ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

2020年11月29日 (日)

日本語の特異性

 先日から、仮名文字に関して色々と考えてきたが、これをもう少し突っ込むと、

「日本語の特異性」

と言う論点で、色々と話ができると解った。

 私が注目したのは、

「象形文字でもなく、
アルファベットのような、
徹底した表音文字でもない
仮名漢字交じり文」

の特徴である。これをメディアの特徴として考えると

「象形文字の多数を記憶した知識人」

「アルファベットから派生した記号体系を使いこなす知的特権階級」

の両者の知的活動の独占を防止している。

 前者の、「象形文字~~」は、古代エジプトの神官や、中国の科挙合格者のように、

「多数の文字を記憶しない限り文字を使いこなせない」

と言う独占状況を示している。中国や韓国では、科挙合格者とそれ以外に大きなギャップがある。

 一方、アルファベットを使った古代ギリシャ文明に始まる西洋文明は、

「文字記憶の壁は大衆化したが、論理的思考は哲学者の独占」

と言うもう一つの壁ができている。プラトンの哲人政治や、今でも残る「高学歴者の独占」が、論理的思考法の壁を示している。

 さてここで日本語をメディア論的に考えてみよう。象形文字の子孫である漢字が残っているので、直観的なイメージが文字に残っている。しかも漢字には『訓読み』を行うことで、母国語としての機能をきちんと保持している。一方、漢字を覚えることが難しければ、表音文字としての仮名を使って随時表現できる。このような日本語の論理思考には、直観的なイメージを用いた思考法が生きてくる。例えば幾何学の例で考えれば

「点と線で描く図形」

と言ったイメージが浮かび、それを頭の中で、動かし重ねたり、回転させたり、縮小拡大したりする。このよう直観的な脳内作業での証明や議論ができる。これ学問の大衆化にもつながっている。しっかりした、公理や定義での上での幾何学議論は、数学の専門家には必要だろう。しかし、

直観的な議論での納得

は、知的議論の大衆化には必要だと思う。このために、日本語の果たした役割は大きい。 

2020年11月27日 (金)

五十音図が先か仮名文字が先か?

 前に書いた、仮名文字に関する議論で、もう一つ思いついたことがある。それは、

仮名文字が先か?五十音図が先か?

と言う問題である。普通は、

「漢字しか文字がなかった時代に、その当時の発音を万葉仮名で記述した。それを簡略化して仮名文字が生まれた。」
さらに
「その後、仮名文字を整理する形で、いろは歌や五十音図が生まれた。」

と言う風になっている。

 特に、五十音図はサンスクリット語などの音韻に関する知識がないと、作ることは難しい。そこで、

「いろは歌の空海作は無理があるが、五十音図は空海でないとできないのではないか」

と言う説はかなり説得力がある。確かに、カ行~ワ行までの子音と母音のきちんとした組み合わせは、サンスクリットやアルファベットの表音文字の知識なしで、ここまでの整理は難しいと思う。

 なお、少し脱線するが、ハングル文字も表音文字として、母音と子音の組み合わせを文字のルールとして表現した、完成度の高い物となっている。一部の文書にでる、『日本の古代文字』と称する文字には、ハングルのような母音と子音の組み合わせが見える。これは、ハングルなどの模範例なしで、作れるとは思えないので、江戸時代に誰かが作ったと想定するのが妥当ではないかと思う。

 さて、ここで本題に戻るが、私が仮名文字に関して、今一度問いたいのは以下の問題である。

「日本語の母音と子音は誰が決めたのか?」

もう少し具体的に言うと

「母音が『あいうえお』だけに絞られ、子音も現在の形に絞ったのは誰か?」
例えば
「ハ行にFの発音が入らずHの発音になったのは何故か?」

と言う疑問である。私の感触では

「仮名文字の存在で、発音の自由さが制限されている」
つまり
「五十音の発音しかできなくなっている」

状況があると思う。現在は学校教育の普及で、発音が制限されるのは当然である。しかし、万葉仮名の時代にこのような発音の制限があったのだろうか?

 一つの大胆な仮説は、

「飛鳥時代に日本に移ってきた、渡来人の中に、梵字の知識のある僧侶がいた。彼らがその知識を使って、私たちの先祖の言葉を整理し、五十音的な形にまとめ上げ、その上で万葉仮名の音韻の当て字を作っていった。」

と言う発想である。学問的な検証に値するかは別として、一つの考えとしてみてほしい。

2020年11月25日 (水)

空海が観たモノは?

 空海の『吽字義』を理解するために、もう一度サンスクリット語について、見直してみた。サンスクリットでは、母音子音の複雑さ、その組み合わせのルールを、梵字の書き方に反映させている。少数の文字を使うが、組み合わせのルールを上手に使うことで、多様な音声を表現している。

 梵字を理解すると、象形文字の系列に属する『漢文』に慣れた人間にとっては、カルチャーショックを受けたのではないかと思う。漢字を『真名』と言って、

「真実の文字は漢字しかない」

と思っていた中華文明に影響された人間が、

「お釈迦様の文字は別にあり、それは見事な体系である」

とシッタ感激というか、ショックは大きいと思う。マクルーハンが

「アルファベットの発明はメディの革命の一つ」

と言ったことが納得できる。

 さて、空海はこれを密教の修行という実践に繋いでいく。例えば

「梵字の子音を書くときは、母音の阿を追加する」

と言うルールを、密教の教えに反映させて

「全ての仏の根源である大日如来を『阿』字で象徴する」

とし、他の仏や菩薩を色々な梵字で象徴する。このような

「要素的なモノの組み合わせで理解する」

発想が、曼荼羅などに反映し手、構造的な整理が行われている。 

 また、梵字の『阿字』をしっかり観る、『阿字観』という修行もある。この修行においても、梵字の構造まで考えて、

「全てに展開する『阿』字を観る」

ことが、空海が観たモノを理解することではないかと思う。

2020年11月24日 (火)

仮名文字の不思議

 空海の『吽字義』などを読んでいると、梵字についてもう少し考えたくなった。梵字、つまりサンスクリット語について、少し学んだだけでも、表音文字として、きちんとした構造ができていることが解る。母音と子音等の『音の組み合わせのルール』が、文字の上でもきちんと表現されている。

 これを見ると、

「表音文字とはどうあるべきか」

がよくわかる。マクルハーンが、

「アルファベットの発明はメディアの大改革の一つ」

と言ったのも解るような気がする。

 さて、ここで一つの疑問が出てきた。私たちは、

「仮名文字は表音文字」

と思っている。しかし本当にそうだろうか?一つの実験事例がある。録音装置で

「あかいとり」

と記録し逆回ししたらどのように聞こえるだろう。表音文字なら文字を逆に読み

「りといかあ」

となるはずである。しかし実際は

「いろちあか」

と言う風に聞こえる。これはローマ字で表現するとよくわかる。

akaitori → irotiaka

と言う風に、ローマ字表現の逆転がきこえる。これでも解るように本当の表音文字なら

「子音を独立して扱えないと行けない」
もう少し言えば
「音に忠実に記述して、その組み合わせルールを明確にする」

が必要がある。

 これを考えると、仮名文字という物は、表音文字と言えるのか、怪しくなってくる。

 今これを書きながら考えた仮説は、日本に仏教を伝えた人たちが、お経の陀羅尼の部分の

「梵字に対する当て字としての漢字」

「当時の日本語の発音を五十音図的に整理」
した結果として
「仮名文字が生まれた」

のではないだろうか。

2020年11月21日 (土)

悪い物から目をそらさないで議論すべき

 昨日、コロナのワクチンが日本で開発できない理由の一つに、

  「軍事に関する研究に目をつぶっている」

  https://twitter.com/suzyoshi1/status/1329298753686175744?s=20

とTwitterに書いた。

 しかし、この問題はもっと広げて、議論すべきではないかと思う。現在の学術会議等の

「国防研究拒否症」

は、本質的に

「目をつぶっていれば、悪い物はない」

と言う発想である。しかし、世の中には、色々な国や支配者がいる。これと向き合わずに、「平和憲法」と唱えるだけで良いのだろうか?

 さて、もう一つ別の問題を考えてみよう。これは、犯罪被害者の

「復讐権」

に関する議論である。私はある番組で、『人権派』の弁護士が

復讐権という物は存在しない

と公言したのを見ている。ただしそれは他の弁護士からたしなめられていた。私は、

「被害者が復讐の感情を持つ」

のは正常なことと考えている。ただし、

「法治国家として、被害者の復讐権を取り上げて、法の裁きとした」

いる現状がある。しかし、被害者の感情などにきちんと向き合い

「復讐権とはどうあるべきか」

と言う議論がきちんと行われるべきではないかと思う。ハムラビ法典の

「目には目を」

と言う項目は、

「復讐の限度をきちんと示した」

機能がある。このような面から議論を積み上げるべきだと思う。

2020年11月19日 (木)

学者の戦争への関与について

 昨日書いた記事の主旨は、

「じっくり検討して考える力と、現状に応じて機敏に修正する力は別」

であった。その中で、

「アメリカの科学技術に対して、日本人は個人技で対応したから比較的修正が上手」

と書いた。しかしながら、修正できずに泥沼に陥った例がある。それは、太平洋戦争における日本人の対応である。第二次大戦における、日本の戦争責任は、公式発表では

「軍部の暴走に国民がだまされた」
「学者達もいやいや協力した」

と言うことになっている。しかし、これは真実の姿であろうか?ここで、私が『太平洋戦争』と言う表現を使ったことに、注意してほしい。その場では、真珠湾攻撃、マレー沖海戦、そしてシンガポール陥落と、開戦後の数ヶ月の戦勝気分に、全国民が酔っていた。このことを忘れてはいけない。その中では、

「東条英機の弱腰を叩く」

世論すらあった。

 そのような空気に押されて、一部の学者には、『日本民族の優秀性』等の議論を展開し、『戦争協力』を行った人もいる。

 さて、ここで、最初の主題に戻るが

「学者が発表する物は、きちんとした検討が必要である」
従って
「気軽に修正できない」

と言う側面がある。これを考えると、最初の数ヶ月の戦勝気分に酔って、書いてしまった議論が、引っ込みがつかなくなって、最後まで一人歩きしたことは十分起こりうることである。

 学者が、全て

「軍部の脅迫に屈して不本意な意見を発表した」

訳では無いと思う。なお、軍人達には

「戦後の復興のために学者をかばい、自分たちが罪を負った」

人たちもいることも考えるべきだろう。 

2020年11月18日 (水)

「照準と修正」という観点から見えてくる

 太平洋戦争中のアメリカ軍は

「照準は上手だが、修正は下手」

であった。ここで、照準というのは、最初に狙いを付けることで、敵のいる予想位置に対して、一発目を打ち込むことまで含んでいる。次の修正とは、前に撃った砲弾が外れたときに、狙い直して調整することである。アメリカは日本に比べて優れた、レーダーやアナログ計算機などの技術を活かして、日本の艦船や飛行機の位置を予測する力があった。そこで、

「照準は上手」

となっている。しかしながら、当時のレーダーやアナログ計算機は、大きな設備で操作も大変で、稼働時間もかかる。従って、一度計算が終われば、その後の修正まで計算機を使うことはできなかった。その結果

「修正は下手」

と言う結果になる。このような相手と戦うときには、

「とりあえず一発目を外せ!」

が有効になる。相手の方に突っ込む形なってもよいから、今までの延長した場所にいないようにする。これが生き残りの対策になる。

 なお、日本の軍隊にはそこまでの科学技術も資源も無い。アナログ計算機の概念は知っていても、信頼性の高い真空管をたくさん供給できないから、実現は不可能である。従って、

「個人の技を磨き、優れた人間に任せる」

方法で対応した。その場合には

「どちらかというと修正が上手」

な傾向がある。

 さて、この話は

「戦争における銃砲を命中させる」

と言う問題としてだけ考えるのは、もったいない感じがしてきた。一般的に

「事前準備をきちんとして、時間をかけて検討する力」

「現状を見て機敏に修正していく力」

には、共通する部分と、別の部分がある。この違いをきちんと考えて、使い分けをしないといけない。

 また、

「修正下手」

に対して、アメリカが取った

「科学技術的な対応」

と言う発想も、学ぶべきモノがある。つまり、

「照準で近所まで行けば、その後はミサイルが自動的に目標に向かう」

と言う、

「修正を機械に行わせる」

発想での対応がある。このように、

「あくまで科学技術で対応し、個人芸に対する依存を少なくする」

発想は、第二次大戦後中からアメリカ人が得意とした。私たちは、このアメリカ的発想の影響を、意識していなくても受けているように思う。

2020年11月13日 (金)

「アメリカ教」についてもう少し

 昨日の「アメリカ教」の話をもう少し突っ込んでみる。スミスの作品では

絶対の善も、絶対の悪もない。ただ「最大多数の最大幸福」の原則を守らないといけない

が出てくる。これは、当時のマルクス主義者の

「正義のための革命とプロレタリア独裁」

と言う発想に反発したモノであろう。それほど、当時のアメリカでは、共産主義者への嫌悪感は強かった。逆に言えば、

「共産主義者のスパイがどこに潜んでいるか?」

と言うかなり緊迫した状況にあったらしい。もっとも、この話は私たち日本人の平和ぼけの結果かも知れない。私たちも

「近所に住んでいる人間が、北朝鮮の工作員であって、拉致事件が発生し、同胞が多く連れ去られた。」

と言う痛い経験をしている。それでも

「朝鮮総連の権利を守れ」

と言う声は大きい。

 さて、絶対の善悪に関してもう一つ大事なことは

「キリスト教の教えからの決別」

である。最後の審判での裁き、ここで決まる絶対の善悪、これを否定している。逆に

「神のような全能の立場に、優れた人間が立つ」

発想が出ている。

 これは、

「貴族制度などがなく、誰もが成功できる」

と言う、アメリカンドリームの影響もあると思う。彼らが決めた人間の範囲では

「誰にも機会がある」

と言うのが、アメリカの正義でもある。

 このような、「神の立場」に到達できる可能性を、当時のアメリカ人達は、科学技術に進歩に見いだしていた。この一つのまとまりが、1989年に提案された

「すべてのアメリカ人のための科学」http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf

である。

 しかしながら、このプロジェクトは、盛りだくさんすぎて、実行には移せなかった。ここからも、アメリカの迷走が見えてくる。

2020年11月12日 (木)

「アメリカ教」があるか?

 このブログでは、山本七平が見いだした「日本教」について、色々と述べている。「日本教」は、キリスト教をはじめとする、ヨーロッパ文明に対比して考えると分かりやすい。

 しかし、ここで「アメリカ文面」について、考えてみると、「日本教」と大きく異なる、しかもキリスト教の文明とも、根本で異なるモノが見えてきた。今回は、私が考える

「アメリカ教」

について、議論する。今回議論する「アメリカ教」は、第二次世界大戦の戦勝国であり、しかもソビエト等の共産主義勢力と、正面から対決していた時代の産物である。当時アメリカで熱狂的に売れたSF作品から、当時の共産主義への反発というか、恐怖が伝わってくる。(実際、大統領の速記にまでスターリンの手が伸びていた。ソ連の侵略はそこまで来ていた。)

 私が、注目しているのは、E.E.スミスの一連の作品である。彼の代表作のレンズマンシリーズでは、人類の最強の遺伝子を組み合わせ新しい「宇宙の守護者」を生み出すというアイデアが組み込まれている。この作品が示しているモノは

  • キリスト教などとは違い、優れた人間は「全能の力」を持つことができる
  • 日本教と違い、優れた人間が権力を持って、一般庶民を救う
  • 科学に対する無邪気な楽観主義

であり、日本教ともキリスト教徒も違っている。

 なお、科学に対する無邪気な楽観主義は、二十世紀末には崩れていく。

 しかし、「アメリカ教」という戯概念で少し見えるモノがある。

2020年11月 1日 (日)

「辺境」の意味について

 日経ビジネスの最新号に、「イノベーションは辺境で起こる」と言う記事が載っていた。この記事の主旨とは少しずれるが、私は

日本という国は中華文明の辺境の地

と言う発想がある。これは地勢的なもので、

「東の果ての島国」

と言う立場は、『辺境』とならざるを得ない。さて、この辺境のメリットを考えてみた。私の考えでは、辺境のメリットは

「文明の伝達が遅れる」
この遅延は
「完成度の高いモノを選んで受け入れることができる」

である。つまり、中華文明の色々なモノが、ある程度完成してから伝わってくる。従って

「全体像を見ながら、自分たちに合わせて、取り入れることができる」
「失敗作に巻き込まれることが少ない」

と言う利点がある。日本が外国の文明を受け入れる場合には、

完成度の高いモノを鑑賞し、その上で自分たちによいように消化しながら取り入れる。

と言う悪知恵が働いているように思う。これは、

「自分で苦労して開拓してモノでなく、成果をただ乗りしている」

と言う批判を受ける面もある。しかし、実用化するにはそれなりの苦労もある。こうした面も評価していくことも大切ではないかと思う。

 なお、現在は文明の流入が高速化している。これでは、失敗が淘汰されるまでに、新しいモノに飛びついていく可能性が出てきた。このような状況は、上述の辺境のメリットを無くしてしまう。

より以前の記事一覧