ご縁のあった人たち

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2020年9月 6日 (日)

弱者の優しい代弁者が存在するか?

 昨日の話で、

「弱者の代弁者」

という問題を思いついたので、忘れないうちに書いておく。昨日の議論では、国会議員である杉村太蔵が、同じ国会議員の石破茂に馬鹿にされたというレベルであり、馬鹿にされた方にも問題ありと処理してもよいだろう。しかし、これが一般国民の問題と考えると、色々と広がってくる。

 まず、一つ目の問題は、

「本当に困っている人の状況を、きちんと伝える人が必要」

である。しかし現状では、これが上手くいかない。理由は、

「論理的な意見をいえるという、スキル面だけで代弁者になる」
「極論や過激な発言する代弁者が少なくない」

という側面がある。

 例えば、予防接種の副作用で、苦しんでいる人がいる。この人に対しては、医療的側面、心理的側面、生活的側面などで色々と支える必要がある。しかし、

「副作用が生じるから、予防接種を禁止すべき!」

という極論を言う人が、

「被害者の代弁者」

として振る舞う事で、結局

「予防接種の効果で救われる命を奪う」

という事態になってしまう。このような機会損失に関しては、被害の申し立ても難しいので、極論がまかり通っていく。

 この問題を考えると、親的な発想で、弱者の代弁をする人材を、もう少し育てていくべきではないか、言うなら

『穏やかな社会学者』

が必要ではないかと思う。

2020年9月 4日 (金)

動機付けに関して西洋文明と大乗仏教の文明の発想の違い

 昨日の続きで、動機付けについて、西洋文明的発想と、大乗仏教的発想の違いについて議論しておく。

 西洋文明的発想なら、動機付けならマズローの理論などが出てくる。

https://motivation-up.com/motivation/maslow.html

 しかしながら、この議論の根底には、貨幣経済社会などの西洋文明が前提にあり、しかも

「人間は神の智慧には及ばない」

という諦めがある。又、マズローの5段階説を見ても解るように、

「できるだけ単純な項目で考える」

という発想がある。

 しかし、現実社会をこのように単純化してみる発想がよいのだろうか?

 例えば、会社生活においてて、管理職になる動機付けを考えてみよう。

「出世したい」
「給与が上がる」
「他の皆に遅れたくない」

等の単純な理由だけで出生したがる人間は、どれほどいるだろう。

 管理職の重み、責任を感じたとき、色々な悩みがある。しかし、

「その部門の重要性」
「働いている人たちの個々人の立場」
「他の人間が管理者苦になるリスク」(不適切能力者のリスク)

等色々な事を考えて、悩んだ末に受け入れる人は、よい管理者になる可能性が高い。

 さて、ここで大事な事は、大乗仏教的な発想である。大乗仏教には

「誰もが仏の智慧を持っている」
「仏の智慧とは全てを自分のモノとし、衆生を我が子のように見る智慧である」
「この智慧で社会をよくすることができる」

という発想がある。少なくともキリスト教の

「神の世界への到達不可能限界」

とは別の、可能性を拓く発想がある。

 又、これと併せて、色々なモノを見るとき、具体的に多様な見方をする。例えば、管理職が部下を見るときも、

「契約した機能を果たす部下」

という見方が、西洋文明の経営学敵味方なら、日本的管理では

「個人としての生活のある部下」
「将来的な成長可能性のある部下」

等の、血の通った見方になる。

 こうした、実体観の上で、

「皆のためになる」

という動機付けを行うなら、強い力を得ると思う。

 もっと言えば、仏教では

「皆を救う」

という発願がある。この力は、西洋文明的なモノより強いのではないかと思う。

2020年8月26日 (水)

分断化した社会で罪悪感なしの優位に立てるか

 昨日書いた、キャリアアップ論などでは、一つ疑問が出てきた。それは、

「自分が優位に立つことへの疑問はないか?」
言い換えると
「罪悪感を持っていないか?」

である。

 実は、私自身の底流にこの疑問が存在する。遡れば、大学受験の発表時に、多くの同級生が落ちたとことを考え、

「サバイバーズギルト」

のような感覚を持ったことが、一つの発端である。

 後に判明したが、私の大学入学成績は、「合格最低点の一点違い」であった。その成績が私の人生を変えた。確かに大学で身に付けたモノは多く有り、それが後々の仕事でも生きている。少なくても会社生活においても、生涯賃金の数倍の利益を会社にもたらす貢献はしている。このあたりの経緯は

 「彼は成績しか取り柄がない」 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-3a9e4d.html
等に書いている。

 しかし、大学受験に失敗したとき、対人スキル不足の私が社会でどのような使いを受けただろう?この疑問は、時々私の心に浮かんでくる。これを言い換えると

「自分の給与に比べ、同様に働く協力会社や、非正規雇用の給与は十分といえない」
「自分は給与差だけの事ができているか?」

となる。確かに、技術の世界や、総合的判断では

「私の頭脳でしかできない」

と言い切れるときもあり、その時は少しは精神が落ち着いている。

 さてここで周りを見ると、どうもこの問題でおかしくなっている人が少なくないように思う。

「XXの正社員」

という事だけを振り回し、マウンティングする人間がいかに多いか、更に言えば

「昔成績がよかった」
「XXに合格した」

という、一時期の成果を盾に優位を維持しようとする。

 このような人が少なくないように思う。

 そうして、彼らの多くは、一緒に仕事をしている人間の、恨みなどを買っている。その力が働くかどうか解らないが、私が見るところ

「分不相応な出世した人間の早死には少なくない」

という状況がある。多くは酒などの結果、成人病で体を壊す者が多い。

 この問題に対して、昨日のように理屈を付けて、逃げる事ができるのだろうか?私は、日本人には難しいように思う。

2020年7月30日 (木)

人間を機械と見る

 人間を機械と見る、この様な発想は、工業化の過程で、起こって来る。

 農業のように、自然が相手の場合には、どうしても

「個々人の対応に依存」

する事が多い。

 しかし、工業の場合には、

「決められた作業で、規格通りに作れ」

と指示する。

 この発想は、

「人間を機械と見る」

ことに繋がっている。

2020年7月26日 (日)

本当の幸福とは

 「幸福」について、少し考えて見た。自分が「幸福」と考えるのは、どのようねな時だろう。自分の欲望が満たされた時だろうか?これは、ひとつの答だろう。但し、その欲が出世欲のような、他人が介入するものや、競争の勝ち等の、他人と相対的なもののとき、これが継続的なものになるだろうか?

 ここでもう少し視野を広げてみよう。他人を助けて、感謝を受ける。これが、一つの幸せではないかと思う。

 もっと言えば、社会全体がよく出来ないか、これが仏教なら、「仏様の智恵」というこで、できるはずである。

 これが、持続可能な、本当の幸せではないかと思う。

2020年7月22日 (水)

「夜の街問題」の続き

 昨日に書いた、「夜の街問題」について、もう一つ思い着いた。それは、人の評価というか、受け入れに関する議論である。

 私の考えでは、基本的に、

「誰もが人間として尊重されるべき」

と土台があるべきと思う。これは、その人の基本的な所属で認められるべきである。地縁、血縁社会等がこれに当たる。

 一方、その人が

「ある機能を要求される集団に属する」

場合には、

「その機能ができない。不適合。」

という判定もある。

 これが、学校社会等で、皆を押し込めて、成績という機能を、万能視するから、色々なトラブルが発生しているのではないか?

2020年6月21日 (日)

病気と後天的なモノの違いについて

 先日、HSPについて、解説資料を読んだ。この人たちの状況に関連して、発達障害者の過剰適応の問題がある。

 両者は、

「人に対して気を使いすぎる」

という外見的な症状では、同じ様に見えるかもしれない。しかし,脳内の構造は全く違っている。

 HSPの人は、そもそも感受性が高い、いわば高感度センサー所有であり、センサーの敏感さに対して、フィルターをかける必要がある。

 一方、過剰適応者の場合には、センサーの感度は高くない,それどころか低いことを自覚しているので、その後での脳内の処理が活発に働き何とか補おうとする。その結果、頭の働きか過剰になって疲れてしまう。

 さて、このような人々に対しては、対応が同じで善いのだろうか?

 まず、HSPに対しては、「ある種の病気」と言うことで治療という感じになる。薬での治療などという話になると,周囲の理解も得やすくなる。

 一方、過剰適応者に関しては、後天的に身についたモノだから、訓練等で何とかならないかという発想がある。このとき周囲の目が、

「努力すべき」

と厳しくなる場合がある。

 この違いについて、もう少しよい答えがほしいが,どうも出てこない。

2020年6月 3日 (水)

コロナ危機の後で

 コロナ以後の社会が、色々と動き出している。この機会に、今までの弊害を修正すれば、V字回復の可能性がある。そこで、私なりのヒントを探してみた。一つの切り口は、

『テレワークの普及』

である。これは、事務所のスリム化などで、経営的な資産も軽くなってくる。但し、私はここにもう一つ、大きな問題の解決可能性を見ている。それは、

「就職氷河期などの若冲年の『引きこもり者』の社会活動への参画」

のハードルを下げる効果がある。自室から出なくても、IT技術で社会とつながる。仕事にもつながってくる。こうして、『引きこもり者』の社会復帰への道が開けるようになる。

 なお、就職氷河期のトラブルの根底には、親の世代の問題がある。彼らの

「良い大学を出て、大企業に勤める」

と言う単純な価値観で支配された子供が、

「一度挫折すると、社会から取り残されたと思う」

ことで引き困っている人も少なくない。

 コロナ危機で、色々なモノが混乱しているとき、従来の価値観を壊すこともできるから、この機会に引きこもり脱出できる人もいると思う。

2020年5月25日 (月)

天台の摩訶止観の実践記録を小説風に書いてみました

 天台の摩訶止観の内、非行非坐三昧の観音様による瞑想法について一つ書いてみました。

 

 

2020年5月22日 (金)

本を読むと言うことについて その4

 昨日書いた、

「生活環境などの違いから、共感できない人に対して、心に寄り添う読みができるか?」

もう少し、議論してみたい。

 まずこの問題に関連して、前に読書感想文の作文教育との関連で書いた記事があるのでもう一度挙げておく。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-1e7d.html

ここで議論したことは、作文教育に関して

「子供の生活環境に差があるので、体験したことの作文を書かせることはできない。」
その代わりに
「疑似体験として、本の中の世界に対して作文させる。」

という手段が執られた。

 これを、広げれば、

「友達づきあいができない子も、本の中の世界での交流を見て、人と人との関係を学ぶことができるはず。」

という発想になる。これは確かにある程度の効果が期待できるだろう。

 しかし、教科書的な読み方になれば、どこかで正解の縛りが出てくる。

「感動する場所も決まったところで、決まった形で感動しなさい。復讐などの心は抑えなさい。」

という読み方になってしまう。(鴎外の山椒大夫を読んだときの違和感を思い出した。)

 この問題は

「国語教育と道徳教育の分離問題」

伴絡んでくる。

 明治維新以降の日本の学校教育は、このような

「人の心への関わり方」

まで教える様になって、

「正解のある読み方」

にこだわってきたのではないかと思う。

より以前の記事一覧