ご縁のあった人たち

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2020年7月 4日 (土)

新型コロナ対応の責任ある説明はどうあるべきか

 今回の、新型コロナ対応の政府、学者の説明は何か、個別の話という感じになってまとまっていないように思う。特に学者の説明が個別に出ている。これは、

「専門があるから」

と割り切るべきだろうか?

 そこで、昔読んだ社会学の古典を思い出した。

「理論構築の方法」J.ヘイグ著 小松陽一、野中郁次郎訳

が展開している方法論で、現在の状況を説明できるのではないか?

 例えば、定性的な理論概念とその連結での説明と、特徴抽出を行った、オペレータとその数値的な扱い。グラフの形、特に外の要因が入った時に起こる折れ線グラフ等がある。

 このような説明が現在の状況では大切だと思う。

2020年6月27日 (土)

ステークホルダーに関する議論

 株主総会シーズンが終わりつつある。そこで、

「会社は誰のモノ」

という議論が、出てくる。前は

「株主最優先」

だったときもあったが、今は、

「従業員、お客様、地域への貢献、株主」

等等を考慮しないといけないという議論になっている。

 これを、MBA等の理論では

「ステークホルダーの利害関係を調整しろ」

という言い方で、関係者を列挙し、利害関係を明らかにし、譲れるモノと譲れないモノを明確にすることで、調整していく。

 一方、我が国には

「売り手よし、買い手よし、世間よしの、三方よし」

という言葉がある。この違いは、氷山モデルの議論の実例となっている。

 確かに理論化するときには、全てを列挙する必要があるだろう。ただし、日本教的な、

「その場を想像した議論」

では、人や社会のイメージで、十分伝わっているように思う。

2020年6月 5日 (金)

数学教育のあるべき姿は

 数学の基礎的な教育の重要性は、色々な先生が指摘している。実際、文庫本にも素晴らしい教材がある。私が、特に感動したのは、ちくま学芸文庫ヨ13-1『数学序説:吉田洋一・赤攝也』である。この本は、立教大学の文系の一般教養の講義を土台としているが、数学基礎論の大家の講義だけあり、厳密な論理展開で、現在数学の基礎をしっかりと教えてくれる。この本をマスターすれば、ヒルベルトの本も怖くないと思う。私は赤先生の本は、大学3年頃から計算理論で色々と読んだが、難しすぎて何度もくじけた。当時、この本が手に入っていれば、もっと数学の見通しがよくなったと、後悔している。

 しかし、ここでもうフィールズ賞受賞者の、小平邦彦先生の『幾何学への誘い:岩波現代文庫学術7』を読むと、もう少し別の世界が見えてくる。ここでは、数学といえども、図形を自分で操作する形で、直感的にわかる推論を重視している。このような、直感的な推論は、厳密性には欠けるので、大学院のレベルで専門的な議論をするのは不適切である。 

 但し、一般社会での論理的な議論を行うだけなら、図形操作の幾何学的議論も、かなり有効ではないかと思ってきた。

 文系の学生ですら、数学の専門的な議論の基礎作りを行う立場、大衆的な推論を広げるための。定規とコンパスの幾何を教える立場、どちらもが必要かもしれない。

 

2020年5月25日 (月)

明治以降の体制と敗戦後の変化

 先日、旧制中学の幾何学は、科学的な論理思考の鍛錬として、よくできている、と言う話をした。つまり、具体的な図形の性質を抽象化し、論理的に議論するという総合的な観点での教育であった。

 しかし、現在の数学教育は、あくまで数学の範疇でしか教えていない。

 このような変化はどこで起こったか、これはやはり、昭和の敗戦時のアメリカGHQの支配の結果であろう。そこでは、数学の専門家は、数学だけに閉じこもりがちになる。(これには、一部には軍事協力のすねの傷を隠す面もある。暗号解読などには数学者が動員されていた。)

 ただ、GHQの支配には、内務省解体の動きもある。先日も、NHKの「日本人のお名前」で警察が、病人の状況を把握しているという話があった。これを聞いて驚いた人がいるが、戦前の内務省から警察の駐在所までは、国民の生活を守り、指導するという一本の筋が通っていた。但し、これが悪用されると、軍事国家への転落となってしまう。これを嫌って、GHQは内務省解体を行った。

 しかし、住民を総合的に観るという立場からすれば、何らかの機能が必要では無いか?

 地方自治で少しそのような面も見えているが、コロナ危機の後にはもう一度見直すべきモノがあると思う。

 

2020年5月24日 (日)

本を読むと言うこと その6

 先日から書いている、本の読み方に対し、別の切り口での議論があったので、紹介し議論したい。

 この本が主張していることは、

戦前の旧制中学の数学教育においては、幾何の勉強を通じて、
論理的な議論などを学ぶ仕組みができていた。

と言うことで、現在の数学教育が、

「数学としての厳密さ」

だけを求めているが、旧制中学の幾何は、

「具体的な図を描きながら考える科学的思考の訓欄から抽象化していく」

と言う総合的な視点で作られている。

 更に、ヒルベルトの幾何学のような、数学だけの厳密世界の問題に対する指摘がある。p184

生徒の学力を超えて厳密な数学は生徒にとって厳密どころかかえって曖昧模糊とした印象を与えます。このことは中学生に(ヒルベルトの)『幾何学の基礎』を教えることを想像してみれば明らかです。

この問題は、数学の専門家に任せすぎた、教育の総合的な検討欠如にも絡むのではないかと思う。

2020年5月23日 (土)

本を読むと言うことについて その5

 本を読むと言うことに関して、極端なスローリーディングの実例として、灘校の伝説の授業を取り上げるべきだろう。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/橋本武

これは、中学の3年間を費やして、「銀の匙」を読み続ける授業である。

 ここまで深く追求したら、人の心に寄り添ったり、作中人物の体験を追体験したりして、自分の感情についても豊かな感性を育て、他人の心にも共感し、理解するように育てることができると思う。

 また、並行して、論理的にきちんとした議論の展開も育成できたと思う。

 この授業は素晴らしい。

 しかしながら、私は一つの皮肉な見方をしてしまう。それは、

「この授業は灘中学だからできた!」

理由は

「灘中に進学できるほどの家庭環境(裕福)が揃っている」

という条件を考えるからである。

 前にも家庭環境と作文の問題で議論したが、公立の小中学校には、多様な家庭環境の子供がいる。決して

「生まれつき銀の匙を与えられた子」

だけではない。この配慮が国語教育にも大きく影響している。

 ただし、田中角栄の教師優遇政策の後には、教師の側に

「偏差値優等生が主流になる」

傾向が出ている。このような偏差値優等生には、裕福な家庭環境での育ちが多い。

 この理由で、

多様性に対する配慮が弱い

人が増えたのではないかと思う。

2020年5月22日 (金)

本を読むと言うことについて その4

 昨日書いた、

「生活環境などの違いから、共感できない人に対して、心に寄り添う読みができるか?」

もう少し、議論してみたい。

 まずこの問題に関連して、前に読書感想文の作文教育との関連で書いた記事があるのでもう一度挙げておく。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-1e7d.html

ここで議論したことは、作文教育に関して

「子供の生活環境に差があるので、体験したことの作文を書かせることはできない。」
その代わりに
「疑似体験として、本の中の世界に対して作文させる。」

という手段が執られた。

 これを、広げれば、

「友達づきあいができない子も、本の中の世界での交流を見て、人と人との関係を学ぶことができるはず。」

という発想になる。これは確かにある程度の効果が期待できるだろう。

 しかし、教科書的な読み方になれば、どこかで正解の縛りが出てくる。

「感動する場所も決まったところで、決まった形で感動しなさい。復讐などの心は抑えなさい。」

という読み方になってしまう。(鴎外の山椒大夫を読んだときの違和感を思い出した。)

 この問題は

「国語教育と道徳教育の分離問題」

伴絡んでくる。

 明治維新以降の日本の学校教育は、このような

「人の心への関わり方」

まで教える様になって、

「正解のある読み方」

にこだわってきたのではないかと思う。

2020年5月21日 (木)

本を読むということについての議論 その3

 前回までの議論 その1その2

 今回は、正解のない読み方について、もう少し議論していきたい。つまり

「人の心に寄り添う読み方」

について、どのように訓練するべきか、議論していきたい。もう少し突っ込めば、

「人の心に対する接し方を訓練できるか?」
「可能であってもするべきか?」

という問題である。

 この問題は、

「パンがなければお菓子を食べれば良い」
逆に
「貧乏な家には誰も友達が来ない」

という様に、

「生活環境の違いによる、個人の体験の違いが生じる。
これに起因する共感能力の違いを、学校教育で埋めることはできるか?」

と設定し直しても良い。

 ここまでの議論を踏まえて、

「多様な見方がある。正解は一つではない。」

というべきではないかと思う。

 しかし、もう一つ言えば

「多様さにを認めるにも、制限事項はある。他人の生存権等を狂わせてはいけない。」

という規範は必要だと思う。

 このように考えると

「正解のある部分と多様な答えのある部分の線引き」

が本当の課題ではないかと思う。

2020年5月19日 (火)

本を読むと言うことに関しての議論 その2

 昨日の,本を読むと言うことに関しての議論に関して、今日は別の切り口で考えてみたい。本日のお題は

「国語の勉強というのは、正解を選るだけのためか?」

である。

 この問いに関しては、多くの人たちが

  No!

と叫ぶだろう。しかし私はあえて、

「正解を選る読み方の訓練はある」

と答える。これは、私がへそ曲がりだから言うのではなく、『言語技術』という運動として、多くの人が参加している。もっと言えば、戦後の日本教育に関する論争の中にも、時枝先生の一派が主張したことでもある。

 このような、

「正しく高速に読み取るスキル」

の習得は、色々な分野の学問の基礎になる。私は実はこれの体験者である。私の小学生時代に、5年6年の算数で、大量の文章問題を解いたときがあった。これで、

「問題の出題主旨を速やかに読むスキルが身についた」
結果
「中学入試では一番だった」

という経験がある。確かに五〇〇人程度の中での一番だから、大したことではないが、この様な成果が出ている。

 ただし、正しく読み取った後には、多様な側面を考えて

「人の心に寄り添う読み方」
「正解のない読み方」

への進化も必要である。

 この段階的な指導について、きちんと見通しができていないのが現状の国語教育の問題ではないかと思う。

2020年5月18日 (月)

本を読むということに関しての議論 その1

 Twitter上でちょっと気になる話があったので、少し突っ込んでみたい。

塾で教えていて、わりと衝撃的だったことの一つが「国語の教科書以外で、まとまった文章を読んだことがない子」の存在を、リアルに目の当たりにしたときのことだ。

この議論は、まだ色々と展開しているが、今回はメディア論の立場で、この問題について考えてみたい。なお、このブログではメディアの議論になるので、『本』という形で議論するが、元のTwitter上の話は、本にこだわっていないことをあらかじめ断っておく。

 一つ目の論点は、本による情報伝達や、教育は絶体的なモノではないという議論である。これは、現在の日本では『教科書』の存在を、当然と考えていることへの批判である。例えば、グーテンベルグ革命以前の西洋では、本は貴重品であり、庶民の手に入るものではなかった。また江戸時代の庶民を考えても、限られた手習い手本を写す、四書五経の素読をするという方法で学んでいた。

 そのような状況では、口頭での伝承の比重が多かった。

 二つ目の論点は、現在のメディア状況を考えると、文章以外での教育や体験ができるのではないかという議論である。明治から、昭和の時代までなら、活字による伝承の力は大きかった。そこでは、本をしっかり読みこむことで、人の考え方の多様性なども学んでいく必要があった。しかし、現在のようなメディアの多様化が実現したとき、本に頼るべきであろうか?それ以外で伝える方法があると思う。

 例えば、人間の考えの多様性、行動の影響で、人がどのように感じるか?これらは、映像・音声の総合的なメディアで伝える方法がある。更にゲームの世界でのシミュレーションもある。このような育成もあるのではないかと思う。

 もっと言えば、本においても、文字情報だけでなく、漫画なども活用すべきだと思う。一人の人物を想像する時、具体的な絵で与えられた場合に、人物としての具体化や、多面性が生きてくると思う。

 これを見て思ったことは、空海が日本に密教の色々な法具や曼荼羅を持ち帰ったとき、多様なメディアによる布教を実現した。今このような変革期ではないかと思う。

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