ご縁のあった人たち

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2020年2月20日 (木)

『自分が正しい』と言い切れる条件

 あるところで、歴史的要素のある漫画に、『立派な学者』先生が『ご指導』されていた。彼女の作品には、独特の神がかり的な世界観がある。それを歴史の『立派な先生』達が、

「最新の歴史の研究と合っていない」

と色々とご指導されているようである。

 しかし、歴史研究と芸術創作は別物である。もっと言えば、政治的主張も別である。これが今の社会で混同されている人がいるので、話がややこしくなってくる。確かに、独裁的な政権では、体制批判に関する創作は認められていない。日本でも、徳川時代に

「将軍を馬鹿にした」

と言うことで戯作者に処罰を与えた例もある。

 さて、ここで私が書きたいことは、このように

「自分の考えている世界観だけが正しい」
(特に学問的な世界観)

と言う人の存在についての議論である。

 ここで私が思いついたのは、数学の基礎的な問題である、『連続体仮説』の議論である。連続体仮説の詳細は省略するが、この仮説は、

「肯定しても矛盾しないし、否定しても矛盾しない」
つまり
「基本としているZF公理系から独立」

と言う結果になっている。肯定側の証明はゲーデルが行い、否定側はコーエンが行っている。

 さて、今回の議論は二人の証明方法である。ゲーデルは、理論展開のため

「検討世界を狭く限定する」

ことで、連続体仮説をZFに加えても矛盾なしとした。一方コーエンは

「多様な仮想的な元を想定し世界を膨らませる」

ことで、連続体仮説の否定を加えても、ZF公理体系と矛盾しないことを証明した。

 今回の、

「自分が正しい」

と主張する人を見ている、どうもゲーデルの

「限られた世界での議論で証明」

と言う発想を信じている人が多いように見える。

 なおゲーデル自身は、コーエンの研究を高く評価したが、自分は連続体仮説の否定を証明したいと考えて、前提になったZF公理系を改造しようとしていたことも付け加えておく。

 数学と言ってもこのように多様な世界観がある。まして、文系学問では、もっと多様なモノに寛容になってほしいものである。

2019年10月 3日 (木)

高学歴化社会の悪影響について

 二〇世紀の中頃、敗戦直後に生まれて、昭和と平成の時代を見てきた人間から見ると、現在社会の『高学歴化』は進んでいると思う。しかしながら、マクルーハンが言ったように、

「社会の変革中には何が起こっているかよく見えない」

ことがよくある。

 そこで年寄りの立場で、今まで私が生きてきた社会と比べながら、高学歴化した社会の善いところと悪いところについて、少し議論してみたい。

 まず高学歴化社会の善いところは、

「抽象化した概念装置を使った、効率的なコミュニケーションができる」

点が大きいと思う。例えば、会社の経営状況に関しても、MBA手法で使う、SWOT分析などを使って、広く説明できるようになってきた。このような概念装置が豊かになると、議論もしやすいし、その力での予測もできる。

 しかし、このような思考方法は、あくまで抽象化した世界での展開であり、現実の多様さ、複雑さに対応したときに、色々なトラブルが生じている。このような、高学歴社会の危険性に関しても、現在社会はもう一度目を向ける必要がある。

 まず一つ目のトラブルは、人間関係のトラブルである。これは、現在進行中の某電力会社や、某大手交通機関などで、『現地対策や労働組合対策』を、丸投げ的に任せて、『不透明な権力と金銭の流れ』を生じさせている。これは、

「大学文明者では対応できない泥臭い話」

に対応できる人間に、任せるざるを得なかった、高学歴者の敗北である。なお、この話に対しては、大阪維新の会が

「ヤクザとも対応できる高学歴」

なる人材を連ねて対応したことが、一つの答えになっている。

 さて、もう一つの高学歴社会の危険な道は、

『儒教的科挙制度への転落』

である。これは朝鮮半島の歴史を見ればよくわかるが、『科挙合格という高学歴集団』が、国を滅ぼすこともある。現在の文政権も同じ道を歩むように思う。

 朝鮮半島の、儒教国家と科挙問題は、硬直した過去制度崇拝で、『易姓革命』思想に縛られたため、新しい事態へ適応できない事態が続いている。しかし、我が国も、硬直した学問に縛られると、同じ失敗をしそうで危ない。

 この危険性を考えて、現実を見ることをもう一度考えるべきだろう。まだ我が国には、現実主義者が残っている。

2019年10月 1日 (火)

現在社会の問題点は「民主主義」の転換点を意識していないことにある

  先日から色々と議論を呼んでいる「表現の不自由展」に関して、lullymiura.hatenadiary.jp/entry/2019/08/07/153234 に面白い指摘があった。国際政治学者、三浦瑠麗氏の観点では、

私は、日本の左右対立について、「弱者認識の奪い合い」という評論を書いたことがあります。戦後日本社会において実際には強者であった左派は、強者でありながら弱者として擬制していたと。ところが、冷戦の崩壊、東アジア情勢の悪化、世代間対立等を遠因として、旧来の左派は本当に少数派になってしまいました。

~一部略~

もちろん、左派の勘違いの裏側には今や強者となった右派勢力がいます。戦後長きにわたって社会の中枢から遠ざけられてきたと感じている右派勢力は、いまや、左派の殲滅戦を決意しているかのようです。

~一部略~

私が言いたいことは、今や強者となった右派勢力が、真に保守主義者足らんとするならば、この1割弱の国民に対して殲滅戦を行ってはならないということ。それは、保守主義の根幹にある寛容であり、国民の一体性を重視する立場です。

と,従来左翼は強者であったが、現在は本当に弱者になっている。一方、戦後言論界等で色々と「いじめ」を受けてきた,右派勢力は強者になっている。

 この話は,1960年代の大学の実態を知る、私たちも実感している。

「俺たちは弾圧と戦っている」

とわめく学生運動家に私はどれほど糾弾されたか、PTSDと言う言葉は今ほど普及していなかったが、それに近い症状は出ていた。

 さて、老人の仕事として,このような歴史の転換がどのように行われたか、もう少し見てみよう。

 まず一つ目は,1990年頃のベルリンの壁崩壊と,ソ連邦の解体である。これで、東西の冷戦構造が潰れた。それまでの日本の大学の経済学は,8割方がマルクス経済学であったが,この後マルクス経済学は教授の高齢化や死去に伴って消えていく。

 次に,インターネットの普及をあげるべきだろう。これにも色々な段階があるが、1995のWindows95などから、ネットアクセスの大衆化が始まっている。最初は、色々なホームページの閲覧から入り、掲示板への投稿,一部の個人のホームページ作成と言う,まずアニアの時代になった。次に,ブログの普及で情報発止のハードルが下がり、Facebook、Twitterと情報発信のハードルはどんどん下がってきた。

 これに加えて,北朝鮮の拉致問題が、北朝鮮が公式に認める形で発覚した。これで当時

「拉致はアメリカ谷保主勢力の陰謀」
「朝鮮民主主義人民共和国は理想の国」

と主張していた,左派勢力が一気に不利になった。この追求に,ネット社会が乗っていたことも大きい。

 さて、このような左派から右派への勢力変化に加えて,もう一つのキーワードを挙げるべきだろう。それは

「情報発信の大衆化」
による
「民主主義の形態変化」

である。これは、古い民主主義の形から見えてくるモノがある。つまり昔の民主主義は、

「マスメディア、政治家そして学者等の『特権階級』だけが情報発信できた」
従って
「大衆は限られた選択肢のなから選ぶしかなかった」
情報は種類が少ないのでじっくり読むことができた

と言う状況を,新聞などが世論をリードしていた時代として思い出せば良い。

 しかし現在は,政治家すらTwitterの限られた文字数で発信する。一方、多くの人もTwitterで情報発信する。もっとも多くは、他人の情報のリツィートであり自作情報は少ない。しかし、ある過激な意見が大衆化して広がる可能性が増えているのは確かである。

 このような状態で,『新しい民主主義』についてあるべき姿を議論する。これが、急ぐべき課題であると思う。

2019年8月17日 (土)

儒教的な社会の弊害について

 現在の日本社会には、韓国ほどではないが、儒教的世界観の悪影響を時々感じる。しかもこの影響は、多くの人には意識に上っていないだけに、根深く、悪い結果につながることがある。

 前にも書いたが、儒教の精神は「徳ある人間の支配」である。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-86d414.html

従って、お互いの(徳の)序列が重要になる。更に、中国や韓国では、これに科挙制度が絡んでくる。つまり、科挙で優秀と認められた人間は、

「徳があるので他人を支配して当然」

と言う発想が出てくる。しかも、西洋文明のように「知識やスキル」ではなく、「個人の徳」と言うことになれば、これは『終身的に個人につく』要素である。

 これが、日本の企業などが、

「博士号取得者を受け入れにくくしている」

一つの条件はないかと思う。

 つまり、『博士の学位=徳がある』という風に読み替えれば、

「一度採用したら、マウンティングされる」

と言う危険性を感じて、距離を置かれることもあると思う。現実に、某高学歴者が

「私は文献の読み方などの訓練を受けているのでその訓練のない下々は従え」
「おまえなど議論の対象ではない」

と言う風な言い方をしたのを見たことがある。

 本来、学問的な訓練で、資料の信頼度の評価法などをきちんと訓練されていたのなら、その評価法を明示して、資料の信頼度も議論しながら説得すべきである。これができないのは、権威に寄りかかっている、空虚な学位と言うべきだろう。

 博士号取得者の一般企業などでの活躍には、この問題の解決も必要だと思う。 

2019年8月 1日 (木)

この国の官僚の育成はどうなっているのか?

 テレビ番組などで、色々気になっていた、 #山口真由 さんが、 #しくじり先生 という番組に出ていたらしい。

https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/celebrity/山口真由、恋人からのサプライズに「マジで気持ち悪い%ef%bc%81」/ar-AAF6XNC?ocid=st

 番組の詳細は見ていないが、彼女に関して色々と考えていることがあったので、この機会に書いておこうと思う。まず私の仮説は

「『山口真由』という存在は、現在の学校的競争社会が生み出した
傑作であり被害者である」

という観点である。『傑作』という意味は、学校社会やその他での勝者であり、しかも高効率業務社会での最高の能力を発揮した面にある。

 しかしながら、このような人に国家の行政を任せて善いのだろうか?つまり、

「人の心を思いやる力のない人に、国家の運営を任せて善いのだろうか?」

という問題である。この逆の問題として、国家公務員の一部キャリア官僚の働き方を、山口氏は

「ブラック企業」

と表現している。これに対して、キャリア官僚たちからの反論がないことが寂しい。一部の若手キャリア官僚たちが、

「公務員の働き方改革」

として、いわゆる『ブラック要素』をなくす運動があるのは知っているが、もう一歩踏み込んで答えてほしいと思うモノがある。

 実は、私はこの問題に関して、少しは発言権がある。私自身は、山口氏ほどの高学歴ではないが、そこそこの力を持ってあるメーカーに就職した。そこでは、変革期であり、新しい技術の導入期であった。そこで私は一人で難題に挑み大失敗をした。そこで多くの人に助けられ、人に感謝し、色々な思いやりを持って働くことの大事さを痛感した。一方、このような大トラブルの中でも、私を

「人間としてきちんと受け入れた人たち」

がいたことも、私の人格形成に大きく影響している。その時の働きは今なら『ブラック』でアウトだろうが、そのような経験で、思いやりなどが育ったことを、参考にしてほしい。

 なお、私の事例にもあるように、他人への思いやりの機能が、学校社会などに過剰適応で抑圧されている場合は、『発達障害』と行動形態では似ていると思う。しかし、脳内の機関が故障していない場合には。『障がい』の認定はできない。また『障がい』なら治療をすべきだが、抑圧されているだけなら、訓練での再生も可能である。このあたりを考えて、厚生労働省あたりで

『本当の働き方改革は、学校的価値観からの解放』

を示してほしいと思う。

2019年5月28日 (火)

数値だけでしか考えないのか?本当に意味のある数値か?

 昨日ネット上で二つの興味ある記事を見た。一つは、東洋経済オンラインの

「数字の見積もりが速い人」の秘密の計算術

知っておくと役立つ「フェルミ推定」の基本

 https://toyokeizai.net/articles/-/283128

 であり、もう一つは日経BPの

F1中野信治氏に聞く 速く走るにはどうしたらいいか

レースの現場は、超高速回転している社会の縮図

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00105/00036/?n_cid=nbponb_twbn

である。

 この二つは、数値の扱いについて、良い面と危ない面を述べている。まず、「フェルミ推定」の話は、概略のモデル化による数値の見積もりを行う話であり、確かに仕事の最初に失敗可能性を排除するためには、有効な手段である。いわば

「これの常識的に考えた値はどのようなモノだろう」

と推定して、仕事に取り掛かるにあたするものか、判定するための手法としては有効である。但し、これだけでは、本当の宝の山を逃す可能性もある。例えば、この記事にあった、一時雇用の社員の有効活用の話は、データベース構築という投資数値でつぶされている。しかし実務上なら、スモールスタートととして、情報の掲示板での共有などで対応することも可能になる。このように数値だけで考えると、現場の実務に合わない空論だけに終わることが多くなって、改善に行かないことが少なくない。

 ただし、この問題に関しては、経営側としては、一時的な雇用関係が、定着化し継続雇用化することを嫌ったが、それを説得するために、数値を使ったという可能性もある。

 さて、数値がきちんと使えている世界は、レースの現場での議論にある。つまりチームが最短時間で仕事をするために、全て数値でコミュニケーションできるように、各人の技量と理解が出来上がっている世界である。部品の位置など、精密な数値で指示しそれに書耐えるチームしか、世界のチャンピオンにはなれない。これは大事な話だと思う。

 確かに、現在の日本は高学歴化して、数字や横文字での情報共有ができるようになってきている。このようなコミュニケーションの効果は、よく考えるべきである。しかし、それで落ちるものの配慮も必要になる。

 管理し経営するためには、このバランス感覚が必要になる。

2019年4月17日 (水)

面接採用に変化が出ているのではないか

 面接というもの関して、少し思いついたことがあるので議論してみたい。私のような年寄り(60代後半)のイメージでは、

  「面接採用は学力重視の弊害を除くためである。」

という発想がある。いわゆる

  「成績しか取り柄がない」

人間の弊害を少なくするためである。理由をもう少し考えてみると、

  「経済的に恵まれていない子は、若いときから働き、人間関係などで経験深いから」

という理由がある。

 しかし現在の面接では

  「話し方の姿勢や論理性などが評価される」

ために、どちらかと言うと、所得に余裕のある家の育ちの方が有利になるように思う。

 この理由に関して、私の持っている仮説は以下のとおりである。

  「現在の高学歴化した社会では、選抜側が論理性などの訓練を受けている。
   そのような『学校的文明』による評価力が自然に入っている。」

これは、多くの人が、論理的な議論法を使いこなすようになると、判断基準が自然と影響を受けるということである。

 子供の時から、読書などを行い、事実と意見の分離などを自然とできるようになる。これができることできないことハンディは大きくなってくるように思う。 

 

2019年4月 3日 (水)

多面的なモノの見方が出来ないことの弊害

 近頃接する話で色々と突っ込みたいことが出てきた。例えば、今朝の新聞で某社が

  「パンタグラフの診断を8Kカメラで行うことで見落としが無くなる。」

と発表していた。確かに細かい傷は、カメラの解像度を上げることで、発見しやすくなるだろう。人間が電車の屋根に上って点検するよりは合理的で安全である。これは認める。そして画像診断のAI化をすれば、省力手段となるだろう。

 しかし、このような精密画像による点検で、全てが終わるのだろうか?屋根に上ってみることで、感じるものは他にもないだろうか?例えば匂いなどもある。周辺の汚れなどから感じるものがあるだろう。このような周辺情報が落ちていく危険性を検討すべきだと思う。

 この問題を、もう少し一般化すると、科学的姿勢の問題に行き当たる。

  「測定できるものは測定しろ。測定できないものは測定できるようにしろ。」

これは、ガリレオの言葉となっているが、科学的姿勢の基本として今でも生きている。しかしここの裏側の話を見落としてはいけない。

  「測定できないモノには目をつぶる。」
  「落ちたものを夜道で探すときは、街燈の明かりの下で探せ。7
   (落とした場所が違っていても、街燈の下しか見える場所がないから)」

という問題である。この姿勢が、社会的な問題への解決となると、色々な弊害を起こしている。

 一例をあげれば、一部の超高学歴者の恋愛結婚問題である。彼や彼女の中には、人間の評価尺として学校の成績しかない。例えば

  「デート中に世界史について間違ったことを言う彼に、山川の世界史を渡して勉強しろと言った。」

等という人が出てくる。これをひっくり返すと

  「あの人たちは、勉強しかないから。」

ということになるだろう。

 もう一つ言えば、戦慄かなのさんが取り上げている

  「経済的に困らない家庭での虐待問題」

等も、

  「金銭尺度しか見えない社会の研究者や政治家」

から見過ごされている。このような多面的な面について、もう少し考えるべきではないかと思う。

2013年10月 8日 (火)

高学歴者社会の弊害

 今朝の朝日新聞の、「耕論 生き直すために」で、千房の中井社長が

のみ込みの早い新人ばかりだと、人材育成力が急激に堕ちる。

落ちこぼれの懸命な姿勢は、上司の突破力を高める。

と言っていた。今の高効率志向社会の、本質的欠点をついたものとして、しっかり味わうべき言葉だと思う。

 高学歴社会になり、高度に抽象化した、理論で会話ができるようになる。これ自体が悪いことではない。しかし、このような理論から、はみ出たものがあると言うことも認識しておかないといけない。特に、指導的な立場の人間は、現実の多様な側面と対峙しないといけない。このような力は、理論で記述できないモノに対し、真摯に向き合うことから生まれてくると思う。
 
 この実例として、日経BPのHPに子育て社員の話があった。
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20131006/254230/?n_cid=nbpnbo_mlt&rt=nocnt

 この中にも、当たり前と思う話が、今の世の中の議論から抜けているという指摘がある。

大抵の場合、ワーキングマザーに不満を抱く周囲は、「ご迷惑かけてすみません」、「いつもご迷惑おかけしているので、今日は私が代わりにやります」といった、たった一言を言ってほしかっただけだったりもする。

 

 一方、ワーキングマザーの側は、「育児との両立は大変だと思うけど、頑張れ!」と応援してくれる人が、たった一人でいいからいてほしかっただけということもある。

 

 たったそれだけのことなんだけれども、小さなことでも積もり積もれば、耐えられなくもなる。

このような話は、原理主義的に権利を振り回す、学問的知識のしっかりした人からは、出てきにくい。マルクス主義を代表とする経済学的発想では、労働対価は賃金でしか考えない。しかし、感謝というもの、満足というものでも人は動くのである。

 

 このような多面的な見方ができる人を、現在の指導者として求めているのではなかろうか。

2011年1月22日 (土)

「学歴」と「仕事能力」の関係

ブログネタ: ズバリ!「学歴」と「仕事能力」って関係ある?参加数拍手

 

 このブログに的中した、ブログネタの募集があった。これに関しては、一言言っておかないといけない。

 

 まず、「学歴」と一言で言うが、これを

「単に『大学』と言うモノだけで、仕事の能力が決まるか?」

と言う質問に関しては、

「それ以外のモノが多い。」

と言う答えになる。つまり、

「大学卒業したらよい仕事につけるか?」

と言う従来からの議論であるが、これは現状が示す通り、必ずしもそうとは言えない。

 

 ただし、特に工学部の出身者では、

大学で身につけたことが仕事の上で生きる。

と言うことが、かなり発生する。現在の技術はかなり精密で高度な制御を行っている。幸いなことに、コンピュータシミュレーションの環境がしっかりしているので、理論知識が曖昧でも上手くいっている時には仕事ができる。しかし、例外事項やトラブル発生時には、基本原理の理解の深さ、線形代数などの数学的道具の使いこなしの力等、大学で身に付けた力が活きてくる。

 

 さてここで、厳しく言わないといけないのは、単なる「大学卒業」と言うラベルだけでなく、中身が大切と言うことである。例えば、電気系の出身者でも、

「マックスウェルの方程式てなんですか」

等と聞く学生もいる。先日も本屋で、『大学生向けのわかりやすい電磁気学の参考書』を見たが、最後までマックスウェルの方程式が出てこなかった。この様な教育がおこなわれていた場合に、

「大学で何を学んでいたのだ?」

と言うことになる。現状で学校間の格差はかなり大きく、このような基礎知識も教えていないこともある。そこで困ったことは、これを面と向かって言えない『空気』の存在である。この様な教育を受けた大学の出身者の多くは、

「われわれは出身校が有名大学でないので差別されている」

拗ねることが多い。これに対し、厚生労働省や世論の指導も後押ししているように思う。
しかし、実際に仕事の上で、学生時代に学んだモノを活かせるようでないと、学歴の意味はないと思う。

 

 しかし、文系の専門性はどこで生きるのであろうか。私は、法学部出身者に、

「法的三段論法は身についているか?」

と質問しても無視された経験がある。もっとも企業もそのような観点で採用しているかは疑問である。大学も企業で役立つように基礎知識の活かし方を、教えて欲しいように思う。

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