ご縁のあった人たち

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2020年9月18日 (金)

記述が難しいモノをどのように表すか

 近頃、社会科学の実用化について色々と考えているが、根本的な問題として

「社会科学の対象とは何か?」
「それはどのように表現されるのか?」

と向き合ってみた。

 この問題を

「関係や動き、そして働きを、どのように記述するか?」

と具体化してみた。もう少し、物理学と比較すると物理学では、

「対象の物体は明確に存在する。」
「物体間の関係は数式で表される程度に明確である。」
「動きに関しても、微分などの数学的道具が備わっている。」

という恵まれた条件がある。

 一方、社会科学の場合

「対象は社会という曖昧なモノ」
「関係や動きを数式で記述すると、部分的な表現となる」

という段階である。

 このような社会科学の記述には

  1. その世界のモデル(舞台と登場人と登場物)を作り
  2. その上での典型的ストーリーを展開し
  3. 一般的な規則を見いだして理論化する

段階を踏む必要があるのではないかと思う。

 もっと言えば、登場(人)物の特性(本性)を、きちんと記述し、その一般性を見いだすなどの手順があるかも知れない。これは、ソフトウエアでシミュレーションする側の発想に近い。

2020年9月 6日 (日)

弱者の優しい代弁者が存在するか?

 昨日の話で、

「弱者の代弁者」

という問題を思いついたので、忘れないうちに書いておく。昨日の議論では、国会議員である杉村太蔵が、同じ国会議員の石破茂に馬鹿にされたというレベルであり、馬鹿にされた方にも問題ありと処理してもよいだろう。しかし、これが一般国民の問題と考えると、色々と広がってくる。

 まず、一つ目の問題は、

「本当に困っている人の状況を、きちんと伝える人が必要」

である。しかし現状では、これが上手くいかない。理由は、

「論理的な意見をいえるという、スキル面だけで代弁者になる」
「極論や過激な発言する代弁者が少なくない」

という側面がある。

 例えば、予防接種の副作用で、苦しんでいる人がいる。この人に対しては、医療的側面、心理的側面、生活的側面などで色々と支える必要がある。しかし、

「副作用が生じるから、予防接種を禁止すべき!」

という極論を言う人が、

「被害者の代弁者」

として振る舞う事で、結局

「予防接種の効果で救われる命を奪う」

という事態になってしまう。このような機会損失に関しては、被害の申し立ても難しいので、極論がまかり通っていく。

 この問題を考えると、親的な発想で、弱者の代弁をする人材を、もう少し育てていくべきではないか、言うなら

『穏やかな社会学者』

が必要ではないかと思う。

2020年9月 4日 (金)

動機付けに関して西洋文明と大乗仏教の文明の発想の違い

 昨日の続きで、動機付けについて、西洋文明的発想と、大乗仏教的発想の違いについて議論しておく。

 西洋文明的発想なら、動機付けならマズローの理論などが出てくる。

https://motivation-up.com/motivation/maslow.html

 しかしながら、この議論の根底には、貨幣経済社会などの西洋文明が前提にあり、しかも

「人間は神の智慧には及ばない」

という諦めがある。又、マズローの5段階説を見ても解るように、

「できるだけ単純な項目で考える」

という発想がある。

 しかし、現実社会をこのように単純化してみる発想がよいのだろうか?

 例えば、会社生活においてて、管理職になる動機付けを考えてみよう。

「出世したい」
「給与が上がる」
「他の皆に遅れたくない」

等の単純な理由だけで出生したがる人間は、どれほどいるだろう。

 管理職の重み、責任を感じたとき、色々な悩みがある。しかし、

「その部門の重要性」
「働いている人たちの個々人の立場」
「他の人間が管理者苦になるリスク」(不適切能力者のリスク)

等色々な事を考えて、悩んだ末に受け入れる人は、よい管理者になる可能性が高い。

 さて、ここで大事な事は、大乗仏教的な発想である。大乗仏教には

「誰もが仏の智慧を持っている」
「仏の智慧とは全てを自分のモノとし、衆生を我が子のように見る智慧である」
「この智慧で社会をよくすることができる」

という発想がある。少なくともキリスト教の

「神の世界への到達不可能限界」

とは別の、可能性を拓く発想がある。

 又、これと併せて、色々なモノを見るとき、具体的に多様な見方をする。例えば、管理職が部下を見るときも、

「契約した機能を果たす部下」

という見方が、西洋文明の経営学敵味方なら、日本的管理では

「個人としての生活のある部下」
「将来的な成長可能性のある部下」

等の、血の通った見方になる。

 こうした、実体観の上で、

「皆のためになる」

という動機付けを行うなら、強い力を得ると思う。

 もっと言えば、仏教では

「皆を救う」

という発願がある。この力は、西洋文明的なモノより強いのではないかと思う。

2020年9月 2日 (水)

意味をどこで見いだすか?

 先日から、社会科学におけるモデルの役割について、考えていたら、色々なモノがつながってきた。そこで、まだ荒削りだが、思いつくところを書いておく。

 まず一つ目のアイデアは、社会科学のモデル論から来た

「物事の意味はそのモデルの上でで考えるべき」

である。自分が感じる意味、というのではなく、その物事が起こった状況をモデル化し、その上で考える。

 もう一つのアイデアは、江戸時代の豪農や豪商の働きで思いついたが、

「社会全体がよくなる事が自分の幸せ」

という発想である。これに関連して、仏の慈悲について

「太陽の光のように遍く照らす」

という発想が、

「個別の一対一の関係でなく、社会全体への影響」

という形で見えてきた。これは逆に言えば、

「西洋文明の物理学モデル=一対一の関係の簡略化」

で表せないモノを見直す考えである。もっと言えば、西洋文明的に

「局部的な関係に集中して考えすぎ」

という私たちの思考の偏りをただす。こうしたときに見えるモノがある。このような感じがしてきた。

2020年8月14日 (金)

認識するモノは何か?

 社会科学などの分野では、物事を見る目が、その人が持っている、知識の影響を大きく受けている。これは、自然科学の分野と大きく異なる。私たちは、自然科学、特に物理学の影響を受けているので、

   「自然界のモノを素直に見る」

ということは、当たり前に考えている人も多いと思う。しかしながら、社会の現象や人間の営みは、多くの側面があり、更に社会科からの関わりも多様になっている。私たちは、その全てを知ることができているのだろうか?プラトンが突きつけた『洞窟の比喩』は、確かに成立している。

 私たちは一面しか見ることができず、それは自分たちの知っていることに制限される。

 例えば、マルクス主義にこだわれば

   「労働者は資本家に搾取されてこき使われている」

という観点で議論が進む。しかし、江戸時代の篤農家が

   「多くの人を指導して、開拓させる」

という活動は、

    「社会資本への投資で、将来的に皆がよくなる」

という側面がある。投資と回収、全体としての幸せ、等の概念がないと、このような発想は出てこない。

 このように考えると、私たちが見ているモノは、私たちの今までの知識に大きく影響されている。

 なお、私たちが作った制度に関しては、自分たちが創ったから、定義もはっきりしている。

   「正しいと言い切れるモノは、作られたモノである」

このヴィーコの言葉は、流石に社会学の祖といわれることがると思った。

2020年8月 9日 (日)

一発勝負の必要性

 昨日書いた、記事に関して、逆に

  「強烈な勝利」

の必要性に関しても、もう少し考えるべきだと思った。確かに、織田信長も桶狭間の戦いで勝つまでは、無名であった。

 このように、

  「無名のモノが世間に認められる、一番の早道は、強烈な勝利」

である。

 私自身、現在も無名の立場だから、

  「強烈なデビュー作」

があれば、もう少し皆の注目を引けるから、意見を述べても、受け入れてくれる人が増えると思う。

 ただし、いつも強烈な話だけでは、無理がでる。織田信長も、桶狭間の奇襲以外は、正攻法の戦いをしている。確かに、新機軸を考えているが、無理はしていない。(油断はあったから、本能寺で打たれたが!)

 このように考えると、一度は強烈なことをしても、後は持続可能な安定に持って行くのが大事だと思う。このバランス感覚が大切だと思う。 

2020年7月27日 (月)

納得というレベルを大切にすべきではないかと思う

 物事を考える時に、全てを理解するレベルが望ましい、というのは正論である。一方、これが出来ない人間は黙っておけ!という発想が見え隠れする。

 今回のコロナ危機に対しては、色々な専門家が発言している。そのような専門家に対しては、素人が口出ししては、いけないという空気がある。

 実は、この問題に関しては、古くはプラトンが、大著「国会」の中で、

「船の舵取りに対して、本質の見えない素人が口出しする危険性」

と書いている。

 確かに、素人が口出しする危険性はある。しかし、専門家の暴走の危険性もある。そもそも、プラトンの思想は、哲学者の支配であり、権力の独占の危険性がある。

 さて、このような問題に関しては、

「説明を受けて、納得するレベルが、存在する」

という配慮が有効ではないかと思う。

 大衆の納得、これは民主主義の原点だと思う。

2020年7月25日 (土)

コロナ危機がもたらすモノ

 今回の、コロナ危機では、政治の意思決定機構が、ある程度大衆に見えるようになってきた。特に、大阪府の吉村知事の苦悩等が、SNSやマスメディアでも見えるようになってきた。

 この効果は、本当の大衆参加政治を引き起こすだろう。

 医療の現場や、大雨災害後の治水に関しても、本当の大衆参加ができるようにしていけば、この国はもっと強くなるだろう。

 一部の専門家の政治から、全員が納得できる政治に進めるべきである。

2020年7月17日 (金)

専門家の意見が重視される高度の学力社会

 コロナ関連の議論を聞いていると、専門家の意見が強くなったと思う。しかも、極端な話、

  「数式等がそのままメディア公開」

という事態が起こっている。

 これは、現在の日本社会が、

  「ある程度の高度の学力集団」

を含んでいるからだと思う。高学歴と書いていないのは、実際に実力ある人達だから。

 このような人達は、少なくとも数式化した情報である程度納得する。例えば、

  「感染予防策が不十分なら、患者は指数関数で増加」

等で脅威を感じる。

 このような文明の人は、彼等の間でのコミュニケーション効率が高い。例えば、経営状況の議論がMBAの持っている数値で行われるようなものである。

 しかし、一般大衆全ての納得を目指すなら、非効率に見えても

       「その意味」

をわかり易く伝える努力が必要である。

2020年7月 1日 (水)

正しいものは作られたもの

「正しいと言い切れるモノは作られたモノだけである」

この言葉は、社会学の祖と言われている、ウ゛ィーコが、デカルトの厳密なる思考方に対立して言った言葉で、人間の力の限界を示している。確かに、自然界の物事で

「正しい」

と言い切れるだろうか?何らかの不確定要素が存在する。これに対して謙虚な対応を求めた言葉であろう。

 しかし、これは西洋文明の、人間の力を有限とする立場である。仏教の一部では、人間の力を仏の力と同じと見る。

 法界体性智と言うように、「法界」自らの体であり性である。この力で創造し、その責任を取る。これが仏の力だと思う。だから、「正しい」と言い切れる。

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