ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

2020年9月23日 (水)

専門家と一般大衆の両方が満足する政治

 今回のコロナ危機の対応を見ても、専門家の意見と大衆の感覚に、ずれがあるような場合が多い。本来、専門家の意見を、総合的に見て判断するのは、政治の役割であるが、現在の政治にはこれが上手くできていないように思う。もう少し言えば、

「専門家の扱い方を政治家が理解していない」

為に、色々な問題が起こっている。

 さて、この問題に関して、本質的な理解をしているのが、元大阪府知事・大阪市長の橋下徹である。かれは

専門家の厳密な議論は大切にしないといけない。
しかし、全体的な判断は政治家が方向付けをしないといけない。
また、一般大衆が「言葉上手くいえないが不満を持っている」時にはそれを大事にしないといけない。

と、専門家・政治家そして一般大衆の関係を、きちんと考えている。ここで、専門家と一般大衆の感覚について、彼が昔ある番組で、裁判員裁判制度に関し発言したコメントが本質だと思う。

プロ裁判官や法律家は、罪の認定等の専門的な議論は、きちんとできる訓練を積んでいる。しかしながら、一般大衆の感覚も重要である。例えば、
「飲酒運転」
に対して、法律の専門家の議論なら
「酒の影響で判断力低下したから、故意ではない、従って減刑の理由になる」
という方向になるが、一般大衆の意見は
「飲酒して運転すること自体が厳罰にすべき」
であり、この感覚を大事にすべきである。そのため、裁判員制度で意見が出るのは望ましい。

このように、大衆の意見が方向付けて、専門家がそれを実現する。このような政治が必要ではないかと思う。

2020年9月21日 (月)

大坂なおみの苦しみを理解するためには

 アメリカで活躍している、テニスプレイヤーの大坂なおみが、アメリカの人種差別による被害者の名前をマスクに書いて、戦っていた。

https://naomiosaka.com/special/

 私たちが、彼女の背負っている物を理解するためには、アメリカの奴隷制度の歴史を知らないと行けない。例えば、マークトウェインの「まぬけウイルソンの悲劇」を読んだら、アメリカの奴隷制度で、『黒人』と判定された人たちの人権が蹂躙されていたか解るだろう。

 

更に踏み込めば、西洋文明における奴隷制度の位置づけも、知っておくと理解が深まる。古代ギリシャの時代から『民主制度』があったと言うが、その『民主制度』は、『奴隷制度』の上に成立していた。これを理解していないと、西洋文明の支配者と支配される人間の関係が見えてこない。

 また別の面から考えると、進化論等の『科学的思考』も、『人種差別の理論的根拠』として使われていた。

 西洋文明の、人種差別は『科学的根拠』というカルト的な信仰の上で、成立していた。

 このような歴史を踏まえた上で、大坂なおみの悲痛な声に向き合うべきだと思う。

2020年9月19日 (土)

東大法学部の力とその限界について

 国家公務員の働き方に関して、河野大臣が何かメスを入れるらしい。これはよい事だと思う。しかし、国家公務員の過労状況に関して、ここでもう少し踏み込んでみたい。まず明治の国家公務員育成に関してであるが、先に帝国大学法学部ができて、その後官僚組織ができていった、歴史的経緯を抑えておく必要がある。つまり、国家公務員は、東大法学部出身者を前提の、働き方を考えていた。

 さて、東大法学部出身というのは、どのような力を持っているのだろう。私は、1冊の本がそれを物語っていると思う。

 

この「法学の基礎」は、「法学の土台」とも言うべき本で、法律を作るための配慮すべきコトなどを、網羅している本である。このような、基礎教養を持っていれば、法律に関する検討も、比較的短時間でできるだろう。昔、ある番組で橋下徹弁護士が

「霞が関の官僚は、法律を作るときに、大宝律令まで調べる」

と半ば揶揄していた。しかし、国民の権利に関して整合性を取るなら、既存の法律の立場を調べるのは当然であり、行くところまで行くと律令制度まで行く。これを納得し、要領よく調べるのが、「法学の基礎」などで鍛えられた人財だろう。

 このように考えると、こうした「基礎的な配慮」のできない人材が、長時間労働で苦しむ状況が見えてくる。

 ただし、この発想は、「法学の基礎」で、要領よく仕事をしようとする人間にも、ブーメランで還ってくる。現在の歴史研究では、律令制度の時代でも、実質の「公地公民」は不成立な部分が多く、私有地などの「律令の抜け穴」が多く存在する、という意見がでている。これを踏まえると、

「前例検討で、大宝律令を調べた」

だけでは済まなくなってしまう。こうして、新たな残業地獄が生まれる可能性が出てくる。

2020年9月16日 (水)

実現重視の日本と体制から入る西洋文明

 先日書いた、明治の日本の近代化

「先に人材育成を行って、その後役所を作る」
例えば
「帝国大学が先にでき、その後に文部省ができた」

という風な、

「実現のための人材育成を先に行い、人材が揃えばその後は組織を作る」

発想である。これは

「組織を先に作り、人材を募集する。調達する。」

発想とは根本的に異なっている。この発想について、議論していくと面白いモノが出てくる。まず、明治維新に関しては、

「松下村塾など、人材育成の場が、社会を変える母体になっている」

という面がある。しかし、これだけではない。日本人の発想の根本に、

「全体を観て、実現可能性をきちんと考え、その後で実行する」

がある。今回のコロナ対応でも

「PCR検査を抑える。なぜなら、陽性者を受け入れる体制が整っていない。」

という発想で、諸外国から

「日本のPCR検査比率は低いので、発症者数は怪しげ!」

という批判を、のらりくらりと躱しながら、医療崩壊を回避した行政手腕がある。

 このような、

「実現体制まで、総合的に観てから動き出す」

体質は、日本の美点である。ただし、

「緊急事態への対応が遅れる」

リスクをきちんと認識しないと行けない。

2020年9月14日 (月)

社会科学の実用化に関して

 先日から書いている、

「学問をする価値」

に関連して以下の問題を考えてみた。

「自然科学は、物理学から工学という実用の流れがあった。社会科学にそのような流れはあるか?」

この問題に関しては、昭和の時代なら一つの答えが出てくる。

「マルクス主義に影響を受けた、学校教育は忘れてもらって、社会に出てから実務を習う。」

という事で、

「文系の学生に関しては、学生時代の勉強を無視する。」

という流れができていた。ただし、一部の法学部系などでは

「法学部の論理能力を生かす。」

という面もあったが、これは例外に近い。

 その後、平成の時代には、

「アメリカ仕込みのMBA(経営学修士)手法を生かす」

という形の、大学教育が即戦力という面が出てきている。簿記などの資格取得も一つの流れだろう。(平成の終わりには、マルクス主義が収まった事も影響している。)

 しかし、もう一歩進めて、

「社会科学をベースにして、社会のシステムを提案する、社会技術や社会工学はないのか?」

という疑問が、まだ残っている。

 この問題に対して、栗本慎一郎が面白い意見を出している。

明治の体制では、大学を作ってから、文部省ができた。法律に関しても、法学校を先に作った。

社会工学などという発想でなく、その場に対応した政策が行われた。

これは本質を突いていると思う。また「社会技術」という本も出ているので、もう少しこの問題を考えていきたい。

2020年9月12日 (土)

納得と理解の違い

 昨日の話に関連して、「論争・学力崩壊」では、

  1. 理解型の子供
  2. 納得型の子供

の違いについて、少し取り上げていた。私はこの問題は、社会の分断に関連して議論すべきだと思う。

 まず、理解型の子供は、

先生などから与えられた範囲で、きちんと学んで理解しようとする。

ので、効率よく学校教材を吸収していく。しかし、理解が上滑りになる可能性がある。

 一方、納得型の子供は、

学校で学ぶ事を、自分の体験等に照らし合わせて、納得しようとする。

ために、学問の吸収速度は遅くなる。しかし、一度納得すると、本質的なモノまで解っているので、応用も利くし新しい事を実行する可能性もある。

 さて、社会の分断という観点で、この問題を考えると、昭和の時代、特に高度成長の前には、中学の教育までには、

「納得を重視した面」

もあった。例えば、中学で学ぶ幾何学は、

「まず図形を描き、それを移動して重ねる事で、合同の概念を教える」

という、『直感重視』の教育から、徐々に定義や定理の証明に入っていった。これが、数学教育の偉い先生方が、

「幾何学を厳密に教えないと行けない」
「幾何学ではだめだ、整数論がよい」

等と言い出して、しかも田中角栄の教員の処遇改善で、高学歴教師の増加が起こり、一気に

「厳密なる公理系による学問を理解させる」

流れになったように思う。ここでは、学問は

「専門的手法をきちんと行う」
コトを重視し
「直観的に理解し、納得する」
コトを軽視する。言い換えると
「素人は口出しするな、専門家に任せろ」

 というう空気になってしまった。この結果、

  1. 厳密なる体系での推論を行う専門家
  2. 学問の価値を認めない大衆

の分断が進んだのが平成の時代ではないかと思う。

 しかし、数学の厳密さの前に、直観的な納得を求める幾何学も大事だと思う。更に言えば、

「けんかの道具でなく、社会の全体像を見せる社会学」

等も、必要ではないかと思う。これらが上手く働く事で、大衆参加の社会委運営になり、そのための学問知識を得る人が増えるようになると思う。

2020年9月11日 (金)

学力崩壊と社会の分断は関連しているのではないか

 少し古いが、中公新書クラレの「論争・学力崩壊」を読んだ。色々と気づきがあったので忘れないうちに書いておく。

 この本でも指摘しているが、

「日本の高度成長を支えたのは、中流階層の知的な力による」

という観点は、私もメーカーにいた立場で納得する。QCサークル活動など、現場力として色々な人が貢献していた。

 しかし、現在の学力崩壊は、そのような「一般教養」が危うくなっている。この理由は

  1. 教える側の問題としての時間削減
  2. 教わる側の問題としての意欲低下

の両面がある。

 さて、私が注目するのは、教わる側の意欲低下についてである。ここでもう一歩深掘りすると

「高度成長時代ぐらいまでは、一般人の参加の余地があった」

という感触がある。しかし、いつの間にか

「専門家の社会に口出しするな」

という空気が生まれた感じがする。このような

「専門家と素人の分断」

から、

「素人は学問しても発言できない」
「学問の価値がない」

という流れになったのではないかと思う。

 この流れをもう少し見ると、

「昔は、素人に解る直観的説明を大事にしていた」
  例えば、定規とコンパスの幾何学
「現在は、専門家の厳密な議論法を重視いている」
  ヒルベルトの公理系による幾何学

という風に、

「専門家の学問を重視し、一般人の直観的理解を排除する方向へ、教育が向かったため学問の分断を生んだ」

という仮説である。

 専門家の地位は、それなりの評価が必要だろうが、一般の理解という裾野を軽視していると、学問自体の存続が危なくなると思う。

2020年9月10日 (木)

専門家の暴走について

 今回のコロナ騒動において、一部の専門家が

「このままで行くと~~」

という過激な発言を行っている。

 この問題に関して、きちんと評価する人が少ないように思う。実は、この問題を一般化して考えると、

「ポジティブ・フィードバックによる爆発モデルによる予測」
しかし
「資源の枯渇等の外部環境変化で爆発までに収束する」

という状況があてはまる。つまり

「現状の延長なら、事態は雪だるま式(ねずみ算式)に悪化していく」

であるが、現状の環境が、どこかで変わってしまう。例えば

「ねずみ算というような、生き物の異常発生なら、餌がなくなって死滅する」
例えば
「バッタの異常発生は、餌がなくなれば死滅する」

様な話である。昔、ローマクラブが地球の環境問題で予言したときにも、このようなポジティブ・フィードバックのシミュレーションが使われていた。そこでも、シミュレーション前提の変化を見過ごし、結局予言外れになっていった。

 このように、

「専門家の意見をきちんと評価し、限界を見ながら使える部分を生かす」

このようなスキルを、私たちは身につける必要があると思う。これが本当の教養ではないだろうか?

2020年9月 7日 (月)

日本の意志決定機構についてどこまで公開されているか

 諸外国の人たちには、日本の意志決定機構がわかりにくいと、言われる事が多い。先日は、自民党の意志決定機構が見えないと書いたが、これは自民党に限った事ではないように思えてきた。

 もっと言えば、裁判や国会審議でも

「予定調和の筋書き通りの芝居を見る」

コトが多い様に思う。もっと言えば、

「江戸時代の御前将棋は、事前に対局して、その結果を並べるだけ」
(考慮している時間を見せて待たせない)

という雰囲気で、

「綺麗事の場面だけ見せる」

ことになっている。

 もう少し言えば、

「日本の権力の役割」

についても、

自分の意向を前に出して引っ張る
「西洋文明のリーダーシップ」

と違うモノがある。日本のリーダーは

「皆に意見を言わせて、それを採用する」
「皆の意見を承認する」

機能が重視されている。従って、

「リーダーからの発言はない」

という形が多くなる。

 なお、明治維新の時のように、

「極論対立でどうしようもないときには、天皇陛下のご意向が決着」

という事例もあるが、これは混乱時の例外的なモノだろう。(室町時代は、幕府の仲裁機能が弱く混乱を招いた。又幕末に関しても、幕府の蹴って気力が無くなったから混乱した。)

 このような、権力の見方は、西洋文明と少し違っているように思う。

 

2020年9月 6日 (日)

弱者の優しい代弁者が存在するか?

 昨日の話で、

「弱者の代弁者」

という問題を思いついたので、忘れないうちに書いておく。昨日の議論では、国会議員である杉村太蔵が、同じ国会議員の石破茂に馬鹿にされたというレベルであり、馬鹿にされた方にも問題ありと処理してもよいだろう。しかし、これが一般国民の問題と考えると、色々と広がってくる。

 まず、一つ目の問題は、

「本当に困っている人の状況を、きちんと伝える人が必要」

である。しかし現状では、これが上手くいかない。理由は、

「論理的な意見をいえるという、スキル面だけで代弁者になる」
「極論や過激な発言する代弁者が少なくない」

という側面がある。

 例えば、予防接種の副作用で、苦しんでいる人がいる。この人に対しては、医療的側面、心理的側面、生活的側面などで色々と支える必要がある。しかし、

「副作用が生じるから、予防接種を禁止すべき!」

という極論を言う人が、

「被害者の代弁者」

として振る舞う事で、結局

「予防接種の効果で救われる命を奪う」

という事態になってしまう。このような機会損失に関しては、被害の申し立ても難しいので、極論がまかり通っていく。

 この問題を考えると、親的な発想で、弱者の代弁をする人材を、もう少し育てていくべきではないか、言うなら

『穏やかな社会学者』

が必要ではないかと思う。

より以前の記事一覧