ご縁のあった人たち

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2020年9月18日 (金)

記述が難しいモノをどのように表すか

 近頃、社会科学の実用化について色々と考えているが、根本的な問題として

「社会科学の対象とは何か?」
「それはどのように表現されるのか?」

と向き合ってみた。

 この問題を

「関係や動き、そして働きを、どのように記述するか?」

と具体化してみた。もう少し、物理学と比較すると物理学では、

「対象の物体は明確に存在する。」
「物体間の関係は数式で表される程度に明確である。」
「動きに関しても、微分などの数学的道具が備わっている。」

という恵まれた条件がある。

 一方、社会科学の場合

「対象は社会という曖昧なモノ」
「関係や動きを数式で記述すると、部分的な表現となる」

という段階である。

 このような社会科学の記述には

  1. その世界のモデル(舞台と登場人と登場物)を作り
  2. その上での典型的ストーリーを展開し
  3. 一般的な規則を見いだして理論化する

段階を踏む必要があるのではないかと思う。

 もっと言えば、登場(人)物の特性(本性)を、きちんと記述し、その一般性を見いだすなどの手順があるかも知れない。これは、ソフトウエアでシミュレーションする側の発想に近い。

2020年9月17日 (木)

物理学的な世界観と社会科学的な世界の見方

 大乗仏教の「唯識」について、少しばかり本を読んでみた。

「唯『識』だけがある」

という発想は極端だが、社会現象などを観るときに、

「そのようなモノが実在する」

と思い込む危険性については、よく意識すべきだと思う。考えてみれば、私たちは

『物理学的世界観』

の影響を受けいている。天体や機械などの

「物理学の対象」

は実在する。この発想は、社会科学には通用しない場合がある。例えば、

「搾取する資本家、搾取される労働者」

と言われても、

「株でもうけている労働者は?」

という風に、理論通りの実在は、存在しない場合もある。

 更に言えば、

「理論的な知識の力で、社会の現象を観る」

場合も多い。極端な話、貨幣経済という概念が無い人が、日本の現状を見たら、何が解るのだろう。

 このように考えると、社会科学の場合には、世界の見方を学びながら、理論的な知識を充実させるべきだと思う。

2020年9月14日 (月)

社会科学の実用化に関して

 先日から書いている、

「学問をする価値」

に関連して以下の問題を考えてみた。

「自然科学は、物理学から工学という実用の流れがあった。社会科学にそのような流れはあるか?」

この問題に関しては、昭和の時代なら一つの答えが出てくる。

「マルクス主義に影響を受けた、学校教育は忘れてもらって、社会に出てから実務を習う。」

という事で、

「文系の学生に関しては、学生時代の勉強を無視する。」

という流れができていた。ただし、一部の法学部系などでは

「法学部の論理能力を生かす。」

という面もあったが、これは例外に近い。

 その後、平成の時代には、

「アメリカ仕込みのMBA(経営学修士)手法を生かす」

という形の、大学教育が即戦力という面が出てきている。簿記などの資格取得も一つの流れだろう。(平成の終わりには、マルクス主義が収まった事も影響している。)

 しかし、もう一歩進めて、

「社会科学をベースにして、社会のシステムを提案する、社会技術や社会工学はないのか?」

という疑問が、まだ残っている。

 この問題に対して、栗本慎一郎が面白い意見を出している。

明治の体制では、大学を作ってから、文部省ができた。法律に関しても、法学校を先に作った。

社会工学などという発想でなく、その場に対応した政策が行われた。

これは本質を突いていると思う。また「社会技術」という本も出ているので、もう少しこの問題を考えていきたい。

2020年9月 9日 (水)

自分の納得と権威の受け入れの関係

 私たちは、学校で勉強するときには、教科書や教師という「権威」に従うことを、強制されている。

 しかしながら、自分の意見を持つためには、どこかで

「自分としての納得」

を得る必要がある。この納得の根拠として

  1. 信じている人などの言葉
  2. 自分の経験
  3. 直観的な理解

等がある。

 特に、経験や直観的な理解の裏付けがあると、信じる力が強くなり、迫力のある議論ができる。

 しかしながら、直観的な理解にこだわると、そこから進まなくなるコトもある。このバランスが難しい。特に西洋文明的な学問は、ある決められたルールの上で展開する場合が多く、そのルールには従うしかない。自分の直観に合わないでも、そのルールでの推論結果は受け入れないと行けない。特に数学ではこのような事が起こる。

 こうした、権威との付き合い方を上手に行う事が、学問を使いこなすための条件だと思う。

 最後に、人に説明するときに、自分はきちんと納得した根拠を持っている場合と、自分もどこかの「権威」に従っている場合の違いを、きちんと意識する必要がある。自分が納得しているなら、そのまま説得できる。しかし、自分が「権威」に従っているなら、相手にも「権威」を押しつけてしまう。これをきちんと意識していないと、説明や説得を受ける側の反発を買ってしまうだろう。

2020年9月 2日 (水)

意味をどこで見いだすか?

 先日から、社会科学におけるモデルの役割について、考えていたら、色々なモノがつながってきた。そこで、まだ荒削りだが、思いつくところを書いておく。

 まず一つ目のアイデアは、社会科学のモデル論から来た

「物事の意味はそのモデルの上でで考えるべき」

である。自分が感じる意味、というのではなく、その物事が起こった状況をモデル化し、その上で考える。

 もう一つのアイデアは、江戸時代の豪農や豪商の働きで思いついたが、

「社会全体がよくなる事が自分の幸せ」

という発想である。これに関連して、仏の慈悲について

「太陽の光のように遍く照らす」

という発想が、

「個別の一対一の関係でなく、社会全体への影響」

という形で見えてきた。これは逆に言えば、

「西洋文明の物理学モデル=一対一の関係の簡略化」

で表せないモノを見直す考えである。もっと言えば、西洋文明的に

「局部的な関係に集中して考えすぎ」

という私たちの思考の偏りをただす。こうしたときに見えるモノがある。このような感じがしてきた。

2020年9月 1日 (火)

社会科学におけるモデルの役割

 社会科学は、現実の社会に発生している事を、上手くモデル化して、多くの人に伝える役割を担っている。

 しかし、このモデル化について、しっかりした議論が行われていないのが、現在の社会科学の問題点ではないかと思う。私は、この理由を

「物理学の理想を追いすぎた」

点にあると思う。もう少し具体的に言うと、

「物理学のような、きれいな抽象化の階層を求めている」

「社会現象の切り口は多様で、物理学のような綺麗な階層化はできない」

事を理解できていない。ヘイグの「理論構築の方法」ですら、「完全なモデル」を「到達できない目標」と書いている。しかし、社会現象は多様な関わりがあり、しかも理論的な観点も多様にわたっている。これを図式的に描くと

「モデル作成」↔「理論的な視点」

という風に、理論の成果により、モデルの作り方が違ってくる。これは、

「理論の力で社会の見方が変化する」

ことでもある。このような事をきちんと認識しておかないと、偏見や先入観から自由に成れない。

 もう一つ言えば

「完全なモデル」
を求めずに
「満足できるモデル」

を求めるべきである。

「その時点で役に立つ、説明のできるモデル」

これが社会科学のモデル作成の目標ではないかと思う。

2020年8月30日 (日)

本当に護るべきものは国土という発想で地方創生を考えてみた

 首相の退陣の話が出て、色々と政治が動きそうである。この機会に、この国のあるべき姿について、少し考えてみた。

 私が考えたこの国のあるべき姿は、

「風土を大事にした持続可能な国」

である。つまり、

「環境問題なども考慮した国土の運営であるべき」

が私の主張である。日本という国は、これまで何とか持続してきた。特に

「水などの資源に恵まれ枯渇させずに来た」

という、持続可能性を維持してきた。これは、世界の中でも誇るべきコトである。逆に言えば

「水と安全はただ」

という発想の「お花畑住民」という側面もある。

 しかしながら、現在の日本を見ると、この水と安全が、色々な面で脅かされている。梅雨時の水害などが、その典型である。

 私は、この原因を

「国土が弱くなっている」

と考える。もう少し具体的に言うと

「山が死にかけ、木々の力がなくなった為、土も弱くなった」

状況が、治水上のトラブルや、山崩れを起こしていると思う。

 このように考えると、現在の緊急課題は

「山を救う!」
「林業の復権」

である。このため

「公共投資を活用して、国を護るために、山の保持と林業を活性化させる」

事が第一優先である。そのために、必要な人材や、ロボット等も投入すべきである。更に言えば、山のメンテの人たちが住むための町作りはどうあるべきか、そのためには農業なども活性化すべきという議論も出てくると思う。

 既存の枠組みを外し、国土を護るためにはどうあるべきか、根底から考える時が来ているように思う。

2020年8月24日 (月)

日本の歴史を見るときに「思い込み」にだまされてはいけない

 日本の歴史を見ると、

「瑞穂の国日本」
つまり
「農業国」

というイメージが湧く事がある。しかしこれは本当だろうか?

 この問題を追及すると、

「律令制度は本当に成立していたか?」

という議論まで踏み込んでしまった。この議論の発端は、明治の戸籍における

『百姓』という分類のいい加減さである

つまり

『工業・漁業・果ては商業』までも『百姓』に分類されている可能性あり

という議論である。これは、江戸時代から曖昧な『百姓』という分類の継続と考えてよいだろう。

 さて、この問題を考えていくと、もう一つ私たちが、思い込んでいる可能性が出てきた。それは、

「律令制度の『公地公民』は本当に成立したのか?」

という議論である。この話は、

「公地で与える土地があるのか?」

という問題であり、現実に

「墾田私有の法」

が、色々な形ででている事、また租税に関しても、『米本位』が本当に成立していたか?等の状況から、疑うべきであろう。

 このように考えると、根本的な問題として

「律令制度は、日本では機能していたのか?」
言い換えると
「建前としてお飾り的な律令制度」
もっと云えば
「中華文明での付き合いに、恥をかかないための、律令制度実行の格好だけした」

という可能性が見えてくる。

 このような状況を考えると

「日本の歴史では、常に建前と現実主義のバランスの上で社会が動いていた」

という見方ができるのではないかと思う。

2020年8月16日 (日)

実用的な学問について

 文春新書の「歴史の作法」山内昌之を読み直している。この本が、問いかけているモノは、文系の学問全般に関わる

  「実用と学問的な成立」

の問題がある。歴史の研究には

  • 事件の意味を理解する
  • 事件が実際に起こったことを確証する

という二つの側面がある。しかも

「歴史」を事実によって知ろうとするとするなら、まず疑念やこだわりを持たなければ、未知や謎に包まれた歴史の森に分け入ることはできません。

という、理論的な枠組みの中で、

  「正しい疑問を持つ」

という宿命がある。これは、物理学の様に確実なモノでなく、社会科学・人文科学に特有の多様な見方を認める必要がある。

 著者の姿勢は

研究の政治史偏重を改め、全体像の構築を目指す歴史学・・・アナール派
歴史家の条件は人生に関心を抱く

に近い。その上で

  1. 歴史を決定する時間の流れと人間の営みとの関係について考える
     歴史は「正義」などの価値観で動くか?
     本質を理解する洞察力はどのように働くか?
  2. 歴史と叙述の関係を整理する
     過去と現在をつなぐ因果関係を見いだすには「想像力」が必要
     叙述と学問的厳密性との緊張関係
     複雑な事件の連鎖を分かりやすく総合的に説く
     生き生きとした叙述を通して事件を物語的な連関で表現できる能力が歴史家には必要
  3. 歴史と現実政治の関わりについて理解を整理する
     政治の危機を歴史の中に位置づける日本歴史家

という作法について書かれている。深く、しかも共感できる。

 また著者は、マルクス主義などの単純化した、原理主義に関しても批判的であり、これも同意したい。

 なお私が昔書いたブログも参考にしてほしい。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-432e.html


 

2020年8月14日 (金)

認識するモノは何か?

 社会科学などの分野では、物事を見る目が、その人が持っている、知識の影響を大きく受けている。これは、自然科学の分野と大きく異なる。私たちは、自然科学、特に物理学の影響を受けているので、

   「自然界のモノを素直に見る」

ということは、当たり前に考えている人も多いと思う。しかしながら、社会の現象や人間の営みは、多くの側面があり、更に社会科からの関わりも多様になっている。私たちは、その全てを知ることができているのだろうか?プラトンが突きつけた『洞窟の比喩』は、確かに成立している。

 私たちは一面しか見ることができず、それは自分たちの知っていることに制限される。

 例えば、マルクス主義にこだわれば

   「労働者は資本家に搾取されてこき使われている」

という観点で議論が進む。しかし、江戸時代の篤農家が

   「多くの人を指導して、開拓させる」

という活動は、

    「社会資本への投資で、将来的に皆がよくなる」

という側面がある。投資と回収、全体としての幸せ、等の概念がないと、このような発想は出てこない。

 このように考えると、私たちが見ているモノは、私たちの今までの知識に大きく影響されている。

 なお、私たちが作った制度に関しては、自分たちが創ったから、定義もはっきりしている。

   「正しいと言い切れるモノは、作られたモノである」

このヴィーコの言葉は、流石に社会学の祖といわれることがると思った。

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