ご縁のあった人たち

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2019年11月27日 (水)

AIが変えるビジネス環境の可能性

 先日、日経ビジネスのHP情報で、

「AIが働き方に影響を及ぼす」

と言う意見があった。私はこの観点がなかったので、もう一度考え直そうと思っていたら、昨晩のテレビで、

「スマホからの投稿画像をAIで監視し、災害状況や事故状況をいち早く知る」

と言う話があった。実は私は昔メーカー勤務をしていたときに、積雪状況や降雨状況の遠隔監視設備の設計製作にも関与したことがある。当時は専用のセンサーを使った監視装置を設置し、中央と専用回線でつないでいた。

 しかし現在は、多くの人がスマホ写真で情報を入手し、これをSNS等に載せている。また、気象予測会社に協力している人は、雲の状況などを随時報告している。こうした形の、

『大量分散した断片的情報の活用』

を実用化させる力が、AIにはある。これは一つの働き方の改革になる。

 従来の集中した工場での、管理十分な環境での仕事から、散在して自由な人たちの、不特定な情報提供を生かす。更に知的貢献を生かすようになるだろう。例えば、私のブログに対しても、過去に書いた色々な話を、時々検索して見る人がいる。このような散在情報を、上手く引き出し使えるようにしていく。これをAI だけで行うか、人間の加工も入るかはもう少し議論すべきだが、AIとIT社会が、何かを変える可能性はある。

 図式的に言えば、

『集中化した社会』:会社・大学での管理された情報等の活用

 から

『分散化した社会』:ネット上の多様な情報の活用

への変化ではないかと思う。

 昔(江戸時代~明治)には

問屋制手工業(分散)->工場制手工業(集中)->機械化

と言う変革があった。

 今度はその逆になっている。

(追記)

 このような体制は、目的の共有が必要だが、従来のシステムなら

「組織に属して自然と目的が共有される・・・暗黙的」

が多かったが、今後は

「目的を公開して興味を持った人に参画してもらう・・・きちんと記述する」

という形になる。

 さらに、供給されたものの、確認作業や、最終製品化のまとめ、そして品質保証や納入後のサポートに、今後ともどこかの責任部門が必要になると思う。フリーソフトウエアの自己責任論は、一般向けの工業製品では通用しないことが多くなると思う。

2019年11月 8日 (金)

琵琶湖を「琵琶の形」と見るためには?

 先日、NHKの「日本人のお名前」で、

「琵琶湖の形を完全に認識するためには、山などでは到達できない高さから見る必要がある。」

と言う趣旨の話があった。

 しかし、行基菩薩が竹生島を開いたとき,既に弁財天と琵琶の関係を感じていた可能性はある。

 そこで、天平時代や平安時代の人の気持ちになって、琵琶湖を見てみた。

 琵琶湖のそばには、伊吹山もあり、比良山系や比叡山もある。このような山の上から見れば、部分的にでも丸まっているが、円ではなく広がっている形が見えるだろう。

 さて天平時代に既に琵琶があったのは、正倉院の御物からも明らかである。従って、当時の人々は、琵琶の形は知っていた。一方、他の形はどれほど知っていただろう。丸い物は色々見ている。擬宝珠のような形も見ているだろう。しかし、それ以外の形は思いつくだろうか?

 こうして考えていくと、当時の人たちは、部分的いに見た物から、自分の知っている一番近い「琵琶の形」に当てはめたと考えるのが自然に思える。

 私たちは、航空写真という便利な物があるから、全体像を見て判断するという癖がある。しかし、当時の人たちは、自分が思いつく

「形状の概念装置」

の範囲で一番近いモノを選択したと思う。

 しかし、このような概念装置による、思考の制約は私たちに無意識的に働くことが多い。注意すべきことである。

 

2019年3月 6日 (水)

人間を描く力と学問の関係

 ここしばらくスマホ時代の思考方法などについて書いている。私が言いたいことは、
スマホ時代には、画像や動画をだれでも蓄積でき発進できる。
その情報に対して、多くの人が意見を言える。特にイイネが容易に出せる。
従って、プラトン以来の言語による思考と討論の優勢が覆る。
つまり、画像情報での「正義」などの抽象概念定義ができ、それを共感する
等の議論というか意見表明と支持者集めができる。
つまり新しメディアの時代の到来である。
ということである。
 さてここで、1次元の言語から2次元の画像に、思考対象が変化する時には、受け手の側も変化していく。つまり画像情報に慣れていくのである。従って、文字の並びの教科書より、学習漫画の方が喜ばれるようになっていく。
 しかし、ここでもう一度「画像情報」というものについて、考えてみよう。私の考えている画像情報には以下の3種類がある。
  1. 写真などの現実の切り取り
  2. 地図記号などの完全に記号化したモノ
  3. 作者が心を込めて制作した「生きているもの」
1と2はある程度理解いただけるだろう。ここで大事なのは3の「生きているもの」である。この点に関しては、相河柚希様とのTwitter での議論がヒントになっている。彼女の作品では、登場人物(?)が成長していく。このように、単に人の絵を描くのではなく、その人が生きているものとして、創造していくのである。
 このような観点で「歴史」や「地理」などの、自分の暮らしている世界以外を描くことは、新しい発見にもつながっていくと思う。情報提供するのではなく、その世界に住みこんでいくことができれば、多様な文化の理解もできると思う。

2019年3月 1日 (金)

スマホが行動を変える事例について

 昨日書いた、スマホが思考と行動に影響を与える話について、もう少し検討を加えておく。
 まず一つの事例は、「SNSのバカ騒ぎ画像」問題である。これは特に食品供給関係の企業で、アルバイトの投稿などによって、大きな影響が出ている。
 この問題の原因を一つ考えてみた。
 私の考える原因の一つは、
テレビなどで放送されている「バカ騒ぎ」
である。色々なバカ騒ぎが放送されているが、
「こんなもので人気が出るなら自分も」
という発想で、投稿し
    「アクセスが増えた」
と喜んでいる人間がいるように思う。
 そう言えば、昔大道芸の人間が面白いことを言っていた。
露店で、
「どんなものでも磨けばきれいになる」
と売っていたら、警察官がそれを買って
「官給品の拳銃を磨いたら錆びた。」
と怒って逮捕された。
「常識があれば、見世物の世界と現実の区別がつくはずだ。」
このようにテレビの世界が、自分たちのものとの区別がつかなくなっている。しかもテレビなら、色々なスタッフがコンプライアンスを検討して、ぎりぎりの世界を探している。
 このようなプロの苦労を見ずに、
  「自分でもできる」
と思い込むところに現在の怖さがある。

2019年2月28日 (木)

スマホが思考と行動に与える影響

 昨日書いたスマホの話をもう少し突っ込んでみる。
 このブログで、何回か取り上げた『一般意味論』の活動では、
  「思考と言語」
  「思考と行動における言語」
という問題が考察されている。
 しかし、スマホ時代では、
  「いわゆる『言葉』で表せないもので思考や行動が進む」
状況になっている。
 これは、自分の考えや、感じたものをスマホの画像や動画でとり、それをすぐに発信できる。またその情報を見たものは誰でも、『イイネ』と評価できる。自分で再配布することもできる。更に見た人間の反応もアクセス数などで数値化できる。
 このような
  「自分で発信できる」
  「自分で意見を言える。評価できる。」
という、大衆化が行われている。
 また大衆化の中には、特化したサークルができやすくなることも注意しないといけない。例えば1%に満たない人間でも世界中ならどれだけいるか。このようなつながりができてくる現状をもう少し考えるべきだろう。

2019年2月27日 (水)

スマホ時代の思考力教育

 昨日書いた、思考力と道具の関係で、スマホ時代の話を考えてみたい。
 この話の動機の一つは、先日からテレビを騒がせている
  「学校へのスマホ持ち込み」
問題である。
 これに関しては、賛否両論あるが、反対論の意見として
  「差別問題とスマホの使い方問題」
の二つが大きいようである。
 確かに貧窮家庭の子供に関して差別の問題はある。私も子供の時、テレビのない小学校時代、電話のない高校生活で、色々と不自由をした。しかし、このような持てないこの問題は別途考えるべきと思う。
 さてもう一つの使い方の問題であるが、これはもう少し踏み込むと
  「スマホ時代のあるべき姿の議論ができていない」
という根本にまで踏み込むと思う。
 ここで私が、「スマホ時代」とかき「ネット社会」と書かなかったのは、
  「個人が持ち歩き出来る道具」
としてのスマホの効果を考えたからである。
 個人が持ち歩ける。そこで個人が発信できる。しかも、画像情報・音声付き動画情報も個人が取り込み発信できる。このような世界において、情報の取り込み発進はどうあるべきか、またその情報の拡散はどのようになり、利用はどのようなものか、この問題をきちんと議論できていない。
 従って、指導方針などもできていない。これは学問世界から、政治の段階まで広がる問題である。
 メディアが変える社会に関して。きちんと予測し議論し、規則作りを行う。これが学問や政治の仕事ではないかと思う。臭いものにふたで、逃げる形の禁止で済ませる問題ではない。

2019年1月21日 (月)

会話のスキルに関して少し掘り下げてみた

 先日、産業カウンセラーの会誌に、
  「近頃の子供は電話対応ができなくなっている」
という話が載っていた。
 この問題は、深く掘り下げるといろいろと出てくると思うので、しばらく考えていきたい。
 まず一つ目は、SNSの便利さの話である。SNSでメッセージを送ると、まず相手には読める時に読んでくれということで、電話の暴力的な割込みがないという、こちらの負担減がある。更に、文字で送るために記録が残るから、聞くときの集中的な負担も少ない。
 これから逆に、会話をするときには、記憶しないといけないと、注意を集中していることがあると判る。この話をもう少し深く掘ると、話を理解するためには、その話の舞台というか、全体像をある程度自分で作りながら聞いているとことが多い。そうしないと、話の断片が収まらなくなるからである。
 こうした話の聞き方は、その場で理解することに繋がっていく。これは会話が、個別の言葉の受け渡しでなく、お互いの持っているイメージのような、総合的なモノの伝達や、共感的な世界の構築と言う感じで進んでいることを示している。
 確かにそのような会話だけではない。単に、何かを伝える場合もあるし、自分の声に反応してくれるだけでよいという場合もある。つまり、聞いてくれるだけでよいという状況である。
 さてこれが、メッセージとしての伝達で考えると、文字情報で残るSNS等のツールは非常に便利である。
 しかしそこで失われるものがあったということを、もう少し考えないといけない。
 会話で伝達されたものを理解するためには、その会話の世界を自分で構築し、その世界を修正していかないといけない。このような意識が現在薄れているのではないだろうか?
 もっとも、昔からこのような作業に関して、意識して行ってはいなかったように思う。しかし、ある程度、人との付き合いの間にこのような共感的な土台が生まれ、その上でのコミュニケーションができたように思う。この意味をもう一度、顕わにすることから、色々な改善が出てくるように思う。

2018年12月11日 (火)

権威を維持するための苦労

 近頃、権威の維持に関して、あきれることがあったので、思うところを書いておく。
 まず一つ目は、私はよく内容は知らないが、「M-1グランプリ」などというものがあるらしい。そこで、トップになれなかった人間が、やけ酒を飲んで愚痴をこぼす。それをSNSで公開する馬鹿がいたという話である。
 このSNS公開という問題は、色々なものを含んでいるが、今回注目したのはその連中の愚痴の内容である。つまり、審査員にケチをつけている。この話が、今回の主題である。
 つまり、グランプリなどというものの権威は、そのシステムの関係者の努力で成立しているのである。確かに、審査員に関して、いろいろ言いたいかもしれないが、審査員の判定は、其の中でも一番大切なものである。審査員が一度下した判定は、皆がきちんと従う。これがあるから権威が守られるのである。これが、競馬のように写真判定できるものなら、機械判定で審判が覆っても仕方ない。しかし、芸の世界のように、絶対的な客観基準が難しいものは、審判者の権威による判定しかない。その判定者を貶めるような発言は、そのような取り組み自体の否定になる。
 いうならば主催者のテレビ局などにも喧嘩を売っているということである。
 これに関して、上沼氏が本質的な指摘をしている。
吉本は芸人養成をしているが、人間としての基本を教えていない
まさにこのとおりである。
 さて、その次は、もっと大きなところで、自らの権威を失う人たちが出てきた。今朝の新聞にあったが、K省に関して
法治国家ではない
とまで言われている。確かに、人を招いておいて、その処遇や権威に関して、後から引っくりかえすのは、契約というものを護らない、法治国家ではないというべきだろう。まるで韓国並みの政府である。
 権威というものは、不断の努力で維持しないといけないということ、あらためて考えて欲しいと思った。

2018年8月18日 (土)

写真を全てと思い込む危険性

 昨日書いた、「図と絵の違いに写真を入れて考える」の検討で、大事なものが抜けていたのでもう少し補っておく。
ここで議論したいことは、
   「写真がすべてではない」
という観点からの議論である。昨日書いた記事の終わりの方に
  写真の加工と、絵や図との基本的な違いがある。
 
 
 写真の場合には、不要情報を消去していく引き算
 
 図や絵は、自分が必要なものを描いていく足し算
という風に、写真から出発して、消去していく発想について書いた。
 確かにそのような方法はあるが、写真に乗らない情報もある。例えば、写真に写っている人にも、それぞれの歴史がある。そして色々な環境が影響している。また将来の可能性もある。このようなものは、写真に写っているものから推測できるかもしれない。しかしそれだけではないように思う。
 これは写真ではなく、動画やネット上の散在する種々の情報にも、全ていえることである。どのような情報でも完全というものはない。しかし、多くの情報を与えられると、それが完全と思い込んでしまう傾向もある。
 さらに言えば、私たちは『充実した学校教育』の恩恵を受けている。そこでは教科書の完全性を疑わなくなっている。
 このような、視野狭窄の危険性を考えて、表現できていない者の可能性、見落としの可能性について、謙虚に反省すrことが大切ではないかと思う。

2018年6月22日 (金)

相手をつぶすだけしか議論ができない理由

 先日から、ある番組が
   「反社会的行為を正当化している」
等の意見に押されて、放送中止になったりしている。
 この問題に関して、一つの感想は
現在のこの国の議論環境は、お互いの意見を認めながら良いモノを作り上げる、というレベルではなく、どちらが良いかを主張するだけである。そして、相手を完全に否定することで決着としている。端的に言えば、相手を抹殺するための議論である。
である。
 これは、特に小泉内閣時代に激しくなり、橋下時代の大阪の政治などでも、ひどい動きがあった。特に反橋下の一派には、橋下氏の出自や親の問題まで取り上げて潰そうとして、返り討ちにあったこともあった。このような卑劣な動きが出るのも、
    「殺し合いの延長」
と見ればそのようになってしまうかと思う。
 さて、このような動きが出る理由を考えてみた。一つは、SNSの社会である。特にTwitterに見るような、短い文章だけのやり取りは、極端に走り
    「敵か味方か」
    「倒すか倒されるか」
という形になりやすい。これが原因の一つだと思う。
 そしてもう一歩踏み込むと、言語そのものの成熟という話になる。
 まだ私も整理できていないが言語には、以下の3段階の成長があるように思う。
  1. 外部環境にあるものと類似した記述
  2. 言語自体が独立した秩序を持つ段階
  3. 言語記述の蓄積でそれ自体で議論ができる段階
現在は、言語自体の蓄積が多く、その上で議論ができるようになっている。そのため、逆に言語と実世界の関係が薄くなり、現実性のない「議論のための議論」が多くなっているように思う。
 現実を見れば、そこで妥協点も見えるし、段階的な改善も見えてくる。現実を見ないから、極端に走るのではないかと思う。