ご縁のあった人たち

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2021年3月 3日 (水)

勉強の理由を納得していく

 私たちは、

勉強しなければならない

と言う常識を持っている。しかし、この理由を考えたことが有るだろうか?言い換えると、

親や先生という『権威』からの押しつけ

ではない、自分の言葉で勉強の動機付けが有るだろうか?この問題を、少し考えて見た。

 勉強する一つ目の理由は、現在社会での学歴の価値である。確かに、学歴や資格の保有で、生涯の収入額が大きく変わってくる。学歴だけで、高収入という甘い考えではいけないが、それがないと門前払い、と言う経験はある。これは一つの動機付けになると思う。ただし、これは「試験の成績で決まる」モノが多い。しかし、学問で身につくモノはもっとあるのでは無いだろうか?

 学問の原点に戻ると、古代ギリシャの哲学者達が

生活を良くする

為に

本質を理解する力

を求めている。こうして

世の中に起こっていることの
本質を見抜いて賢く生活する力

を身に付けるという目標を、もう一度考えるべきではないか?現在、SNS上の多様な情報に惑わされる人が多い。この対策としても、

論理的に考えて真実を見抜く力

を学問を通じて習得するということが、学問の動機付けになると思う。

2021年2月28日 (日)

格差は乗り越えたが・・・

 東洋経済オンラインに「東大生の中の格差」の記事があった。

貧乏東大生が見た「金持ち東大生」との残酷格差 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 (toyokeizai.net)

 私は、東大生では無い(私の年は東大入試は無かった!)が、旧帝大で、ここに書いている様な状況は、経験している。まず経済面では、生活水準の違いを経験し他。例えば学食の安いどんぶりに対して

「お前が上手そうに食べているのを見て、一度食ったがこんなにまずいとは思わなかった」

と同級生に言われた。彼らは、生協のグリルでランチを食べていた。私にとっては、昼食を百円以下で抑えること外気のこりの手段であった。

 さらに、学問の世界でも、何人かの学生は、数式の展開を当然としてみている。私はその関係を理解しようとするが、ついて行けない。一方、参考書も効果で手が出ない。一般力学の講義は、ランダウの教科書が種本とはわかっているが、翻訳された本は高くて買えない。そこで、ロシア語の原本なら安く手に入るので、それを買って勉強したが、理解は難しかった。

 さて、私は親と姉に無理を言って、何とか修士課程まで終了し、その後メーカーに就職した。

 メーカー就職後も、勉強は続けた。特に、自分の金で好きな本が買えたことがうれしかった。

 こうして、基本となる本を色々と読んでいく内に、数学の本質などが見えてきた。なお時代の助けとして、ちくまの学芸文庫に、多くの古典的な教科書が翻訳された事も大きい。前に書いた、ランダウの物理学教科書も、ちくま学芸文庫から出ている。こうして、ランダウの物理学と、ファインマンの物理の教科書の両方を読むと、物理学という物が何となくわかってくる。

 このような経験から、登用経済の『残酷格差』は、少なくとも学問理解の上では乗り越えたと思う。

 しかし、そのために就職後の数十年を費やしたことも事実である。

 この体験から、

「格差は乗り越えられる」

と言い切って、多くの人に強制するのは善いのだろうか?可能性があるが、実行は難しい。

2021年2月25日 (木)

納得して覚える

 記憶が定着する方法について、もう少し議論する。私の経験では、

本当に理解できた知識は自然に覚える

が基本である。そこで次のステップは

理解はどのように行うか

である。これに対して、

体系化してつながった知識

を持ったとき

「理解した!」

と言う感動体験が一つの答えになる。次の問題は、体系化をどのように実現するかである。私の経験では以下の3面がある。

  1. その知識の中での論理的な展開
  2. 他の理論知識との横の繋がり
  3. 現実例への縦の繋がり

このような3つの方向への広がりが、密なネットワーク化すると、納得することが多い。例えば、電磁気学の教科書を読むとき、その本の中では、Maxwellの方程式から、数学的な展開をみる。一方、力学などの関連分野との関連を見る、さらにアンテナの実現などで、現実との関連を見ていく。こうした、展開を自分の力でモデル化していくと、

納得した!

と言う感動体験を自分のモノとするだろう。

2021年2月24日 (水)

忘却の恐怖を克服

 私は、大学院生時代は、狭い分野を深く勉強していた。具体的には、人工知能の為のモデル化と、コンピュータプログラミングである。しかし、会社に入って仕事をすると、いやでも周辺分野に気を配らないといけない。当時は、マイクロプロセッサが動き出した時代で、

「マイクロプロセッサとは何か?」

と言う議論から入っていった。そこでは、ハードウエアの知識が必要になり、回路の知識、電子素材の知識など多様な分野の知識が必要になる。そのために、多くの本を読みあさった。これは、必要に駆られて行った面もあるが、純粋に自分の知識を増やしたい、と言う動機も大きかった。

 そこでは、一応ノートをとったり、重要部に線を引いたり、書き込んだりしたが、やはり理解不足で忘れることが多い。そこで

「忘れることへの不安」
「解らないことへの焦り」

が発生した。しかし、この勉強は学校の場合と異なり、決まった期限で終わりではない。仕事のための情報収集としての勉強は、期限があるが、その場合には

「目的達成のための情報収集」

であり

「自分の納得のための勉強」

と違うことが解ってきた。「自分のための勉強」では、時間をゆっくり取ることが可能であり『積読』のように、一旦手に負えない者は寝かしておく。特に

「覚えきれない者は忘れてもかまわない」

と割り切ることで、自分で学ぶことが楽になった。これに関連して、前に買った本を、後で読み返すと、納得がいって理解が深まる、このような体験も何度かしたので、

「解らないことでも、時間が解決する」

と思うようになった。

 会社の仕事でも、必要なことはメモに書き、それは忘れても良い。必要なときに調べて解るなら、忘れても良い。このような割り切るが、気持ちを楽にしたように思う。

2021年2月21日 (日)

いわゆる「スマホ脳」について

 スマホに依存することで

「脳が退化する」

と言う説があるらしい。この問題をもう少し踏み込んで考えてみた。

 まず、スマホに依存することでどのような弊害があるのだろう。一通りあげてみると

  1. 自分で考えずに答えを探す
  2. 検索もせずに人に聞く
  3. イイネの評価を求める(依存する)

等がある。

 これをもう少し深掘りすると

  1. 自力で考えない癖
  2. 他人に依存する癖

は、

  1. 正解で無いことに対する恐怖
  2. 自力で正解と言えない自信のなさ

によって起こっている。この原因をもう少し深掘りすると

学校で

「正解で無いと怒られる」
「教科書に書いていることを正解と信じる」

と言う躾の効果が大きい。教科書に書いていることを疑わない、従って自分で正しさを証明することも無い。これでは自信を持てるわけが無い。

 こうした、

学校教育への過剰適応

の延長に、スマホ脳がある。

2021年2月18日 (木)

「中退」に関して少し

 将棋の藤井二冠が、高校卒業を待たずに「中退」する。これがニュースになっているが、半世紀ほど前だと、このような「中退」は多く見受けたと思う。私は1973年に大学を卒業したが、当時から

「東大の法学部の学生は、上級の国家公務員試験に合格したら退学して公務員になる」

であった。従って、当時の国家公務員の学歴観は

東大中退 > 東大卒業 > 他の大学

という感じであった。

 しかし、現在は「中退」という言葉のイメージは、あまり良くない。

 この理由をもう少し考えてみた。私は以下の2点が大きいと思う。

  1. ギブアップでの中退が多い
  2. 学校で教えることが役に立っている

一つ目の、ギブアップ問題であるが、現在の社会では、色々なトラブルが発生したときに、引きこもる形で逃げる人が多くなっている。学校生活においての種々の挫折においても「中退」という形で逃げることが多くなっている。社会が、そのような逃げ方を認めている面もある。確かに、自殺と比べれば、「忠太してくれた方が」という発想は解る。

 一方、二つ目の方は、現在の学校教育が、現実世界で役立つ面がでている、と言う話である。これを電子回路で考えてみよう。1960年代なら、電子回路はトランジスタで組まれていることも多く、回路の設計や調整は「現場の経験」で行われる面が多かった。学校の教科書で書いている回路は参考、現実に動くモノは、現場で調整が必要であった。

 しかし現在の回路は、電子回路でも高集積の演算増幅器などでできていて、「教科書に書いている計算式どおりの性のがでる」状況にある。更に言えば、電気自動車等のモーターの制御には、複素関数の知識が必要であり、学校の知識がきちんとしていないと仕事ができなくなっている。

 文系でも、MBAの手法で経営を見るなど、色々と知識が役立つようになっている。

 このような時代の変化をもう少し考えてみたい。

2021年1月30日 (土)

編集しないで情報を発信できるネット社会

 昨日書いた話の続きで情報の整理について少し考えた。

超能力への依存ではなく正攻法のスキル習得が大切: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 昨日は、記憶するために関連した情報の整理が重要という話を書いた。一般論と具体例、原因と結果の関連付け、そして典型的なストーリーなどを関連付けることで、記憶しやすくなる。

 さて、私達は『勉強の方法』として、このような情報整理法を学んでいるだろうか?

 私は学校生活でこれを学んだ記憶は無い。しかし、会社に入ってから、自分で学ぶために色々と調べ、結論として

ノートの作成が情報の整理に役立つ

と言うこと体験をした。これは、会社生活で、社員研修などを行って、『人に教える体験』をしたことが大きく影響している。さて、私のように20世紀に情報発信した人間は、

情報を整理してから発信する
つまり
編集作業が重要

が常識であった。

 しかし、現在のSNS社会では、誰でもスマホのカメラで撮影し、その情報を公開することができる。またSNS上には、思いついたことをそのままつぶやくことができる。また、他人の投稿をリンクを紹介する方法で、簡単に『自分の意見として』拡散できる。

 このような違いについて、認識が甘かったと、反省している。

 20世紀の常識では、

発信を考えるだけで情報整理ができる

だったが、現在の『リツイート発信』では、そのような効果が期待できない。

2021年1月21日 (木)

小説家が教育に関与することの是非

 昨日書いた、クリエイターの力の話に関して、もう少し議論したい。

 詩人の教育的な役割について: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

昨日の主張は

クリエイターは全貌を掴む力がある

から上手に使うべきと言う話であった。実はこれに関連して、元東京都知事の某作家が

学者より小説家農法が政治家に向いている

と主張している。

 確かに全体像を描くことや、将来像を想像することは、厳密な議論の学者より、クリエイターの方が向いているように思う。

 しかしながら、若い人の教育を、小説などで行うことの危険性もある。典型的な例は、司馬遼太郎の名著「坂の上の雲」である。この本は、若者の精神を鼓舞し向上心を引き出すには、良いように見える。

 ただし、この本には

劇的効果を求めすぎ、地道な成果を無視している

側面がある。旅順要塞攻撃に関しても、現在の研究では、乃木将軍の採用した、工兵による地道な正面攻撃は、悪くない戦法と言う評価が多い。

 更に、秋山好古率いる騎兵の活躍だが、この本では

「桶狭間のような奇襲効果」
だけを見て
「馬の運搬力」
を見ない

傾向がある。実際、秋山騎兵隊は、馬の運搬力を使って、鉄条網と杭を運び、即席の陣地構築を行い、更に機関銃も運び込んでいる。これは、

長篠の戦いを、移動先で実現した

といえる、最高の創造性である。実際、ロシアのコサック騎兵は、この戦いの恐れをなし、奉天での戦いは消極的になってしまった。このような面が、派手さがないので見過ごされる。これが小説家が教育に関わる欠点ではないか。

2021年1月20日 (水)

詩人の教育的な役割について

 プラトンの「国家」の最後の巻の第10巻には、

「若い人の教育を詩人にさせてはいけない」

と言う主張がある。プラトンの言いたかったことは

物事の本質である『イデア』の世界に接近するのは、『哲学者』の思考法でしかない。この訓練は、問答法で行う。

一方、物を作る職人は、自分が感じた『イデア』を具体例に実現する。

しかし、詩人は『(職人達が)実現した物』を描こうとする。

と言う、イデアからの距離で、

哲学者 > 職人 > 詩人

と言う評価をしている。

 確かに、

「物事の本質に迫る力を持っている人が若い人を育てる」

と言う発想は、正しいように見える。

 しかしながら

「(詩人などの)クリエイターには物事の本質を掴む力がある

と言う面もある。

 特に

「哲学者の厳密性は深く狭く突っ込む」
しかし
「クリエイターの感性は広く全体を把握する」

と言うもう一つの面がある。

 このような詩人の様に、全貌を見る人の働きを考えることが、特に多様性を重視するときには大事だと思う。

2021年1月18日 (月)

今回の共通テスト問題を見ての感想

 昨日と今日の朝刊に入っていた、共通テストの問題をちらっと見た。第一感触は、

「文字数が多すぎる!」

である。確かに、『読解力重視』と言うことは解る。しかし、これだけの文字数を、限られた時間で読むことができるのだろうか?もっと言えば

「浅く素早く読むスキル」

を身につけた人間を選ぶための試験ではないか?という感じまでしてしまった。

 確か昔の公務員試験には、このような

「大量の情報を素早く読み処理する力」

を求めていたが、大学でもこれを求めるのだろうか?

 さて、内容面から言うと、

「理解してその上で考える力」

を求めているのは感じた。これは悪くないと思うが、試験時間という

「短い時間での判断」

ができるのだろうか?この疑問が浮かんできた。特に国語の問題は、どうしても

「短い部分を切り出し」

ての議論となる。これで本当の力が解るか、私は疑わしいと思う。逆に言えば、

「国語の独立した試験が必要か?」

と言う議論があってもよいのではないか。これは、国語を軽んじるのではなく、今回の試験では

「読解力が無ければ、社会は当然、数学や理科も解けない」

と言う状況を考えると、国語の試験が必要かという議論もあっても善いと思う。 

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