ご縁のあった人たち

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2020年3月29日 (日)

学問知識は成長したが感情面の豊かさは?

 昨日書いた、本当の納得に関する議論で、もう少し思いついた。つまり、

「現在の学校教育で成長するモノは何か?」

と言う問題である。もう少しこれを分けると

  • 学校教育に期待しているモノ
  • 実際に身につくモノ

の誤解があるように思う。つまり、多くの人が学校教育に期待するのは

「学校教育によって『全人格的に』成長する」

である。確かに、学校生活や交友関係、部活動などにより

「知識以外の面も成長する」

可能性は大きく、実際に成果が出ている。例えば、採用面でも

「四大卒の方が人間的に成熟している人が多い」

と言う感想がある。

 しかしながら、学校側の最低限の責任は

「知識などの教育」

であり、感情面や人格面の成長は副産物という扱いである。

 もう少し踏み込めば、

「経済面など家庭事情などで、友達交流できない子、部活もできない子」

等の、『知識外の成長』は学校の責任とはいえない。

 こうして

「感情面や対人スキルなどの成長ができなかった子」
特に
「成績だけが優秀な子」

は、この後

「自己責任で対人関係を切り開け」

となっているように思う。しかしながら、生活体験が貧弱な場合に、このような切り開きができるのであろうか?

 これで本当に上手くいかないから、色々な歪みが出ているように思う。

2020年3月28日 (土)

反省するときの注意点 その2

 先日から書いている反省の話にもう少し思うことを書かせてもらう。昨日までの話は以下のリンクを見てほしい。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-7943c3.html

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-db048f.html

 さて、今日気がついたことは、

「反省の前に『本当に良い』とは何か解る、納得するか?」

である。もう少し言えば

「『本当の幸せ』を知らない人間が、反省できるのだろうか?」

と言う問題である。

 この問題をもう少し突っ込めば

「『本心からの感動』を感じたことがあるか」 

と言う問題に行き当たる。『喜怒哀楽』と言うが、教科書の当てはめられて、強制的に

「『官製感動』を押しつけられている。」
(国語の試験で良い成績になるためには、教師の○が着くところで、『感動したと言う』)

のではないかと思う。

 自分の心に正直に向き合う。しかしそこで自滅しないし、他人を攻撃しない。このような道を求めることが本当の反省になると思う。

 まだ続きます

2020年3月25日 (水)

AI時代には因果関係の単純化が使えなくなる

 仏教に関して色々と勉強するときには、現在の西洋文明的な思考法を、捨てるとまでは行かないが、ある程度押さえないと行けない。もう少し言うと、

「科学的な思考法の便利さ、力に頼りすぎる自分への反省」

が必要になる。つまり、

「太陽系のモデル、車のエンジンのモデルなどのように、単純化して理解する」
「原因ー結果」
が明白になっている

世界観を使うのではなく、

「一気に全体を観て、直接的な因果関係だけでなく間接的な縁まで考える」

必要がある。

 これを単純化した話で考えると

西洋文明的思考:「卵が原因、鶏がその結果」
仏教の思考:  「卵と鶏はお互いが原因であり結果でもある」

と言う図式になる。

 しかしここで、AI時代のビッグデータ活用となると、単純な

「原因ー結果」
図式でなく
「多くの縁の絡まり」

を見ることになる。多くの因子が絡まった結果が、今起こっていることである。

「現在発生していること自体が、次のことを引き起こすだけでなく、自分自身の強化や、フィードバック修正を行っている」

このような複雑なシステムと向き合うことは、既に六世紀に天台大師が摩訶止観で説いている。これをもう一度見直すべきではないかと思う。

2020年3月23日 (月)

現在社会は西洋文明の限界を超える発想が求められている

 現在の社会は、高度な専門家の発言が力を持っているが、本当にそれだけでよいのだろうか?例えば、今回のコロナ騒動においても、病気の伝搬の専門、検査の専門などの各分野の専門家が色々と発言している。しかし、このような専門家は、自分の担当範囲の視点での発言が多くなる。例えば、

「コロナの検査をできるだけ広く行うべきである。現在の検査は少なすぎるから、潜在的な患者を見逃している。」

と言う発言は、感染状況を研究している立場では当然の発言である。しかし、現在の制度では

「コロナ感染した人全てを入院隔離させないと行けない」

となっているので、

「軽症者も含めて多数の入院患者が出ると医療が崩壊する」

と言う可能性がある。

 こうした全体像を見て、総合的な判断を行うのが政治である。

 さて、このような専門化は、やはり西洋文明の影響が大きい。使用文明の基礎にある物理学は、

「物事を単純に理想化し、その上での因果関係を明確にする」
つまり
「専門的な範囲に視野を絞って深く考える」

ことで大きな成果を生み出した。

 この発想が現在強くなりすぎている。

2020年3月22日 (日)

少しの幸せを味わえるか?

 先日から色々と思うことがあったが、自分が今まで生きてきた中で、

「少しの幸せ」
「平凡な中の幸せ」

を感じ取る力が弱かった、と言うことが解った。

 これは、学校教育などで言う

「0と1をはっきりさせる」

考え方に、私が過剰適応していた結果でもある。

 しかし、人間が生きていく上では、色々な物事が起こるが、その中で

「小さな幸せ」
「少しの違い」
「小さな暖かさ」

これを見いだす力があれば、もっとよくなるのではと思った。

 別の見方をすれば、私は大学院の博士課程(現在なら後期)進学を諦めた身である。しかし、「在野の研究者」としての県産はある程度行っていた。しかし、在野の立場で博士号取得は並大抵のことではできない。そのため

「理論的研究の大テーマ」

に固執して、結局論文は書けなかった。大学院に行き直せば、適度なレベルの研究成果で論文をまとめて、段階的に成長することもできたであろう。

 このように考えると、「小さな違い」に敏感になって

「少しの幸せを味わい感謝する」

ことが本当の幸せを掴むために大切だと解る。

 なお、この話に関しては、僧侶・修験の大先達「かとうれい師」の説法で気がついたことが大きい。

 https://twitter.com/ReiTS14/status/1241302165127188480?s=20

 説法のYoutubeはこちら

2020年3月19日 (木)

平安時代の仏教からわかること

 先般から書いている、昔の仏教の話に関連して、平安時代に起こった変化についてもう少し考えてみたい。従来から言われていた、平安時代の仏教の変化は、空海・最澄の唐からの正統的かつ最新の教えの伝来である。

 しかし、空海は既に、唐に入る前に密教修行を行っていたし、最澄も止観の修行を行っていた。これを考えると、

「遣唐使による文化交流で新しい仏教が日本に伝わった」

と言う表現が、正しいのだろうか?確かに

「曼荼羅や多くの経典により、体系的な仏教が伝わった」
「国家としてそれを受け入れた」

と言う言い方はできるだろう。

 ここで、一つの新しい文化が、導入されて成功するヒントがある。それは、

「既に部分的にいくらかの先駆者が触れている」
「彼らの支持者は存在するが多数派ではない」

と言う土台があると

「一気に新知識の体系を持ち込み、既存の活動などをまとめ込む」
「これで爆発的に普及する」

と言う手法である。今までモヤモヤとして持っていた者が、全体的な図式を見て整理されると、ブレークスルーを起こして一気に解決に至る。このような状況がある。

 新技術の導入などに考えるべき手法である。

 この応用として、新技術普及時に

「従来行っていたことも、新技術の不完全な利用で、あなたも先駆者です」

と言って、巻き込む手法も有効である。

2020年3月18日 (水)

主観的と客観的だけか

 先日から読み直している、NHK出版の「仏像ー心とかたちー」の最初の章「仏像のこころ」の中に、仏像の見方を

  1. 叙情詩を描く主観的な見方
  2. 美術史などの観点から客観的な見方

と二つに分けていた。私たちはこのように、主観的/客観的と対比することが多い。しかし、この二分法でよいのだろうか。私はもう一つの見方があると思う。それは

  • 創造者の観点から見る

見方である。これは法華経の教えがヒントになるが

「世界を造る親の立場で皆を見る」

と言う見方である。仏像の見方では、

  1. 仏の教えを伝えるために、どのような仏像を造るべきかを考える
  2. 仏像にどのような思いが込められているかを考える
  3. その仏像が造られた時代の状況を考える

等を考え、

「自分で仏像を造るならどうするか」

と言う風に「主体的」に考える。この発想があるのではと思う。クリエイター達は既にこれを行っている。

 現在社会を本当によくするのは、このような考え方ではないかと思う。

2020年3月17日 (火)

実用的でないものが尊ばれる

 昨日書いた、薬師信仰の現実主義に関して、

「戦前の日本では,功利主義や実用主義はほとんど思想として認められなかった」

と言う部分について,もう少し議論しておく。

 まず、戦前の日本という限定なら、この問題の原因は比較的明らかである。つまり、

「西洋文明を伝える学者様は、実現の細部などの下々のことは知らなくてもよい」

と言う発想である。例えば、工場などの物作りでも

「大学卒の設計者が概要を決める。それを現場の職人の技で実現する」

と言うことで

「実用化する匠の技」< 「高学歴者の思想」

と言う評価図式がある。極端に言えば

「英語が読めて、外国のお手本を紹介する人が偉い」
「実現するのは下々」

と言う図式である。

 しかし、これは戦前日本だけだろうか?

 私は,もっと深い理由があると考える。私の仮説は以下の通りである。

  1. 日本人の発想は,指導者に現実の解決を求める(実用主義)
  2. しかし、現実論として「指導者に解決できない問題」は存在する
  3. そこで、「指導者ができない」と追求すると指導者交代になる
  4. 指導者交代による混乱は、現状より悪くなる
  5. 従って、「実用的な答え」を求めないで黙っておく

と言う,「現実主義」的な発想があるのではと思う。

 この話、「なぜ安倍政権が続くか」という議論にも使えそうだな(笑)。

2020年3月13日 (金)

6世紀の仏教の修行法

 天台の『摩訶止観』を読むときには、天台大師が説法した六世紀の世界を思いやる必要がある。現在、私たちが当たり前と思っていることが、その時代にあるかよく考えてみると、現在の私たちの物の見方のひずみが見えてくる。

 当時の環境を考えると、紙は貴重品であり現在の学校教育はない。つまり、教科書もないし、ましてや懇切丁寧に説明した参考書なども存在しない。逆に、仏像を作る手間が、絵画での伝達と比べてても、それほどの負担ではなかった。また手書きで経典を写す手間も大変だった。この状況を考えると、教えの伝達に仏像の力が大きな意味があると解る。現在なら、『慈悲』という概念は、まず言葉による説明で伝える。このために、教科書などの道具がある。このため、

「私たち現代人は、学校教育で身についた思考法に縛られている」

ために、それ以外のモノが見えなくなる。例えば、近代科学的発想の一つ、ガリレオの

「測れるモノは測れ、測れないモノは測れるようにしろ」

の後ろには

「数値化できないモノは見落としてしまう」

と言う危険性がある。

 これを、六世紀の修行と比較してみよう。当時の知識では、

「科学的な知識による因果関係」

は私たちと比べれば、ほとんど持っていない。

 そこで、彼らが修行で得ようとするモノは何か?一つは

「仏の智慧を得て、この世界の苦しみから解放される」

ことである。そこで『仏の智慧』とはどのようなモノであろうか?

 この答えは、法華経にある。一つ目は、十如是の教えである。諸法の実相は、

相(外見)、性(本質)、体(構成)、力(潜在力)、作(働き)
因(直接の原因)、縁(間接的な影響)、果(直接的な結果)、報(間接的な影響)
が、本末究竟(総合的な作用している)

であり、このような複雑な相互作用を観るのが、『仏の智慧』である。大乗の教えは

「この智慧が、我々衆生にもある」

と説いている。

 そこで、このような智慧を自分で体感することができるだろうか。

 天台の摩訶止観が説く『円頓止観』は、全体像を描くことで、このような複雑な絡み合いを、観る智慧を体感させようとしている。その一例は

「心・意・識の三者は、一つではないが、三つバラバラでもない」

と観ることである。自分の心の中の感情が、意識の世界とどのように関わるか、別なモノでもないが一体でもない。このような、

「西洋文明の科学的思考法では矛盾」

を、全体像を見ながら体験する。

 この修行は現在こそ必要ではないかと思う。

2020年3月 5日 (木)

議論の底にある「日本教」的発想

 先日書いた,論破による分断の話に関連して、「日本教」の発想で少し見えてきた。

 今回議論したいのは、「日本教」の影響下の議論と,西洋文明の前提での議論の違いである。つまり

  1. 「日本教」の発想では、神様とその代理の人間が、全体像を持っている
    この場合、決められた枠の中で正解が存在する
  2. 「西洋文明」の発想では,人間は有限の部分的知識しか持っていない
    従って,お互いの知識の持ち寄りで,少しでも善くしようと努力する

と言う違いである。なお、「日本教」でも,同じ「世界観」の中での,見落としの修正や,精度向上などでは協力関係も成立する。しかし、世界観の違う者の間では,戦いしかなくなってしまう。

 一方、人間の限界を信じている場合には、お互いの断片を持ち寄って,全体像を構成する協力関係が成立する。弁証法はこのための道具である。この違い意識することで,もう少しましな議論ができると思う。

 

 

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