ご縁のあった人たち

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2020年4月20日 (月)

学校的社会等の単一価値観への過剰適応について

 昨日、テレビ朝日のしくじり先生山口真由先生編を見た。私は、山口真由氏については、知性面では尊敬すべき人と考えているし、テレビ画面で時々見せる『かわいい!』雰囲気には好感を持っている。

 しかし、彼女の話を聞いていると、このブログで近頃注目している

「単一価値観への過剰適応」
「感情を学校制度などで押し殺す危険性」

の副作用についての典型例として、色々考えるべき問題が見えてきた。なお、山口真由氏は、彼女のたぐいまれなる能力(努力する力も含めて)により、現在社会への適応問題をクリアしているが、彼女ほどの力(努力)がない人のトラブルが問題と考えている。

 さて、「単一価値観への過剰適応」という硬い表現を書いたが、もう少し掘り下げると

「学校の成績だけで、全ての順位を付ける。極端な話、恋愛対象も成績で決める。仕事も成績対応で決める。」
つまり
「自分が『ほしいと心から思うことではなく成績という客観的なモノで決める」

という、学校の運営側には非常に便利な特性である。

 しかしこれが行き過ぎていると、

「大学の成績が全て」
さらに
「研究生活に入らないと存在価値なし」
「研究成果が人間の価値全て」

と言う、大学文明への過剰適応人材になった人もいる。実は、私も数十年前に、大学から企業に入ったとき、そのような挫折感を持っていた。

 このような、過剰適応を避けるためにも、

「人間の多様性に触れる」
「多様な立場を理解する」

機会を子供の時から与えて、また成人になるときにも、継続した人間関係による育成を考えるべきだと思う。

 なお、山口真由氏に関しては、テレビ番組での言動を見ても、少なくとも現在は、

「他人の立場に関して、きちんと思いやりができている」

と思う。

2020年2月18日 (火)

怒りの発生について現在社会を見る

 怒りへの対照法について、考えるために天台の摩訶止観を読み直してみた。『瞋恚』の対処を見ると

「慈悲の心で対応せよ」

となっている。これは

「単純に甘やかして許せ」

ではなく

「法界を造る仏の立場で親として考える」

と言う大きな慈悲である。

 しかし、天台大師が摩訶止観を説いた6世紀と現在は大きく異なっている。これを比較しながら、『現在人の怒り』を見てみよう。

 6世紀と現在の違いは、社会構造の複雑さと、仕組みの違いである。学校制度という教育システムと、マスメディアやネットワークメディアによる多くの人からの影響である。

 ここでは、強制された人間関係や、評価がある。この強制による怒りは、直接の人間関係によるモノもあるが、制度上の問題が大きい。例えば、給与などで

「自分が正しく評価されていない」

と言う怒りを持つ人は多い。

 一方、6世紀の様に、面と向かって話す、直接的な人間関係なら、慈悲の心も起こしやすい。

 このように考えると、

「現在の『怒りの原因』は、間接的で絶対的ではない」

と言う見方で対応すべきではないかと思う。

「全てが『空』である」
「仏の目で見れば今まであったことは小さなことである」

このような見方で対応すべきではないかと思う。

2020年2月12日 (水)

深い穴を掘るだけの鍛錬であって善いのか

 昨日書いた、多様性の話に関連して、今朝のNHKの話でショックを受けたので、もう少し書いておく。

 今朝のNHKが取り上げた話は

オリンピックの空手の型選手が、琉球舞踊の膝の使い方を学んでいる

と言う話であった。

 これが、テレビで取り上げられたのは、

「犬が人をかんでもニュースにならない,人が犬をかんだらニュースになる」

と言う原則から、

「空手と舞踊は別」

と言う常識が育っているらしい。昭和の時代に育った立場では、

「空手の琉球舞踊は表裏一体、琉球舞踊の名手は空手もできる」

と言う常識をもっていた。もう少し踏み込めば

「沖縄では、武術禁止・武器禁止が厳しく、そのために素手の格闘技の空手が普及したが、空手すらも危なくなったので、琉球舞踊のなかに、体の使い方の極意を隠した。」

と言う伝説すらあった。

 このように,関連する物事の網をきちんと作らず、バラバラの専門家を育てているのが現在の教育ではないかと思う。

2020年1月 6日 (月)

地域創生のためには過去の清算が必要

 昨年末の紅白を見て、石川さゆりの「津楽海峡冬景色」を聞いたら、

「上野発の夜行列車も、青函連絡船もなくなっている。」
「この歌が見ている風景はもうない。」

と強く感じた。更にここから思いついた歌が

1964年、伊沢八郎の「ああ上野駅」

である。この歌が見た世界は、中学卒業したばかりの子供達が、集団就職で東京に出てくる姿であった。このような子供が親元を離れて働きに出る。この理由は

「当時の高度成長では、工業化が進み多くの職人をそろえる必要があった。
そこで中学卒業などの若い世代を訓練し、終身雇用で抱え込む。」

と言う、高度成長が背景にあった。ここで、「ああ上野駅」の時代には、親元を離れることへの寂しさや、抵抗があった。

 そこで通産省などが取った政策が

「憧れの東京戦略」

である。つまり、

「憧れの東京に喜んで出てくる」

「空気」を日本中に作ったのである。例えば、地方年にも「XX銀座」という通りを作る、これで

「まがい物の東京」

に慣れている人間は、東京に出ることに喜びを感じるようになる。その一つの成果が

1984年 吉幾三「おら東京さ行ぐだ」

である。

 このように、通産省などの頑張りで、東京の憧れをあおった後遺症が現在も残っている。

 この過去の清算をきちんと行わないと、地域創生は難しいと思う。

2020年1月 2日 (木)

「AI美空ひばり」が引き起こすAIバブル崩壊

 昨年末の紅白で「AI美空ひばり」が登場した。私は音痴なので,音楽の面はよくわからないが,耳で聞く限りは素晴らしい物だったと思う。

 さて、この「AI美空ひばりは」NHKの番組で、何度か出ている。私が紅白で見たのは3度目であった。

 最初の、NHKスペシャルでは、「AI美空ひばり」の開発秘話などもあり、人工知能学会の創立年からの会員としても、

「ここまでAIが来たか」

と素直に感動した。

 しかし、その後テレビの画面を見ながら、「AI美空ひばり」の歌っている姿を観ると、違和感を感じるようになった。言い方は悪いが

「表情の乏しいまるで幽霊の顔」

という感じで,これは紅白の画面を見たときにも同じ感じである。

 実はこの理由は既にNHKスペシャルで明かされている。「美空ひばり」の音楽を再現させたのは、単にAI技術を使ったのではなく、ヤマハの技術者の高度な力が、

「道具としてのAI技術を駆使」

して実現した。

 さて、表情に関して、これと同じように、労力を費やすことができていたであろうか?時間的にもこれは難しかったであろう。従って、

「今のAI技術にお任せの表情」

となり、

「高度の音楽性の実現とのアンバランス」

となってしまったのではないかと思う。

 さて、この話はとても大きな教訓を残している。つまり

「AIお任せでは高度な物はまだ難しい」
「高能力の技術者がAIを補助に使うとすごい物ができる」

と言う状況である。これは当たり前と思う人が多いだろう。しかしながら、ここで私はこの話より

「AI人材バブルはじけが発生する」

と言う予言を行いたい。これは、

「単にAIの使い方を知っているという人材への過剰要求」

が、はじけると言うことである。

 この前例は、既に前世紀末ぐらいに騒がれた

「カオス理論によるブーム」

がある。当時、このような高度の数理モデルを理解する人材が必要と

「数学の大学院卒業者などをシンクタンクが迎えた」

が、結局このような理論の力が,現実に適用できず、

「文化人類学の経験者の方が数学よりよい」

と言う話が,計測自動制御学会誌に載ったりした。

 私は,現在の「AI人材」に関しても,同じようなトラブルが起こると思っている。特に現在のAIでは,モデル作成が機械任せの場合も多く,そのような技術者の使い道で企業は困ると思う。健全なAIの発展のためには,このようなバブル的な者が早くはじけて

「地に足の着いた基礎力充実」

に戻ることが大切だと思っている。

2019年12月30日 (月)

ネット社会のリンチ状況について

 昨日の話に、少し追加する。

 現在のネット社会の一部では、個人の『正義感』による、リンチ的な行動がある。この問題について、単に『困った話』としたり、『大衆の成熟を待つ』などの言い方で済ましてはいけない、大きな問題が隠れていると思う。

 まずリンチという行動に関して、少し議論が必要である。リンチの歴史的な経緯を考えると、特にアメリカの開拓時の法律不備時代に、私的な刑罰が行われていたことが、語源となっている。ここで大切なことは、

「アメリカ人は、法律の不備を認識している。従って、『(刑)法で裁かれない罪』を処罰する方法を求めている。」

と言う側面である。これは、自ら凄腕の弁護士だったE.S.ガードナーが自作品の中で

弁護士の凄腕で、法の網をくぐり抜けて無罪になったのなら、住民のリンチに遭っただろう。

と言う主旨のことを書いている。

 このように、

「法律の専門家が勝手なことをするのは許さない」
加えて
「法律は不完全であると考える」

と言う住民意識が、リンチの底にあると思う。

 このような、法体系などの不備に対し、民衆からの動きが、ネット社会で生まれることは、必然的な面もあると思う。

2019年12月20日 (金)

地方の活性化のためには歴史の勉強が必要

 地方の活性化のためには、その地域に住んでいる人たちの

「誇りの活性化」

が大切である。さて、このようなことを、わざわざ言わないといけないのか?

「お国自慢」

と言う言葉がある。しかし、この言葉が大分力を失ったように思う。この理由と言うか、犯人の一部は明確である。つまり

「第二次大戦後の高度成長を指導した通産省」

である。第二次大戦での敗戦国日本の復興のため、敗戦原因である重化学工業と電機産業を強化する。そのためには、多くの熟練工を確保して、物作り日本を造る。これが、通産省のエリート達が描いた構図である。そのために、東京を中心とする大都市に、労働力を集中させて、大規模工場の力で技術的な突破を行う。突破した後は周辺にも波及が生じて皆が豊かになる、いわゆるトリクルダウン発想である。

 そのために、

「東京への憧れ!」

を全国にすり込むようにした。例えば、業界団体の中心はできるだけ東京に置くようにする。繊維業界の団体の本部が大阪にあったが、色々な圧力で東京に持ってこさせた。またマスメディアでは、東京のキー局に力を持たせる様にして、

「東京文化への憧れ」

を持たせるようにする。例えば、アナウンサー採用でも、東京のキー局で落ちた人間が、大阪などの準キー局に行く、そこで落ちれば更に地方へと回っていく。

 このような形で、中央への憧れをすり込んできたのが、戦後の体制である。

 しかし、現在は多様化しているし、大量の熟練工依存の物作りは限界になっている。つまり、トリクルダウン理論は成立しない。

 そうなると、もう一度

「地域の誇り」

を取り戻す必要がある。このため、20世紀以降の色々な刷り込みの危険性を排除し、もっと昔の先祖の智慧を知ることが大事ではないかと思う。実際、江戸時代には各藩独自の産業政策で繁栄した場合もあるし、開拓なども独自で行っていた。この地域の智慧を、明治以降は中央官僚の知識が押さえ込んでいったのである。

 このように、歴史を見て、地域のよいモノを見いだすことが、地方創生の原動力になると思う。

2019年11月15日 (金)

親の言うことを聞く子供を作ったら自立できなくなる 地方創生はできるのか

 昨日書いた、中小企業問題と地方都市問題について、別の面から考えてみた。今週の水曜日に、読売テレビの「関西情報ネットTEN」で、高浜町の取材をしていた。これは、原発交付金に依存した町の状況をきちんと描いていたと思う。

 しかし、私がこの番組を見ながら思いついたのは、戦後の日本の政治体制である。吉田茂が、

「アメリカに依存しながら復興していく。しかし、完全なアメリカ従属だけでなく、共産圏の方を向く勢力が必要である。」

と言う発想で,社会党に反米路線を取らせるように水面下で連絡した。

 この図式は,原発の立地でもあるのではないかと思う。

「原発を呼び込んで、町の活性化を行う。雇用も生まれるし、交付金ももらえる。」
ただし、
「ある程度の反対運動があった方が,交付金などへの圧力になる。」

と言う図式は、同じ構図である。

 これをもう少し一般化すると、

   中央権力という親
   権力から支援金をもらう子

と言う図式になってしまう。

 親の言うことを聞いて、従順な子供でいると,色々なモノがもらえる。

 これが利益を生み出す常識となってしまえば、思考力もなくなっていくだろう。

 このような施策は、中央に力のあるときは、

「言うことを聞くよい子が多い」

と上手くいっている。

 しかし、中央に力がなくなったとき、従順に育てた子供が自立するのだろうか?

 ただし、二つほど希望がある。

 一つは,大阪府の事例である。大分昔だが

「横山ノック知事は陳情の名手」

であった。国会議員の経験を生かし,どこに頼むかを上手く行っていた。しかし、中央が頼りにならないと見るや、大阪の人たちは

「橋下ー松井の維新ラインを選択」

し独立した動きを見せている。確かに大阪の底力は大きい。しかし、水曜日の高浜町の取材でも

たくましい若手町議会議員が
「小判入りまんじゅうを名物として売り出そう」

と頑張っていた。

 このような若い世代の頑張りがあれば、地方創生もできると思う。

2019年11月 8日 (金)

琵琶湖を「琵琶の形」と見るためには?

 先日、NHKの「日本人のお名前」で、

「琵琶湖の形を完全に認識するためには、山などでは到達できない高さから見る必要がある。」

と言う趣旨の話があった。

 しかし、行基菩薩が竹生島を開いたとき,既に弁財天と琵琶の関係を感じていた可能性はある。

 そこで、天平時代や平安時代の人の気持ちになって、琵琶湖を見てみた。

 琵琶湖のそばには、伊吹山もあり、比良山系や比叡山もある。このような山の上から見れば、部分的にでも丸まっているが、円ではなく広がっている形が見えるだろう。

 さて天平時代に既に琵琶があったのは、正倉院の御物からも明らかである。従って、当時の人々は、琵琶の形は知っていた。一方、他の形はどれほど知っていただろう。丸い物は色々見ている。擬宝珠のような形も見ているだろう。しかし、それ以外の形は思いつくだろうか?

 こうして考えていくと、当時の人たちは、部分的いに見た物から、自分の知っている一番近い「琵琶の形」に当てはめたと考えるのが自然に思える。

 私たちは、航空写真という便利な物があるから、全体像を見て判断するという癖がある。しかし、当時の人たちは、自分が思いつく

「形状の概念装置」

の範囲で一番近いモノを選択したと思う。

 しかし、このような概念装置による、思考の制約は私たちに無意識的に働くことが多い。注意すべきことである。

 

2019年10月20日 (日)

「音楽を外に連れ出す」ために必要なモノ

 昨日に続いて,「蜜蜂と遠雷」から感じたモノを書いてみたい。

 この作品のテーマに

「(自然界に満ちあふれている)音楽を外に連れ出す」

と言う考えがある。

 これは、自然の恵みを受けると言う大切なことである。

 しかしながら、人間にとっては、これは大きな負担になることもある。世界は音にあふれている。そのあふれている音に向き合い、その中から『音楽』を見つけ出す。この負担をもう一度考えないといけない。無数の音、その中にある秩序を見いだす。もう少し言えば、無数の音の中から、一部のモノを選び、それを組み合わせて音楽にしていく。音楽に値するモノを、選び引き出す。

 今までのしがらみを捨てて、全てと向き合った上で、自分の感性だけを頼りに、もう一度選ぶべきモノを決める。『決める』というと、理性の働きに聞こえるかもしれないが、全身で反応し『感じる』べきモノだろう。

 この段階の苦しみに向き合う覚悟と力が、創造には必要である。

 しかしながら、毎日このような、全てを受け入れる対応をしていれば疲れてしまう。実際、HSP(高感覚処理感受性)と言う人たちの苦しみについて、色々な議論がある。

 私はこの問題に関しては、大乗仏教の唯識の教えが、解決のヒントになると思う。唯識では

  1. 表面的に出てくる意識(前六識)
  2. 前六識に登るモノを選択するマナ識
  3. 全ての知識体験等が入っているアラヤ識

の存在を考えている。つまり、私たちが意識に登らせ考えているモノは、世界の全てを認めたアラヤ識にある情報を、マナ識で選択した結果と考えている。このマナ識の作用が無意識に行われることで、偏見等の発生があると考えられている。

 しかし、私は『マナ識の選択作用』こそ、人間が楽に生きていくための知恵だと思っている。あまりにも多量の情報に触れるのではなく、必要なモノだけを感じることで、楽に生きていくことができる。

 もう一つ大事なことは、このような『マナ識』の作用は、ある程度コントロールができるのである。私自身、諸般の事情でHSPの傾向があるが、今までの経験や知識を生かして『マナ識』の選択能力を上げる様にしてきた。また逆に、色々と新しい発想が必要になれば、『マナ識』の選択作用を、『眠らせる』ことで、色々な発想を引き出している。

 このような、『マナ識』の存在を意識し、そのコントロールを考えることが、創造と日常生活の両面に役立つと思う。

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