ご縁のあった人たち

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2020年3月14日 (土)

『平均』に縛られていないか

 現在の科学的文明には、『数値化したモノ』が物を言うことが多い。そこで、社会科学などでは、統計的な処理を行うことで

『数値化して議論』

できるようにすることが多い。これは

「計れないモノは、計れるようにする」

の実践である。このように数値化すると、

『平均』『分散』『偏差値』等

の便利な道具が使えるようになる。確かに、マクロの視点で考えるときには、平均を見て成長や減退の傾向を掴むことは有効である。

 しかし、ここで注意しないと行けないのは、このような数値の一人歩きである。偏差値信仰の弊害は、色々と言われているが、

『平均』

の弊害も出ているように思う。

「世間の平均より劣っている」

これで、強迫的な行動になる人がいる。さらには

「平均的人材ができること」

ができなければ、

「落ちこぼれる」

と焦る人も出てきている。

 平均はあくまで状況をマクロに掴む手段であり、それに捕らわれてはいけない。

2020年3月10日 (火)

本当の反省と謝罪

 ネット社会になって、色々な個人の問題も公開されるようになってきた。そのような情報を見ると、今までの教科書通りの人間像から、幅が広くなっている。まさしく『罪福の相』を見た。

 そこで、『不倫』関連の話から解ったことを書いておく。

 まず、『不倫』は家庭を壊し、しかも伴侶の心を傷つける。これは、多くは精神の被害をもたらし、伴侶に不倫をされた人が『心療内科(実質は精神科ただし消化器障害なども出ることもある)』に通う人が多い。

 さて、このような不倫関係で、その後に修復に成功した例もある。その多くは、

  1. 不倫した側が、心から反省している
  2. 再構築のために努力を惜しまない

を行っている。例えば、それまでは金遣いの荒かった妻が、再構築のために質素に暮らし、自力で慰謝料を貯める。このような、努力が『許される』条件となることが多い。また、不倫相手にマインドコントロールされていた場合には、それが解けると『復讐に協力』した後の謝罪で、再構築に至る例もある。

 しかし、これに至らない例も少なくない。多くは、『不倫をした側』に反省が無い場合である。つまり

   「慰謝料を払えば良いのだろう」

と言う言い方をする場合や、

   「弱い女だからこれぐらいは認められる」

と言う人間である。

 さて、このような人間の反省はどうしたらよいのだろう。

 二つヒントがある。一つは、親の問題であり、困った考えをする親と切り離す後は、本心からの謝罪に至る例がある。もう一つは、本人に『本当の幸せ』を味合わせることである。

   「体目当てでない付き合いを初めてした」

と言う経験から、不倫相手の元妻に、心からの謝罪ができた例もある。

 このように考えると、反省の条件に

 0.本当に善いモノを知っている

と言う前提が必要だと思う。

2020年3月 4日 (水)

人間の多様性について

 ネット社会では、色々な情報が出てくる。そこでは、人間の多様性も見えてきた。

 例えば、罪を犯した人の行動に関しても、その後に自らの非を認め、しっかり償おうとする人、自分の犯したことに向き合わない人、色々な人がいる。

 これを見たとき、昔カウンセリングについて習ったときの『性善説』的な発想

「人は自ら良くなろうとする潜在的な力がある」
だから
「自分のことを受け入れてくれる人の力があれば良くなっていく」

の限界を感じてしまった。

 しかし、一部でも

「自分のしたことに向き合い反省し、善くなっていく人もいる」

ことも確かである。これは、学問と関係する(高学歴補でも品性下劣者はいる)問題ともいえない。ただし、周りの扱いで、少しでも善くなる場合もある。本人が気づくことでの変化も大きい。

 これができない人が一部いるが、その一部に捕らわれて、救える人を救わないのはだめだろう。このような、「悪の多様性」にもきちんと目をむくれるべきだろう。

2020年3月 3日 (火)

社会の分断を招いたのは誰か?

 今朝の朝日新聞を見たら、(争論)ネットが社会を分断?と言う記事があった。偉い大学の先生達の議論なので、謹んで読ませていただいたが、その中で分断の理由の一つに

「相手を論破しようとする」

傾向があるという指摘がある。これは確かに、現象的にはそのような、『論破』の試みの後、自分の意見に賛同するコミュニティに入り込み、分断が進むという傾向はある。

 しかし、この原因をもう一歩踏み込んで議論してほしい。なぜ『論破』にこだわるか、この議論が必要だと思う。

 私がこの記事を見て、笑ってしまったのは、『争論』という言葉が示すように、この記事構成が対立した意見を述べ、しかも

「お互いが相手より正しい」

と言う、『論破』の形になっていることである。この記事を見ても、相互の歩み寄りなどが見えてこない。

 こうして、社会の模範になるべき、大学の先生達が、お互いに『論破』使用とする姿を見せる。これを見て、まねをする人が出てくる。特にネット社会ではSNS等で、情報発信のハードルが低くなっている。この状況を考えると、『論破』したがる人間は増えてくると思う。

 この問題に対して、一部の知識人達からは

「博士課程の訓練を受けていない『低学歴者』は、黙って我々『高学歴者』の言うことを聞け」

と言う、論争資格を制限する向きもある。確かに、ヴィーコが指摘したように、学問の方法として、『聴講生』段階を重視し、論争方法を理解した人間だけに発言を許す制度はあると思う。

 しかし、現在の一部知識人の言い方は、

「分断を招く」

発想ではないかと思う。

2020年2月29日 (土)

NET社会の効用について

 先日書いた、学校的理想社会の対応について、ネット社会の動きについて少し考えてみた。色々なトラブルが発生したとき、学校などでは、

「被害者側に対して冷たい」

対応を取ることが少なくない。この理由は、先日の記事にもあるように

「理想化したモノしか考えない」

現在の日本社会の本質的な欠陥でもある。このような社会の『立派な』教師達は

「いじめなど存在しない」
もしくは
「恨みの気持ちなど持たず直ぐに許す」

等という、『理想的社会』『理想的人材』発想でしか考えない。

 しかし、現実の人間の感情は多様であり、心の傷の影響も色々とある。

 現在社会は、これを受ける場所として、ネット空間が働いている。一昔前の2チャンネル、現在のSNSが、被害者の生の声を聞き、それに対して色々な反応を示す。確かに、被害者をもっと傷つける『セカンドレイプ』的なモノもあるだろう。しかし、被害者に素直に

「共感し受け入れる人」

 が存在するのもネット空間である。O市のいじめ問題も、ネット空間の力が問題明確化に大きく働いた。暴走も一部あったが、被害者遺族の応援もあった。

 このように考えると、ネット社会は今までの『理想社会』を変える力がる様に思う。

2020年2月18日 (火)

怒りの発生について現在社会を見る

 怒りへの対照法について、考えるために天台の摩訶止観を読み直してみた。『瞋恚』の対処を見ると

「慈悲の心で対応せよ」

となっている。これは

「単純に甘やかして許せ」

ではなく

「法界を造る仏の立場で親として考える」

と言う大きな慈悲である。

 しかし、天台大師が摩訶止観を説いた6世紀と現在は大きく異なっている。これを比較しながら、『現在人の怒り』を見てみよう。

 6世紀と現在の違いは、社会構造の複雑さと、仕組みの違いである。学校制度という教育システムと、マスメディアやネットワークメディアによる多くの人からの影響である。

 ここでは、強制された人間関係や、評価がある。この強制による怒りは、直接の人間関係によるモノもあるが、制度上の問題が大きい。例えば、給与などで

「自分が正しく評価されていない」

と言う怒りを持つ人は多い。

 一方、6世紀の様に、面と向かって話す、直接的な人間関係なら、慈悲の心も起こしやすい。

 このように考えると、

「現在の『怒りの原因』は、間接的で絶対的ではない」

と言う見方で対応すべきではないかと思う。

「全てが『空』である」
「仏の目で見れば今まであったことは小さなことである」

このような見方で対応すべきではないかと思う。

2020年2月16日 (日)

怒りへの対処法

 昨日書いた、怒りに対する話をもう少し考えてみた。これは、色々と難しい面がある。まず、怒りの感情が暴走して、自分や他人を傷つける、これはできるだけ避けるべきである。しかし、

「怒りはいけません」

と無理に押さえつけると、鬱病にまで至る危険性がある。また、鬱からの回復が行き過ぎると躁状態になったりして、他人への攻撃的反応が出ることもある。

 このように考えると、怒りに対する対処療法は、どうも危ない。

 もう一つ、仏教の智慧を探ってみた。摩訶止観などでは

「瞋恚(怒り)が出れば、慈悲の心で対処せよ」

とある。これに関しては深く修行すれば、実行があるだろうが、中途半端に

「慈悲の心を持ちなさい」

だけでは対処療法にもならない。なお、天台大師が摩訶止観を説いた時代と現在は大きく変わっている。個人に対して、社会的な関与が大きく、しかもネット化した社会なので、個人が社会に発信する機会も増えている。このような時代の背景を考えた対応でないといけない。極論すれば、フロイトやユングのみた世界とも別の世界に生きている。

 さて、私が考える、怒りへの対処法のアイデアは以下の通りである。

  1. 自分に本当に降りかかっている問題への怒りに絞る
  2. 社会的な問題などは客観的に見る
  3. 自分で解決できることを明確にして対処する

つまり、感情を動かすことは、自分に直接かかっていること、しかも現実に今起こっていることに絞っていく。一方、他人の話や社会的な現象などには

 「距離を置いて客観的に見る」

ように努める。確かに、共感は大事であるが、取り込まれてはいけない。その人達を

「苦しんでいる!かわいそう!」

と見る。しかし、そこで自分を爆発させない.これが大事だと思う。距離を置いて、

「自分でできる本当の解決に役立つこと」

を見いだす。

 なお、過去の自分も.ある程度客観的に見るべきである。

「(子供のような過去の自分に)つらかったね!」

と語りかける。このような姿勢で、感情の爆発を抑えながら、

「本当に怒るべきことにだけ」

を見いだすことで、大分ましになるのではと思う。

(続く)

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-7e221b.html

 

2020年2月11日 (火)

多様だが複雑ではない場合の考え方

 ネット社会では、色々な人の意見が出てくる。この人達が、

「自分の意見に従え」

と言い出すとトラブルが多くなってくる。特に、SNSの場合には、自分の書き込みや、閲覧履歴をサービス提供側が見て、自動的に

「その人に会う情報を提供」

ようになって、雪だるま式に膨れ上がっていく。

 さて、ここで大事なことは、

「人間の(経験の)多様性」

である。人の感じ方は、今までの経験や興味の持ち方で大きく異なっている。しかも現在のようにネット環境が充実し、更にゲームが普及しているので、そのゲーム内での経験が、蓄積されて考え方まで影響を受けている。ゲームの体験は、多様に渡るので、若い人でも、年寄りの予想できない観点で、深い考えにつながることがある。状況によっては価値観のような根本まで変えることもある。

 しかし、ここで言う深い考えは、価値観などと言う意味で、論理的な複雑さという意味ではない。見方を、その人に合わせると、すぐに理解できることが多い。例えば、ゲームの登場人物で、

「自分の夢を教え子に託す」

と言うストーリーを経験すると、色々な指導者との関係で

「夢の押し売りをしてくる」

と拒否感を持つ場合がある。

 このように、発想の多様化に対応すべきであろう。

 このとき、知識の扱いは、多くの物事を説明する一般原則から演繹的に展開する形ではなく、広く網のように広がる形で身につけるべきである。

「一羽の鳥を捕らえるのは一つの網目、しかしどこに鳥が入るかは解らない」

これは、天台の摩訶止観に出てくるが、多様化時代の知識はこのようなモノかもしれない。

 なお以下の記事も参考にしてほしい。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-473c.html

2020年1月31日 (金)

いわゆる『秘伝』の扱いについて

 昨日書いた、『情報の独占による権威維持』という問題について、もう少し議論を深める。今回議論するのは、武道などの『秘伝』の使いである。実は、武道の『秘伝の技』の伝え方には、大きく分けて二種類ある。一つは、初心者の習う技のなかにも、極意技が隠されている。ただし、その解釈が伝わっていない。この解釈は教わる場合もあるし、自分で掴んだことを師に示し、確認を得る場合もある。一方、技自体が冠¥全威嚇されていて、伝授されないとわからないモノもある。

 前者の例では、例えば剛柔流空手の入門で習う、撃砕という型には、相手の突きを受けて、中段蹴りを入れ、肘打ちをして、裏拳を打ち込み、払って中段突きを入れる動きがある。この技にも必殺という側面が隠されている。詳しく書かないが、空手の個人鍛錬器具には、中段受けの形から、相手の手を掴み、引きずりながら肘当てをする、このような道具で繰り返し鍛錬していることからも想像してほしい。単に受けるというのではなく、相手の手をつかみ攻撃する。これは、ボクシングなどでは反則だが、相手を倒すためには有効な手段である。しかし、単に受ける動作が、受けながら摩擦を上手に使って、相手の手を引き込むようにできるには、それなりの修練が必要である。そのように個人の鍛錬が、きちんとできたときに、この型の本当の意味がわかってくる。こうした意味は、準備ができていないときに知れば、かえって基礎鍛錬をおろそかにしてしまう。

 一方、後者の隠し技的なモノは、なかなか公開されていないが、柳生心眼流の小太刀の、左右遣いなどがあるだろう。右手で切りつけて、躱されたら、小太刀を体の後ろに回して、左手に持ち替えて左半身からの攻撃を行う。相手は右手を想定しているので、不意打ちの効果がある。しかし、これは知っている人間には通用しない。これは、隠していることの効果である。

 一般に、一つのアイデアだけに頼っているモノは、それが見えると、多くの人にまねされてしまう。従って必死で隠そうとする。太平洋戦争の敗戦後、アメリカは日本の潜水空母(爆撃機を搭載できる大型空母)を全て、と言っても二隻だが確保し、研究し沈めてしまった。これを、日本の技術が高いから、アメリカが勉強したという人もいるが、私は

「アイデアが漏れればまねされる」

ことを恐れたのだと思う。残念ながら、日本の潜水艦の工作技術は、ドイツやアメリカには劣っていた。そこから学ぶべきモノは少なかったが、

「大型潜水艦を作り実用的な爆撃機を載せる」

と言うアイデアが、ソ連に渡ることは、アメリカは避けたかったと思う。

 現在は、ネット社会であり、先ほど書いたように『秘術』も、どこかで情報漏れを起こしてしまう。

 しかし、基本的な技やスキルが身についていないと、使いこなせない技は、極意習得として差別化できる。この点をもう少し考えるべきだと思う。 

2020年1月26日 (日)

時代の『空気が』薄れていく実感

 私が関西人だからかもしれないが、近頃、阪神大震災の関連のテレビ番組を時々見る。この番組を見て、25年前の今頃とは大分変わった取り上げ方だと思った。そこで、当時の私が直接感じたことで、現在は報道されなくなったことをもう一度書き残しておく。

 一つは、震災直後のテレビ番組での扱いである。私の印象に残っているのは一つ目は、○平連の活動で有名なO氏が

「土建行政の神戸に天罰が下った」

と番組中に言った言葉が印象に残っている。当時は、左翼系の活動家はこのような罵倒をしても、糾弾されることはなかった。同じ番組の中では、自衛隊の出動が遅れた件移管しても追及があった。そこでは、後に都知事になったM氏が、神戸市や国政の対応を追求していたが、神戸市は冷静に

「それは県のマターです。」

と対応し、一方防衛庁側は

「我々は、兵庫県に連絡官を派遣し
『何か役立てることは』
まで言ったのに兵庫県から依頼が出なかった。」

と証言していた。

 このような状況は、東日本大震災時は大きく改善されたと思う。

 また、今朝のNHKでは、神戸新聞の当時の活動を後輩に伝える状況を報道していた。これに関しては、当時『神戸新聞の100日』という本が出ていたが、これに東京のある大学の先生が

  「単なる感傷」か「自己陶酔」

という風な酷評をしていたことを思い出した。

 このような空気が25年前にはあったが、これが現在は報道されなくなっている。

 確かに、当時の様な発言をしたら、現在ならば、SNSの力でかなり叩かれたであろう。それでも、当時の「知識人」が動かしていた世論があったこと、これをきちんと残しておくことは大事だと思う。

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