https://www.bing.com/images/search?q=%e3%82%a8%e3%83%b3%e3%82%b8%e3%83%b3%e3%81%ae%e4%bb%95%e7%b5%84%e3%81%bf+%e5%9b%b3%e8%a7%a3&id=88A1EFFD4D91F7E6EEB9C83AA11AAD1AAA3FD874&form=IQFRBA&first=1&scenario=ImageBasicHover

 物理学的なモデル化は、理論がある程度完成した後、その知識を用いて演繹的に構築して場合が多い。

 しかし、社会科学の場合には、

    資本家
 搾取  ↓ ↑ 労働力提供
    労働者

と言う風な、社会のモデル化と理論の構築が、同時並行で進んでいくコトが多い。つまり、このようなモデルに、

「何を入れるか?」

と言う議論が理論の成立にも関わってくる。

 確かに物理学的なモデルの時にも

「なにをいれるか?」

と言う議論はあるが、これは

「理論的な構造が決まった後の、近似の度合いをどこまで精密にするか?」

と言う理論構造の元での議論である。

 一方社会科学の場合には、

「考慮範囲の変化が理論の根本を変える」
つまり
「理論とモデルが同時に成立する」

コトが多くなる。

 こうして、

「理論とモデルの関係が、安定したときに一つの理論が生まれる」

パターンが多い。これを知っておくことは、特に物理学的世界観に毒された私たちには重要だと思う。    

2020年10月 1日 (木)

社会科学などの理論知識を生かすためのヒント

 一般に、理系の学問は、大学で学んだ知識が、社会に出てからも役立つことがある。例えば、モーターの制御などを考えても、三相交流として扱うためには種々の数学的知識が必要である。線形代数や複素数の知識が必要になる。しかし、文系の学問が、世の中に出てから役に立つかというと、なかなか難しいモノがある。法学関係の知識は、法律を理解するときに、法律・施行規則~判例の展開などで役立つかも知れないが、工学部と工業との関係のような直接的な結びつきが見えないことが多い。

 この理由に対して、私が見いだした仮説は以下の通りである。

「自然科学は、現実のモデル化に関して、皆の同意が得やすい」
しかし
「社会科学などでは、現実のモデル化は、理論の作り方で変わってくる」
言い換えると
「社会科学の理論は、一般的に成立するといえない」
逆に言えば
「社会科学の理論は、成立する条件を理解しないと使えない」

これは経済学などで、色々な論争が起こっている現状を見れば、

「どれが正しいか解らない?」

なる、混沌とした状況と言ってしまいたくなる。

 しかしながら、これらの理論は、ある程度の説明力はある。しかし、物理学の様な

「一般的に成立する」

とはいえない。そこで、

「理論知識を学ぶときには、その成立する前提も考える」

ことで、理論知識が使えるようになってくる。

 そのためには、『ヘイグの理論構築法』や、『ワラスの輪』などの方法論をしっかり学ぶことが重要ではないかと思う。

2020年9月19日 (土)

東大法学部の力とその限界について

 国家公務員の働き方に関して、河野大臣が何かメスを入れるらしい。これはよい事だと思う。しかし、国家公務員の過労状況に関して、ここでもう少し踏み込んでみたい。まず明治の国家公務員育成に関してであるが、先に帝国大学法学部ができて、その後官僚組織ができていった、歴史的経緯を抑えておく必要がある。つまり、国家公務員は、東大法学部出身者を前提の、働き方を考えていた。

 さて、東大法学部出身というのは、どのような力を持っているのだろう。私は、1冊の本がそれを物語っていると思う。

 

この「法学の基礎」は、「法学の土台」とも言うべき本で、法律を作るための配慮すべきコトなどを、網羅している本である。このような、基礎教養を持っていれば、法律に関する検討も、比較的短時間でできるだろう。昔、ある番組で橋下徹弁護士が

「霞が関の官僚は、法律を作るときに、大宝律令まで調べる」

と半ば揶揄していた。しかし、国民の権利に関して整合性を取るなら、既存の法律の立場を調べるのは当然であり、行くところまで行くと律令制度まで行く。これを納得し、要領よく調べるのが、「法学の基礎」などで鍛えられた人財だろう。

 このように考えると、こうした「基礎的な配慮」のできない人材が、長時間労働で苦しむ状況が見えてくる。

 ただし、この発想は、「法学の基礎」で、要領よく仕事をしようとする人間にも、ブーメランで還ってくる。現在の歴史研究では、律令制度の時代でも、実質の「公地公民」は不成立な部分が多く、私有地などの「律令の抜け穴」が多く存在する、という意見がでている。これを踏まえると、

「前例検討で、大宝律令を調べた」

だけでは済まなくなってしまう。こうして、新たな残業地獄が生まれる可能性が出てくる。

2020年9月17日 (木)

物理学的な世界観と社会科学的な世界の見方

 大乗仏教の「唯識」について、少しばかり本を読んでみた。

「唯『識』だけがある」

という発想は極端だが、社会現象などを観るときに、

「そのようなモノが実在する」

と思い込む危険性については、よく意識すべきだと思う。考えてみれば、私たちは

『物理学的世界観』

の影響を受けいている。天体や機械などの

「物理学の対象」

は実在する。この発想は、社会科学には通用しない場合がある。例えば、

「搾取する資本家、搾取される労働者」

と言われても、

「株でもうけている労働者は?」

という風に、理論通りの実在は、存在しない場合もある。

 更に言えば、

「理論的な知識の力で、社会の現象を観る」

場合も多い。極端な話、貨幣経済という概念が無い人が、日本の現状を見たら、何が解るのだろう。

 このように考えると、社会科学の場合には、世界の見方を学びながら、理論的な知識を充実させるべきだと思う。

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