ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

2020年7月 4日 (土)

新型コロナ対応の責任ある説明はどうあるべきか

 今回の、新型コロナ対応の政府、学者の説明は何か、個別の話という感じになってまとまっていないように思う。特に学者の説明が個別に出ている。これは、

「専門があるから」

と割り切るべきだろうか?

 そこで、昔読んだ社会学の古典を思い出した。

「理論構築の方法」J.ヘイグ著 小松陽一、野中郁次郎訳

が展開している方法論で、現在の状況を説明できるのではないか?

 例えば、定性的な理論概念とその連結での説明と、特徴抽出を行った、オペレータとその数値的な扱い。グラフの形、特に外の要因が入った時に起こる折れ線グラフ等がある。

 このような説明が現在の状況では大切だと思う。

2020年7月 1日 (水)

正しいものは作られたもの

「正しいと言い切れるモノは作られたモノだけである」

この言葉は、社会学の祖と言われている、ウ゛ィーコが、デカルトの厳密なる思考方に対立して言った言葉で、人間の力の限界を示している。確かに、自然界の物事で

「正しい」

と言い切れるだろうか?何らかの不確定要素が存在する。これに対して謙虚な対応を求めた言葉であろう。

 しかし、これは西洋文明の、人間の力を有限とする立場である。仏教の一部では、人間の力を仏の力と同じと見る。

 法界体性智と言うように、「法界」自らの体であり性である。この力で創造し、その責任を取る。これが仏の力だと思う。だから、「正しい」と言い切れる。

2020年6月30日 (火)

専門家会議という組織について

コロナ対応の専門家会議について、色々な議論が出ている。

このblogでは、「専門家」の位置づけについて、色々な切り口があるので、少しお付き合い願いたい。一つ目の議論は、

   「感染症の専門家出ない人が口出しするべきではない」

という論点である。確かに感染症の専門家は、ウイルスの伝搬等にしっかりした論理展開が出来るだろう。但し、今回の問題は社会への影響など医学の範囲すら超えている。そこでは、多様な専門家の議論が必要である。

 確かに

   「原子力の先生が?」

という疑問は出るだろう。

 しかし、

   「統計データの読み取りと、特徴抽出と、一般市民への安心説得」

というなら、原子力の分野はそれなりの蓄積があり専門家といえるだろう。

 さて、ここである大学の先生が、「ポランニーの暗黙知」を持ち出していた。確かに、ポランニーは、近接領域の相互評価の輪で、専門家の会議が成立する、という議論をしている。これを文字通り読むと、「なんで原子力?」となる。

 しかし、ポランニー自体も多様なる活躍をしている。そこでは、科学的な思考スキルの保有者の集団の力を認めており、ここで多様な分野の専門家の会議もあると思う。

 なお、私が現在主として信奉している「日本教」発想では、専門家の発想を多くの人が理解できる可能性を認めている。これが大阪モデルの成功の理由ではないか?

 病院からなのでタブレット利用のカキコミなので乱れたらゴメン!

2020年6月27日 (土)

ステークホルダーに関する議論

 株主総会シーズンが終わりつつある。そこで、

「会社は誰のモノ」

という議論が、出てくる。前は

「株主最優先」

だったときもあったが、今は、

「従業員、お客様、地域への貢献、株主」

等等を考慮しないといけないという議論になっている。

 これを、MBA等の理論では

「ステークホルダーの利害関係を調整しろ」

という言い方で、関係者を列挙し、利害関係を明らかにし、譲れるモノと譲れないモノを明確にすることで、調整していく。

 一方、我が国には

「売り手よし、買い手よし、世間よしの、三方よし」

という言葉がある。この違いは、氷山モデルの議論の実例となっている。

 確かに理論化するときには、全てを列挙する必要があるだろう。ただし、日本教的な、

「その場を想像した議論」

では、人や社会のイメージで、十分伝わっているように思う。

2020年6月25日 (木)

氷山モデルの『日本教』的な考察

 知識の使い方などで、氷山モデルという例えがよく出てくる。例えば、意識と無意識という議論である。

 しかし、このような氷山の水面下の部分について、私たち『日本教』の信者には、

「何かあるのは解っている」
「何となく感じている」

ことが多い。

 しかし、西洋文明では、

「定義されていないモノは見ない」

と言う発想がある。これは、アルファベットの文字列で考える場合と、漢字仮名交じりのイメージの働く推論の違いだと思う。

 例えば   

   ”line” と 「線」

と言う言葉で考えても、「線」と言う文字には、糸偏の「糸のイメージ」や旁の「泉から水が流れるイメージ」という含みがある。

 こうした意識していない、イメージの働きが、氷山の水面下を思いやる働きに通じていると思う。

 

2020年6月22日 (月)

智慧の大衆化に関してもう一歩議論が必要

 前に書いた、知識の大衆化と智慧の大衆化に関する議論と関連して、西洋文明と『日本教』の立場の大きな違いが見えた。つまり

      西洋文明:人間は限られた知恵しか無い

      日本教(大乗仏教):衆生にも仏の智慧がある

という、人間の知恵の可能性に関する信仰の違いである。可能性を信じなければ、何事も成功しない。

 西洋文明では、

「神様の智慧には人間はとても及ばない」

という基本的な思想があり、更に人間の間にも、

「哲学者の智慧だけが真相に迫れる」

という、階層的な発想がある。

 一方、日本教の基本的発想は

「話せば解る」
つまり
「皆が理解できる知恵がある」

である。

 さて、この問題に関して、もう一つ議論すべき、専門化領域の問題がある。例えば

  • 法律の専門家:法的三段論法などの知恵の使い方
  • 学者:該当分野の専門の議論の仕方

等がある。これらは、専門家に任せる法が上手くいく場合がある。 

 しかし、それでも、

「結果について説明を受け、理解する知恵は皆にある」

という発想は、日本教の信者には大切である。

2020年6月19日 (金)

知識の大衆化か?智慧の大衆化か?

 昨日書いた、知識の大衆化の議論を読み返すと、もう一つ大きな問題点が見えてきた。今回議論したいことは

智慧の大衆化

についての議論である。これは、西洋文明を見ると、プラトンの「国家」が示す『哲人政治』の発想で、

「本質に迫る思考は、哲学者が持っている」

という

智慧の独占発想

がある。確かに、厳密な思考能力は、厳しい訓練で身につき、その力でないと達成できない境地もある。この力で、多くの問題解決を行って近代文明を切り開いた功績は大きい。

 しかしながら、日本の文明にある

衆知を合わせて解決する

発想も、捨てるには惜しい。全員参加の効果は色々な改善活動などで力を発揮している。

 そのためにも、日本語の

『直観的な表現力』

を上手く活用することも大切ではないかと思う。

2020年6月18日 (木)

アルファベットは知識の大衆化に役立ったか?

 マクルーハンのメディア論によると、

「アルファベットは、象形文字の難しさから、表音文字の単純化により、知識の大衆化に役立った」

とされている。確かに、エジプトの複雑な象形文字を独占した神官の特権は、

「表音文字によって、話し言葉との言文一致で記述する」

大衆化が行われただろう。

 しかし、完全な表音文字化したときには、

「文字列に対して、きちんとした定義を行わないと、厳密な議論が行われない」

という新たな問題が生まれている。つまり

「文字列により議論や推論できる階級」

の出現である。プラトンはこれを『哲学者』と読んでいる。

 一方、表意文字を使ったときには、文字の直観的要素から、定義が無くても共有感覚が生じ、

「何となくイメージで理解する」

ことができる。これが

「日本語による知識の大衆化」

に役だったと思う。

 

 

2020年6月16日 (火)

日本教の失敗のパターン

 「日本教」について、このブログで何度も書いているが、どうも

「日本教礼賛」

となってしまう傾向がある。

 しかし、「日本教」的な指導には大きな欠陥がある。それは、

「一度動き出したら修正が難しい」

という問題である。

 この事例は、多くの倒産した会社の場合や、第二次大戦の日本の戦争指導を見れば解るだろう。つまり

「小幅な修正能力はあるが、抜本的な見直しは難しい」

という欠点である。

 これに対して、山本七平は

「明治の日本の指導者は、自分で別案を持っていたから修正できた」

と指摘している。

 これは、日露戦争時の戦いを見れば明らかである。旅順攻防戦でも、乃木司令部は、試行錯誤し学習している。第二次大戦の硬直した指令とは全く異なっている。

 この理由は明確である。

「日露戦争までは、実戦経験を積んだ人間が、自分の体験を生かしながら戦争指導を行った」
一方
「第二次大戦時代には、教科書で学んだ秀才が、戦争を指揮した」

という違いである。

 なお、今回の大阪府の指導者達は、実践を通して学んで修正したいるように思う。

 

2020年6月13日 (土)

専門家の意見の活用法

 大阪府が、新型コロナウイルスの専門家会議を開き、これまでの対策の見直し検証を始めた。これは大事なことだと思う。

 ここで大事なことは、

「専門家の役割について、政策実行者が理解しているか?」

ということである。

 もう少し言えば、

「専門家は、自分が決めた範囲の力を発揮する人」
であり
「全てについて力を発揮する人でない」
ということを
「理解するして評価するのが総合的政策決定者の責任」

という議論ができているか?

 例えば、ある専門家は、

「最悪条件の積み上げでモデルを造って、無策の場合の悲劇の警鐘を鳴らす」

これは、一つの警告であるが、最悪条件の積み上げなど、実際はまず起こらない。そこで

「この専門家の数値が当たらないと批判する人」

がいるがこれは間違っている。彼は、

「専門家としての警鐘をならす役割」

であり、これを活用するのは、政治なりマスメディアの解説である。

 また、今回のコロナ専門家については、

「ミクロな感染プロセスの専門家」

「マクロな感染状況の数値化データ解析の専門家」

の識別も必要である。大体、

病気の話に「核物理学者」が出てくるのか?
京大の山中教授ですら、感染症の専門家?

という突っ込みがないのがおかしい。

 なお、今回の議論では

  1. 数値的なデータの解析は物理学一般の基礎的な力であり、数式の扱いに慣れた物理学者が予測する力はある
  2. 山中教授は医療行政全般を指導する立場での実績があり、今回も総合的な視点で発言している

という答えが「専門家の活用法」としては出てくると思う。

 なお、もう一言言えば

「数値モデルの予測に対して、
ミクロな構造をモデル化し、
因果関係を定性的に説明する、
感染症対策の専門家からの発信」

があるべきだと思う。そのようにして、数値結果の信頼性や適用範囲が見えてくる。このような科学的姿勢の方法論は、社会科学の方がしっかりしていると思う。

より以前の記事一覧