ご縁のあった人たち

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2020年5月15日 (金)

物事への関わり方の多様化

 昨日書いた維新の強さの議論をもう少し一般化して考えてみた。私の意見では、維新の強さは

  1. 民衆の「整理されていないが不満」という感情を拾い上げ
  2. 専門家としては原理原則できちんと議論する
  3. または謙虚に専門家に聞く

という、専門家の厳密な議論と、大衆のもやっとした感覚の両面を生かしている点が大きい。

 従来の発想では、

  1. きちんと議論できる専門家だけが発言する
  2. 大衆はそれに従え

型か

  1. 皆が平等誰でも発言できる

という両極端であった。

 これを両面で生かすようになり、

「大衆の感情も大事にしながら、全体を観て政治を行う。」

これが維新の強みだと思う。

 さてこの問題は他でも応用ができる。

 前にこのブログで書いた、クリエイターと読者の関係もこの議論が当てはまる。

 このようにSNS社会では、大衆の関わり方が、変化してきている。これを先取りした人が勝者になると思う。

2020年5月11日 (月)

「日本教」と持続可能性について

 「日本教」について、色々と書いているが、今回は

持続可能性は、一所懸命の発想から出る

という観点で議論する。これは逆に言えば、

侵略国家やフロンティア探しの流動性は、持続可能性に合わない

ということで、具体的には

欧米文明と持続可能性は相性が悪い

という議論である。単純に言えば

「だめだったらリセットする」
「上手くいかないなら余所に行く」

という発想に、持続可能性が求めることができるのだろうか。これの一例として

「日本には数百年持続の老舗が多くある」
「欧米に企業の寿命は数十年体ぐらいしかない」

という事例が、

「一所懸命」

で頑張った結果だと思う。

 さて、ここでお隣の四千年の歴史を持つ大国を見てみよう。この国は、内部で革命を何度も起こしているので、そこでリセットが入っている。しかも、儒教の精神は、

「過去の聖人を理想とする」

ことで、現状への適応力が無い。日本の老舗は

「秘伝のXX」
を守りながら
「新しい試み」

「九敗一勝」
の割り切りで行う

という、守るべきモノと、新陳代謝を上手く組み合わせている。これが、一つの場所で必死に生きる智慧ではないかと思う。

 一所で生きる、これこそ持続可能性だと思う。

2020年5月10日 (日)

小さな声を拾い育てる仕組み

 昨日書いた、発達途上のクリエイターと不安な読者の話に関連して、もう少し広げて考えてみた。昨日の話を一般化すると、

「小さな声を拾い上げて、良いモノを育てる力とする」

と言う議論になる。現在の有利な点はSNS等の力で、

「情報発信のハードルが下がった」

である。ただし、このハードルの下がり具合については、もう少し議論が必要である。確かに、ツールとしてのSNS環境は備わっている。しかし、それを使う人の心が向いているだろうか。この問題について、もう少し議論が必要と思う。

 まず、著者に対して、

「買ったよ!」「良かったよ!」「XX好きだよ!」

等の声をあげることの大切さを伝えることができているか?これに関しては、昨日も引用したように

作り手にとって、作品の購入報告ってね、最高にうれしいです

と作者側からの発信もある。

 しかし、もう一歩踏み込んで

「読者の反応が、クリエイターを育てる道筋を見せる」

方法で、もう少しこのような声を引き出せないだろうか?

 このような関係の

「クリエイターが育っていく状況のライトノベル」

「クリエイターを育てていくゲーム」

等で、

「小さな声が生み出す効果を実感させる」

という方法も無いだろうか?

2020年5月 8日 (金)

読書の方法

 外出自粛の影響で、自宅にこもる人も多いと思う。特に学生の場合は、自分で本を読む機会も多くなるだろう。そこで、今回は

『読書の方法』

について少し議論しておく。

 私の考えでは、読書には以下の3段階がある。

  1. 本に書いている世界で考える
  2. 本の登場人物の心に寄り添って理解する
  3. 著者の立場を思いやり、『何故この本が書かれたか』を理解する

なお、これは3段階と言ったが、優劣を付けるつもりではない。ただこの違いを意識することが大事である。

 1.の『書いてある世界で考える』の極端な例は、数学である。本の中で書いている、定義に従って議論する。それ以外の直観的要素などを持ち込んではいけない。例えば、群論では『積』と言う表現を使うが、これを

  「今までの数学で使った整数などのかけ算」

のイメージで考えると失敗する。あくまで

  「二つの項の間の演算で制約条件を満たすモノ」

と言うルールで考えないと失敗する。大学数学の初心者の失敗は、このような

  「抽象的なルールできちんと考える」

訓練ができず

  「直観的な思考に縛られてしまう」

弊害が残った場合がある。

 一方、2.の『人の心に寄り添う』読み方は、文学作品などに対して必要である。このときには、自分の想像力や直観的な感覚も大いに生かすべきである。

  「人の悲しみ、喜びについて、自分も共感していく」

一方、

  「そのような共感している自分を客観的に観る」

このような経験が、文学的な読書には必要だろう。

 さて、最後に『著者の立場を思いやる』読み方であるが、これは考え方によれば『上から目線』という危険性もある。しかし、

  「著者の生きた時代背景を考え、何故このように書いたか」

を想像することは、著作を理解するために大事な作業だと思う。これは自然科学の論文でも、社会科学の本でも、文学作品でも大切なことである。例えば、物理学の基礎として

  「マックスウエルが電磁気の基礎方程式に関する論文は、当時の機械の発想が入っている」

と言うことを読み解けば、どうして『場の概念』という創造ができたか解るだろう。

 また、私は天台の『摩訶止観』を読むときには、6世紀の環境をできるだけ意識して読んでいる。紙が貴重な時代、これを意識するだけでも得るものがある。

 このような本の読み方を考えるのも良いのではと思う。

2020年4月30日 (木)

日本語をマクルーハンのメディア論で議論する

 日本語を、マクルーハンのメディア論の切り口で考えると、色々と見えてくる。まず日本語の特徴は

「表意文字の漢字と表音文字の仮名の混合」

である。マクルーハンは、

表音文字のアルファベットを使うことで、神職等の特権階級しか使えなかった表意文字から、大衆の文字利用文化の可能性を拓く

と指摘している。中華文明の影響下にある私たちなら、これは

「真名(漢文)を読める知識人の支配=科挙」

と言う実例が頭に浮かぶだろう。表意文字を全て覚えるのは大変な努力が必要である。そこで、

『知識人』と『一般人』の壁

が生じる。これは、中国や韓国では顕著である。

 しかし、日本では

「仮名と漢字の混合で、仮名文字による知識への門戸開放、そして漢字を徐々に覚えていくことで、表意文字のイメージ共有も使う」

という、中華文明の辺境の日本の立ち位置を十分活かし、よいとこ取りを行っている。これには、中国の文明以外に、仏教文明が入ったことの影響もある。日本に入った仏教は、大衆に広げるために、色々な説話を用いた。法華経、維摩経、勝鬘経 や阿弥陀如来の教えは、どれもイメージ豊かな世界を皆に伝えて、その中で『救い』や『慈悲』などの概念を伝え育てている。

 さらに、平安時代には日本独自の物語文化が花を開くが、これも仮名漢字交じりの文章の力である。完全な表意文字の漢文を使いこなすのは、限られた知識人だけであり、一方ある程度のイメージ共有がないと、物語は成立しない。例えば『竹取』と言う二文字でも、多くの人は竹の姿を思い出す。このような共有感覚を持つことが日本の文明の特徴である。

2020年3月16日 (月)

薬師如来信仰について

 昨日の続きで、薬師如来信仰について、NHKブックスの「仏像ー心とかたち」に面白い指摘があった。(私が読んだのは1965年版)

 「薬師如来像に心を探る 梅原猛」

薬師信仰は実利的合理主義に支えられた

抜粋

しかし薬師、それは病気を直す仏様なのだ。われわれは喜びの声をあげる。病気を直すばかりか、現世の利益を与えてくれる仏、それは誰にもわかりやすい。そして、仏教とともに医術が大陸から伝わり、僧は同時に医者であった。薬師崇拝の中に、こうした合理主義、実利主義への崇拝をみないとしたら、われわれは盲目なのである。

~一部略~

われわれの祖先が仏教を現世否定の教えでなく、現世肯定、科学的技術と結びつきうる現世の幸福促進の宗教として受容したモノであることを示している。

薬師信仰ははからずも日本人の魂の秘密を示す

戦前の日本では、功利主義だの実用主義だのという思想は、ほとんど思想として認められなかった。日本でもてはやされた思想は、人格だの、実存だの絶対矛盾の自己同一だのの思想であり、功利とか実用とかを口にするのは、自らの浅薄なる人格を告白するかのようであった。従って哲学史においても、それらの思想は、大抵数行で片付けられてしまった。しかもそれにもかかわらず、日本人は、公的にも、私的にも、大変功利的であり、実用的あったかに思われる。実用主義、功利主義こそ、日本人の魂の底にあり、しかもそれを浅薄、通俗として、公の価値から排除することが、日本人の魂の基本的羞恥であるように思われるが、今この薬師をめぐる評価の中に、この魂の矛盾の秘密が、解き明かされているように思われる。

この話は、『日本教』の本質に関わる議論だと思う。

 なお、実用主義に関する遠慮については、もう少し議論をしたい。

2020年2月 2日 (日)

西洋文明と日本文明の比較 彫刻の例

 日本文明の思考方法は、西洋文明と違った面がある。今回は、像を彫る等の事例で考えてみたい。

 日本の文明は、

「あるべき姿を探り出す」

と言う発想がある。例えば、仏師が仏像を彫るときには、

「木の中にいらっしゃる仏様を表に出すように木を削っていく」

という感じで余分な木を除去するのが、仏師の仕事である。

 一方、西洋文明の場合には、部分を積み上げていくという発想がある。人物像を作るなら、

「まず骨格を勉強する。次に筋肉の付き方を知る。・・・」

と言う形で、段階を経て積み上げていく。この根底には

「部分に分けて、きちんと学んでいく。」
「分けることで解る。」

と言う発想がある。

 一方、日本文明の発想には

「分けたらなくなってしまうモノがある。」
「一度に全体を悟ることができる。」

と言う信仰がある。天台の摩訶止観の説く、円頓止観が一度に全てを観る可能性を示している。この発想の違いを、私たちは心しておかないといけない。

2020年1月14日 (火)

西洋文明と日本文化の違いを宗教で見る 特に偶像崇拝

 西洋文明には

「神の世界は,人間には到達不可能」

という発想がある。一方、日本の大乗仏教には

「誰もが仏になれる」

という可能性を開く教えがある。

 これを,キリスト教やイスラム教にある

「偶像崇拝禁止」

と関連して考えた。確かに、キリスト教でも『十字架のキリスト像』『聖母マリア像』等を拝むことはある。しかし、これは『神』自体ではない。つまり、

「神の姿は人間にはわからい」

という原則は生きている。

 一方、日本では

「仏師が木の中に入っている仏様を掘り出す」

という風に、

「仏の姿を我々は観ることができる」

という信仰がある。それどころか、仏像の色々な姿や持ち物が

「仏の救いの力を表す」

というビジュアルなイメージでの伝承も効果的に使われている。物語による伝承、ビジュアルイメージの伝承、そして経典という、総合的な教え方が、日本の伝承法の強みだった。

 これが明治以降の学校教育重視で,バランスが崩れたように思う。

2020年1月11日 (土)

日本的な意思決定の成功

 昨日書いた日本文明の意思決定論について、今回は上手く働く条件を明らかにする。日本文明の意思決定は、聖徳太子の一七条憲法にもあるように『話し合い重視』ということで、多くの人が絡んでいく。そこで悪い例だと、

「責任の所在が不明」
「状況不適応でも変更不可能」

という事態になる。

 しかし、このような多数の意見を交えることで、

「見落としが少なく完成度が高くなる」
「当事者意識を育てる」
「主体的な参加が促進される」

という利点も生じる。さて、このような『多数による創造』のメカニズムについて、もう少し踏み込んで議論してみよう。

 ある問題について解決策を話するとき、まず問題になった事象について提示される。これは極端な事例も多いだろう。さてここで、今の学校教育や、MBA等の訓練を受けた人間なら

「その問題の本質を見いだす」
ことに注力し
「一般化した規則性などを発見する」

ことを目的に頑張るだろう。これを『西洋文明的な解決』とする。

 しかし、もう一つ別の道がある。そこでは、

「関係者が関連する経験などのストーリーを思い出すままに発言していく。」

という形で話し合いが進んで行く。こうして、事例を多く積み重ねていくことで、

「問題となっている事態の舞台背景が見え、典型的な登場人物が明らかになってくる。」

段階になる。このような舞台の上で、解決策を考えていくことは、多くの参加者の共感を得るようになる。登場人物の考え方などが、参加者の脳内に展開して、共感を得るようになれば、

「皆が納得する解決策に近づく」

ことになる。このように、

「種々のストーリーが収束して、舞台や登場物に結晶化していく」

作業は、多分クリエイター達の作業にも類似するのだろう。

 さて、ここで大切なことは、西洋文明的発想と、日本文明的発想の根底にある宗教的な違いである。

「西洋文明の根底にある、神の世界への到達不可能性」

「日本文明の根底にある、皆に存在する仏の力」

つまり、西洋文明は古代ギリシャでプラトンが『洞窟の比喩』で諦めたように、

「全体を知ることは人間にはできない」
従って
「部分的に厳密な理論を展開したら満足」

という形になる。一方、日本の文明には、

法華経など大乗仏教が説いた
「皆には仏の力がある。全ての世界を知ることができる。」

という信仰が根底にある。このように可能性を信じ、物語を展開しながら、本質的な答えを探す。これが日本文明のよいところではないかと思う。

2019年11月20日 (水)

小さなモノでも全てを観ることの大切さ

 全体像を描くことが大切という話は、このブログでも何回か行った。昨日の議論もその一つである。

 さて、このような全体を見るために、小さなモノを創る経験が有効という議論がある。これは、私の会社生活の経験からもいえる。私は入社5年目で、新しい会社の立ち上げに参画し、10人程度の会社を見ている。この経験が、大きなメーカーの中で生きていくとき色々と影響している。

 日本の『縮み志向』と言われるが、小さなモノで全体を表し、そこに誠意を込めていく。盆栽などがその一つだと思う。このように、小さなモノで全ての世界を表す。こうした経験が、全体的な調和を見るのに必要ではないかと思う。

 しかし、大きな組織の中での分業を行うとき、色々なスキルが必要になり、文書化などで見える形で伝わるモノも大きい。この両面を上手く生かして、人材育成を行うことが大切だと思う、

 特に、理論的な突破を行うためには、ある種の理想化や簡単化も有効である。このような多様性を本当に生かしていく、これが政治であり、経営ではないかと思う。

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