ご縁のあった人たち

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2020年9月19日 (土)

東大法学部の力とその限界について

 国家公務員の働き方に関して、河野大臣が何かメスを入れるらしい。これはよい事だと思う。しかし、国家公務員の過労状況に関して、ここでもう少し踏み込んでみたい。まず明治の国家公務員育成に関してであるが、先に帝国大学法学部ができて、その後官僚組織ができていった、歴史的経緯を抑えておく必要がある。つまり、国家公務員は、東大法学部出身者を前提の、働き方を考えていた。

 さて、東大法学部出身というのは、どのような力を持っているのだろう。私は、1冊の本がそれを物語っていると思う。

 

この「法学の基礎」は、「法学の土台」とも言うべき本で、法律を作るための配慮すべきコトなどを、網羅している本である。このような、基礎教養を持っていれば、法律に関する検討も、比較的短時間でできるだろう。昔、ある番組で橋下徹弁護士が

「霞が関の官僚は、法律を作るときに、大宝律令まで調べる」

と半ば揶揄していた。しかし、国民の権利に関して整合性を取るなら、既存の法律の立場を調べるのは当然であり、行くところまで行くと律令制度まで行く。これを納得し、要領よく調べるのが、「法学の基礎」などで鍛えられた人財だろう。

 このように考えると、こうした「基礎的な配慮」のできない人材が、長時間労働で苦しむ状況が見えてくる。

 ただし、この発想は、「法学の基礎」で、要領よく仕事をしようとする人間にも、ブーメランで還ってくる。現在の歴史研究では、律令制度の時代でも、実質の「公地公民」は不成立な部分が多く、私有地などの「律令の抜け穴」が多く存在する、という意見がでている。これを踏まえると、

「前例検討で、大宝律令を調べた」

だけでは済まなくなってしまう。こうして、新たな残業地獄が生まれる可能性が出てくる。

2020年9月17日 (木)

物理学的な世界観と社会科学的な世界の見方

 大乗仏教の「唯識」について、少しばかり本を読んでみた。

「唯『識』だけがある」

という発想は極端だが、社会現象などを観るときに、

「そのようなモノが実在する」

と思い込む危険性については、よく意識すべきだと思う。考えてみれば、私たちは

『物理学的世界観』

の影響を受けいている。天体や機械などの

「物理学の対象」

は実在する。この発想は、社会科学には通用しない場合がある。例えば、

「搾取する資本家、搾取される労働者」

と言われても、

「株でもうけている労働者は?」

という風に、理論通りの実在は、存在しない場合もある。

 更に言えば、

「理論的な知識の力で、社会の現象を観る」

場合も多い。極端な話、貨幣経済という概念が無い人が、日本の現状を見たら、何が解るのだろう。

 このように考えると、社会科学の場合には、世界の見方を学びながら、理論的な知識を充実させるべきだと思う。

2020年9月12日 (土)

納得と理解の違い

 昨日の話に関連して、「論争・学力崩壊」では、

  1. 理解型の子供
  2. 納得型の子供

の違いについて、少し取り上げていた。私はこの問題は、社会の分断に関連して議論すべきだと思う。

 まず、理解型の子供は、

先生などから与えられた範囲で、きちんと学んで理解しようとする。

ので、効率よく学校教材を吸収していく。しかし、理解が上滑りになる可能性がある。

 一方、納得型の子供は、

学校で学ぶ事を、自分の体験等に照らし合わせて、納得しようとする。

ために、学問の吸収速度は遅くなる。しかし、一度納得すると、本質的なモノまで解っているので、応用も利くし新しい事を実行する可能性もある。

 さて、社会の分断という観点で、この問題を考えると、昭和の時代、特に高度成長の前には、中学の教育までには、

「納得を重視した面」

もあった。例えば、中学で学ぶ幾何学は、

「まず図形を描き、それを移動して重ねる事で、合同の概念を教える」

という、『直感重視』の教育から、徐々に定義や定理の証明に入っていった。これが、数学教育の偉い先生方が、

「幾何学を厳密に教えないと行けない」
「幾何学ではだめだ、整数論がよい」

等と言い出して、しかも田中角栄の教員の処遇改善で、高学歴教師の増加が起こり、一気に

「厳密なる公理系による学問を理解させる」

流れになったように思う。ここでは、学問は

「専門的手法をきちんと行う」
コトを重視し
「直観的に理解し、納得する」
コトを軽視する。言い換えると
「素人は口出しするな、専門家に任せろ」

 というう空気になってしまった。この結果、

  1. 厳密なる体系での推論を行う専門家
  2. 学問の価値を認めない大衆

の分断が進んだのが平成の時代ではないかと思う。

 しかし、数学の厳密さの前に、直観的な納得を求める幾何学も大事だと思う。更に言えば、

「けんかの道具でなく、社会の全体像を見せる社会学」

等も、必要ではないかと思う。これらが上手く働く事で、大衆参加の社会委運営になり、そのための学問知識を得る人が増えるようになると思う。

2020年9月11日 (金)

学力崩壊と社会の分断は関連しているのではないか

 少し古いが、中公新書クラレの「論争・学力崩壊」を読んだ。色々と気づきがあったので忘れないうちに書いておく。

 この本でも指摘しているが、

「日本の高度成長を支えたのは、中流階層の知的な力による」

という観点は、私もメーカーにいた立場で納得する。QCサークル活動など、現場力として色々な人が貢献していた。

 しかし、現在の学力崩壊は、そのような「一般教養」が危うくなっている。この理由は

  1. 教える側の問題としての時間削減
  2. 教わる側の問題としての意欲低下

の両面がある。

 さて、私が注目するのは、教わる側の意欲低下についてである。ここでもう一歩深掘りすると

「高度成長時代ぐらいまでは、一般人の参加の余地があった」

という感触がある。しかし、いつの間にか

「専門家の社会に口出しするな」

という空気が生まれた感じがする。このような

「専門家と素人の分断」

から、

「素人は学問しても発言できない」
「学問の価値がない」

という流れになったのではないかと思う。

 この流れをもう少し見ると、

「昔は、素人に解る直観的説明を大事にしていた」
  例えば、定規とコンパスの幾何学
「現在は、専門家の厳密な議論法を重視いている」
  ヒルベルトの公理系による幾何学

という風に、

「専門家の学問を重視し、一般人の直観的理解を排除する方向へ、教育が向かったため学問の分断を生んだ」

という仮説である。

 専門家の地位は、それなりの評価が必要だろうが、一般の理解という裾野を軽視していると、学問自体の存続が危なくなると思う。

2020年8月31日 (月)

私たちが学んだ江戸時代は偏っているのではないか?

 先日から、日本の歴史を見直していると江戸時代の、町人文明について、私の理解がない事に気がついた。更に言えば、豪農などの文明への貢献についても、理解ができていない。この理由は、学校教育が偏っているからだと思う。

 一つは、権力体制を重視し、法制度などのが整ったものを対象に教える。つまり、江戸幕府の支配だから、幕府と各藩の支配が主な話となる。もう一つの偏りは、マルクス主義史観である。つまり、搾取する地主と、支配される小作人という図式である。このような、

「水呑百姓の悲惨な生活」

という一面的な図式で描く農村社会、このようなイメージしか浮かばない。

 しかし、よくよく考えてみると、大阪の淀屋橋や道頓堀は、豪商の力でできた。さらに、多くの農地が、豪農の力で開拓されている。これは、当時の豪商や豪農の富裕層が

「将来のための適切な投資を行った」

結果と考えてもよい。つまり、資本主義の基本である

「投資と回収のセンス」

が既にあったと見るべきではないかと思う。

 更に言えば、江戸時代は一応鎖国という、かなり閉鎖的な経済状況である。そこで、

「持続可能な経済成長」

を行ったとしたら、これも現在学ぶべき者が大きいと思う。特に、国土環境を護りつつ、持続可能な成長ができたのかは興味深い。

 なお、一説によると、

「山の木を燃料として購入する豪商のために、多くの山が荒れ果てた。」

という側面もあるらしい。この観点で見れば、明治維新の新たな意味づけもでるかも知れない。

 日本の文明は、環境との共存が大切だと思うが、山を壊した報いが、明治の大変革というのは、一つの可能性である。

2020年8月25日 (火)

安易なキャリアアップ論にだまされてはいけない

 昨日書いた、「日本社会の課題」について、もう少し議論していく。

 今回は、私が安易なキャリアアップ論に反対する理由を述べておきたい。 

小熊は3通りの解決案を提示している。

  1. 生活を維持できるレベルの給与を支払う雇用にすべきである
  2. 「同一労働、同一賃金の原則」からして、同じ仕事なら給与は変わらない。不満があるなら、資格取得や学位取得でキャリアアップすべきである。
  3. この問題は、社会としての生活保障として考えるべき事である

私が反対するのは、生活苦のシングルマザーに対して、安易にキャリアアップが対策という上記2.の姿勢である。

 このような、キャリアアップ論は、どちらかというと、アメリカの自由競争社会的な発想から持ち込まれる事が多い。さて、アメリカというか、西洋文明をきちんと見ると、彼らの発想は私たちと根本的に違う面がある。それは

支配者と被支配者の峻別の伝統
奴隷制度を長く続けた伝統

である。私たち日本人には、根底に大乗仏教の

「皆が仏になる」
という
「究極の平等思想」

がある。一方、西洋文明には

「優れた者が支配する」

という発想があり、場合によっては、

「科学的知見を総動員しても、自分たちが優れていると保証」
例えば、進化論を使うなど

することで、支配の合理化を図っている。

 このような観点で、キャリアアップ論を見ると、

「学位や資格で、支配を正当化」

という発想が見えてくる。

 私が反発するのは、このような支配のための理屈づけとしての、安易な議論である。

 更にこの議論の危険な点は、

「現実的に実現不可能」

な点である。実際に生活苦であえいでいる人が、資格取得の勉強や、学位のために通学などできるだろうか?奨学金などと云っても、またもや謝金を背負うだけになってしまう。このようなリスク負って、時間とお金の投資ができるだろうか?

 確かにチャンスはある。そこで

「機会の平等は与えている」

という、言い訳はできるだろう。しかし、これはあくまで言い逃れであり、他人を低賃金でこき使っている立場の弁解に過ぎないように思う。

 私が、安易なキャリアアップ論、特に「大学で学び直せ」論に反発する理由の一つこれである。

2020年7月22日 (水)

「夜の街問題」の続き

 昨日に書いた、「夜の街問題」について、もう一つ思い着いた。それは、人の評価というか、受け入れに関する議論である。

 私の考えでは、基本的に、

「誰もが人間として尊重されるべき」

と土台があるべきと思う。これは、その人の基本的な所属で認められるべきである。地縁、血縁社会等がこれに当たる。

 一方、その人が

「ある機能を要求される集団に属する」

場合には、

「その機能ができない。不適合。」

という判定もある。

 これが、学校社会等で、皆を押し込めて、成績という機能を、万能視するから、色々なトラブルが発生しているのではないか?

2020年7月17日 (金)

専門家の意見が重視される高度の学力社会

 コロナ関連の議論を聞いていると、専門家の意見が強くなったと思う。しかも、極端な話、

  「数式等がそのままメディア公開」

という事態が起こっている。

 これは、現在の日本社会が、

  「ある程度の高度の学力集団」

を含んでいるからだと思う。高学歴と書いていないのは、実際に実力ある人達だから。

 このような人達は、少なくとも数式化した情報である程度納得する。例えば、

  「感染予防策が不十分なら、患者は指数関数で増加」

等で脅威を感じる。

 このような文明の人は、彼等の間でのコミュニケーション効率が高い。例えば、経営状況の議論がMBAの持っている数値で行われるようなものである。

 しかし、一般大衆全ての納得を目指すなら、非効率に見えても

       「その意味」

をわかり易く伝える努力が必要である。

2020年7月 4日 (土)

新型コロナ対応の責任ある説明はどうあるべきか

 今回の、新型コロナ対応の政府、学者の説明は何か、個別の話という感じになってまとまっていないように思う。特に学者の説明が個別に出ている。これは、

「専門があるから」

と割り切るべきだろうか?

 そこで、昔読んだ社会学の古典を思い出した。

「理論構築の方法」J.ヘイグ著 小松陽一、野中郁次郎訳

が展開している方法論で、現在の状況を説明できるのではないか?

 例えば、定性的な理論概念とその連結での説明と、特徴抽出を行った、オペレータとその数値的な扱い。グラフの形、特に外の要因が入った時に起こる折れ線グラフ等がある。

 このような説明が現在の状況では大切だと思う。

2020年6月27日 (土)

ステークホルダーに関する議論

 株主総会シーズンが終わりつつある。そこで、

「会社は誰のモノ」

という議論が、出てくる。前は

「株主最優先」

だったときもあったが、今は、

「従業員、お客様、地域への貢献、株主」

等等を考慮しないといけないという議論になっている。

 これを、MBA等の理論では

「ステークホルダーの利害関係を調整しろ」

という言い方で、関係者を列挙し、利害関係を明らかにし、譲れるモノと譲れないモノを明確にすることで、調整していく。

 一方、我が国には

「売り手よし、買い手よし、世間よしの、三方よし」

という言葉がある。この違いは、氷山モデルの議論の実例となっている。

 確かに理論化するときには、全てを列挙する必要があるだろう。ただし、日本教的な、

「その場を想像した議論」

では、人や社会のイメージで、十分伝わっているように思う。

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