ご縁のあった人たち

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2020年3月16日 (月)

薬師如来信仰について

 昨日の続きで、薬師如来信仰について、NHKブックスの「仏像ー心とかたち」に面白い指摘があった。(私が読んだのは1965年版)

 「薬師如来像に心を探る 梅原猛」

薬師信仰は実利的合理主義に支えられた

抜粋

しかし薬師、それは病気を直す仏様なのだ。われわれは喜びの声をあげる。病気を直すばかりか、現世の利益を与えてくれる仏、それは誰にもわかりやすい。そして、仏教とともに医術が大陸から伝わり、僧は同時に医者であった。薬師崇拝の中に、こうした合理主義、実利主義への崇拝をみないとしたら、われわれは盲目なのである。

~一部略~

われわれの祖先が仏教を現世否定の教えでなく、現世肯定、科学的技術と結びつきうる現世の幸福促進の宗教として受容したモノであることを示している。

薬師信仰ははからずも日本人の魂の秘密を示す

戦前の日本では、功利主義だの実用主義だのという思想は、ほとんど思想として認められなかった。日本でもてはやされた思想は、人格だの、実存だの絶対矛盾の自己同一だのの思想であり、功利とか実用とかを口にするのは、自らの浅薄なる人格を告白するかのようであった。従って哲学史においても、それらの思想は、大抵数行で片付けられてしまった。しかもそれにもかかわらず、日本人は、公的にも、私的にも、大変功利的であり、実用的あったかに思われる。実用主義、功利主義こそ、日本人の魂の底にあり、しかもそれを浅薄、通俗として、公の価値から排除することが、日本人の魂の基本的羞恥であるように思われるが、今この薬師をめぐる評価の中に、この魂の矛盾の秘密が、解き明かされているように思われる。

この話は、『日本教』の本質に関わる議論だと思う。

 なお、実用主義に関する遠慮については、もう少し議論をしたい。

2020年2月 2日 (日)

西洋文明と日本文明の比較 彫刻の例

 日本文明の思考方法は、西洋文明と違った面がある。今回は、像を彫る等の事例で考えてみたい。

 日本の文明は、

「あるべき姿を探り出す」

と言う発想がある。例えば、仏師が仏像を彫るときには、

「木の中にいらっしゃる仏様を表に出すように木を削っていく」

という感じで余分な木を除去するのが、仏師の仕事である。

 一方、西洋文明の場合には、部分を積み上げていくという発想がある。人物像を作るなら、

「まず骨格を勉強する。次に筋肉の付き方を知る。・・・」

と言う形で、段階を経て積み上げていく。この根底には

「部分に分けて、きちんと学んでいく。」
「分けることで解る。」

と言う発想がある。

 一方、日本文明の発想には

「分けたらなくなってしまうモノがある。」
「一度に全体を悟ることができる。」

と言う信仰がある。天台の摩訶止観の説く、円頓止観が一度に全てを観る可能性を示している。この発想の違いを、私たちは心しておかないといけない。

2020年1月14日 (火)

西洋文明と日本文化の違いを宗教で見る 特に偶像崇拝

 西洋文明には

「神の世界は,人間には到達不可能」

という発想がある。一方、日本の大乗仏教には

「誰もが仏になれる」

という可能性を開く教えがある。

 これを,キリスト教やイスラム教にある

「偶像崇拝禁止」

と関連して考えた。確かに、キリスト教でも『十字架のキリスト像』『聖母マリア像』等を拝むことはある。しかし、これは『神』自体ではない。つまり、

「神の姿は人間にはわからい」

という原則は生きている。

 一方、日本では

「仏師が木の中に入っている仏様を掘り出す」

という風に、

「仏の姿を我々は観ることができる」

という信仰がある。それどころか、仏像の色々な姿や持ち物が

「仏の救いの力を表す」

というビジュアルなイメージでの伝承も効果的に使われている。物語による伝承、ビジュアルイメージの伝承、そして経典という、総合的な教え方が、日本の伝承法の強みだった。

 これが明治以降の学校教育重視で,バランスが崩れたように思う。

2020年1月11日 (土)

日本的な意思決定の成功

 昨日書いた日本文明の意思決定論について、今回は上手く働く条件を明らかにする。日本文明の意思決定は、聖徳太子の一七条憲法にもあるように『話し合い重視』ということで、多くの人が絡んでいく。そこで悪い例だと、

「責任の所在が不明」
「状況不適応でも変更不可能」

という事態になる。

 しかし、このような多数の意見を交えることで、

「見落としが少なく完成度が高くなる」
「当事者意識を育てる」
「主体的な参加が促進される」

という利点も生じる。さて、このような『多数による創造』のメカニズムについて、もう少し踏み込んで議論してみよう。

 ある問題について解決策を話するとき、まず問題になった事象について提示される。これは極端な事例も多いだろう。さてここで、今の学校教育や、MBA等の訓練を受けた人間なら

「その問題の本質を見いだす」
ことに注力し
「一般化した規則性などを発見する」

ことを目的に頑張るだろう。これを『西洋文明的な解決』とする。

 しかし、もう一つ別の道がある。そこでは、

「関係者が関連する経験などのストーリーを思い出すままに発言していく。」

という形で話し合いが進んで行く。こうして、事例を多く積み重ねていくことで、

「問題となっている事態の舞台背景が見え、典型的な登場人物が明らかになってくる。」

段階になる。このような舞台の上で、解決策を考えていくことは、多くの参加者の共感を得るようになる。登場人物の考え方などが、参加者の脳内に展開して、共感を得るようになれば、

「皆が納得する解決策に近づく」

ことになる。このように、

「種々のストーリーが収束して、舞台や登場物に結晶化していく」

作業は、多分クリエイター達の作業にも類似するのだろう。

 さて、ここで大切なことは、西洋文明的発想と、日本文明的発想の根底にある宗教的な違いである。

「西洋文明の根底にある、神の世界への到達不可能性」

「日本文明の根底にある、皆に存在する仏の力」

つまり、西洋文明は古代ギリシャでプラトンが『洞窟の比喩』で諦めたように、

「全体を知ることは人間にはできない」
従って
「部分的に厳密な理論を展開したら満足」

という形になる。一方、日本の文明には、

法華経など大乗仏教が説いた
「皆には仏の力がある。全ての世界を知ることができる。」

という信仰が根底にある。このように可能性を信じ、物語を展開しながら、本質的な答えを探す。これが日本文明のよいところではないかと思う。

2019年11月20日 (水)

小さなモノでも全てを観ることの大切さ

 全体像を描くことが大切という話は、このブログでも何回か行った。昨日の議論もその一つである。

 さて、このような全体を見るために、小さなモノを創る経験が有効という議論がある。これは、私の会社生活の経験からもいえる。私は入社5年目で、新しい会社の立ち上げに参画し、10人程度の会社を見ている。この経験が、大きなメーカーの中で生きていくとき色々と影響している。

 日本の『縮み志向』と言われるが、小さなモノで全体を表し、そこに誠意を込めていく。盆栽などがその一つだと思う。このように、小さなモノで全ての世界を表す。こうした経験が、全体的な調和を見るのに必要ではないかと思う。

 しかし、大きな組織の中での分業を行うとき、色々なスキルが必要になり、文書化などで見える形で伝わるモノも大きい。この両面を上手く生かして、人材育成を行うことが大切だと思う、

 特に、理論的な突破を行うためには、ある種の理想化や簡単化も有効である。このような多様性を本当に生かしていく、これが政治であり、経営ではないかと思う。

2019年11月19日 (火)

創造的な力による安定的な答えを得る

 総合的な見方で物事を成し遂げようとするとき、どうしても矛盾する要求などに挟まれることになる。これに対処するとき、一般には

「皆が譲り合って妥協する」

と言う答えを求めることが多い。また、自動制御などでも、

「その機能を抑えることで安定させる」

ための、ネガティブフィードバックを使うことが多い。このように、押さえ込みながら、安定を求める姿勢が多くなっている。

 また、西洋の学問方法は、ニュートンの太陽系の話にあるように、1対1の関係に単純化し、しかも重心に全ての質量が集中する系で考える。

 このような考え方だけが、本当の解決だろうか?

 先日、NHKスペシャルでレオナルドダビンチの話を放送していたが、

「ダビンチはシステム思考で鳥瞰的な地図を描き、心臓の弁と血流の関係を見抜いた。」

と言う見解があった。

 このように、全体像を色々な要求を満たすように充実したモノを創造する。この創造したモノが安定した答えになる。これはあり得るように思う。

 さて、これを実行するにはどのようにしたよいだろう。一つのアイデアは、法華経が示す

「仏は、全ての世界を自分が作ったモノとして見る。衆生全ては我が子である。」

と言う観点に立つことである、自分が全て創るなら、どのように配置して関わりはどうなる。これを考え抜き、解ったという感じになる。

 もう少し踏み込めば、

「そのような『創造者』はどのような人格だろう?」

と考えて、

『創造者』を創造する

ことができれば、より現実性のある琴絵が生まれる。

 大乗仏教では、仏だけでなく、仏の色々な救いを表す、菩薩や明王を観じる。これと通じるモノを思った。

 なお、この検討は、漫画家の相河柚希さんとのTwitterでの議論が一つの動機になっている。相河さんに多謝。

2019年11月 9日 (土)

社会的問題に対するブレークスルー思考は一度全体図を描く必要がある

 これまでにブレークスルー思考に関して、少し書いてきた。

 ブレークスルーの実現のためにはシステム的な思考法が必要

 ブレークスルーを行うと言うことは「次の安定に至る」ということ  

ここで、3段階を踏むことが大事と書いた。


  1. 可能性を開く時には、理想化した世界で理論的に考える
  2. モノとして作り出すときは関連する事項全ての閉じたシステムで考える
  3. 製品化の段階では社会という開いたシステムまで考える

と言う風に考える範囲を広げる必要がある。

しかし、これは工学などの、物理学などを母体にした物作りの発想である。その延長で、相互の因果関係などを考える、「システム発想」も提案したが、考慮する範囲は限られていた。

 しかし、経営問題や社会的な問題を考えるときには、検討範囲をもっと広げる必要がある。社会科学系では色々な仮説を考えて、その成立可能性を検証するが、

「そのために世界をどのように切りとるか?」

と言う前提条件の選び方が重要になる。

 もう少し言えば、

「この提案が成立した状況での社会はどうかなる」

と言う形で、結論が先行した形での議論も必要になる。

 このためには、上記の3段階説の切り分けは曖昧になり相互の侵入が発生する。

 少なくとも、理論検定時に関連項目の並ぶモデル化した世界を描き、その上で

「新しい考えが実現したらどうなる」

と言う形のシミュレーションを行う必要があるだろう。そうした結果が社会にどのような影響を及ぼすか、ここまで考える必要がある。

 単純な因果関係ではく、広い縁や報いまで考える。これは物語を想像するよことに通じている。

2019年10月21日 (月)

天才の育て方について 「蜜蜂と遠雷」から学ぶべきモノ

 ここしばらく書いている、「蜜蜂と遠雷」の映画と書籍を、比べると天才の育て方について、面白いモノが見えてきた。なおここから先は、ネタバレに属するモノがあるのでご了承願う。

 まず、書籍の中での、栄伝亜夜に関しては、とても優しい保護者である奏がいる。彼女自身バイオリン奏者であるが、ヴィオラに転向する意思を示している。主役でないが重要な役ヴィオラ、これが奏の立場を象徴している。このような優しさに包まれて、塵とマサルという二人の天災の影響を受け、亜夜は無事開花していく。ただし、書籍では塵に関する書き込みが深い。

 一方映画では、亜夜は孤独であり、一人で戦っている。それどころか、審査員の嵯峨三枝子が、厳しく崖から突き落とす。

  • 元天才少女としての助言
  • 引き返すなら今が最後のチャンス

この一言は重い。単純に考えれば

「音楽の世界で演奏者として生きていけるのは少数、諦めなさい。」

と言う平凡な助言と思ってしまう。しかし、この映画の天才の扱いからすれば、

「一度、神の音に近づいてしまうと、その音楽に到達できないと言う地獄の苦しみに遭う。
その地獄に落ちる前に踏みとどまるなら今しかない。」

という、「地獄を観ている元天才少女」の重い言葉が聞こえてくる。

 ここまで、追い詰めることで、自らの気づきで突破させる。それには、「ギフトであり劇薬かもしれない」塵がいる。このような厳しい親の働きも、天才の育成には必要かもしれない。

 なお、「蜜蜂と遠雷」には、その周辺をきちんと書いた「祝祭と予感」という本が出ている。こちらを読むと、もっと見通しがよくなる。

2019年10月20日 (日)

「音楽を外に連れ出す」ために必要なモノ

 昨日に続いて,「蜜蜂と遠雷」から感じたモノを書いてみたい。

 この作品のテーマに

「(自然界に満ちあふれている)音楽を外に連れ出す」

と言う考えがある。

 これは、自然の恵みを受けると言う大切なことである。

 しかしながら、人間にとっては、これは大きな負担になることもある。世界は音にあふれている。そのあふれている音に向き合い、その中から『音楽』を見つけ出す。この負担をもう一度考えないといけない。無数の音、その中にある秩序を見いだす。もう少し言えば、無数の音の中から、一部のモノを選び、それを組み合わせて音楽にしていく。音楽に値するモノを、選び引き出す。

 今までのしがらみを捨てて、全てと向き合った上で、自分の感性だけを頼りに、もう一度選ぶべきモノを決める。『決める』というと、理性の働きに聞こえるかもしれないが、全身で反応し『感じる』べきモノだろう。

 この段階の苦しみに向き合う覚悟と力が、創造には必要である。

 しかしながら、毎日このような、全てを受け入れる対応をしていれば疲れてしまう。実際、HSP(高感覚処理感受性)と言う人たちの苦しみについて、色々な議論がある。

 私はこの問題に関しては、大乗仏教の唯識の教えが、解決のヒントになると思う。唯識では

  1. 表面的に出てくる意識(前六識)
  2. 前六識に登るモノを選択するマナ識
  3. 全ての知識体験等が入っているアラヤ識

の存在を考えている。つまり、私たちが意識に登らせ考えているモノは、世界の全てを認めたアラヤ識にある情報を、マナ識で選択した結果と考えている。このマナ識の作用が無意識に行われることで、偏見等の発生があると考えられている。

 しかし、私は『マナ識の選択作用』こそ、人間が楽に生きていくための知恵だと思っている。あまりにも多量の情報に触れるのではなく、必要なモノだけを感じることで、楽に生きていくことができる。

 もう一つ大事なことは、このような『マナ識』の作用は、ある程度コントロールができるのである。私自身、諸般の事情でHSPの傾向があるが、今までの経験や知識を生かして『マナ識』の選択能力を上げる様にしてきた。また逆に、色々と新しい発想が必要になれば、『マナ識』の選択作用を、『眠らせる』ことで、色々な発想を引き出している。

 このような、『マナ識』の存在を意識し、そのコントロールを考えることが、創造と日常生活の両面に役立つと思う。

2019年10月19日 (土)

天才の開花とは 映画版「蜜蜂と遠雷」を見て思ったこと

 先日、劇場公開されている「蜜蜂と遠雷」を見てきた。断っておくが私は、完全音痴なので音楽的なことは、一切解らない。

 しかしながら、この映画は

天才の開花

と言う問題について、色々な諮詢を与えてくれた。なお、以下の内容は、ネタバレ的要素もあることをお断りしておく。

 まず、この映画には、いわゆる恋愛要素は、一部の勝手な思い込み以外は入っていない。主演者たちの間には、同士という感覚があって濃密な心の触れ合いはあるが、恋愛とは別物である。また、競争のための足の引っ張り合いはない。相手のベストがあることが、自分を高めると言うことを知っている。しかも状況によっては、支援することもある。

 一方、指導的立場にある人は、手を差し伸べない。それどころか、厳しく突き放す。例えば、審査員の元天才少女や指揮者、そしてオーケストラの面々である。しかし、彼らも、本当の達成には素直に祝福する。

 映画では、幼なじみというか、子供時代の同門の亜夜とマサルの相互啓発が大きかった。特に、マサルに気づきを与える、亜夜の第2ピアノの場面は原作にないがよかったと思う。その前に、亜夜もマサルに刺激を受け、連弾でそれを完成させていたと思う。

 また、強烈な役である塵は、亜夜を迎える立場でも大切だったと思う。

 最後に原作にあった

「音楽を外に連れ出す」

と言うことはできたのだろうか?最後の場面での亜夜の行動が、それと言うのだろう。

 なお原作は蜜蜂と遠雷 である。

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