ご縁のあった人たち

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2019年5月 8日 (水)

政治というものに何を求めるか

 昨日書いた「国に何を求めるか」という議論に関して、もう少し考えてみたい。
 今回は、交流分析の発想を用いて、

  「親の立場での政治」

という観点で見てみたい。

 交流分析では、親の立場に

  1. 規律に従わせる厳格な親(CP)
  2. 優しく受け入れる親(NP)

の2種類を考えている。なお親以外には

  1. 論理的に考えて議論する成人(A)
  2. 親に従う子供(AC)
  3. 自由に発想する子供(FC)

がある。

 昨日書いた

  「困った行動を規制してほしい」

という発想は、上記では成人か子供が、CPの権力に要求している。一方弁護側は、

  「FCやAの権利を、CPから守る」

という発想になっている。

 しかし、ここで子供の立場が助けを求めているのは、優しいNPに対するものが多い。

 この問題をもう少し踏み込むと、国家などの政治は、

  「権力機構として抑制的に正義の実行だけにする」
    または
  「民衆保護の立場からできるだけ介入する」

立場のどちらかという問題になる。

 さらにここで支配されているものを、

  「『成人』と見るか『子供』と見るか」

という議論が出てくる。

 私の考えでは、

  1. 政治の権力は『成人』と『子供』を、ガイドラインをはみ出さないように支配する
  2. 宗教的な救いで『子供』の立場を救う

という、政治と別の形での救いがあるように思う。全て学問的政治の発想、つまり哲学者の政治というものでよいのだろうか?
 

2014年12月17日 (水)

日本のシステム理解力

 先日テレビを見ていたら、日本の弁当を素晴らしいと、褒めているフランス人(?)がいた。彼らの発想では、多様な料理を一つの箱に詰め込む、弁当は大発明らしい。
 確かに、高級弁当は見方によれば、会席料理を一つに詰め込んだものと考えてもよいだろう。このような発想は、海外にはあまりないらしい。そのように考えると、日本人は結構このような縮小モデルを作るのが上手である。この発想の原点には、華厳経や真言密教中にある、自分の中に世界全てがあるという、拡大縮小のモデル的発想があるのではないかと思う。
 しかも、信仰の世界ではそれを実践しながら、教えてきた。例えば、真言宗の多くの寺には、四国八十八か所のお砂踏みや、裏山などを利用した、ミニコースがある。例えば、御室仁和寺は以下のコースがある。
 http://www.ninnaji.or.jp/hallowed_ground.html
 この力は、多くの人が意識的・無意識的に使っていた。昔岩波書店から出た、コンピュータの教材でも、富士登山のミニチュア版を例にとり、教科書の教材は小さな(数メートル級)の山登りであるが、実際の大きな山を登るのに必要なモノが備わっていると教えていた。
 このような発想から、日本人は大規模システムも、上手く縮小して理解することができたのではないかと思う。
 ただし、縮小だけですべてと思うと、教科書が全てと思い込む、落とし穴にはまってしまう。バランスが大切である。

2014年9月21日 (日)

2つの百貨店について

 大阪梅田では、阪急百貨店はまだ元気がよさそうである。ここで、なぜ阪急が元気が良いのか、考えて見た。一つの見方は、現場の力である。地階の菓子売り場について考えて見よう。阪急のバイヤーは、大阪近辺の色々なところを歩き回り、美味しいという店を自分で見つけて、出店するように働きかけている。つまり、自力で力のある店を見出し、阪急と言うブランド力の後ろ盾で力を引き出し、価値を高めるようにしている。
 このように自力で、価値創造を行っているから、その収益も大きいと考える。

 さて、もう一つのSデパートの事例を考えて見よう。そのデパートのK店の実質上のトップに立った人に、昔話を聞いたことがある。彼の一つの自慢は、近江の老舗T屋を初めて、デパートに出店させたと言うことであった。口説くのに何度も通って、苦労したといっていた。このような、老舗がデパ地下に出る先駆けになった、とのことであった。

 この二つの、デパートの違いは明確である。片方は、自力で価値創造をしている。一方は、他所にある良いモノを、何とか自分で扱うようにしている。どちらが収益が大きいかと言えば、価値創造をする方である。なお、Sデパートは、その後経営的には色々な危機に会い、今は別系列の傘下になっている。

 しかしながら、他所で価値あるものを、何とか自分で扱えるようにした。これも大きな功績である。それで、彼は取締役副店長まで登った。そのあと独裁者M氏と衝突して退職したがこれは、また別の話である。

 さて、総合職と言えるようになるには、最低でも上記の他所で価値あるものを自分達でも扱えるようにする。これぐらいの付加価値を示してほしい。もっと言えば、阪急のバイヤーのように価値創造をする。このようなことから、本当の利益というものは生まれると思う。

2014年4月25日 (金)

宗教教育なしでの他国との協力

 先般、食物に関して宗教的な規制について少し思うところを書いた。
 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-5409.html
 しかし、考えて見れば、まじめな信仰を持っている人には、この書き方は冒涜ではないかと思う。例えば、イスラム教徒には、『ハラール』と言う概念がある。
 http://www.jhalal.com/halal
 そして食事には、ハラール認証制度があるらしい。
 そこで、イスラム教徒の人が来たとき、おもてなしのために、「ハラール認証」を取得した店を用意する。
 一方、ユダヤ教にもまた別のカーシェール規則がある。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88
 さて、ここで日本的おもてなしと言うことで、両方の食事を提供するレストランは、それぞれの信者にとってどのように映るであろうか。
 多分、無節操と言うか、冒涜されたと見えるのではないかと思う。
 そもそも、この食事の規定は、信仰があってこそ成立するものである。しかしひとつの店で、こちらでイスラム教、こちらでユダヤ教と言うのは、それぞれの信者の納得がいかないと思う。
 日本人の、生まれた時は神社にお参りし、結婚式はチャペルで挙げ、死ぬときは寺で葬式と言う、何でもありの生活は、世界の常識とは外れている。

 なお、食事に関するおもてなしについては、どのような食材を、どのように調理しているかの、情報公開をきちんと行い、利用者が判断すればよいと思う。

 いまさら、イスラムの教えに帰依しているわけでも、ユダヤ教を信じているわけでもない人間が、宗教的認証だけ取得するというのは、通用しないと思う。

 海外のお客様を迎えるに当たり、もう一度考えて欲しいことである。

2014年4月 6日 (日)

食物の宗教的規制

 今朝のNHKテレビを見ていたら、鰹節をユダヤ教徒が、食べてもよい食材に、認定するための作業を放送していた。
 これを見て思ったが、色々な宗教で食事のタブーがあるが、当時の民衆を食中毒から守る仕組みとしての一面もあった。
 このように宗教の民衆の守りと言う一面が、無くなったのが明治以降の日本だと思う。
 国家神道は、宗教でない、このような立場が、日本人の宗教への理解を狂わせていると思う。
 国際化を行うためには、宗教への理解を深めることが大切であり、自分たちの宗教観を、明治より前の世界で見直すべきだと思う。

2013年12月27日 (金)

部分から全体を評価する力

 先日、あるテレビ番組で、お菓子のコンクールを見た。そこで評価する人の動きが映っていたが、一口食べてすぐに評価を行っていた。しかし、食物の評価を一口で行うことは、大変な危険性がある。一口目の口当たりがよくても、最後まで食べきると、飽きてきたり、調味料がきつすぎて、水が欲しくなったりする。
 このようなことまで見抜く力を持って、一口だけで評価するのである。この能力は、大変なものがあると思う。それよりできるのかという、疑問を持つ人もいると思う。私は、職人の世界は経験が少ないが、技術屋として次のようなことは言えると思う。技術的に一つのものを突き詰めていけば、ある程度同じような答えに収束する。しかし、色々な選択肢があり、そのどこを選ぶかと言うことで苦労する。逆に言えば、その選択状況さえわかれば、どのようなものができるか、見極めることができる。
 昔、ある軍事技術の専門家が、海外の某メーカーの戦車工場を見学することになった。その時、日本の競合メーカの技術者から、ある部分の厚みだけ教えてくれと言われた。つまり、そこの厚みから、全体としての装備状況、重量、そしてエンジンの力などが、解るというのだ。
 これは、設計者として悩みつくした人間だから、相手の選択がどうなったか知りたい。それさえわかれば、すべてが見当がつくのだと思う。
 このように、自分が全体を考える力があれば、部分的な情報でも、全体を推定できるのである。
 監査などで、一寸したことだけ聞いて、判定するのも、このような能力だと思う。逆に、この力がないのに、部分的につつきまわす。これでは、時間だけかけても成果は少ないと思う。確かに、「犬が棒に当たる」確率はあるが、それでは仕事といえない。
 また、面接でも、「短い時間で見抜けるか」という議論があるが、このように部分から全体を見抜く力がある。
 このような力の存在を認め、自らをその力を得るようにする。そのためには、全体像を自分でも作ることが大切である。こう考えて、精進してほしい。求めない人間には、成果がないのだから。

2013年12月11日 (水)

見てくれが良いと得をするという人に

 就活関連で、時々
  「見てくれが良い人は得だ!」
と言う人間がいる。
 これに関して、一つの事例を考えて見たい。

 私の家の近所に、近ごろ開店したケーキ屋さんがある。あまり大きい店とは、言えないがパテシエが、丁寧に作っているので、適切な値段でおいしく食べられる。
 http://ameblo.jp/soyogi-com/
 さて、この店自体がオシャレにできている。店員の制服もフランス風のカフェの雰囲気で統一している。さらに接客も、『知的な美人』と言う表現が似合う人が、しっかりまとめている。店に入ったときから、この人たちに迎えられ、送り出されるまで、一つの優雅な雰囲気を味わえる店である。
 この人たちを見たら、最初に述べた人たちは、
  「やはり美人に生まれたから得している!」
と羨望のまなざしを向けるかもしれない。しかし、彼女たちが店を維持するための、どれだけの気配り、苦労をしているか、解っているのだろうか。

 上にも書いたが、ケーキを買うというのは、ある意味で贅沢をすることである。そのためには、見せに来た客には、それなりの満足感を与えないといけない。このために、接客する人の緊張感は、大変なものがあると思う。美人に見せると言うことは、大変な努力が必要である。また、朝早くお客さんが来ない時に、その店の周囲を、彼女たちはきちんと掃除をしている。

 人の成果を羨み、「美人は得だ」と言う前に、このような努力に自分が耐えるか、よく考えて欲しい。

2013年11月 5日 (火)

阪急・阪神ホテルズの食材偽装について(もう一つ)

 阪急・阪神ホテルズの食材偽装に関して、もう一つ議論すべき内容があった。テレビなどでよく聞くコメントの一つに、

「7年間も、それを信じて食べていた、利用者にも問題あり。」

と言う議論である。つまり、「鈍感な人間は発言権がない。」と言う議論である。確かにこれは、一理あるように思う。しかし、これには

「阪急(阪神)に対して、疑うなどは恐れ多い。変と思っても言えなかった。」

と言う、『権威』が働いていた可能性がある。
 日本社会では、ある種の階層化を暗黙的に行い、上位に対する余計な発言を押さえる圧力がある。確かに食事においても、素人の口出しで、失敗もあるので、初めていった場では「変な味」と感じても、黙っているという、暗黙のマナーもある。
 このような暗黙のマナーには、客を上回る料理人の舌で、必ず満足させるという、前提がある。今回は、この信頼が崩れ、反論が届きにくい、「裸の王様」状態となったのが、一つの理由だと思う。
 しかし、テレビを見ていて思ったのだが、テレビに出ている人たちにもいろいろ偽装はあるのではと思った。

「永遠の処女」
「清純派女優」
「ライトと化粧で見せている美白の膚」

そして年齢や経歴・・・
 これで追及できるのだろうか?

2013年10月29日 (火)

阪急・阪神ホテルズの食材偽装について(別観点から)

 今回の、阪急阪神ホテルズの食品偽装問題について、今朝のNHKニュースで面白い意見があった。

 利用者側の変化、特にネット社会の影響がある

と言う意見である。この意見には、納得してしまった。

 まず、一つには、色々なホテルのメニューが、ネット上で公開される。言い換えれば比較されるので、メニュー表示上に『格好の良い食材』を表示しないといけない。このため、ブランド名の独り歩きが生じる。

 一方、利用者も、自分の舌での評価でなく、ネット上の評判に流されるようになる。このような状況で、空虚な『ブランド名』だけの食材に流れるのが、今回の結果ではと思う。

 もう一度、利用者も自分の舌で感じたもので、評価すべきだと思う。

2013年10月28日 (月)

阪急・阪神ホテルズの食材偽装について

 今回の、阪急阪神ホテルズの食材偽装問題に関して、少し別の切り口から議論してみたい。現場の料理をしている側では、「おいしいものは提供できている」と言う、思い込みと言うか、変な自信があったという説である。

 

一例をとると、
  「XXで食べた『車エビ』料理の味なら、
   我々が『ブラックタイガー』でもっと美味くできる。」
と言う考えである。

 確かに、食材の生産地だけで、善し悪しが決まるのではない。上記の例なら、最低の『車エビ』より、上質の『ブラックタイガー』の方が、おいしい例もあるだろう。

 このような思い込みで、単なる表記上の問題と、言いはっているのではないかと思う。

 しかし、この仮説が正しいなら、この料理人たちは根本的な間違いを犯している。まず、考えないといけないのは、
  「本当に美味しい『車エビ』料理は存在する。」
と言うことである。日本国中探せば、どこかに下手な料理を出すところもあるだろう。また車エビの育ちそこないなどで、美味しくないものもあるだろう。その最低線で、自分の方が上と言う議論をしているのではないか。
 これを認めるなら、自分たちも最低線の料理争いに、参戦している、言い換えれば、一流とははるかに離れた立場である、と言うことを認めないといけない。

 しかし、阪急・阪神と言うブランドは、少なくとも関西人にとっては、一流であってほしいブランドである。その夢を壊してはいけない。もし経営者に、一流争いから逃げる気があるなら、関西人の面汚しとして、東京でも言って下働きをしてほしい。

 ただ、この話で一つ、嫌なことを思い出した。昔、阪神タイガースが、優勝を争った時、球団幹部が、某E投手に、

  「優勝したら選手の給料が増えるから負けるように」

と指示した話が残っている。この根性が、まだ残っていたら、利益を出せばよい。一流の味などどうでもよいという、経営になる危険性がある。
 情けない話だが、またもや優勝を逃す、阪神タイガースの地元である。