ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

2020年3月25日 (水)

AI時代には因果関係の単純化が使えなくなる

 仏教に関して色々と勉強するときには、現在の西洋文明的な思考法を、捨てるとまでは行かないが、ある程度押さえないと行けない。もう少し言うと、

「科学的な思考法の便利さ、力に頼りすぎる自分への反省」

が必要になる。つまり、

「太陽系のモデル、車のエンジンのモデルなどのように、単純化して理解する」
「原因ー結果」
が明白になっている

世界観を使うのではなく、

「一気に全体を観て、直接的な因果関係だけでなく間接的な縁まで考える」

必要がある。

 これを単純化した話で考えると

西洋文明的思考:「卵が原因、鶏がその結果」
仏教の思考:  「卵と鶏はお互いが原因であり結果でもある」

と言う図式になる。

 しかしここで、AI時代のビッグデータ活用となると、単純な

「原因ー結果」
図式でなく
「多くの縁の絡まり」

を見ることになる。多くの因子が絡まった結果が、今起こっていることである。

「現在発生していること自体が、次のことを引き起こすだけでなく、自分自身の強化や、フィードバック修正を行っている」

このような複雑なシステムと向き合うことは、既に六世紀に天台大師が摩訶止観で説いている。これをもう一度見直すべきではないかと思う。

2020年3月23日 (月)

現在社会は西洋文明の限界を超える発想が求められている

 現在の社会は、高度な専門家の発言が力を持っているが、本当にそれだけでよいのだろうか?例えば、今回のコロナ騒動においても、病気の伝搬の専門、検査の専門などの各分野の専門家が色々と発言している。しかし、このような専門家は、自分の担当範囲の視点での発言が多くなる。例えば、

「コロナの検査をできるだけ広く行うべきである。現在の検査は少なすぎるから、潜在的な患者を見逃している。」

と言う発言は、感染状況を研究している立場では当然の発言である。しかし、現在の制度では

「コロナ感染した人全てを入院隔離させないと行けない」

となっているので、

「軽症者も含めて多数の入院患者が出ると医療が崩壊する」

と言う可能性がある。

 こうした全体像を見て、総合的な判断を行うのが政治である。

 さて、このような専門化は、やはり西洋文明の影響が大きい。使用文明の基礎にある物理学は、

「物事を単純に理想化し、その上での因果関係を明確にする」
つまり
「専門的な範囲に視野を絞って深く考える」

ことで大きな成果を生み出した。

 この発想が現在強くなりすぎている。

2020年3月19日 (木)

平安時代の仏教からわかること

 先般から書いている、昔の仏教の話に関連して、平安時代に起こった変化についてもう少し考えてみたい。従来から言われていた、平安時代の仏教の変化は、空海・最澄の唐からの正統的かつ最新の教えの伝来である。

 しかし、空海は既に、唐に入る前に密教修行を行っていたし、最澄も止観の修行を行っていた。これを考えると、

「遣唐使による文化交流で新しい仏教が日本に伝わった」

と言う表現が、正しいのだろうか?確かに

「曼荼羅や多くの経典により、体系的な仏教が伝わった」
「国家としてそれを受け入れた」

と言う言い方はできるだろう。

 ここで、一つの新しい文化が、導入されて成功するヒントがある。それは、

「既に部分的にいくらかの先駆者が触れている」
「彼らの支持者は存在するが多数派ではない」

と言う土台があると

「一気に新知識の体系を持ち込み、既存の活動などをまとめ込む」
「これで爆発的に普及する」

と言う手法である。今までモヤモヤとして持っていた者が、全体的な図式を見て整理されると、ブレークスルーを起こして一気に解決に至る。このような状況がある。

 新技術の導入などに考えるべき手法である。

 この応用として、新技術普及時に

「従来行っていたことも、新技術の不完全な利用で、あなたも先駆者です」

と言って、巻き込む手法も有効である。

2020年3月18日 (水)

主観的と客観的だけか

 先日から読み直している、NHK出版の「仏像ー心とかたちー」の最初の章「仏像のこころ」の中に、仏像の見方を

  1. 叙情詩を描く主観的な見方
  2. 美術史などの観点から客観的な見方

と二つに分けていた。私たちはこのように、主観的/客観的と対比することが多い。しかし、この二分法でよいのだろうか。私はもう一つの見方があると思う。それは

  • 創造者の観点から見る

見方である。これは法華経の教えがヒントになるが

「世界を造る親の立場で皆を見る」

と言う見方である。仏像の見方では、

  1. 仏の教えを伝えるために、どのような仏像を造るべきかを考える
  2. 仏像にどのような思いが込められているかを考える
  3. その仏像が造られた時代の状況を考える

等を考え、

「自分で仏像を造るならどうするか」

と言う風に「主体的」に考える。この発想があるのではと思う。クリエイター達は既にこれを行っている。

 現在社会を本当によくするのは、このような考え方ではないかと思う。

2020年3月14日 (土)

『平均』に縛られていないか

 現在の科学的文明には、『数値化したモノ』が物を言うことが多い。そこで、社会科学などでは、統計的な処理を行うことで

『数値化して議論』

できるようにすることが多い。これは

「計れないモノは、計れるようにする」

の実践である。このように数値化すると、

『平均』『分散』『偏差値』等

の便利な道具が使えるようになる。確かに、マクロの視点で考えるときには、平均を見て成長や減退の傾向を掴むことは有効である。

 しかし、ここで注意しないと行けないのは、このような数値の一人歩きである。偏差値信仰の弊害は、色々と言われているが、

『平均』

の弊害も出ているように思う。

「世間の平均より劣っている」

これで、強迫的な行動になる人がいる。さらには

「平均的人材ができること」

ができなければ、

「落ちこぼれる」

と焦る人も出てきている。

 平均はあくまで状況をマクロに掴む手段であり、それに捕らわれてはいけない。

2020年3月 5日 (木)

議論の底にある「日本教」的発想

 先日書いた,論破による分断の話に関連して、「日本教」の発想で少し見えてきた。

 今回議論したいのは、「日本教」の影響下の議論と,西洋文明の前提での議論の違いである。つまり

  1. 「日本教」の発想では、神様とその代理の人間が、全体像を持っている
    この場合、決められた枠の中で正解が存在する
  2. 「西洋文明」の発想では,人間は有限の部分的知識しか持っていない
    従って,お互いの知識の持ち寄りで,少しでも善くしようと努力する

と言う違いである。なお、「日本教」でも,同じ「世界観」の中での,見落としの修正や,精度向上などでは協力関係も成立する。しかし、世界観の違う者の間では,戦いしかなくなってしまう。

 一方、人間の限界を信じている場合には、お互いの断片を持ち寄って,全体像を構成する協力関係が成立する。弁証法はこのための道具である。この違い意識することで,もう少しましな議論ができると思う。

 

 

2020年3月 3日 (火)

社会の分断を招いたのは誰か?

 今朝の朝日新聞を見たら、(争論)ネットが社会を分断?と言う記事があった。偉い大学の先生達の議論なので、謹んで読ませていただいたが、その中で分断の理由の一つに

「相手を論破しようとする」

傾向があるという指摘がある。これは確かに、現象的にはそのような、『論破』の試みの後、自分の意見に賛同するコミュニティに入り込み、分断が進むという傾向はある。

 しかし、この原因をもう一歩踏み込んで議論してほしい。なぜ『論破』にこだわるか、この議論が必要だと思う。

 私がこの記事を見て、笑ってしまったのは、『争論』という言葉が示すように、この記事構成が対立した意見を述べ、しかも

「お互いが相手より正しい」

と言う、『論破』の形になっていることである。この記事を見ても、相互の歩み寄りなどが見えてこない。

 こうして、社会の模範になるべき、大学の先生達が、お互いに『論破』使用とする姿を見せる。これを見て、まねをする人が出てくる。特にネット社会ではSNS等で、情報発信のハードルが低くなっている。この状況を考えると、『論破』したがる人間は増えてくると思う。

 この問題に対して、一部の知識人達からは

「博士課程の訓練を受けていない『低学歴者』は、黙って我々『高学歴者』の言うことを聞け」

と言う、論争資格を制限する向きもある。確かに、ヴィーコが指摘したように、学問の方法として、『聴講生』段階を重視し、論争方法を理解した人間だけに発言を許す制度はあると思う。

 しかし、現在の一部知識人の言い方は、

「分断を招く」

発想ではないかと思う。

2020年3月 1日 (日)

現在日本社会の問題の原因

 現在の日本社会の問題点は、『和魂洋才』の失敗にあると思う。特に、『和魂』と『洋才』の正体を知らないことが原因だと思う。

 『和魂』に関しては、今まで書いてきた日本教の発想で、

「神様は全て知っている。そのような智慧を私たちでも持てる。」

と言う考えが土台にある。

 一方、『洋才』の方では、プラトン以来の

「人間の知恵は、神の領域の及ばず、部分的に見ているだけ。」

と言う発想がある。

 ここで、西洋文明は、上記の

「部分的知識しか無い」

と言う謙虚さの上に成立しているが、日本人は『和魂』で

「完全なモノが与えられる」

と信じている。この結果の一つが

「平和憲法信仰」

である。この問題点を意識するだけでも、色々な見方が変わると思う。 

2020年2月28日 (金)

私たちの力が及ばないモノとは

 先日の続きで、私たちは、何を『不可思議』と思うか考えてみた。法華経の中には、

「無限の大きさ、久遠の時間」

が『不可思議』なモノとして示されている。

 また、摩訶止観の『不可思議の境』では

「三者は別のモノでもなく、一つのモノでもない」

を観る。

 前者は、現代人なら『無限の扱い』と言うことで、概念的に処理できるから、わかった気持ちになってしまうかもしれない。しかし、それを具体的に考えられないのであると、本当に解っているのだろうか?

 一方、後者は、『仏の智慧』を得て、『全てを創造する』立場になれば、一つ一つの存在だが相互に依存し、独立ではあり得ないモノが見えてくる。

 こうして考えると、現代の科学技術の成果を鵜呑みにしている私たちは、

「本当に解っているのか?」

と言う問題に常に向き合うべきでないかと思う。

2020年2月20日 (木)

『自分が正しい』と言い切れる条件

 あるところで、歴史的要素のある漫画に、『立派な学者』先生が『ご指導』されていた。彼女の作品には、独特の神がかり的な世界観がある。それを歴史の『立派な先生』達が、

「最新の歴史の研究と合っていない」

と色々とご指導されているようである。

 しかし、歴史研究と芸術創作は別物である。もっと言えば、政治的主張も別である。これが今の社会で混同されている人がいるので、話がややこしくなってくる。確かに、独裁的な政権では、体制批判に関する創作は認められていない。日本でも、徳川時代に

「将軍を馬鹿にした」

と言うことで戯作者に処罰を与えた例もある。

 さて、ここで私が書きたいことは、このように

「自分の考えている世界観だけが正しい」
(特に学問的な世界観)

と言う人の存在についての議論である。

 ここで私が思いついたのは、数学の基礎的な問題である、『連続体仮説』の議論である。連続体仮説の詳細は省略するが、この仮説は、

「肯定しても矛盾しないし、否定しても矛盾しない」
つまり
「基本としているZF公理系から独立」

と言う結果になっている。肯定側の証明はゲーデルが行い、否定側はコーエンが行っている。

 さて、今回の議論は二人の証明方法である。ゲーデルは、理論展開のため

「検討世界を狭く限定する」

ことで、連続体仮説をZFに加えても矛盾なしとした。一方コーエンは

「多様な仮想的な元を想定し世界を膨らませる」

ことで、連続体仮説の否定を加えても、ZF公理体系と矛盾しないことを証明した。

 今回の、

「自分が正しい」

と主張する人を見ている、どうもゲーデルの

「限られた世界での議論で証明」

と言う発想を信じている人が多いように見える。

 なおゲーデル自身は、コーエンの研究を高く評価したが、自分は連続体仮説の否定を証明したいと考えて、前提になったZF公理系を改造しようとしていたことも付け加えておく。

 数学と言ってもこのように多様な世界観がある。まして、文系学問では、もっと多様なモノに寛容になってほしいものである。

より以前の記事一覧