ご縁のあった人たち

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2020年7月26日 (日)

本当の幸福とは

 「幸福」について、少し考えて見た。自分が「幸福」と考えるのは、どのようねな時だろう。自分の欲望が満たされた時だろうか?これは、ひとつの答だろう。但し、その欲が出世欲のような、他人が介入するものや、競争の勝ち等の、他人と相対的なもののとき、これが継続的なものになるだろうか?

 ここでもう少し視野を広げてみよう。他人を助けて、感謝を受ける。これが、一つの幸せではないかと思う。

 もっと言えば、社会全体がよく出来ないか、これが仏教なら、「仏様の智恵」というこで、できるはずである。

 これが、持続可能な、本当の幸せではないかと思う。

2020年5月29日 (金)

進化する伝説の力

 昨日書いた、テレワークの成功条件に関して、「伝説」の有効性について、もう少し補足しておく。

 確かに、「伝説のXX」という存在や、逸話は多くの人たちの心を向けるには有効である。しかし、「伝説」の危険性をしっかり認識しておかないと行けない。それは、

「時計が止まった人」

になってしまう危険性である。これは極端な事例では、

  • 儒教の「古代の聖人の政治」
  • ある会社の「創業者の伝説」

等の例がある。そのように過去の事例を美化し、それだけしかないと進化がなくなる。

 もう一つの問題は、

「伝説を作る負荷の問題」

である。物語を描くというのは、結構な負荷が必要になる。それも個人のスキルに依存する。このような配慮も必要である。

 しかし、既に良い事例がある。

「トヨタの進化する官僚主義」

である。彼らは規則を作成するという負荷を、きちんと吸収しながら、規則と現実の乖離をなくすため、毎日修正している。このような発想で、伝説も修正すべきである。

2020年5月28日 (木)

テレワークの成功条件(持続可能性)

 新型コロナウイルスの影響で、テレワークが推進されている。この働き方は、現在のネット環境やIT技術を考えれば、しばらくは効果があると思う。ここで

「しばらくの効果」

と表現したことに注意してほしい。私の会社員生活は既に前世紀期が大部分だが、このテレワークに発生する問題点を、経験している。それは、

「関係部門への配慮不足」

という問題である。これは大きく分けて、パソコン画面やタブレット画面、極単にはスマホ画面の制約という一面と、組織の横などへの配慮不足などから発生するモノである。しかもこのトラブルは、

「世代交代してから発生する」
または
「まれなトラブル時に発生する」

傾向がある。通常上手く流れているときは、限られた範囲の情報伝達で良い。また色々な経験をした人間が、分散しているときには、それなりの配慮をする。現在なら、メールの写しを入れておくし、その写しに目を通すという配慮もあるだろう。

 しかし経験が無くなった世代が働き出すと、このような写しなどには反応しなくなる。

 こうした状況を考えると、テレワークの成功のためには以下の方策が必要ではないかと思う。

  1. 全体を見て交通整理を行う管理者スキルの育成
  2. 全体像を皆で共有する「物語(伝説)」やゲームなどの作成

2020年5月18日 (月)

本を読むということに関しての議論 その1

 Twitter上でちょっと気になる話があったので、少し突っ込んでみたい。

塾で教えていて、わりと衝撃的だったことの一つが「国語の教科書以外で、まとまった文章を読んだことがない子」の存在を、リアルに目の当たりにしたときのことだ。

この議論は、まだ色々と展開しているが、今回はメディア論の立場で、この問題について考えてみたい。なお、このブログではメディアの議論になるので、『本』という形で議論するが、元のTwitter上の話は、本にこだわっていないことをあらかじめ断っておく。

 一つ目の論点は、本による情報伝達や、教育は絶体的なモノではないという議論である。これは、現在の日本では『教科書』の存在を、当然と考えていることへの批判である。例えば、グーテンベルグ革命以前の西洋では、本は貴重品であり、庶民の手に入るものではなかった。また江戸時代の庶民を考えても、限られた手習い手本を写す、四書五経の素読をするという方法で学んでいた。

 そのような状況では、口頭での伝承の比重が多かった。

 二つ目の論点は、現在のメディア状況を考えると、文章以外での教育や体験ができるのではないかという議論である。明治から、昭和の時代までなら、活字による伝承の力は大きかった。そこでは、本をしっかり読みこむことで、人の考え方の多様性なども学んでいく必要があった。しかし、現在のようなメディアの多様化が実現したとき、本に頼るべきであろうか?それ以外で伝える方法があると思う。

 例えば、人間の考えの多様性、行動の影響で、人がどのように感じるか?これらは、映像・音声の総合的なメディアで伝える方法がある。更にゲームの世界でのシミュレーションもある。このような育成もあるのではないかと思う。

 もっと言えば、本においても、文字情報だけでなく、漫画なども活用すべきだと思う。一人の人物を想像する時、具体的な絵で与えられた場合に、人物としての具体化や、多面性が生きてくると思う。

 これを見て思ったことは、空海が日本に密教の色々な法具や曼荼羅を持ち帰ったとき、多様なメディアによる布教を実現した。今このような変革期ではないかと思う。

2020年5月10日 (日)

小さな声を拾い育てる仕組み

 昨日書いた、発達途上のクリエイターと不安な読者の話に関連して、もう少し広げて考えてみた。昨日の話を一般化すると、

「小さな声を拾い上げて、良いモノを育てる力とする」

と言う議論になる。現在の有利な点はSNS等の力で、

「情報発信のハードルが下がった」

である。ただし、このハードルの下がり具合については、もう少し議論が必要である。確かに、ツールとしてのSNS環境は備わっている。しかし、それを使う人の心が向いているだろうか。この問題について、もう少し議論が必要と思う。

 まず、著者に対して、

「買ったよ!」「良かったよ!」「XX好きだよ!」

等の声をあげることの大切さを伝えることができているか?これに関しては、昨日も引用したように

作り手にとって、作品の購入報告ってね、最高にうれしいです

と作者側からの発信もある。

 しかし、もう一歩踏み込んで

「読者の反応が、クリエイターを育てる道筋を見せる」

方法で、もう少しこのような声を引き出せないだろうか?

 このような関係の

「クリエイターが育っていく状況のライトノベル」

「クリエイターを育てていくゲーム」

等で、

「小さな声が生み出す効果を実感させる」

という方法も無いだろうか?

2020年5月 9日 (土)

発達途上のクリエイターと不安な読者の交流について

 Twitterで著作の購入に関して少し議論をした。ここで話題になったことは、

作り手にとって、作品の購入報告ってね、最高にうれしいです

買ったよー!の一言にはね
「あなたの商品を吟味した結果、金銭を支払うに値すると判断したため、頑張って稼いだお金を使いました」っていう、途方もない量の情報が入ってるからね

と言うことで、クリエイターに対する評価の重要性である。

 このような購入報告は、SNSの利用で、従来と比べれば、比較的簡単にできるようになった。著者が発行したとつぶやけば、それにリプライで、「買ったよー」とでも返せばよい。このような著者に対するつながりが、容易になったのがSNS時代の特徴だと思う。

 さて、この話を読者側から少し見てみよう。昔の紙の本、そしてファンレターという、紙の文化の時代には、

「読者側の発信に大きなハードル」
つまり
「ある程度まとまった感想でないと書くのは恥ずかしい」

があった。これをもう少し言えば

「良い作品です」「素晴らしいです」

ときちんといえるほど、ある程度の自信が無いとお手紙を書くのは難しかった。しかしSNSの時代の気軽さなら

(どこが良いとはいえないが何となく)「好きです」

と言う言葉が、気軽に出せるように思う。また、メジャーな意見でなくても

「XXが好きです」

と言う言葉も気軽に出せると思う。

 逆に、このような気軽な

「~~が好きです」

と言う言葉が、発達途上のクリエイターの届くと、これが進歩のきっかけになると思う。

 そう考えると、クリエイターと読者が、気軽にふれあえるSNS社会を上手く使うことで、クリエイターの力、そして読者の力が増えていくのではと思う。

2020年4月19日 (日)

IT技術による多面的な記述(再現)の可能性について

 昨日書いた、ゲームが人間の成長に与える影響について、もう少し議論していきたい。ここで、影響と書いたが、現在の状況は

「IT技術による、人格に対する多面的な見方を開く、可能性

の段階である。

 まずは、多面的な見方の重要性を認識するため、現在の「教科書的一面性」の弊害について考えてみよう。

 現在社会は、物事を単純に見るとこで、因果関係を明確にして、一般的な知識を引き出し、予測や説明ができるようにした。こうして、物理学が生まれ、機械化した文明が力を持つようになっている。そこではガリレオの原理と言われている

「計れるモノは計れ、計れないモノは計れるようにしろ」

が力を持っている。そのため現在社会では、

  • 子供の成長段階では成績
  • その後は給料
  • 帰属社会のランク付け
  • 政策評価はGDPの上下

等の単純化した尺度による物事の把握が行われることが多い。特に、人間に対する動機付けが、このような単純な尺度で行われることが少なくない。成績だけでの評価、所属会社だけでの評価(内定先だけでの評価)、地位だけでの評価などである。

 しかしこれで本当に良いのだろうか?人間というモノをこのような一面的に観て良いのだろうか?

 ここから、少し私の過去の状況をシミュレーションしてみたい。

 私は、学校成績はかなり良い方であり、大学もいわゆる旧帝大で、大手のメーカーに就職した。このスペックで、中学や高校の「憧れの人」に対して、結婚を申し込んだらどうなったであろう。ここでもう一つ付け加えると、当時の私の価値観は、成績が大事であった。従って、相手側もかなり『成績優秀者』である。従って、向こう側も『良い学校』というモノに、引きずられた可能性はある。従って、交際結婚という可能性はある。

 しかし、私自身の個性や家庭状況を考えると、これが結婚まで無事行ったか、結婚後の生活が無事行ったかは大いに疑問である。それどころか、破綻した可能性は大きい。前にも書いたが、私の家庭は貧困であり、対人スキルや色々な体験を、子供時代や学生時代に過ごすことはできなかった。

 さて、人間の多様性について私に

「文学作品を多く読んで、人間を広く理解しろ」

と助言してくれた先生がいた。確かに、文学作品を深く読み、その人の心に寄り添うことができれば、多面的な人間理解ができるようになったかもしれない。しかし、このことには想像力などの多大な力がいる。

 そこで、私が可能性を見いだしたのは、ゲームの世界である。ゲームの登場人物に、色々な側面を入れて人格として充実させていく。多様な価値観を入れて、矛盾した価値観の間で色々な悩みも体験させる。一方、他人との関係で、お互いの感情の交流や、相手側がどのように 感じているかも、後からの反省などで観ることができるようにする。

 このような、人間関係を密に提示する育成が、ゲームにはできる可能性があると思う。 

2020年4月18日 (土)

SNSとゲームが人間の成長に与えるモノ

 昨日書いたように、日本の大変革の時代には、多くの人の考え方の基底が変化していく。そのための手段として,教育は大きな役割を持っている。なお、私たちは昭和の敗戦以降の,『合理的な教育』を受けているから、宗教と教育の分離が当然と思っているが、歴史を見れば、宗教と教育の布教は一体と観るべきだろう。例えば,江戸時代の寺子屋は、文字通り、寺や神社での教育である。平安時代まで遡っても、当時の僧侶は最先端の学問を修得していた。

 もう少し踏み込めば、日本の仏教普及には、当時として最善の技術利用があった。仏像・曼荼羅などの絵画・琵琶などの音曲、これらを駆使し当時としてのマルチメディアでの大衆への布教が行われている。

 さて、昭和の敗戦から75年も過ぎている現在、教育に使われる手段は大きく変化してくると思う。

 私が考えている変化は、SNS等のネット社会での

「情報アクセスの大衆化」
特に
「双方向的な情報アクセス」

が一つ目の変化である。この結果

「多様な価値観の受容」
「マイノリティの居場所ができる」

ことが大きいと思う。

 もう一つは、

「ゲームの普及、特に自分でゲームのキャラクタを造れる」

と言う可能性である。

 仮想空間で、シミュレーションして、色々な人格を生み出し、その働きの効果を自分で観ることができる。しかもその人格や環境を自分で変えることもできるので、色々と試すことができる。

 このような、体験型の学習は、今までの紙の上での教育を変えていくと思う。

2020年4月17日 (金)

社会の変革時には教育が変化する

 先日から書いている、コロナ危機の後に起こる『社会の大変革』に関連して、今までの日本社会の大変革を見直してみた。

 古い順から挙げると

  1. 弥生時代の渡来人による稲作への転換
  2. 聖徳太子などによる天皇制の確立と仏教の普及
  3. 空海等の遣唐使とその廃止に伴う和魂漢才文化
  4. 武家社会の成立(承久の乱まで)
  5. 明治維新
  6. 昭和の敗戦

と言う流れになる。

 私の考えでは、この各段階で、大衆に対する適切な指導が行われて、流れが変わったように思う。つまり、日本の変革時期には、

「従来の特権階級の独占知識が多くの人に広がる」

ことで、大きな力が生まれた。最初は、渡来人達が稲作の方法を教えて、それが広がる。次に、聖徳太子達は、大乗仏教と中国文化を上手く融合しながら導入していく。そして平安時代には、仮名文字文化で漢文の知識人独占を排除していく。

 さて承久の乱では、貴族や皇族の支配権を、武士が奪い、しかも法律まで作ってしまう。しかも貞永式目などは江戸時代まで寺子屋で教えていた。こうして、大衆教育は宗教教育と一体となって、江戸時代までの日本文化を育てていた。

 しかし、明治維新では、

「西洋文明の早期吸収のための学校教育制度」

を実現し、そこでは

「教育からの宗教排除(仏教・古神道)」

が行われている。なお、『国家神道』を宗教と認めることは難しいと思う。

 最後に、昭和の敗戦時のアメリカ支配で、

「民主主義教育の徹底(知識層のエリート的発想の排除)」

と言う流れになっている。

 さて、このように変革時には、『知識の大衆化』が起こることが、今までの流れで見えてきたと思う。

 ここで、令和の時代を考えると次のような予想ができると思う。

SNS等のネットの力と、ゲームの記述力による教育革命

これが、コロナ以降の社会を変えていくと思う。続く

2020年3月18日 (水)

主観的と客観的だけか

 先日から読み直している、NHK出版の「仏像ー心とかたちー」の最初の章「仏像のこころ」の中に、仏像の見方を

  1. 叙情詩を描く主観的な見方
  2. 美術史などの観点から客観的な見方

と二つに分けていた。私たちはこのように、主観的/客観的と対比することが多い。しかし、この二分法でよいのだろうか。私はもう一つの見方があると思う。それは

  • 創造者の観点から見る

見方である。これは法華経の教えがヒントになるが

「世界を造る親の立場で皆を見る」

と言う見方である。仏像の見方では、

  1. 仏の教えを伝えるために、どのような仏像を造るべきかを考える
  2. 仏像にどのような思いが込められているかを考える
  3. その仏像が造られた時代の状況を考える

等を考え、

「自分で仏像を造るならどうするか」

と言う風に「主体的」に考える。この発想があるのではと思う。クリエイター達は既にこれを行っている。

 現在社会を本当によくするのは、このような考え方ではないかと思う。

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