ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

2020年6月21日 (日)

病気と後天的なモノの違いについて

 先日、HSPについて、解説資料を読んだ。この人たちの状況に関連して、発達障害者の過剰適応の問題がある。

 両者は、

「人に対して気を使いすぎる」

という外見的な症状では、同じ様に見えるかもしれない。しかし,脳内の構造は全く違っている。

 HSPの人は、そもそも感受性が高い、いわば高感度センサー所有であり、センサーの敏感さに対して、フィルターをかける必要がある。

 一方、過剰適応者の場合には、センサーの感度は高くない,それどころか低いことを自覚しているので、その後での脳内の処理が活発に働き何とか補おうとする。その結果、頭の働きか過剰になって疲れてしまう。

 さて、このような人々に対しては、対応が同じで善いのだろうか?

 まず、HSPに対しては、「ある種の病気」と言うことで治療という感じになる。薬での治療などという話になると,周囲の理解も得やすくなる。

 一方、過剰適応者に関しては、後天的に身についたモノだから、訓練等で何とかならないかという発想がある。このとき周囲の目が、

「努力すべき」

と厳しくなる場合がある。

 この違いについて、もう少しよい答えがほしいが,どうも出てこない。

2020年6月 3日 (水)

コロナ危機の後で

 コロナ以後の社会が、色々と動き出している。この機会に、今までの弊害を修正すれば、V字回復の可能性がある。そこで、私なりのヒントを探してみた。一つの切り口は、

『テレワークの普及』

である。これは、事務所のスリム化などで、経営的な資産も軽くなってくる。但し、私はここにもう一つ、大きな問題の解決可能性を見ている。それは、

「就職氷河期などの若冲年の『引きこもり者』の社会活動への参画」

のハードルを下げる効果がある。自室から出なくても、IT技術で社会とつながる。仕事にもつながってくる。こうして、『引きこもり者』の社会復帰への道が開けるようになる。

 なお、就職氷河期のトラブルの根底には、親の世代の問題がある。彼らの

「良い大学を出て、大企業に勤める」

と言う単純な価値観で支配された子供が、

「一度挫折すると、社会から取り残されたと思う」

ことで引き困っている人も少なくない。

 コロナ危機で、色々なモノが混乱しているとき、従来の価値観を壊すこともできるから、この機会に引きこもり脱出できる人もいると思う。

2020年5月25日 (月)

天台の摩訶止観の実践記録を小説風に書いてみました

 天台の摩訶止観の内、非行非坐三昧の観音様による瞑想法について一つ書いてみました。

 

 

2020年5月22日 (金)

本を読むと言うことについて その4

 昨日書いた、

「生活環境などの違いから、共感できない人に対して、心に寄り添う読みができるか?」

もう少し、議論してみたい。

 まずこの問題に関連して、前に読書感想文の作文教育との関連で書いた記事があるのでもう一度挙げておく。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-1e7d.html

ここで議論したことは、作文教育に関して

「子供の生活環境に差があるので、体験したことの作文を書かせることはできない。」
その代わりに
「疑似体験として、本の中の世界に対して作文させる。」

という手段が執られた。

 これを、広げれば、

「友達づきあいができない子も、本の中の世界での交流を見て、人と人との関係を学ぶことができるはず。」

という発想になる。これは確かにある程度の効果が期待できるだろう。

 しかし、教科書的な読み方になれば、どこかで正解の縛りが出てくる。

「感動する場所も決まったところで、決まった形で感動しなさい。復讐などの心は抑えなさい。」

という読み方になってしまう。(鴎外の山椒大夫を読んだときの違和感を思い出した。)

 この問題は

「国語教育と道徳教育の分離問題」

伴絡んでくる。

 明治維新以降の日本の学校教育は、このような

「人の心への関わり方」

まで教える様になって、

「正解のある読み方」

にこだわってきたのではないかと思う。

2020年5月16日 (土)

魂のこもる言葉とは

 先日から、橋下徹氏のYouTubeによる検察定年延長についての議論を聞いている。

 そこで大事な話と思ったのが

「官僚達が持ってくる案の中に、抽象的な話しかないものは、彼らが気乗りしていないモノである。」

という指摘である。

 これは、大事な指摘だと思う。これと関連して、山本七平(イザヤ・ベンダサン)が、「日本教について」の中で、「松川裁判と証言」や「広津氏の四原則」という議論で述べている、

情景の記述が明確に脳裏に再現できないモノは、信憑性が疑われる

という発想とも通じる。

 つまり

自分の体験等の具体的なモノがなく、抽象的な概念だけの議論は危ない

である。

 これは、私も自分で文章を書いていて、自分の体験に裏付けられたモノは強い言葉になるが、何となく受け売りの理論は空回りすると言うことで納得してしまう。抽象的な概念でも、それを実行する人物像を生み出せば、納得するようになる。

 このように考えると、『言霊』の概念も、井沢元彦流の空回りではなく、本当に魂を持った言葉の力ではないかと思う。

 『日本教』の皆の智慧を信じる立場なら、

魂のこもった言葉は皆に届く

という信念があるように思う。

2020年5月12日 (火)

情報不足の昔と情報過剰の現在

 先日、Twitterで

新井白石さん、6歳くらいから家庭学習で父親から指示されて毎日「書き取り4000字」をやってるんだけど、白石さんのパパはどうやって子供の集中力をコントロール&持続させたのだろうか

当時のメディア状況を考えると、学問と言えば、論語等の古典を素読し暗記する。紙があれば筆写する。これしかないから集中しやすいですね。現在にある諸々は、集中力の邪魔になります。

https://twitter.com/artartn/status/1259592709234241537?s=20

https://twitter.com/suzyoshi1/status/1259628261333774342?s=20

という議論をした。

 この話を考えていると、仏教の教えでは、一二因縁等の教えが、

「その人の視野を時間軸と世の中の関わりという風に広げる」

役割があると思いついた。こうして広い視野を持つと、

「絶対にこれ!」「XXが必然」「XXは存在する」
から
「全ては移り変わる・・・空である」

という風に

「こだわりや恐怖からの自由」

を得る。これが、紀元前の仏が教えを説いた時代に、人々を救う手段だったのではと思う。

 しかし、現在では、皆の視野が広がりすぎて、

「コロナウイルスは、XXの失敗でばらまかれた」

というような情報が、私たちまで伝わってくる。

 確かに

「疫病の原因がウイルスの作用」
とか
「手洗いや消毒でかなり防げる」

等の知識は昔と比べれば不安を少なくしてくれる。

 しかし、逆の情報過剰の現在は、その選択評価をしないことで、新たな不安を引き起こしている。

 情報過剰の現在の不安解消は、情報の追加ではなく、自力評価で対応すべきだと思う。

2020年5月 8日 (金)

読書の方法

 外出自粛の影響で、自宅にこもる人も多いと思う。特に学生の場合は、自分で本を読む機会も多くなるだろう。そこで、今回は

『読書の方法』

について少し議論しておく。

 私の考えでは、読書には以下の3段階がある。

  1. 本に書いている世界で考える
  2. 本の登場人物の心に寄り添って理解する
  3. 著者の立場を思いやり、『何故この本が書かれたか』を理解する

なお、これは3段階と言ったが、優劣を付けるつもりではない。ただこの違いを意識することが大事である。

 1.の『書いてある世界で考える』の極端な例は、数学である。本の中で書いている、定義に従って議論する。それ以外の直観的要素などを持ち込んではいけない。例えば、群論では『積』と言う表現を使うが、これを

  「今までの数学で使った整数などのかけ算」

のイメージで考えると失敗する。あくまで

  「二つの項の間の演算で制約条件を満たすモノ」

と言うルールで考えないと失敗する。大学数学の初心者の失敗は、このような

  「抽象的なルールできちんと考える」

訓練ができず

  「直観的な思考に縛られてしまう」

弊害が残った場合がある。

 一方、2.の『人の心に寄り添う』読み方は、文学作品などに対して必要である。このときには、自分の想像力や直観的な感覚も大いに生かすべきである。

  「人の悲しみ、喜びについて、自分も共感していく」

一方、

  「そのような共感している自分を客観的に観る」

このような経験が、文学的な読書には必要だろう。

 さて、最後に『著者の立場を思いやる』読み方であるが、これは考え方によれば『上から目線』という危険性もある。しかし、

  「著者の生きた時代背景を考え、何故このように書いたか」

を想像することは、著作を理解するために大事な作業だと思う。これは自然科学の論文でも、社会科学の本でも、文学作品でも大切なことである。例えば、物理学の基礎として

  「マックスウエルが電磁気の基礎方程式に関する論文は、当時の機械の発想が入っている」

と言うことを読み解けば、どうして『場の概念』という創造ができたか解るだろう。

 また、私は天台の『摩訶止観』を読むときには、6世紀の環境をできるだけ意識して読んでいる。紙が貴重な時代、これを意識するだけでも得るものがある。

 このような本の読み方を考えるのも良いのではと思う。

2020年5月 7日 (木)

心と意識そして智慧の関係

 被害者の話について、何回か書いたが、この問題は『心の傷』に関わってくる。そこでもう一歩踏み込んで

「心とは何か?」

と言う問題を考えてみた。

 天台の摩訶止観には、「心・意・識」を、三者は別のモノではあるが、バラバラでなく一体で動くとしている。仏教の大まかなまとめ方では

  • 心:広い意味では精神の作用全て、狭い意味では感情など、意識よりも基本的
  • 意:考える舞台
  • 識:意の上での判断など、識別の働き

という感じで捉えている。

 確かに、私たちは「意識」して考えるが、その結果に対して、満足や不満は別の感覚として起こることがある。これを、

「感情の働き」

と捉えると、そのようなモノかと思う。ここで、

「感情を生み出すモノは何か?」

ともう少し踏み込んでみよう。一つは、直接的な感覚による、快・不快感である。これをもう少し広げれば、今までに経験が生み出す『快・不快感』である。こうした今までの積み重ねが、

「言葉で言い表せず積もっている」 

モノを西洋文明では無意識といい、仏教の唯識では、マナ識、アラヤ識という。

 さて、このような『心』の傷をどのように治したら良いのだろう。仏教の教えには、『識』と『智慧』を分けている、ここにヒントがあるように思う。私たちは、学校の勉強に過剰適応していて、『知識』があると『智慧』があると勘違いしている。

「先生の指示する、正解を識別する」

力は、『智慧』とはいえない。本当の智慧は、

自分の体験や知識を広く見て、深く考え、偏見なしに必要なモノを見いだす力

ではないかと思う。

2020年5月 6日 (水)

理想的な『被害者』で考えているのではないか

 ここ二回ほど被害者に関する議論を書いた。

 一回目は被害者のための施策、

 二回目は被害者のためになる対応

しかし、この問題に関して

「理想的な『被害者』で議論していないか?」

と言う観点が出てきた。

 ここで、『理想的』と言う表現をあえて使ったが、これには色々側面がある。まず一つ目の側面は、道徳的価値観の関与である。

「犯罪被害者は、復習などと言うことを考えてはいけない」
「過去のことを忘れて前向きに生きよう」
「慰謝料を受け取ればそれで全て終わり」
「法律に従って裁かれればそれを受け入れる」

と言うような、道徳的な価値観に従い、怨恨などの悪い感情を持たない、『理想的』な『被害者』という議論がある。

 学校教育の場でのいじめの時など、このような論法で押し込められることが多い。

 しかしながら、現在の多様な議論の場では、ここまでの押しつけは成立しなくなっている。いじめ問題などでも、SNS等の場で、被害者感情を受け入れ、拡大していくことで、学校側の押しつけを破ることが可能となってきている。

 さて、上記の価値観がらみの理想という面は、現在は少し和らいでいるが、もう一つ西洋文明特有の『理想的』な発想がある。これは、マックス・ヴェーバーが理念型の議論などで使った『理想的』という表現である。そもそもの発想は

「物理学で使う、大きさがない『理想的気体』などの発想」
「良心の呵責無く犯罪を行う理想的な『犯罪者』等の用例」

である。これは、複雑な人間の心を単純化し、『原因ー結果』のペアに追い込むための手段である。マーケティングなどでも、消費者を単純化し『理想化』して考えることで、キーファクターを見いだすなどの効果が出ている。

 しかしながら、被害者のように、傷ついた人には、それぞれの経緯がある。これを、物理学のように単純化して処理する発想は、一寸待ってほしいと思う。

2020年5月 4日 (月)

被害者のためになる対応とは?

 昨日書いた「被害者のための施策」に関して、もう少しミクロの観点で議論する。当然のことであるが、被害者の状況は一様ではない。従って個別の状況に対していくことが大切である。しかも、同じ人でも時間の経過と伴に変化していく。このよう多様な状況に対して,均一な教科書的な対応は、

「方向付けを示す」・・・これは大切だが!
「解決のヒントになる」

程度の効果しか無い。ただし、昨日も書いたように、

被害者の幸せが大切

と言う基本的な原理が、専門化が進むと忘れられそうになる。特に西洋文明的な『弁護士の活動』においては、

「依頼人のために全力を尽くす」つまり「一方的な主張をする」

形の議論になる。西洋文明の発想では、

「お互いが断片的なモノしか知らない」

のだから、一方的な主張をぶつけるのが正しい。

 しかし、『日本教』的な発想では

真実そのものを皆が知る

と言う共通感覚がある。ここで加害者側の一方的な主張で、傷つく被害者が少なくない。

 この段階での対処は、とりあえず弁護士に任せるなどの、代理人での闘争にするのも一つの手段である。

 このように被害者のことを考えると

  1. これ以上の被害を避ける(二次被害を避ける)
    1. そのための逃避もある
  2. 自分の権利などを見直す
  3. 自分はどうすれば良くなるかを考える
  4. 良くなるための一歩を踏み出す

と言うような手順が必要ではないかと思う。

より以前の記事一覧