ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

2020年3月18日 (水)

主観的と客観的だけか

 先日から読み直している、NHK出版の「仏像ー心とかたちー」の最初の章「仏像のこころ」の中に、仏像の見方を

  1. 叙情詩を描く主観的な見方
  2. 美術史などの観点から客観的な見方

と二つに分けていた。私たちはこのように、主観的/客観的と対比することが多い。しかし、この二分法でよいのだろうか。私はもう一つの見方があると思う。それは

  • 創造者の観点から見る

見方である。これは法華経の教えがヒントになるが

「世界を造る親の立場で皆を見る」

と言う見方である。仏像の見方では、

  1. 仏の教えを伝えるために、どのような仏像を造るべきかを考える
  2. 仏像にどのような思いが込められているかを考える
  3. その仏像が造られた時代の状況を考える

等を考え、

「自分で仏像を造るならどうするか」

と言う風に「主体的」に考える。この発想があるのではと思う。クリエイター達は既にこれを行っている。

 現在社会を本当によくするのは、このような考え方ではないかと思う。

2020年2月11日 (火)

多様だが複雑ではない場合の考え方

 ネット社会では、色々な人の意見が出てくる。この人達が、

「自分の意見に従え」

と言い出すとトラブルが多くなってくる。特に、SNSの場合には、自分の書き込みや、閲覧履歴をサービス提供側が見て、自動的に

「その人に会う情報を提供」

ようになって、雪だるま式に膨れ上がっていく。

 さて、ここで大事なことは、

「人間の(経験の)多様性」

である。人の感じ方は、今までの経験や興味の持ち方で大きく異なっている。しかも現在のようにネット環境が充実し、更にゲームが普及しているので、そのゲーム内での経験が、蓄積されて考え方まで影響を受けている。ゲームの体験は、多様に渡るので、若い人でも、年寄りの予想できない観点で、深い考えにつながることがある。状況によっては価値観のような根本まで変えることもある。

 しかし、ここで言う深い考えは、価値観などと言う意味で、論理的な複雑さという意味ではない。見方を、その人に合わせると、すぐに理解できることが多い。例えば、ゲームの登場人物で、

「自分の夢を教え子に託す」

と言うストーリーを経験すると、色々な指導者との関係で

「夢の押し売りをしてくる」

と拒否感を持つ場合がある。

 このように、発想の多様化に対応すべきであろう。

 このとき、知識の扱いは、多くの物事を説明する一般原則から演繹的に展開する形ではなく、広く網のように広がる形で身につけるべきである。

「一羽の鳥を捕らえるのは一つの網目、しかしどこに鳥が入るかは解らない」

これは、天台の摩訶止観に出てくるが、多様化時代の知識はこのようなモノかもしれない。

 なお以下の記事も参考にしてほしい。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-473c.html

2020年1月 7日 (火)

空海が現在に活躍したら

 総合的に考えると言うことでは、一つの事例として真言密教の曼荼羅を取り上げることがある。確かに、両界曼荼羅は仏の教えを,見事に多様な方法で表現している。胎蔵曼荼羅は、大日如来が発した菩提心が、慈悲の心で展開して、更に種々の方便で多くに人の状況に合わせて届く様子が描かれている。金剛界曼荼羅では、仏の心を求める修行のあり方を、九通りの図式を持って描き,全ては大日如来の力であり、それが自分にあると言うことを教えてくれる。

 このような仏の力、働きを、絵画や仏像で描き皆の心にそれがあると示す。この密教の教えは素晴らしい。空海が活躍した時代では、絵画や仏像はその時代の最先端メディアであった。当時は紙も貴重品だったので、お経なども絞り込んだ表現になっている。そこでは「慈悲」という概念を伝える場合でも,仏の姿や持ち物で象徴的に表現し、詳細は師から弟子への指導という形で伝承していっただろう。

 さて、現在の情報伝達のメディアは多様化している。また印刷技術の高度化と、紙の普及は書物などでも、十分詳細な記述が可能になっている。

 このような状況で、大乗仏教の教えを説くなら、どのような形なるだろう。

 弘法大師空海が、現在の世界に真言密教を広げようとしたら、どのような手段を採用したか、少し想像してみた。説法の動画を公開する、これは手始めで、実際の仏の力の展開を、ストーリーを作って公開していく、これも行うだろう。

 一歩進むと、ゲームの形で、色々な仏の救いを体験したり、自分の心の中を探検し、悟りに近づいていく形もあるように思う。

 弘法大師空海監修の「自分探しゲーム」などがあってもよいだろう。真言宗の皆さん、高野山に今も生きていらっしゃる、お大師様に一度相談されたらどうですか?

2019年12月13日 (金)

見えないところで決まる不満

 日本の刑事裁判での有罪率は99%を超えるという、異常な高さである。しかし、これに対してある司法関係者は、

「その前に検察の段階で不起訴にしている。
疑わしきは罰せずの原則は成立している。」

と反論していた。確かにこれは一理あるように思う。裁判にも費用がかかるし、それは国民の税金も絡んでいる。そこで、

「わざわざ敗訴になる裁判をすることは、税金の無駄使い。」

と言う論法である。また、専門的な話では、

「一事不再審の原理により、無罪が出てしまえば、後からどれだけ証拠が出ても
罪に問えない。不起訴ならもう一度訴追できる。」

と言うテクニック的な話がある。(トランプ大統領の弾劾でも、一度否決されれば次の弾劾はできないと同じ)

 しかし、この話が検察の中だけという、一般人に見えない密室で決まることへの不満は大きい。

 さて、この話は他にもあった。

「日本の政治は自民・公明の与党が強いので、
国会議論は意味をなしていない。
多様な意見が吸収できていない。」

と言う批判に対して、ある自民党議員は、

「自民党の部会の中できちんと議論し、多様な意見の妥協案を探っている。」

と説明してくれた。確かに、昔の自民党には派閥があり、その中では実質上の政権交代的な変化もあった。また派閥間の議論は激しいモノがあった。

 しかし現在の、自民党内での議論は一般大衆には見えてこなくなっている。この問題は、マスメディアの取材力の低下もあるだろう。

「週刊XXの記事について大臣のご意見を?」

等と質問する記者がいるらしい、「自分で取材しろ」と指導する上司がいない現在のマスメディア大手の状況らしい。

 さて、このような結果だけ見せる形の原型はどこにあるのだろう。私は

「江戸時代の将軍に見せる将棋対局」
(事前に対局し将軍の前では棋譜通りの駒を動かし見せるだけ。
考慮中の姿は退屈なので見せない)

に原型があると思う。

 しかし、このようなすらすら流れる対局ごっこを見ても、本当に強い将棋指しは出てこない。

 この教訓をしっかり考えるべきだろう。

2019年5月22日 (水)

AIとの付き合い方

 近頃の囲碁将棋の世界を見ると、どうもコンピューターの影響が大きくなっているように思う。つまり、いわゆる「AIソフト」が示した戦法などを、プロが取り入れるという状況が起こっている。

 確かに、コンピュータ同士での対局が行われて、しかもコンピュータのレベルが、プロのレベルにまで達したら、蓄積される情報は従来の人間同士に比べれば、けた違いのものとなる。その中から新しい戦い方が生まれても不思議はない。また、人間の訓練としても、コンピュータ相手の対局なら、回数も多くできるし、時には試行錯誤もできる。少し発想を広げれば、野球の練習でも、バッティングマシンが使えるならば、一人の人間が多くの打ち込みを行うことも可能になる。

 このように考えると、AIの効果は以下の2面がある。

  1. 人間に新しい観点などを示すAI
  2. 人間の鍛錬に根気よくつき合うAI

但し、囲碁の世界などを見て少し不安になるのは

  1. AI的発想に取り込まれた人間

が出現しているような気がする。確かに、人間は感情があり、余計なことを考えたり、心配しすぎたりする傾向がある。その点、AIには先入観も少ないし、不安もない。これを考えると新しい発想が出る可能性もある。

 しかし、考えの基本をコンピュータに合わせるのは危険なような気がする。その点、まだ将棋の方が、人間の力を大事にしているように思う。これは、将棋の方が複雑さが以後より低いだけに、人間が到達した点が進んでいるのではないかと思う。この違いが、人間の善戦をもたらしいているように思う。

 さて、一般社会では、囲碁や将棋のような決まった盤面はない。どこから介入があるかわからない。この状況なら、本当に考える力のある人間はまだ生き残るだろう。

2018年7月22日 (日)

「ゲーム障害」という言葉が意味するもの

 WHOが「ゲーム障害」を疾病として認定したらしい。
世界保健機関(WHO)報道官は5日、オンラインゲームやテレビゲームのやり過ぎにより日常生活が困難になる症状を新たな疾病として定義し、WHOの「国際疾病分類」に加える見通しだと明らかにした。ジュネーブで記者会見した。
 ゲームにはまりすぎ人間の問題というのは確かにある。しかし、これを『疾病』として扱うことで、本当に良いのだろうか?
 私が危惧するのは、『疾病』として扱うと、すぐ医者や脳科学者が出てきて、
  「大脳のXX野が委縮している~~」
  「依存症的人間とそうでない人間を比較検討すると、XXの活動に優位差がある。」
 
という風な議論になって、脳の一部の障害という風に局所的な議論になってしまう可能性である。
 そもそも「ゲーム依存」などになるときは、本人の性格、育ち方、そして家庭やその他の社会環境の問題が複雑に絡んでいる。この問題を、医療関係ということで議論すると、個人の体に局所化する可能性がある。せいぜい精神科などでは、家族療法という観点で見るかもしれないが、そこに局所化する可能性が大きい。
 もっともこれを社会学者に持って行くと、『社会の影響』を重大視してしまい、個人の病的な要素を無視する可能性もある。ミルズが言っているが、個人の歴史的経緯と、環境的な影響の両面を見ることが重要である。
 色々な所で、総合的な議論が必要だと思う。

2018年7月19日 (木)

人材の活用のために多様な道を考えるべきではないか

 数日前の朝日新聞で、引きこもりでハッキングなどの行為をしていた子が、ホワイトハッカーとして活躍の道を探る話を見た。 https://www.asahi.com/articles/ASL7G61B4L6XUTIL00J.html
 私も、このような『オタク的天才』の扱いに関しては、一つの意見がある。実は、このような子たちには、ある種の『社会常識の欠如』というものがあることは、否定できない。しかし、それを補う力が存在することも、認めないといけない。
 さて、このような人の力を発揮させるにはどうしたらよいだろう。
 私の答えは、
  「このような人たちに寄り添い支援を続ける、優しい親の役割の人財を育てる。」
ということである。母親的な立場で、できる限りそばにいる。特に外出など社会に触れる時には、寄り添ってトラブルが起こらないように見守り、必要ならカバーしていく。このような、守られている感じがあれば、彼らも安心して、世の中に触れることができるようになっていく。できれば、私生活上の伴侶となって、色々と面倒を見ていく。
 このような形での、社会との接触はあると思う。
 さて、これも多様性の活用だと思う。今の学校教育では、誰もが就職するという、一本道で育てている面がある。しかし、『(保護者的)サポート役に徹する』という道も、認めては良いのではないかと思う。
 そのためには、『いびつな才能』でも、その成果には十分評価を行う。つまりサポート役の分まで、十分な給与を支払う。このような仕組みも大事だと思う。
 このようなアイデアもあってよいのではと思った。

2017年10月22日 (日)

人工知能に対して人間が優位を保てる条件

 人工知能について、1997年にオセロゲームでコンピュータと対戦した、元世界チャンピオン村上健さんの対談を見つけた。
 私も、1970年代には、コンピュータゲームのプログラムについて、少しは研究したことがるので、1997年にコンピュータが、オセロなら人間に勝てるようになるという話は、よくわかる。つまり組み合わせの数が、コンピュータの支配範囲に入ってしまえば、人間に対して絶対的に有利になる。オセロでは組み合わせ数が10の60乗で、囲碁は360乗ということだから、1997年のレベルでも、コンピュータに勝ち目があったのだろう。
 
 さてここで、村上さんの興味深い発言がある。

――コンピュータを取り入れたことで、人間の実力は上がってきていますか?

 私見ですが、驚くほど上がっていません。本当はもっともっとレベルが上がっていてもおかしくないのですが……意外にもほとんど上がっていません。人間にとっては、上達を阻む大きな壁があるのではないでしょうか。ここ10年ぐらいは……頭打ちですね。

 というのも、コンピュータが手を選んだときに、どんな理由で着手したか、人間には理解できないのです。「総合評価でこれが一番と出ました」といわれても。「ここはこういう考え方で、こうなんです」と人間にも分かりやすく教えてくれるソフトができれば良いですが、かなり難しい。

つまり、コンピュータの選ぶ手の『意味』を、人間が理解できていないという状況である。私は、このように『意味』を理解する点に、人間の強みが残ると考えている。しかし、オセロのように、一見単純な盤面の組み合わせでは、その意味を記述することは難しく、多様な組み合わせを、絨毯爆撃できる、コンピュータソフトに負けていると思う。

 これと比べる、将棋は盤面の駒が多様であり、今までもいろいろな定跡ができているので、人間の記述力も優れている。これを考えると、将棋の方がまだ人間が抵抗するのではないかと思う。もっとも、今の若手将棋指しは、コンピュータとの共存を選ぶ可能性が大きいい。

 さて、今やいろいろな社会の仕事にAIソフトが絡んできている。このようなAIソフトに仕事を奪われない条件は、やはりAIの示す結果の『意味』を、きちんと理解できる人間ではないかと思う。

 社会の現象に対しては、オセロの盤面のように閉じた世界ではなく、色々な外部からの介入がある。そのような外部の介入を考慮して、意味を考えるのは、まだ人間の優位があるように思う。ここに人間の生きていく価値がある。

2017年5月20日 (土)

発達障害の人の感覚

 今朝のNHKニュースで、発達障害の人が見る世界が、いわゆる「健常者」の見る世界と、異なっているという説明があった。

 この研究は、それなりに興味深いものであるが、私はこの見方に反論する。私の主張は、

   「いわゆる『健常者』のものの見方が現実を正しく認識していない。
    今までの経験や教育結果で、加工された情報に従っている。」

である。これは、デジカメで写した風景などを見ても、私たちが思うものではない現象などが、一つの根拠になっている。

 考えて見れば、私たちが受けた教育というものは、現実に対する適当なフィルタをかけることで、考え方を効率化することに役立っている。

 しかし、現在の技術進歩は、もう一つ別の世界が開けてくるように思う。一つの事例は、コンピュータ将棋の世界である。現在、コンピュータ将棋は、プロのトップと互角レベルになっている。しかも、新しい戦術がどんどん生まれている。これには、従来のトップ棋士の視野になかった見方を、コンピュータの力任せの解析で実用化したものもある。

 また、将棋の要素として、盤外の心理戦もあったが、これもコンピュータの出現で封じられた。

 しかし、将棋のプロたちは、これに対して、見事に適応しているように思う。今、藤井4段の連勝記録が話題になっているが、彼の指し方は、コンピュータ将棋にかなり近いものである。それを認めて、盤外戦術などで壊さないように、将棋界も気を使っているように思う。例えば、非公式対局で、羽生絶対王者が負けた事例は、他の棋士に対する。駆け引き禁止を示したものであろう。

 さて、一般の研究が、将棋界に追いつくときはいつであろう?

2017年4月25日 (火)

人間は迷う、コンピュータは惑わない

 

昨日書いた、将棋におけるAIの影響について、今日の朝日新聞の名人戦の観戦記に、コンピュータ将棋をすると「粘る」手を打たなくなるという記載があった。
 私は素人だが、この感覚はなんとなくわかる。つまり、人間相手の勝負なら、お互いに最善手を指すことが、勝ちにつながるとは限らない。もう少し露骨に言うと、
 「相手が間違えやすい手を指す」
 「複雑な局面に誘導する」
 『最善手でなくて相手が読んでいないような手を指す」
というような戦術で、相手の心を惑わし、間違いを誘うことが、自分が不利になったときの常套手段である。
 しかし、コンピューターにこの戦術が通用するだろうか?
 まず、『読んでいない手』の効果は、コンピューターでも効果はあるだろう。しかしながら、人間はその時に精神の動揺があるが、コンピューターにとっては、計算のやり直しで、今まで資源を使ってしまった、という損得計算でしかない。
 その他の手段に関しては、コンピューターにどこまで効果があるかは疑問である。
 しかし、「将棋の神様」に本当に仕える気なら、最善手を求める立場で指すことは当然であり、上記の駆け引きもなくなっていくだろう。羽生青年の時代にはそのような気概を感じた。いまの羽生三冠には、そのような求道者の魂が残っているように思う。
 今後の展開が楽しみである。

より以前の記事一覧