ご縁のあった人たち

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2020年4月 1日 (水)

反省で得るものは何か?

 ここしばらく『反省』について議論しているが、今回は『反省で得るモノ』を考えてみた。反省に限らず

「過去を正しく振り返る」

ことは、

「自分の力を客観的に評価する」

良い手法である。

「その時なぜ失敗したか、なぜ成功したのか?」
「自分のどの力がたりなかったか?何が効果的だったのか?」
「周りの人との関係は?助けてくれた人、敵に回った人?」

このような切り口で、時間をおいたことで冷静に評価できれば、自らの強みも見えてくる。また、

「昔(特に失敗したとき)と比べて、自分の成長も解る」

ことも大きい。更に成長した自分が昔を見ると

「当時は他人の責任と思っていたが、自分の問題点も見えてきた」

と言う経験を積むと、人間として一回り大きくなる。

 なお、反省を行うと、

「自分の心に正直に向き合う」

ことができる。私の経験でも

「当時は無意識的に押さえていた、怒りの感情」

を客観的に見ることで、

「無理に周囲の目に合わせることで出る心の歪み」

等が解るようになった。このように、心の中にある諸々を意識するためにも、上手な反省は大切だと思う。感情などを抑えつけることは、気力を押さえることになり、自分の力が十分発揮できなくなる。これを克服するためにも、正しい反省は大切だと思う。

「自分の感情を抑えつけているモノを外せば、大きな力が出ることがある」

これを上手に使っていくべきだろう。

2020年3月31日 (火)

反省するときの注意点 その3 反省の失敗

 先日の記事の続きとして、今回は反省の失敗について書いてみた。反省の失敗の本質は、

「過去にあったことに正しく向き合えていない」

ことにある。これには色々なパターンがあるが大きく分けて、以下のようになるだろう。

  1. 反省しようとする気が起こらない
    1. 気力が無くなる
    2. 自分は悪くないと言いつのる
  2. 反省したときに正しく向き合えない
    1. 他罰的に自己反省しない
    2. 自罰的になりすぎて本当の要因が見えない

まず、反省する気持ちになるためには、自らにある程度の強さが必要である。

 「昔の状況がフラッシュバックしたとき、自分の責任との重さに向き合うことができるか?」

この防衛反応として、まずは

 「反省などしない」
  そのため
 「思い出したくない」
 「記憶を改竄する」

と言う反応が起こる。状況によっては、鬱病が出てくる。

 次に反省を行うときに、自罰と他罰のバランスが悪くなることが多い。よくあるパターンは、

  はじめは
  「XXが悪い」
  「社会が悪い」

と他罰的に強く出るが、一度証拠を突きつけられたりして、自信が崩されると

  「全て私が悪い」

となり、外部にある真因までも自分に抱え込む場合がある。

 この対策としては、

「全体像を客観的に描いた上で、自分の責任を認めていく姿勢」

が有効では無いと思う。このバランスが悪いと、本当の反省はできないと思う。

2020年3月29日 (日)

学問知識は成長したが感情面の豊かさは?

 昨日書いた、本当の納得に関する議論で、もう少し思いついた。つまり、

「現在の学校教育で成長するモノは何か?」

と言う問題である。もう少しこれを分けると

  • 学校教育に期待しているモノ
  • 実際に身につくモノ

の誤解があるように思う。つまり、多くの人が学校教育に期待するのは

「学校教育によって『全人格的に』成長する」

である。確かに、学校生活や交友関係、部活動などにより

「知識以外の面も成長する」

可能性は大きく、実際に成果が出ている。例えば、採用面でも

「四大卒の方が人間的に成熟している人が多い」

と言う感想がある。

 しかしながら、学校側の最低限の責任は

「知識などの教育」

であり、感情面や人格面の成長は副産物という扱いである。

 もう少し踏み込めば、

「経済面など家庭事情などで、友達交流できない子、部活もできない子」

等の、『知識外の成長』は学校の責任とはいえない。

 こうして

「感情面や対人スキルなどの成長ができなかった子」
特に
「成績だけが優秀な子」

は、この後

「自己責任で対人関係を切り開け」

となっているように思う。しかしながら、生活体験が貧弱な場合に、このような切り開きができるのであろうか?

 これで本当に上手くいかないから、色々な歪みが出ているように思う。

2020年3月28日 (土)

反省するときの注意点 その2

 先日から書いている反省の話にもう少し思うことを書かせてもらう。昨日までの話は以下のリンクを見てほしい。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-7943c3.html

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-db048f.html

 さて、今日気がついたことは、

「反省の前に『本当に良い』とは何か解る、納得するか?」

である。もう少し言えば

「『本当の幸せ』を知らない人間が、反省できるのだろうか?」

と言う問題である。

 この問題をもう少し突っ込めば

「『本心からの感動』を感じたことがあるか」 

と言う問題に行き当たる。『喜怒哀楽』と言うが、教科書の当てはめられて、強制的に

「『官製感動』を押しつけられている。」
(国語の試験で良い成績になるためには、教師の○が着くところで、『感動したと言う』)

のではないかと思う。

 自分の心に正直に向き合う。しかしそこで自滅しないし、他人を攻撃しない。このような道を求めることが本当の反省になると思う。

 まだ続きます

2020年3月27日 (金)

反省するときの注意点 続きその1

 昨日書いた「反省するときの注意点」について、もう少し議論しておく。まず大事なことは、

「反省からよい方向に向かう」

ことである。昨日も書いたが、摩訶止観の懺悔に関する項目では

  • 悪に向かう流れ
  • 善に向かう流れ

の両方を示している。反省において大事なことは、「自分にとってよい方向に持って行く」ためにはどうしたらよいか、この軸をぶらしてはいけない。ただし、

「自分にとって『良い』とは長期的に良い」

でなければならない。確かに

「他人のせいにして、自分は悪くない」

と主張しておけば、その時は気が楽になるだろう。しかし、このようなことをしていると

「周囲の支持、信用がなくなり、結局悪意の目にさらされる」

ことで、自分が傷ついていく。

「長期的視点で自分のために何が良いのか?」

をきちんと考えることが必要である。

 その上で、自分を客観的に観て

「自分が原因のこと、他人が原因のこと」

「冷静に識別する」

様になれば、反省の第一歩が踏み出せる。 

2020年3月26日 (木)

反省するときの注意点

 昨年の3月に「反省する力について」書いた。それから1年あまりたって、色々と新しい考えが出てきたので、もう少し書いておく。

 今回の議論に関して、一つの刺激は「フラッシュバック問題」である。これは、特に「被害者」の立場で起こる。これを起こさないための、心の底に押し込めていく、ないし「記憶の改竄」が起こってしまう。もっと悪くなると

「感情の暴発を押さえ過ぎて無気力になる」(鬱病に至る場合も!)

と言う可能性がある。一方、自分が悪い場合にも、「記憶の改竄」や「忘却」が起こることが多い。

 さて、このような反省の難しさに対して、よい知恵は無いだろうか?大乗仏教は、これに対して色々と配慮している。まず法華経には

「深く罪福の相に達してあまねく十方を照らす」

とある。つまり

「自分および他人の罪に向き合いなさい」

と言っている。そのために「懺悔」について、色々と説いている。

 具体的な修行法は、天台の摩訶止観が詳しい。その中では

「悪く落ちていく心の流れ」
これを逆転する
「よく反省する心の流れ」

が書いてあり、段階的な対処についても教えてくれる。

 さらに、実際の瞑想を行うときには、観世音菩薩の救いを感じながらの三昧の修行をまず示している。自分の心に起こる、地獄・餓鬼に対しては、大慈悲の観音様が、畜生のように吠えるだけなら獅子の力を持つ観音様、一つの正義にこだわるなら十一面の多くの見方を示す観音様と、心の闇が出てきたときに、それを救ってくださる観音様を信じて、

「観音様と伴に自らの心を深く観ていく」

三昧の修行がある。このような、大乗仏教の智慧は、本当の反省ができるために大切だと思う。

 続きはこちら

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-db048f.html

2020年3月22日 (日)

少しの幸せを味わえるか?

 先日から色々と思うことがあったが、自分が今まで生きてきた中で、

「少しの幸せ」
「平凡な中の幸せ」

を感じ取る力が弱かった、と言うことが解った。

 これは、学校教育などで言う

「0と1をはっきりさせる」

考え方に、私が過剰適応していた結果でもある。

 しかし、人間が生きていく上では、色々な物事が起こるが、その中で

「小さな幸せ」
「少しの違い」
「小さな暖かさ」

これを見いだす力があれば、もっとよくなるのではと思った。

 別の見方をすれば、私は大学院の博士課程(現在なら後期)進学を諦めた身である。しかし、「在野の研究者」としての県産はある程度行っていた。しかし、在野の立場で博士号取得は並大抵のことではできない。そのため

「理論的研究の大テーマ」

に固執して、結局論文は書けなかった。大学院に行き直せば、適度なレベルの研究成果で論文をまとめて、段階的に成長することもできたであろう。

 このように考えると、「小さな違い」に敏感になって

「少しの幸せを味わい感謝する」

ことが本当の幸せを掴むために大切だと解る。

 なお、この話に関しては、僧侶・修験の大先達「かとうれい師」の説法で気がついたことが大きい。

 https://twitter.com/ReiTS14/status/1241302165127188480?s=20

 説法のYoutubeはこちら

2020年3月13日 (金)

6世紀の仏教の修行法

 天台の『摩訶止観』を読むときには、天台大師が説法した六世紀の世界を思いやる必要がある。現在、私たちが当たり前と思っていることが、その時代にあるかよく考えてみると、現在の私たちの物の見方のひずみが見えてくる。

 当時の環境を考えると、紙は貴重品であり現在の学校教育はない。つまり、教科書もないし、ましてや懇切丁寧に説明した参考書なども存在しない。逆に、仏像を作る手間が、絵画での伝達と比べてても、それほどの負担ではなかった。また手書きで経典を写す手間も大変だった。この状況を考えると、教えの伝達に仏像の力が大きな意味があると解る。現在なら、『慈悲』という概念は、まず言葉による説明で伝える。このために、教科書などの道具がある。このため、

「私たち現代人は、学校教育で身についた思考法に縛られている」

ために、それ以外のモノが見えなくなる。例えば、近代科学的発想の一つ、ガリレオの

「測れるモノは測れ、測れないモノは測れるようにしろ」

の後ろには

「数値化できないモノは見落としてしまう」

と言う危険性がある。

 これを、六世紀の修行と比較してみよう。当時の知識では、

「科学的な知識による因果関係」

は私たちと比べれば、ほとんど持っていない。

 そこで、彼らが修行で得ようとするモノは何か?一つは

「仏の智慧を得て、この世界の苦しみから解放される」

ことである。そこで『仏の智慧』とはどのようなモノであろうか?

 この答えは、法華経にある。一つ目は、十如是の教えである。諸法の実相は、

相(外見)、性(本質)、体(構成)、力(潜在力)、作(働き)
因(直接の原因)、縁(間接的な影響)、果(直接的な結果)、報(間接的な影響)
が、本末究竟(総合的な作用している)

であり、このような複雑な相互作用を観るのが、『仏の智慧』である。大乗の教えは

「この智慧が、我々衆生にもある」

と説いている。

 そこで、このような智慧を自分で体感することができるだろうか。

 天台の摩訶止観が説く『円頓止観』は、全体像を描くことで、このような複雑な絡み合いを、観る智慧を体感させようとしている。その一例は

「心・意・識の三者は、一つではないが、三つバラバラでもない」

と観ることである。自分の心の中の感情が、意識の世界とどのように関わるか、別なモノでもないが一体でもない。このような、

「西洋文明の科学的思考法では矛盾」

を、全体像を見ながら体験する。

 この修行は現在こそ必要ではないかと思う。

2020年3月12日 (木)

不倫の原因について

 先日書いた不倫について、もう少し動機面で考えてみた。私の考えでは、不倫は大きく分けると

  1. 元から結婚に不満であった 『確信犯』
    1. 偽装結婚(本命と結婚後も続く)
    2. 不倫相手のマインドコントロールが継続している
  2. 結婚後の不満から出た
    1. 精神的な不満
    2. 肉体的な不満

と言う動機がある。もっともこれの複合した複合もある。

 さて、ここで1.の『確信犯』の場合には、何かのタイミングでコロッと変わることがある。『確信犯』になるぐらいだから心は強い。その向きが変わると、不倫を反省しとことん尽くすタイプになることが多い。(相手が受け入れた場合)また、マインドコントロールがらみの場合には、一度解けると、コントロールした人間への憎しみが出ることが多い。このときも反省は深くなる。

 一方、2.の不満に関しては、精神的な不満をもう少し具体化すると

  1. 寂しかった
  2. 認められなかった

が多い。ここで大事なことは、現在社会において、

  • 自分に自信が無い
  • 人に認めてもらわないと行けない

人が多くいることである。伴侶に認めてほしい、しかもそれを言葉でほしい。更に、他人が褒めてくれるともっとよい。そこで舞い上がって『不倫に走る』というパターンが少なくない。馬鹿らしいおだてに乗ってしまう人が少なくない。

 このように考えると、このように

「自分に自信が無い、自分を客観的に評価し認められないから、ちょっとしたおだてに乗ってしまう」

 人は、色々な所にいるように思う。

2020年3月11日 (水)

人間関係を単純に見すぎる悲しさ

 昨日書いた『不倫』の話に関連して、ツイッターで気になる投稿を見た。

「男の人に誘われたら、『友達連れてってよい?』と返す。
 これで引くような男は、体目当てだから。」

これを見て感じた違和感の理由が少し明確になったので書き残しておく。

 私の言いたいことは

「貴女に喜んでもらいたくて、お誘いしました。
一緒にいる人に気を使う余裕はありません。」

と言う考えの人が、この返事でどれほど傷つくか考えてほしいと言うことである。

 私自身、貧困家庭の育ちなので、人に対する接し方は、下手と自覚している。そのため、相手の気持ちをできるだけ思いやり、『全力で』その人に対応しようとする。そこで、気を使う人が増えると言うことは、散漫で不十分な対応しかできなくなる。これはお互いの不幸だと思う。なお、これを

『発達障害者の過剰適応』

と言う人もいる。

 しかし、考え方を変えれば

「男女の関係は、体の関係」

としか考えられない人は、とても不幸ではないかと思う。現在の多様な価値観、幅広い文化を考えると、色々な話題もあるし、交流もあると思う。これが、『体の関係』だけしか考えられないのは、動物並の本能生活ではないだろうか?

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