ご縁のあった人たち

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2021年2月13日 (土)

会議の効率化か?仕事の効率化か?

 この数日間、森失言に絡んで『会議能効率化』について、色々と書いてきた。しかし、もう少し視野を広げると、

『会議の効率』より『仕事の効率』

が大切である。このような問題を明確にすることで、本当の改善につながっていく。

 今回議論したいことは

会議の出席者を絞ること

についてである。単純に考えると

「発言しない人を出席させるな!出席者を絞れ!」

は正論に見える。しかし、実際の会議では、発言する人間は、出席者の20%程度が多い。特に質疑ができる人間は限られている。しかしながら

反対しないことに意味がある

と言う人もいる。そのような人は黙って座っているだけでも、重みが出てくる。

 さて、もう少し視野を広げてみよう。仕事の遂行という観点で見れば

会議で決まったことが実行されてこそ効果が出る

ことは皆が同意するだろう。しかしながら、

自分が知らない間に決まったこと

自分も参加して決まったこと

の比較をすれば、『自分が参加した』という意識がある方が、積極的な実行につながる。このように考えると、多くの人を参加させての会議、発言しなくても、利害関係者を巻き込むための会議は必要では無いかと思う。

2021年2月11日 (木)

会議の効率化について少し追加

 昨日書いた、会議の効率化に関してもう少し議論したい。

 まず、専門家同士のコミュニケーションに関しては、既にこのブログで書いた。

 専門家の閉じた世界を造ったネット化と高学歴化: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)  

この記事では、社会の分断という観点で書いたが、専門家の育成の効果についても少し書いている。つまり

「専門家の厳密な言語でのコミュニケーションは効率が良い」
ただし
「その言葉について行けない人間の対応をどうするか?」

と言う問題がある。

 この問題は、専門家の説明責任とも絡んでくる。専門家の間で議論し、決まった結果に関しては、きちんと一般にも解るように説明する。この努力が見過ごされているのでは無いだろうか?

 ただし、これを全て会議の場で行うべきかは、議論の余地があると思う。資料の形で見せる、事前説明を子なっておく、このような対処は必要では無いかと思う。会議という、多くの人間を拘束する場での議論は、少数の人間の満足のために時間を取るのが得策だろうか?特にネット化した社会では、事前の説明や資料送付は容易になった。その上で多くの人が参列する議論はどのようなモノか、もう少し考える必要があると思う。

 このような会議のあり方を考えることは、管理職に必要では無いかと思う。参加者の絞り込み、事前事後の対応、このような配慮が必要になってくる。ただし、

「もめ事を起こす人間の排除」

を安易に行うのは、管理とは言えない。多様な意見ヤ立場を尊重しながら、効率的な時間配分を考えるのが本当の管理だと思う。

2021年2月 8日 (月)

持続可能な社会を目指すなら根本的な解決が必要

 公務員のキャリア官僚の出世レースでは、同期の一人が頂上の事務次官になったら、他は皆外に出る。これは、蜜蜂の雄蜂が沢山いるが、それが女王を追いかけて、唯一匹だけ残った者が女王蜂と結ばれる話を思い出す。それ以外の雄蜂は、皆脱落して死んでいく。多くの企業でも、トップ選別レースを展開しているが、トップになれなかった者は、関連会社の幹部などに割り当てている。

 しかし、この発想の本質は、

雄蜂のように一匹以外は脱落

と言う発想にある。しかし、木の葉層が本当に良いのだろうか?

 人材が豊富にあり、使い捨てができる社会なら、これで良いという説もある。例えば、アメリカ的な市場原理の信奉者には、

適任者以外は去れ

と言う発想がある。しかしこのとき

去った人間の存在場所は?

と言う問題がある。人間を使い捨てにして、どこかに追いやるな、極端に言うなら殺す。ここまで想像力を働かした上で、市場原理によって、人材を選別するという議論が行われるべきである。

 しかし、私達の社会は、このような人材の使い捨ては、許されなくなってきている。少子化、若年労働力不足という現状を考えても、

人材の有効活用

は必要である。

 そのために、

  1. 人財をどのように評価し育成するか?
  2. 育成不可能な場合はどうするか?
    1. 外部調達できるか?
    2. 育成不可能な資質の人罪をどう処理するか?

等の問題を、多様な観点から考えていかないと行けない。

 このように、人材問題を根本から考えることが、現在社会の持続可能性について、方向を示すことになる。

 私が今知りたいことの一つは、縄文時代に人口過剰が起き鱈、どのような解決を立ったかが知りたい。戦争などの解決が無い社会で、しかも長期の持続性がある。そこで人口増加をどのように吸収したか、これは現在につながるヒントがあると思う。

2021年2月 3日 (水)

『不安』による動機付け

 今回のコロナ対応でも、人々の『不安』を煽ることで、行動させている事例が多い。ここから一歩踏み込んでみると、

私たちは子供の頃から『不安』で動機づけられている

と言う経験を思い出してしまった。小学生時代から

「勉強しないとついて行けない、将来困る」

等の脅しを受け『不安』に駆られて勉強する。

「将来何をしたいから、勉強する」
と言う
「目標に向かう勉強でなく『不安』解消の勉強」

が、学校で学ぶ多くの人の動機付けではないか?そう言えば、停電になったとき

「隣の奥さんが内も停電です」

と聞いたら安心する、と言うジョークがある。一説によると、

「田植えで横並びで作業する習性が染みついている」

為に、『横並びから外れる不安』が大きいのではと言う仮説もある。

 確かに、明治以降の学校教育では、

「均質な生徒を作ることで、一定歩調で行進させる」

ことを目標とした面もあり、その中で

「置いておかれる不安」

を強調し活用した。このように、私達は『不安』による動機付けにならされている。

 しかし、ヴェーバーが『プロ倫』で指摘したように、キリスト教文明でも

「自分が救われているという確証がない『不安』が
激しく働く原動力になる」

と言う側面もある。これと同じ反応が、日本の場合にも

「地獄に落ちないために!」

と言う恐怖で大衆を押さえた例もある。逆に、一向宗の信者達などは

「働くことは阿弥陀様の救いの保証」

と言う形で、勤勉に導いた。

 動機付けにおいて、『不安』の力と弊害をもう少し考えていきたい。

2020年12月30日 (水)

指導者の選別方法としての競争原理について

 先日書いた、アメリカや中国の競争原理による、ベンチャー企業の選別について、リーダー選択の観点で考えてみた。

 先日の記事はこちら 競争原理について考える: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

 このブログでは、日本教の話を何度も書いているが、欧米文明の発想と、日本教文明の発想根本的な違いは、

キリスト教の影響下の欧米文明:人の能力は神の力都は遙かに劣る
               従って、完全な人間はいない

日本教の発想:        大乗仏教の全てが仏の力がある、神に人間もなれる
               従って、完全なる指導者が育つ可能性がある

にある。

 このような西洋文明の発想では、

「完全な指導者などはいない」

従って

「少しでもましな指導者を求めて、試行錯誤していく」

と考えるだろう。そこで、『競争原理による淘汰』は自然に出てくる。

 一方、日本教の発想では

「完全な知識と知恵で皆を導く指導者」

を求めて、皆が努力するようになる。ここに競争原理と別のモノが動くようになる。

2020年12月29日 (火)

会社と人間は違うのか

 昨日の競争原理に関する議論を見直して、一つの問題を見つけ出した。

  競争原理について考える: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

昨日の議論の問題点は、

「個人と会社を混同している」

である。つまり、個人が傷つくことを、会社と言うことに無意識に類推している。確かに経営者の一人一人は、個人でもあるが、会社というモノには別の見方があっても善いと思う。端的に言えば

「会社は潰れても善い、個人は潰してはいけない」

と言う発想である。この問題は、前にもこのブログで書いた。

  コロナ危機以降の社会について 続き: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)

今回は、会社と個人の問題をもう少し考えてみたい。私が犯した誤りは

「会社に人間の類推を持ち込んだ」

である。これは、

「(組織を扱う)社会科学を(個人を扱う)心理学に還元する」

と言う単純化の失敗である。例えば、既得権益問題に関しても、組織として持つ既得権益意識の方が強烈な場合が多い。これには、いわゆる『空気』が発生して強固になっていく事例などがある。

 また、時代遅れ組織が、有能人材を抱え込む、事例も多くある。このように考えると、組織としての淘汰は、あっても善いのではないかと思う。

 ただし、日本人の場合には、まだ組織帰属の依存心が大きい人が多い。欧米では、もう少し個人が育っているように思う。この問題も考慮する必要がある。フーコーが『監獄』と言った監視社会、これを日本人は、近所付き合いなどの『組織組み込み』により、自然に実現している面がある。これは悪い面でなく、コロナ対応の自主規制の効果などでの良い面もある。

2020年12月14日 (月)

『有能な人』という表現の危険性

 先日歴史の本を読んでいたら

「後醍醐天皇は無能」

と言う説があった。

 この議論について、たしかに建武の新政の状況を見れば、

「後醍醐天皇の政治能力は低い」

と言う判断には納得する。しかし、鎌倉幕府を倒した、

「革命家としての能力」

は高く評価すべきではないか?このように考えて、

「人の能力を、機能に対応して評価する」

発想について考えてみた。

 会社生活では

「XXサンは有能である」

と言う評価をすることが多い。しかし、よく考えてみると

「XXさんは(XX業務で)有能である」

と言う(XX業務で)の部分が、隠れていることが多い。確かに、思慮の深さ、発想の豊かさ等、個人の資質が優れている人はいるが、業務対応で有能さを示している人が少なくないことも現実にある。

 さて、このような個人を『有能』と評価することは良いのだろうか?これは、裏側の議論を考えると、危険性がよくわかる。先ほどのXXサンが、別の業務に移ったとする。そこで、仕事ができなかったら

「XXサンは、無能だった」

と人格の否定になってしまう可能性がある。ピーターの法則の

「人は自分が無能であると証明されるまで出世る」

はこの一例である。

 このように考えると、人の能力は、業務や機能に関連付けて

「XXサンはXXの仕事では有能である」
「XXサンのXXスキルは高い」

と表現するべきだと思う。

2020年11月 8日 (日)

コロナ時代の新人研修について

 日経ビジネスの最新号が、「コロナ後の新人」と言う特集をしていた。

https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/mokuji/00094/?i_cid=nbpnb_sfrec

 この中でも、新人研修のあり方の議論がある。

  https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00650/
  https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00652/
  https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00653/

私は、某電機メーカーで研修関係の仕事を、15年ほどしてきた。その時に悩んだ問題が、

「新人をどこまで枠にはめるか」

である。もう少し解説すると、

「個人の独創性を壊してはいけない」
しかし
「社会の約束事を守らない人間は、他人に受け入れられない」
そのためには
「ある程度の枠への当てはめは必要である」

と言うジレンマである。

 これをもう少し具体的に言うと、

「能力のある個性は伸ばしたい」
しかし
「それが、あまりにも周囲とぶつかり、壊れることは避けたい」

と言うのが一つの悩みである。もう一つは、

「それほどの力が無いのに、自分の独自性があると思い込んでいる人在の扱い」

である。またこの逆に

「自分の力に自信を持てない人財」

の問題もある。よくあることだが、『人罪』向けに言った言葉が『人財』にだけ響くと言うことが多くある。そこで、『人財』が萎縮し、『人罪』がのさばる。このような事態もある。研修の難しさは、このような社員の全体像を見た上で、個別の対応を考える必要がある点だと思う。

2020年10月14日 (水)

リーダーの行動に関して平時と非常時の違い

 リーダーの説明や、従属者の納得という議論は、時間的に余裕のある場合には有効である。しかし、災害時や戦場での、時間的な余裕がない場合には

「説明は後だ、命令に従え!」

という一方的な指示も必要になる。例えば、洪水時の避難指示などは、時間との勝負になる。このようなときリーダーには、意志決定の速さが必要能力となる。

 ただし、終わった後で、リーダーの指示内容について検証し、

「何故そのような意志決定が行われたか?」
「他の案はなかったか?」
「今後この方法でよいのか?」

を議論し、多くの人が納得いく説明を得る努力は必要である。

 さて、時間的に余裕のある場合には、多くの人が納得いくような説明をして、自発的に従わせるようにることは、単に命令に従わせるより得るものが大きくなる。例えば、空海が満濃池の工事を指導したとき、

「堰き止める場所は流れな緩やかな場所」
「堤の形は丸みを持たせる」

等を

「何故そうした方がよいか」

きちんと説明し、参加した大衆に

「これまでと違う!」
「よい見通しがあっての仕事!」

と成功への見通しを与えて、士気を高めている。

 このような、時間の余裕のある平常時には、

「できるだけ説明して納得させる効果」

が大事であリ、緊急時には

「時間的に間に合う意志決定と明確な指示」

が必要になる。

 この使い分けができる本当のリーダーを育てないと行けない。

2020年10月 1日 (木)

社会科学などの理論知識を生かすためのヒント

 一般に、理系の学問は、大学で学んだ知識が、社会に出てからも役立つことがある。例えば、モーターの制御などを考えても、三相交流として扱うためには種々の数学的知識が必要である。線形代数や複素数の知識が必要になる。しかし、文系の学問が、世の中に出てから役に立つかというと、なかなか難しいモノがある。法学関係の知識は、法律を理解するときに、法律・施行規則~判例の展開などで役立つかも知れないが、工学部と工業との関係のような直接的な結びつきが見えないことが多い。

 この理由に対して、私が見いだした仮説は以下の通りである。

「自然科学は、現実のモデル化に関して、皆の同意が得やすい」
しかし
「社会科学などでは、現実のモデル化は、理論の作り方で変わってくる」
言い換えると
「社会科学の理論は、一般的に成立するといえない」
逆に言えば
「社会科学の理論は、成立する条件を理解しないと使えない」

これは経済学などで、色々な論争が起こっている現状を見れば、

「どれが正しいか解らない?」

なる、混沌とした状況と言ってしまいたくなる。

 しかしながら、これらの理論は、ある程度の説明力はある。しかし、物理学の様な

「一般的に成立する」

とはいえない。そこで、

「理論知識を学ぶときには、その成立する前提も考える」

ことで、理論知識が使えるようになってくる。

 そのためには、『ヘイグの理論構築法』や、『ワラスの輪』などの方法論をしっかり学ぶことが重要ではないかと思う。

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