野菜の形が揃う理由
先日テレビ番組で、農業の自動化機器を見た。にんじんなどの収穫も、大きな蟹の鋏みの様な物を持った車で行っていた。
これで、人の苦労は少なくなった。これは素晴らしいことである。
しかし、ここで見落としてはいけないことは、このような機械で収穫できるのは、大きさと形がある程度揃ったものである。
スーパーの店頭では、
「形の綺麗な野菜しかない」
と言う現象は、このような供給側の都合もある。
自動化には、ついていけないものがあるということを見落としてはいけない。
先日テレビ番組で、農業の自動化機器を見た。にんじんなどの収穫も、大きな蟹の鋏みの様な物を持った車で行っていた。
これで、人の苦労は少なくなった。これは素晴らしいことである。
しかし、ここで見落としてはいけないことは、このような機械で収穫できるのは、大きさと形がある程度揃ったものである。
スーパーの店頭では、
「形の綺麗な野菜しかない」
と言う現象は、このような供給側の都合もある。
自動化には、ついていけないものがあるということを見落としてはいけない。
芸術や職人の世界で、本物と言うことに関して、議論をしてみたい。
その1.ある所で自分の店を持っていた、管理栄養士の話しから
彼女は、自分のつくるプリンに関して、非常に自信を持っている。彼女は、プリンの原料の内、卵がポイントと考えて、数ヶ所から取り寄せて、ある卵を選んでつくっていた。しかし、近所のフレンチレストランで食事をして、最後のデザートがプリンだったと、怒っていた。ただし、彼女のプリンと食べ比べたある人は、
「良い材料を使っても、あのレストランには負けている」
と評価していた。
その2.某ピアニスト
彼女は、海外の某作曲家の難曲を弾きこなすが、その後ろにある信仰にまで、理解が及んでいない。その作曲家に会いに行ったが、「カソリック信者でない」と言う事で、不機嫌な顔をされたと言っている。しかし、その作曲家の演奏を聴いたある人は、
「その作曲家の曲を別の人が演奏した時、神の恩寵が降りてきていた。
彼女にはそれが感じられない。」
これは、カソリックで無くても、ある種の超越者に対する敬虔さ、自らの弱さに対する認識のような何ものかを、感じているか否かで違うものが出てくると思う。
ただし、このような場合に本物に正面から向き合うと、自分がつぶされる可能性も大きい。本物を求めると言うことには、それなりの覚悟が必要である。
缶ビールの飲み口の大きさを、工夫することで、美味しく感ずるようにした、と言う話を聞いた。同じような話しで、ワイングラスの形状も、舌の上の味感覚を引き出すようになっている。
さてここでこの寸法は、どうして決まったのであろう。平均的な人間のサイズから割り出したり、最低限のサイズを決めたりと言う手順であろう。しかし感覚に敏感になれば、個人の微妙なサイズの違いにも、影響を受けるであろう。
しかし、平均サイズで割り切るのが、モジュラー化というものであろう。
一方、日本の道具は、箸が代表であるが、特に体にあわせたものとはいえない。その代わり自分で使いながら工夫して、一番良い所に運ぶ訓練を体の方が行っている。このような工夫は、擦り合わせの一つではなかろうか。
なお、日本の道具でも、個人に合わせた物はある。例えば刀等は、自分にあったものを選んでいた。ただし、足軽・雑兵に関しては、規格品の刀を貸し与えていたらしい。そういう意味では、徴兵的な軍隊が早くできたところは、モジュラー化が進んだかもしれない。日本の江戸時代の兵農分離は、武具を個人向けの道具とし、擦り合わせに向かったように思う。
船場吉兆が、とうとう廃業した。しかし今朝の新聞を見ると、
使い回し「下座の客に」
と言う見出しが目に付いた。つまり、
「下っ端は使い回しでかまわない」
と言う発想である。このような、下っ端を見下す態度は、将来には自分に帰ってくると言うことが、解らなかったのであろうか。昔、あるクラブのママに聞いたが、
「若い人は、お金を持っていないので、良い客ではない。
しかし彼らを大切にしておかないと将来のお客様がなくなる。」
と言う発想はなかったらしい。
なお、船場吉兆を一時、大阪財界が応援したと聞く。大阪府知事選挙とおなじく、どうも大阪財界には、人を見る目がないように感じる。こんなことで、大阪の経済は活性化するのであろうか?人を見る力は、経営者の必須能力と思うのだが…
船場吉兆の食べ残し、使いまわし問題について、市場開拓の観点からもう一度議論してみたい。まず、”吉兆”と言う高級ブランドを、どのように普及するか考えてみよう。ブランドを確立するためには、その良さを理解する、”お客様”を開拓する必要がある。
そういう意味では、どのような分野であれ、”高級店”にはある意味で、”お客様”を育てる戦略をとる場合が多い。親から子に受け継がれる。友人に広がる。このような時、最初に来た時には良さが解らない。それが解るように、しっかりと良いものを供給することで、良いものが解る”お客様”を増やすことが重要である。
しかし、船場吉兆のしたことは、”客の舌をだます”ことであった。確かに食べ残しをする客も悪い。そのような客には、なぜ気に入らなかったかを聞き、次には食べ残しをなくすようにする。これが高級料亭ではなかろうか。
客の舌をバカにする。そのような店が、高級ブランドとなるようでは、この国もおしまいである。海外に対し、今後高級ブランドに活路を見出すのは、ヴェトナム等の低賃金攻勢に対する、一つの戦略である。この道を閉ざすような、船場吉兆のやり口は、許すことが出来ない。特に、船場吉兆が常連顧客の政治力等で、批判をかわすようでは、将来に禍根を残すと思う。他の吉兆グループから、船場吉兆を始末してもらえないものかと思う。
マスコミと言うものは、この国では大きな権力を持っている。しかし、当事者がそれを理解していないような感じがする。この国を動かしているのは、『空気』と言うが、その『空気』の1極を担っているのは、マスコミである。
我々凡人は、マスコミで取り上げられたと言うことで、それなりの権威を持って見る。そういう意味では、記者の着目と言うことは大きな影響力を持っている。そういう意味では、記者の持っている、デジカメの情報を解析したら、どれほどの情報を得ることが出来るであろう。
しかし恐いのは、マスコミ関係者がこの権力を意識していないのでと思う節がある。
マスコミに、ノブレス・オブリージュと言うことを、もう一度考え直して欲しいと思う。
日経BP社の”日経ものづくり”の記者さん達のブログに、記者は”虚業”と言うような表現があった。この言い方には、どうも納得の行かない。まず、マスコミの持っている、力を認識して欲しい。良いものを、取り上げて褒める。これだけでも、社会に大きな影響を与える。そのような力を、マスコミ関係者は知って欲しい。
これを書いていて、もう一つの実例を思い出した。私の知り合いが、テレビで取り上げられた、『美味しいケーキ』を食べた時の感想である。彼女曰く
「阪急百貨店の地下で買ったケーキの方がよっぽど美味しい!」
であった。これは、阪急百貨店のバイヤーの力によるところが大きい。彼らは、自分の力で、見所のある店を見つけ出し、出店させるようにして、育てている。従って、阪急百貨店として、しっかり選んで出店させているので、味が揃っている。
一方、私は昔機会があって、某百貨店の取締役と話しをしたことがあった。彼曰く
「私達は虚業だから、製造業等の実業がうらやましい」
と言う趣旨の発言であった。しかし、阪急のように、本当に良いモノを作っている店を選び、出店させることで育てる。これこそ本当の、
「実を得る業=実業」
だと思う。
銀行の融資も同じだが、本当に良いものを評価し、育てる
「実業」
が今こそ必要である。
北京オリンピックで、各国の選手や観客が、北京に押し寄せる。そこで気になるのは、中華思想の塊のあの国が、各国選手に対して、どのような食事を供給するのであろうか?
東京オリンピックの時には、日本は各国と言っても欧米中心だが、それぞれに対応した料理を準備したと聞く。そのような柔軟性が、各国にあるのであろうか?
日本人は、そういう意味では、器用に対応している。ある意味で無節操とも言うべきである。逆に、各国の譲れないもの対して、理解が少ないように思う。
一寸テレビを見ていて思ったが、回転寿司と言うものは、寿司の原点かもしれないと思った。江戸時代などでは、寿司の立ち食いは庶民の食事であった。
現在の寿司屋の雰囲気は、何か近寄りがたいものがある。
最初は隅っこのテーブルでおとなしく食べていて、店の人に
「そろそろいかがです」と声をかけてもらって、ようやくカウンター
に座ることを許される。
とまるで、京都の老舗みたいな敷居の高さを感じていた。
そこで誰でも入れるようにした回転寿司の貢献は、大きいと思う。
日経ビジネスアソシエ
[2006年10月3日号 no.105 定価550円(税込み) 9月19日発売]を読んだが、面白い記事が多かったので紹介する。http://bpstore.nikkeibp.co.jp/mokuji/nba105.html
まず、山崎 元のエコノミック渡世塾(068p)の次の名言である。
『伝統的な経済理論の世界では、ダイエットに失敗する人はいない。』
これは笑ってしまった。理論と現実の乖離を見て変に納得してしまう。しかも追い討ちは、
『米国人は基本的にはデブが多いのだが、
政治家やビジネスエリートはデブの比率が非常に少ない。』
このような自己コントロール能力を誇示するのが、アメリカ流らしい。
他にも、為末大氏の『必然的にスランプを引き起こした』と考える選手は『偶然』のせいにする選手に比べて、なぜそうなったか原因を考えて、自分で引き起こしたことを解決しようとする。こうしていると、スランプを抜けやすく、またスランプに陥り始めている自分を明確に自覚できるようになる。
また好調時にもなぜ好調か理由を探す人は少ないが、それをする人は残す結果が大きく異なる。
この話は、トヨタ方式の勉強で必ず出る、ナゼの追求と繋がっている。
他にもあるがとりあえずこれだけ。
現在大学進学率が非常に高くなっている。このため、職人の世界にも大学卒業生が進出している。これは、非常に危険な状況であると思う。
理由は、職人の育成はできる限り若い時から行うべきであり、モノの感覚等は長い時間で身につくものであるからである。そういう意味では、親から世襲で子供のころから、親の世界に触れていた人が、教養を広めるための大学進学などは良いと思うが、大学卒業して始めて職人の世界に入るのは、感覚が追従できるか不安に思う。
日本のモノ造りがこのような面でも、危なくなるのではと心配である。
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テレビで見たが、生鮮魚類を日本国内の主要地域に運ぶ手段が実用化しているらしい。
これは、一面ではすばらしい進歩と言える。そして、各地での美味しい食物のバリエーションが広がる。組み合わせの自由度も広がるので、新しい名物料理も出来るであろう。
しかし、従来の各地で採りたてを食べると言う、名物料理の希少性がなくなるのは寂しい。新幹線で、宿泊設備をつぶしたうえ食物の希少性まで壊されると、観光事業で打撃が大きいように思う。関空と伊丹のように、新しいものを出したときに、既存のものとの共存や、転換をうまく出来ないのがこの国の政治ではないか。少し心配である。
でも、見方を変えれば、この国は色々な食材を上手に取り入れ自分のモノとしてきた。このような柔軟性は、仏教伝来依頼1500年程度の伝統がある。今の政治体制が、一寸不適合をしているだけかもしれない。
本日のあるテレビ番組で、以下の様な面白い発言があった。
「xx社が輸入しているワインは美味しいが、xx社の作る洋酒は嫌いだ。」
これは、矛盾しているようだが現在の日本の物作りを考えると、納得出来る理由がある。
まず、自作製品はがまずいのは、工場のプロセスに問題がある。
一方、輸入品が美味しいのは、会社としての評価能力が良いと言う事である。
この両者が分離しているのは、大きな会社と言うことを考えれば、当然かもしれない。特に、海外などに工場を分離している場合でも、評価能力は国内の本体に残るので、このような現象が発生するのであろう。
しかし、本当に評価するためには、自分で物を作ることも大切ではないか?
逆に、良いものが解るのは、よい物が出来る必要条件ではある。
先日のNHKテレビで、江戸時代の遊びを取り上げた時、観客の上手下手があるという議論があった。確かに良い客が供給側を育てるのは、自然な流れと思う。現在は、専門性重視と言うことで、供給側の力が過剰評価されているのではなかろうか?
これには、もう一つ言えば、供給者重視の政治姿勢もあるかもしれない。農業を保護する農林政策はあっても、消費者の食生活全般を見る省庁は見当たらない。この議論も、色々考えることがあるが、ここでは、専門性の認定に関して、話をしたい。
江戸時代の観客では、”どこそこのご隠居”と言う感じの、皆が認める権威があった。これは、村社会で皆が顔が見えて、物知りと自然に認め合う雰囲気から、選ばれたものと思う。このようなご隠居は、物知りに加えて知恵もあり、総合的な判断が下せ、皆がそれに自然に従うようになっていた。
一方、現在では”xxソムリエ”と言うものが、色々出来ている。これは資格社会と言うことであろう。資格社会の客観性には良い所もあるが、知恵のように失われるものもある点に注意して欲しい。
ある本で、雅楽士の東儀さんが、面白いことを書いていた。
「雅楽と言うのは、楽譜がないという意味ではいい加減です。
しかし、環境に調和するという意味では、必然です。」
西洋文明に毒されていると、自分で全て決まるように思っている。しかし自分ひとりで存在するのではなく、環境の中に浮かんでいる自分である。
昨日のブログに流風師からコメントいただいたが、良い店と言うものも、店側と客側両方があって成立するものである。
但し、独断の楽譜どおりで、皆に受け入れられる西洋音楽の作曲家、と言うのもすごいものである。西洋の文明は、記述による普及が大きく働いている。
お世話になっている、”流風”さんのブログで、コーヒー店の話を見た。
私も、良く喫茶店にいくが、”美味しいアメリカン”を出してくれる店が好きである。これがものすごく難しい。近所の店で、本当のアメリカン用の豆を準備しているのは、1店しかない。もっともエスプレッソマシンの交換カートリッジを持っている店はある。
問題なのは、ドリップなどの店である。
事例1:「お湯が入りすぎた。これもサービスでしょう・・・」
事例2:「この店のアメリカンはお湯割ですか?」
「そんなお湯がもったいない。豆を減らします」
このような店に囲まれている、我々の食文化である。
なお、豆を減らすのはコーヒー豆を下ろすメーカーの指導らしい。
「大抵の人には解りません。」
と言うことらしい。
しかし、その違いにこだわるのがプロそして名人への道である。
微妙な差に対する感覚なしでは、上達は出来ない。
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本日のテレビで、日本マクドナルドの話を聞いて、色々と参考になった。
まず、その場で供給できるようにするために、電子レンジを入れ替えたと言う話が、今の日本の経営論に関して、大きな教訓になると思う。
①まず、劇的な時間短縮は、サービス向上だけでなく、
不良在庫の削減でコスト低減になると言うこと。
つまり、お客様を待たせないで、受注直後に物を作れるならば、
仕込み生産の不良在庫が0に出来る。
これは、サービスでなく、利益創出である。
②この実現に対して、高速の電子レンジ導入で実現したと言うこと。
ともすれば、改善を現場に要求する向きが多くなっている。
しかし、実際は設備などを入れ替えないと、劇的な改善は難しい。
プロジェクト?・・・のように人間の努力を取り上げるのも良いが、
冷静に技術的な解決を図ることが重要だと思う。
精神主義は、旧日本軍だけで充分である。
次に、クルーと呼ばれるパート労働者の扱いであるが、きちんと能力評価をし、ランクわけをしている。これこそ本当の成果主義だと思う。
さらに、企業内教育だが、対人スキルを重視し、しっかりした行動科学や心理学的な裏づけを持って訓練していた。ラボラトリートレーニングなどの成果を確実に生かしているようだ。
このようなシステムが出来ていて、しかもテレビ公開できるのがすごいなと思った。
近所のあるレストランに、私は家族が行くことを禁止している。この店は、昔は美味しいものを食べさせてくれたので、大いに贔屓していた。しかしあるときに、少し値上げした。
値上げしたこと自体は、元々割安感があったので、許されないことではない。しかしその時にパンが小さくなった。しかもそれが、徐々に行われている。さらに、調味料が少しづつ換わっている。人間の感覚は、非常に精妙なのだが、また慣れやすいことも確かである。
昔、プロ野球で非常に好調の首位打者候補に関して、江夏解説者がこのようにコメントしていた。
「このようなバッターを壊すには、得意のコースに投げ込んでいくのです。
そして少しづつボール側にずらしていく。そうして悪球打ちに誘い込んで、
フォームを崩すのです。」
この場合、感覚を崩すことが重要である。
食事でも、良いものを認識する感覚を大切にしないといけない。
本日アクセス解析を見たら、1000を突破していました。読者の皆様ありがとうございました。まだ書きたいことが残っているので、しばらくお付き合い願います。
さて、書きたいことは色々ありますが、本日は自助努力について書きます。と言うのは、時々テレビで見る、徳島県の”彩”に関してです。知らない人のために簡単に説明すると、徳島の田舎村で、紅葉などの美しい葉を採集し、料亭での彩りに使ってもらうようした起業です。当地区の老人パワーを使って起業したのがポイントです。
でもこれが成功すると、色んな所から、「自分の地区の”落ち葉”を売って欲しい。」と言う人が多く申し入れているとのことです。
ここで、注意して欲しいのは、これを実用にするまでの、大変な努力と工夫があったと言うことです。他人の成功を真似するどころか、売ってくれと言う人が多いのは困ったものです。
本日の報道2001で食育について取り上げていた。”頂きます”が言えない給食の話を聞いて、少し思うところを書きたい。
まず農業に限らないが、子供達が
”物を作る”作業の実感がなくなっている。
沢山の労力(=熱意・誠意・愛情)の塊である食物を食べると言う実感がない。
つまり、米は白米の形しか知らず、稲穂とは何であるのか知らない。魚は、切り身の形で海から取れると思っている。これは一つの要因であろう。
しかし、もう一つ今までのマスコミ等取り上げ方でも、都市部では、農業にあまり好意的でなかった面があると思う。
昔、有名だった”ノーキョー=農協”と言う言葉には、今のヒルズ族の金満家(=成金)を皮肉ったイメージがある。某作家の”農協月へ行く”など、まるで今のヒルズ族の”合コン”を、思わせるものがある。その他、米の買い上げの逆さや問題や、ものすごい立派な農協の建物や、農協の貯金余りとそれに付随する不祥事など、多く取り上げられている。
私の理解が一面的かもしれないが、地道な物作りの重要性を、もっとマスコミも取り上げて欲しい。まあ、都市部の人間には、自民党を飛び出した「地方への補助金と言う、K国会議員」のイメージがあり、農村部に好感をもてないのかもしれない。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041305144/nifty0b5-nif1-22/ref%3Dnosim/249-4825034-2345924
本日の「なるラボ!」で、業務用スーパーの特集を行っていた。この中で
『昔は料理人は仕入先を客に隠した。しかし今は、逆に良い素材・安心できる素材の仕入先と公開するようになっている。』
と言う興味深い内容があった。
このことは2つの変化があると思う。まず一つは食肉問題などで、食品安全意識が厳しくなった。
しかしもう一つは、素材だけでなく、料理人の
”腕に対する正当な評価”
行われるようになったことが大きいと思う。
従来の日本人は個人の技に対する評価・敬意が少なかったように思う。これが評価されるようになったのは、良い傾向だと思う。
また、情報隠しの効果が弱くなってきたのも事実である。昔のように海外の情報入手が難しかった時期には、日本に2冊しか入っていない本を買い占めて、それの焼き直しで国内の大家となった、大先生が居たと聞く。しかし、現在のネット環境ではそのようなことは無意味になってしまった。
またある大学では、学生に学会に入れないことで、教授に対する崇拝の念を維持しようとしたこともあったと聞く。
このような情報隠しでごまかすことはもう時代遅れになったようである。
昨日は節分に関して、巻寿司の丸かじりがかなり流行していました。しかし、この風習を奇異に思う人も居るようである。そこで由来を調べると、
大正(一説では明治や江戸時代)に大阪の花柳界で節分の日に、海苔を巻いたカンピョウ巻を恵方を向いて丸かじりすると、幸運になるいう伝承があった。
これを、1973年ごろから大阪の海苔問屋協同組合が
「節分の夜、恵方に向かって無言で家族揃って巻き寿司を丸かぶりすると
必ず幸福が回ってくる…と昔から言い伝えられています」
と書いたチラシを、寿司屋に海苔を納める時に配った。
と言うことが、普及の始まりらしいです。
この外にも、バレンタインデーのチョコレートは、神戸で有名なメリーのチョコレート屋さんが広めたようです。
このように関西発祥の文化はかなりありました。しかし現在は、それが少なくなっています。この理由を、某先生は電波行政の結果と言っています。つまり、東京キー局の発信の文化にみんな従うようにし、地方発信に関しては、あまりかっこよく出来なくなったと言うことです。
例えば、大阪キー局の女性の場合主役は
山田花子、上沼恵美子・・・
男は、
島田、やしき、橋下・・・
ただし、京都の伝統的美人に関しては許すそうです。
一寸眉唾ですが、信じてしまいそうな面もあります。
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