ご縁のあった人たち

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2021年3月 2日 (火)

今回の接待疑惑に関して

 総理の息子の絡む、接待疑惑で、一人あたり7万円の食事と言う違法行為で、内閣広報官が辞職する事態になった。この話は、辞職した内閣広報官が『女性』であったので、

「山田広報官は菅内閣の強権政治の犠牲者」

と言う論調で、一部野党が叫んでいる。

 しかし、今回の接待内容を見ても、どうも直接的な許認可の、利益供与には至らない感じがする。接待の目的は

単なる情報収集

であり、出席した官僚も

気軽に愚痴をこぼせる場

という感じで参加していたように思う。

 私は、志ある有能な官僚には、レスペクトすべきだと思う。しかし、今回の山田広報官の動きを見ると、

調整が上手い

と言うレベルであり、これを大事にするかというと、一寸違う感じがする。

 本当に大事にすべきは、

長期ビジョンと大局観を持って政策を実行する官僚

ではないかと思う。

 このような評価が、ある程度はできる程度に、現在の日本の知的レベルは上がっているように思う。例えば、大阪府のコロナ対策では、保健行政の有能な官僚の働きが見えて、これを大阪府民は評価している。

 これを考えれば、官僚のビジョンを、もっと民衆に見える形で示していくのも善いのでは無いか。

2021年3月 1日 (月)

社会科学に対するAI活用のアイデア

 日経BPで、コトラー教授のマーケティングの話があった。

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/20/00041/022200001/

彼の提案するマーケティング5.0は

「機械学習などを活用したモノ」

らしい。

 私は最初これを聞いて

「AIで市場の相関関係を見いだすぐらい」

と甘く見ていた。それなら

「しっかりした仮説を作り検証する力が必要」

なので、人間の力に依存する面が大きい。しかし、Q&Aを聞いていると

「AIで人間の行動モデルを作り市場の動きを見る」

と言う方向が見えた来た。これはとても大きなモノが出てくると思う。

 これで、社会科学においても,シミュレーションによる実験ができる、という可能性が拓かれた。これは、技術の世界で設計支援環境に組み込まれたシミュレーションのように、市場検討などでもシミュレーションの可能性を拓くモノである。

 従来も、「囚人のジレンマ問題」をコンピュータシミュレーションで解いた事例はあった。しかしそれは、専用ソフトでの対応である。現在のAI技術なら、汎用的な

「市場行動シミュレータ」

としての人間モデルができるだろう。更に言えば、コンピュータ将棋で行っているように、人間モデルが自動的に機械学習で成長することも可能になる。

 ここまで考えると、社会科学のシミュレーション的実験が、手軽に行えるようになると思う。

2021年2月25日 (木)

納得して覚える

 記憶が定着する方法について、もう少し議論する。私の経験では、

本当に理解できた知識は自然に覚える

が基本である。そこで次のステップは

理解はどのように行うか

である。これに対して、

体系化してつながった知識

を持ったとき

「理解した!」

と言う感動体験が一つの答えになる。次の問題は、体系化をどのように実現するかである。私の経験では以下の3面がある。

  1. その知識の中での論理的な展開
  2. 他の理論知識との横の繋がり
  3. 現実例への縦の繋がり

このような3つの方向への広がりが、密なネットワーク化すると、納得することが多い。例えば、電磁気学の教科書を読むとき、その本の中では、Maxwellの方程式から、数学的な展開をみる。一方、力学などの関連分野との関連を見る、さらにアンテナの実現などで、現実との関連を見ていく。こうした、展開を自分の力でモデル化していくと、

納得した!

と言う感動体験を自分のモノとするだろう。

2021年2月24日 (水)

忘却の恐怖を克服

 私は、大学院生時代は、狭い分野を深く勉強していた。具体的には、人工知能の為のモデル化と、コンピュータプログラミングである。しかし、会社に入って仕事をすると、いやでも周辺分野に気を配らないといけない。当時は、マイクロプロセッサが動き出した時代で、

「マイクロプロセッサとは何か?」

と言う議論から入っていった。そこでは、ハードウエアの知識が必要になり、回路の知識、電子素材の知識など多様な分野の知識が必要になる。そのために、多くの本を読みあさった。これは、必要に駆られて行った面もあるが、純粋に自分の知識を増やしたい、と言う動機も大きかった。

 そこでは、一応ノートをとったり、重要部に線を引いたり、書き込んだりしたが、やはり理解不足で忘れることが多い。そこで

「忘れることへの不安」
「解らないことへの焦り」

が発生した。しかし、この勉強は学校の場合と異なり、決まった期限で終わりではない。仕事のための情報収集としての勉強は、期限があるが、その場合には

「目的達成のための情報収集」

であり

「自分の納得のための勉強」

と違うことが解ってきた。「自分のための勉強」では、時間をゆっくり取ることが可能であり『積読』のように、一旦手に負えない者は寝かしておく。特に

「覚えきれない者は忘れてもかまわない」

と割り切ることで、自分で学ぶことが楽になった。これに関連して、前に買った本を、後で読み返すと、納得がいって理解が深まる、このような体験も何度かしたので、

「解らないことでも、時間が解決する」

と思うようになった。

 会社の仕事でも、必要なことはメモに書き、それは忘れても良い。必要なときに調べて解るなら、忘れても良い。このような割り切るが、気持ちを楽にしたように思う。

2021年2月23日 (火)

スマホ脳と記憶に関しての議論

 先日、「スマホ能」に関して少し書いたが、その後気になって、今話題の新潮新書「スマホ脳」アンデシュ・ハンセン著、久山葉子訳を読んでみた。

 精神科医が書いただけあって、体内の化学物質の働きなどもよくわかる。

 さて、この本の後ろの方に、

スマホに依存するために発生する記憶力低下

と言う指摘があった。このブログは、「勉強の方法」と問題を取り上げているので、この問題はきちんと向き合う必要があると思う。

 まず議論したいことは、

記憶力の低下と言うことが本当に悪いことか?

これは、人類の歴史を見れば

文字なし暗記の世界 -> 文字の出現 -> 紙への記述 -> 安価な紙の大衆への普及

と言う風に、暗記力依存から外部記憶である書き物への移行が、大きな流れになっている。ノートに記述することができる。その結果、記憶の負荷から解放される。これは、創造的思考を働かせるためには、有効な手段である。

 従って、一旦スマホなどの電子的手段に、思いつきなどを保存しておいたり、参考になると思ったことを、リンクだけお気に入りで保存したりすることは、積極的な面も評価すべきだと思う。

 私の体験でも、色々と思いついたことを、このブログに書くことで、電子的に保存できるので、ノート保存の本棚があいて助かっている。しかも、検索機能が充実しているから、色々と引き出すこともできる。

 このような、知的生産の補助という側面を考えて

スマホ脳を上手く育てる

発想が必要である。

 古事記や日本書紀を書き写した時に、記憶の達人に依存した伝承から解放された。このような進化を受け入れて私達は育ってきた。

2021年2月17日 (水)

不安で人を動かすのは?

 二月一五日の和歌山市の直下型地震は、市街地に震源があり、マグニチュードは低くても震度4まで揺れた。

 さて、この地震で和歌山市議会場の照明の一部が落下し、審議が中断する状況がテレビで放送されていた。

和歌山で震度4 市議会で照明落下し中断も(気象ニュース 2021年02月15日) - 日本気象協会 tenki.jp

 ただし、和歌山市に住んでいる人に聞いたが、

「揺れたが被害は少ない、どこかの灯籠が倒れた程度」

と言う状況らしい。

 一方、SNSでは和歌山市議会に関して

「見てくれ良さで、こった照明にするからあのような被害に遭った」

と言う意見がある。確かに、安全設計という面では、照明金具の落下などはない方がよい。しかし、和歌山県や和歌山市の大きな政策を見ると、もう一つのモノが見えてくる。

 それは、

「和歌山県の南海トラフ地震津波対策」

で、

「和歌山市内でも津波の被害に遭う。従って、高いところに移住する等の対策をとるように!」

と住民に伝えていて、県の機能なども、高いところに移している。

 この文脈で、このような「地震被害映像」を流すことは、住民の地震対策意識をかき立てる、有効な手段だと思う。

 しかし、『不安』で人を動かすのが本当によいのか?

 私は、納得が基本ではないかと思う。

2021年2月16日 (火)

プラトンが見るモノ

 昨日書いた、プラトンの『国家』で、描いた

『真実』の世界

は、

『イデア』という理想的なモノ

で記述した世界である。このように、現実を抽象化し、理想化して記述する方法が、現在の科学的な西洋文明を生み出す力となっている。プラトンのイデアは、ルネッサンス以降の近代科学では、理想条件での思考という形で、大きな成果を生み出した。

 例えば、ガリレオの思考実験では、

「同じ重さの鉄級を二つ繋ぐ」

と言う極端な形で議論して、当時のアリストテレスの自然学の

「重い物は速く落ちる」

と言う定説を打ち破った。更に、ニュートンの力学では

「大きさがない質点にその物体の質量が総てある」

と言う理想的な条件で、万有引力に支配された、物体の動きを数学的に記述できるようにしていった。

 こうした抽象化した概念を上手く使うことで、西洋文明の理論的な力が増えていった。そこでは、『正しい』と『間違い』が明確になり、議論も進む。

 このような、

抽象化した世界で普遍的な法則という本質を理解する力

を持った人間が、支配する国家を、プラトンは『正義』が行われる『国家』と考えたのだろう。

 しかし、プラトンが考えた、抽象化された『形式的な記述』だけで、全てを支配するのは無理がある。

 例えば、野中郁次郎が提案した『暗黙知』の発想も、プラトンとその子孫への対抗策だろう。

2021年2月12日 (金)

専門家と言っても色々

 コロナの問題で、色々と『専門家の意見』がでている。しかしながら、専門家にも色々とあると言うことを、きちんと理解している人が少ないように思う。今回の感染状況について、発言する専門家を大きく分けると、以下の2パターンになる。

  1. ウイルスの伝搬の細部の専門家
  2. 多数の感染状況を数理モデルで予測する専門家

1.の立場を『ミクロの専門家』、2.の立場を『マクロの専門家』と呼ぶと、イメージが掴みやすい。例えば、ミクロの専門家は、ウイルスが飛沫感染するからくりなどを教えてくれる。そこで具体的な内作を提案する。また、ワクチンの種類や、その効果について教えてくれるのも、ミクロの専門家である。

 一方、マクロの専門家は、多くは数学的なモデルを使って、感染の拡大状況を予測する。そうして、政策への提言を行う。例えば

「現状で対策を取らなければ、XX時点での病にはXX、そのうち死者はXX人となる」

と言うような予測を行う。さて、専門家のコミュニケーションというと、ミクロの場合には、その伝搬メカニズムなどの具体的な話についての議論となる。しかしながら、マクロの専門家に関しては、議論の向きが二通りに分かれる。

  1. 検討の前提に関する可否
  2. 手法自体の妥当性

ここで大事なことは、専門家の議論では、どちらかというと『手法の妥当性』の方での議論が多くなる。これは、

「数学的な議論なら『正しい』と言いやすい」

ことが影響している。

 しかし現実に適用するためには、前提をきちんと評価する必要がある。このような前提に関しては、

「素人も口出しできる」

ために

「会議が長くなる」

可能性がある。しかし、この問題を避けて通ると、予測外れのトラブルになり、結局専門家の地位を危うくすると思う。

 このような前提に関する議論を行う、専門家の周辺の人財を、育てる必要がある。

2021年2月11日 (木)

会議の効率化について少し追加

 昨日書いた、会議の効率化に関してもう少し議論したい。

 まず、専門家同士のコミュニケーションに関しては、既にこのブログで書いた。

 専門家の閉じた世界を造ったネット化と高学歴化: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)  

この記事では、社会の分断という観点で書いたが、専門家の育成の効果についても少し書いている。つまり

「専門家の厳密な言語でのコミュニケーションは効率が良い」
ただし
「その言葉について行けない人間の対応をどうするか?」

と言う問題がある。

 この問題は、専門家の説明責任とも絡んでくる。専門家の間で議論し、決まった結果に関しては、きちんと一般にも解るように説明する。この努力が見過ごされているのでは無いだろうか?

 ただし、これを全て会議の場で行うべきかは、議論の余地があると思う。資料の形で見せる、事前説明を子なっておく、このような対処は必要では無いかと思う。会議という、多くの人間を拘束する場での議論は、少数の人間の満足のために時間を取るのが得策だろうか?特にネット化した社会では、事前の説明や資料送付は容易になった。その上で多くの人が参列する議論はどのようなモノか、もう少し考える必要があると思う。

 このような会議のあり方を考えることは、管理職に必要では無いかと思う。参加者の絞り込み、事前事後の対応、このような配慮が必要になってくる。ただし、

「もめ事を起こす人間の排除」

を安易に行うのは、管理とは言えない。多様な意見ヤ立場を尊重しながら、効率的な時間配分を考えるのが本当の管理だと思う。

2021年2月10日 (水)

会議効率化の観点で

 昨日の記事に関連して、会議の効率化に関してもう少し議論しておきたい。会社生活などでは、会議の効率化は、重要な事項である。私が若いときには

「会議に参加する前に、議事録案を作っていき、その場で結論を書いてまとめる」

という風に準備しての参加を指導された。これには

「会議には多数の参加者がいるので、その人の時間を無駄にしない。」
(参加者が多いと情報共有でき、参画意識で責任感を共有)

という、多数を巻き込むが、それでも効率化を図るという知恵があった。確かに、効率重視の人は

「(有効な)発言しない人間は参加させるな」

と言ったりしたが、このような人は

「反対しなかったことに意味がある」

面を忘れている。自分が参加した会議で決まったことは、不本意でも守る。これがある程度できていた。

 さて、このような『予定調和型会議』だけで、物事を進めて良いのだろうか?新しいことを始めるときには、不調和がどうしても生じる。また現状への疑問を投じることも必要である。こうしたときには

「流れや空気を読まない素人発言」

は貴重な意見である。しかしそれに対応することは、多くの時間を必要とする。

 日本的な『根回し』は、このような議論を、個別に行うことで、多数の参加者の束縛を避ける効果がある。

 このような会議の見直しも、効率的な経営には必要だと思う。

 会議管理論というモノがあっても良いだろう。

より以前の記事一覧