ご縁のあった人たち

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2020年3月28日 (土)

反省するときの注意点 その2

 先日から書いている反省の話にもう少し思うことを書かせてもらう。昨日までの話は以下のリンクを見てほしい。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-7943c3.html

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-db048f.html

 さて、今日気がついたことは、

「反省の前に『本当に良い』とは何か解る、納得するか?」

である。もう少し言えば

「『本当の幸せ』を知らない人間が、反省できるのだろうか?」

と言う問題である。

 この問題をもう少し突っ込めば

「『本心からの感動』を感じたことがあるか」 

と言う問題に行き当たる。『喜怒哀楽』と言うが、教科書の当てはめられて、強制的に

「『官製感動』を押しつけられている。」
(国語の試験で良い成績になるためには、教師の○が着くところで、『感動したと言う』)

のではないかと思う。

 自分の心に正直に向き合う。しかしそこで自滅しないし、他人を攻撃しない。このような道を求めることが本当の反省になると思う。

 まだ続きます

2020年3月14日 (土)

『平均』に縛られていないか

 現在の科学的文明には、『数値化したモノ』が物を言うことが多い。そこで、社会科学などでは、統計的な処理を行うことで

『数値化して議論』

できるようにすることが多い。これは

「計れないモノは、計れるようにする」

の実践である。このように数値化すると、

『平均』『分散』『偏差値』等

の便利な道具が使えるようになる。確かに、マクロの視点で考えるときには、平均を見て成長や減退の傾向を掴むことは有効である。

 しかし、ここで注意しないと行けないのは、このような数値の一人歩きである。偏差値信仰の弊害は、色々と言われているが、

『平均』

の弊害も出ているように思う。

「世間の平均より劣っている」

これで、強迫的な行動になる人がいる。さらには

「平均的人材ができること」

ができなければ、

「落ちこぼれる」

と焦る人も出てきている。

 平均はあくまで状況をマクロに掴む手段であり、それに捕らわれてはいけない。

2020年2月29日 (土)

NET社会の効用について

 先日書いた、学校的理想社会の対応について、ネット社会の動きについて少し考えてみた。色々なトラブルが発生したとき、学校などでは、

「被害者側に対して冷たい」

対応を取ることが少なくない。この理由は、先日の記事にもあるように

「理想化したモノしか考えない」

現在の日本社会の本質的な欠陥でもある。このような社会の『立派な』教師達は

「いじめなど存在しない」
もしくは
「恨みの気持ちなど持たず直ぐに許す」

等という、『理想的社会』『理想的人材』発想でしか考えない。

 しかし、現実の人間の感情は多様であり、心の傷の影響も色々とある。

 現在社会は、これを受ける場所として、ネット空間が働いている。一昔前の2チャンネル、現在のSNSが、被害者の生の声を聞き、それに対して色々な反応を示す。確かに、被害者をもっと傷つける『セカンドレイプ』的なモノもあるだろう。しかし、被害者に素直に

「共感し受け入れる人」

 が存在するのもネット空間である。O市のいじめ問題も、ネット空間の力が問題明確化に大きく働いた。暴走も一部あったが、被害者遺族の応援もあった。

 このように考えると、ネット社会は今までの『理想社会』を変える力がる様に思う。

2020年2月27日 (木)

支配者の指導力について

 私が考えている『日本教』は、

「神様は全て観て導いてくれる」

と言う根本的な教義(信仰)に支えられている。これは、西洋文明における、プラトンの『国家』が描く

「哲学者の指導」

にも共通するモノがある。ただし、プラトン以降の西洋文明は、『人間の到達不可能世界』への諦めがある。一方、日本においては、大乗仏教が六世紀に入り、小乗仏教の『彼岸への憧れ』を経由せずにいきなり『仏の智慧を得る』ことができると、

「完全な指導ができる」

と、純真な子供のように信じてしまう傾向がある。

 さて、今回は、このような指導者の力について、考えてみたい。皆は指導者に何を求めるか?

「暮らしを維持しできれば良くしてほしい」

これが一つの答えである。そのためには

「一般大衆よりもよくわかっている」

必要がある。この力の候補を考えてみると

  1. 今までの経験
  2. 経験の伝承知識
  3. 思考能力による推論・洞察
  4. 経験の一般化・応用能力
  5. 想像した世界での物語作成(シミュレーション)

等がある。プラトンは、3.の思考能力を重視した。確かに当時の幾何学の論証力は、従来の経験的な知恵を超える一般性を持ち、多大な成果を生んだ。一方、仏教の推論は、比喩的なモノ・現実的なモノが主体であり、西洋文明のような科学の世界を生み出すことは難しい。

 しかし、『法界を自ら造る』力が、人にもあると言うことで、5.想像した世界で物語を作り、展開できる力が人間にある。この力で人を導ける、と言う発想はあると思う。この問題は、もう少し深める価値があると思う。

2020年2月25日 (火)

理想化した『社会』だけで考える人間の危険性

 日本の大乗仏教には『十界互具』という教えがある。つまり、

「仏の世界にも、地獄から仏界があり、地獄の中にも仏界から地獄がある」

と言う教えである。確かに

「地獄に仏」

と言うが、仏の『浄土世界』に、地獄があると言う発想は、なかなか理解しがたい。

 しかし、いじめ問題や犯罪被害者などの気持ちについて、考えていくときに少し解ってきた。

 このブログで何回か書いたが、

「現在社会は、『怒り』の感情を抑えすぎている」

状況にあると思う。確かに『報復の連鎖』が行われば、社会は不安定になり崩れるだろう。従って『復讐権』を一般人から取り上げて、司法の手に持って行く。これが現在社会の仕組みである。しかし、個人の感情はそのような理屈だけで収まらない。

 しかし、学校制度などでは、学校運営側の都合などで

「復讐心や憂身の心は悪い」
それどころか
「被害者にも隙があった」

等と押さえ込んでしまう。つまり、

「教科書に書いてある、『理性的行動』を取る人間に当てはめる」

ことで、組織運営ができるようにしていく。このように無理に押さえつけれた人間は、感情のエネルギーの吐けどころがなくなる。この押さえ込む体質になると、激しい感情にも押さえ込むようになり、鬱病になることも少なくない。この問題は現在社会の重荷になると思う。

 さて、最初に述べた、

「仏の世界にも地獄を観る」

と言う議論は、

「仏は世界全てを創造する力がある」

と言う観点で見ると、新しい解釈ができる。つまり

「世界にいる人間には、仏の心のある人間もいれば、地獄の心を持った人間もいる。悪事を行う人間もいれば、それに足して復讐心を燃やす人間もいる。」

と言う、

「心の多様性に向き合い、その上での皆の幸せを考える。」

力が本当の仏の力ではないかと思う。

 理想的に、『何でも許す人間』しか生存を認めない社会になっている現在は、多くの鬱病患者を生み出している。この反省ができていない。

2020年2月24日 (月)

使える知識についてもう少し

 昨日書いた知識の活用の話について、もう少し書いておきたい。今回書くのは

『知識の網』

と言う考え方である。現在の学校教育は、

『一つ一つの分野がバラバラ』

と言う状況である。しかし、知識というモノも総合的なに生かすためには、お互いの関連が上手く機能しないといけない。

 例えば、算数や数学の文章問題に解決には、国語の論理的な読解両区が必要である。逆に、算数の文章題を解くことで、どっかり欲とそのスピードも上がる。そうすると、理科や社会の問題もすらすら解けるようになる。また、数学の証明問題にも、論理的な文章の作成力が必要である。

 更に、大学などのレベルになると、物理学などの後ろに数学のきちんとした体系が見えてくる。こうして、

『抽象的一般原理と具体化への展開』
『各分野相互の関係』

の関係がつながってくる。

 こうした知識が

『網の様につながる』

『網の目のどこかが使える』

状況になってくる。

 このように、知識が整理されていることも、

『使える知識』

の条件である。

2020年2月20日 (木)

『自分が正しい』と言い切れる条件

 あるところで、歴史的要素のある漫画に、『立派な学者』先生が『ご指導』されていた。彼女の作品には、独特の神がかり的な世界観がある。それを歴史の『立派な先生』達が、

「最新の歴史の研究と合っていない」

と色々とご指導されているようである。

 しかし、歴史研究と芸術創作は別物である。もっと言えば、政治的主張も別である。これが今の社会で混同されている人がいるので、話がややこしくなってくる。確かに、独裁的な政権では、体制批判に関する創作は認められていない。日本でも、徳川時代に

「将軍を馬鹿にした」

と言うことで戯作者に処罰を与えた例もある。

 さて、ここで私が書きたいことは、このように

「自分の考えている世界観だけが正しい」
(特に学問的な世界観)

と言う人の存在についての議論である。

 ここで私が思いついたのは、数学の基礎的な問題である、『連続体仮説』の議論である。連続体仮説の詳細は省略するが、この仮説は、

「肯定しても矛盾しないし、否定しても矛盾しない」
つまり
「基本としているZF公理系から独立」

と言う結果になっている。肯定側の証明はゲーデルが行い、否定側はコーエンが行っている。

 さて、今回の議論は二人の証明方法である。ゲーデルは、理論展開のため

「検討世界を狭く限定する」

ことで、連続体仮説をZFに加えても矛盾なしとした。一方コーエンは

「多様な仮想的な元を想定し世界を膨らませる」

ことで、連続体仮説の否定を加えても、ZF公理体系と矛盾しないことを証明した。

 今回の、

「自分が正しい」

と主張する人を見ている、どうもゲーデルの

「限られた世界での議論で証明」

と言う発想を信じている人が多いように見える。

 なおゲーデル自身は、コーエンの研究を高く評価したが、自分は連続体仮説の否定を証明したいと考えて、前提になったZF公理系を改造しようとしていたことも付け加えておく。

 数学と言ってもこのように多様な世界観がある。まして、文系学問では、もっと多様なモノに寛容になってほしいものである。

2020年2月19日 (水)

評価されるということ

 ここしばらく、「怒り」について書いている。現在社会での「怒り」の原因の一つは、

「正しく評価されていない」

と言う思いである。

 しかしながら、『正しい評価』というものがあるのだろうか?この問題を、もう少し考えてみた。

 私の現在の考えは、

「絶対的に、『正しい』評価などは存在しない」
「その状況に対応した、相対的な『正しさ』しかない」

である。人間の能力も、状況対応で必要と不要が変わる。チームを組むときには、同じ面の人材ばかりでなく、異なった力が必要になる。その時には希少価値が力を発揮するが、その力が不要なときには邪魔者となる。4番バッターだけでのチームはできない。しかし、

「XX殺しのワンポイント専門」

は、XX引退で不要になってしまう。

 さて、今までの議論は、

「当然のこと」

と言う人が多いだろう。しかし、

「実行できているか?」

と言うと困った顔をする人が多い。

 さて、このブログで今年になってから書いている『日本教』の観点から、評価問題について一言指摘しておく。

「日本教の信者には、全て解っている人がいる、と思い込む」
従って
「正しく自分が評価される、と思い込む」

危険性がある.これは西洋文明の

「人間は所詮不完全」

の割り切りがないので、とても怖い話である。この危険性を明確に意識するだけで、少しはトラブルを避けることができるだろう。

2020年2月18日 (火)

怒りの発生について現在社会を見る

 怒りへの対照法について、考えるために天台の摩訶止観を読み直してみた。『瞋恚』の対処を見ると

「慈悲の心で対応せよ」

となっている。これは

「単純に甘やかして許せ」

ではなく

「法界を造る仏の立場で親として考える」

と言う大きな慈悲である。

 しかし、天台大師が摩訶止観を説いた6世紀と現在は大きく異なっている。これを比較しながら、『現在人の怒り』を見てみよう。

 6世紀と現在の違いは、社会構造の複雑さと、仕組みの違いである。学校制度という教育システムと、マスメディアやネットワークメディアによる多くの人からの影響である。

 ここでは、強制された人間関係や、評価がある。この強制による怒りは、直接の人間関係によるモノもあるが、制度上の問題が大きい。例えば、給与などで

「自分が正しく評価されていない」

と言う怒りを持つ人は多い。

 一方、6世紀の様に、面と向かって話す、直接的な人間関係なら、慈悲の心も起こしやすい。

 このように考えると、

「現在の『怒りの原因』は、間接的で絶対的ではない」

と言う見方で対応すべきではないかと思う。

「全てが『空』である」
「仏の目で見れば今まであったことは小さなことである」

このような見方で対応すべきではないかと思う。

2020年1月 5日 (日)

基礎の教科書の二つの形

 先日、大学の教科書について少し考えた。そこで気になったのは

「XXの基礎」

と書かれていても、2種類の教科書がある。つまり

  1. 基礎事項の項目を列挙しているだけ
  2. 本当に身につけておくべきことを絞って丁寧に教える本

である。特に、東大の先生が書いた本は、前者の重要項目を、洗いざらい述べる形の本が多かったように思う。つまり、

「これだけの基礎知識のない人間は、議論に参加する値がない。」

と言うラインを示している。確かにこれは、

「基礎のラインを示す本」

である。しかし、これでは上滑り知識をそろえただけの人材を作る危険性がある。一方、懇切丁寧な基礎の本は、確かに入門にはよいのだろうが、いつもこのような本を求める人材なら、自分で切り開く力がなくなっていく。また、丁寧な基礎作りのためには、

「狭く深くなる」

傾向がある。確かにきちんとした土台作りのため、狭くてもよいから深く堀る必要はある。しかし、広く全体を見ておかないと足元をすくわれる。ある程度土台ができれば、

「基礎として必要な物を網羅した本」

で整理することも大切である。現在のネット社会は、このような全体像を描くことも弱いし、深く掘る力も弱くなっている。 

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