ご縁のあった人たち

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2020年10月 5日 (月)

反・『反ポピュリズム』 黒幕政治から大衆参加の民主政治へ

 昔買っていた、新潮新書『反ポピュリズム』を読んだ。著者は、読売新聞の主筆であった渡邉恒雄で、見識はあるが好きには成れない人物である。

 

 前に読んだときに反発を感じたが、今回その反発内容が見えてきた。つまり

『知識人の独占政治』または『黒幕政治』

『大衆参加の政治』つまり『大衆の納得理解の政治』

の対立である。

 この本でも、橋下徹を意識しているが、橋下氏は大衆参加に関して大事なことを言っている。

専門家が、法的根拠等について、厳密に論理を添加し手いくことは重要である。
しかしながら
「大衆が、何か納得できない」
と言う不満も大切にしないといけない。

これは、弁護士である橋下徹の経験が言わせたモノであろう。つまり、

「弁護士の立場で法廷で争うときには、きちんと法廷の論理で議論する。」
しかし
「一般人の納得できない法廷テクニック的なモノへの反発は大事にしないといけない」

と言う問題である。これは、光市の殺人事件裁判の懲戒問題の時に、彼が板挟みになった状況からも見える。

  • 弁護士としての法廷テクニックとしての裁判引き延ばしは仕方ない
  • 被害者家族が傍聴に来たのに無駄足させた大衆の怒りも解る

つまり、専門家の事情が大衆の支持を受けなくなったときの怖さを彼は知ったと思う。これが維新の

「ふわっとした民意を大事にする」

と言う姿勢につながっていると思う。

 一方、渡邉恒雄の行動は、黒幕政治そのものであり、自民党の実力者を通じて、竹中改革を潰したり、大連立を仕掛けたりしている。

 このような、一部の人間だけの密室政治が、現在は成立しなくなってきていると思う。

 なお、大衆参加に関しては、多くの手間とコストがかかる。これに関しては長くなるので、別の議論としたい。(続く)

  http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-b51c58.html

 

2020年9月19日 (土)

東大法学部の力とその限界について

 国家公務員の働き方に関して、河野大臣が何かメスを入れるらしい。これはよい事だと思う。しかし、国家公務員の過労状況に関して、ここでもう少し踏み込んでみたい。まず明治の国家公務員育成に関してであるが、先に帝国大学法学部ができて、その後官僚組織ができていった、歴史的経緯を抑えておく必要がある。つまり、国家公務員は、東大法学部出身者を前提の、働き方を考えていた。

 さて、東大法学部出身というのは、どのような力を持っているのだろう。私は、1冊の本がそれを物語っていると思う。

 

この「法学の基礎」は、「法学の土台」とも言うべき本で、法律を作るための配慮すべきコトなどを、網羅している本である。このような、基礎教養を持っていれば、法律に関する検討も、比較的短時間でできるだろう。昔、ある番組で橋下徹弁護士が

「霞が関の官僚は、法律を作るときに、大宝律令まで調べる」

と半ば揶揄していた。しかし、国民の権利に関して整合性を取るなら、既存の法律の立場を調べるのは当然であり、行くところまで行くと律令制度まで行く。これを納得し、要領よく調べるのが、「法学の基礎」などで鍛えられた人財だろう。

 このように考えると、こうした「基礎的な配慮」のできない人材が、長時間労働で苦しむ状況が見えてくる。

 ただし、この発想は、「法学の基礎」で、要領よく仕事をしようとする人間にも、ブーメランで還ってくる。現在の歴史研究では、律令制度の時代でも、実質の「公地公民」は不成立な部分が多く、私有地などの「律令の抜け穴」が多く存在する、という意見がでている。これを踏まえると、

「前例検討で、大宝律令を調べた」

だけでは済まなくなってしまう。こうして、新たな残業地獄が生まれる可能性が出てくる。

2020年8月26日 (水)

分断化した社会で罪悪感なしの優位に立てるか

 昨日書いた、キャリアアップ論などでは、一つ疑問が出てきた。それは、

「自分が優位に立つことへの疑問はないか?」
言い換えると
「罪悪感を持っていないか?」

である。

 実は、私自身の底流にこの疑問が存在する。遡れば、大学受験の発表時に、多くの同級生が落ちたとことを考え、

「サバイバーズギルト」

のような感覚を持ったことが、一つの発端である。

 後に判明したが、私の大学入学成績は、「合格最低点の一点違い」であった。その成績が私の人生を変えた。確かに大学で身に付けたモノは多く有り、それが後々の仕事でも生きている。少なくても会社生活においても、生涯賃金の数倍の利益を会社にもたらす貢献はしている。このあたりの経緯は

 「彼は成績しか取り柄がない」 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-3a9e4d.html
等に書いている。

 しかし、大学受験に失敗したとき、対人スキル不足の私が社会でどのような使いを受けただろう?この疑問は、時々私の心に浮かんでくる。これを言い換えると

「自分の給与に比べ、同様に働く協力会社や、非正規雇用の給与は十分といえない」
「自分は給与差だけの事ができているか?」

となる。確かに、技術の世界や、総合的判断では

「私の頭脳でしかできない」

と言い切れるときもあり、その時は少しは精神が落ち着いている。

 さてここで周りを見ると、どうもこの問題でおかしくなっている人が少なくないように思う。

「XXの正社員」

という事だけを振り回し、マウンティングする人間がいかに多いか、更に言えば

「昔成績がよかった」
「XXに合格した」

という、一時期の成果を盾に優位を維持しようとする。

 このような人が少なくないように思う。

 そうして、彼らの多くは、一緒に仕事をしている人間の、恨みなどを買っている。その力が働くかどうか解らないが、私が見るところ

「分不相応な出世した人間の早死には少なくない」

という状況がある。多くは酒などの結果、成人病で体を壊す者が多い。

 この問題に対して、昨日のように理屈を付けて、逃げる事ができるのだろうか?私は、日本人には難しいように思う。

2020年2月20日 (木)

『自分が正しい』と言い切れる条件

 あるところで、歴史的要素のある漫画に、『立派な学者』先生が『ご指導』されていた。彼女の作品には、独特の神がかり的な世界観がある。それを歴史の『立派な先生』達が、

「最新の歴史の研究と合っていない」

と色々とご指導されているようである。

 しかし、歴史研究と芸術創作は別物である。もっと言えば、政治的主張も別である。これが今の社会で混同されている人がいるので、話がややこしくなってくる。確かに、独裁的な政権では、体制批判に関する創作は認められていない。日本でも、徳川時代に

「将軍を馬鹿にした」

と言うことで戯作者に処罰を与えた例もある。

 さて、ここで私が書きたいことは、このように

「自分の考えている世界観だけが正しい」
(特に学問的な世界観)

と言う人の存在についての議論である。

 ここで私が思いついたのは、数学の基礎的な問題である、『連続体仮説』の議論である。連続体仮説の詳細は省略するが、この仮説は、

「肯定しても矛盾しないし、否定しても矛盾しない」
つまり
「基本としているZF公理系から独立」

と言う結果になっている。肯定側の証明はゲーデルが行い、否定側はコーエンが行っている。

 さて、今回の議論は二人の証明方法である。ゲーデルは、理論展開のため

「検討世界を狭く限定する」

ことで、連続体仮説をZFに加えても矛盾なしとした。一方コーエンは

「多様な仮想的な元を想定し世界を膨らませる」

ことで、連続体仮説の否定を加えても、ZF公理体系と矛盾しないことを証明した。

 今回の、

「自分が正しい」

と主張する人を見ている、どうもゲーデルの

「限られた世界での議論で証明」

と言う発想を信じている人が多いように見える。

 なおゲーデル自身は、コーエンの研究を高く評価したが、自分は連続体仮説の否定を証明したいと考えて、前提になったZF公理系を改造しようとしていたことも付け加えておく。

 数学と言ってもこのように多様な世界観がある。まして、文系学問では、もっと多様なモノに寛容になってほしいものである。

2019年10月 3日 (木)

高学歴化社会の悪影響について

 二〇世紀の中頃、敗戦直後に生まれて、昭和と平成の時代を見てきた人間から見ると、現在社会の『高学歴化』は進んでいると思う。しかしながら、マクルーハンが言ったように、

「社会の変革中には何が起こっているかよく見えない」

ことがよくある。

 そこで年寄りの立場で、今まで私が生きてきた社会と比べながら、高学歴化した社会の善いところと悪いところについて、少し議論してみたい。

 まず高学歴化社会の善いところは、

「抽象化した概念装置を使った、効率的なコミュニケーションができる」

点が大きいと思う。例えば、会社の経営状況に関しても、MBA手法で使う、SWOT分析などを使って、広く説明できるようになってきた。このような概念装置が豊かになると、議論もしやすいし、その力での予測もできる。

 しかし、このような思考方法は、あくまで抽象化した世界での展開であり、現実の多様さ、複雑さに対応したときに、色々なトラブルが生じている。このような、高学歴社会の危険性に関しても、現在社会はもう一度目を向ける必要がある。

 まず一つ目のトラブルは、人間関係のトラブルである。これは、現在進行中の某電力会社や、某大手交通機関などで、『現地対策や労働組合対策』を、丸投げ的に任せて、『不透明な権力と金銭の流れ』を生じさせている。これは、

「大学文明者では対応できない泥臭い話」

に対応できる人間に、任せるざるを得なかった、高学歴者の敗北である。なお、この話に対しては、大阪維新の会が

「ヤクザとも対応できる高学歴」

なる人材を連ねて対応したことが、一つの答えになっている。

 さて、もう一つの高学歴社会の危険な道は、

『儒教的科挙制度への転落』

である。これは朝鮮半島の歴史を見ればよくわかるが、『科挙合格という高学歴集団』が、国を滅ぼすこともある。現在の文政権も同じ道を歩むように思う。

 朝鮮半島の、儒教国家と科挙問題は、硬直した過去制度崇拝で、『易姓革命』思想に縛られたため、新しい事態へ適応できない事態が続いている。しかし、我が国も、硬直した学問に縛られると、同じ失敗をしそうで危ない。

 この危険性を考えて、現実を見ることをもう一度考えるべきだろう。まだ我が国には、現実主義者が残っている。

2019年10月 1日 (火)

現在社会の問題点は「民主主義」の転換点を意識していないことにある

  先日から色々と議論を呼んでいる「表現の不自由展」に関して、lullymiura.hatenadiary.jp/entry/2019/08/07/153234 に面白い指摘があった。国際政治学者、三浦瑠麗氏の観点では、

私は、日本の左右対立について、「弱者認識の奪い合い」という評論を書いたことがあります。戦後日本社会において実際には強者であった左派は、強者でありながら弱者として擬制していたと。ところが、冷戦の崩壊、東アジア情勢の悪化、世代間対立等を遠因として、旧来の左派は本当に少数派になってしまいました。

~一部略~

もちろん、左派の勘違いの裏側には今や強者となった右派勢力がいます。戦後長きにわたって社会の中枢から遠ざけられてきたと感じている右派勢力は、いまや、左派の殲滅戦を決意しているかのようです。

~一部略~

私が言いたいことは、今や強者となった右派勢力が、真に保守主義者足らんとするならば、この1割弱の国民に対して殲滅戦を行ってはならないということ。それは、保守主義の根幹にある寛容であり、国民の一体性を重視する立場です。

と,従来左翼は強者であったが、現在は本当に弱者になっている。一方、戦後言論界等で色々と「いじめ」を受けてきた,右派勢力は強者になっている。

 この話は,1960年代の大学の実態を知る、私たちも実感している。

「俺たちは弾圧と戦っている」

とわめく学生運動家に私はどれほど糾弾されたか、PTSDと言う言葉は今ほど普及していなかったが、それに近い症状は出ていた。

 さて、老人の仕事として,このような歴史の転換がどのように行われたか、もう少し見てみよう。

 まず一つ目は,1990年頃のベルリンの壁崩壊と,ソ連邦の解体である。これで、東西の冷戦構造が潰れた。それまでの日本の大学の経済学は,8割方がマルクス経済学であったが,この後マルクス経済学は教授の高齢化や死去に伴って消えていく。

 次に,インターネットの普及をあげるべきだろう。これにも色々な段階があるが、1995のWindows95などから、ネットアクセスの大衆化が始まっている。最初は、色々なホームページの閲覧から入り、掲示板への投稿,一部の個人のホームページ作成と言う,まずアニアの時代になった。次に,ブログの普及で情報発止のハードルが下がり、Facebook、Twitterと情報発信のハードルはどんどん下がってきた。

 これに加えて,北朝鮮の拉致問題が、北朝鮮が公式に認める形で発覚した。これで当時

「拉致はアメリカ谷保主勢力の陰謀」
「朝鮮民主主義人民共和国は理想の国」

と主張していた,左派勢力が一気に不利になった。この追求に,ネット社会が乗っていたことも大きい。

 さて、このような左派から右派への勢力変化に加えて,もう一つのキーワードを挙げるべきだろう。それは

「情報発信の大衆化」
による
「民主主義の形態変化」

である。これは、古い民主主義の形から見えてくるモノがある。つまり昔の民主主義は、

「マスメディア、政治家そして学者等の『特権階級』だけが情報発信できた」
従って
「大衆は限られた選択肢のなから選ぶしかなかった」
情報は種類が少ないのでじっくり読むことができた

と言う状況を,新聞などが世論をリードしていた時代として思い出せば良い。

 しかし現在は,政治家すらTwitterの限られた文字数で発信する。一方、多くの人もTwitterで情報発信する。もっとも多くは、他人の情報のリツィートであり自作情報は少ない。しかし、ある過激な意見が大衆化して広がる可能性が増えているのは確かである。

 このような状態で,『新しい民主主義』についてあるべき姿を議論する。これが、急ぐべき課題であると思う。

2019年8月17日 (土)

儒教的な社会の弊害について

 現在の日本社会には、韓国ほどではないが、儒教的世界観の悪影響を時々感じる。しかもこの影響は、多くの人には意識に上っていないだけに、根深く、悪い結果につながることがある。

 前にも書いたが、儒教の精神は「徳ある人間の支配」である。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-86d414.html

従って、お互いの(徳の)序列が重要になる。更に、中国や韓国では、これに科挙制度が絡んでくる。つまり、科挙で優秀と認められた人間は、

「徳があるので他人を支配して当然」

と言う発想が出てくる。しかも、西洋文明のように「知識やスキル」ではなく、「個人の徳」と言うことになれば、これは『終身的に個人につく』要素である。

 これが、日本の企業などが、

「博士号取得者を受け入れにくくしている」

一つの条件はないかと思う。

 つまり、『博士の学位=徳がある』という風に読み替えれば、

「一度採用したら、マウンティングされる」

と言う危険性を感じて、距離を置かれることもあると思う。現実に、某高学歴者が

「私は文献の読み方などの訓練を受けているのでその訓練のない下々は従え」
「おまえなど議論の対象ではない」

と言う風な言い方をしたのを見たことがある。

 本来、学問的な訓練で、資料の信頼度の評価法などをきちんと訓練されていたのなら、その評価法を明示して、資料の信頼度も議論しながら説得すべきである。これができないのは、権威に寄りかかっている、空虚な学位と言うべきだろう。

 博士号取得者の一般企業などでの活躍には、この問題の解決も必要だと思う。 

2019年8月 1日 (木)

この国の官僚の育成はどうなっているのか?

 テレビ番組などで、色々気になっていた、 #山口真由 さんが、 #しくじり先生 という番組に出ていたらしい。

https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/celebrity/山口真由、恋人からのサプライズに「マジで気持ち悪い%ef%bc%81」/ar-AAF6XNC?ocid=st

 番組の詳細は見ていないが、彼女に関して色々と考えていることがあったので、この機会に書いておこうと思う。まず私の仮説は

「『山口真由』という存在は、現在の学校的競争社会が生み出した
傑作であり被害者である」

という観点である。『傑作』という意味は、学校社会やその他での勝者であり、しかも高効率業務社会での最高の能力を発揮した面にある。

 しかしながら、このような人に国家の行政を任せて善いのだろうか?つまり、

「人の心を思いやる力のない人に、国家の運営を任せて善いのだろうか?」

という問題である。この逆の問題として、国家公務員の一部キャリア官僚の働き方を、山口氏は

「ブラック企業」

と表現している。これに対して、キャリア官僚たちからの反論がないことが寂しい。一部の若手キャリア官僚たちが、

「公務員の働き方改革」

として、いわゆる『ブラック要素』をなくす運動があるのは知っているが、もう一歩踏み込んで答えてほしいと思うモノがある。

 実は、私はこの問題に関して、少しは発言権がある。私自身は、山口氏ほどの高学歴ではないが、そこそこの力を持ってあるメーカーに就職した。そこでは、変革期であり、新しい技術の導入期であった。そこで私は一人で難題に挑み大失敗をした。そこで多くの人に助けられ、人に感謝し、色々な思いやりを持って働くことの大事さを痛感した。一方、このような大トラブルの中でも、私を

「人間としてきちんと受け入れた人たち」

がいたことも、私の人格形成に大きく影響している。その時の働きは今なら『ブラック』でアウトだろうが、そのような経験で、思いやりなどが育ったことを、参考にしてほしい。

 なお、私の事例にもあるように、他人への思いやりの機能が、学校社会などに過剰適応で抑圧されている場合は、『発達障害』と行動形態では似ていると思う。しかし、脳内の機関が故障していない場合には。『障がい』の認定はできない。また『障がい』なら治療をすべきだが、抑圧されているだけなら、訓練での再生も可能である。このあたりを考えて、厚生労働省あたりで

『本当の働き方改革は、学校的価値観からの解放』

を示してほしいと思う。

2019年5月28日 (火)

数値だけでしか考えないのか?本当に意味のある数値か?

 昨日ネット上で二つの興味ある記事を見た。一つは、東洋経済オンラインの

「数字の見積もりが速い人」の秘密の計算術

知っておくと役立つ「フェルミ推定」の基本

 https://toyokeizai.net/articles/-/283128

 であり、もう一つは日経BPの

F1中野信治氏に聞く 速く走るにはどうしたらいいか

レースの現場は、超高速回転している社会の縮図

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00105/00036/?n_cid=nbponb_twbn

である。

 この二つは、数値の扱いについて、良い面と危ない面を述べている。まず、「フェルミ推定」の話は、概略のモデル化による数値の見積もりを行う話であり、確かに仕事の最初に失敗可能性を排除するためには、有効な手段である。いわば

「これの常識的に考えた値はどのようなモノだろう」

と推定して、仕事に取り掛かるにあたするものか、判定するための手法としては有効である。但し、これだけでは、本当の宝の山を逃す可能性もある。例えば、この記事にあった、一時雇用の社員の有効活用の話は、データベース構築という投資数値でつぶされている。しかし実務上なら、スモールスタートととして、情報の掲示板での共有などで対応することも可能になる。このように数値だけで考えると、現場の実務に合わない空論だけに終わることが多くなって、改善に行かないことが少なくない。

 ただし、この問題に関しては、経営側としては、一時的な雇用関係が、定着化し継続雇用化することを嫌ったが、それを説得するために、数値を使ったという可能性もある。

 さて、数値がきちんと使えている世界は、レースの現場での議論にある。つまりチームが最短時間で仕事をするために、全て数値でコミュニケーションできるように、各人の技量と理解が出来上がっている世界である。部品の位置など、精密な数値で指示しそれに書耐えるチームしか、世界のチャンピオンにはなれない。これは大事な話だと思う。

 確かに、現在の日本は高学歴化して、数字や横文字での情報共有ができるようになってきている。このようなコミュニケーションの効果は、よく考えるべきである。しかし、それで落ちるものの配慮も必要になる。

 管理し経営するためには、このバランス感覚が必要になる。

2019年4月17日 (水)

面接採用に変化が出ているのではないか

 面接というもの関して、少し思いついたことがあるので議論してみたい。私のような年寄り(60代後半)のイメージでは、

  「面接採用は学力重視の弊害を除くためである。」

という発想がある。いわゆる

  「成績しか取り柄がない」

人間の弊害を少なくするためである。理由をもう少し考えてみると、

  「経済的に恵まれていない子は、若いときから働き、人間関係などで経験深いから」

という理由がある。

 しかし現在の面接では

  「話し方の姿勢や論理性などが評価される」

ために、どちらかと言うと、所得に余裕のある家の育ちの方が有利になるように思う。

 この理由に関して、私の持っている仮説は以下のとおりである。

  「現在の高学歴化した社会では、選抜側が論理性などの訓練を受けている。
   そのような『学校的文明』による評価力が自然に入っている。」

これは、多くの人が、論理的な議論法を使いこなすようになると、判断基準が自然と影響を受けるということである。

 子供の時から、読書などを行い、事実と意見の分離などを自然とできるようになる。これができることできないことハンディは大きくなってくるように思う。 

 

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