ご縁のあった人たち

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2018年7月12日 (木)

芥川賞をめぐる問題について

 先日からの、芥川賞候補作品「美しい顔」をめぐる、一連の騒動に関し、少し議論しておきたい。このブログでも、コピペの問題に関しては、少しは書いているので、その関連事項として、考えていることを書いておく。前提になる講談社の主張は以下のとおりである。
 まず、今回の問題は、
    「無断引用か?盗用・剽窃か?」
という議論が必要である。ここで大事なことは、講談社も著者も、
    「無断引用の非礼は深く詫びている」
という点で、無断引用行為はあったことは間違いない。これは、先人の調査や著作に対する敬意の表し方という面も含めて、出版社や著作者の重く受け止めるべきものだと思う。
 さて、次に「盗用・剽窃?」の議論であるが、この点に関しては、私が個人的に感じたところでは、著者が独自に書きたいものがあり、その手段としての
   「先人の著作の描写を引用」
という面があるが、その場面以外にも主人公の心的描写などは、独自のものがあると感じた。先人の鋭く切り取った現状描写、それを踏まえた上に創作した主人公たちの心の闇などを描く、これは創作として評価すべきものではないかと思う。
 単に『生存者罪悪感』や『マスメディアの報道被害』を書いただけというなら、それは文学作品としての評価問題であり、別途議論すべき問題である。
 なおこれが、
 
   「ジャーナリストの社会追及文として書かれたものではない」
ことをもう一度確認すべきである。ジャーナリストの文章なら、無断引用は致命的である。これを文学作品として混同してはいけない。確かに、昔講談社は、某医師の診断情報を無断公開した本を作った前科がある。しかし、今回はこれとは別の問題だと思う。
 さて、最後の問題として、芥川賞の位置づけがある。芥川賞は、作品に与えるのか、人間に与えるのかという議論である。つまり、名作としてその作品を評価するのか、その著者を今後とも文壇で重用するという、登竜門かという議論である。この観点からすると、
  「引用のルールも知らない人間に与えるな」
という議論もあるかもしれない。しかし、それなら
  「若い世代を育てよう」
ということで、引用や先人へのレスペクト、そして大切な自分の創造の積み重ねについて、しっかり議論すべきではないかと思う。
 

2018年7月 4日 (水)

西洋文明の元をたどってみた

 西洋文明と我が国の文化の違いについて、大きな分岐点は「プラトンの国家」が描く
   「哲人政治」
の発想にあると考えた。
 哲人政治というのは、プラトンの有名な「洞窟の比喩」が示すように
人間は真実を知ることができず、真実の影だけを見ている
但し、哲学者だけが、知恵の力でその真実を見る
従って、皆のためになる政治は哲学者に任せるべきである
という発想である。この「哲学者」という表現は、現在なら「高等教育修了者」という感じでよいだろう。
 さて時代は下って、ルネサンス時代にカソリック教会の支配と戦った、自然科学者は、
教会の認めた天動説的な宇宙観は間違っている
物理学的な思考が宇宙の真実の姿を描くことができる
ということで、学問の力で真実の世界に、到達できることを示した。
 この考えは、ある意味でプラトンが言った
真実の世界を見ることができる
という話を実現したものである。
 このようにして、学問知識優位の西洋文明の力が生まれてきたように思う。
 
 ただし、ここに一つの落とし穴がある。天体運動を記述した物理学的な世界は、近似が行いやすい単純な世界であった。つまり、
   「太陽―地球」
   「地球―月」
という風に、単純な一対一の関係で、近似計算しても予測が十分に当たるシステムであった。これは、太陽の膨大な質量や、距離の2乗に反比例する引力の性質によるものが大きい。
 こうした単純化した世界に、徐々に他の要素をつかしていく形の精密化が成立する、これが物理学的世界観であり、これが成立したのが太陽系である。
 しかし、社会の現象を記述する時、同じ発想でよいかというと全く別のものがある。どの要素を無視してよいのか、この議論がきちんとできていない。
 この問題を考えたとき、哲人政治の欠陥が見えてくる。
 民主主義の基本は、健全な野党の成立にあるというのは、このような見落としの修正機能にあると思う。

2018年3月29日 (木)

今の時代は「繋がっている」のか?

 先日、小保方晴子日記 (単行本)について書いたが、これを読んだ感想は、報道被害などでのPTSDが、どれほど人を傷つけるかを、私たちは知らないということだった。

 現在は、電子の時代で、テレビなども世界中の情報が伝えている。さらに、ネットでもいろいろな国の人とでも『繋がる』ことができる。しかし、この『繋がり』は、これでよいのだろうか。小保方晴子さんの、

   『身動きすることも難しい鬱状況』

を当時どれほどの人間が理解していたのだろう。そこで、再現による確認などの要求をし、失敗したと言って叩く、このようないじめの構造は、当人の状況を理解できないから、行ったのだと思う。

 他の例では、シリアから来た難民の人が

   「いつ死ぬかわからない毎日、死体がすぐそばにある状況」

と言っていた。これを言葉でいうことはたやすい。またネット上の情報で、死体を見ることもあるだろう。
 しかし、その人たちの心にある「恐怖心」や「命の軽さ」に関して、私たち「平和な日本人」はどこまでわかるのだろう。

 このように考えると、現在の世界は

   「一見繋がっている」

だけで、本当の理解にはもっと努力が必要な気がする。

2018年3月26日 (月)

「小保方晴子日記」を読んで

 このブログで、何度か書いた、小保方晴子氏の日記が単行本になっていたので、購入して読んだ。科学的な発見に関する記述などを期待して読んだが、そのような生易しいものではなかった。
 これは、鬱病患者の偽らざる心の記録であり、報道被害の現状をしっかりと書いている。私も、メンタルヘルスに関しては、少しばかりの知識はあるが、ここまでの鬱病の状況に向き合ったことはない。彼女の場合には、鬱病の最中に、パワハラ的(アカハラ)や、報道関係者のストーカー的行為に継続してさらされ、病気をますます悪くする状況が継続するという、悪条件である。このような事例は、他にもあるが、具体的な手記として読んだのはこれが初めてである。
 さて、彼女を責めたものは何であったのだろう。私の意見は、長期にわたる、文部科学行政、特に大学院重点化のひずみ、そして生命科学の研究方法の、人海戦術的なひずみによる被害者の怨念が、STAP細胞関係者に押し寄せ、最後は彼女に集中したからだと思う。
 このような問題の解決のためには、大学の在り方などから、もう少し議論を深めるべきだろう。まず第一歩は、文部科学省の天下り問題の徹底究明が必要である。自分たちの天下り先なら、構造改革による縮小などできるわけがない。

2018年1月30日 (火)

生命科学でなぜ不適切論文が出るのか

 京大のIPS研究所の助教が発表した、論文に不正があったという話は、だいぶ古くなってしまったが、この問題について少し考えてみた。
 まず今回の不正は、個人的なものであり、有期雇用の助教が、実績作りを焦ったというのが原因である。これは、その通りであろう。STAP細胞問題に関しては、もっと大きな予算獲得競争という問題があり、多方面からの攻撃があったが、今回は
  「個人の問題であり、管理の問題である」
と簡単に切り捨てられるであろう。
 しかし、この問題に関しては、大きく分けて二つの面から検討すべきものがある。一つは研究者の管理面である。管理ということは、監視ではなく、働く人間が安心して、成果を出すようにする作業である。そこでは、処遇の安定ということも必要である。有期雇用ということでの不安、このような問題が根底にある。ただし、この解決には根本的には、予算の獲得という問題も絡む。理研で亡くなった、笹井氏はこの点では、剛腕を発揮していた。このような剛腕の必要性について、もう少し議論が必要だろう。
 もう一つは、生命科学の研究の体制である。
 私は前にも書いたが、STAP細胞に関しては、小保方さんに
  「もう一度理論的な説明を試みてはどうか」
という提案というか、願望を述べた。
 これは生命科学一般について、もう少し理論的な解明と実験のバランスが必要ではないかと思う。ある現象の発見だけでの論文、これも必要かもしれないが、その場合には実験過程の検証が厳しくするしかない。そこで理論的な面とのバランスがあれば、もう少し論文の検証も確実になるのではと思う。
 もう少し踏み込めば、人海戦術的に実験をさせて、そこで行き当たったものが成果となる。このような研究で本当に良いのか、彼を考えるのが、科学に関する政治ではないかと思う。
 学問の自治を言うなら、この問題こそ研究者がしっかり答えを出すべきだろう。

2017年11月22日 (水)

西洋文明における幾何学の働き(空間配置の重要性)

 先日、日本的なシステム思考の発想について、法華経の十如是について書いた。
 
 しかしその後、もう少し考えると、情報の整理がこれでは難しいということを感じた。多様な情報を整理するためには、平面などの空間的な配置などを考える必要がある。仏教なら、弘法大師空海が伝えた、曼陀羅の空間的な整理がある。しかし、法華経と摩訶止観による修行では、空間的な整理は難しいように感じる。
 実は、このような現象は、活字依存の状況では、図が少ないという現象で表れている。インターネットが自由に使える前の、コンピュータ間通信で、情報をやり取りしたときはどうしても、文字が主体になり図が少なかった。
 しかし、もう少し歴史をさかのぼってみると、西洋文明の基礎には、ギリシャの哲学があるが、ギリシャの哲学の基礎には、ユークリッドの幾何学がある。このように西洋文明の基礎には、図形的な発想が潜んでいた。
 
 一方、空海自身は、土木工事の指導などの実績もあり、幾何学の素養があったと思う。
 ただ仏教全体に幾何学的発想があるか、星占いなどとの考えでももう少し考えてみるべきだろう。
 現在教育で、幾何学がどれほど教えられているか、小学校で図形と親しむか?
 このような面でも考えるべきだろう。

2017年11月20日 (月)

仏教的なシステム思考について(十如是) AIが拓くもの

 昨日書いた、AIがもたらすものの記事の中で、法華経の十如是について触れたが、もう少し説明しておく。十如是は法華経の方便品第二のはじめの方にある部分で、天台宗や日蓮宗ではこの部分を重視している。
 例えばウィキペディアでは以下のように書いている。
十如是とは、相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(相から報にいたるまでの9つの事柄が究極的に無差別平等であること)をいい、諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この10の事柄において知られる事をいう。
これを、一つのものを観る方法として考えてみよう。
 まず外見である相を見る、そしてその性質を考える。これはどのような構成かと体を考える。次に、これはどのような能力を持っているか考えて、外への作用を考える。
 次に、外部環境からの直接的影響を受ける因、確定したものではないが環境との関係で何かを受ける縁の作用を考える。因と縁の結果、そのもの自体が受けた影響で果や報が生じる。
 そしてこれらが、全てつながりあったものが、本末究竟等であり、これこそ本当のシステム思考だと思う。
 先日書いた西洋文明の限界は、明確な因果までしか考えていない知うことだろう。しかし、現実には環境からの複雑な『縁』があり、その『報』が自らに生じていることを、認識しないといけない。
 このような複雑なものの認識に、我々は耐えるのだろうか。この能力があると言い切るのが、法華経の一乗の教えであり、皆に仏の智慧があるという教えである。
 一方、このような能力に否定的なのが西洋文明である。プラトンの洞窟の比喩や、キリスト教の神の世界の発想は、我々にこの世界への到達を拒否している。
 しかし、可能性を信じる日本の知恵に私は賭けたいと思う。AIはこの道を拓くと思う。

2017年11月19日 (日)

AIがもたらすもの(西洋文明的思考法の崩壊)

 近頃のAiブームに関して、情報処理学会誌の最新号「デジタルゲリマンダ特集記事」を見て考えることがあった。
 前にも書いたような気がするが、現在のビッグデータに対するコンピュータ処理は、とにかく相関関係のありそうなものを洗い出す。明確な因果関係などの説明などができなくても、関連のありそうなものを見出す。
 これは、西洋文明にとっては、大きな変革ではないかと思う。ギリシャの哲学の影響、ユークリッド幾何学からの論理性の伝統を踏まえた、西洋文明では、ニュートンの力学のように、きちんとした因果関係を元に、物事を考えている。もっと言えば、認識に関してもカントが言う「悟性」の働きで、因果関係の明白なものを見出そうとする。
 このように理論的に明確になれば、物事が単純化して、因果の明白なことを、短期記憶で処理できるようになる。人間の理解は、短期記憶で記号処理できるようなものと考えるのが、西洋文明ではないかと思う。(但しルーマンのシステム論などは少し違う気がする。)
 さて、ここで日本人の発想について少し考えてみた。法華経の十如是は、物事の成り立ちに関して、上記の西洋文明的な割り切りとは違うものを示している。直接的な因果関係、さらに広い縁と報の関係、これらが絡まりあって、今の私たちがあるという発想である。
 この発想を、AIのビッグデータ解析と合わせると、面白いものが出る可能性があると思う。
 しかし、今の世の中、ネット上の単純な情報で、
  「~~だから~~する」
という短絡的な行動も多いように思う。
 これでは、西洋文明のレベルにもいかないだろう。
   

2016年10月25日 (火)

幾何学以前の世界について

 フッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」を読んでいる。
 まだ読み切れていないが、ここで一つ、幾何学の存在の重要性にかが付いた。ヨーロッパ文明において、ユークリッドの幾何学が、論理的思考の基礎として流れていることを、改めて気が付いたということである。
 もう少し踏み込むと、幾何学が成立するためには、直線や点という、「理想的」なもので思考する必要がある。現実世界で線を引くとき、我々は定規という道具を使って、直線を簡単に引いている。しかし、この定規はどのようにして生まれたのだろう。このように、根底まで遡ると、幾何学の構築ということは大変な事だったと思う。
 私が小学校のころ、図を描いたら、きちんとした寸法にならなかった。そこで同じ寸法の三角形は、重なるといっても、ずれている現実に引っかかり悩んだものである。しかし、中学で数学の幾何を学ぶときには、抽象的な図形の世界で思考して、「合同」という概念を自然に受け入れていた。
 さて、私の小学校時代の悩みを、もう一歩時代をさかのぼれば、定規もない時代になる。そのようなときに、直線という概念を生み出した、先人の力を見直すべきではないかと思う。そして、その概念を実現する、定規とコンパスが生まれる。ここからさらに、理想化した形で、色々な理論が生まれていく。
 一方、理想的な世界観を使わず、複雑に正面から向かうと、山内たちの「テトラレンマ」の世界に入るように思う。

2016年2月14日 (日)

今度は若山叩きか

 小保方晴子氏の「あの日」の出版以降、山梨大学の若山教授に対して、少しは疑惑の目を向ける人が出てきたようである。小保方氏にきつい目の意見を持つ人でも、ES細胞混入に関しては
 「小保方さんの能力ではできるのか?」
と言う疑問を持つ人もいた。
 さて、今度の若山教授追及は、かなり厳しいものになると思う。理由は、追求した人たちの一部には、現実的なメリットがるからである。
 このメリットの一つは、文部科学省から出る、研究予算の奪い合いである。
http://biz-journal.jp/2016/02/post_13735.html
上記記述によれば、若山教授は1000万円近い科研費を得ている。
この金を、もっと自分たちの研究に回してほしいという研究者はいると思う。
 さらに言えば、山梨大学の教授のポストを追い落とせば、そこに入りたい人はいるだろう。特に、ポスドクの就職難は前からあり、このように一つの研究室が落ちれば、数人の就職口が決まる。
 このように考えると、突っ込みどころがありそうな、若山叩きはしばらく起こりそうな気がする。 

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