ご縁のあった人たち

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2020年6月 8日 (月)

抽象的な一般論と具体的な展開の関係

 昨日書いた使える地図の話はもう少し議論する価値があると思う。

 この問題をメディア論を加味して、検討すると

「西洋文明的発想では、抽象的な地図という、記号の上での世界がある」
「日本教的発想では、現実に適応した地図があるべき」

という発想になるのではないかと思う。これを一歩進めると

「数式などの抽象世界だけで思考できる学者」
「直観的に理解できるモノで考える現実の人間」

という対立軸が見えてくる。プラトンが「国家」で主張した

「哲学者だけが真実に近づける」

という発想が前者であり、仏教とその影響を受けた日本教なら

「誰もが真実の世界を知る」
「あるべきようはを皆が知る」

という発想になると思う。この問題に関して、技術者として一つの経験がある。

「大学で制御理論の数式的処理をきちんと学んだが、現実の対応は判らなかった。
そこで工業高校の教科書を手に入れて勉強することで、全体像と直観的な理解を得た。」

ただし、この場合にも、実現の細部には、もう一度数式的な検討も必要になり、ここでは大学教育などが役立った。

 このように考えると、全体像の把握と、細部の検討、この両面を上手く切り替える人材が必要ではないかと思う。

2020年6月 6日 (土)

高学歴社会と『日本教』

 『日本教』について、色々と考えていると、今までぼやっとしていた

「高学歴社会への反発」

の理由が見えてきた。

 私自身、大学院での思考法の訓練を受けて、論理的な思考法も、ある程度は判っている。そうして、大学から企業に入ったときは、情報化社会の幕開けの時であり、研究成果の実用化の時代でもあった。その時に私が悩んだことは

「研究成果を受け入れるほど企業社会が成長していない」

というもどかしさであった。もっと言えば

「情報工学系の大学院出身者が過半数を占めれば、もっと効果的に改善できるのに」

というもどかしさであった。

 しかし、今にして思えば、私の知識は

「点と線の骨格だけ」

であり、実現するためには

「多くの具体的経験を積み上げながら肉付けする」

必要があった。私自身は、当時の環境でソフトウエア生産や保守の現場に長く身を置いたので、このような現場体験での肉付けもできた。

 こうした体験から、

「実体験などのイメージにより充実した議論は、単なる理論より強い」

ことは経験的に判っている。

 一方、

「理論的体系を共有している人の間のコミュニケーションは効率的」

ということも判る。

 この一例が、MBAの世界である。MBA所有者同士なら、ある程度の情報交換で、企業の強み弱みは判る。しかし、それで十分かどうかは別物である。

 このように考えると、『日本教』の、

「お互いが話せば判る」

という発想には、場面共有などの総合的な観点があるのだと思う。これがない、『高学歴者の理論』はの反発は、日本人の多くが持っているように思う。

2020年5月11日 (月)

「日本教」と持続可能性について

 「日本教」について、色々と書いているが、今回は

持続可能性は、一所懸命の発想から出る

という観点で議論する。これは逆に言えば、

侵略国家やフロンティア探しの流動性は、持続可能性に合わない

ということで、具体的には

欧米文明と持続可能性は相性が悪い

という議論である。単純に言えば

「だめだったらリセットする」
「上手くいかないなら余所に行く」

という発想に、持続可能性が求めることができるのだろうか。これの一例として

「日本には数百年持続の老舗が多くある」
「欧米に企業の寿命は数十年体ぐらいしかない」

という事例が、

「一所懸命」

で頑張った結果だと思う。

 さて、ここでお隣の四千年の歴史を持つ大国を見てみよう。この国は、内部で革命を何度も起こしているので、そこでリセットが入っている。しかも、儒教の精神は、

「過去の聖人を理想とする」

ことで、現状への適応力が無い。日本の老舗は

「秘伝のXX」
を守りながら
「新しい試み」

「九敗一勝」
の割り切りで行う

という、守るべきモノと、新陳代謝を上手く組み合わせている。これが、一つの場所で必死に生きる智慧ではないかと思う。

 一所で生きる、これこそ持続可能性だと思う。

2020年4月21日 (火)

感性が鈍いから改善ができない

 昨日書いた,人間への感性について、もう少し話を一般化して考えてみた。

 色々な物事に対して、

「微細な違いを感じる力があるか?」
と言う問題は
「成長を見いだす力」

と関連している。学校教育のように

「決められた教材をこなすことでの成長」

ならば,このような微細な感性はいらないかもしれない。もう少し言えば

「教材の中に確認事項が入っているので成長が解る」

と言う仕組みがある場合も多い。

 しかしながら、新しい分野を切り開くときや、自力で成長するときには

「自分で成長したことを評価」

しないといけない。このためには

「できるだけ細かな成長・改善を感じる力」

があれば、段階的な成長が可能となる。感性が鈍い場合には

「大きな違いが出る場合しか解らない」

ために、小さな改善の積み重ねができなくなってしまう。

 日本企業が,改善上手だったのは,このような

「小さな進歩を確実に認める」

現場の指導者の力が大きいのではと思う。

 実は私自身、大学を離れたとも、個人的に色々と考えていた。しかし、大学の指導者との関係が密では無かったため、論文としてまとめるとき,どうしても大技を狙ってしまった。この結果、最後まで書けなかった悔いが今も残っている。

2020年4月15日 (水)

コロナ以降の社会について

 現在のコロナ危機は、いずれは収束するだろう。しかしその後の社会が、かなり変容を遂げる可能性は大きい。極端なことを言えば

「革命が起こった」

と考えるべきかもしれない。

 ただし、『革命』というならば、何かが倒されるが、それが何か見えているだろうか?私が漠然と考えている可能性は、

「国家の信用に依存した貨幣経済の大変革」

である。現在の日本の財政は、実質赤字国債で支えられている。しかも、今回のコロナ危機には、もっと多くの赤字国債が出るだろう。更に言えば、地方債が出る可能性もある。休業補償等を考えると、多くの財源が必要になるので、これはやむを得ないと思う。

 更にこの動きは、欧米にも波及すると思う。アメリカなども大規模の支援を打ち出しているが、結局赤字国債のような形でしか、財源はないだろう。

 これに対して、MMTと言う怪しげな経済理論が後押しをするかもしれない。

 ただ、これを単に経済だけで考えることは、限界があると思う。

「貨幣の本質は信用である」

この原点に立ち返ると、政治的・社会的な問題、そうして技術的な実現の問題など、総合的に考える必要がある。

 一つのアイデアとして、日本の

「明治維新における貨幣経済の大変革」

は参考になるのではと思う。

 徳川幕府の貨幣制度や、浪速の銀本位制は、どちらも破綻しかかっていた。これを、明治政府という信用創造で見事に切り抜けた。

 今回もこの知見が生きるのではないかと思う。

2020年3月21日 (土)

25年前のオウム真理教サリン事件について

 地下鉄サリン事件から25年と言うことで

「風化させてはいけない」

と色々な報道が出ている。私はこの事件に関しては、

「風化どころか、当時から本質の解明ができていない」

と考えている。

 まず、今回の表題に注目してほしいが、「地下鉄サリン事件」だけに注意を向けると、多くのモノが見せなくなる。私の考える問題点は以下の通りである。

  1. 上九一色村でのサリン製造プラントの問題
  2. 上九一色村で製造された大量の上質サリンの行き先
  3. 松本サリン事件
  4. 地下鉄サリン事件

一番にサリン製造プラントを挙げたのは、このような設備ができた、それを見逃していた、治安体制の問題である。特に注意すべきは、プラントができたと言うことであり、これには高度の熟練技術者が関与した可能性が大きい。配管をきちんと行うと言うことだけでも、匠の技が必要であり、これは日本の大学で「XX学」を学んだと言うことだけでは、習得できないモノである。従って、オウム信者の「高学歴者」は、試験管レベルのモノを作れても、プラントを実現できたとは考えにくい。

 なお、このようなプラント実現に関しては、「安全重視」の日本の環境では、経験を積むこと自体難しいので年月での育成となる。一方、北朝鮮のように「人権に配慮しない国」ならば、被害者が出ても強引に作り、失敗を重ねながら経験を積むことで、早期育成が可能になる。従って、

「日本の高学歴者の言っていることを、北朝鮮の技術者が実現し、しかも日本の経済環境で原料を調達する」

と言うことは、北朝鮮の化学兵器充実には、特に有効な手段であった。

 もう一つ加えると、オウム真理教とロシアの関係を疑う人がいるが、サリン問題に関しては、ロシアのメリットはない。なぜなら、ロシアはアメリカに対抗できる、唯一の核大国であり、逆に核保有以外では経済的に考えれば、三流国扱いされないレベルである。従って、核のメリットを脅かす化学兵器などは、ロシアの眼中にはない。

 さて、サリンが実際に使われたことは、テロの歴史を変える大事件なので、これはまたこれで追求すべきことである。ただし、ここで大事なことは、

「地下鉄サリンは粗悪品である」

と言う事実である。つまり、プラントを破壊して、純正サリンはないが原料があるので粗悪品を製造した。これは、当時のオウム真理教幹部の技術レベルを示しており、高度の技術者は当時既に(国外)逃亡をしていた可能性がある。

 25年間には

「朝鮮民主主義共和国は理想の国、拉致はアメリカのでっち上げ」

と言う世論が強く、拉致被害者に対しての迫害もあった時代の空気を、もう一度見直してこの事件を考えるべきではないかと思う。

2020年2月28日 (金)

私たちの力が及ばないモノとは

 先日の続きで、私たちは、何を『不可思議』と思うか考えてみた。法華経の中には、

「無限の大きさ、久遠の時間」

が『不可思議』なモノとして示されている。

 また、摩訶止観の『不可思議の境』では

「三者は別のモノでもなく、一つのモノでもない」

を観る。

 前者は、現代人なら『無限の扱い』と言うことで、概念的に処理できるから、わかった気持ちになってしまうかもしれない。しかし、それを具体的に考えられないのであると、本当に解っているのだろうか?

 一方、後者は、『仏の智慧』を得て、『全てを創造する』立場になれば、一つ一つの存在だが相互に依存し、独立ではあり得ないモノが見えてくる。

 こうして考えると、現代の科学技術の成果を鵜呑みにしている私たちは、

「本当に解っているのか?」

と言う問題に常に向き合うべきでないかと思う。

2020年2月27日 (木)

支配者の指導力について

 私が考えている『日本教』は、

「神様は全て観て導いてくれる」

と言う根本的な教義(信仰)に支えられている。これは、西洋文明における、プラトンの『国家』が描く

「哲学者の指導」

にも共通するモノがある。ただし、プラトン以降の西洋文明は、『人間の到達不可能世界』への諦めがある。一方、日本においては、大乗仏教が六世紀に入り、小乗仏教の『彼岸への憧れ』を経由せずにいきなり『仏の智慧を得る』ことができると、

「完全な指導ができる」

と、純真な子供のように信じてしまう傾向がある。

 さて、今回は、このような指導者の力について、考えてみたい。皆は指導者に何を求めるか?

「暮らしを維持しできれば良くしてほしい」

これが一つの答えである。そのためには

「一般大衆よりもよくわかっている」

必要がある。この力の候補を考えてみると

  1. 今までの経験
  2. 経験の伝承知識
  3. 思考能力による推論・洞察
  4. 経験の一般化・応用能力
  5. 想像した世界での物語作成(シミュレーション)

等がある。プラトンは、3.の思考能力を重視した。確かに当時の幾何学の論証力は、従来の経験的な知恵を超える一般性を持ち、多大な成果を生んだ。一方、仏教の推論は、比喩的なモノ・現実的なモノが主体であり、西洋文明のような科学の世界を生み出すことは難しい。

 しかし、『法界を自ら造る』力が、人にもあると言うことで、5.想像した世界で物語を作り、展開できる力が人間にある。この力で人を導ける、と言う発想はあると思う。この問題は、もう少し深める価値があると思う。

2020年2月24日 (月)

使える知識についてもう少し

 昨日書いた知識の活用の話について、もう少し書いておきたい。今回書くのは

『知識の網』

と言う考え方である。現在の学校教育は、

『一つ一つの分野がバラバラ』

と言う状況である。しかし、知識というモノも総合的なに生かすためには、お互いの関連が上手く機能しないといけない。

 例えば、算数や数学の文章問題に解決には、国語の論理的な読解両区が必要である。逆に、算数の文章題を解くことで、どっかり欲とそのスピードも上がる。そうすると、理科や社会の問題もすらすら解けるようになる。また、数学の証明問題にも、論理的な文章の作成力が必要である。

 更に、大学などのレベルになると、物理学などの後ろに数学のきちんとした体系が見えてくる。こうして、

『抽象的一般原理と具体化への展開』
『各分野相互の関係』

の関係がつながってくる。

 こうした知識が

『網の様につながる』

『網の目のどこかが使える』

状況になってくる。

 このように、知識が整理されていることも、

『使える知識』

の条件である。

2020年2月23日 (日)

学問的知識の活用法

 先日から書いている、経験と哲学者の問題について、今日は別の切り口で考えてみたい。昨日までの記事はこちら

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-14ec1e.html

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-2c75c6.html

 今回議論するのは、現在あるモノや経験に対する知識の活用である。これは、とても大切なことであるが、このスキル教育が現在はおろそかになっているように思う。

 知識の活用の一つの場面は

『トラブル発生時の原因究明』

である。先日亡くなった野村克也名言の

『負けに不思議の負けなし』

にもあるように、トラブル発生時には何らかの原因がある。このような原因追及は、絞り込んでいけば、

『原因ー結果』

の明確な関係に追い込むことができることが多い。確かに複合的な要因や、不確定な外部環境の影響もあるが、多くは理論的に解明できることが多い。こうして

『物事を単純型モデルで説明できる』

状況になれば理論的な知識が有効になる。ここで『単純化』に関しては、経験要素があるので、先輩達から伝授を受ける必要がある。

 さて、もう一つの知識の利用は、

『成功体験の理由付け』

である。野村流の

『勝ちに不思議の勝ちあり』

『不思議を解明する』

ことができれば、経験の活用を間違えない様になる。過剰なまでの一般化による失敗、慎重になりすぎての機会損失、両者を防ぐために、

『どのようなからくりで成功したか』

を理論的に解明する。このためには、

『ある程度理想化・単純化したモデル』

を作り上げて、理論的な検討ができるスキルが必要になる。

 これが本当に役立つ知識だと思う。

より以前の記事一覧