ご縁のあった人たち

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2020年4月 1日 (水)

反省で得るものは何か?

 ここしばらく『反省』について議論しているが、今回は『反省で得るモノ』を考えてみた。反省に限らず

「過去を正しく振り返る」

ことは、

「自分の力を客観的に評価する」

良い手法である。

「その時なぜ失敗したか、なぜ成功したのか?」
「自分のどの力がたりなかったか?何が効果的だったのか?」
「周りの人との関係は?助けてくれた人、敵に回った人?」

このような切り口で、時間をおいたことで冷静に評価できれば、自らの強みも見えてくる。また、

「昔(特に失敗したとき)と比べて、自分の成長も解る」

ことも大きい。更に成長した自分が昔を見ると

「当時は他人の責任と思っていたが、自分の問題点も見えてきた」

と言う経験を積むと、人間として一回り大きくなる。

 なお、反省を行うと、

「自分の心に正直に向き合う」

ことができる。私の経験でも

「当時は無意識的に押さえていた、怒りの感情」

を客観的に見ることで、

「無理に周囲の目に合わせることで出る心の歪み」

等が解るようになった。このように、心の中にある諸々を意識するためにも、上手な反省は大切だと思う。感情などを抑えつけることは、気力を押さえることになり、自分の力が十分発揮できなくなる。これを克服するためにも、正しい反省は大切だと思う。

「自分の感情を抑えつけているモノを外せば、大きな力が出ることがある」

これを上手に使っていくべきだろう。

2020年3月18日 (水)

主観的と客観的だけか

 先日から読み直している、NHK出版の「仏像ー心とかたちー」の最初の章「仏像のこころ」の中に、仏像の見方を

  1. 叙情詩を描く主観的な見方
  2. 美術史などの観点から客観的な見方

と二つに分けていた。私たちはこのように、主観的/客観的と対比することが多い。しかし、この二分法でよいのだろうか。私はもう一つの見方があると思う。それは

  • 創造者の観点から見る

見方である。これは法華経の教えがヒントになるが

「世界を造る親の立場で皆を見る」

と言う見方である。仏像の見方では、

  1. 仏の教えを伝えるために、どのような仏像を造るべきかを考える
  2. 仏像にどのような思いが込められているかを考える
  3. その仏像が造られた時代の状況を考える

等を考え、

「自分で仏像を造るならどうするか」

と言う風に「主体的」に考える。この発想があるのではと思う。クリエイター達は既にこれを行っている。

 現在社会を本当によくするのは、このような考え方ではないかと思う。

2020年3月14日 (土)

『平均』に縛られていないか

 現在の科学的文明には、『数値化したモノ』が物を言うことが多い。そこで、社会科学などでは、統計的な処理を行うことで

『数値化して議論』

できるようにすることが多い。これは

「計れないモノは、計れるようにする」

の実践である。このように数値化すると、

『平均』『分散』『偏差値』等

の便利な道具が使えるようになる。確かに、マクロの視点で考えるときには、平均を見て成長や減退の傾向を掴むことは有効である。

 しかし、ここで注意しないと行けないのは、このような数値の一人歩きである。偏差値信仰の弊害は、色々と言われているが、

『平均』

の弊害も出ているように思う。

「世間の平均より劣っている」

これで、強迫的な行動になる人がいる。さらには

「平均的人材ができること」

ができなければ、

「落ちこぼれる」

と焦る人も出てきている。

 平均はあくまで状況をマクロに掴む手段であり、それに捕らわれてはいけない。

2020年3月13日 (金)

6世紀の仏教の修行法

 天台の『摩訶止観』を読むときには、天台大師が説法した六世紀の世界を思いやる必要がある。現在、私たちが当たり前と思っていることが、その時代にあるかよく考えてみると、現在の私たちの物の見方のひずみが見えてくる。

 当時の環境を考えると、紙は貴重品であり現在の学校教育はない。つまり、教科書もないし、ましてや懇切丁寧に説明した参考書なども存在しない。逆に、仏像を作る手間が、絵画での伝達と比べてても、それほどの負担ではなかった。また手書きで経典を写す手間も大変だった。この状況を考えると、教えの伝達に仏像の力が大きな意味があると解る。現在なら、『慈悲』という概念は、まず言葉による説明で伝える。このために、教科書などの道具がある。このため、

「私たち現代人は、学校教育で身についた思考法に縛られている」

ために、それ以外のモノが見えなくなる。例えば、近代科学的発想の一つ、ガリレオの

「測れるモノは測れ、測れないモノは測れるようにしろ」

の後ろには

「数値化できないモノは見落としてしまう」

と言う危険性がある。

 これを、六世紀の修行と比較してみよう。当時の知識では、

「科学的な知識による因果関係」

は私たちと比べれば、ほとんど持っていない。

 そこで、彼らが修行で得ようとするモノは何か?一つは

「仏の智慧を得て、この世界の苦しみから解放される」

ことである。そこで『仏の智慧』とはどのようなモノであろうか?

 この答えは、法華経にある。一つ目は、十如是の教えである。諸法の実相は、

相(外見)、性(本質)、体(構成)、力(潜在力)、作(働き)
因(直接の原因)、縁(間接的な影響)、果(直接的な結果)、報(間接的な影響)
が、本末究竟(総合的な作用している)

であり、このような複雑な相互作用を観るのが、『仏の智慧』である。大乗の教えは

「この智慧が、我々衆生にもある」

と説いている。

 そこで、このような智慧を自分で体感することができるだろうか。

 天台の摩訶止観が説く『円頓止観』は、全体像を描くことで、このような複雑な絡み合いを、観る智慧を体感させようとしている。その一例は

「心・意・識の三者は、一つではないが、三つバラバラでもない」

と観ることである。自分の心の中の感情が、意識の世界とどのように関わるか、別なモノでもないが一体でもない。このような、

「西洋文明の科学的思考法では矛盾」

を、全体像を見ながら体験する。

 この修行は現在こそ必要ではないかと思う。

2020年3月 6日 (金)

善悪の天秤

 天台の摩訶止観を読んでいて、今までの自分の心への向き合い方が、浅かったと言うことがよくわかった。法華経で言う

「深く罪福の相に達して」

と言う意味が、ようやくわかったと言うべきだろう。大乗仏教では

心:感情等の全て
意:考える舞台(考慮すべき物事で心から浮かぶ)
識:意の上での判断、識別

の三者をきちんと分けて、しかも相互の深い交わりをみる。三者であり一でもある。

 こうした考えは、いわゆる『理性的意識』しか考えない、今の教育の毒された人間が、根本を見直す契機となる。

 しかし、ここで大事なことは、深い心の底を揺さぶったとき、『パンドラの箱』を開く可能性がある。昔の恨み、怒りなどの感情を、理性や社会制度で抑えつけている時、これが爆発したら、自らを支えきれない可能性がある。逆に、自分の罪を認めて、責めすぎると、最悪自殺にまで至ってしまう。

 ここで大乗仏教の智慧をもう少し見ないといけない。法華経では

  仏知見を開き清浄ならしめる 仏智見を示す 悟らせる 道に入れる

と言う段階で、人を導いている。最初の仏の力を示し、安全を確保する。その上で、自分の心の中の地獄まで見ていくようにする。このように、先に救いを示し、その後で罪や恨みに向かわせる。

 このような仕組みが、善悪の天秤のバランスを取って、深く心に入っていけるようにする。

 ありがたい教えだと思った。

 続きはこちら

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-246ede.html

2020年3月 5日 (木)

議論の底にある「日本教」的発想

 先日書いた,論破による分断の話に関連して、「日本教」の発想で少し見えてきた。

 今回議論したいのは、「日本教」の影響下の議論と,西洋文明の前提での議論の違いである。つまり

  1. 「日本教」の発想では、神様とその代理の人間が、全体像を持っている
    この場合、決められた枠の中で正解が存在する
  2. 「西洋文明」の発想では,人間は有限の部分的知識しか持っていない
    従って,お互いの知識の持ち寄りで,少しでも善くしようと努力する

と言う違いである。なお、「日本教」でも,同じ「世界観」の中での,見落としの修正や,精度向上などでは協力関係も成立する。しかし、世界観の違う者の間では,戦いしかなくなってしまう。

 一方、人間の限界を信じている場合には、お互いの断片を持ち寄って,全体像を構成する協力関係が成立する。弁証法はこのための道具である。この違い意識することで,もう少しましな議論ができると思う。

 

 

2020年3月 4日 (水)

人間の多様性について

 ネット社会では、色々な情報が出てくる。そこでは、人間の多様性も見えてきた。

 例えば、罪を犯した人の行動に関しても、その後に自らの非を認め、しっかり償おうとする人、自分の犯したことに向き合わない人、色々な人がいる。

 これを見たとき、昔カウンセリングについて習ったときの『性善説』的な発想

「人は自ら良くなろうとする潜在的な力がある」
だから
「自分のことを受け入れてくれる人の力があれば良くなっていく」

の限界を感じてしまった。

 しかし、一部でも

「自分のしたことに向き合い反省し、善くなっていく人もいる」

ことも確かである。これは、学問と関係する(高学歴補でも品性下劣者はいる)問題ともいえない。ただし、周りの扱いで、少しでも善くなる場合もある。本人が気づくことでの変化も大きい。

 これができない人が一部いるが、その一部に捕らわれて、救える人を救わないのはだめだろう。このような、「悪の多様性」にもきちんと目をむくれるべきだろう。

2020年2月29日 (土)

NET社会の効用について

 先日書いた、学校的理想社会の対応について、ネット社会の動きについて少し考えてみた。色々なトラブルが発生したとき、学校などでは、

「被害者側に対して冷たい」

対応を取ることが少なくない。この理由は、先日の記事にもあるように

「理想化したモノしか考えない」

現在の日本社会の本質的な欠陥でもある。このような社会の『立派な』教師達は

「いじめなど存在しない」
もしくは
「恨みの気持ちなど持たず直ぐに許す」

等という、『理想的社会』『理想的人材』発想でしか考えない。

 しかし、現実の人間の感情は多様であり、心の傷の影響も色々とある。

 現在社会は、これを受ける場所として、ネット空間が働いている。一昔前の2チャンネル、現在のSNSが、被害者の生の声を聞き、それに対して色々な反応を示す。確かに、被害者をもっと傷つける『セカンドレイプ』的なモノもあるだろう。しかし、被害者に素直に

「共感し受け入れる人」

 が存在するのもネット空間である。O市のいじめ問題も、ネット空間の力が問題明確化に大きく働いた。暴走も一部あったが、被害者遺族の応援もあった。

 このように考えると、ネット社会は今までの『理想社会』を変える力がる様に思う。

2020年2月19日 (水)

評価されるということ

 ここしばらく、「怒り」について書いている。現在社会での「怒り」の原因の一つは、

「正しく評価されていない」

と言う思いである。

 しかしながら、『正しい評価』というものがあるのだろうか?この問題を、もう少し考えてみた。

 私の現在の考えは、

「絶対的に、『正しい』評価などは存在しない」
「その状況に対応した、相対的な『正しさ』しかない」

である。人間の能力も、状況対応で必要と不要が変わる。チームを組むときには、同じ面の人材ばかりでなく、異なった力が必要になる。その時には希少価値が力を発揮するが、その力が不要なときには邪魔者となる。4番バッターだけでのチームはできない。しかし、

「XX殺しのワンポイント専門」

は、XX引退で不要になってしまう。

 さて、今までの議論は、

「当然のこと」

と言う人が多いだろう。しかし、

「実行できているか?」

と言うと困った顔をする人が多い。

 さて、このブログで今年になってから書いている『日本教』の観点から、評価問題について一言指摘しておく。

「日本教の信者には、全て解っている人がいる、と思い込む」
従って
「正しく自分が評価される、と思い込む」

危険性がある.これは西洋文明の

「人間は所詮不完全」

の割り切りがないので、とても怖い話である。この危険性を明確に意識するだけで、少しはトラブルを避けることができるだろう。

2020年2月18日 (火)

怒りの発生について現在社会を見る

 怒りへの対照法について、考えるために天台の摩訶止観を読み直してみた。『瞋恚』の対処を見ると

「慈悲の心で対応せよ」

となっている。これは

「単純に甘やかして許せ」

ではなく

「法界を造る仏の立場で親として考える」

と言う大きな慈悲である。

 しかし、天台大師が摩訶止観を説いた6世紀と現在は大きく異なっている。これを比較しながら、『現在人の怒り』を見てみよう。

 6世紀と現在の違いは、社会構造の複雑さと、仕組みの違いである。学校制度という教育システムと、マスメディアやネットワークメディアによる多くの人からの影響である。

 ここでは、強制された人間関係や、評価がある。この強制による怒りは、直接の人間関係によるモノもあるが、制度上の問題が大きい。例えば、給与などで

「自分が正しく評価されていない」

と言う怒りを持つ人は多い。

 一方、6世紀の様に、面と向かって話す、直接的な人間関係なら、慈悲の心も起こしやすい。

 このように考えると、

「現在の『怒りの原因』は、間接的で絶対的ではない」

と言う見方で対応すべきではないかと思う。

「全てが『空』である」
「仏の目で見れば今まであったことは小さなことである」

このような見方で対応すべきではないかと思う。

より以前の記事一覧