2009年4月29日 (水)

子どもの天才

 あるテレビ番組で見たが 

 「子どものピアノは、多くの天才が生まれる。
  しかし、成人した後まで
  天才であり続けることは、ほとんど無い。」

と言う話しには、色々考えるべきものを含んでいる。一寸思いつくものは、以下のとおりである。

1)子どもの教育訓練効果
 子どもに対して、適切な訓練を集中して行うことで、能力を開発する可能性は、低くない。但し、この場合に評価されるのは、正しく指が動いて、それなりの演奏になるレベルであろう。

2)大人の天才の意味
 大人になって、天才として受け入れられるためには、単に手が動くと言うレベルでは、通用しない。作曲家の思想的な側面や、信仰まで踏み込み、しかも自分の思想まで含めて表現しないといけない。

2')真善美に加えて聖
 よい演奏の評価は、子どもなら直感的にわかる。美と聖については、直感でわかる世界である。しかし大人になると、真や善が絡んでくる。この段階では、自分の哲学や倫理を持ち、しかも他人の信仰にまで理解できないといけない。

 特に、子どもで天才と言われた場合には、知識の幅をもたせて、教養を身につけるのに失敗する人が多いのではないかと思う。その点アメリカの教育と言うか、社会は、天才を特別扱いせずに、育つ機会を与えているように思う。

 ヴァイオリンの五嶋みどりさんや、諏訪内晶子さんは、アメリカの大学で、音楽以外の勉強を学び直している。このような、子どもの天才をきちんと育てるには、日本の風土に何か欠けているものがあると思う。日本で、教養も備えている音楽家としては、青柳先生がいるが、彼女の家系は特別すぎるので、参考にはならないと思う。

| | コメント (0)

2009年4月 6日 (月)

言葉を知るということとスキルの関係

 日経ビジネスのHPに面白い記事を見つけた。http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090403/190984/?bv

 ここでは、
   「日本人は、仲間内の話には慣れているが、
    外の人を信頼する力が無い。」
と言う話しを展開している。その理由として、
   「人と信頼し信頼されていると言う
    シグナルを発し、受け取るスキルが未発達」
とここでは書いている。

 この話しは何となく納得してしまった。更にこの国を考えてみると、言葉を知るということに関しては、教育制度の効果で、かなりの成果を得ている。言い換えると、人の言うことを聞き取る能力は、多くの人に普及している。

 しかしながら、その根本を理解し、評価する能力が身に付いているかは、別物である。

 このように、「聞き・読む能力」と「評価する能力」のアンバランスでは、デマに惑わされることも多く、『空気』が力を発揮することが多いと思う。

| | コメント (0)

2008年12月28日 (日)

アメリカの会社経営者の倫理

 アメリカの会社経営者は、近頃のビルゲイツの例でもあるように、福祉事業に大きな寄付をすることが多い。彼らには、ヴェーバーの言う所の『プロテスタンティズムの倫理』が影響しているように思う。

 また、アメリカの経営者が不都合を働いた場合には、多額の賠償金の訴訟で制裁を加える。これは、昔の決闘で決着をつける代わりに、裁判での決着と言う感じがする。

 このような、昔の仕組みの影響があるアメリカのシステムを、単純に模倣したのが、小泉改革ではなかろうか。特に会社法の改正で、会社を作りやすくしたが、アメリカでは経営者の倫理を支える宗教倫理と、不正経営者を葬る仕組みがあったが、日本の場合はそれが見当たらないように思う。

| | コメント (0)

2008年12月14日 (日)

忠臣蔵の見方

 年末になると「忠臣蔵」が流行ると言う。赤穂浪士の討ち入りに関し、結構人気がある。

 しかし見方を変えれば、多数の人間が集まって、一人の老人を討つ。これはある種のリンチである。また別の説では、
   「幕府の政治に対する抗議行動としての、討ち入り」
と言う意見もある。

 ここで気になるのは、後者の見解に於ける、「被害者の吉良上野介」の扱いである。幕府政治に対する抗議と言う、大きな目的のためには、
  「吉良上野介の名誉」
等と言う
  「小事は無視しても良い」
発想が見えてくる。

 このように片づけてよいのであろうか。

 この発想は、「沖縄ノート裁判」や「百人斬」論争にも影響しているように思う。

| | コメント (2)

2008年11月24日 (月)

マルクス主義教育の成果

 団塊の世代の受けた教育は、マルクス主義歴史観に支配されしかも大学では、全共闘的価値観で、
  「資本家は悪人・保守政治家は腐敗・自衛隊は旧軍の影響下で暴走する」
と推し付けられていた。そのような教育を受けた優等生が、田中角栄首相の教育優遇政策で、教師になった。

 このような教育の結果、悪人視された人達が、素直に仕事ができるとは思わない。信用されていない人間が、節度のある仕事をするとは思えない。

 まず労働は尊いことである。国のため、公共の福祉のために、働く人への尊敬が基本として、国民の合意が得られないといけないのではないか。

 平安時代から、令外官として貴族からさげすまれてきた、武士の革命が鎌倉幕府である。今の自衛隊は、令外官でしかない。しかも、軍人としての命令服従と言うことを理解できていない将官がいるような組織である。

 これも、戦後の平和野党などが、色々押し込めてきてツケが出ているように思う。

 仕事は、義務を果たすことで、皆から尊敬を受ける。その結果、良い仕事が広がっていく。どちらが欠けても、上手く廻らない。

| | コメント (0)

2008年10月25日 (土)

仏像の受難

 ある人が、
  「仏像は昔は信仰の対象だったが、今は美術品に堕落した。」
と言ったらしい。

 しかしもう一歩昔に戻ってしまうと、明治維新の廃仏毀釈時代では、
  「仏像は風呂の薪であった。」
と言うこともある。奈良の興福寺などでは、「仏風呂」と言ったらしい。

 そのような立派な伝統のある、奈良の仏教界が、仏に角を生やすイメージを糾弾している。自分のしたことは棚に上げ、人には偉そうに言う。何か、お釈迦様が嘆いていそうに思う。

 さてそのような迫害を生き延びた、興福寺の寺宝展が開かれているらしい。そのような状況を生き延びた仏様だから、さぞご利益があると思う。もっとも、燃えにくい物で風呂につかねないだけかもしれないが・・・

| | コメント (0)

2008年9月 4日 (木)

皆が主役の学芸会のルーツ

 近頃の学校教育では、皆が主役の学芸会と言うものがあるらしい。つまり15人の白雪姫と、15人の小人と言う話らしい。これが笑い話でない所が、現在の変な平等主義の効果らしい。これは、ひどい話と思ったが、このルーツを思い出した。

 20年ほど前に、ある大学の院生の卒業生を、会社の都合で学会に入れようとしたら、ひどく反発された。その理由は、旧2期校である同校では、教授をバカにしないと見極めのついた人間しか、学会に入れないと言うことであった。

 つまり、その先生たちが主役である学会を、学生に見せていて、全国レベルの成果で、学生に評価させないようにするため、学会に入れなかったらしい。このような発想では、皆が主役の学芸会が生じるのは、当然だと思った。

| | コメント (0)

2008年7月27日 (日)

本物を見る

 芸術や職人の世界で、本物と言うことに関して、議論をしてみたい。

その1.ある所で自分の店を持っていた、管理栄養士の話しから

 彼女は、自分のつくるプリンに関して、非常に自信を持っている。彼女は、プリンの原料の内、卵がポイントと考えて、数ヶ所から取り寄せて、ある卵を選んでつくっていた。しかし、近所のフレンチレストランで食事をして、最後のデザートがプリンだったと、怒っていた。ただし、彼女のプリンと食べ比べたある人は、
 「良い材料を使っても、あのレストランには負けている」
と評価していた。

その2.某ピアニスト

 彼女は、海外の某作曲家の難曲を弾きこなすが、その後ろにある信仰にまで、理解が及んでいない。その作曲家に会いに行ったが、「カソリック信者でない」と言う事で、不機嫌な顔をされたと言っている。しかし、その作曲家の演奏を聴いたある人は、
 「その作曲家の曲を別の人が演奏した時、神の恩寵が降りてきていた。
  彼女にはそれが感じられない。」
 これは、カソリックで無くても、ある種の超越者に対する敬虔さ、自らの弱さに対する認識のような何ものかを、感じているか否かで違うものが出てくると思う。

 ただし、このような場合に本物に正面から向き合うと、自分がつぶされる可能性も大きい。本物を求めると言うことには、それなりの覚悟が必要である。

| | コメント (0)

2008年7月22日 (火)

灰色の意味

 ある所で、
  「灰色には全ての色が入っている」
と言う話を聞いた。確かにそのとおり、私は小学校の頃は、絵をかいた時、最後にそれまで使った色全てを混ぜて、灰色にして、背景等に使うことが多かった。全ての要素が入った色が、何となく好きであった。

 しかし、中学の時、
  「色を混ぜると濁る。」
と指導され、そのようなことはいけないと教えられた。

 今にして思うと、色々な色を混ぜておくのも、良かったように思う。美術等で、指導と言うのはどこまで行うのがよいのか一寸考えてしまった?

| | コメント (0)

2008年5月 6日 (火)

この国の制度は

 この国の制度を色々考えてみた。乱暴なことを言えば、明治維新の欧米に追いつけと言う制度から、何が変ったのであろうか?明治の時代には、とりあえず理工系の実用知識不足を防止するため、知識普及の仕組みとして、学校制度を作った。そして、国をになうトップ官僚の育成制度を作った。

 さて、現在はどうなっているのであろうか?まず官僚制度は、多数の国家公務員として採用した人間に、事務次官と言う唯一のポストを目標を与えて、猛烈に働かせる。そして、同期から1名の時間が出ると皆別の道を求めて、天下っていく。この制度はまるで、1匹の女王蜂を求める雄蜂のようである。但しこの国の雄蜂は、天下り先で、秘書・車・・・と言うそれなりの処遇を得ているようである。

 一方、知識付与の底辺教育は、ゆとり教育までの一連の改革で、大きく変ってしまった。ある意味で知識重視と言う意味の過剰適応かもしれない。学校教育についていけないと、直ぐにXX障害と言う。

 今江戸時代のブームになっているのは、明治の改革に対する反発かもしれない。

 個人的には、多様性の受容、複線のキャリアパスでしかも向上意欲を失わない仕組みが重要と思う。

 

| | コメント (0)

2008年4月12日 (土)

橋下知事の効果

 大阪の橋下知事の改革PTが1100億円の再構築を示した。この効果は、大きい。極端な方向付けから、いかに予算を復活させるか。これが、議員たちの腕の見せ所になる。

 従来は、予算を取ってくると言う話しから、復活させる。削らせないに議論が移るようになった。これは大きいと思う。

| | コメント (0)

2008年3月16日 (日)

ブランドについて

 日本は、ヨーロッパに比べて、ブランドの発信が下手といわれている。例えば、「日本のもの造り哲学」等を参考にして欲しい。

 さてこれは本当であろうか。確かに、東京圏で考えていると、そうかもしれない!しかし、一度京都の町を歩いてみたらよい。京都駅ビルから10分も歩けば、古の権威=ブランドが、溢れている。更にヨーロッパを見れば、幕末明治のジャポニズムが、フランス等に与えた影響も大きい。だいたいルイヴィトンの、モノグラムの模様を、日本の物まねと理解している人間がどれだけいるのであろうか?茶道等のブランドも、大きな力がある。

 このように考えると、明治維新と第二次大戦後の欧米崇拝が、この国のブランドを壊したのかもしれない。だいたいブランドと言う言葉自体、輸入概念である。

 さて、明治時代の指導者を考えると、既存の体制では上流とはいえない人たちが多く、既存の権威をひっくり返す傾向があった。さらに、アメリカと言う国は、本国の権威に反発してできた、移民国である。この国の東京官僚たちは、アメリカのルールに戦後はあわせようとしている。そのような動きが日本のブランド発信力を、妨げているのではないか?

 もっとも、日本のアニメの発信力は、まだ健在だし、京都の方では、「都落ち」や「東下り」と言う言葉が残っている。まだ期待できるかな?京都大学あたりから、日本のよき伝統について、発信してもらっても良いが・・・

日本のもの造り哲学 Book 日本のもの造り哲学

著者:藤本 隆宏
販売元:日本経済新聞社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0)

2008年2月 2日 (土)

単線評価と各々の立場

 日本の官僚機構は、たった一人の事務次官を目指して、キャリア採用した多くの人材を、育成のキャリアパスに乗せている。しかし、色々な立場の専門者として自らを活かす、複線型の発想も必要ではないかと思う。多くの人材を採用した以上、活かしきれないのは国家的損失と思う。

 そう思っていたら、大阪の女子マラソンで、福士加代子さんが挑戦していた。トラックの王者もマラソンに出たくなる。これも単線思考かなと思ってしまった。

 各々の立場で、最善を尽くしそれが報いられる世界が必要と思う。逆の発想では、自分のことを単線的な基準でしか評価できないことが、原因かもしれない。自分の技に誇りを持って、「一隅を照らす」矜持を持った名人は、現在のマスコミ世界では、自分を保つのが難しいかもしれない。

| | コメント (0)

2008年1月30日 (水)

北京オリッピックで料理は?

 北京オリンピックで、各国の選手や観客が、北京に押し寄せる。そこで気になるのは、中華思想の塊のあの国が、各国選手に対して、どのような食事を供給するのであろうか?

 東京オリンピックの時には、日本は各国と言っても欧米中心だが、それぞれに対応した料理を準備したと聞く。そのような柔軟性が、各国にあるのであろうか?

 日本人は、そういう意味では、器用に対応している。ある意味で無節操とも言うべきである。逆に、各国の譲れないもの対して、理解が少ないように思う。

| | コメント (0)

2008年1月 2日 (水)

kyがはびこる原因

 今時の恐がられている言葉として、「ky=空気が読めない」がある。「おまえはky」と言われたら、仲間はずれにされそうで、これを恐れている人も多い。

 確かに、昔から「場を弁えない人間」は嫌われてきた。例えば、学会の場においても、質問するのはその場の長老各の先生から順番、と言う不文律があり、若輩が質問すると睨まれたものである。もっとも、大会の状況では、質問が出なくて司会者が困り、誰でも良いから質問して欲しいと、すがるような目つきで会場を見渡すことも、特に地方の大会等では見受けられた状況である。そこでも、大先生の意向に逆らうような質問は出来ない。

 さて、これが小学校の教室で行われたら、どのようになるであろう。毎度おなじみの、滝山コミューン一九七四 ではないが、学校で疎外された子供の心は、どれだけキヅツクか、そして教師と教室の『空気』に必死に従うようになってしまう。しかも現在の教育では、『XX障害』と言う教師側の印籠がある。昔は、勉強ができるとよいと言う、一つの逃げがあり、教師よりよく知っている子供の活きる道は、何とか見つけることが出来た。しかし現在は、『高機能性広汎性発達障害等』と言う強力な武器がある。

 例えば、教師の教えていることが、非効率に見える、「インド式計算術」を身につけた子供が、学校に居る場合を考えてみよう。算数の問題演習では、時間が余って仕方がない。しかも先生の間違い等が目に付いてしまう。そこで落ち着きのない行動をしたら、「注意欠陥多動性障害」等と言う、診断が待っている。教師の言うとおりに、おとなしくしない子供に対応する手段が色々ある。

 このような世界で、育った子にとって、空気が読めないのは、「XX障害」の診断を受けるようなものである。

 「そんなの関係ない!」と言いいたい人間が、たくさん居るような気がする。

| | コメント (0)

2007年12月28日 (金)

日本人の論理手法

 日本人は、空気で意思決定すると言うのは、山本七平氏の指摘である。その理由を考えてみたが、一つは論理構造が欧米の知識人と、一寸異なっている点にあるように思う。日本人の論理は、シミュレーション的な思考実験を、主体にしているように思う。

 欧米では、アリストテレス以来の伝統ある、三段論法に始まる、記号論理の手法がある。そして、ヒルベルトの幾何学のようにきちんとした定義した用語で、議論をするようになっている。一方、日本の幾何学は、定規とコンパスでの作図を土台にした、教え方になっていた。

 しかも、日本は俳句の季語のように、共通感覚や連想を重視する文化がある。この影響で、思考実験の登場物はラベルが一人歩きする傾向がある。そして、だんだん具体的なイメージが膨らんでいく。これが空気を引き起こす一つのメカニズムのように思う。

| | コメント (0)

2007年12月16日 (日)

司馬遼太郎氏への疑問

 近頃は少し影響が薄くなったが、司馬遼太郎氏の歴史小説が、日本の企業人に与えた影響は大きい。特に幕末から、明治までの一連の著作の影響は大きい。私も、『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』を、愛読したものである。

 しかし一寸気になる点が出てきた。『坂の上の雲』で一つの重要場面である、日露戦争の旅順要塞攻防戦の取り上げ方である。旅順攻撃に関しては、色々な議論が出ているが、大別すると、乃木将軍の採った工兵主体の正面攻撃法と、海軍が主張した二〇三高地攻撃法と、どちらを是とするかに分かれる。司馬遼太郎氏は、後者の二〇三高地攻撃を採り、乃木将軍無能論に組している。確かに『坂の上の雲』の記述は、綿密であり、しかもあとがきで、新資料による指揮者の責任問題の訂正まで、入っている。しかし、旅順攻防戦では、一つ重大な議論が漏れている。それは、二〇三高地攻防戦の前に、乃木軍は既に、別の拠点を占拠し、旅順港内のかなりの部分に砲撃を加えて、実質旅順艦隊を無力化していたという話しである。これがあると、二〇三高地攻防戦の必然性は、大きく薄れてくる。

 確かに、二〇三高地攻防戦は、攻める方の被害も大きいが、守る方も兵力が要塞の外に出るだけに被害は大きくなる。従って、要塞攻防より短期で決戦が出来る、という説もある。しかし、兵力を損なうことが少ないのは、工兵と兵器を集中した、正攻法が優れている。乃木将軍の採った戦術は、最初は白兵突撃で、死者を多く出したが、その後は被害の少ない正攻法で攻めている。その意味では、『坂の上の雲』で書かれている様な、無能な将軍ではないように思う。

 また戦略的に考えても、旅順要塞の攻略は、日露戦争で世界が認める、日本陸軍の勝利である。奉天の会戦などは、ロシア得意の戦略的後退と言えばそれまでである。しかし、難攻不落と世界に宣言した要塞の攻略は、日本海海戦の勝利とおなじ意味がある。これを、奇襲で裏口から落としても、世界が認める勝利とはいえない。

 さて、ここで司馬遼太郎氏は気に入らないだろうが、山本七平氏の指摘を、一つ入れておく。
 「日本陸軍の幹部教育では、乃木将軍無能論が幅を利かせていた」

 この理由を私なりに考えると、日本陸軍が求めたのは、「奇襲により短期勝利」であり、「正攻法の装備を求めず、天才の発想で解決する」である。このスローガンが、
 「足らぬ足らぬは、工夫が足らぬ」
である。これは、予算を使わないで、兵隊の訓練と士官の工夫で戦いに勝てという話しである。確かに、日本の国力を考えれば、分不相応な装備を求めるのは無理である。従って、考え方としては、「装備より訓練で」と言うは間違っているとはいえない。そのために、日本の戦いとして、源義経の奇襲や、織田信長の桶狭間の奇襲を、持て囃している。このような奇襲至上主義が、日本陸軍の宣撫であった。

 司馬遼太郎氏の記述は、どうもこの「陸軍方針」と、一致しているような気がして仕方がない。

 なお、この方針は一部の経営者にとっても、非常に心地よいものである。
  「安易に設備投資を求めず、工夫せよ」
と言うのは、今でもどこか出来終えてきそうである。確かに司馬遼太郎氏の時代は、日本の経済力も弱く、
  「買いたいものが買えないから、何とか工夫せよ。」
  「どこか他所の思いついてない場所から攻撃しろ。」
としか経営者にも言えなかったであろう。

 しかし現在もう一度、正攻法の仕事の仕方を考える時が来ていると思う。

竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫) 坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)

| | コメント (0)

2007年11月26日 (月)

擦り合わせ設計と納豆

 日本の擦り合わせものづくりが上手な理由の、一つの仮説を思いついた。

 それは、日本の発酵文化である。日本のものづくりの、一つの側面は、酒・納豆等発酵の活用である。発酵は原型を崩し、皆が一体に成って製品となる。漬け物もそのような側面がある。

 このような風土が、擦り合わせを推進しているように思う。

 

| | コメント (0)

2007年11月13日 (火)

ギャグだけは寂しい

 近頃のお笑い芸人は、個人のギャグで生きているらしい。確かに、決め技の一言は、誰でも真似しやすいし、広がりやすい。

 しかし本物のお笑いは、話しの間など色々な面があると思う。昔は、子供は一言を真似し、大人は間の妙等の本当の芸を楽しんでいた。

 本物の芸が、育ちにくくなったのか、受け入れなくなったのか?

 何か寂しくなってきた。

| | コメント (0)

2007年10月28日 (日)

国語教育と道徳教育

 日本の国語教育は、教材に道徳的なものを、押し込めていると書いた。この理由は、戦後のアメリカの道徳禁止に対して、国語に道徳教材を押し込めた経緯があると、以下の本に書いてあった。

人生の教科書情報編集力をつける国語 (ちくま文庫 ふ 29-8)

 この指摘は、正しいと思う。しかし現状では、もう一度国語を見直すべきではないかと考える。

 特に、美意識の押し付けには困ったように思う。

 少なくとも中学以降の国語は、論理的言語処理能力と文学的美の鑑賞力をきちんと分けて欲しいと思う。

| | コメント (0)

2007年10月23日 (火)

歴史の研究

 歴史の研究では、どうも細部の研究が受けるらしい。しかし、大きな流れでつかまえてみるのも必要ではないか?前にも書いたが、日本の歴史でも、宗教の影響を大きく見てみると、織田信長の評価など変わってくるだろう。

 しかし、西洋文明の進化論的歴史観も、困ったものだと思う。変な文明優位の視点や、マルクス主義などが色々害毒を流している。

 健全な立場での歴史哲学が望ましい。

 

| | コメント (0)

2007年9月19日 (水)

ドラゴン桜の続き

 ドラゴン桜の中でも、第二巻「カリスマ教師集結篇」の国語教育論は、一番深みがあるように思う。講談社文庫のp138から、”国語の魔法”と言っている項目である。これは、昭和24年ごろにあった、西尾実vs 時枝誠記の、「文学文芸としての国語」vs「言語技術」論争を思い出す。

 特に、今までの国語の授業を、「教師が感動していないのに、国の押し付けた”感動のマニュアル化”を、一方的に流す」と斬って落とす所は圧巻である。その魔法を説くために、毒を読ませる。そこからスピードに導き、更に”断定による思考停止”を排除しながら、論理性を強化していく。わずか30ページによく書いていると思う。

 子供の成績を上げるなら、まず算数の計算で、勉強の体力をつけ、次に国語の正しく論理的に、速く読む力を鍛えるべきである。

 ドラゴン桜の国語の話しは、まだもっと深い話しが後ろに控えているが、とりあえずここで一区切りする。

| | コメント (0)

2007年9月14日 (金)

年金の運用

 今は一寸下火になったが、年金問題の議論がマスコミを賑わしている。そこで一つの議論が、
 「資産をどう運用するか?」
である。

 しかし、投資に関する勉強等習っていない。勉強優等生の官僚たちに、運用が出来るのであろうか?しかも金儲けを軽蔑するような儒教の影響が大きいと、ますます悲観的になる。

 「金儲けは悪いことであろうか?」

| | コメント (0)

2007年9月 7日 (金)

現在に生きる士農工商

 前にも書いたが、現在も士工商はあるような気がする。物作りは下々の行うこと。さらに自分で物を作らなくて、売り買いだけで儲けるのは虚業と言う評価を受ける。

 この原因は、この国の根本にある、『儒教』的な道徳観があるように思う。「~栄華の巷を低く見て~」の学校で教えられた先生方が、子供に教育する。この結果、「金儲けは悪い・・・」と言う発想になる。

 昔ある大学の先生が、
  「高校までの教育で企業は悪と教えられている。
   そのような学生を就職するようにもって行くだけ
   でも難事である。」
と言っていたのを思い出した。これは、マルクス主義の影響と思っていたが、儒教精神もあるのではないかと思う。

| | コメント (0)

2007年9月 5日 (水)

日本の主体は武士か?

 近頃日本の文化として、武士道と絡めて話されることが多い様に感じる。しかし武士道や儒教の影響は、せいぜい江戸時代や明治以降の話しであろう。

 特に物造りの立場では、石田心学のほうが性に合うように思う。

 「商売人は口を出すな」

と偉そうに言う、学者等を生み出すのは、変な武士的特権意識ではと思う。

| | コメント (0)

2007年9月 4日 (火)

日本の国語教育について

 米国等では子供の頃から、「事実と意見の区別をしっかりする」と言うことを、教育している。このような言語の技術をしっかり教えるのが国語教育だと思う。

 しかし日本の国語教育は、どうも「言語技術」より「道徳」を優先しているように感じる。もっと言えば、編集者の主観と価値観の反映した文書を読んでいる。そこには、事実と意見の混在が基本的に存在する。

 これでは客観的な議論は難しい。そこで、司法の訓練は、事実と意見の分離と、法的三段論法の使い方をキチンと訓練するらしい。そこで、このような国語教育を創ったのは、法律の専門家を、一般人と差がつくようにした、東大法学部出身の国家官僚の陰謀ではないかと思ってしまった。

| | コメント (0)

2007年9月 2日 (日)

連続動作と言うこと

 前に、日露戦争の日本海海戦で、ロシア軍の無線装置は、連続的な送信に耐えないという話を書いた。これは、通信装置等の世界では結構よくある話である。そのような条件を表現するのに、「連続動作定格」「瞬時定格」等と言ったりする。つまり一瞬のピーク動作には、通常以上の力を使うと言う発想である。強力な送信信号が、受信側に回り込むと、受信側が壊れる。しかし、一瞬の信号入力なら壊れる前に止まるので被害は無い。

 しかし、人間の脳力に関しても、大部分は使わないでピークの時全力を出すと言うことが多い。

 ここで、写真家の梅佳代さんのことを思い出した。彼女は、24時間カメラを持ち歩いている。このプレッシャーに耐えると言うことは、すばらしいことだと思う。ピーク値でなく連続定格で、プロの感性を維持しているのが凄い。 

| | コメント (0)

2007年8月21日 (火)

相撲とは何だ?

 モンゴルから来た横綱の振る舞いについて、色々取りざたされている。しかし、どうも議論の食い違いがるように思う。皆が、相撲に何を期待しているかが、外国から来た人に、伝わっていないのではと思う。

 海外の人たちは、格闘としての相撲しか見ていない。しかし、日本の相撲への期待は、神事ではないかと思う。このような暗黙的な了解での文化は、国外の人たちには、理解が出来ないものがある。自分の思いを勝手に押し付けると、海外との摩擦を引き起こさないか、心配である。

| | コメント (0)

2007年7月16日 (月)

インド式計算術について再考

 先般書いた「インド式計算術」について、一寸本を買って読んでみたら、色々と面白いことを、再認識した。まず私が買ったのは、

インド式秒算術 インド式秒算術

著者:P・クマール
販売元:日本実業出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

であるが、まず著者が面白い。いわゆるMBAの取得者である。日本のMBA取得者は、まず理論的な話しをし、数値ならEXCELあたりで、簡単に計算するであろう。ところが、この本の前書きでは、計算を速くする効用として、
 ・経営学修士(MBA)や大学院共通入試(CAT)の
  受験対策として有効
と書いている。このような実際の数値での手計算を、重んじる所が現在のインドの経済発展を支えていると思った。

 歴史的に見れば、この計算は古来インドの『ヴェーダ』に由来する。インドは、ゼロによる数値表現を発明した国であり、われわれが学ぶ前の、整理がされていない計算法から、多くの工夫が生まれたものと考える。

 そこで、我が国の計算法を考えてみると、直ぐに思いつくのが、『ソロバン』の存在である。数値の特性に対して、思惟をめぐらせ、精巧な計算法を編み出すインド文明と、適切な道具を用いて、処理を高速化する、日本文明は基本的に異なった立場である。なお、ソロバン&計算尺から電卓に移った時点で、ブラックボックスが増えすぎておかしくなった副作用があるが、これは別途述べたい。

 さて、インド式計算術の本質は、具体的な十進数値の特性を、個々に調べて、その特性に合わせた計算を行うことである。例えば、5という数字は二倍して10にすると計算が楽になるなど・・・
 これは日本数学の先生に言わせれば、「単なる応用だ、重箱の隅をつついて、喜んでいるだけ」という非難が飛んできそうだ。

 しかし、このような数値の本質的な特性を見抜く力は、魔術師といわれた天才数学家シュリニヴァーサ・ラマヌジャンが、発揮している。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3

 道具に頼るわれわれの文明と、別の考えがあるということを、もう一度考え直したい。なお、昔(1970年ごろ)ソ連の計算機プログラムのあまりにも巧緻な構成に感嘆したこともある。欧米文明は、機械に頼りすぎ、人間の工夫を少しおろそかにしたように思う。

| | コメント (0)

2007年6月30日 (土)

模型での伝承と紙での伝承

 テレビの旅行番組で、「ギリシャの人が孫のために船の精密模型を作る」と言う話を放送していた。細部まで良く出来ている模型であった。この模型は、神への捧げ物と言うことであった。

 しかし、物作りの観点で考えると、これは船作りの技の、優れた伝承方法と思う。大きな船を、簡単に作るわけには行かないが、模型の細部で必要な形や、からくりを伝えることが出来る。

 現在の我々なら、直ぐに設計図での伝承と言うことを考えてしまう。しかし、昔のヨーロッパでは、紙は羊皮紙で貴重品であった。そのような状況では、木材から作る、模型のほうが、比較的容易に作れたのかもしれない。

 現在の『物造りの目ー先入観』に惑わされてはいけないと思った。

| | コメント (0)

2007年5月22日 (火)

日本の翻訳力

 日本の明治期の海外文化輸入消化力は、世界の水準以上であったらしい。その理由として、物理・数学などの基礎学問を、日本語に翻訳した力も大きいと思う。

 このベースには、聖徳太子の仏教輸入からの伝統があると思う。その伝承で、漢文を読んでいた教養人が、和魂漢才を和魂洋才切り替えたのだと思う。

 また物作りの職人が確りしていたのも大きいのではないか?蒸気船を直ぐに模倣した力は、理論だけで出来るものではない。この面からの研究も欲しいものである。

| | コメント (0)

2007年5月 6日 (日)

裁判員制度について

 裁判員制度について、アメリカの教育の小学生時代からの違いを、一点指摘しておく。それは、「事実と意見の記述」を確りと区別する訓練である。

 アメリカでは、小学校時代から「事実と意見」を確り区別する能力を植えつける。従って、裁判における証言でも、「事実」を確り抽出して、自分の判断を下すことができる。

 しかし日本では、この分離があまり確りしていない。

 またディベートの教育も、アメリカの裁判を見ているようである。このように子供のときから裁判に役立つ、言語処理能力を訓練されているから、陪審員制度も上手く動くのではないかと思う。

 我が国の政策の、総合性の欠如をここでも感じてしまった。

| | コメント (0)

2007年4月21日 (土)

小論文の参考まで

 小論文を作成するのが、苦手と言う人も多い。その中には、書き方が判らないと言う人も多いと思う。しかし、何を書いたらよいのかと言うことで、迷っている人も多いのではなかろうか?

 ここでは、一寸パンチの効いた意見を言うために、薬味になるキーワードを、2つほど紹介しておく。このキーワードに自分の体験を絡めると、迫力の出る小論文になるので、お試しあれ。なお、これは大分昔の本から見つけてきた、小野派一刀流の前の宗家、笹森順造氏の言葉を参考にしている。旺文社スポーツシリーズ:「剣道」昭和30年初版より。

<その1> 主心
 稽古をはげみ、師から習うといっても、主心を失ってはならない。主心というのは、わが心を主人とし外界のあらゆるものを客人として、この客人から多くのものをまなび取る心がけである。人は五官に触れるものに心を傾けて工夫をこらすと、何事でもわが教えとならないものはない。さらに進んで第六官を働かせて直観し、天啓を聴くと、凡百の物みなわが師とならぬものはなく、万物ことごとくわが味方となるものである。どんなに物が沢山有り余っていても、われに求める主心がなければ人から与えることができないものである。この世の中にわれを教える師がないなどというのは、自ら求むる主心のない愚者のいうことであって達道の見込みないものである。俗にいう「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」と。稽古に当っては子供や下手を相手としても、なおかつまなぶのでなければ上達の限りをこえるようにはなれない。日頃弟子をさえわが師と思い、その弟子を相手として長を知り短をみてみずからまなぶのは名人に達する秘訣である。

<その2> 守破離
 稽古を単に先師の教えを守ってその域に達することだけのものではものたらない。競技者はこぞって新建設と創造発展に協力しなければならない。昔から伝わったよい技をことごとく習い覚えるのは容易ではないが、相手を選んでまなび、常に相手より一方上にでる努力をする。相手はまたわれより二歩上に出る。われまた三歩相手を凌ぐ。ここに相互に相競って優位を占め、新しい境地を拓くには単に古法旧師の伝授のみに泥み、いわゆる「琴柱に膠し、船に刻む」ようなことでは果たされるものではない。創造発展の過程を示す語に「守破離の三階」というものがある。はじめ稽古するときには師の伝をすなおに受け入れそれを忠実に守って、一点、一画もゆるがせにせず、その通りに習い、これがわがものとなりきったところで、次にはその則を破り、技の法を破り、心遣いを破り、さまざまに仕ってみ、みずから会得するところがあるようになったならば師伝を離れ、新しいものを創成して添加し、前代未聞の境地を開いてこの技の建設伸長に無限発展の歩を進めていくべきである。

| | コメント (0)

2007年3月20日 (火)

暗黙知と偶像崇拝の可否

 暗黙知に関して、日本と欧米の違いは、キリスト教の偶像崇拝禁止が影響しているように思う。キリスト教は偶像崇拝を禁止しているため、イメージでの伝承は難しいように思う。しかし、日本の仏教は仏像を拝むことは禁止されていない。

 また、弘法大師の『般若心経秘鍵』等では、お経の教えを、菩薩や如来と一体になることで身に付けることを示されている。例えば、華厳経の教えを象徴する”色即是空”は、建立如来すなわち普賢菩薩の悟りである。

 このように、文章で書いた理屈でなく、それを実践する方々と一体になるのは、暗黙知の伝承の理想形と思うがいかがであろうか?

| | コメント (0)

2007年3月 5日 (月)

法律の構造について

 先般、法律の専門家の講演を聴く機会があった。非常に面白く目から鱗と言う経験をした。もっとも、このブログで書いたことを修正する羽目になってしまった。(06/4/12:やりすぎで残業)

 まず、日本の法律は大きく分けて3段階の世代があるということである。

 1.明治維新まで
    これまで、万人向けの成文法は大宝律令しかない。
    つまりこれまでは、律令国家が継続している。(XXの守 などの官職名)

 2.2000年ぐらいまで
    明治時代の法律は、フランス→ドイツ式の法律体系を導入している。
    第二次大戦後は、憲法はアメリカ指導で作ったが、民法など
    多くの部分は明治の法律を継承している。

 3.近頃
    アメリカ風の法律が、時々顔を出す。例えば会社法など・・・

 ドイツ式及びフランス式は、法の運用を厳格に行う。アメリカはそのあたりは曖昧で、問題が起こったあと決着と言う思想がある。

 このような基本思想の転換は、慎重に行わないといけない。従って、前例まで調べるので、大宝律令の調査は、当然必要かもしれない。アメリカの外圧で会社法を変にいじった結果はどうなるのだろうか?ただし、経営者のノブレス・オブリージュがなくなると、アメリカ式の法律が必要かもしれない?

| | コメント (0)

2007年2月25日 (日)

写楽の絵は写実か?

 一寸前に、NHKのテレビで写楽の役者絵について、
 「現在の目で見ると、デフォルメに見えるが、当時の照明などを
  考えると実際は写実的である。」
と言う内容を見て、目から鱗の感じをした。

 現在の目で見ると、美意識や写真等の写実での評価による、バイアスが入っていたと再確認した。これも一つの暗黙知の作用かと思うのでここに忘れないうちに書いておく。

| | コメント (0)

2007年2月24日 (土)

暗黙知に関して補足

 先ほどの暗黙知に関して、もう少し書いておきたいことがある。仏教の教えでは、如来・菩薩・明王と色々な方々にお助けいただく。特に密教では、その方々のお力を自らのものとする。例えば、記憶力を増したければ、虚空蔵菩薩様のお力を自らのものとする。

 ここで、記憶力と言う抽象的なものが、虚空蔵菩薩様の具体的な姿でイメージ化されている。その外にも、大慈悲の観世音菩薩様、大威力の不動明王様など色々な方々がいらっしゃる。

 このような菩薩様の具体的なイメージを持ち、その力を自らの中に求めることは、抽象的な概念から、求めるより遥かに効果的と思う。

 ポランニーも、「暗黙知のためには、実在をイメージすることが重要」と言っている。この点でも、弘法大師は1000年以上先行していたように思う。なお、ポランニーは、ヒルベルトの
「定義をきちんとしていれば、ラベルはどのように付けても、数学は展開できる」
とした姿勢と戦っていたのだと思う。これに関しては、ラカトシュが、
 「定義の記述は、定義のラベルに影響されてはいけない、建前だが必ず影響を受ける。」
と証明分析で述べていたこととも関連している。

| | コメント (0)

暗黙知の大先輩

 暗黙知について、ポランニーの本を色々読んでいたが、その前に「確りした暗黙知の議論がある」ことを思い出した。それは、弘法大師空海の密教の教えである。既に806年の『請来目録』に、顕教のお経では、説ききれないものがあり、書画等種々の助けを借りて伝えると言うことを書いていらっしゃる。

 「蜜蔵深玄にして翰墨に載せ難し。更に図画を仮りて
  悟らざるに開示す。種種の威儀、種種の印契、大悲より
  出でて一覩に成仏す。経疏に秘略にして、
  これを図像に載せたり。」

 考えてみれば、昔は文字の普及率が低く、文章による伝達と言うものの比重も低かったと思う。そういう意味で、伝承は”現在言うところの”『暗黙知』で行われるのが標準で、その補助や心覚えとしての、文書や図画であったと思う。

 真言密教が、現在まで無事伝承されていることを考えても、暗黙知の伝承は、まず弘法大師様に習うべきかも知れない。

 その次には、武道などの秘伝伝授があると思うが、これは別に書きたい。

 日本人の伝統ある『暗黙知』は、変に西洋の学者を担ぐべきではないように思う。

空海コレクション 1 空海コレクション 1

著者:宮坂 宥勝,空海
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

空海コレクション 2 空海コレクション 2

著者:宮坂 宥勝
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0)

2007年2月20日 (火)

平安時代と現在と

 現在の生活は、職場と密着していない。しかも食物も、加工されたものしか見たことがない子供が多い。
  「魚の切り身が、海で泳いでいる」
と言うジョークが通用しそうである。

 ある神様は、
 「近頃の連中は四角い箱の中に入っている。天候などに鈍化になるはず。」
と怒っておられた。このような自然観・仕事間から離れた人種は、昔にもいたと思い至った。

 それは平安貴族である。彼らは、荘園から取り立てたもので生活しているので、物がどうできるかの認識が弱かったと思う。彼らは、和歌を詠み、言霊でいいことばかり言っていると、世の中が上手くいくと考えていたらしい。

 そう言うと現在にも、言霊信仰者が多いなと思ってしまった。

| | コメント (0)

2007年2月19日 (月)

暗黙知の伝承の一案

 2007年問題で、技能の伝承が重要視されている。このブログでも前から何回か取り上げたが、技能の伝承には、『ポランニーの定義による暗黙知』の発想が有効である。ただし、『ポランニーの定義による暗黙知』自体は、幅の広い概念であるので、ここでは以下のアイデアを使ってみたい。

 「暗黙知が生じるのは、そのモノのを、包括的な存在として暗黙裡に認識し、
  それとの自分の関係(コミットメント)が成立する時である。」
 「暗黙知が働くためには、そのモノを想像できることが必要条件である。」

 上記を踏まえて、このような暗黙知の伝承方式を、昔から行っている古武術に関して見直してみたい。特に、沖縄空手では、一人で稽古する『型』が重要である。これは、仮想敵を想定して、相手の攻撃に対応しながら、自分の技を出していく稽古である。このように決まった型を繰り返し稽古する中で、身体の使い方を覚え、色々な攻防を想定できるようになる。型がある程度できるようになると、その技を実際に試すため、相手との組み手に移るようになるが、一人での型稽古は数年は続けるようになる。そして、その型に対する自分の見解が師匠に認められるようになれば、一つの区切りになる。

 この中で、一つ大切なことは、想像上の敵を自ら作り、その敵との対応と言うことで、型を演舞することである。想像上の世界で多様な攻防を繰り広げることは、『暗黙知』を育てるのに有効と考える。

 このアイデアを、もう一つ広げれば、従来からあるマニュアルによる作業においても、『想像上の環境や相手』を想定して、自分が繰り返し練習することで、自分のなかに包括的存在が生まれ、暗黙知が早く育つように思うがいかがであろうか?

| | コメント (0)

2007年2月17日 (土)

学会誌から

 先般文化人類学が有効と書いたが、(社)計測自動制御学会の学会誌の最新号でも、民族誌学的研究と言う記事があった。(46巻第2号81ページ)

 このような、文系手法が工学の世界に入り込んでいる。忘れないために、記述しておく。

| | コメント (0)

2007年2月16日 (金)

暗黙知のもう一つの例

 ポランニーの暗黙知の研究は、『科学的研究』の方向付けに関する議論が、一つの動機になっている。科学的研究における暗黙知は、一つは研究のタブーと言う形で現れる。

 欧米と比べて日本のタブーは少ないと思う。例えば、「猿学の先生が人間に関して発言しても」かまわない。ロボットの研究も自由であった。これらの分野は、欧米で下手にやると神学教授に噛み付かれそうである。ロボットには労働組合も絡んでくる。

 しかし、考えてみると、明治の文明開化の影響がありそうである。超能力研究はタブーだし、漢方薬や漢方の治療もてが出しにくそうである。中国の針麻酔が一時有名になったが、日本ではこの分野は遅れていた。かえって西洋からの逆輸入になっている。

 このような学問でも、自分で枠を嵌めていることがある。もっとも羽目をはずすと、擬似科学になってしまう。やはりバランス感覚は重要である。

| | コメント (0)

2007年2月 8日 (木)

マスコミの権力が崩れる

 近頃テレビのやらせ記事や不完全調査による放送とのニュースが多くある。これを見て思ったが、今まで日本で一番権力をもっていた、マスコミが崩れたと言う感じである。

 科学者たちも昔はマスコミに逆らうと怖いと言う話があった。某新聞の取材を断ったために、追求キャンペーンを行われて、立場を失った先生の伝説もある。

 しかし、現状マスコミに対するインターネットの世界が生じたのであろう。これでやらせや、疑似科学の公開に対する反論が出てきたように感じる。

| | コメント (0)

2007年2月 4日 (日)

売り込み力

 ある本で、日本の芸術系の大学は、自分を売り込む方法を教えていない。従ってどこかのコンクールなどで賞をとるか、学校の教師になる等しないと生活に困ることになる。その結果、『私には才能がないので、音楽教師にでもなるしかない』と、挫折感を持って教師になるものも少ないと聞く。『私の才能を認めない世間が悪い』と言うよりはましだが、教師を甘く見ては困る。今の学校崩壊の原因は、このような挫折感教師にもあると思う。

 この話、芸術系の大学だけでないような気がする。基本は、
 『良いものは世間が認めて買ってくれる』
と言う発想である。しかし実際は、良いものでも、顧客の要求に会わないものは、買ってもらえない。

 逆にそこそこのレベルでも、用途をはっきりさせれば生きていく道も多い。

 現在の学校教育の問題はここにあるように感じる。

| | コメント (0)

2007年2月 1日 (木)

日蓮宗と天台宗

 井沢元彦氏の宗教論には、興味深いものがある。特に、日蓮宗と天台宗の以下の関係は、いわれて見ればもっとも納得した。
 「天台宗では、法華経を大事にしている。それを、お題目と言う形で、
  本当のお経を見ない民衆をつくる日蓮宗はけしからん。」

 これは、『最澄』と言う名前が示すとおり、純真な開祖に対しては、冒涜と感じるのも当たり前だと思う。
  「日蓮上人は、天台宗の開祖に従って、法華経を大切にした。」
と単純に考えていた、自分が恥ずかしくなった。確かに比叡山の天台宗は、法華経以外にも大日経も重視して混乱はしていたが、お題目と言う発想は、開祖が嫌いそうなことである。

 ただし、実際の不況手段としては、お題目もよぴ手段と思う。お題目を唱える入口から、どんどんお経に入っていけば良い。法華経には、幻の城を見せて人を導く例えもあることだし。

 教育においても入口のつかみと、最後の到達への厳しさの両面のバランスが重要である。これが上手くできるまでには、大分修行が必要である。

| | コメント (0)

2007年1月30日 (火)

着物の着付けは無料?

 どこかで、
   「着物の着付けを、無料で教えます」
と言う広告を見た。これを見て、着物を売る業界では、着付けの講習を、無料で実施してでも、着物を着る人口を増やしたいのだと思った。物を売るためには、それを使える人間を増やすのが一つの条件である。このためには、使い方をサービスで教えるのは、一つの答えだと思う。

 しかし見方を変えれば、逆の発想もある。
   「着物をただで配って、着付けサービスで費用を回収する」
と言うビジネスモデルもある。また、現在のように着物を着る機会が少ない場合は、着物のレンタルと着付けのサービスの方が、収益モデルとしては確実かもしれない。

 本当に利用者が求めているのは、しかるべき席での雰囲気と、その時点での記録かもしれない。このような発想では、着物を売るのか、着物を着てもらうサービスを売るのか、考えると色々な商売が見えてくる。

 このように物を売るのか、サービスを売るのか、よく考えて欲しい。お客様の満足はどこにあるのか、良く考えてみよう。

| | コメント (0)

2007年1月21日 (日)

リスク回避は判断回避

 近頃の若い人たちにリスク恐怖の癖が出ている。言い換えると、危険なチャレンジをしない「これで良いのだ症候群」が流行っているらしい。この原因を追いかけていくと学校教育にも責任がありそうである。

 よく言われるが、白雪姫10人の学芸会というジョークがある。これは学校の先生が判定しないので、皆主役になると言う話である。このような判断ができない先生が増えたのはナゼであろうか?

 一つには、変な平等主義の行き過ぎがある。しかし成績の良い先生を多く採用し、ジャッジのストレスに耐える力が弱くなったのではと思う点もある。優等生は、自分の医師が通らない経験が少なく、他人にそれを強いるストレスにも耐えられないのではと思う。

 田中角栄政治で、先生の給与を上げた弊害である。田中政治の弊害が、こんな所にも出てきた。

| | コメント (0)

2007年1月17日 (水)

お金の大切さ

 本日のNHKクローズアップ現代では、オーケストラの経営(?)危機について、放送していた。企業や自治体からの寄付金が減って、大変と言う話であった。こういう話を聞くたびに、
 「金儲けばかりしている、儲かっているくせに金を出さない」
と企業を悪者にするのではと心配してが、番組の中では堺屋太一氏が、
  「もっと経営努力すべき」
と言うトーンで話していたので少し救われた気がする。

 企業に勤めている立場では、少しの無駄も省き、原価を1円やもっと小さい単位で管理しながら、苦労をして利益を出している。このようにコスト低減を図らないと、海外の企業に市場を奪われてしまう。企業と言うものは、存続することで少なくない社会貢献をしているのである。
 まずその1:税金を払っている。これは法人税のみならず、
        勤めている人間の納めている税金も関係する。
 その2:企業がつぶれると言うことは、それだけ失業者が出る。
     大量の失業者は、社会不安に繋がる。
このような立場で、必死に利益創出を考えている人間に、文化のために寄付をしろと言われると、
 「何で」
と言い返したくなってしまう。

 番組の中でも、「バブル期に安易に金をばら撒いた付けが回っている」
と言う説明があったがそのとおりと思う。何ごとも、自分の努力に見合った収入と言うものが望ましい。

 なお、仏教の托鉢は、お金とともに悪い因縁など引き取り、寄進者のためになる行為である。そのため、托鉢を受けると同時にお経の力で、清めたり帰ってから、水行したりして清めるのである。それを、しないとうっかりすると、宗教者から金の亡者に転落してしまうのである。お坊さんも大変なのである。

| | コメント (0)

2007年1月14日 (日)

現実と理論のバランス

 中央公論の2月号は、大学下流時代の特集であった。興味を引いたので購入したが色々と面白い記事があった。まず、西部氏の、”知識人、この滑稽なるもの”が面白い。同氏の印象はあまりよくないし、表現に気にいらない所はあるが、ヒントに満ちている。

 まず、
  「人格の完成などと言うことは、軽々しく言うべきでない」
ということ、には賛成である。自分が未完成であると、常に学ぶ姿勢はいくつになっても必要と思う。  

 また教育において、本当に大切なことは、
  「やる気を引き出すことである。」
  「人間は言語的動物で他人と話すことでやる気が出る。」
等が、納得がいった。

 また現実的な知恵と、理想のバランスが重要と言う意見も納得がいく。

 そのほか大学の下流化の原因として、
 「これでいいのだ文化」
等も納得してしまった。

| | コメント (0)

2006年12月31日 (日)

宗教と平和について

 年末のテレビには、力の入った特集番組が多い。「京都の歴史」に関する面白い番組があった。井沢元彦氏の指摘にもあるが、戦国時代までの日本の仏教は、僧兵を抱えた先頭集団であった。そういう意味では、異端の信徒に対する、殺戮などの攻撃は色々在ったようである。織田信長の比叡山焼き討ちの前に、比叡山僧兵による、法華宗に対する殲滅的攻撃がある。これを考えると、イスラム教徒の戦いや、キリスト教の各種戦争を、特別視することはできない。

 逆に、日本のような宗教は武力を用いないと言う状況は、織田信長~豊臣秀吉~徳川歴代将軍が成し遂げた”世界の特殊例”かも知れない。そういう意味では、徳川幕府の宗教政策をもっときちんと、中学高校で教えるべきである。『キリスト教禁制』だけでなく、『日蓮宗不受布施派への禁制』も教えないと、寛容な宗教風土を造った経緯が見えなくなる。

 そういう風に考えていると、弘法大師が唐に入った時期を考えてみた。当時の唐には、仏教だけでなく、回教やキリスト教の一派まで入っていたと聞く。そういう意味では、他宗に寛容な風土は、そのあたりにお手本があるかもしれない。

 今年も残りわずか、このブログを見ていただいた皆様に感謝し、来年が平穏な年であるように祈っています。来年もよろしくお願いします。

 

| | コメント (0)

2006年12月27日 (水)

皆が主役の平等信仰

 前にも書いたが、近頃の小学校の学芸会(こんな表現古いか?)では、皆が主役と言う形になるらしい。従って、十数人の白雪姫と・・・と言う話になるらしい。

 これは差を認めない社会の性格から来ている。そこに、ゆとり教育の理念である、最低限の学力確保が入ってくる。こうなると、みんな同じ成績と言う話になる。

 そしてそれに少しでも外れると、対応できなくなる。それは無視に繋がるといじめが成立する。

 こう言う社会を時間をかけて造ってきたような気がする。戦後の、追いつけ教育から、時間をかけて平等性に持ち込んだ結果ではなかろうか?それとも聖徳太子にまで戻る、
  「和を持って尊しとなす」
文化まで遡ったということであろうか?

| | コメント (0)

2006年12月17日 (日)

情報過剰の現在?

 久しぶりに、PHP文庫の「感性革命」を読んだ。この本は1983年に書かれたもので、いわゆる”団塊世代”とそれ以降の世代の比較で議論をしている。まず彼の表現で言う『日本原人=団塊世代より前』と、(1983年時代における?!)『新日本人』の発想の違いを考えてみよう。

 日本原人の故郷・・・薄汚い木造家屋、広場など少し残る自然、限られた情報源
 新日本人の故郷・・・狭いが電化セットのあるそれなりに暮らしやすい生活
             情報が多く使いこなす力がある。タテマエの後ろのホンエを見抜く
             学校教育は、平等と個性の重視
             理屈より自分の感性で『好みをはっきり言う』

 新日本人は見方では、『わがまま』だが、見方によれば『目的合理性』『感受性』がある。

 これは何か現在でインターネット前後に代入して、家の状況を適当にぼかせば、使えそうな感じがする。1980年代の話は、テレビなどの普及で、急速に情報量が増えた後の”断絶”であるし、現在は”ネット上に溢れる情報”による激変の後である。

 ところで、情報が増えると感受性は良くなるのであろうか?

 私はそうは思わない。感受性には、共通の実体験や相手を思いやる想像力が必要と思う。そういう意味では、『日本原人』が暮らした、物が不足した世代は、自然に触れる実体験と、自己の想像力での補いがあった。しかしテレビやインターネットの情報は、与えられるものであり、『自力で想像する』必要性が弱くなっているように思う。

 情報過多の現在に、生き残るためには、
  『与えられた情報を、ナゼを考えて自分で評価し、想像力で補充する。』
力を持った人間だと思う。

 「日本原人」より「新日本人」が、テーストが良くなったのは、供給力が強くなったので、色々と選べるようになったからではないかと思う。

 ただし、『感性革命』の本自体は、『定性情報』や『生活実感』の重視など面白い発想がある。今絶版らしいが、活用して欲しい本である。  

| | コメント (0)

2006年12月14日 (木)

多くの情報が見過ごされてる?

 前にも書いたが、メールのような情報からも、個性を読み取ることができる。一方、踊りの手の動きは、手話や密教の印のように、色々なメッセージを送っている。現在の感覚でこれしかないと思い込むのは、危険である。

 また、自分で音を出し、聴覚から形状を認識する、視覚障害者の話も聞いた。この機能は脳内の情報処理能力によるらしい。

 人間の柔軟性は、今我々が思っているより大きいように感じる。色々な可能性が、体の隅々に潜在しているように思った。

| | コメント (0)

2006年12月 1日 (金)

高校の必要性について

 流風さんのところで、少し前に高校の必要性に関する議論があった。流風さんの話は普通科の進学がらみでの予備校化の話とりかいした。

 さてここでは、工業高校に焦点を当てて考えてみたい。私は電気関連が専門なので、電気に偏るかもしれないが、現在の電子工学では、工業高校出身者は、技術者として立ち行くには、苦しいような感じがある。これを20年ほど前に時計を戻すと、逆に大学の教材の、偏りを追及したい面があり、工業高校の程よい教材配分は、実践的に全分野をカバーして、ある程度の即戦力となったように感じる。

 しかし現在の電子回路は、小型化・高速化しているので、微分方程式主体の解析が必須であり、大学レベルの基礎が必要になる。また設計サポートの環境が充実したので、微分方程式主体の設計・シミュレーションが強くなったのことも、大学出身者でないと技術が解らなくなった一つの理由であろう。

 これで逆に、腕・技の世界を考えると、本当は中学卒業で訓練したほうが、飲み込みがよくなる。こう考えると、高校の立場は苦しくなりそうである。

 但し、昔の工業高校のバランスの良い教育の高度化をして欲しいと言う思いも、個人としてまだ心の中にはある。悩ましいところである。

| | コメント (0)

2006年10月23日 (月)

禅と論理

 デカルトの論理思考に対抗するものとして、このブログではヴィーコの考えを取り上げている。しかし、我が国には色々良いものがある。その内一つの極端として、禅を取り上げてみたい。

 禅は、論理どころか一般的な思考を、拒否する。禅機というような直感的な働きを重視している。それを考えれば、武道と禅の関係も判るような気がする。

 但し、禅に関しては素人が手を出すと怖い世界でもある。独断の世界に陥りかねない。

 やはり、積み上げの論理の方が、凡人の私には分相応かもしれない。

 

|

2006年10月15日 (日)

朝っぱらから変なものを見た

 今朝の”題名のない音楽会”を見ていて、ゲテモノの集団と言う感じがした。音楽で楽しむのは、第一に音で楽しむべきと思っていたが、某”美人?!”バイオリニストの率いる、12名の美女と言う集団は何か、美女が先に経って居るように感じる。

 何かピアノの音も濁っているように感じてしまった。

 音痴の私が、こんな風に思うのは、僭越かもしれないが、本文以外に力を入れ足り、売り出すことには、余り感心できない。

|

2006年9月15日 (金)

日清・日露戦争の見方

昨日の話に関連して、日露戦争における旅順要塞攻略の戦略的意味について触れる。

まずロシアの戦いでは、退却と言う言葉は、負けを意味しない。ナポレオンに対した時のように、自国に引き入れて、相手の補給路を絶ち、最後に勝つのがロシアの戦略である。従って、
  『奉天の大決戦に勝った』
と日本が言っても、ロシアにとっては、
  『戦いの一部で引いた』
という表現になる。しかし、難攻不落と言われた要塞が降伏したり、軍艦が沈んだ場合は、負けを認めざるを得ない。

従って、『海の日本海海戦』と『陸の旅順』がロシアの認める敗北である。

なお、旅順要塞が難攻不落に値するためには、日本の攻撃を何度か撃退する必要がある。実際、旅順要塞は構築途中であり、日本が簡単に攻め落とせば、『構築中の不運』と言い逃れができた。

これを考えると、正面攻撃で敗退し、工兵の正攻法で落とそうとした、乃木軍の攻略法は、戦略的には正しかったことになる。最初の攻撃で、なくなった方々には申し分けないが、戦争指導にはこのような犠牲を考えて指揮する必要がある。

| | コメント (0)

2006年9月 3日 (日)

祝詞の場合

顕教と密教の話を書いたが、神道ではどうか、一つ祝詞を見よう。六根清浄の大祓えの後半は、このようになっている。

我身は則ち六根清浄なり
六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり
五臓の神君安寧なるが故に 天地の神と同根なり
天地の神と同根なるが故に 万物の霊と同体なり
万物の霊と同体なるが故に 為すところの願として成就せずということはなし
無上霊法神道加持。

つまり、万物と一体化するから願いはすべてかなうと言うことで、これも一体化して感じる方向である。

但し、この祝詞を「お経を祝詞にしたもの」と言った人もいた。

しかし、神道の本質は、万物の霊を認めそれと一体になることではなかろうか。

| | コメント (0)

日本の食事

テレビで見たが、生鮮魚類を日本国内の主要地域に運ぶ手段が実用化しているらしい。

これは、一面ではすばらしい進歩と言える。そして、各地での美味しい食物のバリエーションが広がる。組み合わせの自由度も広がるので、新しい名物料理も出来るであろう。

しかし、従来の各地で採りたてを食べると言う、名物料理の希少性がなくなるのは寂しい。新幹線で、宿泊設備をつぶしたうえ食物の希少性まで壊されると、観光事業で打撃が大きいように思う。関空と伊丹のように、新しいものを出したときに、既存のものとの共存や、転換をうまく出来ないのがこの国の政治ではないか。少し心配である。

でも、見方を変えれば、この国は色々な食材を上手に取り入れ自分のモノとしてきた。このような柔軟性は、仏教伝来依頼1500年程度の伝統がある。今の政治体制が、一寸不適合をしているだけかもしれない。

| | コメント (0)

2006年9月 2日 (土)

お経の比較

先ほど書いた、顕教と密教の違いを、お経から感じるもので述べてみたい。まず顕教からは、法華経を考えてみよう。法華経は色々な面があるが、日蓮宗などで一番大事にしているのは、如来寿量品である。寿量品では、仏は本当は永遠の存在であるが、凡人は何時でも聞けると思うと、仏の説法を聞かない。

従って、お釈迦様は方便として有限の命を持った人間として世に出て、
  「今ここで聞かないと次はない。」
と説法することで、凡人を導くのである。

これは宗教に対する根本的な質問の、
  「永遠の命は可能か?それなら、聖人はなぜ死ぬのか?」
と言う疑問に対する鮮やかな答えである。少なくともキリスト教の原罪よりはスマートだと思う。

話を元に戻すと、法華経ではこのような内容を、お釈迦様またはその代理の方が説く形になっている。法華経を読むと言うことは、その内容を信ずるまたは、理解すると言うことである。

一方、真言宗のお経を見てみよう。何を代表かと言うと難しい面があるが、理趣経を考えてみよう。このお経は色々議論を呼ぶ難しいお経であり、色々な特徴がある。

ここで私が言いたいのは、理趣経は色々な説法を、それにふさわしい如来・菩薩・諸天が説く形式にしていると言うことである。例えば、(御仏が衆生に施す)無限の宝の発見は虚空蔵菩薩が説くので、修行者は虚空蔵菩薩と一体化することで、その知恵を自らのモノとすることができる。言葉に、言い表せないものまで、菩薩と一体化する形で総合的に身につくように思う。

このような知恵はすばらしいものだと思う。一方、お経だけで勉強しようとした、伝経大師最澄に弘法大師空海が、理趣経を貸さなかったのは当然と思う。

| | コメント (0)

2006年9月 1日 (金)

仏教の立場

先ごろ世界宗教者会議があったらしい。詳しいことは知らないが、最初の提唱者は比叡山が動いたらしい。

 「たかが天台宗が世界の宗教に呼びかけると言うことは思い上がっている。」

と言う、カソリック信者の言葉を聞いた覚えがある。その当時はもっともと思った。しかし今になって考えると、比叡山は僧兵と言う最大限の兵力を持ち、宗教戦争を行っていたが、織田信長との戦いで大敗した。

その後徳川300年の平和に呼応して平和な宗教になっている。そういう意味では、宗教戦争卒業者の先輩として、世界に誇れる宗教かもしれない。

やはりキリスト教は、欧米白人の侵略の歴史と重なりすぎている。

| | コメント (0)

2006年8月27日 (日)

保存法則の使い方

物理学の基本には、各種の保存則がある。これを一般化すると、結構面白い議論ができる。

例えば、青色ダイオードの権利で、発明者と会社の間で、巨額の権利の訴訟があった。個人の請求額に皆さんは目を向けていた。しかし、その請求の根拠になるだけの利益をその会社は得ていたのである。

乱暴に言えば、暴利を貪っていたのである。これも保存則の発想の応用である。その金は、どこから来たのか、どこへ行くのか考えてみよう。

ある歴史の話で、農民搾取を教えている先生に、学生が
「その搾取した米はどこに行きました?」
と聞かれて、絶句したと言う話も思い出した。このように単純に考えて、おかしい問題はありそうである。

| | コメント (0)

2006年8月26日 (土)

ヨーロッパのブランド発信力

日本のもの造り哲学 日本のもの造り哲学

著者:藤本 隆宏
販売元:日本経済新聞社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

を読んだ。色々と参考になるが、一寸物足りない部分があるので、自分の意見を述べたい。(なお藤本先生はここで述べるようなことは、充分考慮しているだろうが、裏づけが弱いので本には書いていないと思う。)個人の勝手な意見に付き合って欲しい。

 まず、この本では、
    「ヨーロッパはブランドの発進力が強い。
  ブランドの力で価格維持を行い、収益力がある。」
と言う。この理由に狭い地域に色々な国がひしめき合い、お互いに主張した歴史を指摘されている。

 ここでは、これをもう少し突っ込んでみたい。例えば、イギリスと大陸の諸国は分けるべきではないか。もっとも、イングランド・スコットランドの戦いなどを考えると、イギリスでも国境の争いは陸続きで発生している。

 もう一つ、植民地経営という立場で考えてみたい。ヨーロッパ諸国は高々200~300年の間と言えども植民地を支配した歴史がある。少数のヨーロッパ人が現地人を支配する形態は、ある意味リーダーシップの発揮場所である。このような場で、自分の価値観を押し付ける能力は強くなったと考える。なお、ヨーロッパは貴族社会・エリート社会の伝統で、ノブレス・オブリージと言われる責任感が残っている。彼らは、しかるべき価値観の発信も自然に行っている。

 これを、もう少し突っ込むと、神の支配するキリスト教的世界観と哲学の世界観が、自己主張を強くしているかもしれない。自分で価値を作り主張する。この裏には、神の真理を見つけたと言う思いが強く後押しをしているのかもしれない。

| | コメント (0)

冥王星問題

 冥王星が、とうとう惑星から降格されてしまった。元々この星は軌道がいびつで、時期によっては、海王星の内側に入り込むと言うややこしい星である。従って、星占いに関しては、色々と難しい問題を引き起こす。
 もっとも、この星が見つかる前に考えていた教本はこれを無視している。また占星術師の言い方によれば、遠いから余り影響が少ないと言う人もいる。更にこれからは、冥王星を無視した占いになるだろう。このような占いに関しては、科学的発見や判定とは独立と思うのだが、色々と影響がありそうである。まあ、科学的発見・判断も神の意思と言えば占いも影響を受けるであろう。

 さて、流風さんのところに降格に関する議論があった。

 この記事への従来の日本企業では、原則として降格はないので、
  「人間は自分の無能を証明するまで昇進する。従って、組織は
 『昔すばらしい課長だった、困った部長達』の集まり。」
と言う会社が続出する。

 しかしながら、2007年問題を抱えて、会社側でも人材の有効活用を考えざるを得ない。このためには、幹部社員教育で少しでも無能化を防止するとともに、適切なプロジェクトチームなどでの人材活用など多様な路線で、人材の活用を考えるようになってきている。

 実際、管理職より外れて現場復帰し生き生きしている人もたくさん居る。部長・課長・・・と言う単純路線は、ここでも発展的解消を遂げている。

| | コメント (0)

2006年8月25日 (金)

ボクシングの判定について

少し古い話になるが、ボクシングの判定に関して、色々と疑惑がもたれている。

これに関連して、面白い意見を見た。

現在の、ボクシングの国際ルールは、当時多くの植民地を支配していた、イギリス人達が『自分達が強いと示しやすいように』、ルールを作った。

確かに、タイ式ボクシングを見た後、国際ルールを見ると何となく作為を感じる。

欧米人はルールを作るのが上手と言う話に、この話を関連付けて考えてしまった。

| | コメント (0)

2006年8月24日 (木)

インターネット社会の功罪

前にも書いた、インターネット社会は匿名の無責任さの欠点を持っている。しかし、逆にインターネットの上でこそ出てくる本音もある。従来一般人が意見を言う場面は限られていた。しかもそのためには、ある程度の能力が必要であった。

例えば、新聞の投稿欄等で取り上げられる文章は、その新聞社の選別基準に合わないといけない。文章の上手下手もある。

しかし、現在は個人で色々情報が発信できる。個別には偏りがあるかもしれないが、多数になるものにはそれなりの理由が見つかる。

特に商品と広告に関しては、ウエブ社会の木目細かさが、新しい動きを引き出すと思う。

特定の狭いファンでも、全世界を相手になれば商売になる可能性が出てきた。一方、顧客を裏切れば、手ひどい仕返しを受ける。そういう意味では、ネット社会の良い面も見えてくる。

|

2006年8月22日 (火)

イギリスについて

イギリスについてあるところで聞いた話で、納得してしまったのが、
 「イギリスはローマ帝国の辺境の地」
という話である。

確かに、距離的にも離れ、海を渡った先で、それより先はない。従って、ローマ文明の影響は比較的少ないように思う。それが、近頃幅を利かしているので、日本ではヨーロッパ文明の代表のように思う向きも多いようである。

考えてみると、日本もアジアから見れば東の果てである。しかも中国大陸から海で隔たり独自の文明を持っている。日本を見て、アジアの代表とするのはおかしいと思う。

同様に、イギリスばかり見ていて、ヨーロッパ文明はわかるのであろうか?

| | コメント (0)

2006年8月19日 (土)

実行して貰う条件

昨日の話と関連するが、現在インターネットの上も含めて、良い知恵が溢れている。しかし、これが実行されているかと言うと、全く別の問題である。良いアイデアでも、実際の場に移すためには、色々な障害がある。まず
  ①アイデア自体が検討不足の場合
     例えば、現実に適用するのに考慮しなければいけない要素がある等
     最低限、ステークホルダー全ての観点が必要
  ②実行者が理解できない場合
     特に多数の人間に実行してもらう場合は、最低の知識者が理解できない
     理論構築は厳密な用語、実行スローガンは平易な言葉
の2面の課題がある。

特に、トップダウンのシステムでは、上の実行指示と部下の合意が一致しないと、実行時のトラブルになる。日本的集団意思決定は、このトラブルを避ける効果がある。

一方、急ぐ意思決定は、集団合意を持っていると遅くなる。極端な話は、災害時の各種処置や、軍事行動である。このような組織は、指揮命令系統と指揮権の引継ぎが確りしている。軍隊における階級制度と先任制度は、緊急時の指揮権委譲を明確にしている。
  「その場にいる、最上級者、同格者ならば先にその地位に着いた
   先任者が指揮を取る。」
これは、緊急時の混乱を避けるには良い方法と思う。

ところで、経営の本を読んでいると、韓国ではトップダウンの意思決定が良く機能していると書いてあった。これを見て、山本七平氏が、韓国は軍人国家と言ったのを思い出した。もっとも韓国には儒教の影響があるかもしれない。

軍人の意思決定には、平時の訓練的長期ビジョンと、戦場での短期ビジョンの両極端しかなく、バランスにかけるというのはドラッカーの意見である。これにも少し納得してしまった。

我が国の意思決定も、問題点は多いが、良いものもあると考えているこのごろである。

| | コメント (0)

2006年8月16日 (水)

指導者の責任

靖国問題で、日本とドイツの終戦処理について、
 「ドイツはヒトラーに全てを負わせたが、日本は曖昧にした。」
という議論がある。

これを日本の意思決定の形と絡めると、少し見えてくる。良く経営論などで出てくるのは、外国人が日本人と取引すると、意思決定者が見えないと言うことである。経営の提携などをする場合、何人もの人間が入れ替わり立ち代り出て、同じような質問をする。つまり意思決定が、集中していないのである。

ただし、ドラッカーやゴーンが褒めているが、日本の場合決定したことは、皆が実行する。欧米や中国では、意思決定者の決定を、実行に移す段階で、かなりのトラブルが生じる。

この原因を考えてみると、明治維新後の日本の指導者の選び方に、一つの答えが見えてくる。明治維新時の指導者は、指導者として生まれたのではなく、何らかの機会に松下村塾などで教育を受け、その後特定分野の専門家になたものが多い。またその後も、秋山兄弟のように適宜海外教育を受けた、特定分野の権威が生まれている。

このような世界では、トップに立ち決断することを使命とする育ちの人間と言うのは、生まれにくいように感じる。平等な皆で考えると言う方式になる。中国は、儒教の階層で、上の指示に従うことを、道徳的に教えている。もっとも下には対策があるが、これは別の話である。

これを考えると、特定の人間に責任を負わせると言う発想は、日本の場合には難しいものがある。リーダーシップに関しても、欧米理論の翻訳導入では難しい。

|

2006年8月11日 (金)

哲学の安売りについて

昨日の続きを少し引っ張ってみる。西洋が”哲学”と言うならば、日本は”道”かなと思う。なにぶん、
  「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」
だから、哲学論理が合わないと思う。特に体の動きが含まれている方がバランスが良さそうである。静かと言う、座禅も姿勢を正すと言う身体意識がある。

但し、禅をすると変なことを言う人も多い。そういう時には、真宗の”妙好人”の明るさが救いになるように思う。自然と一体のハラで考える文化が日本の良さと思う。

しかし変革時のリーダーには、ある程度頭で考えて構想した上で、突っ走らないと大きな変革はできないかもしれない。

|

2006年8月10日 (木)

哲学とは何だ?

先般、流風さんから”経営者の哲学”に関して、ご意見頂いたので、少し思うところを書きたい。

まず”哲学”とは何であろうか?とりあえず、ドラッカーの

経営の哲学 経営の哲学

著者:P・F・ドラッカー
販売元:ダイヤモンド社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

を注文してみた。これについては、また後で述べるとして、いわゆる学校で学ぶ哲学では、何か満たされないものがある。それよりは、
  『若い時代に、マルクスにかぶれるか、禅にかぶれるか』
の”マルクス”や”禅”の方が、よっぽど経営者の哲学に近い感じがする。

但し、私は”古神道(≠国家神道)”の自然に敬虔に向き合う姿を大事にしたい。

但し、近頃の学校教育では、知識の切れ端を試験で保証している感じがする。これでは、哲学がないというのも、納得してしまう。但し、芯を持たないと言う、筋金入りの自由主義も、一つの哲学かもしれない。

|

2006年8月 9日 (水)

日本人の戦場における裏切り

司馬遼太郎さんの対談にあった、
  「日本の国内戦争は、裏切りで決着している。新しい兵器や、
  指導者の卓越した戦術で、決着した例は少ない。」
と言う話をもう一度考え直してみたい。

確かに、日本の戦場で戦術的や武器的に差が出たのは、織田信長の指揮する一連の戦いがある。しかし織田信長自身も明智光秀の裏切りに倒れている。この理由を考えると、狭い国土で、輸入文化の対応力が高く、情報流通がスムーズならば勝敗が見えているので、裏切りも多いと思う。

ところで、”裏切り”と言えるのは、上位の指揮官レベルである。配下の兵隊達が負け戦を感じて逃げるのは”裏切り”といえない。日清戦争の清国軍や旧ソ連では、兵士の逃走を監視する督戦の役目をもつ軍人が存在した。従って、大部隊で夜襲を行うと、闇にまぎれて兵士が脱走する等の戦術上の制約もあった。

しかし、日清日露の日本陸軍は、大隊単位の夜襲ができるほど、兵隊の士気が高かった。このような士気の高い軍隊を作った、明治の指導者の力は認めざるを得ない。

ただし、指揮官レベルの教育はどうなっていたのであろうか?流石に裏切りはなかったが、士気高く突撃するだけの指揮官を多く作ったように感じる。指揮官はそれなりの戦略判断が必要である。首相が、”東条上等兵””小泉軍曹”と呼ばれるようでは、情けない限りである。(上等兵は、兵卒の一番上、軍曹は下士官の上位者で、どちらも現場で戦術指揮を執るだけで、戦略判断は求められない。)

現在の管理者教育は、これに答えているかもう一度考え直してみたい。

| | コメント (0)

2006年8月 3日 (木)

楽器演奏に頭を使うのか

ある時、ピアノを教えている人と、一寸した議論をした。

ピアノを弾く時に、頭を使うのか?ここで議論している頭はどちらかと言うと狭い意味で、少し古い言い方では左脳と言う感じである。

まず初心の間は、何かと考えるであろう。しかしもっと進むと、自然に体が動くようになる。この時下手に考えると、体の邪魔をする。

そこで問題は、上級の演奏に頭を使うのかと言うことである。思想を込めた曲もある。一方、己を空しくして神に任せる、と言う曲もあるのではないか。日本では天地に任せると言うことか。

私の好みは天地一体の演奏である。

|

2006年7月30日 (日)

ネット時代で商売するには

朝日新聞が『ウエブが変える』という特集を掲載している。

特に本日は、ユーザの少数派が影響するロングテイルを取り上げていた。
本来少数派は、個々のこだわりがあり、自分の納得のいくものがあれば、少しは金を出しても購入してくれる、良いお客様である。従って、従来でも需要ー供給の繋がりが一度成立すると、長続きする良い関係になっていた。但し、大企業病で切り捨てられた例もある。

しかし、従来の商流では以下の問題点があった。
  ①良いお客様だがどれだけ存在するか解らない
  ②利用者側も、自分の要求に本当にこたえてくれるか解らない

ウエブ社会では、以下の様な条件が色々変わってきたので、ロングテイルが有望となってきている。
まず、可能性の拡大である。
1千万の1ppm(百万分の一)は10であるが、10億の1ppm(百万分の一)は1000である。

次に、これを求めるものが探す仕組みが、必要である。これは2つの面から可能性が広がった。
  ①Googleなどの検索機能の充実
  ②利用者の体験の発信、特にマイナー趣味の発信が可能になる

このような状況を生かすには、現状を正しく認識して、速く対応する能力が求められている。従来の経営者の評価尺度に加えて、機会損失が重要な評価尺度になってきた。

| | コメント (0)

日本の失敗不寛容

異文化コミュニケーションに関して勉強していると、意思決定に関して面白い指摘があった。

アメリカ人は、6割の成功率に賭ける。決断し、失敗したら責任を取る。
日本人は、失敗が許されないので、皆で決議し実行する。但し決めたものは全員で必死に実現する様に努力する。

これを更に追求していくと、日本では間違いが許されないと言うことになる。
この理由を考えると
 一つは、井沢元彦氏が指摘している、穢れ・憑き物の発想がある。
 つまり間違った人間には、悪いものが憑いて穢れている。
  間違いの否定は全人格の否定になる。

 これ以外にも何かありそうであるが、はっきり言えるものがない。強いて言えば、
 明治維新の天誅発想がある。間違ったものは殺してしまえ発想である。
 但し、西郷隆盛の評価や、日露戦争時の日露同盟路線の伊藤博文の例がある。
 これを見ると、明治時代は健全な意思決定があった。

 その外にも、論理的な会話が未成熟などの要因がある。

等の原因がありそうである。

今回のJR被害者の責任を取った幹部が、子会社の天下りは認められないと言う言い方も、間違いを認めない発想に通じるものを感じる。

しかし、間違いを認めて正すようにしないと、変動の時代に対応できなくなると思う。

|

2006年7月25日 (火)

設備と操作する能力

歴史と視点―私の雑記帖

著者:司馬 遼太郎
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

などで、司馬遼太郎氏は外国に通用しない戦車兵としての苦悩を述べている。確かに、敵戦車に跳ね返される主砲と、敵戦車に貫かれる防備では、乗せられた兵はたまったものではない。しかしこのような戦車でも戦車であるから、英米軍の戦車に対応できると言う、旧陸軍の員数あわせを批判している。これと比べれば、海軍の場合は、軍艦のランク別けがしっかりして、駆逐艦1隻と戦艦1隻を同じには考えないと、褒めている。

このように、武器の性能を評価することは、戦闘指揮にとって重要である。しかし、戦争は人間が行うものであり、いくら良い装備でも、兵士が弱腰では戦えない。実は日本の戦争指導者は、太平洋戦争の80年ほど前に痛い経験をしている。

西南の役では、装備が格段に優れた政府軍兵士は、隠れてほとんど狙わずに射撃するのに対し、装備の劣る西郷軍は立ったまま狙い撃ちすることで、装備の差を充分埋めていた。結局、旧士族の抜刀隊の切り込みで、政府軍は持ち直している。

このように、装備より士気が重要と考えて、精神主義が行き過ぎると旧陸軍となる。士気で装備の差をカバーするにしても、せめて相手に届く程度の大砲を持たせて欲しい。そういう意味で、防弾装置のないゼロ戦は、最低限のレベルと思う。

しかし、現在の経営者や現場指導者の改善要望は、弾が届く程度の範囲をしているのであろうか?

| | コメント (0)

2006年7月24日 (月)

靖国問題について思う

近頃また靖国問題が騒がしくなっている。これは軽々しく取り上げるべき問題ではないが、前から気になっていることがある。つまり
  「A級戦犯の人々は、本当に自分に罪があると、思っているのか?」
という観点である。

よくある時代劇のパターンに以下の形がある。
 「某大名の領地で密貿易などのご禁制を行われている。
 これを内偵する、公儀隠密やお忍びの大物が探ると、藩ぐるみらしい。
  そこで動かぬ証拠を押さえると、そこに出てきた忠義な家老が、
  白装束(=死装束)で出現し、
  『これは藩主には関係なく、私が私利私欲で行った』
  と言い残して、腹を切る。そこで探っていた者達が解ったとうなずく。」

靖国問題の報道と、この時代劇を見た海外の人間はどう思うであろうか?このような雰囲気で、戦争指導者の罪について、曖昧になってくるのではなかろうか。

なお、私は太平洋戦争での日本人の多くの死者を出した責任は、軍部指導者にあり、特に以下の方々の罪は重いと考えている。
 1.東条英機・・・・・・陸軍指導者として、また首相として
 2.山本五十六・・・・ミッドウエー海戦の責任隠蔽と、以後の誤情報流布の口火

昭和天皇を欺いた罪だけでも、彼らを軍法会議で裁き、その後で
  ”祟らないように靖国神社に祭る”
これなら、海外から口出しされる筋はなくなると思う。

現在の、靖国問題には、東京裁判の否定も絡んでいるので、海外の敵も多くなっている。

少なくとも、A級戦犯の一部は、正式に日本でも有罪判定をした上で、
  『神社の祭りは別』
というべきではなかろうか?

| | コメント (0)

2006年7月23日 (日)

ボレロの解説を聞いて

本日の題名のない音楽会21はとても面白かった。特に説明を聞いて納得してしまったのが、
  不安定→安定→不安定→安定→・・・・
の繰り返しで、表現を拡げていくと言う構造である。

これは学問や仕事でも同じことだと思う。
   無理して背伸びした緊張感ある不安定→安定させて定着→・・・
と繰り返して成長していく。

しかし、ラヴェルの考えは、解りやすい。これは、彼がフランスで活躍したと言うことと、関連しているのではなかろうか。フランス人は、哲学で話をまとめるのが上手である。従って議論できる構造を自然と考えるのが上手である。但し、現実につくった時には洗練されており、ドイツ式の堅苦しさはない。一方情熱のイタリアでは、感情が主体で筆舌に尽くしにくいように思う。

| | コメント (0)

2006年7月19日 (水)

日本陸軍と海軍

司馬遼太郎氏の歴史と視点―私の雑記帖 を一寸拾い読みしてみた。前の部分では、司馬氏の経験から、日本陸軍の戦車が酷評されている。確かに、防御力は相手の砲弾を守れず、攻撃力は相手の装甲を貫けないのでは、戦車の値打ちもない。

単に格好だけの戦車を押し付けた、陸軍に対する司馬氏の恨みは、深いようである。そこでも参謀の、『資源の少ない日本は大和魂で今の戦車を使いこなせ。』種類の発言が取り上げられている。

このような発言は、海軍の戦闘機でも同様な話があり、『防弾装置など臆病者の欲しがるもの』という発言で、現場の『防弾装置が欲しい』という声を殺している。但し、戦車と異なり、機関銃だけは相手に届くものを考えた点がましであったらしい。

しかし現在でも、『コスト削減しないのは、熱意と工夫が少ない。』と現場をいじめている管理者もいそうである。昔は、戦車で無駄死にし、今は強度の不正設計で逮捕される。どこか繋がっているように感じる。

|

2006年7月13日 (木)

鉄砲の進歩

歴史の話題についてもう少し勝手なことを、述べさせてもらう。江戸時代の日本の技術は色々と面白い進歩をした。

ここでは鉄砲がなぜ、欧米のように進歩しなかったかを考えて見たい。江戸時代の初期の鉄砲は、当然火縄銃である。これが幕末まで、そのままでいたのが、一つの不思議である。ヨーロッパでは、この間に、火打石式の銃ができ、そして雷管の発明を受けて、近代的な鉄砲になる。幕末の戦いでは、ヨーロッパから如何にこのような鉄砲を、入手するかで各藩が苦労している。

さて、日本の鉄砲はなぜこのような進歩をしなかったのであろうか?

一つの仮説は、
  「初期の火打石式銃は、火打石を動かし打ち付けるため、
  引き金を引くときの反動が大きく、狙いが逸れ易かった。」
ということが言われている。

日本の鉄砲の利用は、命中率を重視し、引き金を
  『闇夜に霜が降りるように』
静かに引くようにと、教えている。

このような使い方の、様式的な決まりが、進化の中間段階である、火打石式を拒絶したのは、充分ありそうなことである。

| | コメント (0)

2006年7月12日 (水)

日本人の戦い

日本文明のかたち―司馬遼太郎対話選集〈5〉 日本文明のかたち―司馬遼太郎対話選集〈5〉

著者:関川 夏央,司馬 遼太郎
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

を読む機会があった。

色々新発見があったが、まず
  『日本人の戦争は”裏切り”で決まる。』
という観点は、盲点を着かれた思いがした。確かに、関が原など裏切りがなければ、西軍が勝てる陣形であった。また将棋のようなゲームで取った駒を使えるのは、日本だけと言う。このような、状況を考えて、旧軍の捕虜禁止の発想が出たらしい。

本当に国を守る、戦いなどを経験したことが少ない、平和な国の内部争いだから、捕虜を戦力にできたらしい。

やはりこの国は、世界の常識と少し外れている面があるようだ。

| | コメント (0)

2006年7月 9日 (日)

指導者の器

高校野球のシーズンになった。これで気になるのは、監督などの暴力事件である。指導者の暴力と言う問題以外に、指導力の低下と言う問題があるのではないか。昔から、叩く監督は存在したが、叩かれた方が納得していた。しかし現在は、叩かれた方が納得していないのが問題と思う。

納得しない原因も、指導者側と受ける側の両方に問題がある。
受け側として、昔は、現在のような情報が公開されていないので、指導者を評価することができなかったので、指導者のしていることを、そのまま受け入れることが多かった。しかし現在では、指導方法の色々な評価が公開されているので、指導者の欠陥も露になっている。さらに、現在の子供の教育方法で、忍耐力がなくなり、批判が多くなっている。

一方、指導側の問題として、大きな問題がある。従来の指導者は、人を導くと言う全人格的な要素があった。現在の指導者教育は、技術指導のテクニックは教えても、総合的人格的に人を導く要素は弱くなっているように感じる。

但し、もう一つ色々な事件に繋がる、危険性がある。
現在の指導者論に、
  ”トヨタ方式の1/10”や”松下幸之助の半分”の厳しい目標を
  設定するのが正しい。

というものがある。ここで、指導者に要求されることは、厳しい目標を設定する場合には、その実現可能性に対する見通しを持つことである。これは明確なものでなくて、潜在的可能性でも仕方ないし、失敗もあるであろう。しかし全く勝算のない目標に無理に突っ込ませることは、破局を呼ぶしかない。

建設業では、姉歯事務所の設計計算にお願いして、手抜き工事で目標を達成した。エレベータ業界では、まともな検査のできないメンテナンス会社に、発注してコスト削減を実現した。これらは、すべて実現可能性を無視した、無理な目標の結果ではなかろうか?

| | コメント (0)

2006年7月 7日 (金)

手裏剣に見る道具の変遷

昔から興味のあった古武術が、現在かなりのブームになっている。特に手裏剣術のような、マイナーな分野もネット上では結構人気があるらしい。

ところで、手裏剣の投げ方(撃ち方)には、大きく分けて以下の2つの考え方がある。

 1.手裏剣が飛びながら回転し、丁度的のところで真っ直ぐに突き刺さるようにする
 2.手裏剣の回転を殺し、直線的に飛ぶようにする

特に棒状の手裏剣を、通常上から投げると手から離れた時はほぼ的と平行で離れるので、的までの間で90度か270度回転して刺さるように目測して投げるか、飛びながら直線になるように手裏剣自体に工夫をする必要がある。

例えば、ある流儀では、房を後ろに付け、空気抵抗で直線状になるようにしている。矢羽根のようなものを、後ろに付ける場合もある。また逆に、回転してもどこかが刺さる、十字形など車状の手裏剣もある。

一方、人間の技で間合いを読み、単純な棒状の手裏剣を、的に刺さるように撃つ流儀もある。名人と言われる人の技は、無造作に撃ちながら的をとらえている。

個人の技に頼るか、道具で工夫するか、現在の技術と匠の技のせめぎ合いが、ここにもある。

| | コメント (0)

2006年6月30日 (金)

夏越の大祓い

本日は6月30日、一年の半分が終わったことになります。本日は、半年分の穢れをはらう日です。
 水無月のなごしの祓 する人は ちとせの命 のぶといふなり
という歌にあるように夏バテしそうな体を活性化する機会です。

神社によっては、茅の輪くぐり神事もあります。
「蘇民将来の子孫でござる」と言いながら、まず左足から左に回り、次に右足から右に回り、もう一度左足から左に回り、最後に直進して神前に向かいます。

このような風習が近所の神社にも残っているのを見ると、何かほっとします。

しかし見方を変えれば、この神事明治の国家神道で、規格化したように感じます。昔はもっと、自由な祈りかたがったのではないでしょうか?

最後に、このブログも開始してから200件になりました。まだまだ短いですが、一つの通過点です。読んでいただいた皆さんに多謝。

| | コメント (0)

2006年6月29日 (木)

裁判について思う

明石の事故に関して、遺族の再三の意思も空しく、起訴は行われなかった。これは、起訴の成功率で評価する、検察体制の問題と言う意見もある。考えてみると、保険金の収集比率を上げるために、勝手に免除したり、検挙率を上げるために、訴えを無視したりする話と似たように感じるかもしれない。

確かに不起訴と言うのは妙な話で、裁判で公開の議論で、有罪無罪にするのではないから、いつまでも遺族の不満が残るのも納得する。裁判所の前に、検察が裁いてよいのかと言う議論である。

しかし、見方を変えれば、負けると決まった裁判をするのは、税金の無駄遣いという言い方もできるかもしれない。結構、日本の刑法で有罪にするのは難しいだろう。疑わしきは被告人の有利と言う原則がある。

そなると、結局民事裁判で、責任を追求するしかないのかもしれない。アメリカ流の高額賠償は、一つの仇討ち的要素や、見せしめによる再発防止効果がる。そんな世界が来るかもしれない。大分怖くなってきた。

| | コメント (0)

2006年6月26日 (月)

日本の好景気の継続

日本の好景気が続いていると言うことで、めでたいことである。但し、これがいつまで続くかと言うことで、
   「過去の事例からもうそろそろ・・・」
と言う話も出ているようである。

しかし、今回の景気を引っ張っているのが、トヨタのような会社である点は、大分安心できるように思う。トヨタ方式に関しては、色々書かれているが、
  『作業を付加価値で厳しく評価し、常にカイゼンする。』
厳しさが、共通的なものと思う。

このように、努力に比例した利益の創出と言うものは、それなりの継続性があるのではなかろうか?今までの、公共事業頼みのような、自己の努力を超えた利益構造よりは、安定しているように思う。

トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして

著者:大野 耐一
販売元:ダイヤモンド社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

トヨタ流最強社員の仕事術 トヨタ流最強社員の仕事術

著者:若松 義人
販売元:PHP研究所
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0)

2006年6月25日 (日)

マスコミと教育の役割

本日のテレビで、マスコミの役割に関して、考えさせられるものがあった。

一つは、日銀総裁に関する意見である。

「日銀総裁としての業務・功績と今後代わりの人間の資質を評価し、日本の国益で彼を止めさせるかどうか議論すべきである。」

また、裁判官に関する意見である。

「国会議員が、何をしたと言う話は、マスコミが色々報道するが、裁判官がどの判決で、どう判断したと言うテレビの取り上げは非常に少ない。これでは、最高裁判事の国民審判も意味が薄くなる。」

どちらも、重要な仕事をしている人の、仕事自体をとらえて報道していない、今のマスコミの欠点を示しているように思う。

そういえば、「国会議員になったら料亭に行きたい」、「財務省の官僚になったら、銀行の接待を受け、XXしゃぶしゃぶを食べたい」というような話も聞いたことがある。あるいは「会社幹部は何を、しているのか?」という社員の話も聞いたことがある。

マスコミや教育だけの責任とは言わないが、エリート官僚や経営者は”権力に胡坐をかき、搾取や部下や下請けへ丸投げしている”と言う、マルクス主義的観点での話が多すぎるように思う。

もっとも、経営者軽視に関しては、ノンキャリアの実務屋レベルからの反発も大きいのかもしれない。昔の海軍でも、下士官から上った特務士官の兵学校でのエリート士官に対する、内心での軽蔑はひどかったように感じる。特に参謀達への反発が大きい。

逆に言えば、トップの判断で大きくよくなったと言う話が少ないのかもしれない。特に中級管理職の貢献が、見えていないように感じる。参謀も一つの黒子であるから、成果が残らないのは宿命かもしれないが・・・

このような、各人のよいところを
  ”見える化”
することが、現在の改善に繋がるのではなかろうか?

|

歴史の勉強について

昨日までの話と関連して、歴史の勉強に関して、目から鱗があった。

NHKの”その時歴史が動いた”で、薩英戦争を取り上げていた。http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_syokai.html#02
この内容では、英国公使の日本での行動が色々取り上げられていた。

特に、私が興味があったのは、”英国兵士による富士登山”である。これは当時の信仰の対象である、霊峰を汚す行為であり、当時の民衆が”攘夷”と叫んだことも、当然と思ってしまう。

このようなことは、少なくとも高校までの歴史の教科書では、取り上げられていない。そのような間隙を埋めていたのは、実は司馬遼太郎氏等の著作などであった。特に司馬遼太郎氏の作は調査が綿密で、しかも歴史教育にないものがあり、多くの人は司馬史観を真実と信じている節もある。

しかし、竜馬が行くを読んでも、英国軍人の富士登山の項目は私は見落としてしまった。これは信仰に対する問題で、ある人にとっては重要だが、ある人にとっては無視できる問題かもしれない。

しかし、司馬史観は個人のものであることを、忘れてはいけない。

なお、富士の山など当時の信仰を壊したのは、明治政府と福沢諭吉などの文化人であり、そういう意味では英国人のしたことなど小さいことであり、消えてしまったのかもしれない。

|

2006年6月24日 (土)

陸軍悪玉論

昨日まで、日露戦争の連合艦隊解散之辞について述べた。この文書の評判は、一つは司馬遼太郎氏の”坂の上の雲”によるところが大きいと思う。

坂の上の雲〈8〉 坂の上の雲〈8〉

著者:司馬 遼太郎
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

前にも述べたが、坂の上の雲での海軍への記述は、陸軍に対する記述より暖かく感じる。もう一つ陸軍を悪く印象付けるのは、山本七平氏の著作であろう。

一下級将校の見た帝国陸軍 一下級将校の見た帝国陸軍

著者:山本 七平
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

両氏の共通点は、陸軍での従軍経験である。しかも、絶対勝てない状況を認識した上での、従軍である。

この恨みが、少ない分だけ、特に司馬氏の海軍に対する評価が甘いように感じる。

内部を知ると、点が辛くなるのは、現在でもよくあるように思う。

| | コメント (0)

2006年6月23日 (金)

連合艦隊解散之辞について(承前)

さて、昨日の続きであるが、この内容は色々参考になるものが多い。

例えば、軍艦と言う道具に対し、これを使いこなす”軍人”と言うソフトの充実が、勝敗を決めると言う観点は、現在のIT設備だけ入れて、使いこなせていない多くの経営者には、耳が痛いのではなかろうか。

また、解散した後の平常時においても、常に戦場を忘れないと言うのは、リスク管理の基本である。

一方、よく議論の的になる、
  「百発百中の一砲は能く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」
の項目は、確かに短期決戦でしか成立しない。長期消耗戦になれば、数が多いほうが、被害の影響が少なくなり、百発一中でも一門ならば壊れればそれまでである。

しかし、日本の国力を考えれば、こう言って皆を納得させるのも重要な判断と思う。

分不相応な、他所と同等の設備を求めるより、自分の手に入るもので、活用を考えるのは働く場では当然起こることである。

井上成美流の2等大将論よりは、東郷元帥はよっぽど国力と軍人の意識の両面を、バランスよく考えているように思う。

| | コメント (0)

2006年6月22日 (木)

連合艦隊解散之辞について

久しぶりに、”坂の上の雲”などで有名な、日露戦争終結時の連合艦隊解散之辞を、読み直してみた。まず、全文をコピーしてみる。

聯合艦隊解散之辞(れんごうかんたいかいさんのじ)・・・ウィキソースより引用

二十閲月ノ征戰已スデニ往事ト過ギ、我ガ聯合艦隊ハ今ヤ其ノ隊務ヲ結了シテ茲ニ解散スル事トナレリ。

然レドモ我等海軍々人ノ責務ハ決シテ之ガ爲ニ輕減セルモノニアラズ。

此ノ戰役ノ收果ヲ永遠ニ全ウシ、尚益々國運ノ隆昌ヲ扶持センニハ、時ノ平戰ヲ問ハズ、先ヅ外衞ニ立ツベキ海軍ガ常ニ其ノ武力ヲ海洋ニ保全シ、一朝緩急応ズルノ覺悟アルヲ要ス。

而シテ武力ナル物ハ艦船兵器等ノミニアラズシテ、之ヲ活用スル無形ノ實力ニアリ、百發百中ノ一砲能ヨク百發一中ノ敵砲百門ニ對抗シ得ルヲ覺サトラバ、我等軍人ハ主トシテ武力ヲ形而上ニ求メザルベカラズ。

近ク我ガ海軍ノ勝利ヲ得タル所以モ、至尊ノ靈徳ニ頼ル所多シト雖モ、抑亦平素ノ錬磨其ノ因ヲ成シ、果ヲ戰役ニ結ビタルモノニシテ、若シ既往ヲ以ツテ將來ヲ推ストキハ、征戰息ムト雖モ安ンジテ休憩ス可カラザルモノアルヲ覺ユ。

惟フニ武人ノ一生ハ連綿不斷ノ戰爭ニシテ、時ノ平戰ニ由リ其ノ責務ニ輕重アルノ理ナシ。

事有レバ武力ヲ發揮シ、事無ケレバ之ヲ修養シ、終始一貫其ノ本分ヲ盡サンノミ。

過去ノ一年有半彼ノ風濤ト戰ヒ、寒暑ニ抗シ、屡々頑敵ト對シテ生死ノ間ニ出入セシコト固ヨリ容易ノ業ナラザリシモ、觀ズレバ是レ亦長期ノ一大演習ニシテ之ニ參加シ幾多啓發スルヲ得タル武人ノ幸福比スルニ物無シ。

豈之ヲ征戰ノ勞苦トスルニ足ランヤ。

苟モ武人ニシテ治平ニ偸安センカ、兵備ノ外觀毅然タルモ宛モ沙上ノ樓閣ノ如ク、暴風一過忽チ崩倒スルニ至ラン。

洵ニ戒ムベキナリ。

昔者、神功皇后三韓ヲ征服シ給ヒシ以來、韓國ハ四百餘年間、我ガ統理ノ下ニアリシモ、一タビ海軍ノ廢頻スルヤ忽之ヲ失ヒ、叉近世ニ入リ、徳川幕府治平ニ狃レテ、兵備ヲ懈レバ、舉國米艦數隻ノ應對ニ苦シミ、露艦亦千島樺太ヲ覬覦スルモ、之ト抗爭スルコト能ハザルニ至レリ。

飜ツテ之ヲ西史ニ見ルニ、十九世紀ノ初メニ當リ、ナイル及ビトラファルガー等ニ勝チタル英國海軍ハ、祖國ヲ泰山ノ安キニ置キタルノミナラズ爾來後進相襲ツテ能ク其ノ武力ヲ保有シ世運ノ進歩ニ後レザリシカハ、今ニ至ル迄永ク其ノ國利ヲ擁護シ國權ヲ伸張スルヲ得タリ。

蓋シ此ノ如キ古今東西ノ殷鑑ハ爲政ノ然シカラシムルモノアリト雖モ主トシテ武人ガ治ニ居テ亂ヲ忘レザルト否イナトニ基ケル自然ノ結果タラザルハ無シ。

我等戰後ノ軍人ハ、深ク此等ノ實例ニ鑑ミ、既有ノ錬磨ニ加フルニ戰役ノ實驗ヲ以ツテ、更ニ將來ノ進歩ヲ圖リテ時勢ノ發展ニ後レザルヲ期セザル可ベカラズ。

若シ夫レ常ニ、聖諭ヲ奉體シテ、孜々奮勵シ實力ノ滿ヲ持シテ放ツベキ時節ヲ待タバ、庶幾バ以テ永遠ニ護國ノ大任ヲ全ウスル事ヲ得ン。

神明ハ唯平素ノ鍛錬ニ力メ戰ハヅシテ既ニ勝テル者ニ勝利ノ榮冠ヲ授クルト同時ニ、一勝ニ滿足シ治平ニ安ンズル者ヨリ直ニ之ヲ褫フ。

古人曰ク勝ツテ兜ノ緒ヲ締メヨト。

明治三十八年十二月二十一日     聯合艦隊司令長官 東郷平八郎

| | コメント (0)

2006年6月19日 (月)

週刊誌が面白いか

色々な週刊誌に目を通すと、面白いことに気が付いた。

出版社系の週刊誌と比べて、新聞社系の週刊誌は、一般に面白くない記事が多い。
但し、出版社系の週刊誌には、時々拒絶反応を起こして、読めなくなる場合がある。

この理由を考えると、新聞社系のほうが、どちらかと言うと、建前だけでも公正な立場で、書いているからだと思う。出版社系の場合は、よく言えばしっかりした仮説に基づいて、悪く言えば思い込み、決め打ちで書いている。

従って、仮説がしっかりした方が、突込みが深くなり面白い記事が多くなるようである。

思い込みの激しい記事には、拒絶反応もあるが・・・

| | コメント (0)

2006年6月18日 (日)

日本のマスコミ報道

あるテレビ番組で、ワールドカップのまともな予想ができないと言う話をしていた。

つまり、本音バージョン
 「今の日本チームでは、とても勝てませんよ。」
と言うことはできなくて、
 「善戦するでしょう。勝機は有ります。・・・・」
等の表現をしないと、視聴率を気にする局の上部から、カットを食らうそうである。

その結果、景気のいいことを言う評論家しか、お座敷が掛からなくなる。

これどこかで聞いたような覚えがあるな。

まず日米開戦前に、勝算ありかと聞かれた、山本五十六発言。
 「1年半程度は、暴れてみせる。」
その他、大本営発表の色々がある。

何か進歩していない国だなー。

| | コメント (0)

雑誌記事の続き

世界遺産に登録されている和歌山県かつらぎ町上天野の丹生都比売(にうつひめ)神社境内にある樹齢約100年の杉の根元に穴が開けられ、中に除草剤がまかれていたことが14日、分かった。木は大部分が枯れており、回復させるのは難しいという。県警妙寺署は器物損壊事件として捜査し、文化財保護法違反の疑いもあるとみて調べている。
<毎日新聞のHPより>

この犯人の一つの仮説として、
   ”スギ花粉賞”の被害者達の反逆
というのは成立しないか?

そう言えば、PRESIDENTの7.3号に、スギの木を倒すNPOを作ると言う記事もあったし・・・

これが、単なる冗談になるように願っている。

そうでなくても和歌山の神社は、明治維新以来、合祀などでいじめられてきたのだから、これ以上自然と一体になった信仰を壊されたくない。

| | コメント (0)

2006年6月16日 (金)

発想法

先般のNHK教育テレビのサイエンス番組で、マイクロバブルというものを取り上げていた。これは、通常の泡より小さいもので、長持ちする特徴があるらしい。

これの応用として、船の周りの水の間で抵抗を少なくして、燃費を良くする話があった。

このように、本体だけでなく周辺を考えることで、従来を越えることが多い。発想法の一つとして、枠を超えるのも重要なことである。

| | コメント (0)

2006年6月15日 (木)

仮説思考と思い込み

近頃の論理的な思考法のなかに、仮説を用いて思考の効率化を図る方法を、教える場合がある。私も仮説を使うことは、思考の深さをますのに有効と考える。

しかしながら、仮説にとらわれると、思い込みになってしまう。冤罪事件の多くは思い込み捜査の弊害である。また週刊誌の記事の多くは、ある一方の立場で、書いているものが多い。つい先ごろの男子が死んだ事件でも、容疑者の女性を、犯人側と冤罪側で決まったような記事が多かった。

このような面が、仮説思考を妨げるのかもしれない。しかし、ここで問題なのは”とらわれの心”であり、両面の仮説を持てば、この問題は解決する。そういう意味では、何時でも両面で議論できるようにする、本当のディベートの稽古が重要である。

| | コメント (0)

2006年6月14日 (水)

数学に関して

昨日、数学に関する本について書いたが、本日もう一冊面白い本を見つけた。

直観でわかる数学 直観でわかる数学

著者:畑村 洋太郎
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

数学の専門家でなく、工学しかも機械系の先生の作だけに解りやすく、面白い。

但し、一言異議を言わしてもらうと、自然対数eは、自然が求めた数値だと思う。自然を記述する物理は、自然に敬意を払って成立するものと思う。

フィボナッチ数列と黄金比の関係なども、人間が自然を見抜く能力を持っているからと思う。このような神秘な自然を見つける楽しみもあってよいのではなかろうか。

| | コメント (0)

2006年6月13日 (火)

数学って何だ

本日の朝日新聞の社説で、数学教育を重視と言う記事があった。原則は確かに賛成するが、今の数学教育のままでと言うと、大分首をかしげる。

天書の証明 天書の証明

著者:M. アイグナー,G.M. ツィーグラー
販売元:シュプリンガー・フェアラーク東京
Amazon.co.jpで詳細を確認する

や、

数論入門〈1〉 数論入門〈1〉

著者:G.H. ハーディ,E.M. ライト
販売元:シュプリンガー・フェアラーク東京
Amazon.co.jpで詳細を確認する

数論入門〈2〉 数論入門〈2〉

著者:G.H. ハーディ,E.M. ライト
販売元:シュプリンガー・フェアラーク東京
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ぐらいを教えてくれるなら納得する。または

オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ

著者:吉田 武
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

もおもしろい。このような数学の面白さが伝わらないと、本当の効果は望めないのではなかろうか。

もっともその前に、国語の力=読解力もつけて欲しい。

| | コメント (0)

2006年6月 9日 (金)

日本の大学での工学部の地位

先般テレビで、聖徳太子は大工の神様と言う話を見た。さらに、弘法大師は、満濃池の工事で活躍されたと言う伝説がある。

日本にとっては仏教と言うのは、輸入された最新科学だったからかもしれないが、工学的な分野で、聖人の活躍がある。一方、西洋の工学は、錬金術という魔術の子孫と見られた面もあり、他の科学より低く見られていた。

東京大学は、世界で始めて工学部を他と平等、またはそれ以上に扱った、世界で最初の大学と言うのは、聖徳太子に始まる伝統があるのかもしれない。

もっとも、弘法大師様の奇跡は、キリスト教徒にとっては、邪教の悪魔的所業かもしれないが・・・

|

2006年6月 6日 (火)

絵画の盗作騒動

新聞等でにぎわっている、絵画の盗作騒動について、もう一つしっくりしない。

印象派の画家が、日本の浮世絵の構図的なものを参考にしたなど、色々な例がある。

しかし今回の場合は、共同制作と言ったりした、虚偽の発言が問題になっているらしい。このような虚偽発言と、盗作騒動は分けたほうがよくないかと思う。そうでないと、模写で勉強するのは難しくなるのではなかろうか?

但し、これで賞を取ったことが問題ということかもしれない。しかし、真似た場合には、覇気などで何となく分かると思うのであるが、どうであろうか?

| | コメント (1)

2006年6月 5日 (月)

一流の条件

昔、太秦の映画村を見学したことがあった。ちょうどテレビの収録をしていた。

そこで面白いことを発見した。

主役級の俳優の回りはずっと、緊張感がある。しかし、端役の通行人などは、本当の出番まで、のんびりしゃべっている。

一流は、緊張感が持続できることが、一つの条件である。

| | コメント (0)

2006年6月 4日 (日)

阪神タイガースの行く先

阪神と阪急の統合が、これから進行するようである。とりあえず、村上ファンドのやり口で変な向きに振り回されるのは、避けられそうである。

しかし、これでどうなるのか?
本来阪急の経営は、『聖域なし』の改革が、命のはずである。創始一族の”小林米三氏”の想いのある、”球団”を売り払い、子供の夢であった”ファミリーランド”は、学校敷地に変わっていった、”勇者=ブレーブス”の動きが身上である。

この次を考えると、宝塚歌劇は”吉本興業”あたりに売り払うのではないかと、ブラックジョークがささやかれている。

そう考えると、”阪神タイガース”の名前を残すなら、市民株主で皆が球団の株を買うべきではなかろうか。そういう意味では、阪神タイガース上場は、望ましかったように感じる。

| | コメント (0)

2006年6月 1日 (木)

日本人の道徳観

日本人の道徳観は、世界の常識とは大部変わっているらしい。
特に、『商業道徳』の概念が早期に成立していたことは、世界に誇るべきことである。江戸時代で士農工商とは言いながらも、『商人道』が成立していたのは、近松・西鶴の作品にも多くある。

この原因には、本質的に村社会の育ちで、長い付き合いが実感されていたことが大きいと思う。しかし、神道の現世欲肯定的側面や、理趣経の『欲が世間を整える』発想も貢献したように思う。適切な金銭欲を肯定することが、健全な金儲けに繋がったのではなかろうか?

しかし、このような発想でいると、キリスト教国から
  「悪魔的発想である」
と糾弾されるかもしれない。キリスト教以外の創造性を認めず、呪詛を行う話は、
   創元SF文庫の 「悪魔の星」ジェイムズ・ブリッシュ
を参考にして欲しい。十字軍が、アラブで嫌われるのも、この本の発想があるからであろう。

|

2006年5月31日 (水)

学問の正解で

昨日の議論をもう少し拡げると、学問の世界でも『誰に見える』と言う話しになる。

古くは
  「エジソンは数学的基礎がなかったので、交流に関して理解が薄かった。」
と言う話もある。

この改善には、一般教養を広める方向と、必要性から攻めていく方向がある。現在、色々な波が周波数成分に分解できると言うことは、かなり一般知識となっている。

また、電子回路の高周波化により、スミスチャートなどは、かなりの人が勉強するようになってきた。

このように、一般の理解が出来る範囲では、よい物が皆に見えるようになるだろう。

| | コメント (0)

2006年5月30日 (火)

試合の効用

前にも書いたが、柔道で乱取りしたり、試合をすることは、口先だけの権威の化けの皮をはがすのには役に立った。秘伝などの秘密主義には、困ったものがあるのは確かである。

しかし一方、型稽古を繰り返すことで、自分の身につく変化があるのも確かである。これは微妙なもので、皆が見て解るというものではない。本当に目のある師匠だけが判定できるものである。このようなものを、見える力を多くの人が持つようにするのは、どうしたらよいであろうか?

現在の、DVDなどの普及で、本物の型演舞などが広がれば、本物を見る人が増えるかもしれない。

| | コメント (0)

2006年5月29日 (月)

作家でないと発言できない

都会国・日本像―大競争世界で栄える道    PHP文庫 堺屋 太一(著)
を読んだ。90年代前半の著書だが、現在の格差拡大などを予測していて面白い。

このブログでは、堺屋太一氏や 逆説の日本史シリーズの井沢 元彦氏の意見を、色々と参考にさせていただいている。

さてこのお二人の職業は、何かと言えば『作家』と言う肩書きがあるらしい。この理由を考えると、ある種の大胆な仮説を日本の学会で出すのは抵抗があるらしい。

例えば、梅原猛さんの歴史観は、井沢さんの議論に影響を及ぼしているが歴史学会では相手にされにくいようである。

フィクションですと断らないと、仮設を出しにくいのではなかろうか?

もう一つ言うと、小説の上でシミュレーションをすると、仮説が検証されやすいのかもしれない。これも総合的視点の成果であろうか?

隠された十字架―法隆寺論 隠された十字架―法隆寺論

著者:梅原 猛
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

逆説の日本史〈12〉近世暁光―天下泰平と家康の謎 逆説の日本史〈12〉近世暁光―天下泰平と家康の謎

著者:井沢 元彦
販売元:小学館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0)

2006年5月26日 (金)

批判に耐えることが大切

朝のニュースで、キトラ古墳の壁画にカビが生じていたが、すぐに除去されたと聞いた。まずは安心である。それに引き換え、高松塚のお粗末さは言いようがない。これは、文化庁の隠蔽体質による所が多い。

そう言えば、日本の官僚には、素人に知らせない体質がある。外交も然り。確かに、明治期の日露戦争後の大衆の暴走は、現在で見ると、困ったものとしか言いようがない。しかし、あの時代は情報操作がかなり利き、ロシア側に日本の戦力を過大評価させたことが、一つの勝因であった。しかし現在のような、ネットワーク社会では、隠すことのメリットは、あまりない。

一方、公開で批判に曝される場合には、失敗した場合の修正が早くなるメリットがある。民主主義政治の基本は、情報公開と健全な野党の存在であるのも、同様な原理である。

|

2006年5月25日 (木)

厳密が良いのか

昔、あるところで大学工学部卒業生に、Maxwellの方程式を説明しろと言う問題を出したことがある。

残念ながら大部分は答えることが出来なかった。ここで、この設問は
  『説明しろ』であり、『厳密な式を書け』
と言っているのではないことに注意して欲しい。式の細かい部分を記憶していなくても、概略の定性的な説明を期待した出題である。もっと言えば、
   「説明が良くできれば参考書を見ても良い」
と、助言した場合も出来なかった。

これは、説明能力不足と考えていたが、もっと議論すべき要素がありそうだ。

まず、厳密な式の記述が出来ない時点で、思考停止になってしまうようである。ヴィーコの言う”クリティカ”の厳密な鎖をたどっているので、途中で切れると前に進めないらしい。

特に数式などが絡むと、頭が厳密モードに入ってしまい、曖昧な定性的説明などを受け付けなくなるようである。

もう少し柔軟性が欲しいと考える。

| | コメント (0)

2006年5月23日 (火)

学校の閉鎖性

近頃のニュースを見ていると、学校社会の特異性を感じるものが多い。

まず、職員会議の多数決の論議であるが、
 「大学卒業したばかりの新人と、10年選手と一律に考えて良いのであろうか?」
とは言っても、
 「校長だけで決めろ」
と言うのも極端すぎる。

学校の制度は、何か閉鎖的で自分達の論理だけで、進んでいるように思う。文部科学省の考えている、机上の世界で全てが出来ているのではないと思うがどうであろうか?

但し、教育世界は”外注”が少ない。これは企業にとって考えるべき点かもしれない。少なくとも、外注差益で儲けない点は、学校制度の良い点と思う。

| | コメント (0)

2006年5月21日 (日)

ダヴィンチ・コード関連

昨日のテレビで見た、”天才ダヴィンチの謎と隠された暗号~”では、少し考えるものがあった。読んではいないが

ダ・ヴィンチ・コード(上) Book ダ・ヴィンチ・コード(上)

著者:ダン・ブラウン
販売元:角川書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ダ・ヴィンチ・コード(中) Book ダ・ヴィンチ・コード(中)

著者:ダン・ブラウン
販売元:角川書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

等と関連しているらしい?

詳細は、さておき現在のキリスト教に関しては、本当にキリストが説いたものか?もう一度考え直す必要があると再認識した。この本等の主張はさておき、我々のキリスト教のイメージは、よくも悪しくも「ローマカソリック教会とそれに反発したプロテスタント」のイメージで、それより前の原始キリスト教の認識が薄かった。また、ギリシャ正教や異端とされた各宗派の認識も薄い。特に中世の異端裁判の歴史もうっすらとしか知らなかったが、各地の古来の信仰を押さえ込んだことは、充分想像できる。

このような観点で考えると、フランスなどはローマ帝国では、田舎であっただけに、その土地の信仰が押さえられ、色々な形で残ったことも充分考えられる。

もっとも、日本の仏教も充分お釈迦様の教えとは、別の進歩をしたかもしれない。法華経は、お釈迦様の時代に書かれたのでないことは、ほぼ確実と言われている。但し、霊的に直接教えを受けた可能性は否定しないが・・・

ダ・ヴィンチ・コード(下) Book ダ・ヴィンチ・コード(下)

著者:ダン・ブラウン
販売元:角川書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0)

自由主義者の強さ

本日の報道2001で、戦後政治の話が出ていた。色々な観点があり面白いが、一つこのブログで前に触れた内容があった。

それは、戦後の重大時期を指導した、吉田茂元首相の話である。

彼は、アメリカとの厳しい対決を通じて、戦後日本の進む道を決めた。善悪ともに彼の指導で現在の日本が決まった面は、大部分の人間が認めるであろう。

このような、軸が触れない人間と言うことは、彼が『戦前からの自由主義者』であったことで説明できる。

本来の自由主義者は、自分の信念を確保して、軸がぶれないようにしないと、すぐに流されてしまう。このような自由主義を支える信念が、今揺らいでいるように感じる。

| | コメント (0)

2006年5月20日 (土)

評価力と自作能力

本日のあるテレビ番組で、以下の様な面白い発言があった。
  「xx社が輸入しているワインは美味しいが、xx社の作る洋酒は嫌いだ。」
これは、矛盾しているようだが現在の日本の物作りを考えると、納得出来る理由がある。

まず、自作製品はがまずいのは、工場のプロセスに問題がある。
一方、輸入品が美味しいのは、会社としての評価能力が良いと言う事である。

この両者が分離しているのは、大きな会社と言うことを考えれば、当然かもしれない。特に、海外などに工場を分離している場合でも、評価能力は国内の本体に残るので、このような現象が発生するのであろう。

しかし、本当に評価するためには、自分で物を作ることも大切ではないか?

逆に、良いものが解るのは、よい物が出来る必要条件ではある。

| | コメント (0)

2006年5月19日 (金)

古墳保存について

高松塚古墳壁画の保存状況が、文化庁だけで行われていたが、カビなどで散々な結果になっている。一方、キトラ古墳の壁画は、公開で色々な対応がされているので、今後トラブルが起こっても早急に修正されると思う。

ここで単純に言うと、公開にすることが重要と言うことである。しかも、批判勢力も含めて見られている場合には、緊張感がある。

これを政治で考えると、健全な野党の存在が、民主主義の条件と言うのも納得する。

| | コメント (0)

2006年5月18日 (木)

海外と共同事業

前にも書いたかもしれないが、海外の会社と協力する場合は、色々と注意する点がある。日経ものづくり
  http://techon.nikkeibp.co.jp/Monozukuri/
にも色々と面白い記事があるが、ここでは別の観点で書いてみたい。

日産のゴーン改革が何故成功したか?色々理由はあるであろうが、一つの理由は、
「ゴーン氏自身が昔ニッサンの車のファンであった。」
と言う観点も重要と考える。ゴーン氏のどこかに、日産の技術に対する期待があり、引き受け時点の経営不振は、一部経営陣の無能が原因と言う認識があったと思う。

これと比べると、三菱自動車は、ドイツの名門と組んだが、結局下働きの扱いしか受けなかった。これでは、改革も失敗するはずである。第2次大戦のヒトラーをあがめて、軽蔑されていた、日本軍指導部から進歩していないようである。

ゴーン氏のように、会社の潜在力を信じていなければ、力を引き出すことは出来ない。探す気もないものに、良いものが見つかるはずはない。

| | コメント (0)

2006年5月16日 (火)

漫画から見る世界観

前にあるテレビで、麻生大臣の漫画で読む時代の分類を行っていた。面白いので、載せさせてもらう。

  60年代 反体制 
  70年代 巨人の星頑張る 
  80年代 自由(はぐれ雲)
  90年代 オカルト 
  00年代 英雄待望・・・自分が英雄になる”ドラゴン桜”もある

  「新聞のように宅配でないので、本当に世論を反映している。」
と言うのが彼の持論である。

但し、現在の漫画は、非常に多様化しているように思う。しかもマニアックな知識を持って書いているように思う。知識が大衆化した結果ではなかろうか?

| | コメント (0)

2006年5月15日 (月)

地方への補助金について

先日の話の補足であるが、現在地方への国税からの補助金が削られている。

これはばら撒き行政の修正と言うことでは、認められる面もある。しかし、廃止した時のトラブルに対する構想がない。

これは関空と伊丹の関係と同じである。全然進歩していないように感じてしまうのは、私だけであろうか?

| | コメント (0)

2006年5月14日 (日)

地方格差について

今朝の報道200Xを見たら、東京都知事が出ていた。そこで、オリンピックの誘致に関して、福岡に対して、
   「東京ほど設備が整っていない。」
と発言していた。これを聞いて地方の立場で、少し腹が立った。

東京オリンピックなどで、今まで東京に対するインフラ投資をした。先に充分投資を受け取ってから、他より設備があると言う論議はないのではないか。

今まで、地方へ補助金のばら撒きには、批判的な私であったが、先に充分投資を受けた大都市との比較で補助金と言う論法には、少し肯定すべきものがある。

| | コメント (0)

2006年5月11日 (木)

登山について

世界の山を綺麗にする運動が行われている。色々な廃棄物があるが、酸素ボンベの残骸なども多いようである。

これを聞いて、思うのだが、登山は自分の力で行うべきであり、高地対応の呼吸法・体の使い方を、マスターしたものしか登ってはいけないのでなかろうか。山と言うものは、絶対必要と言うわけでもない。そのような条件では、行ける人間と行けない人間の差があっても良いのではなかろうか?

ここまで書いて、少し気になったのは、暖房用の防寒具まで否定するのか?あまり極端に走ると問題があるが、少なくとも山にゴミを残さないと言う原則は、守って欲しいものである。

| | コメント (0)

2006年5月10日 (水)

計画の独り歩き

トヨタの一つの強さは、
  「長期計画」
を持たないことらしい。

確かに、「計画」を一度立てると、それに縛られることが多い。その代わりに、現在の状況を早い目に察知し、即座に対応する能力があれば、長期の計画が不要かもしれない。

現在の厳しい環境では、予測のはずれは致命傷になる。正確に対応するためには、世の中での症状が出てから対応するしかない。
但しそれでも出遅れない、スピードがある場合しかこれは出来ない。

楽天の野村監督が、三冠王を初めて手にしたのは、相手の投げる球を正確に予測する能力を身につけたからである。

「自分はどんな球が来ても、打てる天才ではない。」

一方、ドラッカーは

「自分は予測しない。微妙な徴候を読み取るだけ。」

どちらも味わいの深い言葉である。

| | コメント (0)

2006年5月 9日 (火)

銃を持つ権利

本日の朝日新聞に、”国民個人の自衛権”の話が載っていた。

丸山真男氏の1960年の「人民の自己武装権」の短文を、政治学者の杉田敦氏が講演したものだが、
 ”個人の自衛権”が先にあり、その上での”国家の自衛権”である。
と言う思想には、納得のいく面が多い。

個人の自衛権には、国家への意義申し立て権も含むと言うのは、米国の基本思想である。

ここまで極端ではないが、現在の日本の法律は、正当防衛に厳しすぎるように思う。自らの安全を守る権利ぐらいは、認めて欲しいものである。

| | コメント (0)

2006年5月 8日 (月)

稟議による総合化

日本の意思決定は、欧米人にはわかりにくい、と言われている。

それは、稟議システムなどに良く現れる。つまり一人のボスが決定するのではないので、キーマンが見えない。

これを、良い面で見ると、
   衆知を集めた総合的なチェックができる
ということである。

核になる部分が敲き台を作り、それを稟議していく。しかし実際は、拒絶しないと言う意味の判子を連ねることが多い。しかしこれでも、自らの専門では、問題ないという意思表示をしている。このようにしてトータルな目で見る仕組みになっている。

京都府などでは、この良いところを取り入れ、稟議の変わりにWEB で掲示し、拒否すべき意見があれば拒否するシステムにしている。日本式の良いところを残した効率化である。

| | コメント (0)

2006年5月 7日 (日)

ご隠居の意見とXXソムリエ

先日のNHKテレビで、江戸時代の遊びを取り上げた時、観客の上手下手があるという議論があった。確かに良い客が供給側を育てるのは、自然な流れと思う。現在は、専門性重視と言うことで、供給側の力が過剰評価されているのではなかろうか?

これには、もう一つ言えば、供給者重視の政治姿勢もあるかもしれない。農業を保護する農林政策はあっても、消費者の食生活全般を見る省庁は見当たらない。この議論も、色々考えることがあるが、ここでは、専門性の認定に関して、話をしたい。

江戸時代の観客では、”どこそこのご隠居”と言う感じの、皆が認める権威があった。これは、村社会で皆が顔が見えて、物知りと自然に認め合う雰囲気から、選ばれたものと思う。このようなご隠居は、物知りに加えて知恵もあり、総合的な判断が下せ、皆がそれに自然に従うようになっていた。

一方、現在では”xxソムリエ”と言うものが、色々出来ている。これは資格社会と言うことであろう。資格社会の客観性には良い所もあるが、知恵のように失われるものもある点に注意して欲しい。

| | コメント (0)

2006年5月 6日 (土)

音痴と平等主義

私は、正真正銘の音痴である。中学校の時、音楽の教師に
 「お前はペーパーテストで90点台をとるから、
  (5段階評価の)3を不本意ながら出さざるを得ない。」
といわれた経験がある。とは言っても、音の高低が識別できず、さらにテンポがずれるんだからどうしようもない。

さて、私が現在の落伍者を許さない、しっかりした学校に行けばどうなったであろうか?

まず親切に教えてもらえるであろう。しかし、そこで進歩がない場合はどうなるであろうか?ある本で読んだが、音痴の対策として、耳の一部の器官を手術し入れ替えると、音痴が直ることがあるという。
   親切な現在教育ではそこまで面倒を見てくれるかもしれない!
   私はゴメンをこうむりたいが!!!

さらに、これでも直らなかったら、私は学校でどういう目にあうのであろうか?

存在を否定されるのではないか?

そう言えば、ある種の宗教で、拝んでも良くならない場合には、
   『お前の信仰心が足りない。』
   『前世でもっと悪いことをした・・・』『先祖の悪事が・・・』
と厳しい追及を受けると言うことも聞いたことがある。

聖職の先生方も、「これだけ教えても出来ないお前は・・・」と厳しく追及されるのではなかろうか?

多様性の中に、音痴も認めて欲しいものである。

| | コメント (0)

2006年5月 5日 (金)

江戸時代について

昨日NHKで江戸時代の話を色々と取り上げていた。

これを見て思ったが、江戸時代の創作意欲は、内側に向いていたように思う。自分達の使うものを出来るだけ良いものにする。細部を出来るだけつめることに力を注ぐ。

このような力が、外を向くと製品あまりになり、ヨーロッパ文明のような一部侵略的様相を呈するのいではないか。江戸時代の日本は、生類憐みの令を頂点とする、極端な平和主義と、貿易等を極度に絞った、閉鎖に近い環境で、しかも皆の創作意欲を生かすような仕組みを創造したのではなかろうか?

大衆の平和的エネルギーを上手に活かした江戸時代と言うべきではなかろうか?

| | コメント (0)

2006年5月 4日 (木)

巨人軍は・・・

今朝のテレビで、プロ野球の人気について色々と話があった。

そこで、一つ納得するのは、地方では充分人気があるが、首都圏で巨人軍の人気がいまいちと言う話である。

これには、いろんな理由があると思うが、国際化のボーダーレスの切り口で説明したい。今まで、巨人軍はこの国で一番と言うブランドで、他球団の花形選手を、引っ張ってきていた。しかし、国際化し大リーグが見えてきた現在では、良い選手は、アメリカ大リーグに抜かれていく。多くの分野で、日本で一番と言っていたが、国際化の波で壊されている話と共通している。

なお、巨人軍の体質として、他所のチームで活躍されるよりは、自チームに取り込み、2軍で腐らせると言う発想が見えて仕方ない。自分で使えない選手は、放出してよい試合を出来るだけ作るのが、プロ野球全体のためになると思うがいかがであろうか?

| | コメント (0)

2006年5月 2日 (火)

国家の品格の補充

前に、国家の品格について書いたが、もう一つ思いついたことがあり、補充しておく。

一昔前までは、色々な立場での品格があった。極端な話、ヤクザやさんの世界でも、本当に任侠の世界のお方と言うべき、立派な人たちの話が残っている。

例えば、山口組の3代目が、刺客に撃たれた時に
  「素人衆の手当てを先に」
と言ったと言う話や、その直系の親分が山一戦争で、三宮の繁華街で撃たれた時も、ここで騒動を起こすと、皆の迷惑になると、トイレで止血してタクシーに乗り家まで帰り、その後病院に行ったと聞く。

色々な立場での品格ある振る舞いが残っていたと思うがいかがであろうか。

| | コメント (0)

2006年5月 1日 (月)

工業高校の段階か

今電子回路の設計に関し考えている。前にも書いたが、現在の電子回路はGHz帯域まで含む高周波を対称にしている。従って、単純なhパラメータのトランジスタ回路知識だけで設計できるようなものではなく、分布定数回路まで踏み込む必要がある。

ここで、このブログの最初の課題である、総合化と専門化の問題に関して見直してみる。現在の学校教育では、大学工学部では専門を深め、全般的な知識は工業高校が担っていた。

しかしながら、工業高校の電子の教科書のレベルでは、電磁界の基本方程式の多くの要素が影響する分布定数回路の深い理解は難しいのではと思う。

技術知識の基盤の深みが要求される時代になり、技術者のあり方を考え直す必要がある。大学4年の勉強の全てを基礎教養とした上で、物を設計することが要求されている。

| | コメント (0)

2006年4月30日 (日)

日本人の間の使い方

先般のオーケストラの話で書いたが、待っている間も仕事と言う見解もある。このように楽譜で書いてあると、待っている間も仕事いうのはよく分かる。

一般的に、日本人は間の使い方が上手と言う。例えば、洋画では一面色々な色を塗っている。白でも塗っている。一方、墨絵などでは空白に大きな意味がある。

このような、空白や間の使い方が出来るのは、単一民族の共通感覚の活用ではなかろうか。

| | コメント (1)

2006年4月29日 (土)

違いが解る(補充)

先般はコーヒで違いの解るという話をした。今回は、もう少し突っ込んだ話になる。
又聞きの話で申し訳ないが、私見を述べたい。

日本のあるピアニストが、ヨーロッパの現代作曲家の曲を、よく弾きこなしていた。なお、その作曲家は、敬虔なカソリック信者としても有名であった。
その人は、30代の脂の乗り切ったときに渡欧して、その作曲家の前でも演奏した。その時、信仰について聞かれ、
 「私はカソリックではありません。」
と返事をしたところ、その作曲家は不機嫌になり、相手をしてくれなかったそうである。

昔この話を聞いたときには、西洋文明におけるキリスト教と、日本文明の違いと考えていた。しかし、その作曲家が高く評価しているというピアニストの話を聞き、大きな見落としがあったと反省している。

そのピアニストは、父親も敬虔なカソリック信者であり教会の聖歌隊を指揮していた。そして、彼は11歳でその作曲家の曲を弾き認められたと聞く。ここで大事なことは、キリスト教信仰による背景的な何ものかが、演奏に影響したと言うことである。その何ものかは、解る人にしか解らないものであろう。さらに違いの存在すら、凡人には思いつかないものであると思う。名人の世界に入る資格は、『違いが解る』が必要条件ではと考える。

なお、宗教音楽の場合は、純真な10歳前後か、経験を踏んだ40歳以降でないと演奏できないものがあるかもしれない。能にもそのような演目があると聞く。これも違いが解る人間のみがその理由を知っている。

| | コメント (0)

2006年4月28日 (金)

働くのは20%

よく言われていることだが、蟻の群れで本当に良く働くのは20%ほどである。この20%だけを選別して群れを作ると、その内の20%だけが働く。

人間世界でもこのようなことが良く起こっている。そこで、全員が働いている組織はないかと考えた。まず思いついたのは、オーケストラである。指揮者の指示に従い、全員が働いている。このような組織は生産性が高いと考えた。

しかしもう一度思い直した。外から見ると、連続的に音を出している楽器もあるが、シンバルやトライアングルの様に、あるタイミングでしか音を出さない楽器もある。全部の楽器が、音を出しっぱなしになれば、とんでもない雑音になるかもしれない。

見方を変えれば、待機と言うのも仕事かもしれない。蟻の群れでも、動かないのは大切な仕事をしているのかもしれない。

| | コメント (0)

2006年4月27日 (木)

環境との交流

ある本で、雅楽士の東儀さんが、面白いことを書いていた。
 「雅楽と言うのは、楽譜がないという意味ではいい加減です。
  しかし、環境に調和するという意味では、必然です。」

西洋文明に毒されていると、自分で全て決まるように思っている。しかし自分ひとりで存在するのではなく、環境の中に浮かんでいる自分である。

昨日のブログに流風師からコメントいただいたが、良い店と言うものも、店側と客側両方があって成立するものである。

但し、独断の楽譜どおりで、皆に受け入れられる西洋音楽の作曲家、と言うのもすごいものである。西洋の文明は、記述による普及が大きく働いている。

| | コメント (0)

2006年4月26日 (水)

違いが解る

お世話になっている、”流風”さんのブログで、コーヒー店の話を見た。

私も、良く喫茶店にいくが、”美味しいアメリカン”を出してくれる店が好きである。これがものすごく難しい。近所の店で、本当のアメリカン用の豆を準備しているのは、1店しかない。もっともエスプレッソマシンの交換カートリッジを持っている店はある。

問題なのは、ドリップなどの店である。

事例1:「お湯が入りすぎた。これもサービスでしょう・・・」
事例2:「この店のアメリカンはお湯割ですか?」
     「そんなお湯がもったいない。豆を減らします」

このような店に囲まれている、我々の食文化である。

なお、豆を減らすのはコーヒー豆を下ろすメーカーの指導らしい。
  「大抵の人には解りません。」
と言うことらしい。

しかし、その違いにこだわるのがプロそして名人への道である。

微妙な差に対する感覚なしでは、上達は出来ない。

|

2006年4月24日 (月)

コスト削減の方法

某安売り航空会社の安全性が問われている。その他にも建築会社の強度偽装問題など、安全に関わるニュースが多い。

この原因を考えてみた。私の仮説は、本当のコスト低減と言うことが、解っている経営者でないと言うことである。良い方の例として、2つの会社を取り上げてみよう。

その1は、あまりにも有名なトヨタである。
トヨタの現場での改善は、徹底している。現場の作業者には大きな裁量権が与えられて、自分の仕事をやりやすく合理化することを自然に常時行うようになっている。このように現場での改善の積み上げで、無駄を最低限として利益を生み出している。

その2は、京セラである。
京セラの取引先への説明会を聞く機会があった。この場では、市場予測を完全に公開し、各取引先には、VE(ヴァリュー・エンジニアリング)的な代案の提案を求めている。京セラは必要な機能を公開するから、それの実現方法に関して、取引先からの提案を求めると言うスタンスである。

この両者の共通点は、会社としてどうすれば同じ機能のものを安く作れるかを、経営陣が知り尽くし、自社に適した方法で実現しているということである。

一方、トラブルの生じている経営陣は、もの作りや運用の現場を本当に知らないように感じる。単に命令し、労働者や下請けを搾取する、時代遅れのマルクス主義的世界観の経営者である。

考えようによっては、彼らこそ戦後の教育の、マルクス主義を実行しているのかもしれない。

|

2006年4月21日 (金)

技術論議

昨日は設計の話しをしたが、もう一度技術に関して考えてみたい。

私が大学生の頃つまり1960年代末から70年代の頭では、電子回路の講義と言えば、真空管かトランジスタで説明していた。このような回路は、教科書の説明は簡単であるが、現実に物を作るとなると、トランジスタ自体のバラツキや、外部温度などの影響で、計算どおりの性能を得る為には、組み上げた後の調整が必要であった。

しかし現在のアナログ回路は、等価回路ではトランジスタが十数個使っている、OPアンプを使用する。この場合増幅率等は、フィードバック回路の定数で決まるので、設計どおりの再現性が期待できる。

このような調整技能を出来るだけ少なくするのが、技術の本質であろう。但し、資源は多く使ってしまう欠点もある。

|

2006年4月18日 (火)

先生の力

ある本で読んだが、日本の寺子屋は、学問や文化の大衆化について、世界で特異な進化をしている。中国などでは、手書き文字の重視のため印刷資料は普及しにくかった。日本では寺子屋で教育することで、教養ある人間を尊敬するようになった。

一方、ヨーロッパの印刷は、ローマカソリック教会の秘伝を暴くために使われた。

このように、人が知らないことを知っていることによる権力は、一度秘密が暴かれると力がなくなってしまう。しかし、積み重ねたモノに対する尊敬は、秘密などなしに尊敬される。

昔、欧米の翻訳で権威を維持した大学教授は、原書の買占めに腐心したという。しかし現在のインターネット社会では、すぐに論文を読むことができる。このため本当に自分の力がないと尊敬を受けない。

なお、武術の世界でも、自分で鍛え込む極意技と、知らない人間を嵌める秘技を使い分けている。真正面から相手の刀に入り込む切り落としと、後ろ手で左手に持ち換える、左太刀が代表的である。武術の真剣勝負なら、相手を殺すので秘密は守られるが、知っている相手には、左手に持ち換える隙を衝かれてしまう。やはり、地道な鍛錬が必要である。

| | コメント (0)

2006年4月17日 (月)

朝日新聞の紙上特別講義

本日の朝日新聞に、超ひも理論の紙上講義があった。これ自体難解な代物だが、そこで宿題が出ているのを見て、またぶっ飛んだ。

『素粒子物理学のような基礎科学を研究する意味について、あなたはどう考えますか。500字程度で記述してください。』

このような問題が、簡単に答えられるとはとても思わない。特に、素粒子論のような基礎科学は、単なる正解が存在しない分野である。現在の科学神話に対する一つの反例であるが、この部分が単純に議論できるとはとても思えない。

小論文と簡単に言うが、短いものほど背後が重要である。

| | コメント (0)

2006年4月15日 (土)

学校の平等性に?

本日の朝日新聞の社説に、東京都の教育委員会の
「職員会議での挙手や採決を禁止した」
通知に関して、批判的な社説が載っていた。

このことは、このプログでも前から問題としていた、
『先生と言う社会の変な平等性』
と重要な関連があると思う。企業で、新入社員を見ていると、とても大学卒業したての新人の意見を、そのまま採用するものは難しい。

従って、運営等に関する重要な事項は、
『幹部の間で方針を検討してからでないと一般に図ってはならない』
と言うことは当然である。

今の学校社会で、『先生』と呼ばれる人間に、変な平等意識があるほうが問題ではなかろうか?

| | コメント (0)

2006年4月14日 (金)

日米比較の補足

アメリカの文化で面白いのは、壊すことの価値を積極的に求めることである。

例えば、経済の報告で、
   「XX社が新規起業し、XX社が廃業した。」
これは良いことである。なぜなら、先行きの見えない部分に、資源を投入することがなくなり、有効な部分に集中することができるからである。

これを考えると、太平洋戦争での日本の一番の失敗は、真珠湾攻撃かもしれない。真珠湾攻撃では、乗員のほとんど乗っていない旧式戦艦を沈めた程度の成果である。

これは、アメリカ海軍の、空母主体の運営に切り替える、リストラに大きく貢献した。逆に日本海軍は、大和・武蔵と言う巨大戦艦を作り、有能な兵員をそちらに回した。例えば、潜水艦の探知に、海軍では絶対音感のある有能な聴音士を育成したが、一番良い成績の者は大和に配属と聞く。そして実際に、潜水艦と死闘を繰り広げた、駆逐艦などには成績が余り良くない人間を回していた。

このような、大和武蔵の人材はほとんど実戦で貢献できず、「レイテ沖で武蔵が沈む時の姿勢が見事であった。」と言う逸話が残っている程度である。

旧来のシステムの有能な人材を、回すことでもっと利益を得る、機会を損失しているのは、現在の日本経営でも起こっていないであろうか。

既得権にこだわり、旧来システムの面子のために大局を失ってはいけない。

| | コメント (0)

2006年4月 9日 (日)

大卒者が尊敬されるには

昨日の話をもう少し引っ張ってみる。
大学卒業で”高い”給料を貰っている値打ちを自分で見せる方法はあるのだろうか?

30年ほど前に、我々が新入社員の頃は、これをどう示すかで悩んだものである。現在このようなニーズを感じているのであろうか?この課題はさておき、値打ちの見せ方を少し考えてみる。

まず、他人が聞いて解るのは、
「狭い専門分野の数式のお化けのような厳密議論ではなくて、 わかりやすい説明」
の方が多いと言うことである。

このような説明が出来るための条件を考えてみよう。
 ①聞き手に対する思いやりと、想像力である。
     相手の立場で理解できる表現が必要である。
 ②その分野と関連分野の幅広い知識が必要である。
   例えば、専門家間では学会の論文誌の内容が話題であるが、
   説明のためには、”学会誌の本誌”の解説記事や
   各分野の一般雑誌が有効である。
       想い起こせば、私が入社した時には、「日系エレクトロニクス」や
     「ブルーバックス」にお世話になったものである。
 ③”法の精神”のような社会学的な議論も理解できる、一般教養が必要である。

このように、専門の深みに広く勉強する取り組みを追加することで、少なくとも技術者として尊敬される一つの条件が具わる。

| | コメント (0)

2006年4月 8日 (土)

大学卒業の値打ちとは

昨日の話と関連して、電車の中で聞いたある会話を想い出した。大学1~2年の男子学生がこう言っていた。
 「今学校で習っていることは、工業高校で習ったことの繰り返しだ。たいしたことない。」
それを聞いた女子学生らしい子が、
 「ほかの人は?」 と聞くと、
  「よく分かっていないようだ。」
と答えが返っていた。

これを聞いて考えたが、大学と高校では同じ工学の教育でも、数学的な基礎からの展開と深みが違うはずである。しかしこれが理解できていないのは何故であろうか?3つほど仮説が成立する。
 ①学校の教育が大衆化して、数学的な基礎の必要な部分は教えていない。
  ②本人が数学的な展開を理解できていない。
 ③本人は電気の広がりを知っているので、教えに落ちがあるのでばかにした。

特に現在の若い子は、自分のことは棚に上げ、他人の落ちを追求する性格を良く見受ける。昔はもう少し他人の良いところを見たような気がする。

裏返すと、これは普通高校から大学に言った人間にも成立しそうだ。工業高校の実学的よさを見ずに、偏差値が低いとばかにする。

昔は互いの良いところを、何となく尊敬しあっていたように思う。これがなくなったので、おかしくなったのではなかろうか?確かに、現在の学校制度と環境を見ると、成績が良いけれども、家庭が貧しくて、進学できないと言う子が減っている。昔は、大学にいけたのは自分の運が良かったと言う、負い目みたいなものがあり、中卒・高卒の人たちに対する尊敬があったように感じる。

このような点が、「尊敬されない大卒=キャリア組み」と言う原因かもしれない。

| | コメント (0)

2006年4月 7日 (金)

大学・高専・工業高校

企業の立場で考えると、モノつくりなどの場では、ある程度の広い視野が必要である。そのためには深さより広さが求められる。そうなった時には、大学や大学院の出身者より、高専や工業高校のバランスの良く広がった教育の方が役に立つ場合が多い。

例えば電気の分野では、超伝導の研究や、電子物性に関する量子力学的な理解まで突っ込む大学でも、三相交流の話が抜けている例も多い。

一方、工業高校などでは、三相交流は3本の電線で送ると言うことを、きちんと教えている一方で、電子回路から高周波のスミスチャートの存在まで教えている。このような、概要の知識も重要である。

大学・大学院が余り専門にこだわると、戦略的検討などの地位を、失う可能性がある。

もっとも、知識を拡げるのは、自己責任と言うのも一つの考えである。

| | コメント (0)

2006年4月 5日 (水)

日本でシンクタンクは難しい

日本のシンクタンクが中々成立しにくいと言う話を聞く。その理由は「日本人が、広い意味のソフトにお金を払わないからである。」と言う議論を聞いた。

しかし、あるテレビ番組で指摘していたが、日本最大のシンクタンクは、霞ヶ関の官僚集団である。この集団の力には恐るべきものがある。

このように強力で、しかも政府や与党国会議員にとっては、発注費用なしのシンクタンクがあると、他のシンクタンクが成立しがたくなる。

他の市場でも似たようなことがある。大きな政府は一般の活力を殺す例かもしれない。

| | コメント (0)

2006年4月 4日 (火)

日本人の特性

インターネットでの成功例の一つのモデルは、Googleと言うのは定説である。

このモデルと楽天などの日本発モデルは大きな違いがある。日本発の場合は、極端に言えば、従来の対面商売の延長線上にある。しかし、Google は完全に、新しい顧客と別の収入源を開拓した。

このように、完全に新しいものを考えるのは日本人は、苦手と言われる。

確かに、日本人の思考法は、モノのイメージを良くつかみ、一体化し相手を含めた思考が上手である。顧客まで気を配る木目細かさが特徴である。一方完全な新規は、ある程度理屈での割り切りも必要である。この場合は、失敗もあるかもしれないが、大当たりもありうる。

日本も新規を考えるなら、哲学論議など頭でっかちの効果も考えるのも良いかもしれない。

| | コメント (0)

2006年4月 2日 (日)

本日の朝日新聞を見て

本日の朝日新聞を見て少し思うことがある。

1.天声人語
  宗教の排他主義または不寛容について、若干批判的なトーンを感じる。しかし、日本の他人の信仰への行き過ぎた寛容または無神経は、世界では少数派である。日本でも、織田信長~徳川綱吉まで長い時間をかけて、他宗派への攻撃性を殺すために、檀家制度をつくるなど大きな政治の介入を行っている。
 折伏を布教手段とした某宗教集団が、一部に白い目で見られたが、宗教の本質は思い込みであり、自然な感情の発露は折伏的な要素があることを忘れてはならない。
 初期の十字軍もこのような感情で起こったものであり、キリスト教社会以外では、十字軍の宗教的侵略性格を忘れることは出来ないであろう。

2.綱領
 気骨ある紙面と言うが、気骨と言うには信念がある。不偏不党と信念には微妙な矛盾がある。戦前の社説などで、大本営発表の拡大に貢献した反省は必要だが、今も何となくマルクス主義史観の影響を感じる。
 完全な中立などは難しいので、こういう立場に立つと明確にした方が良いのではないか。
 但し、朝日新聞の記者が防衛大学で優秀な成績を収めたように、多面的な見方の努力は認める。

 ここで、思い起こすと戦前の特高が、
  「共産主義者は転向させやすいが、自由主義者が困る。」
と言ったいた。今では、
  「皇国史観をマルクス史観に変えるのは容易であったが、自由主義史観は難しい。」
と言うべきであろう。この理由を考えると、皇国史観にしろマルクス史観にしろ、一つの芯から展開しているので、それさえつかめば簡単に理解できるが、本当の自由主義を考えるには、多様な価値観やその時の立場を考えないといけないからである。
 歴史を考えても、”支配者=悪”とさえ考えれば、簡単に話が展開できる。多様な条件を考慮するには、多様な知識・経験が必要であり、かなりの年寄りでないと発言できそうにない。ここで、自由の名を借りて、経験・見識不足の先生方の発言が多く見えるが、本当の自由には他人の自由を理解する為、幅広い見識が必要と指摘しておく。

 また、総合的な配慮と個人の自由のバランスが必要である。国歌・国旗への敬意は国際的儀礼にも繋がっている。国歌斉唱時に起立しないと教えられた子供が、海外で処罰された時、その子を教えた教師は責任を取るのであろうか?

| | コメント (0)

2006年3月31日 (金)

桜と法華経

桜のシーズンが近づいている。桜の特徴は、一斉にあっという間に咲いて、さっと散る潔さにある。桜が、このようにすぐ散らないなら、熱狂する人も少ないであろう。

とここまで書いてもう1つのことに思い当たった。それは、日本で一番読まれているお経の一つ、法華経の思想である。

法華経の中でも一番大切といわれているのは如来寿量品第十六では、仏の命は永遠であるが、凡人は教えを何時でも聞けると思うと、安心して身を入れて聞かない。そのため、仏にはめったに会えないと説くことで、皆が説法を聞きたがるようにする。そのため、お釈迦様は死んだ姿を皆に見せたのである。

『人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。この身今生にむかって度せずんば、さらにいづれの生にむかって、この身を度せん。』

これは、短い命の桜の花を追い求める、我々に通じるものを感じる。

| | コメント (0)

2006年3月28日 (火)

国家の品格について

国家の品格 を読んだが、何となくなじまないものがある。

その一番は、このような本を書くべき人は、もっと別ではと言うことである。”品格”を守るためには、「いうべき人、時、順序、場所」をわきまえた発言が必要である。

本来このような議論をするには、哲学や政治学の長老の発言が望ましい。

もっとも、著者の属する大学の哲学の先生は、どうも世間では3枚目になりたいらしい。

棚から哲学 など・・・

その点、自民党の長老は立派と思う。中曽根元首相の言葉など、好き嫌いは別として、政治家としての重みに、オトボケも入り味が深い。

もっとも、某野党の長老はオトボケの感じもする。何かさびしい。

もっともこのようなブログを、書く人間が居ること自体、国家の品格を問われるのかもしれない?

|

2006年3月26日 (日)

学校の先生は批判に弱い

他人を見下す若者たち を読んだ。これには現象面で、体験的に納得するものが多い。しかし、原因の突込みには弱いものを感じる。

ここで、一つの仮説であるが、若者達の教育に原因があるのではなかろうか。

まず一つは、学問だけの一本線の評価尺度である。昔は、勉強は出来ないが、工作が上手いなど色々な面で褒められていた。自分の弱みと、他人の良いところを組み合わせた話が出来ていた。

もう一つ、考えて欲しいのは、
『他人からの批判に極端に耐性が無くなっている。』
ことである。このような体質の人種が、昔からいたなと思いついた。

学校の”先生”がそれである。私が、ある企業系の教育機関で講師した時には、1年目は講義中に事務局から聴講に来て1時間完全に聞いていた。2年目までは、最終試験をその学校が作っていた。3年目は試験までこちらで作ったが、内容は事務局がチェックした。4年目からは、全てお任せと言われて教材、試験も自由にやらせてもらった。
この事務局の人が言ったので印象に残るのは、
「他の学校の先生にお願いすると、講義中に見に行ったりすると、怒られることがある。」
と言う発言である。先生と言うのは、生徒に対して絶対的な権力を持っているので、その城を荒らされると、怒ることもあるようだ。

もう少し突っ込んでみると、今の学校教育は、文部科学省ー教育委員会・・・と言う制度でがんじがらめになっている。先生は一人で教えると決まれば、一人でやるしかなくなる。企業の経験では、大学卒業したての新人は、社会的なスキルなどにも不慣れな点があり、まず先輩について仕事をし、2~3年でひとり立ちと言う発想が見えない。先輩と、一緒にやれば、良い悪いで叱られることもある。そのような経験をつみつつ、成長していくのである。

民間企業から来た校長先生は、このような現状を認識していなかったのではなかろうか?

| | コメント (0)

2006年3月25日 (土)

民間人の校長先生?

本日の新聞で、大阪の名門高校の、”民間人”校長が教員との対立で辞任すると言う記事を見た。これには色々な観点で、考える必要があり、ここでも何度か取り上げてみたい。

まず、今回の表現で、企業人にとり腹の立つ表現である。
  「民間人」
と言う言い方には、何となく素人と言う風に、見下げたニュアンスを感じる。

今回の校長の経歴を読むと、企業の”人材開発センター長”とある。企業の人材開発は、戦後の混乱期から色々な変遷をたどったが、1970年代の始めまでは、中学卒業生を社員として預かりながら、工業高校のレベルの知識付与を行った伝統がある。極端な例では、**電力学園等は、2000年ごろまで、高等学校としての機能を果たしていた。

企業の人材開発センターには、このような学校教育に近い側面もあるということを、理解して
  「素人の口出し」
的な議論が出来るのか、考えて欲しい。

特に、企業で新人教育を行っている部隊には、
「まともなしつけも出来ていない生徒を送り出す」
学校教育を甘く見る傾向もある。この裏には、学校は卒業すれば終わりだが、終身雇用が前提の企業では、末永く付き合うため躾などの基本から教え直した経験がある。

もう一つ言わせていただくと、昔よく先生が言っていた
   教育労働者
と言う表現にも、反対である。労働者は成果に対する責任がある。これだけしたという過程だけで評価するなら、
  説法を行う  聖職者
と同じである。なおこう言うと、聖職者から
  「我々は、何人救うと言う成果評価がある」
と反論を頂くかもしれない。

 

| | コメント (0)

神の法律か人間の間の法律か?

昨日一昨日と、日本人の「お上に訴える」性格について書いた。この反対は、アメリカなど「一対一で決着をつける」方式である。

一対一の決着には、昔から決闘と形式があり、鉄砲の打ち合いが裁判になった見ても良い。日本も果し合い等の武士的決着を、徳川平和政権の知恵で、大岡裁きなどに持っていった歴史がある。徳川政治の平和志向、特に綱吉の功績については、現在井沢元彦氏が、週刊ポストの「逆説の日本史」連載中なので興味ある方は見て欲しい。

さて、このような一対一の人間観の決着は日本で言えば、民法の系列であり、お上が決めるのは、刑法の系列である。本来法律は、「神の定め」「人間の関係の衡平を保つ」の2側面がある。

従来、人と人の問題は、力で決着するしかなかったものを、法律で衡平化したのが平和社会の知恵である。但し両者の納得がない場合は、権力が決める必要があるかもしれない。

西洋社会は、ローマ帝国の時代から長い時間をかけて、法治主義の伝統を作った。しかし日本は、明治に法体系を急激に輸入したので、法の使い方が一般大衆まで広がらず、お上に依存するようになったのかもしれない。

”お上=神”が決めるのは、1神教にふさわしく、多様な意見の交渉は多神教にふさわしいが、このねじれはローマからの歴史と、明治文明開花を見れば、解るような気がする。

| | コメント (0)

2006年3月24日 (金)

アメリカ式

昨日の記事とも関連するが、アメリカでは事故を起こした時に、高額の賠償金を請求する裁判が起こり、これがモラルを守っていると聞く。

そもそもの高額賠償金の裁判は、フォード社の設計ミス事件に始まる。

フォードのある車に設計ミスがあり、事故時に乗車した人間が死ぬ確立が高かった。しかし、フォード社は設計変更コストより、年間死亡想定人数×賠償金の方が安価と計算して設計変更をしなかった。この資料を死亡者の遺族たちが訴えた裁判で公開し、経営者に思い知らせるように、死亡時の慰謝料を、該当する設計変更以上に請求したのが始まりである。

これを言い換えると、被害がでたらそれ以上にやり返す、と言う思想が見える。武器を使わないで、経済的な復習である。

アメリカは、本質的に自分のことは自分で守る主義であり、被害を受けたらやり返す。その結果、報復が怖いからモラルが保たれる国である。

従って、犯罪者も反撃にあう危険性が高い国である。日本の場合は、一般人は反撃を制限されているだけ、色々なガードを国が考えているようである。牛肉問題の一つは、この発想の違いにあると思う。

ただ暴力に対しては、少しは被害者が反撃できる面も欲しくなるこのごろである。

| | コメント (0)

2006年3月22日 (水)

JR西の運転士について

本日、JR西が新しい企業理念を示したと聞いた。
そこで前から気になっていたのが、事故に遭遇した運転士の扱いについて一言述べる。

昨年の尼崎大事故に乗り合わせた運転士達が、そのまま勤務したことについて、マスコミ・世論は「救助に参加しなかった。」ことを追求している。確かに、周辺の一般住民が仕事を放り出して救助しているのに、自分の勤務が重要と、救助を手伝わないのは道義的におかしい。

しかし、これよりもっと重要な点がある。
人命を預かる運転士が、少しでも事故の後遺症の可能性がある場合に、勤務を命じて良いのであろうか!!
と言う議論である。例えば、ボクシングの強烈な戦いをした選手は、その後車の運転を禁止していると聞く。これよりもっと厳しい状況にあった人間に、多数を預かる運転をさせてよいのであろうか?

これに関しては、医療関係者のホームページで指摘されているのを見たが、マスコミなどでは見受けない。

人の命を預かる業務では、体調管理も重要と考える。少しでも危ない場合には、勤務禁止にすべきではなかろうか。これを、もう少し拡げると、病気の人間の勤務禁止となる。これは個人情報の関係などで、難しい面もあるが、多数の人命を預かるということを、真剣に考えて欲しい。

| | コメント (0)

2006年3月16日 (木)

宮本武蔵とヴァイオリン

 昔、ある芸術系番組で宮本武蔵の特集をしていた。そこで、「武蔵は必要に応じて、長い刀でも、短い刀でも使い分ける。」と言っている。「これは当たり前のことである。」と発言した先生が居た。その席にはヴァイオリニストと言われている、美女も同席していた。

 しかしこれはそんなに単純なことであろうか?剣豪の使う刀には、切っ先まで神経が通っている。それで長短を変えると言うことは、任意の間合いで戦えると言うことである。宮本武蔵は、相手の刀と自分の体で、間合いを取ったと聞くので、これも可能であったかも知れない。しかしこの見切りは、達人だからこそ出来たことである。

 ヴァイオリンで例えれば、演奏中に弦を切り、仕方ないので一回り大きい”大人用のヴァイオリン”を借りて演奏を続けた、五嶋みどりさん以外には、これを出来る演奏家を、知らない。

 もっとも諏訪内晶子さんなら、「ドルフィンの苦しむ声が聞こえるから、弦を切るようなことはない。」と言うかもしれない。

 名人の世界は、凡人の思いよりはるかに深いものがある。

| | コメント (0)

2006年3月15日 (水)

小学校の英語教育について

一部で、小学生に英語を教えると言う議論がなされている。国際感覚の育成だそうである。

確かに、若い時から外国語を教えた方が、理解は早く、使えるようになる確率は高い。また、幼児から英語の発音に触れていることは、音声の識別が正確に出来、良い発音に繋がる。私は、子供のころの音環境が悪く音痴になってしまった。

しかし、ここで基本的な議論が抜けている。ここで言いたいのは、
”モノリンガル”と”マルチリンガル”は、思考構造が根本的に違うと言う観点である。

我々は、均一社会で、共感を元に話をしている。俳句・川柳・短歌や狂歌等の短詩が成立するには、皆の共感的に持つ風景があることが前提である。このような、モノリンガルは日本や英国などであり、欧米文明ではむしろ少数派である。

フランス語などは、大陸の色々な民族間で交渉を正確にするための作った人工語であり、ラテン語やドイツ語・英語などの近隣語とのマルチリンガルが当たり前の世界である。このような場合は、当然異民族なので、共感はなく、詳細な説明が必要になる。

我々の文化を守るには、この豊かな共感世界を守るべきと思うが、マルチリンガルにすると、説明過剰で共感がなくなってしまう。

庶民まで、短歌・俳句・川柳などの詩を使いこなす文化は、世界に類を見ない豊かなものだと思う。

|

2006年3月12日 (日)

尊敬できる女性について

昨日の女性とのお付き合いに関して、もう一つホットな話題を絡めて書いてみたい。

トリノの唯一の金メダルの”荒川”選手は、「知性の優れた、大人の女性」と言う印象が強い。しっかりした自分の考えで、
  ”演技を組み立てる。”
 ”コーチを換える。”
などが積み重なったメダルと思う。

今までもてはやされた選手は、”可愛い系”が、多かったように思う。さらに、秋葉原あたりでは、可愛いメイドさんに萌える向きも多いが、そこには”知性のある女性”に対する、尊敬と言うものが感じられない。

男性が素直に、尊敬できる方として、『荒川静香さん』と素直に言えるときはいつになるのであろうか?

<参考引用 哲学原理 岩波文庫33-613-3 デカルト著、桂寿一訳より>

 殿下のうちに、この最高の配慮が存することは、次の点から明らかであります。即ち、年少の婦人たちに無識を余儀なくする、宮廷の気晴らしも因習的な教育も、貴女があらゆる善き技や学を探求するのを妨げ得なかったからであります。次には、貴女の頭脳の最高無類の明敏は、貴女がそれら諸学のあらゆる秘奥を最も深く洞察し、しかも極めて短期間に正確に会得されましたことから、明らかであります。
  ~
 ただ私は、貴女の頭脳のみはすべてを等しく明察する唯一のものであると認め、その故に当然類稀れなるものと申すのです。そしてあらゆる事物についての、かくも多様にして完全な知識が、多くの歳月を省察に献げて来た裸形の老修道者のうちにではなくして、容貌と年齢では目青きミネルヴァやミューズの神々よりも、むしろグレースの神をも想わせるうら若き公女のうちに、具わっているのを考えますとき、最高の賞賛に己を忘れざるを得ないのであります。
 最後に私は、単に知識の面のみならず意志の面においても、絶対かつ崇高な知恵に必要なもので、貴女の性格のうちに光彩を放たぬものが、何一つ無いことを承知しております。そのうちには、気品とともに並々ならぬ仁心と温情とが、絶えざる運命の危害に曝されつつも、決して荒らされることも弱められることもなく、現れているからであります。
  ~

<エリザベート公女殿下 への献辞から一部引用終り>

| | コメント (0)

2006年3月10日 (金)

日本の学問における神道

昨日の続きであるが、日本の神道は、よく言えばおおらか、悪く言えばいい加減である。

しかし、これが明治維新時の海外文明流入時に役立ったことは間違いない。前にも書いたが、欧米の大学には神学部があり、神学の教授は何ごとにも口を挟む権利を持っている。この結果、多かれ少なかれ、キリスト教の検閲を受けることになる。またイスラム教の文明圏では、現在でも一部には西洋文明に対する拒否がある。

これは、仏教伝来時に聖徳太子の示した、『和』の思想や、弘法大師の日本古来の神を敬いつつ、仏教を広めた、先人の知恵による所が大きい。日本神道は、何ものも飲み込む大きな懐を持っている。しかも、自分に必要な形飲み込んでしまう。

だから、お宮参りは神社で、結婚式は教会で、葬式はお寺で、「死んだら天国」に行くという珍事が起こる。

このような、無節操で統一性がなくても、バランスが取れるのは、日本人の現実性と思う。ただし、専門分野の寄せ集めとなる大学の運営は、本質的に一神教ではなく、八百万の神が統治しているのが自然かもしれない。

ここまで書いていると、教授会が高天原に見えてくるかと思ったが、どうもそうは見えないようだ。もっとも私は、教授会などに出たことないが・・・

| | コメント (0)

2006年3月 9日 (木)

神道とは

私の信仰は何であろうか?

日本人は一般にこう聞かれると困るようである。ある、浄土真宗のお坊さんが、このように嘆いていた。
  「近頃、お葬式に行っても、『故人が天国に行った』と言われることが多い。」
浄土真宗なら、『阿弥陀如来の極楽浄土』に行くので、『天国に行く』のはキリスト教徒である。こんな状況で、仏教徒と言うのは、苦しいであろう。とは言っても、坊さんを呼ぶ葬式をするキリスト教徒もない。

さて、私自身は神道の信者が一番当たっているようだ。近所の神様には、年始年末や大事な時にはご挨拶するし、ちゃんと”般若心経”も覚えているし・・・

ここで、般若心経が何故出るかと言う、突込みがでるであろう。しかし、色々な神社で般若心経を唱えている。祝詞の本の最後に般若心経がついていることも多い。般若心経を唱えて怒られそうなのは、国家神道の神社であろう。

振り返れば、明治の廃仏毀釈までは神様仏様の世界であったはず。日本の神道は、もっとおおらかで、細かいことを気にしないと思う。神社の森は、エコロジニーに通じるとは、多くの人が指摘している。国家神道でない、本来の神道にもっと力を出して欲しい。

| | コメント (0)

2006年3月 4日 (土)

パネルディスカッションでの質問

昨日あるフォーラムを聴講した。そこで最後にパネルディスカッションがあった。そこで、止めときゃ良いのに、会場から質問してしまった。このような、パネルディスカッションで会場からの質問と言うのは一寸難しい。下手な質問して迷惑をかけてはいけないし、質問なしの静寂も何となく居心地が悪い。司会などから場内質問要員を準備しているかも知れないが、それを聞くのも面白くない。

今回は、インターネットと超高精度画像関連の話で、パネラーに医療関連の方も居たので、若干の一般の笑いも計算して、以下のようにしてみた。

「私の知り合いが、某大学のインターンに見てもらった所、内臓の位置が教科書で習った位置にないので、精密検査と言われた。このようなことがない様に、教育用の多くの解剖情報をネットで多くの学生に見せてはどうか?」

しかし、残念ながら、少し滑ったようである。パネラーの先生は、解剖データベースの存在を教えてくれたが、ネット関連ではないと指摘された。こちらも、ネット上で色々な学生に見せて欲しいとフォローしたので、先生方は、中々勉強してくれないと言う風に、話が変わり、更に遠隔医療に話が展開した。遠隔医療は元々予定のテーマらしいので、こちらもおとなしく拝聴していた。こういう時、自分の聴きたいことに執着すると、結局みんなの顰蹙を買うようである。

但し、私が欲しかったのは、
「解剖の機会は限られているが、各大学の解剖状況を動画像データベースに蓄積し、他の大学でも見れるようにして、学生が多くの解剖状況を見れば、教育効果が大幅に上るのではないか?」
であった。更に、一般的な技能の伝承にまで、大量の画像データの公開効果まで広がって欲しかったが、これは考えた貰えなかったようである。

| | コメント (0)

2006年3月 3日 (金)

東京と京都(大学論)

昔よく言われたことに、
  「京大からは、ノーベル賞受賞者が出るが、東大からは出ない。」
がある。私は、これこそ東大の日本への貢献だと思う。

ある東大教授の講演で聴いた言葉が
  「XXは現在アメリカが国家予算を大量に投じて開発している。
  従って日本に影響がでることは間違いない。私の研究室では、
  好みではないが、XXの研究をして、日本が遅れないようにする。」
であった。このような、国のために研究テーマを選んでいたら、ノーベル賞になるような大技は、対応できない。

一方、京大は”ある程度の勝手”を許し、”ホームランか三振か?”型の大技が掛かるようにしている。従って、ノーベル賞が京大から出るのは当たり前かもしれない。

ここまで、書いていてもう一つ思いついた。それは、”京都千年の古都の知恵”である。京都には、伝統ある知恵が色々と見えない形で生きている。従って、”見所のある変と、単なる変”の区別がある程度出来るのではなかろうか?

伝統の力をもう一度見直してみたい。

| | コメント (0)

2006年3月 2日 (木)

プロレスについて

プロレスについて、昔は八百長的で面白くないと誤解していた。確かに、プロレスラーの間には、
『相手の技が決まりかけたら、無理にはずさずに決めさせながら、ダメージを最低にする。責める方も最低限のダメージになるように考慮する。』
と言う風な暗黙の了解があるらしい。

しかし、これは体を壊さずに、長く続ける知恵である。更に、他の武道の演舞でも、投げられる時に、投げられる側も協力して跳んで、大きな投げになるようにすることもあると聞いた。このように、相手の投げに逆らわないで、跳ぶことは逆手を取られても手を折られないようにする工夫でもある。柔道などスポーツ化した場合は、危険な技を除去したから解らないかもしれないが、古流の技は、投げる場合も逆を決め、すぐに腕を折るようにしている。従って、逆らわずに跳んで逃げるのも、有効な手段であろう。

もう一つ、大事なことは、技が派手と言うことである。命のやり取りや、護身術の観点で見れば、あのような無駄な動きは不要で、最小限の動きで、急所を責めれば足りる。

しかし、それでは観客が納得できない。

物事は、皆が納得できるように見せることも重要である。

今の世の中、理屈先行で0と1で割り切る向きが多いが、このような色々な見方があると考えて欲しい。

| | コメント (1)

2006年2月28日 (火)

首都圏の特異性

前に、首都圏にテレビが支配されている、と言う話を書いたが、この副作用があることも分かった。

首都圏以外で放送されている、”TXXのそこまでいってていいんかい”と言う番組がある。この番組にでた、某代議士が、
 「XX幹事長、あんなの換わりはいくらでも居る。」
と放言しておいて、
 「但し、首都圏では検閲があるし、彼も見ている可能性が大きいので、
      『立派な幹事長です。』と言う。」
と後始末していた。

 これは、一面の真実ではないかと思う。そうでなくても首都に居ると、日本の全てを解った様に誤解することが多い。これに自主規制テレビの奇麗事が加わると、全体が見えない、裸の王さまになってしまうのではなかろうか。

| | コメント (0)

2006年2月27日 (月)

週刊ポストを見て・今欠けているもの

本日読んだ”週刊ポスト”に色々おもしろい記事があった。特におもしろい2つは以下のとおりである。

1.中景
 現在は、背景となる遠景とすぐ傍の近景しか、見れない人が多い。しかし、少し離れた中景が本当は大事である。

2.メールの文章の癖
 某民主党議員が持ち出したメールであるが、これに対し、ある議員の指摘で、
    「堀江容疑者は、このような言葉遣いはしない」
と言うものがあった。確かに、メールの文体は個性を良く示す。このブログも私を知っている人間には、すぐに特定することができるであろう。
 このような、単純なチェックも出来ないようでは、民主党はお粗末としか言いようがない。

 この両者は、どちらも単純に1と0で割り切りすぎることが原因と思う。特に、中景はヴィーコの重視したトピカにも関係している。現在の教育の怖さの一例と思う。

| | コメント (0)

2006年2月26日 (日)

「学問の方法」について

今までも何回かこのブログでも触れたが、
 岩波文庫 青672-1 ヴィーコ(著)
   学問の方法 上村忠男・佐々木力訳

の概要を、以下のとおりまとめてみた。

  http://homepage3.nifty.com/manabizz/Gakumongaiyou.pdf

この本自体は、1709年の講演であり、17世紀のデカルトの哲学などに対する反論が大きなテーマである。しかしながら、彼の主張をよく読むと現在にも通じることが多い。しかも単なる学問だけでなく、政治と官僚の関係などにも応用できる内容を含んでいる。

彼が主張している一つは、総合的な観点で話をする重要性である。

議論の細部は、今後もっと書いていくが、興味がある向きは概要を見てください。

Book 学問の方法

著者:ジャンバッティスタ ヴィーコ
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0)

2006年2月21日 (火)

占いについて

最近の週刊誌で、占いブームが取り上げれれていた。占いに関してよく言われているのが
 『当たるも八卦、当たらぬも八卦』
と言う言葉である。ある人の説明では、
 『人により、当たるも八卦、当たらぬも八卦』
と言うのが正しいと言う。

確かに、私の経験でも、よく当たる占い師に出会ったことは何度もある。一方、これはと言う経験も何度もしている。

一般に占いにも色々な流儀があるが、占い師の関わり方で分類すると以下のようになる。

  1. 精密な読み取りにより霊感に頼らず判定できるもの。・・・四柱推命の一派はこれで占っている
  2. 道具などでヒントを示し最後は占い師の霊感によるもの・・・水晶球やタロットはこの例

なお、四柱推命などの精密な形式のある占いでも霊感によって最後の判断する占い師も多い。

ところで、人によりと言うとき、私は占われる人に関しても、相性があると思う。
例えば、宿曜経による占いは、仏教を信じていない人間に通用するか?
西洋風の生活に染まり、弘法大師様や日蓮上人様にも縁のない人間には、西洋占星術の上昇宮を持ち込んだほうが良いかもしれない。

送り側と受け側の相性が大切なのは、占いでも教育でも同じと思う。

| | コメント (0)

2006年2月20日 (月)

オリンピックのメダル

トリノオリンピックではまだ日本のメダルが聞こえてこない。

気になるのは、以下の2点である。

1.まず行く前のメダル予想は多すぎたのではないか
    マスコミがオーバーに言い過ぎたのか。
    スポーツ指導者が予算獲得のため誇大広告したのか?

2.取れない時の言い訳が入賞と言ったりしてごまかしている
    太平洋戦争中の、目的達成により転進する

このような、状況を正しく伝えない発表(報道)には、危ないものを感じる。

| | コメント (0)

2006年2月18日 (土)

本日の朝日新聞を読んで

本日の朝日新聞に、新聞の風刺画の問題に関する意見が載っていた。確かに、表現の自由が、あまりにも強調されすぎているのではないか?

特に、文学作品等の中で、悪役にされた人の恥辱はどのように晴らされるのであろうか?フィクションとして別名にしても、推測のつく人の被害について、物を書く人は何か鈍感なような気がする。

その点、司馬遼太郎氏は立派であった。
 「坂の上の雲」の一部に、誤解があり、指揮ミスを別人の理由にした点を訂正していた。

乃木将軍に対する、判断は主義主張のレベルであるから、異論のあるのは認める。また、このレベルでは反論する勢力あるので、かまわないと思う。それより問題なのは、反論する力のない、中級指揮官などの平凡な人である。彼らの名誉を、償う機会は限られている。

科学的態度の中に、”反証を認めその上で、更に反論した上で正しさを認める姿勢”が基本にあるが、歴史的な文学にもこのような姿勢が欲しい。

なお、イスラム教国は15世紀のまま進歩が止まったと言う表現も別に見たが、西洋文明の尺度ではと言う、限定つきの評価と思う。

| | コメント (0)

2006年2月14日 (火)

靖国神社問題について

靖国神社の問題について、皆が何故これを言わないのか不思議な点がある。

それは、神田明神に祭られているのは、「反逆者、平将門」であると言う論点である。つまり、反逆者で処刑された人でも、これ以上祟らないように、神としてまつる風土があるということである。

このような観点で、議論されない理由を考えると、まず靖国神社反対論者は、神社自体を否定しているので、神道の考え全体を無視している。一方、賛成論者はA級戦犯自体の無罪を主張しているので、どちらもこの論法に合わないかもしれない。

小泉首相の言い方では、どちらかと言うとこの論法に合いそうだが・・・

なお、東京裁判自体をあまり強力に否定していると、いつかはアメリカ(=ブッシュ大統領)の逆鱗に触れそうな気がする。東京裁判否定と、イラクでの裁判と重なるのでは・・・

| | コメント (0)

2006年2月13日 (月)

日本の宗教について

 昨日の補足をもう少し書く。日蓮宗不受布施派が江戸時代に、キリシタン同様に弾圧を受けた話は高校までの歴史で習った覚えがない。何故キリシタンを教えて、仏教に関する弾圧を教えないのだろうか?理由らしきものを挙げてみると以下のようになる。

  1. 西洋崇拝の明治教育なので、対外的な影響のあるキリスト教を重視した
  2. 明治維新での廃仏毀釈にあまり触れないため、仏教関連の弾圧を避けた
  3. 日蓮宗の宗派でもマイナーなので日蓮宗関連に遠慮した

ここで、1,2はありそうな話で納得するが、3に関してもう少し突っ込みたい。なぜなら、不受布施派と言うのは、ある意味で開祖日蓮上人の発想に一番近いからである。そもそも日蓮宗は、日本の天台宗を開祖「最澄」の原点である、「法華一乗」に戻すが発想の原点であった。お経を唱える前の開経偈でも、日蓮宗では
 「無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭いたてまつること難し。
  我今見聞し受持することを得たり、願わくは如来の第一義を解せん。」
と唱えている。これを真言宗などでは、
 「無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭いたてまつること難し。
  我今見聞し受持することを得たり、願わくは如来の真実義を解せん。」
と唱える。この違いは、真言宗などは多様な道を認めるのに、日蓮宗は1本の道を重視しているからである。さらに、「最澄」と言う名が示すように、純粋な心で信じていたので、自然に自分と違う道の人間を、折伏すると言うのも自然な行為である。

 これを多様な価値観を認めるように丸めたのが、徳川幕府の平和に対する大きな功績である。この文脈で見ると、不受布施派の弾圧とキリシタン弾圧の関連も見えてくる。

 なお、昨日の内容で、僧兵以外の宗教の強力な力を書き落としていた。それは、呪詛である。宗教の力を信じていれば、呪うことで相手の命を落とすことも可能であろう。イスラム教は呪詛を行わないのであろうか?

| | コメント (0)

2006年2月12日 (日)

宗教について考えること

 先般から、イスラム教の聖人に対する侮辱記事に対する抗議活動が各国で目立つ。我が国のセンスでは、宗教と言うものは平和を愛するものだと考えやすい。しかし、これは世界の常識には合わないようである。また日本でも、戦国時代までは、比叡山の僧兵が法華宗の集団と死闘を繰り広げている。また根来寺の僧兵なども有名である。そもそも僧兵と言う表現は、宗門が兵力を握っていたと言う証拠である。

 考えてみれば、宗教の根本は”信じる”ことであり、理屈による説得などを本来超越している。この結果、他の宗派との争いは武力で解決する可能性が大きくなる。これを嫌った、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康から綱吉の時代に、日本の宗教は平和路線に変化したのである。他の宗派を排斥する、キリシタンや日蓮宗不受布施派は弾圧を受け、さらに「生類憐みの令」で仏教は殺生を嫌うと言う固定観念がでたのである。

 このような宗教の排他性を、骨抜きにする発想は、仏教伝来時の聖徳太子の、神仏の和を尊ぶ政策に根があるのかもしれない。特に日本の国家神道でない古神道は、どん欲に他宗派を自分の中に吸い込んでいった。現在の日本では、お宮参りや七五三と、クリスマスプレゼントや教会での結婚式、そして寺での葬式が見事に一体化している。このような信仰(?)は日本独自である。

 とここまで書いたが、キリスト教や仏教自体も国際化するに従って、寛容になり先住の信仰とある程度の妥協を図った場合もある。日本はそれが激しかっただけかもしれない。ある種の宗教家は、日本は世界の縮図と言ったが当たっているかもしれない。

| | コメント (2)

2006年2月10日 (金)

日露戦争の勝因(まとめ)

1昨日まで、『坂の上の雲』に関連して、日露戦争について書いた。確かにあの時期の日本の指導者は、有能であったと思う。特に、自分の担当範囲にこだわらず、総合的な判断ができていたと思う。

例えば海軍は陸軍の輸送に関しても十分気を配って護衛をしていたし、陸軍も旅順艦隊の撃滅には、(異論もあるが)協力している。また通信手段の確保に関しても、無線の重視、海底ケーブルの確保などに配慮している。太平洋戦争時の、ミッドウエー海鮮で、『空母の無線傍受能力は低いから、マストの高い戦艦傍受情報を欲しい』という要求を無視した指揮官とは比べ物にならない。

このような総合的な判断ができた理由は、ひとつは組織の規模がまだ小さかったからであろう。もうひとつは、指導者が明治維新と西南戦争の戦争経験があったため、全体を見通せたからと思う。

| | コメント (0)

2006年2月 7日 (火)

日露戦争に関して(承前)

昨日の続きで、旅順要塞攻略に関してもう少し書く。

旅順攻略で、有名な失敗の一つに”白襷隊”の突撃の壊滅的敗北がある。

これを西南の役からの歴史的な文脈で見よう。当時の政府軍は、旧士族に限らない一般人民からなり、薩摩武士の切り込みや、肝の据わった狙い撃ちに苦戦をしていた。そのため、明治政府は士族からなる羅卒抜刀隊を組織し、白兵切込みを中心の戦いで、戦局を有利にした。これ以降日本陸軍では、白兵切り込みが大きな意味を持つ。

苦戦であるがゆえに、一度白兵切り込みに頼ったのは、当時の軍の体制として仕方なかったのではあるまいか?

ある意味で、この後工兵中心のトンネル方式に切り替えた、乃木軍司令部は第2次大戦の司令部よりはよっぽど賢かったように思う。但し、海軍秋山参謀の二〇三高地攻防戦でロシアの消耗を多く引き出せと言うのは、もっとよい戦術かもしれない。

|

2006年2月 6日 (月)

坂の上の雲について

今は少し収まったかもしれないが、「司馬遼太郎式」歴史観がかなり力を持っているように感じる。これは、司馬氏の作品に書いてあることを、全て真実と信じ彼の歴史観に従う人が多いということである。

その代表的なものの一つが、日清日露戦争を題材にした、「坂の上の雲」である。しかしながら、同書には少なくとも2箇所は納得のいかないところがある。

その1(海軍編)
 連合艦隊がバルチック艦隊を釜山沖の鎮海湾で待機する間に,大砲の中に小銃を装着して,その小銃弾で目標に命中させる訓練を繰り返し,命中率は100%近くになったという。・・・これはおかしい。大砲は放物線を描いて飛ぶが、小銃は直線ではないか?
精神論的訓練にはよいが実際は、距離測定と修正を命じた指揮能力を褒めるべき。

その2(陸軍編)
 旅順要塞の攻略は、戦略的に大きな意味がある。奉天の会戦等は、ロシアにとって戦略的後退であり、ロシアのツアーと国際世論にとって、本当に認める敗北は、”難攻不落”の旅順要塞ではないか?このためには、単なる観測点の確保である二〇三高地攻略より要塞自体の攻略が重要である。その観点では乃木将軍の攻略は、天才的とはいえないかも知れないが、並みの将軍としての采配であったと考える。

このあたり、若干先入観によるひずみがあるように考える。もっともフィクションとしては、許される脚色ではあろう。それを真実のように思い込むことが困るのである。

|

2006年2月 5日 (日)

明治時代に失ったもの

昨日、歴史読本3月号『論点 日本宗教秘史』を読んだ。色々興味深い内容があったが、明治の古神道と国家神道関連の話が興味を引いた。特に以下は目から鱗であった。

1.明治4年の社家制度廃止で、俄か神職を増やした。
 そのため、多様性を持っていた祭式を統一した。「二礼二拍手一礼」への統一など。
   今まで、出雲や宇佐の四拍手を特異と考えていたが、
   明治までには多様な形があったとは初めて知った。
 また関連して、従来の世襲の神職を禁止したため、秘伝が失われた。

2.明治の廃仏毀釈の前に、徳川幕府の寺請制度で神社が寺に従属させられていた。
  このため、神社でありながら仏をご神体などと言う例があり、これの明確化が最初の<神仏判然令>であった。(但し、一部では廃仏の動きが最初からあった。)

3.上記1.2.の動きに対し、古来のやり方を守ろうとしたのが古神道である。
    つまり国家神道に対する古神道であり、自然に敬意を払う
   (私の独断では)素直な信仰は神道である。

このように、明治では従来われわれに伝わっていたものが無くなったようです。

神社の関連でもう一つ、お祭りに使う歌や踊りも、明治の教育で統一的に西洋音楽や、西洋的な体捌きによる踊りになってしまった。本来の日本人のリズムや、精妙な体の使い方が失われてしまった。

確かに民謡、日本舞踊と一部は保存されているが、風土全体で伝えるべきものが失われたように思う。但し、国家的な体操作法の統制が、近代工業国への切替を容易にした一面はある。地方毎にリズムの取り方が異なれば、大量生産などとても出来なかったと思う。明治に近代化に成功せず、列強の植民地になった時の文化破壊は、もっと激しい可能性がある。

『もののけ姫』ではないが、近代化と破壊の問題は簡単に結論がでるものではない。

|

2006年2月 4日 (土)

関西の発信力について

昨日は節分に関して、巻寿司の丸かじりがかなり流行していました。しかし、この風習を奇異に思う人も居るようである。そこで由来を調べると、

 大正(一説では明治や江戸時代)に大阪の花柳界で節分の日に、海苔を巻いたカンピョウ巻を恵方を向いて丸かじりすると、幸運になるいう伝承があった。

これを、1973年ごろから大阪の海苔問屋協同組合が
 「節分の夜、恵方に向かって無言で家族揃って巻き寿司を丸かぶりすると
  必ず幸福が回ってくる…と昔から言い伝えられています」
と書いたチラシを、寿司屋に海苔を納める時に配った。

と言うことが、普及の始まりらしいです。

この外にも、バレンタインデーのチョコレートは、神戸で有名なメリーのチョコレート屋さんが広めたようです。

このように関西発祥の文化はかなりありました。しかし現在は、それが少なくなっています。この理由を、某先生は電波行政の結果と言っています。つまり、東京キー局の発信の文化にみんな従うようにし、地方発信に関しては、あまりかっこよく出来なくなったと言うことです。

例えば、大阪キー局の女性の場合主役は
 山田花子、上沼恵美子・・・
男は、
 島田、やしき、橋下・・・

ただし、京都の伝統的美人に関しては許すそうです。

一寸眉唾ですが、信じてしまいそうな面もあります。

| | コメント (2)

2006年1月24日 (火)

日本語の論理性について

日本語が、論理的でないという話をよく聞く。その論点の一つとして、主語がない文があるとの指摘がある。

しかし、ヨーロッパの古典であるラテン語の主語はどうなっているのか?

論理的思考で有名な、デカルトの”われ思うゆえに我あり”は 

 Cogito      ergo    sum. 
  私は考える それゆえ 私は~である

であり、主語はない。ただし、動詞の語尾変化で、1人称単数を示している。

これで見ると、言語より使い方ではないかと言う感じもする。

| | コメント (0)

2006年1月 9日 (月)

総合化を支える能力

総合的な思考を行うためには、色々な知識を必要な時に、想い出す能力が必要である。しかし現在の教育は、「詰め込み排除のゆとり教育」で、記憶に関してあまり積極的な面を感じない。

私の経験では、記憶力も訓練しだいで鍛えられるものである。渡辺式などが効果があったが、基本は覚える事に関する恐怖心をなくすことである。なぜか、覚えすぎに何か障害を生じるか不安を持つことが多い。しかし、人間の脳細胞は生きているうちに、10%程度しか使わないと言う説もあり、覚えすぎたらこれから先記憶できなくなると言う心配は不要である。だから、いくらでも覚えると言う気持ちが大切である。

さて、日本の歴史上、万能の天才と言えば、”弘法大師空海”がその一人になる。当時我が国にない、真言密教の体系を日本に伝えただけでなく、四国での治水事業まで指導している。しかもお経は、サンスクリット語からの直接翻訳を自分で行っている。

ここで一つ指摘しておくと、入唐前の修行僧空海は、記憶力を強化する、虚空蔵求聞持法の修行をしている。そもそも、虚空蔵菩薩は無限の空間にある、物と情報を象徴した菩薩である。このように知識習得システムが昔からあったのである。

| | コメント (0)

数学と英語でした

昨日の記事の修正、ある先生のお言葉は"数学と英語”でした。

いけないなー。つい本音が出た。

でも英語も、どこの英語?

インターネット上の英語はかなり進化(?)しているし、米語の方が通用する世界は多いが、正規はキングスイングリッシュ・・・

でも日本の英語教育は今急速に進歩している。CDなどが豊富で、発音は見事になっている。ただ、発想までは?

欧米の哲学を知らずに、英語だけ学んでも、国際化にはならないと思うのだけれど?

また日本語も出来ないのに英語?

本件は、私の敬愛する子猫さんのHPhttp://neko-koneko-minineko.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_3655.html

を踏まえたものです。

| | コメント (0)