ご縁のあった人たち

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2020年11月18日 (水)

「照準と修正」という観点から見えてくる

 太平洋戦争中のアメリカ軍は

「照準は上手だが、修正は下手」

であった。ここで、照準というのは、最初に狙いを付けることで、敵のいる予想位置に対して、一発目を打ち込むことまで含んでいる。次の修正とは、前に撃った砲弾が外れたときに、狙い直して調整することである。アメリカは日本に比べて優れた、レーダーやアナログ計算機などの技術を活かして、日本の艦船や飛行機の位置を予測する力があった。そこで、

「照準は上手」

となっている。しかしながら、当時のレーダーやアナログ計算機は、大きな設備で操作も大変で、稼働時間もかかる。従って、一度計算が終われば、その後の修正まで計算機を使うことはできなかった。その結果

「修正は下手」

と言う結果になる。このような相手と戦うときには、

「とりあえず一発目を外せ!」

が有効になる。相手の方に突っ込む形なってもよいから、今までの延長した場所にいないようにする。これが生き残りの対策になる。

 なお、日本の軍隊にはそこまでの科学技術も資源も無い。アナログ計算機の概念は知っていても、信頼性の高い真空管をたくさん供給できないから、実現は不可能である。従って、

「個人の技を磨き、優れた人間に任せる」

方法で対応した。その場合には

「どちらかというと修正が上手」

な傾向がある。

 さて、この話は

「戦争における銃砲を命中させる」

と言う問題としてだけ考えるのは、もったいない感じがしてきた。一般的に

「事前準備をきちんとして、時間をかけて検討する力」

「現状を見て機敏に修正していく力」

には、共通する部分と、別の部分がある。この違いをきちんと考えて、使い分けをしないといけない。

 また、

「修正下手」

に対して、アメリカが取った

「科学技術的な対応」

と言う発想も、学ぶべきモノがある。つまり、

「照準で近所まで行けば、その後はミサイルが自動的に目標に向かう」

と言う、

「修正を機械に行わせる」

発想での対応がある。このように、

「あくまで科学技術で対応し、個人芸に対する依存を少なくする」

発想は、第二次大戦後中からアメリカ人が得意とした。私たちは、このアメリカ的発想の影響を、意識していなくても受けているように思う。

2020年11月11日 (水)

会社の存続という問題

 米国では、

「会社が潰れることはよいことだ」

と言う発想がある。この主旨をもう少し説明すると

「時代に適合しない会社が、人材を抱え込むことを避けて、成長分野に人材を回せる」

と言う発想で

「会社が潰れることはよい」

と表現している。確かにこの話の実例として、太平洋戦争の真珠湾攻撃の裏話がある。

「日本海軍の真珠湾攻撃で、米国は旧式戦艦を多く失った。その結果、その戦艦に乗るべき人材を、新しい空母などに有効活用できた。一方、日本海軍は、大和と武蔵の巨大戦艦が最後まで残ったため、有能な人材を、大和や武蔵に縛り付けられたので、実戦での活躍ができなかった。」

この事例が示すように、旧来の組織が残ることで、資源の無駄遣いになる可能性はある。

 しかしながら、私たち日本人は、会社の存続と言うことの重みも知っている。よい実例が任天堂である。私は戦後の昭和からの人間なので以下の変遷を知っている。

  1. 昭和の30年代ぐらいまでは、たばこ屋で「任天堂の花札」を売っていた
  2. 昭和の30年代には、ディズニートランプを、トランプマジックの番組で上手く売り込んだ
  3. 昭和50年代からテレビゲーム機
  4. 昭和60年代からファミリーコンピュータ

等のすさまじい変化を遂げて、現在も生き残っている。この会社は

「遊びと言うことの専門の会社」

と言う「芯になるもの」を大切にしながら、色々と適合し成長している。このような、会社を残すよい面も知っておくべきだろう。

2020年11月 6日 (金)

帰納的に考えるために

 論理的な思考法には、自明な公理から推論を展開する演繹的思考法と、経験を一般化する帰納的な思考法がある。しかしながら、両者には以下の欠陥がある。、例えば、万有引力の法則から、地球を含む惑星の公転について知るのが演繹的思考法である。一方、木からリンゴの落ちるのを見て、他のモノも落ちると言うことを考えるのが帰納的思考法である。

  • 演繹的思考法には公理の範囲から推論できるだけしか解らない
  • 帰納的思考法には誤りの可能性がある

今回は、帰納的思考法の欠点と、その対策について考えてみた。帰納的思考法の欠点は

「柳の下に二匹目のドジョウはいない」

と言う言葉が示すように、一つの事例を一般化しすぎる失敗である。言い換えると

「個別事例をどこまで一般化できるか解らない」

と言うのが、帰納的思考法の欠点である。

 このような帰納的思考法の欠点は、どのようにして防止することができるのだろう。

 私の提案は、

からくりの再構築

である。つまり、経験的に見たモノを、実現させる機能や機構を、思考の上で再構築してみる。これは

「与えられたモノを受け入れるだけではなく、積極的に自分で作ろうとする」

姿勢で学ぶと言うことである。

 こうした経験から、

「今見ている現象を実現させるからくりが見える」

状況になれば、どこまで一般化して善いか、限界も見えてくるだろう。

 学ぶことにおいて、積極性が重要である。

2020年11月 5日 (木)

『辺境』の悪い効果

 先日書いた辺境の話は、どちらかというとよい面を書いていた。しかしながら、物事にはよい面もあれば悪い面もある。今回は、悪い面について少しばかり議論しておきたい。今回の議論は、

「辺境における一部権力者の独断の弊害」

である。この問題の典型例は、1960年代末の心臓移植の話である。当時心臓移植は

「南アフリカなどの文明の中心以外」

で盛んであり、日本では

「札幌医科大学」

が最初に行った。日本の事例は、特に和田心臓移植事件として有名である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%BF%83%E8%87%93%E7%A7%BB%E6%A4%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 このとき言われたことは

「中央の相互監視の厳しいところでは、心臓移植は難しい。地方の独裁的権力者が行う可能性が大きい。」

である。つまり、

「辺境では相互監視が弱くなり、同断で事を進める可能性が大きい。」

と言う弊害が出ている。

 これは、新しいことの実行の裏側であるが、注意すべきコトである。

2020年10月24日 (土)

理論理解の方法

 先日の、ヴェーバーの社会科学について、もう一歩考えを進めてみた。ヴェーバーは『理念型』や、『理想的な類型』を重視している。この理由をしっかりと理解することが、理論が解るための大切な一歩だと思う。一言で言うと

「理論が成立する『理想的な状況』で議論する」

為の舞台設定が、『理念型』の発想である。

「理論が成立するための世界モデル」

と言う発想は、ご都合主義に見えるかもしれない。しかし、物理学の世界では

  • 大きさを無視した質点
    • 分子の大きさを無視した『理想気体』

と言うような、理想化が色々と行われている。

 この必要性を理解するために、16世紀のガリレオの時代に戻って、考えて見よう。当時の学問は、『アリストテレスの自然学』が支配的であった。アリストテレスは、自然を真面目に観測し、観察結果をまとめて自然学を構築した。これは観測と論理がしっかり絡んだ優れた学問体系であった。しかしながら、現在の知識から観れば間違いもある。例えば、

「重い物は、軽い物よりは速く落ちる」
例えば
「重い鉄の塊は羽毛より速く落ちる」

と言う『法則の記述』がある。

 これに反論したのが、ガリレオ・ガリレイの思考実験である。

「重い物が速く落ちるなら、鉄の塊1㎏より、2㎏の方が速く落ちるはずである。しかし、1㎏の鉄の塊を二つを合わせたら、速く落ちるだろうか?極端な例で考えると、二つの鉄の塊を、紐で縛って繋いだら、速く落ちるだろうか?これはあり得ない。」

このような考えから、

「落下速度の変化は、空気の抵抗などの別の要因が入っている。それを排除すると、落下速度は重さには関係ない。」

と言う議論になる。

 このように、

「種々の雑物を除いた『理想的な世界』で考える」

ことが、世の中のからくりの本質を見いだす道である。物理学の道はまずこのような理想的なモノで考えて、その後現実の複雑さに対応して色々な項目を増やしてきた。

 社会科学でも、同じような発想が必要であるが、物理学ほど

「抽象化の道が見えていない」

ために多様な意見が乱立し、一般人が苦労していると思う。

2020年10月21日 (水)

論争による思い込みの強化

 強迫神経症等の思い込みについて、少し考えることがある。一部の強迫神経症の患者は、周囲の無理解と戦っていて、かえって症状を悪くする場合がある。例えば、不潔恐怖におびえる患者に対して

「そこは汚くない、触ってみろ」

と強制したとき、患者の方は

「絶対いやだ、そこに汚いモノがある!!」

と強く主張していくようになる。周囲が、

「あなたは、不潔に感じるかも知れないが、他の人は気にしないですよ」

と言うぐらいに軽く流して、争う輪図に流していけば、思い込みが深くなることもないだろう。頭から、否定されると、どうしても自分の言ったことを護りたくなり、より思い込みが深まっていく。

 このような現象は、そう言えば他でも見た気がする。例えば、山本七平が指摘している、

「百人斬り報道論争の新聞社の対応」

等が、一つの事例になる。論争が始まる前は、中立たっだマスメディアが、山本七平に対して、敵対しだすと、戦時中の新聞報道への検証など放り出し、山本七平の論を潰しにかかっていく。この図式は、一度言い出した主張にこだわるという点で、上の話と通じるモノがある。

 私の意見は、

「山本七平の論法は、法廷で議論するには甘い。しかし、マスメディア側が、戦時中の戦意高揚報道への反省をしないのもおかしい。特に『百人斬り』への誇張などは、報道関係者として反省すべき事項である。また新聞記事が原因で、戦犯有罪になった場合には、新聞記事の誇張表現は、それなりの責任があり、マスメディアの反省が必要である。」

である。

 話が少し脱線したが、物事を多様な見方から見ることができない場合には、論争が行われたとき、自分の意見に執着し、思い込みが激しくなる傾向があるように思う。もう少し言えば、多面的な見方をし、全体像を持った上で、自分と相手の意見を客観的に評価できれば、論争においても、自分の考えを修正し、太らせることもできるだろう。このような力が、現在弱くなっているように思う。

 もっとも、多様な見方を育てる教育は、明治以降の教育にあったのだろうか?

2020年10月18日 (日)

学問で何を身につけるか?

 昨日書いた、T型人間に関する議論で思いついたことだが、

「この学問で何を得るか?」

と言う議論ができていないように思う。

 もっと言えば、学問の価値というか、目的に関して、厳しく評価することができていない。ないしは、そのことに触れさせないようにしている。この問題は、明治以降の学校制度の根本に関わっているように思う。つまり

「教育勅語に依存した学校教育」
つまり
「天応陛下の権威に依存した教育の押しつけ」

である。戦後の、日教組などの

「教育勅語否定」

はあっても

「権威依存の教育押しつけ」

は変化していない。

 しかし本来は、

「学問で身につくモノ」

をきちんと提示して、自主的に学ばす。これが本来のあるべき姿だと思う。そのように考えると、

「江戸時代の寺子屋」
そしてその拡張の
「大坂商人が作った私塾」

が、学問の場のあるべき姿だと思う。

 そのためには、科学哲学などが、学問のあるべき姿をきちんと議論し、そこで何を選るかを示すべきではないかともう。

 私の考えでは、

「身につくスキルと知識情報の分離」

をきちんと示し、スキルの展開状況を示すことが、本当の学問の効果を実感させる手立てだと思う。

2020年10月17日 (土)

T型人間に関して

 いわゆる「T型人間」は、自分の専門を深めるI部分と、広い視野を持つ一部分を兼ね備えた人財である。さてここで、I部分の意味について,少し考えて見たい。よく言われることだが、

「専門を窮めることで人間としての深みが出る」
「他の専門家の理解が深まる」

等の人格形成での効果が指摘されている。

 しかし、もう少し具体的な効果を示すことができそうである。一つの事例で、物理学の理解と応用について考えて見よう。もう少し絞り込んで、電磁気学をきちんと学ぶ効果で考えると、

  1. Maxwellの方程式から展開する数式の世界
  2. 静電気や磁気的な力などの具体的な世界
  3. 実世界の製品化のための電気回路の理論〈近似的展開〉

等の知識の階層構造が解るようになる。つまり、静電気の力による引き合いのような現実的な事例と、数式のきちんとした理論展開の間の関係づけができ、さらに電気の回路を記述するための『オームの法則』などは、Maxwellの方程式という上位の理論の、近似的な展開と言う風に、きちんとした理論の階層構造を観ることができる。

 こうした考え方は、理論的知識の現実の問題への適用方法を示す。現実の問題を説明し、予測するためにも、このような理論知識の使い方を学ぶことは大切である。また、物理学における、主要な道具としての数学の位置づけも、よくわかると思う。

 このような学問自体の効用をきちんと評価することも大切ではないかと思う。 

 しかし、個人としての体験で得るものは、他にもあると思う。厳しい仕事の体験、自分の限界を超える体験から得るものは大きい。色々な知識を総動員し、実現するために種々の考えを巡らす。工学としての実現や、法規則としてのまとめ上げ、このような物を創る経験は大きい。この面の効果も考えておくべきだろう。

2020年10月14日 (水)

リーダーの行動に関して平時と非常時の違い

 リーダーの説明や、従属者の納得という議論は、時間的に余裕のある場合には有効である。しかし、災害時や戦場での、時間的な余裕がない場合には

「説明は後だ、命令に従え!」

という一方的な指示も必要になる。例えば、洪水時の避難指示などは、時間との勝負になる。このようなときリーダーには、意志決定の速さが必要能力となる。

 ただし、終わった後で、リーダーの指示内容について検証し、

「何故そのような意志決定が行われたか?」
「他の案はなかったか?」
「今後この方法でよいのか?」

を議論し、多くの人が納得いく説明を得る努力は必要である。

 さて、時間的に余裕のある場合には、多くの人が納得いくような説明をして、自発的に従わせるようにることは、単に命令に従わせるより得るものが大きくなる。例えば、空海が満濃池の工事を指導したとき、

「堰き止める場所は流れな緩やかな場所」
「堤の形は丸みを持たせる」

等を

「何故そうした方がよいか」

きちんと説明し、参加した大衆に

「これまでと違う!」
「よい見通しがあっての仕事!」

と成功への見通しを与えて、士気を高めている。

 このような、時間の余裕のある平常時には、

「できるだけ説明して納得させる効果」

が大事であリ、緊急時には

「時間的に間に合う意志決定と明確な指示」

が必要になる。

 この使い分けができる本当のリーダーを育てないと行けない。

2020年10月 7日 (水)

大衆に理解してもらうための負荷

 昨日の続きで、リーダーが追従者に理解させるための負担を考えてみた。

 この逆は、

専門家同士のコミュニケーションの効率の良さ

これを意識している人はあまりいないが例えば、

「MBA取得者同士でないと会話ができない」
「先端分野で競い合ってる人なら一言で通じる」
「数式や数値でコミュニケーションできる」

等の経験をしたり、状況を見たりした人は多くいるだろう。

 実は、私も若いときにソフトウエアの仕事をしていたとき、この経験をしている。その時の感想は、

「もっと情報工学の出身者たちがいたら話が直ぐに通じるのに!」
「特に幹部が情報工学の言葉が理解してほしい」

であった。

 しかし今になって考えると、

「そのような状況で学問知識を実用化して、多くに人に受け入れてもらう」

と言う貴重な経験をした。このように、

「専門用語や道具を捨て、多くの人の理解を引き出す」

作業は、大衆の支持を得るための必要コストである。

 なお、私はこのとき

「理論的に作ったモノの実用化では、現場に合わせた対応が必要」

と言う経験もした。

 昨日書いた、三ステップを全て、ソフトウエアの生産性向上という現場で体験していた。これは今にして思うと貴重な体験だと思う。

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