ご縁のあった人たち

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2020年6月21日 (日)

病気と後天的なモノの違いについて

 先日、HSPについて、解説資料を読んだ。この人たちの状況に関連して、発達障害者の過剰適応の問題がある。

 両者は、

「人に対して気を使いすぎる」

という外見的な症状では、同じ様に見えるかもしれない。しかし,脳内の構造は全く違っている。

 HSPの人は、そもそも感受性が高い、いわば高感度センサー所有であり、センサーの敏感さに対して、フィルターをかける必要がある。

 一方、過剰適応者の場合には、センサーの感度は高くない,それどころか低いことを自覚しているので、その後での脳内の処理が活発に働き何とか補おうとする。その結果、頭の働きか過剰になって疲れてしまう。

 さて、このような人々に対しては、対応が同じで善いのだろうか?

 まず、HSPに対しては、「ある種の病気」と言うことで治療という感じになる。薬での治療などという話になると,周囲の理解も得やすくなる。

 一方、過剰適応者に関しては、後天的に身についたモノだから、訓練等で何とかならないかという発想がある。このとき周囲の目が、

「努力すべき」

と厳しくなる場合がある。

 この違いについて、もう少しよい答えがほしいが,どうも出てこない。

2020年5月22日 (金)

本を読むと言うことについて その4

 昨日書いた、

「生活環境などの違いから、共感できない人に対して、心に寄り添う読みができるか?」

もう少し、議論してみたい。

 まずこの問題に関連して、前に読書感想文の作文教育との関連で書いた記事があるのでもう一度挙げておく。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-1e7d.html

ここで議論したことは、作文教育に関して

「子供の生活環境に差があるので、体験したことの作文を書かせることはできない。」
その代わりに
「疑似体験として、本の中の世界に対して作文させる。」

という手段が執られた。

 これを、広げれば、

「友達づきあいができない子も、本の中の世界での交流を見て、人と人との関係を学ぶことができるはず。」

という発想になる。これは確かにある程度の効果が期待できるだろう。

 しかし、教科書的な読み方になれば、どこかで正解の縛りが出てくる。

「感動する場所も決まったところで、決まった形で感動しなさい。復讐などの心は抑えなさい。」

という読み方になってしまう。(鴎外の山椒大夫を読んだときの違和感を思い出した。)

 この問題は

「国語教育と道徳教育の分離問題」

伴絡んでくる。

 明治維新以降の日本の学校教育は、このような

「人の心への関わり方」

まで教える様になって、

「正解のある読み方」

にこだわってきたのではないかと思う。

2020年5月16日 (土)

魂のこもる言葉とは

 先日から、橋下徹氏のYouTubeによる検察定年延長についての議論を聞いている。

 そこで大事な話と思ったのが

「官僚達が持ってくる案の中に、抽象的な話しかないものは、彼らが気乗りしていないモノである。」

という指摘である。

 これは、大事な指摘だと思う。これと関連して、山本七平(イザヤ・ベンダサン)が、「日本教について」の中で、「松川裁判と証言」や「広津氏の四原則」という議論で述べている、

情景の記述が明確に脳裏に再現できないモノは、信憑性が疑われる

という発想とも通じる。

 つまり

自分の体験等の具体的なモノがなく、抽象的な概念だけの議論は危ない

である。

 これは、私も自分で文章を書いていて、自分の体験に裏付けられたモノは強い言葉になるが、何となく受け売りの理論は空回りすると言うことで納得してしまう。抽象的な概念でも、それを実行する人物像を生み出せば、納得するようになる。

 このように考えると、『言霊』の概念も、井沢元彦流の空回りではなく、本当に魂を持った言葉の力ではないかと思う。

 『日本教』の皆の智慧を信じる立場なら、

魂のこもった言葉は皆に届く

という信念があるように思う。

2020年5月15日 (金)

物事への関わり方の多様化

 昨日書いた維新の強さの議論をもう少し一般化して考えてみた。私の意見では、維新の強さは

  1. 民衆の「整理されていないが不満」という感情を拾い上げ
  2. 専門家としては原理原則できちんと議論する
  3. または謙虚に専門家に聞く

という、専門家の厳密な議論と、大衆のもやっとした感覚の両面を生かしている点が大きい。

 従来の発想では、

  1. きちんと議論できる専門家だけが発言する
  2. 大衆はそれに従え

型か

  1. 皆が平等誰でも発言できる

という両極端であった。

 これを両面で生かすようになり、

「大衆の感情も大事にしながら、全体を観て政治を行う。」

これが維新の強みだと思う。

 さてこの問題は他でも応用ができる。

 前にこのブログで書いた、クリエイターと読者の関係もこの議論が当てはまる。

 このようにSNS社会では、大衆の関わり方が、変化してきている。これを先取りした人が勝者になると思う。

2020年4月22日 (水)

「人物」という表現について

 先般から書いている、数値評価などの話に関連して、

「人物」

と言う表現について考えてみた。まず、一つ目は

「人は物ではない」

と言う反論である。もう少し言えば

「人には感情も知性もある、物と一緒にしてはいけない」

である。しかしながら

「成績だけ、金銭収入だけ、地位だけ・・・」

だけしか見ない人は

「物に対する見方もできていない!」

のではないかと思う。物作りに携わった経験からすれば、物に対しては

「外形、内部構造、機能、外部からの影響、経年変化・・・」

の多面的な見方が必要である。このような多面的な見方もせずに、

「人は物ではない」

と言っている人が多いと思う。とりあえず、

人物という多面的な要素

を一体に見る。ここから始めるべきではないかと思う。もっと言えば、

「他人の行動や感じ方を思いやる」

時にも、上記の「人物という見方」で多面的に考えるべきだと思う。  

2020年4月10日 (金)

戦争か平和か? 両極端しか考えられない弊害

 「戦争か平和か」このような、二者択一の話を聞くことが多い。確かに、二者択一なら選びやすい。しかし現実問題では、そのような単純な選択ができるのだろうか?ここで仏教の十界の発想を考えてみた。

 シリアなどの戦闘中の世界は、確かに地獄だろう。しかしこれ以外にも、多くの国が飢餓に苦しんでいる。一日かけて水くみに行く世界もある。これは餓鬼道だろう。また、学ぶ機会もなく、乏しい資源の中で、暴力的な支配が行われる。これは、畜生道だろう。さらに、知的水準が上がったと言っても、自分の正義を押しつけて、他人を全て否定し戦いを挑む。これは阿修羅の世界ではないか?

 一方、自分たちの幸せに酔うのは、天人の世界だろう。更に、良い教えを聞いて、従うのは声聞の世界で、自分で考えて方針を決める縁覚の世界、さらに観あを救うための活動を行う菩薩の世界がある。

 さて、このような世界を、自分のあるべき姿を描き、構築するのは仏の力ではないかと思う。複雑なシステムを全て観て、その中でのバランスを考える。このような力があるのが仏の力ではないかと思う。

 そうした世界全てが、人間界で生きている私たちの心の中にある。これが、天台の『一念三千』の教えである。

 全てを観ろと言うのは難しいが、単純な二者択一だけで世の中を見る危険性について、もう少し考えていくべきではないかと思う。

 現在の学校教育の単純化した物の見方は、基礎であっても完成品ではない。自分を磨き充実させるためにも、多様な世界に向き合うことが大事だと思う。

2020年4月 5日 (日)

西洋文明の論理的思考と大乗仏教の『即』の発想

 西洋文明と『日本教』の発想の違いについて、『論理的』という切り口で議論したい。

 西洋文明は、ユークリッドの幾何学、ギリシャの哲学そしてローマ法を経由して、現在の自然科学の体系に至る、論理的思考の成果である。このような論理的思考は現実の複雑な世界を抽象化し

原因->結果

の単純な関係に帰着させることで、一般的な法則を見いだし、これで多くの自然現象などを説明、予測することで現在の文明社会を生み出している。

 一方、『日本教』を含む東洋文明の思考法は、このような西洋文明の単純化を取らず、

比喩の積み上げ

で思考し、教えている。

 さて、ここで以下の疑問が出る。

「比喩や、体験の積み上げから、一般的なモノを得ることができるか?」

この問題に対して、西洋文明的な発想ならば

「実例から、基本的要素を見いだし、帰納的に法則性を見いだすことができる。」

と言う答えがある。

 しかし、大乗仏教の教えは、これとは別の答えがある。

『即』

の教えである。これは

「そのものになりきる。その世界を生み出したものになる。」

と言う発想である。例えば

「『慈悲』を体感するには、慈悲を行う観世音菩薩に即なる」

と言う発想である。それを色々な場面で実行できる、菩薩の立場に、即座に至る。

 理論的な規則性でなく、色々な状況で実行できる力を、自分の中に見いだす。これが大乗の教えだと思う。

2020年4月 4日 (土)

新規の仕事について お茶くみ の意味づけ

 新年度に入って、新しい仕事についたり、仕事が変わる人も多いと思う。

 さて、ここで新人が「お茶くみ」等の、いわゆる「雑用」と思う仕事をさせられることは少なくない。しかしながら、

「お茶を出す」

ことの価値をどれほど考えているだろう。

 お客様にお茶を出す、これは

「お客様に対する歓迎の意思表示」
であり
「お客様に好意を持ってもらう最前線の仕事」

である。このような気持ちが第一である。一方、もう一つの意味がある。それは、

「お茶を出す機会にお客様に触れる」

ことである。これは良い人財に触れる機会でもあるし,自分が人を見る目を磨く機会でもある。

 こうして人を見る芽が出てくると

「お茶を出すプロ」

としての仕事が出てくる。私の経験で参考にしてほしい。

 私は、対人スキルにおいて、自信が無い面がある。そこで、他人の評価を大事にしている。だから,会社勤めの時は、来客時には一番信用のおける部下に,「お茶出し」をお願いすることが多い。彼女も心得ているので,私が接客しているとき、適当なタイミングでお茶を出してくれる。

 その後、何か気になることがあれば、二人きりの時率直に意見を言ってくれる。通常は何も言わないことで、

「あの人は大丈夫」
「今の対応で良いと思います」

と言うメッセージが送られてくる。

 特に私が迷っている時には

「私もあの人は難しい」

と正直に言ってくれることで、自分の気持ちが晴れることもある。

 このようなお互いを大事にしている環境では、一つ一つの仕事に深い意味が出てくるだろう。

2020年4月 2日 (木)

『許す』をいう資格があるか?

 今まで書いている、『反省』の話に関連して、過去に他人から受けた諸々の被害について

「許すことができるか?」

と言う問題が出てくる。

 過去のトラブルは、自分の原因だけでなく、他人の原因が絡むことは少なくない。更にその場面場面で、悪意ある対応をされることも少なくない。そのような

「心の傷を与えた相手のことをもいだした」

場合に、それを『許す』ことができるだろうか?

 単に、記憶の外に押しやる。これは、色々な体験を積めば、その問題は矮小化されるので、どうでも良いことになるかもしれない。しかし、無理矢理記憶の底の追いやることは、後で爆発する可能性がある。

 更に言えば

「強制された許し」
「こだわるななどの強制」

で、心の持つエネルギーを押さえ込むことは良いことだろうか?

 確かに

「復讐心を暴走させる危険性」

はある。しかしながら押さえ込みすぎることも行けない。

 この問題に関して、私の経験で思うことがある。

 30年ほど前だが、私は会社、グーループリーダーという立場であった。上司のN課長とは上手くいっていない。グループの業務計画などは、私の責任だが、N課長の色々な介入があり、しかも新技術開発という『華のあるの仕事』は、後輩のSが担当していた。なお若手の、M子が私のグループにいた。私はグループ内の負荷計画はきちんと行っていたが、Sの開発関係は、口出しができなかった。

 さて、ここでM子が結婚することになった。しかし、私はそのことを最後まで知らされなかった。私の計画は、1年程度の含みと6ヶ月の見通しを土台にしているので、結婚休暇なども6ヶ月前には教えてほしかったが、N課長とM子の意見で最後まで知らされなかった。なお、M子の結婚式には、N課長と、Sは呼ばれたが、私にはお呼びがかからなかった。

 この話で

「私を馬鹿にしたN課長、M子に対しての怒り」

は、当時は業務多忙で生まれなかった。当時の私は色々あり、感情が死んでいたのだろう。

 しかし、その後この怒りの心は、時々再発し、私を苦しめることになる。もう少し社内事情を言うと、M子の結婚相手は社内の人間であり、彼は私より出世している。(大手電機メーカーの幹部)

 このような、会社尺度では、私は

「部長にも成れない負け犬」

であり、会社序列では

「許す」

等という資格はない。しかし会社の中では

「出世された方に不満を言ってはいけない」

と言う風も吹いてくる。このような強制された『許し』が本物であるわけはない。

 ただし、

「会社の出世などは人生の一部」

と心から思えるようになった時には、このような問題も矮小化していった。

 しかし、

「現在は強制されて『許す』」

と言わされている人が多いように思う。

2020年4月 1日 (水)

反省で得るものは何か?

 ここしばらく『反省』について議論しているが、今回は『反省で得るモノ』を考えてみた。反省に限らず

「過去を正しく振り返る」

ことは、

「自分の力を客観的に評価する」

良い手法である。

「その時なぜ失敗したか、なぜ成功したのか?」
「自分のどの力がたりなかったか?何が効果的だったのか?」
「周りの人との関係は?助けてくれた人、敵に回った人?」

このような切り口で、時間をおいたことで冷静に評価できれば、自らの強みも見えてくる。また、

「昔(特に失敗したとき)と比べて、自分の成長も解る」

ことも大きい。更に成長した自分が昔を見ると

「当時は他人の責任と思っていたが、自分の問題点も見えてきた」

と言う経験を積むと、人間として一回り大きくなる。

 なお、反省を行うと、

「自分の心に正直に向き合う」

ことができる。私の経験でも

「当時は無意識的に押さえていた、怒りの感情」

を客観的に見ることで、

「無理に周囲の目に合わせることで出る心の歪み」

等が解るようになった。このように、心の中にある諸々を意識するためにも、上手な反省は大切だと思う。感情などを抑えつけることは、気力を押さえることになり、自分の力が十分発揮できなくなる。これを克服するためにも、正しい反省は大切だと思う。

「自分の感情を抑えつけているモノを外せば、大きな力が出ることがある」

これを上手に使っていくべきだろう。

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