ご縁のあった人たち

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2020年1月 6日 (月)

地域創生のためには過去の清算が必要

 昨年末の紅白を見て、石川さゆりの「津楽海峡冬景色」を聞いたら、

「上野発の夜行列車も、青函連絡船もなくなっている。」
「この歌が見ている風景はもうない。」

と強く感じた。更にここから思いついた歌が

1964年、伊沢八郎の「ああ上野駅」

である。この歌が見た世界は、中学卒業したばかりの子供達が、集団就職で東京に出てくる姿であった。このような子供が親元を離れて働きに出る。この理由は

「当時の高度成長では、工業化が進み多くの職人をそろえる必要があった。
そこで中学卒業などの若い世代を訓練し、終身雇用で抱え込む。」

と言う、高度成長が背景にあった。ここで、「ああ上野駅」の時代には、親元を離れることへの寂しさや、抵抗があった。

 そこで通産省などが取った政策が

「憧れの東京戦略」

である。つまり、

「憧れの東京に喜んで出てくる」

「空気」を日本中に作ったのである。例えば、地方年にも「XX銀座」という通りを作る、これで

「まがい物の東京」

に慣れている人間は、東京に出ることに喜びを感じるようになる。その一つの成果が

1984年 吉幾三「おら東京さ行ぐだ」

である。

 このように、通産省などの頑張りで、東京の憧れをあおった後遺症が現在も残っている。

 この過去の清算をきちんと行わないと、地域創生は難しいと思う。

2019年5月31日 (金)

日本の正当防衛の範囲について 「トロッコ問題」で考える

 川崎で痛ましい事件が起こった。このような問題が起こるとき、私が歯がゆく思うのは、日本の法制度の正当防衛の厳しさである。つまり

「逃げられるなら逃げないといけない。逃げることができない条件のみ正当防衛が認められる。」

という条件である。

 しかしながら、この条件に関してはかなり厳しいものがある。今回の事件でも分かるように、多くの人を無差別の殺傷するような相手なら、

「自分一人逃げても他の弱い子供などが被害にあう」

状況になる。

 さらにもう一つの条件がある。許される反撃は最低限という条件である。つまり、できるだけ致命傷を与えないという条件である。しかし、この表現は、実情を知らない人間の発想に思える。

「加害者の精神状態が常軌を逸している場合には、普通の人間が感じる痛み程度では、行動を制することはできない。」
つまり、片手を骨折させても、別の手で刃物を振ります可能性もある。

このような異常な状態への対処が必要になる。

 さてここで、一つの思考実験をしてみよう。

貴方が、道を歩いていた時、前方から刃物を振り回した男が突進してきた。
貴方が、今来た所、つまりこの男の突進先には、小学生の集団登校の列があった。
貴方は、傘を持っていた。

さてここで貴方の行動はどうなるだろう?

まず最初に「何をしているのだ」と声をかける。
これは必要だろう

しかしそれでも突進するときどうする

私なら仕方ないから、傘の先で容赦なく彼ののどを突く

このような相手は、普通の制止法では間に合わないので、確実に戦闘力を奪う、突きの一撃に賭ける。

 さて、ここで私が、副題に上げたトロッコ問題である。私が『トロッコ問題』と言った意味は以下のとおりである。

私が、行動することで、多くの子供に被害が及ぶ可能性を少なくできる。
しかし、私は「過剰防衛」などの罪に問われ、これからの人生を棒に振る可能性がある。
行動せずに「何もできなかった」と言い訳していれば、罪に問われることはない。

このような、自己利益に関する問題として、トロッコ問題を考えることも重要だと思う。

 現実に、学生が痴漢にあったとき、犯人を追いかけても、ほとんどの人が協力しなかった。この現実を考えるべきだろう。

 このためには、法運用の正当防衛に関して、もう少し広げるべきだと思う。

2014年3月12日 (水)

日本の音楽について

 佐村河内・新垣ゴースト問題に関連して、日本のクラシック音楽界の、窮状が見えてくる。つまり、かなり有能な作曲家でも、今回のような売り込み手段を使わないと、売れなかったという現実である。
 しかし、考えて見れば、クラシック音楽は、明治時代に、無理やり導入したものである。鹿鳴館の騒動から、学校教育で大衆に押し付けたことを踏まえて、民衆に根が生えたものであるか、もう一度考えてもよいと思う。
 そもそも日本に根がついていた音楽は、雅楽を始め、謡曲などの舞台での演奏、そして村祭りに皆が歌い踊ったものがあった。
 それを明治の文明開化で、西洋文明を上から押し付ける形で、西洋音階も押し付けてしまった。一方、村祭りに関しては、国家神道という形で、本当に民の親しんだ神様を、壊してしまった。修験道を壊し、仏教徒無理やり分離して、本来の日本の神様のある形を、壊してしまったのである。
 しかし、この民族の求めているものは、どこかで復活すると思う。大阪落語がしぶとく生き残っている。そのお囃子も当然生き残る。彼らは、国の補助金などはあてにせず、自力で繁昌亭を作ってやっている。
 この力の差が、他所からの借り物と、自前の力の差ではないかと思う。

2014年3月10日 (月)

佐村河内氏ゴーストライター問題(もう一つの観点)

 佐村河内ゴーストライター事件で、当人の記者会見を見て、まだ怪しげなところが多すぎるが、一つ気になる点が出てきた。佐村河内著と言うことになっている、「交響曲第一番」の初めの方には、ピアノの練習風景などが、かなり詳細に書いてある。
 ここで、新垣隆氏の記者会見では、佐村河内氏のピアノ能力を、低く評価していた。つまり、新垣発表を信じれば、「交響曲第一番」のピアノ関連部分は、佐村河内当人には、書けないと言うことになる。さらに、自伝向けのゴーストライターがいたとしても、この部分の音楽的な記述は、色々と整合性が取れすぎている。
 このような状況を考えると、佐村河内会見で彼が言った、「交響曲第一番」の著作に、新垣隆氏が関与したとみるのは自然ではないかと思う。つまり、新垣隆氏の手も、もっと汚れている可能性がある。佐村河内という人形を、売り出すチームとして動いていた、新垣隆という図式である。
 しかし、このように新垣隆氏の手が汚れていても、作品自体は音楽として、もう一度評価してもよいのではと思う。

2014年2月 9日 (日)

佐村河内氏ゴーストライター問題(補足)

 前に書いた、佐村河内氏のゴーストライター問題に関して、2つほど疑問が出てきたので、思うところを書いておく。
 まず、彼の聴覚とテープの問題であるが、彼の夫人が噛んでいた可能性である。つまり、複数の候補から良い方の曲を選ぶ能力は、彼ではなく夫人が保有していた。この場合、聴力がなくてもテープを欲しがる理由が明らかになる。
 ただし、創造的な仕事をする人が、家族の意見に従うことはよくあることである。これは、通常なら許される範囲ではと思う。ただし、全聾の作曲家と言うことを、売り出した以上は、聞こえないのに判断しているという言い方には、誇大広告の要素がある。
 さて、もう一つ議論したいのは、彼名義の本である。K社から出版しているが、元の文章の手直しした、いわゆるゴーストライターがいたことは間違いないだろう。この『ゴースト』に関しての追求はどうなるのだろうか?

2014年2月 7日 (金)

佐村河内氏ゴーストライター問題

 佐村河内氏ゴーストライター問題については、新垣氏が作曲者として名乗りを上げて、新展開を迎えた。
 しかし、まだ解明しないといけない問題点が色々ある。
 まず、佐村河内氏側の問題として、彼の聴覚は本当はどうなっていたかである。新垣氏の言っていることが正しいならば、佐村河内氏が、テープ録音を聞いて評価したと言うことになっている。読唇術は、テープでは当然使えない。従って、彼の聴覚はある程度は機能していたと言うことになる。
 ここでもう一つの仮説がある。第3者の介入である。つまり、テープを聞いて評価したもう一人の人物の可能性である。この点についても解明してほしいものである。
 ただ私個人の感触では、佐村河内氏の聴覚はある程度機能していたと思うっている。理由は、彼の話し方である。聴覚に障害が後天的にしろ出た場合には、発生に乱れの出ることが多い。これが感じられなかったことが、一つの根拠である。
 さて、もう一つ大事なことは、これを扱ったマスメディアの対応である。
 朝日新聞の記事では、彼について今まで書いたことを抹消するといっていた。これで本当に良いのだろうか。間違った記事を流した場合には、後々注釈をつけて、これは誤報でしたと書き残すべきと考える。自分たちの失敗を、なかったものとする姿勢は、戦前の戦争協力の口を拭い、しれっとしてA級戦犯追及に向かった、戦後の新聞社の姿勢にもつながるものと思う。
 なお、CDの発売停止という話もあるが、このCDの演奏家たちの権利はどうなるのであろう。嘘言って販売した責任はあっても、演奏家たちの成果を抹殺する権利は、レコード会社にあるのだろうか。
 色々な観点からの議論が必要だと思う。

2012年6月17日 (日)

歌手の力

 昨日のTV朝日で見た「関ジャニの仕分け」で

「カラオケの得点で
歌手に勝てそうな歌うま芸能人を仕分けろ対決」
http://www.tv-asahi.co.jp/kanjani-shiwake/backnumber/046.html

を見たが、非常に面白かった。

 特にすごいと思ったのが、2人の歌手の対応の仕方である。
 第2戦の
   歌手:misono VS 歌うま芸能人:モエヤン・久保いろは
   課題曲 ♪タマシイレボリューション Superfly

 のmisonoさんの歌は、さすがに本職と言う、何か訴えるものがあった。カラオケ機械の採点に合わせるが、歌手としては絶対譲れないものがある。このような矜持を感じた。結果としては敗れたが、これはカラオケ機械がまだそこまで進化していないとみたい。

 しかし次の対戦はもっとすごかった。
   歌手:中村あゆみ VS 歌うま芸能人:LiLiCo
   課題曲 ♪HERO 中村あゆみ
この場合、自分が作詞作曲したという立場を捨て、カラオケ機械の採点にきちんと合わせて、勝ちに行った執念が実ったとみたい。これを見て思ったが、彼女はライブでの公演経験が豊富だと思った。その立場で考えれば、聴衆に合わせる歌い方もできるのであろう。その応用でカラオケ機械を聴衆としてみれば、そこまでできる技量を彼女が持っていたので当然の勝利であった。

 最後に、ここまで採点できる、カラオケ機の能力にも敬意を表したい。

2012年6月10日 (日)

右手と左手の関係

 ピアノの演奏では、右手と左手の曲は、独立なのか、一体化しているの、少し考えてしまった。
 一体化した曲の一部として両手の協力でできているのか?
 2つの曲の絡み合いで新しいものが創発しているのか?
これはどちらもありそうな気がする。
 しかし、一人の人間が、手は2本あるとは言っても、2つの別々の曲を弾けるのであろうか。
 そこで思い出したのが、記憶が定かではないが、心形刀流の「無拍子」に関する、一句である。

「無拍子は二刀を用いる始めなり」

これは、両手に大小の刀を持ち戦うとき、左右の手が独立に動くことを示していると思う。このようなことは可能である。人間の体にはまだまだ可能性がある。それを単に両手があるから、それぞれの手に刀を持つというのではない。

 しかし、それぞれの手が、独立に動いていても、それを離れた立場で統一した目で観る力の存在も忘れてはいけないと思う。

 安易なレベルで満足せず、本物を求めることが大切だと思う。

2012年5月 5日 (土)

指揮者は審神者

 昨日のNHK総合テレビで、オーケストラの指揮者を育成する場面があった。これは、色々な面で共通する大切な話があるので、記録しておきたい。
 まず、指揮者は自分の持っているイメージを、熱意をもって楽団員に伝えないといけない。何物か伝えるべき値するものがないと楽団員はついてこない。このために、リハーサルでのコミュニケーンが必要である。次に、リハーサルで楽団員の音が変化した時、敏感に反応しないといけない。褒めるまで行かなくても、良い音を認める。これが楽団員に伝わることで、自分のイメージが定着していく。
 さて、本番になると、楽団員が熱意をもって演奏するようにもっていくのは、指揮者の大きな任務である。ただし、指揮者は一部では冷静な部分を残しておかないといけない。ここで少し神がかりになるが、良い演奏を行っているときには、楽団に神が降りることがある。入神の演奏では、その楽団や指揮者の本来の能力を超えることがある。
 しかし、入神の技と紙一重なのが、集団ヒステリーによる暴走である。降霊会では、神を下すお台も大切であるが、降りてきた霊をしっかり裁く、審神者の役割がもっと重要である。指揮者にはこの能力が必要である。
 これは管理職の組織運営にでも応用できることが多い。確かに神がかりの組織運営などめったにないが、それでも現場が創発的な知恵を出すことは少なくない。それをしっかり裁き、良いモノを育てるのが管理職の仕事である。

2011年7月10日 (日)

神妙剣と夢想剣

 剣の世界では、狙った時に必ず当たる、神妙剣と言うものがある。これは天才の域と言われている。しかし、この神妙剣でも敗れることがある。それは、無念無想で剣をふるう夢想剣である。人を切るという意識もなく、刀が勝手に動く夢想剣に神妙剣が敗れることがある。
 さてこれを、本日の題名のない音楽会を聞いていて思い出した。
 ピアニストでも、色々な曲を正確に演奏する人がいる。しかしなんとなく面白くない。一方、公の放送された演奏には、何か広がりがある。これは、その場の状況や、作曲家が求めたものと言うか、神の与えようとしたものに、自然に合わせていく動きがあるのではないかと思う。
 つまり、神妙剣である正確な動きは、すべてのテクニックを超える夢想剣に負けることがるということであろうか。