ご縁のあった人たち

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2020年1月18日 (土)

西洋文明の影響下における「禅と悟り」の役割

  新潮選書の大竹晋著:「悟り体験」を読む、を読んだ。色々な人の、座禅体験から、悟りに至った経験談がある。私個人の感想では、例えば、植芝盛平や山本鉄舟など武術関係者など、もう少し広い人を書いてほしかったが、色々と参考になる話があった。

 特に、「平塚らいてうが、禅を経験していた」と言う話を、不勉強で知らなかった。ここから、一つ思いついたことは、

「西洋文明の不備を補うための禅体験」

である。このブログでも何回か書いたが、

「西洋文明は、一部を切りとって、厳密に議論する。
日本文明は、全体像を持っている人を求める。」

傾向がある。そこで

「自分が全体像を持っているという自信がほしい」

人が、禅に頼るのではないかと思う。確かに、座禅で、

「世界が自分のなかに入ってくる」

というような体験をすれば、

「私は全体像を持っている」

と強くいえるだろう。しかし、この強さが思い込みとなると、とんでもない暴走に通じる。西洋科学と禅のミックスで

「科学的宗教カルト」

に陥るととんでもない暴走になる。

 このような暴走対策として、大乗仏教では天台大姉が「止観」の修行を進めている。この点は、臨済宗の中興の祖である、白隠禅師も「法華経を学ぶ」ことで、毒の中和を図ったが、もう一度

「現在人が、なぜ座禅に惹かれるのか?」
「求めるモノは何か?」
「いわゆる『悟り』に危険性を考える」

という振り返りが必要だと思う。

2020年1月17日 (金)

日本的な論理思考

 論理的思考に関して、このブログでも何度も書いている。

 まずは、三段論法の使い方について

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_e3c4.html

 狭い意味の論理でなく、物語の使い方について

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_0101.html

 類推などの総合的な考え方とその可能性について

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-1edb.html

 仏教の顕教と密教の関係から

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-1203.html

等がある。

 これを見直すと、西洋文明の

 A ならば B (IF A THEN B)

A AND B,A OR B

等の論理だけでなく、類推なども論理と考えるように広がり、さらに、物語的に色々な動きを確認する思考法まで考えるようになった。しかし、思考実験と言う手法は、ガリレオ以来、西洋文明の科学的議論でも色々と使われているので、『日本的思考法』とまではいえない。

 さて、今回は、山本七平(イザヤ・ベンダサン)の『日本教』での議論も考慮して、日本的思考法をもう少し明確にできないか、考えてみたい。

 まず日本的思考法の根底には、大乗仏教の深い影響がある。もう一つは、無邪気なまでの『お上への信頼』がある。実はこの両者が、見事に絡み合っているのが、日本的論理思考の基盤である。もう少し具体的に言うと

「私たちより優れた方が、世界を準備してくださる。
その中で、私たちは『あるべき姿』を求める。
その世界を私たちは想像し、その上での物語を
試しながら考える。あるいは比喩を使うこともある。」

という形が、私たちの納得のいく思考法である。

 このような『理想の世界』を造る方法は

「色々なエピソードを持ち寄り、それを重ねていくことで、
登場人物の人格や舞台背景である自然環境などを明確にしていく。」


するとあるところで、登場人物が自動的に動きだす。この動きを知っている人を信頼し、その人に従う。これが日本的論理ではないかと思う。

 なお、このようなエピソードの持ち寄りから、人格を創造していく方法は、大乗仏教の経典の手法でもある。例えば、法華経には色々な物語が入っているが、これを聞いていると、

「この世界を創造する仏の智慧が何となくわかってくる」

瞬間がある。更にその智慧を自分も持つことができる。これが大乗仏教の教えである。

 ここで、西洋文明と決定的な違いは、

「絶対的な創造者の智慧を人間でも持つことができる。」

と可能性を信じることである。プラトンの洞窟の比喩や、キリスト教の神とこれが違うので、日本の場合には

「絶対神への契約」

という概念はない。

 逆に、

「誰か完全な智慧を持って皆を救ってくれる人がいる」

という無邪気な信念が生まれている。このような考え方の人間が集まる日本は、西洋人には理解不可能な面があるだろう。

 日本教については山本七平の著作「日本教について:イザヤ・ベンダサン」を参考にしてほしい。

2020年1月 5日 (日)

基礎の教科書の二つの形

 先日、大学の教科書について少し考えた。そこで気になったのは

「XXの基礎」

と書かれていても、2種類の教科書がある。つまり

  1. 基礎事項の項目を列挙しているだけ
  2. 本当に身につけておくべきことを絞って丁寧に教える本

である。特に、東大の先生が書いた本は、前者の重要項目を、洗いざらい述べる形の本が多かったように思う。つまり、

「これだけの基礎知識のない人間は、議論に参加する値がない。」

と言うラインを示している。確かにこれは、

「基礎のラインを示す本」

である。しかし、これでは上滑り知識をそろえただけの人材を作る危険性がある。一方、懇切丁寧な基礎の本は、確かに入門にはよいのだろうが、いつもこのような本を求める人材なら、自分で切り開く力がなくなっていく。また、丁寧な基礎作りのためには、

「狭く深くなる」

傾向がある。確かにきちんとした土台作りのため、狭くてもよいから深く堀る必要はある。しかし、広く全体を見ておかないと足元をすくわれる。ある程度土台ができれば、

「基礎として必要な物を網羅した本」

で整理することも大切である。現在のネット社会は、このような全体像を描くことも弱いし、深く掘る力も弱くなっている。 

2019年11月28日 (木)

ファンタジーが厳しい現実に向かい政治家がファンタジーに浸る

 昨日書いた、人間や社会の成長を描くファンタジーである、「十二国記シリーズ」

 https://www.shinchosha.co.jp/12kokuki/

や「守り人シリーズ」

 https://www.shinchosha.co.jp/moribito/

のどちらにも、

「祈りだけの平和主義に対する拒絶」

と言う厳しい面がある。ネタバレになるから詳しくは書けないが、どちらにも

「平和のための清らかな存在が、自分たちのために戦って国を守る」

と言う話が出てくる。

 さて、このようなファンタジーの世界では、厳しい現実に向き合っているが、日本の現実の政治家を見れば

「平和憲法という清らかな世界」

は守られるという人が少なからずいる。

 ファンタジー小説より、ファンタジー的な政治家がいる。これは、悲しい現実ではないかと思う。

 もっとも、これらのファンタジー小説の著者は、文化人類学や宗教的な面、中国の歴史などにも造詣が深いので、単なるファンタジーより

「社会制度の思考実験」

的な要素もある

2019年10月29日 (火)

流されない「情に棹さす」方法は?

 昨日の続きで、流されずに「情けに棹さす」方法について、もう少し考えてみた。

 私の考えは、

「情けに感性が深いのはよいことだが、
狭い範囲しか情けをかけられないの困る」

と言う発想である。

 他人に対して、優しくないなら、「知の暴走」となりかねない。人の痛みを感じないといけない。しかし、一部の経験などに振り回されることは、大局的な被害につながる。例えば。

「予防接収の副作用被害の訴えに押されて禁止した。」
その結果
「多数の病死者が出た」

と言うような事態も起こりうる。

 確かに、副作用の被害者への対応は必要だが、その感情に流されて、大局を失なってはいけない。 

 その解決は、広く人を見ることが大切だと思う。特に、現在だけでなく、将来の関係者も考慮する必要がある。

 一方、智慧を巡らして、できるだけ多くの解決案を考えるコトも有効だと思う。

2019年10月28日 (月)

角が立たない『智の働き』とは?

 「智に働けば角が立つ」は、夏目漱石の草枕の冒頭で有名な一節である。しかし、現在の日本社会を見たら

「智が働かないで威張っている」

人が多くいるように思う。

 確かに、知識を振り回して、「角が立つ」人も少なくない。逆に

「とがった人を求める」

と、

「少々のトラブルを起こしてもできる人がほしい」

と言う発想もある。

 しかし、私は

「角が立たない『智の働き』がある」

と考えるようになった。

 それは、

「単なる知識保有ではなく、全体を見渡して生かす智が働いている」
「必要に応じて説明できる」
「皆への気配りも感じる」

智の働きである。

 このような智は、大乗仏教の仏の智慧でもある.

「親の立場で全てを観て、皆が善くなるように考える」

このための『智慧』である。

 漱石の時代は、明治の文明開化で、西洋文明の影響が多きい。そこでは、『新しい知識保有の優位』があって、『知識をひけらかして衝突する』人間が多くいただろう。もう一つ言えば、西洋哲学にかぶれて『プラトンの洞窟の比喩』の呪縛にかかって、

「人間は完全な知恵など持てない」

と居直り、自分の見解だけを強く主張する人間が多かったように思う。

 現在は、もう少し「角の立たない智慧」を使うことを考えるべきだと思う。

2019年10月20日 (日)

「音楽を外に連れ出す」ために必要なモノ

 昨日に続いて,「蜜蜂と遠雷」から感じたモノを書いてみたい。

 この作品のテーマに

「(自然界に満ちあふれている)音楽を外に連れ出す」

と言う考えがある。

 これは、自然の恵みを受けると言う大切なことである。

 しかしながら、人間にとっては、これは大きな負担になることもある。世界は音にあふれている。そのあふれている音に向き合い、その中から『音楽』を見つけ出す。この負担をもう一度考えないといけない。無数の音、その中にある秩序を見いだす。もう少し言えば、無数の音の中から、一部のモノを選び、それを組み合わせて音楽にしていく。音楽に値するモノを、選び引き出す。

 今までのしがらみを捨てて、全てと向き合った上で、自分の感性だけを頼りに、もう一度選ぶべきモノを決める。『決める』というと、理性の働きに聞こえるかもしれないが、全身で反応し『感じる』べきモノだろう。

 この段階の苦しみに向き合う覚悟と力が、創造には必要である。

 しかしながら、毎日このような、全てを受け入れる対応をしていれば疲れてしまう。実際、HSP(高感覚処理感受性)と言う人たちの苦しみについて、色々な議論がある。

 私はこの問題に関しては、大乗仏教の唯識の教えが、解決のヒントになると思う。唯識では

  1. 表面的に出てくる意識(前六識)
  2. 前六識に登るモノを選択するマナ識
  3. 全ての知識体験等が入っているアラヤ識

の存在を考えている。つまり、私たちが意識に登らせ考えているモノは、世界の全てを認めたアラヤ識にある情報を、マナ識で選択した結果と考えている。このマナ識の作用が無意識に行われることで、偏見等の発生があると考えられている。

 しかし、私は『マナ識の選択作用』こそ、人間が楽に生きていくための知恵だと思っている。あまりにも多量の情報に触れるのではなく、必要なモノだけを感じることで、楽に生きていくことができる。

 もう一つ大事なことは、このような『マナ識』の作用は、ある程度コントロールができるのである。私自身、諸般の事情でHSPの傾向があるが、今までの経験や知識を生かして『マナ識』の選択能力を上げる様にしてきた。また逆に、色々と新しい発想が必要になれば、『マナ識』の選択作用を、『眠らせる』ことで、色々な発想を引き出している。

 このような、『マナ識』の存在を意識し、そのコントロールを考えることが、創造と日常生活の両面に役立つと思う。

2019年10月14日 (月)

「ティール組織」について

 日経BP社のHP等で,色々と気になる記事があったので,英治出版の

「ティール組織」

を読んだ。

 確かに,色々と考えるべきモノがあり,仕事の上でのヒントもあると思う。しかし、何か違和感も覚えた。この理由を考えてみると,色々なモノが見えてきたので書いておく。

 まず、著者は『進化』という言葉を使っている。つまり『管理』と称している機能、スタッフ機能がなく,それぞれの自主性に任せ、関係者が助言して育てていくシステムを,従来のシステムより『進化』した『ティール組織』と称している。もう少し言えば,『ティール組織』でないと、『進化』できないという風に読み取れる。私はこの意見に違和感を感じた。

 その理由を考えてみると、私自身の昔の経験があると思う。1980年頃、私が30になるかならないとき、ソフトウエアの専業の子会社設立に当たり出向して、一つのグループを預かったことがる。そこでは管理者としてグループを運営した。しかしながら、当時の管理についての考え方は現在のように完成されていない。そこで私が取った運営方法は以下のようなモノである。

仕事の状況の全体像は皆で共有する
お互いの仕事への助言は行う
リーダーの私の技術力は皆が認めているので私の判断には皆が従う
(ただしそれまでに皆が言いたいことは言う)
他部門より利益が大きいので上司およびよそから文句は付けさせない
リーダー不在時の代行順位は明確で、対外折衝も含めて代行者が対応する

という感じで、総合的なビジョンを共有したフラットな組織である。これは、『ティール組織』と同じではないかと思う。別に、IT技術があるがなかろうが、このような組織運営は、できると思う。

 更に言えば、ベンチャー企業などの立ち上げ時にも、同様に皆が情報と責任を共有した運営となっていることが多い。また、大規模化に関しても、『小集団活動』『QCサークル活動』などの現場単位での情報共有と参加意識から責任の分担が行われている。

 一方、従来型の管理でも、トヨタの事例のように

進化する官僚制

という進化・適応が行われている場合もある。

 このように考えると、この本の内容を丸呑みして、信じ込むことは危険だと思う。

 ただし、この本には色々なヒントがあることも確かである。

 私が面白いと思ったのは、『組織のOS』という発想である。これは私は『組織のスキル』として前に書いたモノに近いと思う。例えば以下のブログから一連を参考にしてほしい。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-33353c.html

 また、もう一つ大事なことは、管理者の交代による組織の崩壊である。これは私の反省でもある。情報共有よりは、情報独占で威張りたがる管理者が多い現状は、やはり知っておくべきだった。そうして部下を守る手段を考えなかった。これは私の背負う十字架でもある。

2019年9月 6日 (金)

パロディ 週刊○スト しっかり文章を読めない『日本人という病理』 

 週刊ポストの記事に対する色々な反応を見て,思わず作ってしまった駄作です。

 日本の国会では、多くの議員は

週刊B春や週刊S潮の記事を信じて質問する。」

状況であり、しかもその大部分は

本文を読まずに広告の表題だけ

で質問するレベルである。

 なおこれは国会議員だけの話かと考えると、某新聞の記事によると、

週刊誌の記事に反発する『知識人』達も
広告を見ただけで反対している

と言う人が多い状況である。

 また、マスメディアの中にも

XX日発売の週刊誌の記事によると!」

と言う形で報道している場合も見かける。自力で取材するというメディアの基本が失われたのか、権力におもねって報道を控えていた情報を,出すタイミングを週刊誌任せにしている。つまり、『報道者や編集者のプライドを忘れた』人が多くなっている。

 ここまで,情報があると、

文章を読み込めず広告文書に自動反射する日本人の病

という記事を載せてくれる週刊誌はないかな?

 なお、このブログの特徴である,原因解明をきちんとしておこう。このような状況の一つの原因は、

就職試験は高速に大量の情報を処理する能力を重視する

にあると思う。表題だけで内容を推測し,反射的に行動する。このような人材を重視するのが

日本人という病理

だろう。

2019年7月30日 (火)

古代の日本の歴史の勉強し直し

 #中公新書 #古代日中関係史 #河上麻由子 著 を読んだ。

 色々と気がつくことが多く、不勉強な我が身を恥じるばかりである。特に、

「仏教が統治手段となっていた」

と言う話は、目から鱗である。今まで、科挙のイメージで、儒教が統治手段として使われることは、ある程度感じていたが、この本の書いているとおり、「菩薩戒仏弟子皇帝」という形で、仏教による民衆支配があったことを、今回初めて知った。また、周辺国への支配手段としても、仏教関連の色々なモノを与えるという形の有効性もわかった。

 個別の話では、p52の

「百済のように、皇帝が作成した経典の注釈書を下賜品に求める国」

と言う一節に興味を引いた。この文脈で考えると、聖徳太子の『法華義疏』は、もう少し外交上の意味を持つのではと思う。つまり、我が国の独自性として、

「大乗経典の解釈書を自ら書くレベルの国」

としての位置づけである。

 ただし、色々な先生が指摘しているように、法華義疏の文章は、中華文明の文章に値するかは疑問である。下手な文章を示すことは、中華文明での外交では致命傷になる。つまり、

「下手な文章=文化程度が低い」

との判定である。

 また、もう一つ、私の意見を言わせてもらえば、

「法華義疏の法華経理解は浅い面がある。具体的には、既存小乗との違いである。
具体的には、法華経安楽行品の解釈で
『少乗の禅師に親近すべし』
と解釈しているが、当時の小乗の『不浄観』は、法華経の最も嫌うものであり
『親近せざれ』と経典通りの解釈が正しいと考える。」

なお、この部分は、聖徳太子の解釈は「顚倒した分別の心が有る由る」ため『親近せざれ』ということと、訳者の花山信勝の説明がある。
(7/30追記)

と言う感触を、随の人々も持ったのではないかと思う。このような理解の浅さを、露呈すれば、

『無礼な振る舞い』

と扱われる可能性は大きいと思う。

より以前の記事一覧