2009年12月 4日 (金)

2次元図面と3次元CADシステムの違い

 近頃の設計において、コンピュータを使った3次元CADシステムを使うことが多い。
 昔の図面は、2次元平面に記述していた。2次元の情報は限られているので、どのような部分を記述したら、図面を利用する人が理解しやすいか考える、図面作成者の能力が重要である。
 一方、3次元CADの場合には、色々な面からの見方を、自分で試すことができる。従って、設計者はあまり悩まずに、モノを置いていけばよい。
 ここで、皆があまり意識していない大切な違いがある。それは、

「2次元図面で設計する場合には、完成物のイメージが設計者の頭の中で、一旦構築されている必要がある。」

と言う事実である。これは、図面に記述する前に、色々と考えることを、要求している。
 一方、3次元CADの場合には、パソコン画面で色々と組み合わせているうちに、全体イメージが出来ていく。これは、設計者の負担を下げるが、あまり考えていないで物ができると、トラブルに対応できなくなることが多い。
 昔の2次元図面のほうが、細かい擦り合わせで物を作るのに、適しているように思う。

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2009年12月 3日 (木)

専門家の批判を恐れたために~~

 ネット社会での発言は、色々な専門家の目に曝される。従って、専門家の批判を受けることも多い。これを恐れると、うかつなことを言えなくなる。言い換えると自分の一番得意な専門にだけ発言するように閉じこもってしまう。
 しかし、現実の問題を解くためには、総合的に対応する必要がある。その場合情況に応じての妥協も必要がある。また、専門家にとっては、幼稚な成果であっても、その流れでは大きな成果と言う場合もある。
 例えば、『日経ものづくり 12月号』に、
  「女性現場リーダー/成長の軌跡」
では、作業に便利なように工具や部品を準備するため発泡スチロールを使う話しが出てくる。これはこの参加者にとっては大発見であろう。しかしながら、このような道具の準備は、高校生の技能競技の大会でも、行われている。これは、専門家としての突込みであろう。
 しかし、連載全体を見れば、このような改善を自分で考えることが大きな成長であると読み取れる。部分的に読んだ場合に起る批判を恐れず、全体としてよい作品にして欲しい。 

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2009年12月 2日 (水)

”総合”が弱くなる理由

 今朝の朝日新聞のオピニオンは、「メディア衆論」と言う課題であった。そこでは、議論の場が論壇誌や総合誌から、ネット上に移っているというだけでなく、論じ方のスタイルが変化し、全体を取りまとめる「大きな議論」がなくなったという問題提起がされている。かっては、丸山真男氏や清水幾太郎氏のように、個別分野の専門家だけでなく、トータルに俯瞰しようとする立場の人がいた。しかし現在は、専門外に口出しすべきではないと言う人が増えている。(東大松原教授)
 その後の議論では以下の様な展開となっている。

  •  80年代前半が最後の論壇(ニューアカデミズム)それ以降は論壇の影響力が落ちている
  •  言論のパイプが多様化し、大物知識人が存在しにくい
  •  政治経済から家族まで、宗教から性まで一貫した視点でとらえる「グランドセオリー」が失墜したのが大きい
  •  欧米ではグランドデザインを一般読者向けに提示できる知識人が残る
  •  アメリカではマスメディアとアカデミズムを行き来できるが日本は活動場が限定
  •  社会科学のアカデミズムから論壇に出た竹中平蔵氏の評価が問われる
  •  日本の論壇の一翼が文学者によってになわれた意味を考察すべき
  •  日本は新しい思潮は文学を通じて入った。届きやすい言葉で伝えた
  •  現在の文学者が全体について語る言葉を持たない
  •  社会学者も狭い範囲にしか届けない
  •  「ロスジェネ論壇」は社会を動かしたのは一例
  •  日本の学者は専門外の読者に向けて書くことについて無頓着
  •  学問の世界が細分化されすぎ

これを見て思うが、本当の意味の『総合』を身につけ、しかも深い専門性を持った議論のできる、学者が必要である。
 ただ、現在のネット社会の特性を見て思うが、専門分野の意見が沢山あり、それを検索する機能が揃っている。従って、そのような前例を踏まえて議論をするので、専門的な議論に対する入口が広くなっている。昔なら、自分で一から全体図を構築した後でないと、新しい物を発表するのは難しかった。その上で、新しいことを発表するので、自然と周辺まで配慮できるようになった。
 しかし、このような専門意見が多くでることは、若手の研究者を育てるのには、有効だと思う。
 ただし、その次に総合の道も考えて欲しいと思う。

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2009年12月 1日 (火)

ネット社会での専門家の存在

 前に「専門家の判断から一般人の理解」と書いたが、近頃のネット社会では、専門家の意見を直ぐに見ることができる。また、情報が公開されたとき、専門家がそこに意見することも多い。但し、その専門家の間のつながりは、読み手または、情報をまとめる人間の責任となる。
 ネット社会になる前には、専門家の協同作業は、お互いに顔をつき合わせての仕事が多い。従って、相互に理解したつながりが多い。そこで、専門分野間の乗りれも入っていく。
 しかし現在のネット社会では、専門間のつながり無しの話になることも多い。また、ある作品や意見に対し、自分の専門から厳しい意見を出す人もいる。
 このように、専門家の方に力が依りすぎているのが、ネット社会ではないかと思う。総合的にものを考えると、専門家にはない擦り合わせが生じるが、その部分が評価されない可能性が恐い。

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2009年11月22日 (日)

細切れ情報が多くなった

 今思考の整理学が売れているらしい。この本は、色々と考え方のヒントが豊富である。しかしながら、短いエッセイの集まりなので、じっくり理解するのは難しかった。外山滋比古氏と言えば、「α読みとΒ読み」と連想するが、この概念も短い文ではつかみにくい。

 しかし、現在はブログなど短い情報が多く出ている。読み手が、短い情報に慣れてきた。このような状況で、この本が売れているのではないかと思う。

思考の整理学 (ちくま文庫) 思考の整理学 (ちくま文庫)

著者:外山 滋比古
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2009年11月19日 (木)

アイデアが重要か?実行が重要か?

 今の世の中に、解決を必要とする問題は多い。そこで、必要なものはアイデアであろうか?確かに、問題が解決するには、キーとなるアイデアが必要である。しかし、現在のようなインターネット社会では、多くの情報があふれている。つまり、どこかで先行事例が存在する。言い換えれば、アイデアもどこかに存在している。

 しかしながら、物事の解決は、アイデアだけでは不十分である。それを育て、現実との対応をつけて、実行する力が必要である。

 現在必要なのがこの実行する力ではないかと思う。

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2009年11月16日 (月)

書き物の恐さ

 ネットや携帯の普及で、簡単にメールが送れるようになった。そこで、話しをするより、メールの方が楽と言う人もある。確かに電話の場合には、相手の都合が見えないので、気を使うことも多い。そのため、私もついついメールで用件を済ますことも多い。
 ただし、メールは、相手の反応が見えない。しかも情報が残るので、後々尾を引くこともある。特に、苦言のような場合には、相手の顔を見ながら誤解のないように話すことが、有効である。
 しかし現在は、メールになれているので、ついメールすることが多い。しかもこの副作用で文字の情報に抵抗が亡くなっている人もある。そのため、手書きで、苦情を簡単に書く人もある。これは、後に残るので注意した方がよい。手書きのクレームを残したり、送りつけるには、よほどの覚悟が必要である。

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2009年11月15日 (日)

日本人のコミュニケーション

 日本人のコミュニケーションは、話し手と聞き手の間に、ある種の共有感覚があることを、前提としている。そのため、短い言葉や身振りだけで、相互の理解が行われることを、一つの理想としている。極端な話しは、5・7・5の俳句である。正岡子規の写生主義でも、「柿」、「鐘」、「法隆寺」と言う3つのキーワードだけで、その感触を伝えようとしている。
 更に禅問答ならば、手を差し出すだけでも、当人の悟りの心境を評価しようとする。このようなコミュニケーションは、その分野の全体が判っている人が、一番判りやすいと言うか、間違いやすい所を見出して、そこを確認する方法である。確かに技術者の会話でも、相手の技術力を測るために、本当に難しいところを試すことが、行われている。逆に試し方で、相手の技量を測ることもある。例えば、材料力学や構造力学の知識を、長方形の定規を振るだけでも、示すことができる。縦に振るのと、横に振る違いである。また、捻って見せるのも、なお良い。
 さて、このような世界では、知識の有無が、コミュニティに入る条件となる。しかし、現在のインターネット社会では、知識の入手コストが低くなっている。しかも、発言の敷居はもっと低くなっている。そこで、勉強をしてから発言しろなどと言うと、コメントなどで袋叩きにされる可能性もある。これは、インターネット社会が、

「アメリカ文明の社会で、市場参入は封じてはいけない。但し、市場での淘汰を行うので、利用者の自己責任で判断すべき」

と言う、論理で動いているからである。これは、確かに一理ある論理だが、日本的コミュニケーションとは真っ向から対立する世界である。

 小泉・竹中改革が失敗したのは、上記アメリカ式論理を、強引に押し付けようとしたからではないかと思う。但し、専門家に依存が強くなりすぎ、一般人の意見を殺すのも困った物である。そういう意味では、今までの日本は、官僚など専門家が強すぎた。これいにたして現在の政策評価などを、公開する動きは、大きな進歩だと思う。特に、専門家は自分の範囲にこだわりすぎる面がある。総合的な判断は、素人の目がよく行き届くことが多いこともある。

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2009年10月25日 (日)

何故コピペがいけないのか

 大学の先生が、

「学生が、レポートや論文を、コピー&ペーストで作り上げるのはけしからん」

と憤慨している話しを良く聞く。さて、ここで

「何故コピペがいけないのか」

と言う疑問にきちんと答えることができるであろうか?
 まず一つの観点は、著作権の問題である。確かに著作権を放棄していない情報を、著者の許可なしに使うのは、法的違反である。しかし、インターネット上には、コピーレフトと言うことで、コピーフリーの作品も多くある。この場合のコピーについて、著作権で拒絶するのは難しい。(もっとも用途限定を超える場合はある)
 次に、先生方が

「学生のオリジナルな意見」

と限定した出題なら、これは条件違反である。しかし、実際は、レポートにも正解範囲があり、本当のオリジナルと言うことは難しい。

 私の意見で、コピペが悪いのは、

「学生が本当に鍛えないといけない能力の訓練が出来なくなる

からである。学生時代に鍛えるべき能力は、適切な前提を選んで、理論的に推論または論証して、結論を得る。そして、その結論を、現実での経験に照らし合わせて、検証する。特に、前提として選ぶべきことは、一般的な原理が望ましい。
 こうして、学生時代に学んだ知識を現実に適用し、しかも適用限界にあわせて修正する能力が、就職後も生きる重要な力である。
 この訓練を行う機会を、コピペでは失ってしまうのである。

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2009年10月 7日 (水)

三段論法についてもう少し

 現在のような、インターネットによる知識入手機会が増えた場合には、従来のように単に知っていると言うことの優位が無くなって来た。その代わりに、必要な知識を使えるようにすることが重要になってきた。
 これを、三段論法の図式で考えてみよう。従来の「知っている」と言う話しは、大前提を、持っているということになる。他の人が知らない大前提の存在が、優位性となっている。現状に対し、大前提を適用するように、小前提を作っていく。これが、知識ある人間の推論となる。
 しかし、現在は、多くの一般論が溢れている。つまり大前提過剰である。従って、現状の記述である、小前提の部分に当てはめる、大前提の発見が重要である。ここでは、どのように概念を抽象化するか検討することが重要である。
 現在の知的労働者は、このような仕事が必要ではと思う。

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