ご縁のあった人たち

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2020年2月12日 (水)

深い穴を掘るだけの鍛錬であって善いのか

 昨日書いた、多様性の話に関連して、今朝のNHKの話でショックを受けたので、もう少し書いておく。

 今朝のNHKが取り上げた話は

オリンピックの空手の型選手が、琉球舞踊の膝の使い方を学んでいる

と言う話であった。

 これが、テレビで取り上げられたのは、

「犬が人をかんでもニュースにならない,人が犬をかんだらニュースになる」

と言う原則から、

「空手と舞踊は別」

と言う常識が育っているらしい。昭和の時代に育った立場では、

「空手の琉球舞踊は表裏一体、琉球舞踊の名手は空手もできる」

と言う常識をもっていた。もう少し踏み込めば

「沖縄では、武術禁止・武器禁止が厳しく、そのために素手の格闘技の空手が普及したが、空手すらも危なくなったので、琉球舞踊のなかに、体の使い方の極意を隠した。」

と言う伝説すらあった。

 このように,関連する物事の網をきちんと作らず、バラバラの専門家を育てているのが現在の教育ではないかと思う。

2020年1月31日 (金)

いわゆる『秘伝』の扱いについて

 昨日書いた、『情報の独占による権威維持』という問題について、もう少し議論を深める。今回議論するのは、武道などの『秘伝』の使いである。実は、武道の『秘伝の技』の伝え方には、大きく分けて二種類ある。一つは、初心者の習う技のなかにも、極意技が隠されている。ただし、その解釈が伝わっていない。この解釈は教わる場合もあるし、自分で掴んだことを師に示し、確認を得る場合もある。一方、技自体が冠¥全威嚇されていて、伝授されないとわからないモノもある。

 前者の例では、例えば剛柔流空手の入門で習う、撃砕という型には、相手の突きを受けて、中段蹴りを入れ、肘打ちをして、裏拳を打ち込み、払って中段突きを入れる動きがある。この技にも必殺という側面が隠されている。詳しく書かないが、空手の個人鍛錬器具には、中段受けの形から、相手の手を掴み、引きずりながら肘当てをする、このような道具で繰り返し鍛錬していることからも想像してほしい。単に受けるというのではなく、相手の手をつかみ攻撃する。これは、ボクシングなどでは反則だが、相手を倒すためには有効な手段である。しかし、単に受ける動作が、受けながら摩擦を上手に使って、相手の手を引き込むようにできるには、それなりの修練が必要である。そのように個人の鍛錬が、きちんとできたときに、この型の本当の意味がわかってくる。こうした意味は、準備ができていないときに知れば、かえって基礎鍛錬をおろそかにしてしまう。

 一方、後者の隠し技的なモノは、なかなか公開されていないが、柳生心眼流の小太刀の、左右遣いなどがあるだろう。右手で切りつけて、躱されたら、小太刀を体の後ろに回して、左手に持ち替えて左半身からの攻撃を行う。相手は右手を想定しているので、不意打ちの効果がある。しかし、これは知っている人間には通用しない。これは、隠していることの効果である。

 一般に、一つのアイデアだけに頼っているモノは、それが見えると、多くの人にまねされてしまう。従って必死で隠そうとする。太平洋戦争の敗戦後、アメリカは日本の潜水空母(爆撃機を搭載できる大型空母)を全て、と言っても二隻だが確保し、研究し沈めてしまった。これを、日本の技術が高いから、アメリカが勉強したという人もいるが、私は

「アイデアが漏れればまねされる」

ことを恐れたのだと思う。残念ながら、日本の潜水艦の工作技術は、ドイツやアメリカには劣っていた。そこから学ぶべきモノは少なかったが、

「大型潜水艦を作り実用的な爆撃機を載せる」

と言うアイデアが、ソ連に渡ることは、アメリカは避けたかったと思う。

 現在は、ネット社会であり、先ほど書いたように『秘術』も、どこかで情報漏れを起こしてしまう。

 しかし、基本的な技やスキルが身についていないと、使いこなせない技は、極意習得として差別化できる。この点をもう少し考えるべきだと思う。 

2020年1月20日 (月)

禅の教えを武術で考えて見た

 昨日までの続きで、武術を通じての悟りについて、考えて見た。武術家が禅を修行した事例は多くあるが、私の知識では、禅の影響に二つのパターンがあるように思う。

 一つは、自分が今まで持っていた、こだわりや恐怖を捨てることである。これは、山岡鉄舟の体験が有名である。自分が、圧倒された相手の幻など,自分が作ったモノで苦しめているなら,それをなくすために

「すべてが空である」

と言う悟りは、効果があると思う.これは現在にも通用する。

 さてもう一つは、少し物騒な話だが、針ヶ谷夕雲の無住心剣の悟りがある。これは極端に言うと

「自分の命も人の命もないもの」

と言う物騒な悟りである。現在の研究でも、

「戦場で、敵に向かって、銃を撃てるのは五人に一人」

と言う話がある。これを

「普通の人間が,自分を捨て相手も殺す」

という気持ちを持てば、平和な時代では大きな力を持っただろう。

 禅の悟りと言っても,このような怖い面もあることは知っておくべきだろう。

2019年10月15日 (火)

「呪い」の効果

 昨日書いた「ティール組織」の話と、クライマックスシリーズの決着で、思い出した話があるので書いておく。

 関西人なら、多くの人間が知っている、「カーネル・サンダースの呪い」がある。

 これは、

1985年昭和60年)10月16日に、日本プロ野球球団、阪神タイガースの21年ぶりのセントラル・リーグ優勝に狂喜した阪神ファンが、カーネル・サンダースの像を道頓堀に投げ入れた因果で、翌年以降の同球団の成績が低迷したとされる都市伝説の一つである

と言う話で亜あるが、この話の良い面と悪い面を考えてみよう。

まず良い面であるが、

この伝説の効果で、阪神のフアンのお行儀が良くなった

と言う面がある。少なくとも、器物の破壊が少なくなった効果がある。

 このような、「呪い」という感情に訴えて、道徳的な事項を支配するのは、組織論等で言えば、

「原始的なレベル」

と言うべきだろうが、効果があることも否定できない。感情に訴える、「伝説の力」は経営学などでも、もう少し考えるべきであろう。

 さて、この話の悪い面を考えてみよう。このような「呪い」の悪影響は

呪いを理由に本質的問題から目を背ける

点にある。

 阪神タイガースが優勝から遠ざかった、その本質は

「弱いから」

である。ここでもう一歩踏み込んでみよう。今日のスポーツ欄で具体例が出ていた。

大分昔に甲子園をわかせたF投手が、巨人相手の2軍戦で好投した!

である。参考までに、彼と同時期にプロ入りしたO選手は、日本ハムで健全に成長し、大リーグで大活躍している。

 この育成力の違いが本質的な問題である。なお、これに関しては、阪神ファンやマスメディアも共犯である。

阪神タイガースは、時々勝っても皆が喜んでくれる
阪神の選手と言うだけでチヤホヤされる
(2軍で好投してもニュースになる!)

と言う甘やかせの構図がある。

 このような、甘い発想に対し、反省せずに、

「呪いだー!」

と失敗の言い訳をする。このような根性ではとても勝ち残ることはできないだろう。

2019年6月15日 (土)

突破する力に影響を与える仏教

 昨日書いた、『必殺技』依存の話に関して、もう少し踏み込んでおく。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-523b39.html

昨日も触れたが、NHKの「日本人のおなまえ!」では、剣術の必殺技の名称に関して色々な話があった。さて、江戸時代の剣術には、禅の教えの影響がある。柳生流の伝承には、沢庵和尚の『不動智神妙録』があるし、宮本武蔵の『五輪書』も、表題が示す通り仏教の影響がある。

 さて、ここで日本に伝わった、禅宗の教えには

頓梧=突然の悟り

がある。確かに、座禅をいくらしていても、ある時に飛び越えないと、本当の悟りは得られない。その意味では、『頓梧』という発想は重要である。しかし、それまでに地道な努力を積み重ねた上に、突然の悟りが来るという側面も、完全に捨ててはいけないと思う。

 天台の止観業でも『円頓止観』を重視している。これは、段階的に悟って行く『漸頓止観』と対比している。ただし、ここでは『悟りの段階』に関して議論しているので、

段階的な悟りより、一気に全体をつかむ悟り

を重視するのは大乗仏教の教えからしても必然的なモノがある。

 確かに、禅宗の話を色々と読んでいると、修行など通り越して、突然悟るという話もでてくる。

 しかし、このような突然の悟りだけを待つのは、地道な努力を捨てる可能性がある。また、世の中の仕事の多くは、地道な努力の積み重ねであり、一つ一つをきちんとしていくことが、世の中を支えている。

 このように考えると、現在の流れとして、地道な努力を軽視し、支えてくれている人を無視している人が多くなっているように思う。

 禅宗の悟りに関しても、その寺に布施をして、僧侶の生活を支える民衆の支持があったことを、忘れてはいけない。葬式の収入や戒名で儲ける発想とは別の世界である。

2019年1月19日 (土)

もう少し本質を考えて対応してほしいこと 政府と相撲協会

 近頃気になるニュースが色々とある。しかも、本質的な問題が議論されていないことで、ストレスが溜まっている。
 まず一つ目は、厚労省の統計問題である。この問題自体は、手抜きとしか言いようがない、弁解の余地はない問題に見える。しかし、よく考えてみると、手抜きの始まった時期は、小泉行革の時期に重なっている。あのときには、アメリカの圧力などもあって、会社設立条件が緩くなって、多くの会社が増えた時期であった。一方行政改革で、公務員の人手は抑えられている。このような状況で、現場が追い詰められて、
  「理論的には同じ結果」
とばかりにサンプル方式に走った可能性はある。
 つまり、現場の作業者に無理を言い続けると、どこかで手抜きが起こるという昔からの問題である。
 さて、もう一つは、横綱の引退問題である。これは、「日本人横綱」と持ち上げて、怪我をしているのに相撲を取らせ、結局短命横綱となってしまったということで、これも相撲協会の近視眼的対応が、問題だという議論がある。
 確かに、近視眼的な対応の問題はある。しかし大相撲には、本質的な問題があることを、そろそろ議論を深めるべきではないかと思う。前から言われている
  「無気力相撲」
の問題であるが、本当に気力を入れて相撲を取って、最後の最後まで頑張れということの重みを、皆が判っているのだろうか?最後の逆転を図るため、無理をして相撲を取る。これで少なくない力士が、現役引退になる障害を負っている。
 極端な話、相手の技がきちんと決まれば、抵抗せずに投げられたり、土俵を割ることで、力士生命は伸びるのである。もっと極端に言えば、ある種の武術の演武では、相手の技を無効化するために、自分から飛んだりこけたりしている。これが格闘技としては、身を護という意味では、正しい姿でもある。
 海外まで回って、強力な力士をそろえれば、力のぶつかり合いで消耗も激しくなる。
 このような状況で、15日も相撲が全力で取れるか、考える時が来ていると思う。
 このような考えると、色々な物事の本質を考えて、現場の人間を救うような政策を考えて欲しい。
 そのための、人材育成などを考えるのも、働き方改革の一環だと思う。
 本当は厚生労働省の技能検定の一環として、管理能力検定や戦略思考検定を入れて欲しいものである。もっとも、元事務次官がテレビで、自分たちの働き方が、ブラック企業と平気で言うような状況では難しいかな。 

2018年12月12日 (水)

「道具のせいで失敗」ということができるのは?

 昨日のNHKテレビで、フィギャスケートの紀平選手の試合前の状況を放送していた。彼女自身が、スケート靴の調整をしている。微妙な違いを直すことで、良い状況で滑れる、と言っていた。
 この場面を見て、彼女には
  「靴の具合が悪かったから旨く滑れなかった」
という資格があると思った。
 よくあるパターンに、試合前には意気揚々と行って、結果が出てから
  「靴の調子が悪かった~~」
等と言い訳をする人がいる。
 練習で、リンクの状況を調べ、その上で靴の微調整も自分で行う。当然、自分の体の状況もきちんと把握している。
 ここまでできているから、失敗について
  「靴が合わなかった」
と言える。
 このように自分でコントロールするから、本当の自己責任が取れるのだろう。

2018年8月 6日 (月)

スポーツ団体の管理について

 スポーツ界の不祥事がどんどん出てくる。この原因を考えてみた。一言で言えば、
   「トップに立つ人間の人選ミスである。」
つまり、競技能力が高いだけの人間が、組織運営のトップに座る。この問題である。
 これに対しての極端な処方箋が、 #日経BP の記事にあった。
この「勝者には何もやるな」は極端だが、言わんとすることはわかる。
 しかし、この問題を考えると、色々とみえてくるものがある。
 まずスポーツ世界の評価の問題である。確かに競技会での勝者というものは、一つの評価である。しかしそれだけでスポーツは成立しているものではない。指導者や事務方、色々の立場での働きがある。その中でのきちんとした評価がなされているかという問題が、一つ大きなものとなっている。一人のスター選手だけが脚光を浴びる。これで本当に良いのかという問題である。一方、その選手の引退後の処遇ということも、きちんと考えないといけない。色々な道があってもよいと思うのだが、その団体のトップしかないというキャリアパスの貧弱さは、この問題の裏側にある。
 もう一つ言えば、団体の管理運営というものは、スポーツの技自体とは別のものである。
   「名選手必ずしも名監督にならず」
という言葉が語るように、専門の管理者や、運営のプロを育てるべきだろう。またルール作りなども、本来は法律知識やスキルのある人材をうまく使うべきである。
 さて、ここまで書いて一つ思ったのだが、近頃書いている『歴史』の話と、この話は共通点が見えてきた。つまり、昔の儒教的中華思想には、
   「徳のある君主の人治」
という発想があった。つまり、個人がすべてを備えているという発想である。これに、ギリシャの格言
   「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」
が混ざって、今のスポーツ界の支配構造ができているように思う。
 しかし、政治に関しても、日本で聖徳太子の時代から、
   「話し合いによる納得治」
というものがあり、現在の政治機構や経営管理の手法が育っている。
 スポーツ界に関しても、このような目で見るべきではないかと思う。
 なお日大の体育会支配は、学生運動との関係で、この話と一致する面が見えてくるが、これは項を改めて書きたい。

2018年7月 3日 (火)

日大の第三者委員会報告の報道を見て

 日大のアメフト部の問題に関する、第3者委員会の中間報告が公開された。
 これはテレビのニュースなどでも見聞きしたが、どうも気になる話がある。
前監督とコーチと、M選手のどちらの言い分を信じるかと言えば、選手たち皆がM選手の言い分を信じる。
という表現をしていたテレビニュースである。
 私たちも、どう見ても前監督やコーチの言っていることの、胡散臭さは明白と感じている。
 しかし、このような形の全員一致というものは少し危ないものも感じる。
 まるで、
   「東京裁判のA級戦犯(特に東条英機)」
追求みたいな図式になってきた。
 特に、この時期の中間報告発表は、就活への影響を考えたものと疑ってしまう。
 
 しかし、この発表で見えるような、無条件で上の指示に従う、そして手のひら返しで上が悪いという、このような人材(人罪)を本当に必要としている会社はどれほどあるのだろう?

2018年6月12日 (火)

狂暴なる者から身を護るためには

 新幹線での殺傷事件では、被害女性を逃がそうとして、犯人に立ち向かった方が殺されるという、最悪の結果になった。
 さて、このような凶悪犯に出会ったとき、警察関係者などは
   「とにかく逃げろ」
という場合が多い。確かに、素人や、少しぐらい格闘技をかじった人間では、このような精神状態も異常な相手に対して、旨く対処することは難しい。しかし今回のように、限られた空間で、刃物を振り回す人間を、野放しにするともっと多くの被害者が出たであろう。従って、止めようとした行動は正しい。
 ただし、このような危険な人間に対する対処法を、しっかり知っておく方法がある。昔、柔道の大家に、このような暴漢に遭遇したときの対処を聞いた時は
「とりあえず、そこらにあるものを投げつける。その後は適当に対応する。」
と言う趣旨だった。つまり、柔道の名人でも、「物を投げつける」という対応が必要になる。
 ここで、もう少し踏み込んで言えば、
「モノを投げつける時は、顔を狙う。もっと言えば、目を狙う。相手の目が潰れることがあっても気にしない。」
という覚悟が必要である。私たちは、平和な国に育っているので、どうしても相手に傷をつけないようにという心理が働く。しかし、狂暴な精神状態の相手には、そのためらいが命取りとなる。
 大切なものを護るためには、手の一本ぐらい折って、敵対者の体を破壊するぐらいの覚悟が必要である。戦いというものはそのようなものだと、皆がある程度知っておくことが必要ではないかと思う。

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