ご縁のあった人たち

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2020年7月 1日 (水)

正しいものは作られたもの

「正しいと言い切れるモノは作られたモノだけである」

この言葉は、社会学の祖と言われている、ウ゛ィーコが、デカルトの厳密なる思考方に対立して言った言葉で、人間の力の限界を示している。確かに、自然界の物事で

「正しい」

と言い切れるだろうか?何らかの不確定要素が存在する。これに対して謙虚な対応を求めた言葉であろう。

 しかし、これは西洋文明の、人間の力を有限とする立場である。仏教の一部では、人間の力を仏の力と同じと見る。

 法界体性智と言うように、「法界」自らの体であり性である。この力で創造し、その責任を取る。これが仏の力だと思う。だから、「正しい」と言い切れる。

2020年6月27日 (土)

ステークホルダーに関する議論

 株主総会シーズンが終わりつつある。そこで、

「会社は誰のモノ」

という議論が、出てくる。前は

「株主最優先」

だったときもあったが、今は、

「従業員、お客様、地域への貢献、株主」

等等を考慮しないといけないという議論になっている。

 これを、MBA等の理論では

「ステークホルダーの利害関係を調整しろ」

という言い方で、関係者を列挙し、利害関係を明らかにし、譲れるモノと譲れないモノを明確にすることで、調整していく。

 一方、我が国には

「売り手よし、買い手よし、世間よしの、三方よし」

という言葉がある。この違いは、氷山モデルの議論の実例となっている。

 確かに理論化するときには、全てを列挙する必要があるだろう。ただし、日本教的な、

「その場を想像した議論」

では、人や社会のイメージで、十分伝わっているように思う。

2020年6月25日 (木)

氷山モデルの『日本教』的な考察

 知識の使い方などで、氷山モデルという例えがよく出てくる。例えば、意識と無意識という議論である。

 しかし、このような氷山の水面下の部分について、私たち『日本教』の信者には、

「何かあるのは解っている」
「何となく感じている」

ことが多い。

 しかし、西洋文明では、

「定義されていないモノは見ない」

と言う発想がある。これは、アルファベットの文字列で考える場合と、漢字仮名交じりのイメージの働く推論の違いだと思う。

 例えば   

   ”line” と 「線」

と言う言葉で考えても、「線」と言う文字には、糸偏の「糸のイメージ」や旁の「泉から水が流れるイメージ」という含みがある。

 こうした意識していない、イメージの働きが、氷山の水面下を思いやる働きに通じていると思う。

 

2020年6月22日 (月)

智慧の大衆化に関してもう一歩議論が必要

 前に書いた、知識の大衆化と智慧の大衆化に関する議論と関連して、西洋文明と『日本教』の立場の大きな違いが見えた。つまり

      西洋文明:人間は限られた知恵しか無い

      日本教(大乗仏教):衆生にも仏の智慧がある

という、人間の知恵の可能性に関する信仰の違いである。可能性を信じなければ、何事も成功しない。

 西洋文明では、

「神様の智慧には人間はとても及ばない」

という基本的な思想があり、更に人間の間にも、

「哲学者の智慧だけが真相に迫れる」

という、階層的な発想がある。

 一方、日本教の基本的発想は

「話せば解る」
つまり
「皆が理解できる知恵がある」

である。

 さて、この問題に関して、もう一つ議論すべき、専門化領域の問題がある。例えば

  • 法律の専門家:法的三段論法などの知恵の使い方
  • 学者:該当分野の専門の議論の仕方

等がある。これらは、専門家に任せる法が上手くいく場合がある。 

 しかし、それでも、

「結果について説明を受け、理解する知恵は皆にある」

という発想は、日本教の信者には大切である。

2020年6月19日 (金)

知識の大衆化か?智慧の大衆化か?

 昨日書いた、知識の大衆化の議論を読み返すと、もう一つ大きな問題点が見えてきた。今回議論したいことは

智慧の大衆化

についての議論である。これは、西洋文明を見ると、プラトンの「国家」が示す『哲人政治』の発想で、

「本質に迫る思考は、哲学者が持っている」

という

智慧の独占発想

がある。確かに、厳密な思考能力は、厳しい訓練で身につき、その力でないと達成できない境地もある。この力で、多くの問題解決を行って近代文明を切り開いた功績は大きい。

 しかしながら、日本の文明にある

衆知を合わせて解決する

発想も、捨てるには惜しい。全員参加の効果は色々な改善活動などで力を発揮している。

 そのためにも、日本語の

『直観的な表現力』

を上手く活用することも大切ではないかと思う。

2020年6月18日 (木)

アルファベットは知識の大衆化に役立ったか?

 マクルーハンのメディア論によると、

「アルファベットは、象形文字の難しさから、表音文字の単純化により、知識の大衆化に役立った」

とされている。確かに、エジプトの複雑な象形文字を独占した神官の特権は、

「表音文字によって、話し言葉との言文一致で記述する」

大衆化が行われただろう。

 しかし、完全な表音文字化したときには、

「文字列に対して、きちんとした定義を行わないと、厳密な議論が行われない」

という新たな問題が生まれている。つまり

「文字列により議論や推論できる階級」

の出現である。プラトンはこれを『哲学者』と読んでいる。

 一方、表意文字を使ったときには、文字の直観的要素から、定義が無くても共有感覚が生じ、

「何となくイメージで理解する」

ことができる。これが

「日本語による知識の大衆化」

に役だったと思う。

 

 

2020年6月11日 (木)

仏教の大衆化を日本教の発想で見直してみた

 数年前に書いた、仏教の大衆化から見えてくるもの、という記事にここ数日いくらかのアクセスがある。

 この記事を書いたときから,私の方は日本教の理解が進んだので、この内容を修正しないといけない。

 前の記事では、

  阿弥陀浄土を観想する厳しい修行 -> 「南無阿弥陀仏」と口頭で唱える簡易な行

という単純な図式で、

「仏教の大衆化」

と表現してしまった。

 しかし、日本の仏教の教えは、このような単純な二分法で、割り切ってはいけないように思う。

 例えば浄土信仰においては、「多くの仏像、仏画、浄土の絵図」等等の多様な手段で、僧侶が一般庶民に布教している。そこではある程度のイメージの共有ができている。僧侶も大衆の理解力をある程度信じて、極楽浄土の話を皆に説いている。大衆もそれを受け入れている。

 このように考えると、

「きちんとした観想念仏の修行ができた僧だけが占有する世界」

ではなく、

「その世界をいかに大衆に伝えるか、大衆が感じるようにする」

というお互いの歩み寄りの努力がなされている。

 これはいかにも日本教的な発想である。

 

2020年6月 9日 (火)

一般的なモノと具体的なモノの融合

 昨日も書いたが、抽象的な一般論と、具体的な話の関係は、もう少し考えるべきだと思う。私たちの学問では

  • 一般規則から具体例を展開する演繹的思考法
  • 具体的な話から抽象化して一般論を見いだす帰納的思考法

という二つの方法が教えられている。

 しかしこれらの方法は、一方向の流れである。完成した一般論を具体例に当てはめて説明していく。または、現実の問題を抽象化して、一般法則を見いだす。このような「科学的思考法」を私たちは学んできた。

 しかし実際の問題解決には、抽象的にモデル化して、一般論で考えながら、現実の状況に合わせて、色々と修正していく必要もある。そのように考えると、一般論と具体的なモノが一度に見れる、図式のようなモノも必要かもしれない。

 このように考えたとき、一つの良い例が見つかった。真言宗などの利用する、胎蔵曼荼羅である。これは、中心原理たる大日如来、その展開である五智如来、更にその展開の四菩薩が、菩提心を発して、大慈悲で皆を救うという展開を示す。更に周囲の多くの菩薩や明王は、方便としての具体的な展開を示している。この二次元の図式に描かれた展開状況、そして中央の大日如来への収束は、多様な具体例に支えられた、本質の力が示されているように思う。

 一方向の流れに止まらず、多様な展開の中に身を置き、そこで本質を見いだす。このような努力も必要かもしれない。

2020年6月 8日 (月)

抽象的な一般論と具体的な展開の関係

 昨日書いた使える地図の話はもう少し議論する価値があると思う。

 この問題をメディア論を加味して、検討すると

「西洋文明的発想では、抽象的な地図という、記号の上での世界がある」
「日本教的発想では、現実に適応した地図があるべき」

という発想になるのではないかと思う。これを一歩進めると

「数式などの抽象世界だけで思考できる学者」
「直観的に理解できるモノで考える現実の人間」

という対立軸が見えてくる。プラトンが「国家」で主張した

「哲学者だけが真実に近づける」

という発想が前者であり、仏教とその影響を受けた日本教なら

「誰もが真実の世界を知る」
「あるべきようはを皆が知る」

という発想になると思う。この問題に関して、技術者として一つの経験がある。

「大学で制御理論の数式的処理をきちんと学んだが、現実の対応は判らなかった。
そこで工業高校の教科書を手に入れて勉強することで、全体像と直観的な理解を得た。」

ただし、この場合にも、実現の細部には、もう一度数式的な検討も必要になり、ここでは大学教育などが役立った。

 このように考えると、全体像の把握と、細部の検討、この両面を上手く切り替える人材が必要ではないかと思う。

2020年6月 7日 (日)

使える地図を作る

 一般意味論の基本原理は

「地図は現地ではない」

である。しかし、『日本教』の信者にとっては、

「実用になる地図があり、指導者は私たちに与えてくれる」

という願いがある。それでは、このような実用になる地図は、どのようにして描くのだろう。一つの発想は、

「現実の場所の写真などを使って、抽象化して描く」
「現実の世界を縮小して描く」

という、現実のモノの大きさ比率を保持し、縮小し抽象化するという、抽象化への一本道で考える。実際の一般的な地図は、このようなルールに従って作られる。

 しかし用途が明確な地図を作るときには、これと別の道がある。実際に利用者の立場で、そこまで動いてみる。そこで目標になるモノを見いだし、書き込んでいく。広告などで、自分のところへのアクセスマップを作る場合には、主要な目標物を書き込むだろう。

 このときの作業を一般化すると、

  1. 抽象化した地図を写真などから作る
  2. その地図を持ち現場に言って自分で動きながら目標物を探す
  3. 目標物を書き込んでいく(建物の名称や色なども重要情報)
  4. 動きやすさを確認して目標物を絞り込んでいく

というう風に、具体的な世界で実際の動きを確認していく作業が主体となる。

 一般意味論なら

「抽象の梯子を下る」

と言うところだが、このような体験的な記述が、日本教的な発想にあっているように思う。

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