ご縁のあった人たち

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2021年3月 1日 (月)

社会科学に対するAI活用のアイデア

 日経BPで、コトラー教授のマーケティングの話があった。

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/20/00041/022200001/

彼の提案するマーケティング5.0は

「機械学習などを活用したモノ」

らしい。

 私は最初これを聞いて

「AIで市場の相関関係を見いだすぐらい」

と甘く見ていた。それなら

「しっかりした仮説を作り検証する力が必要」

なので、人間の力に依存する面が大きい。しかし、Q&Aを聞いていると

「AIで人間の行動モデルを作り市場の動きを見る」

と言う方向が見えた来た。これはとても大きなモノが出てくると思う。

 これで、社会科学においても,シミュレーションによる実験ができる、という可能性が拓かれた。これは、技術の世界で設計支援環境に組み込まれたシミュレーションのように、市場検討などでもシミュレーションの可能性を拓くモノである。

 従来も、「囚人のジレンマ問題」をコンピュータシミュレーションで解いた事例はあった。しかしそれは、専用ソフトでの対応である。現在のAI技術なら、汎用的な

「市場行動シミュレータ」

としての人間モデルができるだろう。更に言えば、コンピュータ将棋で行っているように、人間モデルが自動的に機械学習で成長することも可能になる。

 ここまで考えると、社会科学のシミュレーション的実験が、手軽に行えるようになると思う。

2021年2月24日 (水)

忘却の恐怖を克服

 私は、大学院生時代は、狭い分野を深く勉強していた。具体的には、人工知能の為のモデル化と、コンピュータプログラミングである。しかし、会社に入って仕事をすると、いやでも周辺分野に気を配らないといけない。当時は、マイクロプロセッサが動き出した時代で、

「マイクロプロセッサとは何か?」

と言う議論から入っていった。そこでは、ハードウエアの知識が必要になり、回路の知識、電子素材の知識など多様な分野の知識が必要になる。そのために、多くの本を読みあさった。これは、必要に駆られて行った面もあるが、純粋に自分の知識を増やしたい、と言う動機も大きかった。

 そこでは、一応ノートをとったり、重要部に線を引いたり、書き込んだりしたが、やはり理解不足で忘れることが多い。そこで

「忘れることへの不安」
「解らないことへの焦り」

が発生した。しかし、この勉強は学校の場合と異なり、決まった期限で終わりではない。仕事のための情報収集としての勉強は、期限があるが、その場合には

「目的達成のための情報収集」

であり

「自分の納得のための勉強」

と違うことが解ってきた。「自分のための勉強」では、時間をゆっくり取ることが可能であり『積読』のように、一旦手に負えない者は寝かしておく。特に

「覚えきれない者は忘れてもかまわない」

と割り切ることで、自分で学ぶことが楽になった。これに関連して、前に買った本を、後で読み返すと、納得がいって理解が深まる、このような体験も何度かしたので、

「解らないことでも、時間が解決する」

と思うようになった。

 会社の仕事でも、必要なことはメモに書き、それは忘れても良い。必要なときに調べて解るなら、忘れても良い。このような割り切るが、気持ちを楽にしたように思う。

2021年2月23日 (火)

スマホ脳と記憶に関しての議論

 先日、「スマホ能」に関して少し書いたが、その後気になって、今話題の新潮新書「スマホ脳」アンデシュ・ハンセン著、久山葉子訳を読んでみた。

 精神科医が書いただけあって、体内の化学物質の働きなどもよくわかる。

 さて、この本の後ろの方に、

スマホに依存するために発生する記憶力低下

と言う指摘があった。このブログは、「勉強の方法」と問題を取り上げているので、この問題はきちんと向き合う必要があると思う。

 まず議論したいことは、

記憶力の低下と言うことが本当に悪いことか?

これは、人類の歴史を見れば

文字なし暗記の世界 -> 文字の出現 -> 紙への記述 -> 安価な紙の大衆への普及

と言う風に、暗記力依存から外部記憶である書き物への移行が、大きな流れになっている。ノートに記述することができる。その結果、記憶の負荷から解放される。これは、創造的思考を働かせるためには、有効な手段である。

 従って、一旦スマホなどの電子的手段に、思いつきなどを保存しておいたり、参考になると思ったことを、リンクだけお気に入りで保存したりすることは、積極的な面も評価すべきだと思う。

 私の体験でも、色々と思いついたことを、このブログに書くことで、電子的に保存できるので、ノート保存の本棚があいて助かっている。しかも、検索機能が充実しているから、色々と引き出すこともできる。

 このような、知的生産の補助という側面を考えて

スマホ脳を上手く育てる

発想が必要である。

 古事記や日本書紀を書き写した時に、記憶の達人に依存した伝承から解放された。このような進化を受け入れて私達は育ってきた。

2021年2月21日 (日)

いわゆる「スマホ脳」について

 スマホに依存することで

「脳が退化する」

と言う説があるらしい。この問題をもう少し踏み込んで考えてみた。

 まず、スマホに依存することでどのような弊害があるのだろう。一通りあげてみると

  1. 自分で考えずに答えを探す
  2. 検索もせずに人に聞く
  3. イイネの評価を求める(依存する)

等がある。

 これをもう少し深掘りすると

  1. 自力で考えない癖
  2. 他人に依存する癖

は、

  1. 正解で無いことに対する恐怖
  2. 自力で正解と言えない自信のなさ

によって起こっている。この原因をもう少し深掘りすると

学校で

「正解で無いと怒られる」
「教科書に書いていることを正解と信じる」

と言う躾の効果が大きい。教科書に書いていることを疑わない、従って自分で正しさを証明することも無い。これでは自信を持てるわけが無い。

 こうした、

学校教育への過剰適応

の延長に、スマホ脳がある。

2021年2月15日 (月)

プラトンがなぜ『国家』を書いたか?

 プラトンの大著『国家』は、『哲人政治』の有効性を示した。現在の私たちには、『哲人政治』は実現できない、または危険性が大きく、『民主制』の方がましと言う認識がある。しかし、プラトンがなぜ『哲人政治』を善いとしたのか、プラトンが生きた古代ギリシャの時代背景を想像しながら考えたことは少ないだろう。そこで、以下の問題を考えて見た。

なぜプラトンは哲人政治を善いとしたのか?

 当時の常識は、私たちのそれとは違う。まずは

大衆の裁判によりソクラテスは死刑になった

と言うプラトン達の厳しい経験を、私たちはもう一度見直すべきである。尊敬する師であったソクラテスが、大衆が裁判で有罪として死刑になった。この体験が、『民主制』への不審を抱かせただろう。さて、彼らは私たちのように、体系的な科学の知識を知っていない。彼らのレベルの学問的知識と言えば『ユークリッドの幾何学』の成功例である。エジプト文明において、ナイルの氾濫は毎年の行事であり、その後の土地の復旧とその争いの調停は政治の重点課題である。そこで、同じ形、面積と言うことをきちんと判定する。これが幾何学の力である。更に数値の扱い等を見て、

一般的な規則性を見いだす

ことは可能であると知っていた。

 このような、『普遍的な原理』を発見する可能性を、プラトンは『国家』の舵取りに求めた。こうした知的な活動は、

ソクラテスのような哲学的問答

によってのみ育つ。これがプラトンの信念であり『国家』は、これを多くの人に伝えるために書かれたと思う。

2021年2月13日 (土)

会議の効率化か?仕事の効率化か?

 この数日間、森失言に絡んで『会議能効率化』について、色々と書いてきた。しかし、もう少し視野を広げると、

『会議の効率』より『仕事の効率』

が大切である。このような問題を明確にすることで、本当の改善につながっていく。

 今回議論したいことは

会議の出席者を絞ること

についてである。単純に考えると

「発言しない人を出席させるな!出席者を絞れ!」

は正論に見える。しかし、実際の会議では、発言する人間は、出席者の20%程度が多い。特に質疑ができる人間は限られている。しかしながら

反対しないことに意味がある

と言う人もいる。そのような人は黙って座っているだけでも、重みが出てくる。

 さて、もう少し視野を広げてみよう。仕事の遂行という観点で見れば

会議で決まったことが実行されてこそ効果が出る

ことは皆が同意するだろう。しかしながら、

自分が知らない間に決まったこと

自分も参加して決まったこと

の比較をすれば、『自分が参加した』という意識がある方が、積極的な実行につながる。このように考えると、多くの人を参加させての会議、発言しなくても、利害関係者を巻き込むための会議は必要では無いかと思う。

2021年2月12日 (金)

専門家と言っても色々

 コロナの問題で、色々と『専門家の意見』がでている。しかしながら、専門家にも色々とあると言うことを、きちんと理解している人が少ないように思う。今回の感染状況について、発言する専門家を大きく分けると、以下の2パターンになる。

  1. ウイルスの伝搬の細部の専門家
  2. 多数の感染状況を数理モデルで予測する専門家

1.の立場を『ミクロの専門家』、2.の立場を『マクロの専門家』と呼ぶと、イメージが掴みやすい。例えば、ミクロの専門家は、ウイルスが飛沫感染するからくりなどを教えてくれる。そこで具体的な内作を提案する。また、ワクチンの種類や、その効果について教えてくれるのも、ミクロの専門家である。

 一方、マクロの専門家は、多くは数学的なモデルを使って、感染の拡大状況を予測する。そうして、政策への提言を行う。例えば

「現状で対策を取らなければ、XX時点での病にはXX、そのうち死者はXX人となる」

と言うような予測を行う。さて、専門家のコミュニケーションというと、ミクロの場合には、その伝搬メカニズムなどの具体的な話についての議論となる。しかしながら、マクロの専門家に関しては、議論の向きが二通りに分かれる。

  1. 検討の前提に関する可否
  2. 手法自体の妥当性

ここで大事なことは、専門家の議論では、どちらかというと『手法の妥当性』の方での議論が多くなる。これは、

「数学的な議論なら『正しい』と言いやすい」

ことが影響している。

 しかし現実に適用するためには、前提をきちんと評価する必要がある。このような前提に関しては、

「素人も口出しできる」

ために

「会議が長くなる」

可能性がある。しかし、この問題を避けて通ると、予測外れのトラブルになり、結局専門家の地位を危うくすると思う。

 このような前提に関する議論を行う、専門家の周辺の人財を、育てる必要がある。

2021年2月11日 (木)

会議の効率化について少し追加

 昨日書いた、会議の効率化に関してもう少し議論したい。

 まず、専門家同士のコミュニケーションに関しては、既にこのブログで書いた。

 専門家の閉じた世界を造ったネット化と高学歴化: 勉強の方法補充 (cocolog-nifty.com)  

この記事では、社会の分断という観点で書いたが、専門家の育成の効果についても少し書いている。つまり

「専門家の厳密な言語でのコミュニケーションは効率が良い」
ただし
「その言葉について行けない人間の対応をどうするか?」

と言う問題がある。

 この問題は、専門家の説明責任とも絡んでくる。専門家の間で議論し、決まった結果に関しては、きちんと一般にも解るように説明する。この努力が見過ごされているのでは無いだろうか?

 ただし、これを全て会議の場で行うべきかは、議論の余地があると思う。資料の形で見せる、事前説明を子なっておく、このような対処は必要では無いかと思う。会議という、多くの人間を拘束する場での議論は、少数の人間の満足のために時間を取るのが得策だろうか?特にネット化した社会では、事前の説明や資料送付は容易になった。その上で多くの人が参列する議論はどのようなモノか、もう少し考える必要があると思う。

 このような会議のあり方を考えることは、管理職に必要では無いかと思う。参加者の絞り込み、事前事後の対応、このような配慮が必要になってくる。ただし、

「もめ事を起こす人間の排除」

を安易に行うのは、管理とは言えない。多様な意見ヤ立場を尊重しながら、効率的な時間配分を考えるのが本当の管理だと思う。

2021年2月10日 (水)

会議効率化の観点で

 昨日の記事に関連して、会議の効率化に関してもう少し議論しておきたい。会社生活などでは、会議の効率化は、重要な事項である。私が若いときには

「会議に参加する前に、議事録案を作っていき、その場で結論を書いてまとめる」

という風に準備しての参加を指導された。これには

「会議には多数の参加者がいるので、その人の時間を無駄にしない。」
(参加者が多いと情報共有でき、参画意識で責任感を共有)

という、多数を巻き込むが、それでも効率化を図るという知恵があった。確かに、効率重視の人は

「(有効な)発言しない人間は参加させるな」

と言ったりしたが、このような人は

「反対しなかったことに意味がある」

面を忘れている。自分が参加した会議で決まったことは、不本意でも守る。これがある程度できていた。

 さて、このような『予定調和型会議』だけで、物事を進めて良いのだろうか?新しいことを始めるときには、不調和がどうしても生じる。また現状への疑問を投じることも必要である。こうしたときには

「流れや空気を読まない素人発言」

は貴重な意見である。しかしそれに対応することは、多くの時間を必要とする。

 日本的な『根回し』は、このような議論を、個別に行うことで、多数の参加者の束縛を避ける効果がある。

 このような会議の見直しも、効率的な経営には必要だと思う。

 会議管理論というモノがあっても良いだろう。

2021年2月 2日 (火)

リスクコミュニケーションについて一アイデア

 今回のコロナ危機に対応して、一般大衆へのリスクコミュニケーションの重要性が、明らかになってきた。

 さて、リスクコミュニケーションが難しいのは何故だろう。私は、この問題について一つの仮説を持っている。それは

  1. 大衆の不安が拡大するとリスクコミュニケーションは失敗する
  2. 当事者以外の方が不安は大きくなる

と言う二点である。つまり

不安という『空気』が暴走する

とリスクコミュニケーションは失敗する。

 さて、このような『空気』の暴走は、どのような状況で起こるのだろう。大事な要素は

自分が体験せず想像や伝聞情報で考える

場合に、暴走が起こることが多い。逆に

当事者は現実対応に追われるので
不安を感じる暇が無い

から『空気』の暴走は避けられる。

 私は、昨年ある難病で入院し、ステロイドの大量投与と、血液製剤の点滴を受けた。その時、句するに副作用の可能性などの、必要なリスクの説明を受け、その旨の書類に署名した。その時は、

とにかく治療が優先でリスクは取らざるを得ない

と言うのが正直な感想である。その結果、症状は収まったが、まだステロイドの減薬の行程であり、先は長い。こうして落ち着いてみると

ステロイドの副作用が今では怖い
(骨がもろくなるなど!)

と考えるようになった。このように、現場から距離を置くことで、色々考えたり、ネット情報に触れると、不安が拡大してくる。

 このような不安が、リスクコミュニケーションを難しくする。

 解決策としては、全体的な現場の感覚を、伝えることでないかと思う。

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